2009年7月 7日 (火)

南西諸島の七夕伝説~天降子と天人女房

 

7月7日は七夕・・・

これまで、このブログでは・・・

2006年には、昔々、七夕イベントの一つとして行われていた格闘技のお話(2006年7月7日参照>>)

2007年には、ご存知の中国の七夕のお話と伝統的な七夕行事、大阪・池田に伝わる「星月夜の織姫」(2007年7月7日参照>>)と、七夕発祥の地とされる大阪・交野(かたの)七夕ゆかりの史跡京阪電車のイベント(2007年6月23日参照>>)

2008年には、日本の七夕伝説である「天稚彦(あめわかひこ)物語」(2008年7月7日参照>>)などなど・・・

毎年ご紹介させていただいており、「またかい!」とのお声もありましょうが、やはり、外せない七夕伝説・・・

本日は、南西の島々に伝わる七夕伝説をご紹介させていただきます。

実は、これ・・・いわゆる天女の羽衣伝説七夕伝説がくっついたような物語になっているのですが、羽衣伝説自体は、北は東北から南は九州&沖縄まで、日本中に広く分布しているのですが、なぜか、七夕伝説とくっついたものは、関東から西のみ・・・東北にはないのだそうで、もともとの中国から伝わった牽牛(けんぎゅう)&織女(しょくじょ)、そして室町時代に成立した御伽草子(おとぎぞうし)天稚彦&織姫、さらに、これら南西諸島の伝説と、その成り立ちや伝わり方を考えると興味津々です。
 

・‥…☆━━━喜界島の天降子━━━☆・‥…

昔、姉妹の天降子(アムリガー・天女の事)が、天から喜界島(鹿児島県大島郡)に降りてきて、森の中の泉のかたわらに立つ木に飛羽(とびはね)を掛けて水浴びをしていたところ、近くに住む牛飼いの男が、これを見つけて、飛羽をひとつだけ隠してしまいます。

慌てた姉妹・・・ふと見ると、残っている飛羽は姉の物・・・

すかさず、姉は自分の飛羽を身につけて、天へと帰ってしまいました。

残った妹は、何とか牛飼いに頼んで返してもらおうとしますが、牛飼いは承知せず、しかたなく、妻として牛飼いとともに暮らす事になります。

・・・と、しかたなく一緒になったわりには、なんだかんだで楽しく、そして、仲睦まじく暮らしていた二人でしたが、ある時、一緒に天界へ里帰りする事になり、「一緒に行くなら・・・」と、牛飼いが、あの飛羽を妻に返してやると、妻は、その飛羽を着け、夫を小脇に抱えて、いざ、天界へ・・・

途中、妻が言うには・・・
「この先も、私と暮らしたいなら、私の両親が縦に切れと言っても、絶対、横に切ってね・・・でないと、とんでもない事に・・・」
と、夫に言って聞かせます。

天界では、二人が戻って来たお祝いにと、ちょうど、畑に生ったばかりのキュウリをたくさん収穫して来てくれていて、さぁ、料理をしようと、牛飼いが包丁を持ったその時!

両親が、いきなり、「ナイキリー(縦に切れ)!」と叫び、牛飼いは、その勢いにつられて、さっきの約束を忘れて、両親の言うがまま、キュウリを縦に切ってしまいます

その途端、キュウリからドヮッと水が流れ出てきて、またたく間に川となり、妻と牛飼いは両方の岸に取り残されて、会えなくなってしまいました。

この日がちょうど7月7日で、それ以来、牛飼いと妻は、1年に1度、7月7日の夜にならないと会えなくなってしまったのです。
 

・‥…☆━━━奄美大島の天人女房━━━☆・‥…

昔、奄美大島に住む一人のクロという犬を飼っていました。

ある夜、山の奥の池のほとりから、なんとも美しい音楽が聞こえてくるので、不思議に思い、見に行ってみると、天女が水浴びをしています。

これが、またメチャメチャ美人・・・爺さん、年甲斐もなく、興奮して、そこに脱いであった飛衣を隠してしまい、天に帰れなくなった天女は、しかたなく、翁の妻になり、やがて、二人の間には、3人の子供が生まれます(しかたなく嫁になっても子供は生まれるモンなんだ・・・(゚ー゚;)

子供が、少し大きくなった頃、1番上の子供が歌う子守唄の中に、飛衣の隠し場所が唄いこまれている事に気がついた妻は、隠してあった飛衣を探し当て、すぐに身に着けて、1番上の子供の手を引き、2番目の子供を頭に乗せ、天に帰ってしまいます。

3番目の子供は、重くて連れて行く事ができなかったのです。

妻が天に帰った事を知った翁は、自分も天に行きたくて行きたくて・・・

そこで、千足のぞうりを作り、それを踏みながら天へと昇っていく事にした翁・・・ところが、あと一歩で天にたどりつく、というところで、ぞうりは無くなってしまいます。

実は、千足作ったと思っていたぞうりは、999足しかなく、あと1足、足りなかったのです。

・・・と、そこへ、愛犬・クロがやってきて、「ボクがぞうりになりましょう」と言って、千足めの位置にうずくまってくれたのです。

翁は、最後の一歩をクロの背中に乗って、天へとたどりつく事ができました。

こうして、翁は一番目の夜明けの星となり、クロは2番目の夜明け星になったという事です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・て、オイオイ、3番目の子供は置き去りかい!

という、なんとも、気になる終わり方をするお話ですが、民話という物は往々にして、こんな感じの終り方をする物・・・

むしろ、きっちりと出来上がった物語より、こういった昔話のほうが、「遠い昔より、人から人へと伝えられてきたんだろうなぁ」という感じがするものです。

中国の七夕、日本の七夕、南西諸島の七夕・・・

今宵は、どちらの七夕伝説で、古の星空に思いを馳せましょうや・・・

いつの時代も、七夕の夜はロマンチックですheart
 

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2009年7月 6日 (月)

浅間山、天明の大噴火~鎌原村の秘話

 

天明三年(1783年)7月6日、長野県群馬県にまたがる標高2560mの活火山・浅間山が大噴火しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

活火山である浅間山は、これまでに何度となく噴火しています。

古くは、『日本書紀』に天武十三年(685年)3月に噴火の記録があります。

さらに、そろそろ平氏が武士としての力をつけ、貴族社会に入り込んでいく天仁元年(1108年)7月21日にも・・・この時は、2ヶ月以上に渡って何度も噴火し、遠く離れた京の都でも、東の空が赤かったという事が記録されています。

もちろん、それ以前にも以後にも、被害の記録が残っていない物も含めれば、数限りなくあるわけですが、やはり、印象に残るには、天明の大飢饉を引き起こしたとされる、この天明三年(1783年)7月6日8日大噴火・・・現在、群馬県嬬恋村(つまごいむら)にある「鬼押し出し園(おにおしだしえん)も、この天明の噴火で流れ出た溶岩を公園として整備したものです。

この天明三年(1783年)・・・最初に噴火が起こったには4月8日の事でした。

この時は、煙を噴き上げて地響きを鳴らしはしましたが、それ以上にはならず、その後、1ヶ月以上経った5月26日、再び噴煙を上げ周囲には灰が降りました。

6月18日の3回目の噴火では、火口から10km程離れた鎌原村(かんばらむら・群馬県嬬恋村)にも、灰とともに小石が降り、少し積もりました。

その後、6月28日からは毎日噴火が起こり、軽石が降っていた状態でしたが、もともと4月8日の噴火以来、徐々に程度が大きくはなるものの、人間というものは、次第に慣れていくもので・・・

最初こそ、驚きはしましたが、こう、毎日噴煙が上がっていると、「いつか爆発するんじゃないか?」と思いつつも、「まぁ、10kmも離れてるし、ここは大丈夫なんじゃないの?」といった思いもあり、心配はありつつも、日々の生活はやっていかねばならないわけで、なんだかんだで、鎌原村の人々も、ある程度、普通の生活をしていたわけです。

この頃は、避難勧告なんてものも出ませんから・・・

ところが、天明三年(1783年)7月6日・・・とうとう浅間山が大爆発したのです。

その6日の夜から7日にかけて、火口の北側から溶岩が流れ出し、8日には、再び大爆発が起こり、ここにきて鎌原村の人々も、慌てて避難するわけですが、彼らがとりあえず目指したのは、近くにある鎌原観音堂というところでした。

この観音堂は、少し小高い丘の上にあり、おそらく、溶岩が流れて来ても、「ここは大丈夫だろう」と思える場所でした。

その予想通り、丘のふもとにあった村は、溶岩におおい尽くされ、村にあった家・93軒はすべて埋まってしまいましたが、何とか、この観音堂に逃げて来れた人たちだけは助かったのです。

生き残ったのは、村の総人口・597人のうち、わずか131人でした。

その131人の中には、この日、用事で他の場所に出かけていた人も含まれているそうなので、実際に、観音堂で難を逃れた人は、もう少し少ない数なのかも知れません。

その後、様々な事情で、この鎌原村を去った人が38人・・・結局、村に残ったのは93人という事になったのですが、その多くは、夫婦や親子が揃った状態ではなく、夫が生き残っていても妻が死んでいたり、子供が生き残っていても親が死んでいたりと、様々なケースがありました。

考えた末、村では、夫を亡くした妻に、妻を亡くした夫を・・・
子供を亡くした夫婦に、親を亡くした子供を・・・といった具合に、家族を造りなおすところから再出発をする事になったという事です。

一方、この浅間山の大爆発は、ここから、東の地域に更なる被害をもたらしました。

ご存知、「近世三大飢饉」の一つと言われる冒頭に書いた天明の大飢饉です。

遠くは、仙台まで風に乗ってやってきたという灰・・・灰そのものが降りかかった事によって農作物は大きな被害を受けます。

また、成層圏まで達した灰が、太陽の光をさえぎったため、冷夏となり、東北地方を中心に大飢饉となりました。

中でも大量の餓死者を出した八戸藩では、人口・5万人のうち3万人事が亡くなった事が記録されているのだとか・・・

ところで、この浅間山の大爆発で、溶岩に埋まってしまったために、わずか15段の石段を持つだけになってしまった鎌原村の鎌原観音堂・・・「本当は、何段の石段があったのか?」という発掘調査が昭和五十四年(1979年)から3年間かけて行われたそうです。

結果、もともとの石段は全部で50段あった事がわかったそうですが、この発掘調査で、一つのドラマも発掘されました。

それは、この石段を上り始めるあたり・・・その1段目に1体、そして2段目に1体、重なるように二つの遺体が発見されたのです。

すでに白骨化していたその遺体・・・更なる調査で、ともに女性の遺体である事、そして、1段目にいた女性の年齢が若く、その上に重なっていた2段目の女性が、少し、年老いていた事も判明しました。

そうです。

この日、若い彼女は、年老いた女性をおんぶして、この石段を登ろうとしたのです。

二人は親子でしょうか?
それとも、歳の離れた姉妹でしょうか?
嫁と姑だったかも知れません。

流れ出る溶岩、迫り来る火砕流・・・
取るものもとりあえず、手に手を取って逃げてきた彼女たちは、ここで、50段の石段を目の当たりにします。

年老いた人は、ポツリと言ったでしょう
「私は、もう、走れない・・・」

振り向けば、そこに燃え盛る川・・・
「アンタ1人なら、なんとかなる・・・早く行きなさい」

しかし、若い彼女は、年老いた人を背負い、この石段を上った・・・その直後、火砕流は二人を呑み込み、その命はここで尽きました。

50段上の観音堂前には、この二人の光景を、こぶしを握りながら見つめ、自然の猛威の前に、なすすべのない無力な自分を嫌悪した人もいた事でしょう。

まるで、タイムカプセルのごとく浮かぶ光景・・・せめて、心優しい彼女が、苦しむことなく逝かれた事を願うばかりです。
 

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2009年7月 5日 (日)

時代別年表:室町時代・後期2(戦国・桃山時代)

 

このページは、桃山時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日から、大坂夏の陣が終結する1615年5月8日までを「室町時代・後期2(戦国・桃山時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

  Zidaisengoku2



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1586 12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
1587 4 17 高城・根白坂の戦い
【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
6 19 キリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】
7 10 ~12日肥後国人一揆
【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
1588 4 14 秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く
【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
5 14 佐々成政・切腹
【地元だけが知る?呪いの黒百合伝説】
7 8 刀狩り令・海上賊船禁止令を発布
【太閤検地と刀狩】
【瀬戸内水軍の全盛期と没落を見た村上武吉】
1589 4 15 毛利輝元が広島城の築城を開始
【毛利輝元と広島城~その出会いと別れ】
6 5 摺上原の戦い
【破竹の独眼竜政宗~摺上原の戦い】
6 12 上杉景勝が佐渡を攻略
【金のなる木は俺のモノ!景勝・佐渡攻略】
10 23 北条が真田の名胡桃城を奪取する
【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】
11 4 石川昭光が伊達政宗の傘下となる
【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
12 10 小田原攻めの軍儀を開く
【小田原攻め開始~その軍儀の内容は?】
1590 3 29 小田原征伐を開始する
【小田原征伐開始・山中城落城】
4 2 小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 5 伊達政宗・毒殺未遂事件
【政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?】
6 5 伊達政宗が小田原に到着する
【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
6 9 石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
6 20 天正遣欧少年使節が帰国する
【天正遣欧少年使節の帰国】
6 23 八王子城・陥落
【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
6 26 小田原攻めの対の城・石垣山一夜城・完成
【秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎】
7 5 小田原城・落城
【城攻めの天才・秀吉VS北条お得意の籠城】
【小田原城・開城への道】
7 13 家康に関八州が与えられる
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
8 1 家康が江戸に入る
【八朔と家康・江戸入府】
【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
11 24 秀吉軍が葛西・大崎一揆で木村親子を救出
【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
1591 1 19 秀吉が京都・七条堀川に寺地を寄進
【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】
1 22 豊臣秀長・没
【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
2 4 伊達政宗が一揆の弁明に上洛
【政宗、起死回生の弁明劇】
2 28 千利休・切腹
【利休・切腹の謎~その握っていた秘密とは?】
9 4 九戸の乱で九戸氏が滅亡
【九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る】
9 22 豊臣秀次が関白に就任
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発隊が九州に向けて出陣
【豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役】
3 26 秀吉が肥前に出発
【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
4 13 朝鮮へ派遣した第1軍が釜山へ上陸
【文禄の役・釜山上陸】
11 24 本願寺顕如・没
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1594 2 27 秀吉が吉野にて花見を開催
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
3 7 秀吉が伏見城の築城を開始する
【幻の伏見城~徳川は何を恐れたのか?】
8 24 石川五右衛門・処刑
【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし・・・】
伏見城築城にともなう文禄堤の造営
【東海道は五十七次!】
1595 6 10 家康の孫・松平忠直が誕生する
【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
7 15 秀次が謀反の罪で切腹
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
7 22 秀吉が藤堂高虎を召抱える
【斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身】
1596 9 1 2度目の朝鮮出兵を決意する
【悲劇の人・おたあジュリア】
10 28 酒井忠次・没
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
11 4 服部半蔵正成・没
【服部半蔵に影はあったか?】
1597 2 5 長崎で26人のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人殉教の日】
2 慶長の役で秀吉軍・朝鮮上陸
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1598 3 15 秀吉が京都・醍醐寺で花見の宴を催す
【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役・終結
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1599 3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
1600 3 16 三浦按針・日本に漂着
【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
4 1 上杉景勝が家康の上洛要請を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ自害
【細川ガラシャ最期の日】
7 19 ~8/1 伏見城・落城
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ】
8 8 浅井畷の合戦
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦・・・】
8 10 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
迫る関ヶ原!先鋒進軍~その時家康は・・・】
8 22 ~23 岐阜城・落城
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 25 伊勢安濃津城・開城
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 2 信濃上田城攻防戦
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
【三成と恵瓊が作戦を練った茶室・作夢軒】
9 13 九州にて石垣原の合戦勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
~10/1長谷堂の戦い
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 関ヶ原の合戦・反省会
【朝まで生合戦】(このページはフィクションです)
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 5 浦戸一揆・終結
【土佐・一領具足の抵抗】
1601 8 7 加藤清正が熊本城の築城に着手
【熊本城・築城にまつわる怖い話】
家康が文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
1602 2 1 井伊直政・没
【徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え】
5 1 家康が諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 前田玄以・没
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
1603 2 12 徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍の宣旨を受ける】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたのか?】
7 28 家康の孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
1604 彦根城・築城開始
【彦根城に菊は咲かない?人柱の伝説】
1605 4 16 徳川秀忠が2代将軍となる
【2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り】
9 20 山内一豊・没
【したたかなのは一豊か?】
1607 2 20 江戸城本丸にて阿国歌舞伎上演
【女歌舞伎の禁止令】
3 5 家康の四男・松平忠吉・没
【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
9 6 龍造寺高房・没
【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】
1610 2 24 長谷川等伯・没
【智積院と長谷川等伯・障壁画】
8 20 細川幽斎(藤孝)・没
【齢77!芸は身を助く~長寿の秘訣】
1611 3 28 豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見
【二条城で出された饅頭は・・・】
6 24 加藤清正・没
【加藤清正・疑惑の死】
4 11 後水尾天皇・即位
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
1612 4 13 巌流島の決闘
【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
6 4 前田慶次郎・没
【人気の慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!】
1613 6 24 「笹の才蔵」の異名を賜った可児才蔵・没
【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
8 6 徳川家康が花火を観賞する
【花火の歴史】
12 23 徳川秀忠が2度目のキリシタン禁止令・発令
【切支丹禁止令と戦国日本】
1614 1 5 高山右近・没
【キリシタン大名・高山右近、神に召される】
1 18 最上義光・没
【策士策に溺れる~謀略の将・最上義光】
5 20 前田利長・没
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
7 17 織田信包・急死
【病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
8 20 方広寺・鐘銘事件で家康の最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく・・・】
10 9 真田幸村、九度山を脱出する
【真田幸村・九度山を脱出!】
10 大坂城での軍儀
【真田幸村の必勝作戦!】
11 29 大坂冬の陣の野戦
【大坂冬の陣・野田福島の合戦】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
1615 3 19 真田幸村が姉と兄に手紙を出す
【真田幸村、最後の手紙】
5 6 大坂夏の陣~道明寺・誉田の合戦
【大坂夏の陣・開戦!】
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
5 7 大坂夏の陣~大坂城・総攻撃開始
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
番外編 【大阪の昔話~大坂城の虎】
【大坂城を脱出した秀頼の娘は・・・】
【佐野道可・事件で内藤元盛が切腹】
【長宗我部盛親・斬首】
【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】

 

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2009年7月 3日 (金)

最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話

 

本日は歴史・・・というより、少々気になっている疑問・・・

昨日、NHK大人のドリルという番組で、地球温暖化が取り上げられていました。

本当は、番組をちゃんと見ようと思っていたんですが、「ビデオの録画設定をし忘れる」というぼんミスで、結局、最後の5分ほどしか見られなかったので、番組の感想を書くわけにはいかないのですが、新聞のテレビ欄の番組紹介には、「この100年間で地球の平均気温は0.74度上昇し、異常気象による災害も頻発・・・」てな事が書かれていました。

確かに、その通り・・・この100年間で、地球の平均気温は上昇しています。

では、1000年前は?

実は、木の年輪の調査などから、平安時代の日本の平均気温は、今より3度ほど高かったという結果がはじき出されています。

あくまで、仮説にすぎないかも知れない話ですが・・・
地球上をかっ歩した恐竜が絶滅した後に訪れた大きな氷河期の後、地球は小さな氷河期と小さな温暖期を繰り返しているという話があります。

その説によると、日本では・・・

縄文時代の半ば頃から弥生時代頃までは寒冷期

その後、卑弥呼邪馬台国の頃から大和朝廷の支配が進む西暦500年頃までは温暖期

そこから、大宝律令が制定される西暦700年頃までは再び寒冷期で、次ぎの奈良時代・平安時代・鎌倉時代温暖期が続き、その後、室町時代の1400年前後から小氷期に入り、その寒い期間は昭和の初め頃まで続くと言う・・・。

確かに、これなら、平安時代の気温が今よりも高かったという話も、近代の測定方法で気温が測定されてから気温が上昇しているという結果もうなづけます・・・なんせ、測定を開始した頃は、小氷期の最後のあたりになるわけですから・・・

さらに、歴史を紐解いてみても、ところどころ、符合する点があるのも確かです。

聖武天皇を恐怖に陥れた天然痘の流行・・・(10月15日参照>>)

平安京遷都を決行した桓武天皇は、平安京の前に、長岡京へと遷都しますが、未だ建設途中の段階で2度も洪水に襲われたうえ、夫人・皇后・母・息子・・・と次々と(おそらく疫病で)身近な人を亡くし、わずか10年で長岡京を捨てて、平安京の建設に切り替えます(10月22日参照>>)

その平安京で発達した寝殿造りには壁がなく、(すだれ)や几帳(きちょう)のみで仕切るという寒冷期なら考えられない造りです(12月7日参照>>)

さらに、その寝殿造りの清涼殿には、ゲリラ豪雨とともに雷が落ち、人々は菅原道真の怨霊だと恐れて、彼を天神として祀ります(6月26日参照>>)

京都の祇園祭(7月1日参照>>)をはじめ、多くの「疫病退散のお祭り」が、この頃に生まれているのも興味深いですね(6月16日参照>>)

ところが、室町時代に入って、その様子が一変します。

足利尊氏の京都入りに備えて、後醍醐天皇から皇位を譲られた息子の恒良親王を連れて、福井敦賀へと落ちた新田義貞北国落ち・・・(10月13日参照>>)

その延元元年(建武三年)10月13日を、太陽暦に換算すると1336年の11月22日・・・確かに、雪深い北陸では、そろそろ雪の便りも聞かれる頃ですが、彼らが一夜を過ごしたとされる木の芽峠は、わずか海抜600mほどの高さです。

そんなところで、それなりの装備をした軍隊のほとんどが凍死するという悲劇は、やはり、その年が異常に寒かった事を意味します。

その小氷期の真っ只中であった戦国時代には、例の疫病の流行はほとんど見られません。

あの大坂夏の陣の1ヶ月後の慶長二十年6月1日には、江戸一帯に雪が降った(7月9日参照>>)事が記録されていますが、これを太陽暦に換算すると1615年7月9日・・・7月の、それも東京に雪が降る事は、想像すらし難い事ですが、これも小氷期のなせるワザなのでしょうか。

そんな小氷期が徐々に終っていく時期と、日本を含めた世界中が近代化へ向けて走り出すのが、ちょうど同じ1900年頃・・・「この100年で気温が上昇している」というのは、この頃からの記録という事になります。

地球物理学によれば、地球は、この先、500年ほど現在の状況を保った後、大きな氷河期に向かっていくそうですが、その話も、そして上記の内容も、仮説の一つに過ぎません。

ただし、地球が温暖化していて、その原因が二酸化炭素にあるというのも仮説です。

どれもこれも、それを否定したり肯定したりできるほどの知識は持ち合わせていない私ですので、大きな事は言えませんが・・・

誰も見た事がないし、誰も証明した事がない・・・それは、歴史と同じで、明確な答えがない以上、多くの仮説の中から、どれを信じるのかは、個人の自由のような気がするのですが、なにやら、誰かが推し進める一つの説に、誘導されている感が拭えない今日この頃・・・

ただ、一言付け加えさせていただくのは、本日のこのページ・・・

ひとつ、地球温暖化について、歴史の観点から見てみるのも一興かと思って書かせていただきましたが、決して、エコロジーそのものを否定しているわけではありません。

地球が温暖化してようがしまいが、その原因がCO2にあろうがなかろうが、エネルギーは限りある資源なのですから、無駄なエネルギーは使わないに越した事はなく、海も川も空も、そして空気だってキレイなほうがいいに決まってます・・・節約という意味でのエコは大切な事だと思います。

それこそ、江戸時代のように、修理&修理を重ねながら、使える物は最後まで丁寧に使いきり、着物や紙は幾度も作り替えられ、人の排泄物さえ畑に再利用する・・・そんな、労働力は惜しみなく使い、限りある物は大切に使う節約型のエコこそ、本来のエコであるべきなのに、いつの間にやら、新しい製品に買い換える事がエコになってしまっている事に、少しの疑問を感じてしまうのです。

確かに、電化製品は電気代は少なく、車はCO2の排出量も少ないのなら、エコかも知れませんが、まだ使えるのに廃棄された物はどうなるのでしょう?

いくつかは、リサイクルされるとしても、いくつかはどこかに捨てられるのでしょう。

それを、エコポイントやエコカー減税なる物で、政府が後押しする・・・なにやら、そこンところに少々疑問に感じる次第です。
 

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2009年7月 2日 (木)

薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ

 

文久三年(1863年)7月2日、鹿児島湾(錦江湾)に停泊中の薩摩藩の汽船を拿捕したイギリス艦隊に向かって薩摩藩が砲撃を開始・・・3日間に渡って繰り広げられる薩英戦争が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人を殺害した生麦事件(8月21日参照>>)・・・犯人の引渡しと賠償金の支払いを無視し続ける薩摩藩に、しびれを切らしたイギリス公使代理・ジョン・ニールは、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻のイギリス艦隊を率いて、直接交渉のため鹿児島湾へとやってきます。

昨日のブログでは、西瓜(スイカ)売り決死隊によるスッタモンダと、結局、色よい返事を受け取れなかったニールが、艦隊司令長官・オーガスタス・クーパー強硬手段に出るよう命令を下したところまで書かせていただきました(7月1日参照>>)

・・・と、強硬手段とは言え、イギリス側は、あくまで、今回は、威しをかけるだけで、即、戦争に持ち込むつもりではなく、まずは、鹿児島湾に停泊中の薩摩藩の汽船を奪って、その汽船を言わば人質に、今後の交渉を有利に進めるのが目的だったようなのですが・・・

Satuei2cc ↑クリックしていただくと動きのある大きいサイズでの画像が開きます
(このイラストは位置関係とその動きをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

文久三年(1863年)7月2日・・・その朝は、昨日の午後からの雨がいっそう強くなり、今後は、さらに暴風雨が予想される悪天候でした。

旗艦・ユーリアラス号を先頭に、鹿児島湾の奥へと侵入したイギリス艦隊は、停泊中だった3隻の薩摩藩の汽船を奪取・・・えい航しながら、桜島付近にやってきます。

天祐丸(てんゆうまる)青鷹丸(せいようまる)白鳳丸(はくほうまる)・・・この3隻の汽船は、つい先日、薩摩藩がアメリカやイギリスから購入したばかりのほぼ新品で、その総額は約30万両。

イギリスが要求している賠償金・2万5000ポンドよりも、倍以上の高額ですから、まさに、人質・・・おそらく、これで、薩摩藩は態度を軟化させ、交渉のテーブルにつくだろうと、ニールらは予測していました。

ところが、どっこい・・・昨年の生麦事件の後、久光はすでに、イギリスの報復を視野に入れていて、鹿児島側と、その対岸の桜島側に合計10ヶ所ほどの砲台を設置し、準備万端のヤル気満々だったのです。

午前中に、この3隻の汽船の拿捕(だほ)のニュースを聞いた久光&藩主・忠義(ただよし)父子は、すかさず軍儀をを開き、即刻・開戦を決断します。

かくして正午頃・・・天保山(てんぽざん)砲台から一発の号砲が鳴り響き、これを合図に海岸線に設置された各砲台が一斉に砲撃を仕掛けました。

湾の奥深くにまで入って、イカリをおろして停泊し、いざ、これから交渉を・・・と思っていたところに、いきなりの攻撃を受けたイギリス艦隊は大慌て・・・

やがて、袴腰(はかまごし)砲台から放たれた一発が、桜島近くにいたパーシューズ号に命中!

それでも止まらない砲撃に、コケット号アーガス号レースホース号の3隻は、それぞれがえい航していた薩摩藩の汽船の、これ以上の確保を断念・・・汽船に火をかけた後に、桜島沖に放置し、一旦、旗艦・ユーリアラス号を中心に一塊となります。

その後、花倉沖で態勢を整えて、今度は、ユーリアラス号を先頭に一列になって、鹿児島側に沿って南に向かって走行しながら、鹿児島城下への砲撃を開始します。

このあたりで、最初の薩摩の砲撃から、すでに2時間ほどが経過していましたが、もともと戦うつもりではなかったユーリアラス号は、やっと砲撃の準備が整いますが、あまりにも鹿児島側に近づき過ぎたたため、弁天波止(べんてんはと)砲台の放った砲弾が命中し、艦長・ジョスリング大佐以下、数名の犠牲者を出してしまいます。

また、祇園州(ぎおんのす)砲台への砲撃を命中させたレースホース号は、これまた岸に近づき過ぎて浅瀬に乗り上げ座礁・・・助けに来てくれたアーガス号とコケット号にえい航され、やっとの思いで沖のほうへと戻り、再び、一塊となった艦隊は、しばらく、その位置に停泊・・・。

夜になって、再び激しい砲撃戦が再開される中、やはり、射程距離と速射の面で、薩摩藩の様式砲よりも、はるかに性能の良いアームストロング砲を搭載していたイギリス艦隊は、次々と各砲台を破壊していきます。

やがて、パーシューズ号の放ったロケット弾が、鹿児島城下に着弾して、町は炎に包まれ、当時、弾薬や工芸品・生活用品などを生産する工場群であった集成館も炎上し、大きな被害を受けました。

そんな中、一時は、イギリス軍の上陸も覚悟した薩摩藩でしたが、7月3日の午後3時頃に、再び、列をなしてイギリス艦隊は、鹿児島湾を南下・・・沖で各船体の修理を行った後、翌・7月4日には、横浜に向けて出発し、完全に鹿児島から姿を消したのでした。

こうして、7月2日から7月4日にかけて3日間の交戦となった薩英戦争ですが、上記の通り、実質的に砲撃戦が繰り広げられたのは、1日半ほど・・・しかも、勝敗の決着もないまま、イギリス艦隊は、鹿児島を後にする事になりました。

このイギリス艦隊の撤退理由についての正式な記録は残っていないそうですが、通訳としてアーガス号に乗り込んでいたアーネスト・サトウの回顧録によれば、弾薬・糧食・石炭などの供給不足が一因である」のだそうです。

やはり、今回のイギリス側の鹿児島入りは、薩摩に生麦事件の責任を取らせるための威嚇であり、徹底的に薩摩を攻撃するつもりではなかったというのは本当のようで、ちゃんとした準備はなされていなかったのでしょう。

結果的に、薩摩側にとって、城下の1割を焼失してしまうものの、死者・5名、負傷者・10数名(諸説あり)と、人的被害は少なかった薩英戦争ですが、彼らが、イギリスとの軍事力の差を目の当たりにした事は確かで、この後は、逆に、イギリスとの和平の道を探り、急激に接近していく事になるのは、皆さん、ご承知の通りです。

やがて、維新を引っ張っていく事になる新生・薩摩の産みの苦しみといった感じの3日間でありました。
 

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