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今日は何の日?徒然日記・合戦布陣図保管室では

ブログにupした合戦図・布陣図を少し大きいサイズで掲載しています

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漢委奴国王印・関係図

漢委奴国王印・関係図

「「漢委奴國王」の金印の謎多きお話」に掲載
江戸時代は天明四年(1784年)2月23日に、一百姓が偶然発見した金印には「漢委奴國王」の文字が・・・くわしくはブログの記事へ>>

(このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)


白村江の戦い・関係図

白村江の戦い・関係図

「白村江の戦い~その敗戦の原因は?」に掲載
古代の海外出兵と言えば、真っ先に思い出す「白村江の戦い」・・・ブログでは、大国・唐に挑んだ無謀な戦いと思われがちなこの出兵の敗因について・・・ブログの記事へ>>

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壬申の乱・ルート関係図

壬申の乱・ルート関係図

「いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍」に掲載
第38代天智天皇の死から約半年・・・天皇から引き継いだ大津の都で采配をふるう息子の大友皇子と、吉野へと引き籠った天皇の弟・大海人皇子・・・天武天皇元年(672年)6月24日、いよいよ大海人皇子が吉野を脱出し、壬申の乱が勃発します・・・くわしい内容はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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壬申の乱・大和の戦いの関係図

壬申の乱・大和の戦いの関係図

「伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い」に掲載
第38代天智天皇の死から約半年・・・天皇から引き継いだ大津の都で采配をふるう息子の大友皇子と、吉野を脱出した天皇の弟・大海人皇子の間で勃発した後継者争い=壬申の乱・・・まずは、古京・飛鳥を巡る攻防戦が大和周辺で展開されます・・・くわしい内容はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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聖武天皇・行幸ルート

聖武天皇・行幸ルート

「恭仁京?志香楽宮?~聖武天皇・迷走の謎」に掲載
大仏建立で有名な聖武天皇・・・しかし、その大仏建立で落ち着くまで、いきなり旅に出かけたり、次々と都を変えたりと迷走します・・・でも、そのルートをよく見ると・・・続きはブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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保元の乱・位置関係図

保元の乱・位置関係図

「武士の時代の幕開け…保元の乱」に掲載
保元元年(1156年)7月11日…天皇家の争いから、摂関家・武家を巻き込んでの乱となった保元の乱…いよいよ武士の時代の到来です・・・ブログの記事へ>>

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熊野参詣道・参考図

熊野参詣道・参考図

「今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」」に掲載
平安時代に隆盛を極めた熊野詣について・・・くわしくはブログの記事へ>>

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源頼朝・奥州遠征ルート

源頼朝・奥州遠征ルート

「阿津賀志の戦い~進む頼朝VS防ぐ泰衡」に掲載
弟・義経亡き後、兄・源頼朝は義経をかくまった奥州藤原氏の藤原泰衡を攻めます・・・ブログの記事へ>>

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応仁の乱・初戦の主な戦場

応仁の乱・初戦の主な戦場

「応仁の乱~初戦は激しい五月合戦」に掲載
応仁元年(1467年)5月に勃発した応仁の乱・・・わずかな距離に東西の郡が陣を置き、11年もの長きにわたって繰り広げられながら決着を見なかった大乱も、初戦は激戦となりました・・・合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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北条早雲の相模制覇・関係図

北条早雲の相模制覇・関係図

「北条早雲~悲願の相模制覇に向けて」に掲載
戦国下剋上のお手本と言われる北条早雲…堀越公方を破り、小田原城を奪取して、いよいよ相模制覇に…くわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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武田信玄の信濃攻略・位置関係図

武田信玄の信濃攻略・位置関係図

「武田信玄の伊那進攻」に掲載
父を追放して当主となった武田信玄(当時は晴信)…父の代からの領地拡大に着手した信玄は諏訪攻略の後、伊那へと進攻します。…くわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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村木城(砦)の戦い・関係図

村木城(砦)の戦い・関係図

「道三を驚かせた?若き信長の村木城(砦)の戦い」に掲載
父の代から、その境界線を巡っての争いが絶えなかった尾張と三河…松平を傘下に収める今川義元の進攻に、父の後を継いだばかりの織田信長が立ち向かいます…くわしくはブログの記事へ>>

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毛利元就VS陶晴賢・関係図

毛利元就VS陶晴賢・関係図

「毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン」に掲載
主君・大内義隆に対してクーデターを起し、周防(すおう・山口県東部)の実権を握っていた陶晴賢と、中国地方全土への勢力拡大をもくろむ毛利元就との戦国屈指の奇襲戦=『厳島の戦い』の前に・・・合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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厳島の戦い・関係図

厳島の戦い・関係図

「厳島の戦い~運命を変えた能島・来島村上水軍の参戦」に掲載
弘治元年(1555年)9月28日、主君・大内義隆に対してクーデターを起し、周防(すおう・山口県東部)の実権を握っていた陶晴賢と、勢力拡大をもくろむ毛利元就とが戦った『厳島の戦い』に、能島・来島村上水軍が参戦しました・・・合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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桶狭間の戦い・信長進攻ルート(予想)

桶狭間の戦い・信長進攻ルート(予想)

「一か八かの桶狭間の戦い」に掲載
永禄三年(1560年)5月19日は、桶狭間の戦いのあった日・・・これは通説の迂回ルートと『信長公記』にある直進ルートをわかりやすくできればと思って書いたイラストです・・・桶狭間のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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桶狭間古戦場・位置関係図

桶狭間古戦場・位置関係図

「二つの桶狭間古戦場」に掲載
未だ地元の尾張すら統一していない一武将・織田信長が、東海一の弓取りとうたわれた今川義元を倒す…戦国屈指の奇襲戦には、古戦場と推定される場所が二つあります・・・詳細はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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門司城攻防戦・関係図

門司城攻防戦・関係図

「毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防」に掲載
九州の玄関口である門司に建つ門司城は、北九州へと勢力を伸ばそうとする毛利元就と、九州探題を仰せつかってそれを阻止しようとする大友宗麟・・・その激戦は海上と陸上にわたって展開され・・・合戦の詳細話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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川中島の合戦・布陣図

川中島の合戦・布陣図

「川中島の合戦は無かった?」に掲載
永禄四年((1561年)9月10日、上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の合戦」がありました。合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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川中島の合戦・主戦場

川中島の合戦・主戦場

「謙信VS信玄!第一次川中島の合戦~布施の戦い」に掲載
ブログ本編では天文二十二年(1553年)9月1日の第一次川中島の合戦・布施の戦いについて書かせていただきましたが、今回の布施の戦いのお話の登場で、本ブログでは合計5回の川中島の戦いがすべてブログに登場したという事で、その記念?に、主な戦場となった地を地図にしてみました~合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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尼子十旗の配置と勢力分布図

尼子十旗の配置と勢力分布図

「息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取」に掲載
永禄六年(1563年)8月13日、山陽の雄=大内氏にとって代わった毛利元就が、いよいよ隣国の尼子氏の領国・出雲への侵攻を開始します…まずは支城・出雲白鹿城への総攻撃を・・・続きはブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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堂洞合戦の位置関係図

堂洞合戦の位置関係図

「織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦」に掲載
桶狭間に勝利した後、尾張統一も果たした織田信長は、いよいよ美濃攻略に本腰を入れ、その拠点とな小牧山城を構築し…続きはブログの記事へ>>

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稲葉山城・攻防戦の布陣図

稲葉山城・攻防戦の布陣図

「織田信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落」に掲載
永禄十年(1567年)8月15日、斉藤道三が長良川に倒れて以来、「舅の弔い合戦」を大義名分に、再三に渡って織田信長の侵攻を受けていた斉藤龍興の居城・稲葉山城が陥落します・・・合戦のくわしい内容はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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三増峠の戦い・合戦図

三増峠の戦い・合戦図

「三増峠の戦い~武田VS後北条」に掲載
永禄十二年(1569年)10月6日、帰国途中の武田信玄の軍を、北条氏輝が三増峠にて奇襲した『三増峠の戦い』がありました・・・合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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姉川の戦い前後の位置関係

姉川の戦い前後の位置関係

「いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康」に掲載
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍が、近江の浅井・朝倉連合軍と戦った大規模な激戦『姉川の合戦』がいよいよ・・・くわしいお話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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姉川の合戦・布陣図

姉川の合戦・布陣図

「信長の判断ミス?姉川の合戦」に掲載
元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍が、近江の浅井・朝倉連合軍と戦った史上まれに見る大規模な激戦・・・『姉川の合戦』がありました・・・浅井・朝倉軍と織田・徳川軍の位置などをわかりやすくできればと思って書いたイラストです・・・姉川の合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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佐嘉城攻防・今山の戦いの布陣図

佐嘉城攻防・今山の戦いの布陣図

「鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い」に掲載
九州北部の覇権拡大を狙う大友宗麟の命を受け、大友親貞が龍造寺隆信の佐嘉(さが)城を囲みます・・・大友勢6万VS龍造寺勢わずか3千!起死回生の奇襲作戦に龍造寺の重臣・鍋島直茂が挑みます・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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武田信玄・進路図

武田信玄・進路図

「家康に過ぎたるもの~本多忠勝・一言坂の戦い」に掲載
元亀三年(1572年)10月13日、上洛を果たすべく動き出した武田信玄の前に立ちはだかるは徳が家康、ご存知、三方ヶ原の戦いですが、その前哨戦とも言える一言坂の戦いで大活躍を見せたのは、あの本多忠勝・・・と、合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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三方ヶ原の戦い・布陣図

三方ヶ原の戦い・布陣図

「家康惨敗・三方ヶ原の戦い」に掲載
元亀三年(1572年)12月22日、徳川家康の生涯で最大とも言える敗戦・三方ヶ原の戦い・・・野戦の名手・武田信玄に、まだ、鳴くまで待てない頃の家康が挑みます・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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第二次長島一向一揆戦の関係図

第二次長島一向一揆戦の関係図

「織田信長ピンチ!~第二次長島一向一揆戦」に掲載
天正元年(1573年)9月、浅井&朝倉を倒した織田信長は、石山本願寺に同調して一揆を起こした長島に2度目の侵攻を・・・続きはブログの記事へ>>

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長篠の戦い・前夜

長篠の戦い・前夜

「長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦」に掲載
天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠の合戦・・・しかし、実際にその勝敗を決定づけたのは前夜の奇襲作戦?かも・・・くわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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長篠の戦い・布陣図

長篠の戦い・布陣図

「決戦!長篠の戦い」に掲載
天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠の合戦・・・しかし、本当に信長の3段撃ちVS武田騎馬隊はあったのか?・・・くわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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長篠の合戦の図

長篠の合戦の図

「長篠の合戦!武田氏の真の敵は?」に掲載
天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠の合戦のあった日・・・武田軍と織田・徳川軍と「馬防柵」の位置などをわかりやすくできればと思って書いたイラストです・・・長篠の合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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石山合戦・配陣図

石山合戦・配陣図

「織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺合戦」に掲載
元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで、11年の長きに渡って、織田信長と石山本願寺の間で繰り広げられた石山合戦・・・石山本願寺を取り過酷ように配置された砦を巡って織田VS石山本願寺が激突する天王寺合戦のくわしいお話はブログの記事へ>>

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信貴山城の戦い・関係図

信貴山城の戦い・関係図

「松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い」に掲載
天正五年(1577年)、乱世の梟雄(きょうゆう)との異名を持つ松永久秀が、足利義昭の呼びかけに応じて信貴山城に籠城・・・織田信長に反旗をひるがえします・・・くわしいお話はブログの記事へ>>

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信長勢の中国地方攻略時・位置関係図

信長勢の中国地方攻略時・位置関係図

「信長に見捨てられた上月城…奮戦空し」に掲載
天正六年(1578年)、織田信長の支援を受けた尼子勝久&山中鹿介らが守る上月城に迫る毛利勢・・・そこへ、三木城を囲んでいた羽柴秀吉が駆けつけますが・・・くわしいお話はブログの記事へ>>

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三木城・籠城戦 羽柴軍・包囲図

三木城・籠城戦 羽柴軍・包囲図

「三木の干殺し~別所長治の籠城戦」に掲載
天正六年(1578年)、中国攻めを開始した織田信長の配下・羽柴秀吉が、離反をした別所長治の三木城を包囲…後に「三木の干殺し」と呼ばれる籠城戦が開始されました・・・くわしいお話はブログの記事へ>>

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秀吉の播磨平定・位置関系図

秀吉の播磨平定・位置関系図

「秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期」に掲載
天正八年(1580年)、中国攻めを担当する織田信長の配下・羽柴秀吉が三木城を陥落させた後、播磨宍粟郡に本拠を構える宇野祐清らの諸城を攻めました・・・くわしいお話はブログの記事へ>>

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秀吉の播磨平定・関係図Ⅱ

秀吉の播磨平定・関係図Ⅱ

「秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦」に掲載
天正八年(1580年)、中国攻めを担当する織田信長の配下・羽柴秀吉が三木城攻めのさ中、神吉頼定らの拠る播磨神吉城を攻撃・・・くわしいお話はブログの記事へ>>

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高城攻撃・大友軍の進路

高城攻撃・大友軍の進路

「耳川への序章~大友宗麟・日向高城攻撃へ…」に掲載
天正六年(1578年)10月20日、日向の伊東義佑の要請を受けた豊後の大友宗麟が薩摩の島津義久との決戦に向け、日向高城へと迫りました。詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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耳川の戦い初日・高城川の戦いの図

耳川の戦い初日・高城川の戦いの図

「耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲」に掲載
天正六年(1578年)11月11日、豊後の大友宗麟と薩摩の島津義久との耳川の戦いの初戦・高城川の戦いがありました。合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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耳川の戦い合戦図・2日め

耳川の戦い合戦図・2日め

「激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏」に掲載
天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の耳川の戦い・・・いよいよ2日目に突入です。合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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鳥取城攻防戦・布陣図

鳥取城攻防戦・布陣図

「鳥取の干し殺し~吉川経家の決断」に掲載
天正九年(1581年)10月25日、織田信長から中国地方の平定を任された羽柴(豊臣)秀吉が、鳥取城を包囲・・・世に言う「鳥取の干し殺し」です。
合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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備中高松城・布陣図

備中高松城・布陣図

「備中高松城・落城~清水宗治・自刃」に掲載
織田信長の命により、備中高松城を攻めていた羽柴(豊臣)秀吉・・・得意の城攻めで奇想天外な水攻めを決行し、高松城は落城、城主・清水宗治(むねはる)が自刃します。そして、いよいよ・・・ブログの記事へ>>

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山崎の合戦・布陣図

山崎の合戦・布陣図

「天下分け目の天王山!山崎の合戦」に掲載
天正十年(1582年)6月13日は、本能寺の変で織田信長を自刃させた明智光秀と、「主君の仇討ち」を大義名分に掲げた羽柴秀吉との天下分け目の戦い・山崎の合戦がありました・・・合戦のくわしい話はブログの本文でどうぞブログの記事へ>>

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賤ヶ岳の戦い・4月20日の動き

賤ヶ岳の戦い・4月20日の動き

「決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し」に掲載
信長亡き後の織田家の覇権を巡ってぶつかった柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉…ご存じ、賤ヶ岳の戦いの開幕です・・・ブログの記事へ>>

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賤ヶ岳の戦い・4月21日の動き

賤ヶ岳の戦い・4月21日の動き

「決着!賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政の奮戦」に掲載
信長亡き後の織田家の覇権を巡ってぶつかった柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉…ご存じ、賤ヶ岳の戦いの決着がつきます・・・くわしくはブログの記事へ>>

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長宗我部元親の四国統一・関係図

長宗我部元親の四国統一・関係図

「伊予平定で実現!長宗我部元親の四国統一」に掲載
父の遺志を継いでから25年…土佐統一から阿波・讃岐を平定し、いよいよ四国最後の伊予の平定へと着手した長宗我部元親・・・くわしくはブログの記事へ>>

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秀吉の四国征伐・関係図

秀吉の四国征伐・関係図

「一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏」に掲載
天下目前の羽柴(豊臣)秀吉が、四国を制したばかりの長州我部元親を攻めます・・・ブログの記事へ>>

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高城・根白坂の戦い・布陣図

高城・根白坂の戦い・布陣図

「島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い」に掲載
天下目前の羽柴(豊臣)秀吉が、四国を制した後、大友宗麟の救援要請を受けて行った九州征伐の中で、最後の戦いとなった高城・根白坂の戦い・・・くわしくはブログの記事へ>>

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摺上原の戦い・合戦図

摺上原の戦い・合戦図

「破竹の独眼竜・摺上原の戦い」に掲載
天正十七年(1589年)6月5日、伊達政宗が陸奥会津の芦名盛重を破った摺上原(すりあげはら)の戦いがありました。合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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上杉景勝の佐渡攻略戦・関係図

上杉景勝の佐渡攻略戦・関係図

「金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略」に掲載
天正十七年(1589年)6月12日、ご存知、金のなる木・・・ならぬ金のなる山=金山のある佐渡を支配下に治めんが為、越後の上杉景勝が重臣・直江兼続とともに佐渡征伐を開始します・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

 

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小田原城・包囲の布陣図

小田原城・包囲の布陣図

「秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲」に掲載
天正十八年(1590年)4月3日、天下を狙う豊臣秀吉が、最後の大物・北条氏の本拠地・小田原城・包囲の態勢を整えました・・・武田信玄も上杉謙信も攻めあぐねた天下の名城・小田原城を秀吉はどうやって落すのか?・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

また、ブログの【陣形と陣立のお話】のページでは、この時の徳川家康の“陣立図”を紹介していますので、よろしければコチラからどうぞ>>

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文禄の役・関係図

文禄の役・関係図

「泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い」に掲載
豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・破竹の勢いで進んだ秀吉軍も、海戦での敗北から、やがて戦況は泥沼状態に・・・くわしくはブログの記事へ>>

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慶長の役・関係図

慶長の役・関係図

「死守はしたけれど・・・慶長の役・蔚山城攻防戦」に掲載
豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵・・・朝鮮半島南部の主要交通路の占拠を試みる日本軍は蔚山に築城を開始する・・・くわしくはブログの記事へ>>

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関ヶ原~伊達政宗の白石城攻略の関係図

関ヶ原~伊達政宗の白石城攻略の関係図

「伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原」に掲載
慶長五年(1600年)、会津の上杉景勝に「謀反の疑いあり」として、豊臣政権五大老筆頭の徳川家康は会津征伐を決行…信夫口からの会津侵攻を命じられた伊達政宗は・・・続きを読む>>

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関ヶ原~東軍の南美濃侵攻関系図

関ヶ原~東軍の南美濃侵攻関系図

「関ヶ原~福束城攻防戦」に掲載
慶長五年(1600年)、会津征伐を中止して西へと戻る徳川家康を大将とする東軍は、決戦となる関ヶ原に近い南美濃の諸城を平定する事に・・・続きを読む>>

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第2次・上田城の戦い・関係図

第2次・上田城の戦い・関係図

「作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い」に掲載
いよいよ関ヶ原…急きょ会津征伐を中止し、西へとUターンした徳川家康は、その会津への防御として宇都宮城を次男の結城秀康に守らせ、自らは豊臣恩顧の武将を先発隊に東海道を進、三男の徳川秀忠には3万8000の兵をつけて中山道を進ませます。…その秀忠を上田城で待ち受けるは、徳川軍から離脱した真田昌幸・幸村父子・・・続きを読む>>

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石垣原前哨戦~杵築(木付)城攻防の関係図

石垣原前哨戦~杵築(木付)城攻防の関係図

「黒田官兵衛VS大友義統~石垣原前哨戦・杵築城攻撃」に掲載
豊臣秀頼から豊後復活を約束された大友義興と、稀代の名軍師・黒田如水の黒田軍が別府・石垣原でぶつかった九州の関ヶ原=石垣原の合戦の前哨戦となる義統による杵築への攻撃は・・・続きを読む>>

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石垣原の合戦・布陣図

石垣原の合戦・布陣図

「豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦」に掲載
九州の関ヶ原とも呼ばれる石垣原の合戦・・・豊臣秀頼から豊後復活を約束された大友義興と、稀代の名軍師・黒田如水の黒田軍が別府・石垣原でぶつかります。・・・続きを読む>>

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長谷堂の戦い・関係図

長谷堂の戦い・関係図

「関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻」に掲載
奥羽の関ヶ原とも呼ばれる長谷堂の戦いの前、石田三成の伏見城・攻撃に、会津征伐を中止して上方へと戻る徳川家康・・・追撃をしなかった上杉は、その間に最上領へと侵攻します・・・続きを読む>>

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長谷堂の戦い・布陣図

長谷堂の戦い・布陣図

「直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い」に掲載
慶長五年(1600年)9月・・・あの天下分け目の戦いと同時に勃発した事で、奥羽の関ヶ原とも呼ばれる長谷堂の戦い・・・上杉の執政・直江兼続が、隣国・最上義光の領地へと侵攻します・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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関ヶ原の合戦・布陣図(開戦前)

関ヶ原の合戦・布陣図(開戦前)

「関ヶ原の合戦前夜祭」と「関ヶ原の合戦・反省会」に掲載
慶長五年(1600年)9月15日、ご存知天下分け目の関ヶ原の合戦がありました。
これは開戦直前の布陣図・・・この状態のままだと、完全に西軍勝利ですが、実際には、すでに家康と密約を交わしている人が・・・合戦の詳細はブログの本文へ・・・(関ヶ原についてはイロイロ書いてますので【関ヶ原の合戦の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>

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関ヶ原の合戦・裏布陣図

関ヶ原の合戦・裏布陣図

「関ヶ原の合戦・大反省会」に掲載
慶長五年(1600年)9月15日、ご存知天下分け目の関ヶ原の合戦がありました。西軍必勝と言われた布陣でしたが、実は、すでに寝返ってる人が・・・すでに寝返る気満々の人を東軍に入れると、こんなに真っ赤に・・・ブログ本文では、これを「裏布陣図」と呼んでます・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・関ヶ原大反省会へ>>

また、関ヶ原については、他にもイロイロ書いてますので、個々のページへは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>

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関ヶ原の合戦・布陣図(開戦~午前11時頃)

関ヶ原の合戦・布陣図(開戦~午前11時頃)

「関ヶ原の合戦・大反省会」に掲載
慶長五年(1600年)9月15日、ご存知天下分け目の関ヶ原の合戦がありました。
これは、開戦直後の様子です・・・合戦の詳細はブログの本文へ・・・(関ヶ原についてはイロイロ書いてますので【関ヶ原の合戦の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>

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関ヶ原の合戦・布陣図(正午頃)

関ヶ原の合戦・布陣図(正午頃)

「関ヶ原の合戦・大反省会」に掲載
慶長五年(1600年)9月15日、ご存知天下分け目の関ヶ原の合戦がありました。
正午頃、家康に即された小早川秀秋が東軍として戦線に参加し、形勢は一気に・・・合戦の詳細はブログの本文へ・・・(関ヶ原についてはイロイロ書いてますので【関ヶ原の合戦の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>

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関ヶ原の合戦・布陣図(午後2時頃)

関ヶ原の合戦・布陣図(午後2時頃)

「関ヶ原の合戦・大反省会」に掲載
慶長五年(1600年)9月15日、ご存知天下分け目の関ヶ原の合戦がありました。
討死・敗走していく西軍・・・最後に残った島津は、決死の的中突破!を・・・合戦の詳細はブログの本文へ・・・(関ヶ原についてはイロイロ書いてますので【関ヶ原の合戦の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>

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伊予の関ヶ原の関係図

伊予の関ヶ原の関係図

「毛利輝元の伊予出兵~宍戸景世の伊予の関ヶ原」に掲載
慶長五年(1600年)に起こった、ご存じ関ヶ原の戦い…その混乱に乗じて河野氏の旧領を回復しようとする宍戸景世は、関ヶ原での西軍総大将の毛利輝元の命を受けて伊予(愛媛県)に侵攻…つづきはブログの記事へ>>

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九州の関ヶ原~黒田如水の北九州制圧の関係図

九州の関ヶ原~黒田如水の北九州制圧の関係図

「九州の関ヶ原~小倉城開城で黒田如水が北九州制圧」に掲載
慶長五年(1600年)に起こった、ご存じ関ヶ原の戦い…その混乱に乗じて旧領を回復しようとする大友義統を、石垣原に破った黒田如水(官兵衛孝高)は、その後も快進撃を続け、やがて北九州を制圧…くわしくはブログの記事へ>>

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九州の関ヶ原~加藤清正の関係図

九州の関ヶ原~加藤清正の関係図

「九州の関ヶ原~加藤清正の動き」に掲載
慶長五年(1600年)に起こった、ご存じ関ヶ原の戦い…その混乱に九州にて展開された東西決戦の中で隈本に本拠を置く加藤清正は…くわしくはブログの記事へ>>

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九州の関ヶ原~宮崎城攻め関係図

九州の関ヶ原~宮崎城攻め関係図

「関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に」に掲載
慶長五年(1600年)に起こった、ご存じ関ヶ原の戦い…その混乱に九州にて展開された東西決戦の中で、大坂城を動けない父=伊東祐兵に日向での展開を任された息子の祐慶は…続きはブログの記事へ>>

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関ヶ原~因幡周辺の位置関係図

関ヶ原~因幡周辺の位置関係図

「関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略」に掲載
慶長五年(1600年)に起こった、ご存じ関ヶ原の戦い…現地で活躍できなかった亀井玆矩は徳川家康の命を受けて因幡(鳥取県)の平定に向かいますが…続きはブログの記事へ>>

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大坂冬の陣~博労淵・野田福島の戦いの関係図

大坂冬の陣~博労淵・野田福島の戦いの関係図

「大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い」に掲載
慶長十九年(1614年)・・・戦国最後の戦いとなった大坂の陣の前半戦である冬の陣・・・その最初の決戦となった「野田・福島の戦い」はいかに・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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大坂冬の陣~鴫野・今福の戦いの布陣図

大坂冬の陣~鴫野・今福の戦いの布陣図

「激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い」に掲載
慶長十九年(1614年)・・・戦国最後の戦いとなった大坂の陣の前半戦である冬の陣・・・その一番の激戦となった「鴫野・今福の戦い」はいかに・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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大坂夏の陣・布陣図

大坂夏の陣・布陣図

「大坂夏の陣・大坂城総攻撃!」に掲載
元和元年((1615年)5月7日、世に言う「大坂夏の陣」で、大坂城・総攻撃が開始された正午頃の両軍の布陣図です・・・合戦の詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

また、ブログの【陣形と陣立のお話】のページでは、この時の松平忠直の先手を努めた本多富正隊の“陣立図”を紹介していますので、よろしければコチラからどうぞ>>

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シャクシャインの戦い・関係図

シャクシャインの戦い・関係図

「北の大地に蜂起!アイヌの英雄・シャクシャインの戦い」に掲載
北の大地に独特の文化を育んで来たアイヌの人々…交易を機にその支配を強める松前藩との衝突がついに・・・くわしくはブログの記事へ>>

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大塩平八郎の乱・関係図

大塩平八郎の乱・関係図

「めざせ!救民~大塩平八郎の乱」に掲載
元大坂町奉行所与力・大塩平八郎が「救民」を掲げて挙兵した大塩平八郎の乱・・・単なる一揆や打ちこわしではないこの反乱に、江戸幕府は250年にわたる太平の眠りから覚める・・・くわしくはブログの記事へ>>

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姉小路公知・暗殺事件 関係図

姉小路公知・暗殺事件 関係図

「鬼門の猿が目撃者?姉小路公知・暗殺事件」に掲載
文久三年(1863年)5月20日・深夜、幕末に攘夷派の公家の1人として活躍した姉小路公知が、長引いた会議を終えた帰宅途中、御所の鬼門である猿ヶ辻にさしかかったところ・・・く続きはブログの記事へ>>

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薩英戦争・関係図

薩英戦争・関係図

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「薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ」に掲載
薩摩藩の島津久光の行列を横切ったイギリス人を殺害した生麦事件・・・犯人の引渡しと賠償金の支払いを要求すべく鹿児島へとやってきたイギリス艦隊との間で勃発した薩英戦争は・・・く続きはブログの記事へ>>

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池田屋騒動・関係図

池田屋騒動・関係図

「新撰組・絶好調!池田屋事件」に掲載
あの新撰組を一大スターに押し上げた池田屋事件・・・約束の午後8時になっても、会津藩に動きがみられなかった事で、近藤は土方に24人の隊士を預けて祇園方面の探索に向かわせ、自らは、沖田ら10人とともに、鴨川の西側の四条から木屋町通りを探索するべく出発します・・・く続きはブログの記事へ>>

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禁門の変・布陣図

禁門の変・布陣図

「禁門の変~来島又兵衛・アラ50の挑戦」に掲載
八月十八日の政変で政治の舞台から下ろされた長州藩は、形勢を逆転すべく、武装して大挙御所に押し寄せ、薩摩・会津藩などと交戦します…世に言う禁門の変(蛤御門の変)です・・・続きはブログの記事へ>>

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天狗党の西上行軍・ルート

天狗党の西上行軍・ルート

「天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争」に掲載
尊王攘夷派の水戸藩士・藤田小四郎によって結成された天狗党・・・新たに武田耕雲斎を総大将に迎え、再編制されるも、もはや水戸を奪回する事は不可能と判断し、かくなるうえは水戸藩の現状、さらには幕府の尊王攘夷への方向転換を徳川慶喜に訴えるべく京都へと向かう・・・続きはブログの記事へ>>

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第二次長州征伐(四境戦争)関係図

第二次長州征伐(四境戦争)関係図

「第二次長州征伐・開始~大島口攻防戦」に掲載
慶応二年(1866年)6月5日の幕府の宣戦布告によって開始される第二次長州征伐・・・朝敵と呼ばれ、すべてを相手に戦う事なったと長州の運命やいかに・・・く続きはブログの記事へ>>

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第二次長州征伐・小倉口の戦い関係図

第二次長州征伐・小倉口の戦い関係図

「いよいよ大詰め~第二次長州征伐・小倉口ゲリラ作戦」に掲載
慶応二年(1866年)6月5日の幕府の宣戦布告によって開始される第二次長州征伐・・・朝敵と呼ばれ、すべてを相手に戦う事なったと長州は少ない兵を逆手にゲリラ作戦を展開する・・・続きはブログの記事へ>>

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第二次長州征伐・小倉口の戦い進路図

第二次長州征伐・小倉口の戦い進路図

「第二次長州征伐も大詰め!最後の小倉・上陸」に掲載
慶応二年(1866年)6月5日の幕府の宣戦布告によって開始される第二次長州征伐・・・朝敵と呼ばれ、すべてを相手に戦う事なったと長州は、いよいよ、小倉城攻略をめざして、3度目の上陸を決行する・・・続きはブログの記事へ>>

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戊辰戦争・会津戦争への道 関係図

戊辰戦争・会津戦争への道 関係図

「会津戦争・勃発~白河口攻防戦」に掲載
鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城を経て、さらに北へ・・・いよいよ会津戦争へと突入します・・・く続きはブログの記事へ>>

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北越戊辰戦争・朝日山争奪戦

北越戊辰戦争・朝日山争奪戦

「北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意」に掲載
幕末の北越戊辰戦争の最初の大きなぶつかり・朝日山争奪戦・・・小千谷会談が決裂した長岡藩・家老の河井継之助は、新政府軍との開戦を決意し・・・く続きはブログの記事へ>>

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北越戊辰戦争・長岡城攻防戦

北越戊辰戦争・長岡城攻防戦

「ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落」に掲載
幕末の北越戊辰戦争・・・朝日山を奪取した長岡藩・家老の河井継之助は、5月19日に信濃川を渡り、新政府軍の本営・小千谷を攻撃する事を決定するが、一方の新政府軍の山県有朋も5月19日に長岡城を急襲する事を決める・・・続きはブログの記事へ>>

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北越戊辰戦争・今町攻略戦

北越戊辰戦争・今町攻略戦

「河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略」に掲載
幕末の北越戊辰戦争・・・新政府軍に長岡城を奪取された長岡藩・家老の河井継之助は、6月1日、敵の北最前線に位置する今町を攻略すべく出陣します・・・続きはブログの記事へ>>

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北越戊辰戦争・長岡城奪回作戦

北越戊辰戦争・長岡城奪回作戦

「北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦」に掲載
幕末の北越戊辰戦争・・・先の5月19日に新政府軍に本拠地の長岡城を奪われた長岡藩の河井継之助が、沼地越えの決死の奪回作戦を決行しました・・・続きはブログの記事へ>>

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上野戦争・関係図

上野戦争・関係図

「幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争」に掲載
鳥羽伏見の戦いの後、将軍・徳川慶喜の警固のためと称し結成された彰義隊だったが、江戸城が明け渡され、治安維持の役目が幕府から新政府大総督府へと移る事が決定した後も、なおも、上野に居座り続ける・・・ついに新政府首脳陣は、彰義隊の討伐を決定し、兵法に通じた大村益次郎を江戸へ派遣し、やがて5月15日の上野総攻撃が決定する・・・く続きはブログの記事へ>>

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会津戦争・新政府軍進路図

会津戦争・新政府軍進路図

「会津戦争も佳境に…母成峠の戦い」に掲載
幕末の戊辰戦争の東北屈指の戦いとなった会津戦争・・・会津への玄関口白河を落とした後、二本松城をも陥落させた新政府軍は、いよいよ本拠地の会津若松城を攻めるべく、要所の母成峠へと進発します・・・く続きはブログの記事へ>>

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会津若松城下の戦い・関係図

会津若松城下の戦い・関係図

「会津戦争~会津若松城下の戦い」に掲載
幕末の戊辰戦争の東北屈指の戦いとなった会津戦争・・・会津への玄関口白河を落とした後、二本松城をも陥落させた新政府軍は、いよいよ本拠地の会津若松城へと迫ります・・・続きはブログの記事へ>>

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会津若松城下の戦い・関係図Ⅱ

会津若松城下の戦い・関係図Ⅱ

「戦場の華と散った会津娘子軍・中野竹子」に掲載
幕末の戊辰戦争の東北屈指の戦いとなった会津戦争・・・会津への玄関口白河を落とした後、二本松城をも陥落させた新政府軍が、いよいよ本拠地の会津若松城へと迫る中、女性のみで結成された娘子隊は慶応四年(明治元年・1868年)8月25日、新政府軍と遭遇します・・・続きはブログの記事へ>>

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函館戦争・幕府軍進攻ルート

函館戦争・幕府軍進攻ルート

「幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取」に掲載
幕末の戊辰戦争の最終戦となった函館戦争・・・開陽丸以下・8隻の軍艦とともに品川を脱出した榎本武揚率いる旧幕府軍は、すでに新政府軍の物となっている函館を奪取すべく蝦夷に上陸・・・く続きはブログの記事へ>>

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函館戦争・新政府軍進攻ルート

函館戦争・新政府軍進攻ルート

「函館戦争・終盤戦~矢不来の戦い」に掲載
幕末の戊辰戦争の最終戦となった函館戦争・・・蝦夷共和国を設立した榎本武揚率いる旧幕府軍は、迫り来る新政府軍を前に、最後の砦・五稜郭を死守・・・く続きはブログの記事へ>>

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西南戦争での政府軍・進路の図

西南戦争での政府軍・進路の図

「西南戦争~熊本城・救出作戦」に掲載
明治維新後に勃発した最大で最後の士族の反乱・西南戦争・・・西郷隆盛率いる薩摩軍に包囲され孤立状態となった熊本城を救出すべく、海路にて博多から大量の兵士を送り込む政府軍は、本隊が田原坂で激戦し、別働隊が搦め手から熊本城に迫り、さらに南からも迫ります・・・くわしくはブログの記事へ>>

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大久保利通・暗殺の関係地図

大久保利通・暗殺の関係地図

「大久保利通の見た二つの夢~悪夢と未来」に掲載
明治十一年(1878年)5月14日、西郷隆盛・木戸孝允と並んで、維新三傑と呼ばれた功労者の1人・大久保利通が暗殺されました・・・その日の大久保は・・・く続きはブログの記事へ>>

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日清戦争・関係図

日清戦争・関係図

「終結へ向かう日清戦争~威海衛・攻略」に掲載
明治二十七年(1894年)の2月に勃発した日清戦争も、年を越えた明治二十八年(1895年)2月2日・・・極寒の山東半島にて戦闘を展開中の日本軍が威海衛を攻略し・・・つづきはブログの本文で>>

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日露戦争・関係地図

日露戦争・関係地図

「日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦」と「力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦」に掲載
明治三十七年(1904年)2月に勃発した日露戦争の中で、最初にぶつかった旅順と仁川の海戦・・・そして、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊が、ウラジオストックへ向けて黄海を航行中のロシア艦隊を撃破する黄海海戦・・・戦いの詳細はブログの本文で・・・旅順港・仁川沖海戦の記事へ>>旅順閉塞作戦の記事へ>>黄海海戦の記事へ>>

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日露戦争・奉天会戦関係図

日露戦争・奉天会戦関係図

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「日露戦争~日本軍・極寒の奉天占領!」に掲載 多大な犠牲をはらって旅順を陥落させた日本軍ですが、兵の疲れはピークに・・・一刻も早く決着をつけたい日本軍は・・・くわしくはブログの記事へ>>

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日本海海戦図

日本海海戦図

「日本海海戦・伝説の東郷ターンは?」に掲載
明治三十八年(1905年)5月27日、前年の2月に勃発した日露戦争の中で、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊が、世界有数の強国・ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日本海海戦がありました・・・武田信玄の甲州水軍をこよなく愛した東郷のあの伝説の東郷ターンが勝利をもたらしたのでしょうか?・・・戦いの詳細はブログの本文で・・・ブログの記事へ>>

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