2009年11月21日 (土)

平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!

 

天慶二年(939年)11月21日、平将門常陸国府を襲撃・・・藤原維畿を捕らえて国印を奪い取りました。

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そもそもは、天皇の子供たちは「王」「親王」を名乗り、朝廷からのお手当てで暮らしていたわけですが、当然の事ながら1人の天皇から生まれる皇子は何人もいるわけで、第50代・桓武天皇の孫(もしくはひ孫)高望王(たかもちおう)の頃になると、その数が増えまくり、朝廷は財政難に苦しめられます。

そこで、朝廷内で出世コースに乗れなかった多くの皇族の末裔たちが、天皇から姓を賜り、役人として地方へ送りこまれたのです。

この桓武天皇の血筋から枝分かれして「平」を賜ったのが桓武平氏清和天皇から枝分かれして「源」の姓を賜ったのが清和源氏、他にも宇多天皇からは宇多源氏村上天皇から村上源氏と色々あります。

そんな中央の出世レースからは、はじかれた彼らであっても、地方へ来れば、天皇の子孫というだけで尊敬され、役人の立場を利用して税をごまかしながら私腹を肥やす事も可能・・・ましてや、関東は、未だ未開拓な土地が豊富にありますから、それらを開拓して税収そのものを増やす事もできますから、ある意味、出世の望めない都にいるよりは、よっぽどオイシイ思いができたわけです(11月8日参照>>)

・・・で、平の姓を賜って地方に赴任した高望王の三男で、下総国(しもうさ・千葉県北部)佐倉を領地としていたらしい鎮守府将軍・平良将(よしまさ・良持)の息子として生まれたのが平将門(たいらのまさかど)です。

・・・とは言え、その出生年はよくわかりません。

とにかく、幼くして父を亡くした将門は、立身出世を求めて京の都へと向かい、ラッキーにも、時の権力者・藤原忠平への仕官に成功し、ここで様々な事を学ぶとともに、朝廷とのつながりも確保します。

しかし、延長八年(930年)頃、伯父である平国香(くにか・國香)が、亡き父の領地侵略しているとのニュースを聞いた将門は、いてもたってもいられず、京での出世をあきらめて故郷へと急ぎます。

しかし、すでに多くの領地は国香に奪われたあと・・・しかも、朝廷の支配下にありながら、その支配が行き届かない関東では、農民に法外な重税を課し、国司は私腹を肥やし放題です。

そんなタイミングで京から戻って来た将門に、多くの人が期待を寄せたのも無理はありません・・・まして、彼は、困った人を放ってはおけない親分肌。

いつしか、農民たちを統率しながら荒野を開墾し、砂鉄から鉄も造り、それとともに、その戦力も領地も徐々に大きくなっていきます。

そんな将門を脅威に思った国香が、婚姻関係にある源護(みなもとのまもる)を使って攻めて来ますが、あっさりと返り討ち・・・

さらに、伯父・平良兼(たいらのよしかね)との抗争にも打ち勝つ将門でしたが、これは、あくまで同族同士の領地争い・・・この時点で朝廷から咎められる事はありませんでした。

ところが、そんな中で勃発したのが隣国・武蔵(むさし・埼玉県&東京都)のいざこざです。

都から赴任した興世王(おきよおう)源経基(みなもとのつねもと)という二人の役人が、その権力をかさに着て乱暴狼藉を働いていた事に怒った郡司(ぐんじ・国司の部下の地方官)武蔵武柴(むさしたけしば)が立ち上がり、両者の対立が激しくなっていったのです。

それを聞いた将門は、かの親分肌をフルに発揮・・・頼まれてもいないのに、仲裁役をかって出て、両者の仲を収めようとします。

これによって興世王と武柴はなんとか和解しますが、経基が、何を勘違いしたのか、「将門が興世王と武柴を取り込んで、自分を攻める」と思い込み、あわてて都へ行って、朝廷に「将門に謀反の疑いあり!」と通報してしまったから、都は大騒ぎとなります。

そんなこんなの天慶二年(939年)夏頃、将門のところに1人の男が助けを求めてやってきました。

常陸国(茨城県)の豪族・藤原玄明(はるあき)という男で、秩序を乱す無法者として手配されていた、あまり評判の良くない男でした。

この時も、収穫物を横領したり、税金の取立てに来た役人に暴行を働いたりして、国司の藤原維畿(これちか)に逮捕されそうになったため、仲間とともに逃走をはかり、将門を頼ってきたのです。

確かに悪人のレッテルを貼られている男ではありますが、相手は、横暴を極めている国司の1人です。

維畿という人物はともかく、国司による支配体制を許せない将門は、玄明をかくまい、維畿と戦う道を選んだのです。

かくして天慶二年(939年)11月21日、1000の兵を率いて常陸へと出陣・・・まずは、維畿に対して「玄明を逮捕しない」という約束を取りつけようとしますが、維畿が、そんな約束を簡単にOKするはずもなく、当然、交渉は決裂します。

すると、将門は即座に国府(地方の役所)を取り囲み、中にいる3000の兵の逃走経路を遮断して孤立させ、交戦する者はことごとく討ち取り、食糧倉庫の鍵も奪取・・・そうなれば、もはや、先は見えたも同然となり、維畿は、やむなく降伏します。

将門は維畿を捕らえ、国印をも奪い取ります。

国印とは、当時の公文書に押される銅製のハンコで、朝廷権力の象徴でもありましたから、この行為・・・つまりは、朝廷から常陸という国を奪い取ったという事になります。

この時から、将門は朝敵=国を相手の謀反人という事になったのです。

もう、後へは退けません。

「こうなったら、関東一円の国の国印を奪い、すべての国司を京都に追い返してしまおう」・・・そうすれば、重税を課し、私腹を肥やす国司の支配から、万民を開放する事ができる。

将門、86日間の戦いの始まりでした。

世に言う平将門の乱です。
 

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2009年11月20日 (金)

尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い

 

元治元年(1864年)11月20日、西行する天狗党と、それを追討する高島・松本藩連合軍和田峠で衝突しました。

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この年の3月に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党・・・これまでの経緯は、

・・・と、関東各地で奮戦するも、幕府からは「天狗党・追討令」が出され、地元の水戸藩内は保守派に牛耳られ、やむなく、彼らは、自らの思いを、今は亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に伝えるべく、慶喜のいる京都を目指して出発します(10月25日参照>>)

ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

途中、その領地をすんなりと通してくれる藩もあれば、当然の事ながら、幕府の命に従って彼らの行く手を阻む藩もあります。

最初のぶつかり合いは、11月16日・・・下仁田戦争(11月1日参照>>)と呼ばれるその戦いで、2時間の激戦のうえ、高崎藩に勝利した天狗党は、着物には血しぶき飛びまくり、刀や槍も抜き身のまま、さらに西行を続けます。

翌日到着した信州(長野県)への玄関口・西牧(さいもく・藤井)の関所・・・すでに、前日の「天狗党・大勝」のニュースを聞いていた関所の番人は逃走し、もぬけのからの関所を悠々と通過します。

ほどなく、見えてくる内山峠を越えれば、もう、信州・・・通過する宿場町では、最初はそのいでたちを見て、身を隠していた人々も、彼らが一般市民には危害を加えない事を聞くと、こぞって沿道に出て、隊列を見物するようになっていました。

そして、佐久(さく)に入り、中山道和田宿で一泊した翌日、和田峠を越えて樋橋(とよはし・諏訪郡下諏訪町)にさしかかった所で、高島・松本藩の連合軍の迎撃が待っていました。

元治元年(1864年)11月20日和田峠の戦いの勃発です。

連合軍=2000、天狗党=1000・・・
はじめ、藤田小四郎率いる150人が、正面からの突破をしようと、猛攻撃をかけますが、2度3度と押し戻され、なかなか前進できません。

天狗党・危うしか?・・・と、思いきや、これが、軍師・山国兵部(やまくにひょうぶ)の作戦!

小四郎らが正面衝突してる間に、背後と側面の山に奇襲隊200人を潜ませたのです。

相手に悟られぬよう、激しく急な険しい山をよじ登るという、意表をついた作戦です。

そして、ころあいを見計らって、山上から一斉に砲撃を開始・・・まさかと思った方向からの攻撃に、連合軍が慌てふためいたところで、総大将・武田耕雲斎が太鼓を打ち鳴らします。

その太鼓を合図に、全軍が突入!・・・連合軍は総崩れとなりました。

この時、逃走を計る高島・松本藩によって樋橋の宿場町に火が放たれましたが、天狗党の隊士らが力を合わせて消火にあたり、町衆の心の拠り所となっていたお地蔵様が安置されている地蔵堂が焼かれずにすんだという事で、沿道での彼らの評判は、さらに高まります。

ここから、南に下った飯田では、尊王攘夷の気質も相まって、3000両もの軍資金を手配してくれるとのうれしい約束も交わされます。

ただ、やはり幕府の追討命令は執拗に発令され続け、困った藩の中には、彼らが通り過ぎたあとに、ポーズだけの大砲を打ち鳴らしてごまかしたりしたところもあったのだとか・・・。

やがて、11月24日、天狗党は駒場宿へと到着します。

ここは、伊那地方でその名を馳せた尊王攘夷の志士・松尾多勢子(たせこ)の地元・・・京都で活動中に幕府から追われ、長州(山口県)へと逃れた後、この頃は、密かに故郷に戻ってはいた多勢子でしたが、さすがに、追われる身の彼女との面会は叶いませんでした

しかし、彼女の息子・と会う事ができた小四郎らは、多勢子からの伝言を受け取ります。

それによれば、
「このまま南に進めば尾張藩の領地・・・御三家でもあり大藩でもある尾張藩との交戦は避けたほうが良いので、この先は美濃(岐阜県)へと進むべし」
との事・・・

早速、軍儀を開いて方向転換を決定した天狗党は、翌・25日、美濃の玄関口・清内路(せいないじ・長野県下伊那郡)の関所を通過します。

「天狗党はこのまま南へ下るもの」と思い込んでいた関所の役人は、慌てて何もできず、天狗党をそのまま通過させてしまいます。

さらに進む天狗党は、やがて木曽路に入り、妻籠(つまご)馬籠(まごめ)に泊まった後、29日には木曽川を渡りました。

沿道の諸藩は、衝突を避けて撤退する藩、軍資金を渡して「城下の通過を避けてくれ」と頼み込む藩・・・と、その動向も様々な中、あの太子(たいし)を旅たってちょうど1ヶ月の12月1日、彼らは、揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へと到着しました。

このまま西へと向かえば、もう数日で、いよいよ京都です。

・・・と、行きたいところではありますが、ここで、耕雲斎は一つの決断をし、彼らの西行は新たな展開に・・・

思わせぶりにひっぱるようで恐縮ですが、やはり、そのお話は、関連のあるその日にという事で、お許しあれm(_ _)m
 

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2009年11月19日 (木)

頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄

 

天正十六年(1588年)11月19日、美濃三人衆の1人として知られる稲葉一鉄が、74歳でこの世を去りました。

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もともとは、美濃国(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よりなり)に仕えていた稲葉一鉄(いなばいってつ)・・・っと、本当のお名前は稲葉良通(よしみち)で、途中で剃髪して一鉄と号するようになるのですが、一鉄のお名前のほうが断然有名なので、本日は一鉄さんで通させていただきます。

やがて、あの斉藤道三が国盗りで美濃を制するようになってからは、その斉藤家に仕えるようになりますが、道三の孫・斉藤龍興(たつおき)の代になって、主君との間に亀裂が生じるようになります。

そこで、ともに土岐氏の時代からの仲間であった氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(もりなり)らとともに、当時、斉藤家の居城・稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長の傘下へと鞍替えしたのです。

彼ら美濃三人衆の協力を得た信長は、永禄十年(1567年)8月、見事、稲葉山城を攻略し、龍興を美濃から追放したのでした(8月15日参照>>)

その後、約20年間に渡って信長に仕えた一鉄は、その間に80回以上もの合戦に出陣し、一度の負けも経験しなかったという武勇伝の持ち主です。

元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦では、窮地に陥った織田軍を、さらに攻める浅井軍に対して、側面からの猛攻撃で加勢し、見事、勝利に導きました(6月28日参照>>)

この時、一鉄の臨機応変な素早い動きを喜んだ信長から、「長」の一字を与えられ、「長通(ながみち)を名乗るように勧められましたが、一鉄は・・・
「今回の勝利は、三河はん(徳川家康の事)の力が大きかったんですわ。
僕の働きなんて大した事ないです・・・こんなんで、武勇やなんて言われたら恥ずかしいですわ」

と言って、信長の提言を断り続けて、譲らなかったのだとか・・・

この一件から、周囲の説得に応じず、自論を曲げない頑固者の事を「一鉄(徹)者」「頑固一徹」なんて呼ぶようになったとされています。(あくまで伝説ですが・・・)

また、一鉄は、武功の誉れのみならず、学識の豊かさも兼ね備えていました。

特に、漢詩は得意中の得意だったようで・・・

天正二年(1574年)のある日、信長は、岐阜城の茶室に一鉄を招きます

実は、信長は、ある者から「一鉄に謀反の疑いあり」との密告を受けていて、その報告が本当であるかどうかを確かめるために、一鉄を呼んだわけだったのですが、もし、本当に謀反の兆しがあったなら、その場で殺害するつもりで、茶室の壁の向こうで身を潜めて待っていたのです。

すでに不穏な空気を察していた一鉄は、何喰わぬ顔で、茶室へと入り、接待役の武将を対面しながら、何とか弁明の糸口を探ります。

ふと、床の間を見ると、そこに一服の掛け軸が・・・そこには、禅僧の筆による漢詩が書かれていました。

送茂侍者
木葉辞阿霜気清、虎頭載角出禅扃、
東西南北無人処、急急帰来話此情

*注:私は読めないので、何と書いてあったかは聞かないでください

漢詩をすらすらと読んでみせた一鉄は、その意味を聞かれて、くわしい解説をするとともに、自分には、まったく謀反の気持ちなどなく、今後も、信長にひたすら尽くすつもりである事を切々と話しました。

壁のむこうで、一鉄の言葉を聞いていた信長は、武勇だけでなく、その学識の深さにも感銘を覚え、自ら、一鉄の前に進み出て、つまらない密告を信じてしまった事を詫びるとともに、今後とも自分を支えてくれるよう申し出たのです。

結局、一鉄があまりにも信長に重用される事を妬んだ者によるウソの密告だったようですが、これを境に、信長は、ますます一鉄を信頼するようになり、一鉄も、信長が亡くなるまで、その思いに答えるべく尽くしました。

信長亡き後、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の合戦(3月11日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉の味方をしてからは、秀吉に仕えるようになりますが、翌・天正十二年の小牧・長久手の戦い(3月28日参照>>)で、対・小牧山の岩崎山砦の守備を任されたのを最後に、戦場へのお出ましは、どうやら引退されたようで、それから四年後の天正十六年(1588年)11月19日美濃清水城にて静かに息をひきとりました。

享年74歳・・・乱世の真っ只中に生きた武将としては、数少ない天寿を全うできた人・・・その生き抜く事ににおいても頑固一徹を貫いたと言ったところでしょうか。
 

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2009年11月18日 (水)

御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力

 

天保十一年(1840年)11月18日、第119代・光格天皇が70歳で崩御されました。

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この光格(こうかく)天皇・・・幕末のページで、しばしば、その名を拝見する第121代・孝明天皇のおじいさまであり、当然ながらその次の第122代・明治天皇のひいおじいさまにあたります。

先代の後桃園天皇が、生まれたばかりの皇女1人を残して亡くなったので、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子だった祐宮兼仁(さちのみやともひと)が養子に入り、光格天皇として皇位を継ぎました。

典仁親王が、第113代・東山天皇の孫にあたるので、皇室には違いないですが、直系という事になると、現在の天皇家は、この光格天皇から始まったという事になります。

9歳で即位し、24歳で先ほどの後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を皇后としました。

即位から数年後の天明二年(1782年)から天明七年(1787年)にかけて、ご存知の天明の大飢饉が発生します。

悪天候が続いていたうえに、例の浅間山の噴火(7月6日参照>>)によって、広域に火山灰が降り注ぎ、さらに噴煙によって起こる日射量の低下や異常気象によって、またたく間に全国的な飢餓状態となってしまいました。

飢えに苦しむ人々は、犬・猫はもちろん、人を口にするまで追い詰められ、各地では打ちこわし多発!・・・この状況は、天皇のおわす京都でも例外ではありませんでした。

京都の人々は、幕府の京都所司代に対策を講じるよう願い出ますが、いっこうにらちがあきません。

「幕府は何もしてくれない」と感じた人々の心は、ワラをもすがる気持ちで御所に向かいます。

最初に、その現象が起こったのは、天明七年の6月7日・・・はじめは、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていくというものでした。

ところが、それが数日後には3万の人となり、10日後には、なんと7万人にも達して、御所を巡りながら祈りを捧げます。

この現象は御所千度参り(ごしょせんどまいり)と呼ばれ、京都に限らず、大坂・河内や近江など、近畿一帯から人が集まったと言われています。

見るに見かねた後桜町上皇(第117代の天皇)は、御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配り、有栖川家や九条家からも、お茶や握り飯が配られました。

さらに、心痛めた光格天皇は、自ら民衆の救済を京都所司代に申し入れたのです。

実は、これが江戸幕府始まって以来の出来事・・・

そうです。

先日、このブログ書かせていただいたばかりの第109代・明正天皇(11月10日参照>>)・・・そして、その父上である第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)のところで登場した『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

江戸の始めに徳川幕府が出した天皇の行動を制限するこの法令で、天皇家は幕府の許可なしには、何も出来ない状態にさせられてしまっていました。

つまり、天皇家が幕府に物申すのは、本来なら法令違反・・・光格天皇も、それを補佐する関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)も、さらに、賛同してくれる朝廷の方々も、皆、処罰覚悟の行動だったのです。

しかし、さすがに事態の深刻さを把握している幕府は、京都市民に対して米1500俵を放出する事を約束し、皇室の法令違反に対しても、その罪は問わないという決定をしました。

これは、江戸開幕以来、幕府が取り仕切っていた内政上の事項に対し、天皇が初めて関与し、幕府がそれに従ったという、前代未聞で大きな意味を持つ出来事でした。

翌年の天明八年(1788年)に起こった京都の大火では、皇居仙洞御所も焼けてしまいましたが、この再建に力を注いだ時の将軍・第11代徳川家斉に対して、光格天皇は直筆の詩を送ったと言います。

これを賜った家斉は、早速、老中の松平定信に見せ、定信はそれを床の間に掲げて宴会を催したのだとか・・・これも、御所千度参りという現象を目の当たりにして、いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているかを知り、幕府の中にも、多少の変化があったという事なのかも知れません。

また、光格天皇は、当時、度々通商を求めてきていたロシアとの交渉にも関心を寄せ、皇室での儀式や神事の復活にも力を注ぎました。

これは、この光格天皇によって、幕府に対する朝廷の発言力が高まった証とも言えますが、寛政元年(1789年)・・・この良好な関係にストップがかかります。

実は、光格天皇・・・自分が天皇になったにも関わらず、父上の典仁親王が親王ままでは気の毒だと、常々思っていたのです。

かの公家諸法度では、親王は大臣よりも低い地位ですから、なんとか父に尊号を送りたいと思い、幕府にその旨を伝えますが、これを幕府は断固拒否します。

光格天皇が希望を申し出てから、6年間に渡ってモメるこの尊号事件は、結局、光格天皇が矛を収めて落ち着いたのですが、尊号の願いが叶えられなかったとは言え、光格天皇によって、近代天皇制への下地が造られた事は確か・・・その観点からも、光格天皇は歴史に残る天皇であったと言えるでしょう。

ちなみに、この光格天皇がなし得なかった典仁親王の尊号・・・この願いを叶えるのは、光格天皇のひ孫で、同じ祐宮(さちのみや)と呼ばれた睦仁(むつひと)親王・・・そう、明治天皇なのですが、そのお話は、また、関連するその日に書かせていただきたいと思います。
 

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2009年11月17日 (火)

記念に改元~元正天皇の養老の滝・伝説

 

養老元年(717年)11月17日、岐阜に行幸した元正天皇が、「養老の滝」を命名した事にちなんで、養老に改元しました。

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元正(げんしょう)天皇は、第44代の天皇として即位した女帝です。

先日の第109代・明正天皇のページ(11月10日参照>>)で少しお話しましたので、ご承知だと思いますが、いわゆる中継ぎのための女帝です。

夫である第40代・天武天皇が亡くなった後、後を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなってしまい、その息子(天武天皇からみて孫)に後を継がせたいけど、まだ幼いってんで、天武天皇の奥さんである第41代・持統天皇が、自ら皇位を継ぎ、何とか踏ん張って、その孫=第42代・文武天皇に皇位を継承したものの、今度は、その文武天皇が亡くなった時に、皇位を継承するべき息子が幼かったために、文武天皇の奥さんが第43代・元明天皇となり、それでもまだだったので、その娘である元正天皇が継ぎ、その次の第45代・聖武天皇へ・・・と、ややこしいので、とにかく系図を。。。

Keizugensyucc つまり、聖武天皇から見れば、「文武=お父さん」→「元明=おばあちゃん」→「元正=伯母さん」とバトンタッチされて、自分のところに回ってきた・・・という事です。

そんな中継ぎの女帝ではありましたが、元正天皇という方は、なかなか聡明なお方であったようで、「人民が富まなくては、国は栄えない」と、産業の発展に重きを置き、それまでの水田だけではなく、畑の開墾も推奨し、稲とともに麦の耕作にも力を注いだとの事・・・

そんな元正天皇が、霊亀三年(717年)9月20日に、美濃国(岐阜県)当耆郡(たきのこおり)に行幸した時に、多度山の美しい泉を目にしました。

その泉の水で、顔や手を洗ったところ、お肌がスベスベに・・・さらに、痛いところを洗ったら、またたく間に痛みが取れて治ってしまいます。

「こんな私にも効き目があるなんて!」
・・・と、元正天皇、大感激!

「しかも、聞くところによれば、この泉の水を飲んだり浴びたりした人の中には、目の病気が治ったり、長く続いていた病気が快復したり、ツルピカがボーボーになった人もいるんだとか・・・

遠く、中国にも、こんな霊泉があると聞いた事があります。
これは、吉兆に違いない!

これは、平凡で才能のない私への神様からの贈り物・・・元号を養老にしましょ!

・・・と、この(みことのり・天皇の公式発言)を発したのが、養老元年(717年)11月17日・・・で、この日がら元号が養老になったというワケです。

・・・って、滝は???( ̄◆ ̄;)

実は、この詔の段階では、滝はもちろん、お酒も出てきません。

すでに、その名が知れ渡った観光名所にケチをつけるつもりはありませんが、実際に元正天皇が沐浴されたのは、現在の岐阜県は養老町にあるの養老の滝ではなく、近くにある菊水泉という泉であったと言われています。

しかし、『続日本紀』には、すぐ後の12月に、すでに、この水でお酒を醸造した記録があり、おそらくは、かなりの名水で、そこから造ったお酒も、かなりの銘酒だったのでしょう。

そんなところから、徐々に、伝説が伝説となっていったようです。

鎌倉時代の建長四年(1252年)に成立した『十訓抄(じっきんしょう)には、教訓となる説話がいくつか収められていますが、その中に・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

その昔、元正天皇の時代の美濃の国に、老いた父とともに暮らす貧乏な若者がおりました。

毎日、山に言っては草木を取って、細々と父を養っていましたが、この父が、毎日のように「お酒が野みたいなぁ・・・」とポツリ・・・

何とか、老いた父の夢を叶えてやりたいと、近所のお金持ちに頼み込んで、お酒を分けてもらったりしていましたが、ある日、いつものように薪を取ろうと山に入ったところ、苔むした石に足をすべらせて、スッテンコロリン。

しばらく気を失って、ふと目覚めると、なにやら、あたりにお酒の匂いが・・・

よく見ると、石の下から湧き出ている水が、どうやら普通の水ではない模様・・・恐る恐る汲んで飲んでみると、これがまさしくお酒。

大喜びの若者は、その日から、毎日お酒を汲みに来て、老いた父を養ったのだと・・・

で、この地にやって来て、このお話を聞いた元正天皇が、「これは、息子の孝行を見た神様のご褒美に違いない」と、この場所を養老の滝と命名し、元号を養老と改め、その孝行息子を美濃守に任命しましたとさ。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

という説話が登場します。

岐阜県の養老の滝の伝説は、これによるものと思われますが、岐阜県に限らず、養老の滝の伝説は、鎌倉時代以前から各地にあり、上記の孝行息子が父にそのお酒を与えるお話のほかにも、滝のお酒を飲んで病気が治ったり、若返ったりという、ご存知の昔話がいくつかありますよね。

すでに、『万葉集』に、その不老長寿の滝の伝説の存在が詠まれていますので、古くからの養老伝説と、元正天皇が泉での沐浴で美肌になった伝説とが、相まって、養老の滝となったという事なのでしょう。

伝説は、ともあれ、おいしい水、身体にいい水である事は確かでしょうね。
 

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