2009年11月15日 (日)

恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍

 

明治三十九年(1906年)11月15日、坂本龍馬の妻として知られるお龍楢崎龍(ならさきりょう)が66歳で亡くなりました。

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奇しくも、最愛の夫・坂本龍馬さんのご命日(2006年11月11日参照>>)と同じ11月15日なんですね~

まぁ、龍馬さんは、旧暦の慶応三年(1867年)なので、厳密には同じ日ではないのかも知れませんが・・・

お龍(りょう)は、医師・楢崎将作(ならさきしょうさく)の長女として天保十二年(1841年)に生まれましたが、父・将作が、尊王攘夷派の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと親しかった事から、安政の大獄(10月7日参照>>)に連座して捕らえられ、その後、獄中で死んだとも、釈放後に病死したとも・・・

とにかく、働き手の父が亡くなった事で、長女のお龍は、幼い弟・妹たちを養うために旅館に奉公したりなんかしますが、大した稼ぎにもならず一家はかなりの貧乏・・・そんな時に、龍馬と知り合います。

龍馬から、彼が定宿にしている京都・伏見の寺田屋を紹介され、今度は、そこで働きます。

そんな中の慶応二年(1866年)1月・・・龍馬が、薩長同盟を成立(1月21日参照>>)させた2日後に寺田屋で襲撃された時、彼女の機転によって、なんとか危険を回避したお話は、何度もドラマ化された名シーンですよね(1月23日参照>>)

その時に負傷して、しばらく西郷隆盛の宿所で療養した龍馬は、3月になってから、身の安全と療養を兼ね、お龍を連れて、薩摩・霧島の旅に出ます。

この時に、薩摩藩の小松帯刀(たてわき)に、お龍を「妻」と紹介した事から、二人は、寺田屋事件きっかけで結婚して、この鹿児島旅行は、日本初の新婚旅行・・・なんて事も言われますが、ご存知のように、その翌年の11月に龍馬は暗殺されますので、二人の密月は、わずかに2年もなかった事になります。

ところで、龍馬と言えば、来年の大河も楽しみではありますが、今、現在放送中の「JIN-仁-」にも、内野さん演じる龍馬が出てますね。

あの軽快な演技に、
「龍馬はあんなに軽くない」
「もっと、どっしりと構えていてもらわないと・・・」
てな、意見もあるようですが、ワタクシ個人的には、あーいう龍馬さん、好きです。

・・・ていうか、実際にはもっと軽いと思ってます。
今風に言うなら「チャラ男」?

昔ながらの年季の入った龍馬ファンの方には怒られるかも知れませんが、もともと少ない史料の上に、ほぼ小説でつけられた現在の龍馬のイメージですから、想像するのは自由・・・って事で、今回は、言わせていただきますと、大事を成した人というのは、その成した事柄から、どうしても大器をイメージしてしまいますが、必ずしも、そうとは限らないと思います。

私のイメージする龍馬は、公と私、職務と休暇、仕事と遊び・・・このONとOFFを、きっちり分ける人ではなかったかと・・・めちゃめちゃヤンキーなのに、成績は学年トップみたいな?

しかも、交友関係を見るにつけ、かなりの「人たらし」であった事は確実だし・・・。

もちろん、この「人たらし」は「人を騙す」という意味ではなく、いつの間にか、相手を自分のペースに引き入れて「なんで、こんな事までしたらなアカンねん!」と思うような事まで、ついつい龍馬さんのためならしてしまう・・・という感じ。

さらに、彼は幼い頃から姉たちに可愛がられて育った経験から、女性に対しても、そのテクニックが見事に発揮される・・・

あの寺田屋の事件がドラマチックな事と、その後の新婚旅行などから、時代劇では、お龍さんしか登場しない事が多々ありますが、現実には、彼女以外にも、龍馬さんにはカノジョがいたわけで、それらのおネーサン方が、皆「自分が妻だ」と思ってるてな状態を保ち続ける事ができるほど、モテたと思いますし、自分でもモテようとしてたと思いますね。

実際、あの暗殺された日も、お龍さんではない、別のカノジョを部屋に呼んでますからね~(断られてますが・・・)

10代の少年時代から、姉の嫁ぎ先に泊まっては女中部屋に夜這いをかけ、、江戸に出れば道場の千葉佐那子(さなこ)と婚約までしておきながらほったらかして、そのまま土佐に戻れば、漢方医の娘・お徳と恋仲になり、脱藩の際には、おさななじみの平井加尾(かお)に無理難題を頼み、長崎では、毎日、遊郭遊び・・・この長崎で親しくしていた中江兆民(ちょうみん)が、龍馬の頭髪について、「あの薄毛は、梅毒のせい」と言ってる事からも、その遊びっぷりがわかります。

しかし、その誰もが、「龍馬が憎い」とは思わない・・・
もちろん、当時は、一夫一婦でなくてはないらない事はないのですから、ご両人さえ良ければ、何人妻がおりやしょうと結構なんでござんすが、それがわかっていても、許してしまう魅力が、龍馬にはあったという事でしょうね。

そして、もう一つ、私がチャラ男だと思うところは、例の薩摩旅行・・・知ってる人は知ってる有名な話ですが、この時、お龍とともに高千穂の峰に登った龍馬が、その頂上に突き刺さっていた「天ノ逆鉾(あめのさかほこ)を抜いちゃうくだりです。

この「天ノ逆鉾」というのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降りた天孫降臨の時に、目印として投げた物が頂上に刺さったとされる、由緒のある、言わば遺跡or旧跡です。

それを、お龍と二人で抜いて「わずか4~5尺しかなかった」とか、「大いに笑った」とか・・・普通、抜きますか?
抜きませんよね?

龍馬の逸話だから、「やっぱ、器が違う」となりますが、普通はその名に傷がつきます。
(世界遺産に落書無用)

そんなチャラ男的要素を、見事に魅力に変えるのが、龍馬の龍馬たる所以・・・と、話が龍馬さんに傾きすぎましたので、お龍さんに戻しますが・・・

龍馬を亡くしたお龍は、彼の友人であった三吉慎造(みよししんぞう)のもとに身を寄せます。

これは、龍馬が常々「自分に万が一の事があったら・・・」と頼んでいたもので、「気の強いお龍を実家に預ければ、おそらく、気の強い姉・乙女(8月31日参照>>)とは、うまくいかないだろう」という事を考えて三吉に預けたなんて事が言われますが、案の定、その後、龍馬の実家に身を寄せたお龍は、家族とは折り合いが悪く、「非行がある」として、追い出されるような形で、高知をあとにします。

それから、親戚の家を点々とした後、明治二年(1869年)に京都に戻り、やがて明治十八年(1885年)、横須賀に住む妹の家に身を寄せていた45歳の時、隣家に住む西村松兵衛という商人と知り合い、結婚します。

しかし、再婚しても、龍馬の妻だったというプライドが捨てきれず、晩年は、お酒に溺れ、酒場で飲んだくれては「あたしは龍馬の妻よ!」と、周囲に絡んでいたのだとか・・・。

よく、ドラマでは賢女のカガミのように描かれるお龍さんですが、土佐藩士・佐々木高行が言うように、「美人だし悪い人間ではないが、賢婦とは言い難い」人だったと、私も思います。

・・・が、これはお龍さんの悪口ではないですよ!
むしろ、彼女は、龍馬にとって賢い女でなくてもよかったんだと思っています。

龍馬が何をやってる人なのかも知らなくていいし、日本の未来なんてどうでもいい・・・むしろ、それこそが、緊迫した日々の続く、京都での龍馬が求めていたカノジョだったのではないかと思います。

国の大事に奔走する時だからこそ、スイッチがOFFの時は、大いに遊んで、大いに笑って、大いにバカができるお龍が好きだったんでしょうね。

やがて明治三十九年(1906年)11月15日、晩年は、アルコール依存症状態になっていたお龍は、66歳の生涯を閉じます。

その墓石には、「阪本龍馬之妻龍子」と刻まれているのだとか・・・

そう、再婚した松兵衛さん・・・自らが建立する妻のお墓に、「西村松兵衛之妻」とせずに、「龍馬の妻」と・・・なんともいい人にお龍さんは巡り会えたものです。

ちなみに、婚約したままほったらかしにした佐那子さんのお墓にも「坂本龍馬室」と刻まれているそうですが、それこそ「憎めないアイツ」の人たらしのなせるワザ・・・と言ったところでしょうか。

★追記:2001年に見つかったお龍さんとおぼしき写真は、昨年、ほぼ本人である事が断定されました・・・今後は、ドラマでもあのイメージで登場するのでしょう。
楽しみです。

 

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2009年11月13日 (金)

尼子経久~下克上の果てに・・・

 

天文十年(1541年)11月13日、北条早雲と並んで、戦国の下克上のお手本と言われる尼子経久が84歳で病死しました

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このブログで、すでに度々登場している毛利元就のお話の中で、その元就が家督を継いだ頃の毛利氏は、中国地方に勢力を誇っていた二大大名・大内氏尼子氏に挟まれた小国であったと書かせていただきました。

そして、そこに登場する尼子氏の事を、あの婆沙羅(バサラ)大名で有名な室町時代の武将・佐々木道誉(どうよ)を祖に持つ源氏の名門である事も、どこかのページで書かせていただいております。

しかし、そんな尼子氏・・・この尼子経久(あまこつねひさ)の代で、守護代を務めていた出雲(島根県)を追われているのです。

つまり、この経久は、一度地獄に落ちた後、再び這い上がって、一代で、出雲石見(いわみ)隠岐(おき・以上島根県)伯耆(ほうき)因幡(いなば・以上鳥取県)安芸(あき・広島県)備後備中備前美作(みまさか・以上岡山県)播磨(はりま・兵庫県)11ヶ国を手中に治める大大名にのし上がったというわけなのです。

まさに、下克上のお手本とも言える身の起しぶりですが、ただ、経久さんに関してのお話は、リアルタイムな史料が少なく、いずれも、後世の軍記物・・・お芝居がかった部分もあり、どこまで真実に近いのかはわかりませんが、とりあえず、本日は、その尼子経久の下克上物語を・・・

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長禄二年(1458年)に、父・尼子清定の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)で生まれた尼子経久・・・当時の出雲の守護は京極氏で一門の尼子氏は、その守護代でした。

その主従関係の証として、幼い頃、京極氏に人質として出された経久は、おかげで京都という中心の地で、高い教養を身に着けるチャンスに恵まれます

根っからの武勇と相まり、文武両道の優れた若者に育った息子に、父・清定は大いに期待を寄せて、早くから政務につかせて経験を積ませようと、彼が21歳の時に家督を譲ります。

・・・とは、言え、父の希望は、単に守護代としての職務を真っ当するという物ではなく、守護の京極氏から、この出雲の地を乗っ取る事にありました。

すでに、父の思いを重々承知の経久・・・父とともに、税金を徴収しながら都に送らず、寺社領を横領するという行為で、京極氏を挑発します。

当然、京極氏は激怒して、守護代・経久をクビにするわけですが、彼ら父子には勝算がありました。

京都に郷を構える京極氏に対して、おそらく、地元の国人衆は、自分たちの味方についてくれるだろうと・・・

しかし、蓋を開けてみると、そのもくろみは見事ハズレ、ほとんどの国人が京極氏の味方となり、父子は、あっさりと敗れて地元を追われてしまいます

父・清定は浪人として諸国を放浪中に病死・・・経久は、一門の佐々木氏六角氏を頼りますが、いずれも門前払いで、しかたなく、母方の実家・真木上野介(まきこうずけのすけ)のもとに身を寄せながら、武者修行と称して出雲国内を巡り、昔なじみに声をかけて、「尼子再興を計りたい!」という自らの意思を示して協力を求めて回りました。

しかし、もはや、彼の味方になろうという人は、ほとんどいません。

わずかに、父・清定の弟・幸久の家系・山中氏の郎党が十数人、自らの元家臣が数十名・・・これでは、なんとも心もとない・・・

そんな中、経久は、月山を本拠地に活動する芸能集団・鉢屋党の頭目・弥三郎を味方に引き入れる事に成功します。

彼らの集団は、70名余り・・・
しかも、芸能集団という隠れ蓑・・・
経久は、秘策を考え出します。

浪人の身となってから約二年、文明十七年(1486年)が暮れようとする大晦日・・・まさに除夜の鐘が鳴り響く闇夜の中を、経久らの一団が、搦め手から富田城内へと侵入し、密かにその時を待ちます。

そして・・・ピ・ピ・ピーン・・・0時をお知らせします。
日の出は、まだ遠いものの、新年がやってきました。

かねてより、新年の祝賀行事をしきってきた鉢屋党は、
「万歳~!」
「おめでとうございま~す」
「いつもより、多めに回しておりま~す!」
と、笛や太鼓の音も賑やかに、新年を祝賀する歌舞を披露しながら、堂々と大手門から城内へと入ります。

新年の祝賀ムード真っ最中だった城内は、賑やかな踊りを一目見ようと、次々に人が飛び出してきて、本丸も館も、ほぼカラッポの状態に・・・

「今がチャンス!」とみてとった経久・配下の者が、一斉に火を放ち、城のあちこちから火の手があがります。

それを合図に、鉢屋党の面々が、きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、衣装の下に隠し持っていた刀や槍で、周囲に群がる見物人に斬りかかります。

祝賀ムードで、多くの者が武器を持たずにいた城兵は、もう、こうなるとなす術もなく、次々と討たれていきます。

さすがに、城将の塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は、槍を手に持ち応戦しますが、もはや、煙で、一寸先が見えない状態・・・近寄る者を斬って捨てた中に多くの部下の姿を見た掃部介は、「もはや、これまで!」と、妻子を斬り、自らも自害しました。

こうして、わずかの手勢で富田城を落とした経久の評判は、周辺諸国に一気に広まります。

一方で、京極氏が、時の当主・京極政経(まさつね)のもとで家臣団が分裂し、その勢力が衰えるという、経久にとってはラッキーな事もあり、政経の死後は、事実上、経久が出雲を統治する事となります。

その後、着実に領地を広げ、中国地方の覇者となっていく経久でしたが、途中、嫡男・政久(まさひさ)の死という悲しい出来事もありました。

永正十五年(1518年)に尼子に叛旗をひるがえした桜井宗的(そうてき)の居城・砥石城(といしじょう)を、息子・政久が大将となって兵糧攻めの最中、敵の矢に当たって亡くなってしまったのです。

一報を聞いて冨田城から駆けつけた経久は、まもなく宗的を討ち取りますが、すでに61歳になっていた彼には、期待の嫡男死は、かなりのショックでした。

亡き政久の嫡男・晴久(詮久)は、未だ幼く、次男・国久(くにひさ)、三男・興久(おきひさ)は、武勇は優れているものの、その器量は、経久のメガネに叶うものではありませんでした。

そこで、経久は、この後、自らの弟の久幸(ひさゆき・義勝)に家督を譲ろうとしますが、久幸は「総領の晴久が継ぐべき・・・我らが、後見人として晴久を盛りたてていくので、晴久の成長を待っていただきたい」と進言します。

「それならば・・・」
と、久幸の意見に従う経久でしたが、その事に不満を持ったのか、亨禄三年(1530年)、塩治を継いでいた三男・興久が叛旗をひるがえします。

この反乱は4年後の天文三年(1534年)に鎮圧され、興久も自刃しますが、この間に、尼子の配下となっていた安芸の武田氏友田氏大内氏に敗北し、あの毛利元就も尼子から大内に寝返り・・・と、中国地方の勢力図が徐々に変わりつつある中、経久は成長した晴久に家督を譲ります。

一方、これまでは、九州の大友氏との争いを重視し、東の尼子氏とは、まがりなりにも友好関係を築いていた大内氏が、ここに来て大友氏と和睦をし、逆に尼子氏を敵視しはじめます。

もはや両者の決裂が確実となった事で、早期に決着を着けたい晴久は、天文九年(1540年)、大内の参加となった毛利の郡山城を攻める事にします。

この時、27歳の晴久に、かの久幸は
「元就は智謀に長けた武将やから、血気にはやらず、じっくりと見据えてから事を起こすべきやで」
と進言しますが、そんな久幸を晴久は「尼子比丘尼(あまこびくに)とバカにしてその臆病ぶりを罵ったと言います。

すでに、その年齢から病気にふせっていた経久も、晴久を病床に呼び、
家が滅ぶのは、一族の不和から・・・この事を胸に刻んで、親類をいたわり尊敬して、わがままに驕ってはいかん!」
と、出陣をとりやめるよう説得しますが、もはや晴久は取り合いません。

出陣を前にして、兄・経久を見舞った久幸は、
「兄貴も、もうかなりのお歳ですから、僕も、潔く、かの地で討死する覚悟ですが、心残りは大将の器ではない晴久の事・・・僕ら二人が死んだら、この家が滅ぶのも、そう遠くないかも知れません」
と言い、二人は、涙を流しながら、別れの盃を交わしたのだとか・・・

3ヶ月以上に及んだ籠城戦で晴久は、案の定、元就に手痛い敗北を受け(1月13日参照>>)、久幸はその言葉どおり、晴久を最後まで守り抜いて討死しました。

その敗北と同じ年・・・天文十年(1541年)11月13日経久は静かに84歳の生涯を閉じました。

その昔、苦渋をなめた事で様々な経験を積み、飢えた者には食事を与え、凍えた者には衣服を与え、怪我をした者には薬を与え、討死した者の家族を保護するという、周囲への心配りが見事だったという経久・・・

病にふせるその目に、孫・晴久の敗北はどのように映ったのでしょうか・・・

また、彼の遺言ともいえる家が滅ぶのは、一族の不和からの言葉は、晴久の心に響いたのでしょうか?

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・・・では、ありますが、軍記物は、あくまで経久が主役で、主役を引き立たせるためか、晴久をかなりの愚将呼ばわりしていますが、現実には、晴久の時代が最盛期だったとも言われ、個人的にはそこまでの愚将とは思えませんが、この郡山城の敗北が、尼子氏にひとつの影を落とした事は確かかも知れません。
 

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2009年11月12日 (木)

長州を守るため~福原越後の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の福原越後が岩国の龍護寺にて自刃しました。

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福原越後(ふくはらえちご)は、周防(山口県)・徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の六男として文化十二年(1815年)に生まれました。

実名を元僴(もとたけ)と言いますが、越後の呼び名が一般的なので、今日は越後さんで通させていただきます。

六男なので家督を継げない越後は、長州藩士・佐世親長(させちかなが)の養子となり、嘉永四年(1851年)には長州藩の家老に昇進します。

しかし、佐世家が家老を継ぐ家柄ではなかったため、その後、藩の命令で、家老職の家柄である福原家を継承する事となり福原姓を名乗るようになります。

寡黙で温厚でありながら、決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老・・・彼の評判に、悪いところはいっさい見当たりません。

しかし、そんな越後が、「不忠・不義」と罵られ、最終的には藩主の命令で切腹して果てる・・・そんな悲しい運命をたどります。

そもそもは、幕末の動乱の中、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の先頭を走っていた長州藩・・・

それが、文久三年(1863年)朝廷内での公武合体(こうぶがったい・天皇と幕府の協力)派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王が、薩摩と会津の協力を得て、尊王攘夷派を朝廷から追い出すクーデターを決行したのです。

八月十八日の政変です(8月18日参照>>)

薩摩と会津の兵士によって封鎖された門から御所の中に入れない状態となった長州藩は、朝廷内の尊王攘夷派だった三条実美(さねとみ)らをともなって郷里へと、一旦、引き下がります。

しかし、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で、会津藩預かりの新撰組によって、何名かの藩士殺害された事をきっかけに、長州藩の積極派が中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都に押し寄せたのです。

この時、御所の蛤御門(はまぐりごもん・禁門)で最も激しい交戦があった事から、これを蛤御門(禁門)の変と言います。

この蛤御門の変の中心人物が、益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)、そして、今回の越後という3人の家老だったわけです。

とは言え、実際には、藩主・毛利敬親(たかちか・慶親)の命令であって、彼ら3人の家老は、それに従ったまで・・・交戦後の長州藩の陣地からは、藩主の刻印の押された軍令状が発見されているのですから、そこのところは疑う余地もないでしょう。

・・・で、ご存知のように、この蛤御門の変では、長州は手痛い敗北を喰らってしまう(10月21日・幕末の十七烈士を参照>>)わけですが、今回主役の越後さんは、この時、伏見の陣にて指揮を取っていて、その伏見で銃弾を受け、結局、御所へは行く事なく、戦線を離脱しています。

しかし、最も激戦となった蛤御門で、長州の放った銃弾が御所に命中した事に激怒した時の天皇・孝明天皇の態度で、事は、長州が思い描いていた以上の大ごとへと展開してしまいます。

勝つか負けるか・・・そのへんの判断を長州側がどこまで見通していたかどうかはともかく、少なくとも、この大軍を率いて京都を奪回しようという行為は、尊王攘夷のトップとしての行動・・・つまり、天皇のためにやってるわけです。

ところが、その天皇が激怒して、幕府に長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)を出してしまうのです。

天皇のためと思ってやった行動で朝敵となってしまった長州・・・。

一方、勅命を受けた幕府は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を総督に、越前(福井県)や薩摩など15万の兵を広島に集結させます・・・これが、第一次長州征伐です。

この出来事で、長州藩内の勢力図も大きく変わります。

それまでも、下関戦争(8月8日参照>>)の関係で分裂気味だった藩内は、この一件で保守派が牛耳る事になり、とにかく長州征伐を回避するために、恭順な姿勢をとる事になったのです。

その謝罪のために行われたのが、3人の家老の首を差し出す事でした。

彼ら、3人の家老が藩主に背いて勝手な行動をとって事件を起したので、彼らを処分しました・・・「だから許してね」って事です。

だからって、
「藩主ズルイ!」
・・・とは、言わないであげて下さい。

これは、藩主個人の意向ではなく、長州藩全体での決定・・・彼らは、もし、これで事が収まらなかったら、藩主はもちろん、その世継ぎまで犠牲にする覚悟で、朝廷と幕府への謝罪に徹したのです。

藩の存続のため、その犠牲となってしまった越後・・・切腹の直前には、無言のまま静かに一筋の涙を流したと言います。

元治元年(1864年)11月12日福原越後、切腹・・・享年・50歳でした。

彼らの死を以って、第一次長州征伐が回避された事がせめてもの救いかもしれませんが、誇り高き血筋に生まれた越後にとって、不忠の汚名を着なけらばならなかった事は、何より屈辱であった事でしょう。

そんな保守派に牛耳られた長州藩を大転換させるのは、高杉晋作のクーデター・・・越後の死から、わずか1ヶ月後の事でした(12月16日:高杉晋作、功山寺で挙兵を参照>>)
 

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2009年11月11日 (水)

かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで

 

今日、11月11日は、『下駄の日』という記念日らしい・・・

下駄(げた)の足跡が「11 11」に見えるところから、伊豆の国市観光協会が制定したのだとか・・・

なぜに?伊豆?
・・・という事はともかくとして、下駄の日なので、やっぱゲタの歴史と、それに関連して、以前から、どこかの話題にもぐり込ませようと考えていた日本人の歩き方についてお話させていただきます。

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下駄の歴史は、想像以上に古いです。

なんせ、弥生式の土器に登場しているのですから・・・

ただし、この頃の下駄は、日常にはいて歩く物ではなく、水田耕作用に造られた田げたという物で、いわゆる雪国のかんじきのように、泥田の中に足がもぐってしまわないようにするための下駄でした。

そして、もう一つ、大陸と交流するようになって、下駄のルーツのような物が輸入されたという説もあり、察するに、外国の物と日本の農業用のが入り混じって、やがては日常の履き物へと変化していったように思います。

それでも、しばらくは、洪水の時に使用したり、水濡れするような職場で使用されたりと、主に仕事用の履き物として使用されていた下駄でしたが、そんな下駄が日常的な履き物となるのは、江戸時代の中期頃から・・・

現在のような形になったのは18世紀初頭=宝永年間(1704年~1710年)であろうと推測されます。

その後、正徳年間(1711年~1715年)頃には塗りの下駄が流行し、文化文政の時代(1804年~1829年)にはポックリの流行・・・と、今の人気ファッションと同じように、時々の流行で新製品が生まれ、その中の良い物は定番として残っていくといった形で、デザインも多様になり、様々な工夫もされていったようです。

ただし、実際に、下駄を一般庶民の誰もが履くようになるのは、明治以降の事だそうで、やはり、それまでは、草履(ぞうり)草鞋(わらじ)というのが主流だったようです。

ところで、この日本の伝統的な履き物である下駄・草履・草鞋・・・これらの履き物すべてにかかとが無い事にお気づきでしょうか。

これには、日本人独特の歩き方・走り方が関係しているのです。

実は、日本人が現在のような歩き方・走り方をするようになったのは、明治以降・・・以前、靴の記念日』(3月15日参照>>)に書かせていただいたように、維新となって、真っ先に西洋式に移行したのが、新政府の軍隊でした。

当然、そのページにあるような西洋式の軍服や靴などの衣服だけでなく、軍隊の行進も、西洋の物を見習った歩き方に変えられたわけで、それが、現在の日本人の歩き方なわけです。

現在は、「外国から輸入された靴を日本人が履けない(サイズ違いは別ですよ)なんて事はないわけですが、当時、最初に輸入された靴を、徴兵された一般庶民が誰も履けなかったという事は、やはり、歩き方が違っていたからではないでしょうか。

では、なぜ、日本人は、西洋とは違う歩き方をしていたのか?

それは、日本の地形です。

目と鼻の先に山をひかえた日本人にとって、欧米や大陸のように、平坦な国土に張りめぐらされた平坦の道を歩くという事が少なかったのです。

古来より、細く曲がりくねった山道を歩いて来た日本人は、背筋をピンと伸ばして歩く事はなく、自然と前のめりになり、後ろ足のつま先で地面を蹴り、前に踏み出した足に体重移動して、さらにその前に進むという方式で、この歩き方だと、かかとは地面につきません。

なので、日本の履き物には、かかとがないのです。

そして、体重移動で前に進むという事は、自然と、手と足は、同時に前に出るわけで、現在の、左足が前に出た時に、右手が前に出る歩き方とは、まったく違う事がわかります。

この歩き方・走り方は『ナンバ』と呼ばれ、北京オリンピックのリレーで銅メダル獲得に貢献した末續(すえつぐ)慎吾選手が、アジア新記録を出したときにナンバ走りの動きを意識して走りました」と、答えた事から、一気にその名前が有名になりましたね。

そうなんです。

このナンバ・・・現在のスポーツ理論によれば、これを完璧にマスターすれば、数段早く、数段長い距離を、数段疲れずに歩ける(走れる)らしく、スポーツ選手などが、その歩き方・走り方を研究し、練習に取り入れて、より良い記録に挑戦しているのですが、悲しいかな、実際に、この歩き方のホンモノが伝承されていません。

古武術研究家の方の研究や、未だ残る狂言や歌舞伎の歩き方などから、「このような歩き方であったであろう」という推測はされてはいるのですが・・・確かに、体重移動などは、実際にその歩き方を見てみない限りは、再現できませんよね。

なので、現在研究中のナンバが、どこまで本物のナンバに近いのかは、未だ誰もわからないわけです。

そして、相撲のてっぽうなども、手と足が同時に出る事から、歩いたり走ったりだけではなく、力も強くなる=重い物も持てるのでは?とも言われているようですが、なんせ完璧に再現できないので、その効果は未知数です。

ただ、江戸時代の飛脚は、このナンバのおかげで、長距離を疲れずにいち早く移動できたとも言われ、それを聞くと、松尾芭蕉奥の細道で、異常に早く旅をこなした事もうなずけます。

改めて、「日本人、すごいゾ!」と自慢したくなりますね。
忘れられてしまった事が残念ですが・・・
 

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2009年11月10日 (火)

父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇

 

元禄九年(1696年)11月10日、第109代明正天皇が74歳で崩御されました。

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明正(めいしょう)天皇女帝・・・それも、第48代・称徳(しょうとく)天皇以来・・・859年ぶりの女帝です。

何年か前に、改定するのしないのと問題になった皇室典範により、明治以降は、男系男子の限られている天皇ですが、歴史上、日本には8人=10代の女性天皇がいらっしゃいます。

明正天皇は、その7人目の女帝・・・

これらの女帝・誕生劇は大きく分けて二つ・・・仮に安定型中継ぎ型とでもしときましょうか・・・

明正天皇が8人中7番目という事は、8人中6人の女帝が称徳天皇の奈良時代以前に誕生している事がわかりますが、最初の女帝となった第33代・推古(すいこ)天皇から、数えて16代目の称徳天皇まで、その半数が女帝という飛鳥~奈良の時代・・・。

最初の推古天皇は第32代崇峻(すしゅん)天皇・暗殺(11月3日参照>>)の後に・・・

第35と37代の2度天皇になった皇極(こうぎょく・斉明)天皇大化の改新(6月12日参照>>)前後に・・・と、血生臭い事件後に不安定な政権を安定させるために擁立された女帝

その後の、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇は、いずれも、皇位を継がせたい皇子が幼い場合、その成長を待つための中継ぎのための女帝です。

まぁ、最初の持統天皇は、中継ぎらしからぬ政治的手腕を発揮しますが、その根底にあるのは、皇位を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなり、未だ幼かった孫の文武天皇へと引き継ぐためです。

この中継ぎ女帝の誕生には、天皇が政治の中心だった飛鳥の前半が過ぎ、飛鳥後半になって徐々に力をつけはじめてきた藤原氏勢力の思惑も絡んでいます。

また、最後の女帝となった第117代の後桜町天皇も、(さすがに藤原氏ではないですが)次期天皇となるべき皇子が幼かった故の中継ぎ女帝です。

そんな中で、859年間の空白の最初と最後となった称徳天皇と明正天皇・・・このお二人は異彩を放ってます。

称徳天皇は第46代孝謙天皇と同一人物・・・そう、あの藤原仲麻呂(恵美押勝)道鏡がらみでその名を残す女帝で、どうあっても天皇の外戚(母方の実家)を手放したくない藤原氏の思惑で、女性として初めて皇太子となってから天皇の座についた人です(くわしくは7月4日参照>>)

そして、今回の明正天皇・・・この明正天皇の誕生は、藤原氏と同じく、天皇の外戚をゲットしたい徳川家と、その真意を察して意地の譲位を決行した第108代後水尾(ごみずのお)天皇前代未聞の天皇交代劇だったのです(今回と内容がかぶってますが良かったら後水尾天皇のページもどうぞ>>)

そもそもは元和元年(1615年)・・・大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家を滅ぼした徳川は、その直後に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布します。

これは、天皇の行動を幕府が監視・制限しようとする前代未聞の法律ですから、当然、天皇をはじめとする朝廷側が反発するのは当たり前・・・

しかも、後水尾天皇から見れば、先代の父・後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)の時代から、何かと親切に天皇家をたててくれていた豊臣秀吉の後継者を死に至らしめた徳川には、あまり良い印象を持てません。

そのため、後水尾天皇は、すでに慶長十九年(1614年)に決まっていた2代将軍・徳川秀忠と正室・お江(江与)の間に生まれた娘・和子との結婚を、ここに来て拒みはじめます

そうこうしているうちに、後水尾天皇と別の女性との間に1男・1女が誕生・・・激怒した秀忠が、天皇に退位をちらつかせたため、やむなく、元和六年(1620年)、天皇は和子との結婚に踏み切りました。

こうして、結婚から三年後の元和九年(1623年)に二人の間に生まれたのが女一宮(おんないちのみや)=後の明正天皇です。

まもなく、男の子も生まれた段階で、後水尾天皇は、はやくもその皇子に皇位を譲ろうとします。

それは、かの禁中並公家諸法度・・・これは、天皇の権限を制限してますから、後水尾天皇が天皇でなくなれば、その制限はうんと軽くなるわけで、幼い天皇の後ろで、存分に腕を奮う事かできます・・・一方の徳川家だって、もともと天皇の外戚になりたいための政略結婚ですから、その皇子が皇位を継ぐ事に依存はないはず・・・って事です。

ところがドッコイ!
この高仁親王が2歳になる前に死亡・・・後水尾天皇は、しかたなく、その姉の女一宮への皇位継承を打診しますが、これには徳川家がNO!

確かに、徳川家は天皇の外戚が欲しいですが、これだと、その欲しい度がいかにもあからさま・・・まさに、859年前に藤原氏があわてて孝謙天皇を即位させたカッコ悪さそのものです。

後水尾天皇と和子の間には、まだ男の子が生まれる可能性もあるのですから、ここで徳川家がそこまで急ぐ必要はありません。

「譲るよん!」
「いや、もうちょい 待って~」
と、やってるうちの寛永四年(1627年)、朝廷の決定した事を幕府が取り消すという天皇の面目丸潰れの事件=紫衣(しえ)事件が起こります(4月16日の後半部分参照>>)

さらに、寛永六年(1629年)、あの春日局(かすがのつぼね・お福)が、無位無冠の身分で後水尾天皇に拝謁するという、これまでの伝統ぶち破りをやってしまいます(10月10日の後半部分参照>>)

そのわずか1ヵ月後・・・後水尾天皇は、幕府に無断で、娘に皇位を譲ってしまいます

元正天皇の誕生です。

さすがに、「怒ってはるワι(´Д`υ)アセアセ」
・・・と感じた幕府は、「驚いた事ではあるが、ともかく叡慮(天皇のお考え)のままに・・」と返答し、幕府側の関係者を処分するだけで、あえて争いは避けました

その後、3代将軍・徳川家光によって院政が承認され、現役天皇の後ろで思う存分に腕を奮う事ができるようになった後水尾上皇も満足満足・・・朝廷と幕府の関係も、しだいに穏やかな物となっていきます

・・・という事で、明正天皇自身は、父の院政の下、直接政務に関わる事はありませんでしたが、なんせ、天皇の娘であり、将軍の姪っ子であるわけですから、その存在自体が、朝廷と幕府の関係修復に大いに役立った事は確かです。

そして15年間の天皇での期間を終えた明正天皇は、21歳で皇位を異母弟の紹仁(つぐひと)親王(後光明天皇)に譲りました。

押し絵などの手芸が大好きだったという明正天皇・・・天皇を引退した後は、父・後水尾天皇と母・和子(東福門院)とを連れ立って、父が設計した修学院離宮へ度々訪れ、家族仲良く過ごす事が多かったと言います。

政略結婚・・・しかも、あれほどのドタバタで結婚した後水尾天皇と和子さんが、娘を間に挟んで離宮で楽しく老後を過ごす・・・プライスレス

それもこれも、明正天皇の穏やかな性格を物語っているようです。

そんな明正天皇・・・元禄九年(1696年)11月10日74歳でこの世を去りました

この明正天皇という追号は、あの奈良時代の元明天皇と元正天皇の二人の女帝から、それぞれの一字をとったという事です。
 

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