2008年5月13日 (火)

太田道灌とライバル・長尾景春~用土原の戦い

 

文明九年(1477年)5月13日、あの諸葛孔明の再来とうたわれた太田道灌の、後半生の最大のライバルであろう長尾景春・・・この二人の一戦・『用土原の戦い』がありました。

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永享十一年(1439年)に起こった『永享の乱』(2月10日参照>>)において、第4代鎌倉公方・足利持氏が破れ、自刃しました。

しかし、その後、その持氏の遺児・足利成氏が、勝手に古河公方を名乗りはじめ、公方の座を奪回すべく関東一円で乱を連発し、大暴れしはじめたのです。

そのために、関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事であった太田道灌(どうかん・資長)が、その古河公方から関東を守るべく江戸城を建築・・・と、このお話は以前に書かせていただきました(4月8日参照>>)

当時、関東管領職をあずかっていたのは、その扇谷上杉家と山内(やまのうち)上杉・・・ともに上杉という同族の両家ではありましたが、その力関係においては、完全に山内のほうが上で、扇谷は、あくまで山内の補佐のような役回りでしたが、やはり、そこは同族・・・対立する事はなく、強力タッグを組んで、古河公方との激戦をこなしていました。

その山内上杉家の執事だったのが、長尾家です。

そんなこんなの文明五年(1473年)、一連の古河公方との合戦で、長尾家の当主・長尾景信が亡くなってしまいます。

・・・で、家督は景信の嫡男である長尾景春(かげはる)に・・・と、すんなり決まればよかったのですが、ここに物言いをつけたのが主君である山内上杉顕定(あきさだ)です。

執事とは言え、かなりの勢力を持っている長尾家は、主君から見れば少し不安・・・ここは一つ、嫡流への相続を止めさせ、その力を分散させるためにも、景信の弟・長尾忠景(ただかげ)に、家督を継がせようとしたのです。

当然、景春は、怒り心頭・・・主君・上杉相手に反乱を起す計画を立てはじめます

もともと、顕定が不安に思うくらいの力を持っていた景信の息子である景春・・・しかも彼自身がなかなかの勇将ですから、ひとたび、乱を起こす!と声をかければ、彼のもとには上杉に不満を持つ者たちが続々と集まってきます。

そして、文明八年(1476年)6月、乱の旗があがり、その勢力は徐々に拡大されていったのです。

  • これを『長尾景春の乱』と言い、用土原の戦いもその乱の中の戦いの一つです。

この状況を見て、「これはマズイ!」と思った道灌は、定正と顕定に・・・
「景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・とにかく、早く手を打たねば・・・」
と、進言するのですが、その時、定正と顕定は、来るべき古河公方との決戦をひかえて、武蔵(埼玉県)五十子(いかつこ)に布陣の真っ最中・・・。

「そんなモン、相手してられるか!こっちは、古河相手に必死なんじゃ!」
と、一蹴されてしまいます。

ところが、翌・文明九年の正月・・・その五十子の陣に、景春率いる2500騎が奇襲をかけたのです。

それ以前から、景春の反乱を知って、そっちに乗り換える者や、戦線を離脱する者が相次いでいたうえ、奇襲をかけられた事で、五十子の陣はあっけなく落とされてしまいます

命からがら上野(こうずけ・群馬県)へ亡命する定正と顕定・・・道灌も、彼らとともに一旦、上野へと向かいます。

勢いに乗った景春には、関東の国人や地侍が次々と味方になります。

その中には、太田氏に旧領を奪われていた鎌倉幕府の名門・豊島氏もいましたが、4月に『江古田・沼袋の戦い』で、この豊島氏を破った道灌は、何とか五十子を奪回し、定正と顕定を五十子に復帰させる事に成功します。

しかし、状況は未だ一触即発・・・しかも、景春側が明らかに有利な状況は変わりません。

この状況を一変すべく、チャンスをうかがう道灌・・・そこへ、景春が梅沢(埼玉県本庄市)に向けて出陣したとの知らせが舞込んできます。

文明九年(1477年)5月13日、知らせを聞いて即座に出陣し、景春の背後に迫る道灌・・・それに気づいた景春は、居城・鉢形城へと軍を戻そうとしますが、武蔵用土原(埼玉県深谷市)針金において、道灌の軍勢とぶつかります

その戦況は・・・
不意を突かれた形になった景春の軍勢は浮き足立ち、またたく間に総崩れとなってしまい、道灌にとってはラッキーな大勝利となったのです。

その後、鉢形城へと逃走した景春を囲んだ道灌でしたが、こんな時に限って、例の古河公方が動きはじめ、この時は、それ以上景春を追い詰める事はできませんでした。

この、道灌と景春との戦いは、途中、景春と同族の長尾為景(ためかげ・上杉謙信の父)らを巻き込みながら、翌年、道灌が鉢形城を落し、景春が古河公方を頼って落ち延びるまで、何度となく繰り返される事になりますが、景春が頼った古河公方も、その頃には、最初に大暴れした頃のテンションはなく、長期に渡る合戦続きでややお疲れ気味・・・。

結局、文明十四年(1482年)には、古河公方が両上杉氏と和睦する事になり、一連の合戦は終焉へと向かいます。

しかし、こうして一連のなりゆきを、最後まで、ご覧になってくださったあなた・・・
「両上杉は何やっとんじゃ!ガンバってんのは道灌ばっかりやん!」
と思いませんでしたか?

実は、そう思ったのは私たちだけではありません。

道灌の主君である扇谷上杉定正・・・彼も、この事に気づいていました。

道灌の強さに驚き、それに脅威を抱いた定正は、いつか取って変わられるのではないか?という不安にかられ、結局、道灌はこの主君の手によって、入浴中に襲われ、その命を落す事になるのです。

冒頭に書いたように、諸葛孔明の再来と言われるほど戦い方がうまかった道灌・・・お風呂での謀殺は、「そんな道灌らしくない死に方だ」と、よく言われますが、それだけ、合戦以外の場所で、主君に殺されるとは、考えてもみなかったのかも知れません。

入浴中は無防備だからなぁ・・・特にシャンプー中は要注意!ですね。

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2008年5月12日 (月)

ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2

 

今日は、明治二十四年(1891年)5月11日に起こった『ロシア皇太子襲撃事件=大津事件』の後半・・・・・・犯人である津田三蔵の処分についてのお話です。

昨日の記事がまだの方は、そちらから先に読んでいただいたほうがわかりやすいです・・・コチラから5月11日のページへどうぞ>>

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さて、その後もマスコミは連日のように書きたてます。

「こんな一巡査の軽率な行動で、ロシアの機嫌をそこねたら、どうするのか!国賊・津田三蔵をただちに処刑すべきだ!」と・・・。

もちろん、政府高官も同様です。

苦労して幕末の攘夷色をやっと払拭して、国際社会へと乗り出した日本が、また、外国から野蛮な国として色眼鏡で見られるような事にでもなれば、ロシアだけでなく、他の国との様々な交渉に影響を及ぼすかも知れません。

政府は直ちに動き始めます。

彼らの目的はただ一つ、一刻も早く裁判を終らせ、すみやかに犯人の津田を死刑にする事です。

その言い分は・・・
「刑法第116条:天皇や皇族を殺害、あるいは殺そうとした者は死刑」
という条項を、特例としてロシア皇太子にも適用し、津田を極刑に処すべきであるというもの・・・。

早速、5月18日には、本来なら、大津で起こったこの事件は、大津地方裁判所にゆだねるべきところを、現在の最高裁である大審院(だいしんいん)で扱い、しかも一審終審(裁判は一度だけで上訴を認めない)とする・・・という異例の発表するのです。

さらに、山田顕義(あきよし)司法大臣や西郷従道(つぐみち)内務大臣らが、大審院の裁判長や判事たちに、津田を死刑にするよう働きかけます。

しかし・・・
政府が躍起になり、マスコミがあおりたて、まさに、国民世論も死刑一色にに染まっていたこの時・・・ただ一人、冷静に、この事件を見つめている人物がいたのです。

当時の大審院の頂点である大審院長を務めていた児島惟謙(こじまこれかた)です。

彼は、「この大津事件に第116条を適用する事はあり得ない」と考えていました。

第116条では、あくまで日本の天皇と皇族・・・ロシア皇太子は、天皇でも皇族でもないのですから、適用されるべき物は一般の傷害事件・殺人未遂事件の法律であるべきです。

それを「特例」などと言って、無理やり適用するのはもってのほか、法令に特例なんてあって良いわけがありません。

まして、それが政府の圧力による物となれば、なおさらです。

児島は、政府側にかたよりつつあった裁判官や判事たちを集めて・・・
「俺らは、行政とは独立した司法を守るべき立場にある裁判官やないか。
政府の圧力に屈して法を曲げたら、もはや立憲国家とは言えん。
正義は私情より重いんやで・・・」

・・・と、説得。

児島の、この言葉を聞いて、裁判官や判事たちも冷静を取り戻します。
法令の解釈に私情を挟んだり、司法が行政に影響されたりなどは、絶対にあってはならない事なのですから・・・。

しかし、密かにスパイを放って、彼らの様子を探っていた山田と西郷は、公判開廷を明日にひかえた5月26日、何としてでも第116条を適用させようと、児島に会いにやって来るのです。

山田・西郷らと会見した児島は、当然・・・
「一時の感情で法を曲げる事は、立憲国家の崩壊を意味します。」
と主張します。

すると、西郷は・・・
「普通の殺人未遂で津田を裁いて、もしロシアが攻めてきたらどうなる!
ささいな法律のために平和が守れず、それこそ国家が崩壊してしまうぞ!」

「法律を守れない国家は、もはや国家ではありません。
ロシアとの関係がどうなろうが、それは裁判官の関わる事ではなく、行政の仕事・・・裁判官は、ただ、法律を守る事だけが仕事ですから・・・。」

司法と行政が分立していなければならない事は、誰もが知っている事・・・意見としては、児島のほうが筋が通っているわけで、反論できない西郷は、ハッタリをかまします。

「我々は、勅命(天皇の命令)で、こうしてアンタに会いに来ている。
あんたは勅命だと言っても承知しないのか?」

「たとえ、天皇のご命令でも、それが法律に違反するものなら、私は、その事を訴えますが、その今回の天皇のご命令というのは、“第116条を適用して津田を死刑にせよ”という内容なのですか?
私は、そのような内容の勅命が出された事は聞いてませんが・・・」

結局、西郷は反論できず、しぶしぶ引き下がり、そのまま、法廷へと突入します。

結果・・・
「謀殺未遂在・・・刑法第292条、第112条、第113条により、被告・津田三蔵を無期徒刑(無期懲役)に処す」
という判決が下されました。

第116条は適用されなかったのです。

何とか守られた司法権・・・しかし、津田を国賊と見なしていた国民世論は、さぞやお怒りに・・・と、思いきや、これが意外にも、司法の判断に拍手喝采の嵐でした。

あれだけ熱くなっていた政府とマスコミと国民の中で、一番最初に冷静に事のなりゆきを見ていたのは、他ならぬ国民だったのです。

なぜなら、昨日書かせていただいたように、ロシア皇帝は、ニコライ2世の帰国後、間もなく、「日本側の歓迎、事件後の対応に、大いに満足し、感謝している」との電報を送ってきていました。

当然、この事もマスコミは報道しますから、国民の間には「ロシアの機嫌をそこねる事は無かった=戦争にはならない」との安心感が生まれます。

そうすると、今度は、「法律を曲げてまで、無理やり津田を死刑にしようとしている政府って、何なの?」との考えに行き着いたわけです。

世論が傾きはじめると、マスコミは、今度は国民に同調・・・せっせと政府批判の記事を書きたてます。

結局、政府は、言論統制をおこない、政府批判の記事を載せている新聞の発行を停止させて、その場をしのぐ事になります。

やがて、ロシア皇帝は、今回の判決に満足している事を発表し、欧米諸国も日本の司法権が独立している証拠だと、判決結果を絶賛します。

政府が一番気にしていた、対・外国の日本への印象は、この判決結果によって、むしろ、良くなったのです。

こうして、とにもかくにも、一つの結果を見た大津事件・・・

しかし、児島は、一年後に起こった大審院判事らによる花札賭博事件の責任を追及される事に・・・後に、賭博事件はでっちあげだった事が発覚するのですが、それでも監督責任を問われ、結局、大審院長を辞職する事になってしまいました。

そして、一方の死刑を免れた津田三蔵ですが・・・
これが、判決の3ヶ月後に獄中で病死したというのです。

これには、後藤象二郎伊藤博文が、「刺客に殺害させ、病死したように見せかけよう」と密談していたなどのウワサもあり、きな臭さ満載のまま、闇から闇へと消えうせ、何とも後味の悪い結果に・・・

そんな津田三蔵・・・やがて、訪れる日露戦争の時には、「愛国の志士」として、再び、マスコミによって祭り上げられる事になるのですから、何だかお気の毒です。

もう、そっとしておいてあげてって気がしますね。
 

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2008年5月11日 (日)

ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・1

 

明治二十四年(1891年)5月11日、来日中のロシア皇太子・ニコライ2世が、警備中の巡査・津田三蔵に斬りつけられて負傷するという『大津事件』が発生しました。

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この日、琵琶湖で遊覧を楽しんだロシア皇太子・ニコライ2世は、京都のホテルに戻る途中の、滋賀県・大津にて、突然飛び出して来た暴漢に襲われたのです。

幸い皇太子は軽傷で、犯人もすぐに取り押さえられるのですが、その犯人が、なんと!皇太子を警備していた巡査の一人・津田三蔵・・・この事件が、当時の日本を震撼させた一大事件=大津事件です。

津田の叫実によれば、その動機は・・・
「ロシア皇太子は、日本を植民地にするため、その視察に訪れたと思った」
というのです。

この一巡査の行動に、驚きまくったのは、当時の明治政府・・・即座に彼を乱心者とし、極刑にすべく動きはじめるのです。

しかし、津田にそのような思いを抱かせたのは、他ならぬ政府であり、それに同調したマスコミでした。

当時、ロシアは世界屈指の強国・・・それまで、中央アジアへの領国拡大を狙っていましたが、すでにインドまで支配していたイギリスの抵抗を受けて、今、現在ではシベリア鉄道の開発に重点を置いていた事で、南への進出を断念し、今度は東西へと手を伸ばして来るのではないか?と政府は予測していたのです。

つまり、満州から朝鮮半島・・・そして、やがて日本へと・・・

そのタイミングでのニコライ2世の訪日・・・マスコミは連日のように、ニコライ2世の来日理由を「日本の国土・地形を探る目的である」とか、「日本の軍備を偵察するためである」とか、と書き立てていたのです。

政府がそう思い、マスコミが報道すれば、国民は当然「そうなのだ」と思い込み、人々は恐怖に包まれる事になります。

巷には、『恐露病(きょうろびょう)なんて流行語が飛び交うくらいだったのですから、犯人・津田が特別な思い込みを抱いて、彼だけが乱心したのではなく、むしろ、そんな恐怖におののいていた大勢の国民の中の一人だったわけです。

実際には、ニコライ2世の来日の目的は100%観光旅行で、エジプトからスリランカを経て、シンガポールやタイなどの東南アジアの各地を巡って、最後にやって来たのが日本・・・それも、彼は、当時ヨーロッパで大ベストセラーとなっていたフランス人作家・ピエル・ロティ『お菊さん』(長崎を舞台にした外国人と日本人女性のラブロマンス)という小説の大ファンで、日本の文化・・・特に日本女性に憧れまくって、自分もあわよくば、お菊さんのような日本人女性と恋に落ちて・・・なんて感じの、政治色ゼロのルンルン旅行だったのです。

Nikorai2ootucc 現に、皇太子は、長崎に到着してから、日本文化あふれる骨董品を買いまくりの芸者あげまくり!・・・その後やってきた京都のホテルでは、部屋の畳も「持って帰る~」と言って、すでに、畳30枚を自分の船に積み込み済み、さらに彫師を部屋に呼んで、右腕に龍の入墨まで入れてもらって、それまで上機嫌だったのですから・・・。

そんな中で起きたこの事件・・・明治政府も国民もパニック状態となります。

皇太子・本人はもちろん、ロシア皇帝のご機嫌を損ね、国際問題に発展し、かくなる上は一戦交えよう!」なんて事になったら大変です。

明治天皇は、一報を聞いた直後に、お見舞いの電報を送り、翌12日には東京を発って、13日には京都のホテルにて療養中のニコライ2世を、直接お見舞いするという素早さ・・・。

しかも、そこで、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王謝罪大使としてロシアに派遣する事を、即座に約束し、皇后陛下手づくりの包帯をプレゼント、さらに、「ホテルよりも、より安心な自分の船(神戸に停泊中のアゾヴア号)で、治療に専念したい」という皇太子の意向を聞いて、明治天皇自らが神戸まで同行して移動するという前代未聞の接待ぶりです。

国民も一致団結して、必死の対応・・・政党、県会などはもちろん、学校、宗教団体、銀行ほか各企業などなど・・・代表者が見舞いに訪れたり、謝罪の電報を送ったり・・・何と、電報は一日2万通を越えたのだとか・・・もちろん、首相の伊藤博文も直接お見舞いに行ってます。

これほど多くのお見舞いや電報が寄せられたのは、何とかご機嫌を取りたい政府のウラからの呼びかけに答えたものでありましたが、個人的にも、各・神社仏閣などでの治癒祈願・祈祷、料理屋での芸者・舞妓の鳴り物自粛など、自発的な行為もたくさんありました。

それだけ、皇太子の来日前にやたら恐怖をあおったマスコミのせいで、国民自身も恐怖に陥っていたのです。

そんな中、とうとう一人の犠牲者が出ます。

畠山勇子という27歳の女性が、ロシア皇太子へのお詫びと、明治天皇の苦悩を思った内容の遺書を残し、京都府庁の前で、かみそりにてノドを切断し、自殺をはかったのです。

これによって、マスコミ・世論は、ますます熱くなります。

自殺した彼女は英雄扱いされ、逆に、犯人・津田は国賊・・・津田の故郷の村の村会では、「今後、津田の姓三蔵の名を付けてはならない」なんて事が議決されてしまうほどでした。

やがて、皇太子は19日に帰国する事が決まり、政府は、その日に盛大な送別会を企画するのですが、皇太子はその誘いを断り、逆に、明治天皇を、「自身の船・アゾヴア号に招待したい」と言います。

すわ、「天皇をロシアで連れて行くつもりだ!」と、政府内が慌てふためく中、明治天皇は、堂々と、この誘いを受けたのです。

結局、それは単なる懇親会・・・天皇は、楽しい接待を受けて戻って来られたわけですが、さすがに、この決断には勇気がいった事でしょうね。

そこのところは、ニコライ2世も察していたようで、この明治天皇のアゾヴア号への訪問を大いに喜び、超ゴキゲンで母国に戻られたのです。

その後、ロシア皇帝からも、「日本側の歓迎、事件後の対応に、大いに満足し、感謝している」との電報も送られてきた事により、ひとまず、この事件によって、日本とロシアの関係が悪化するような事にはならなかったようです。

はてさて、スッタモンダのあげく、ようやく、一段落した大津事件ですが、ここで、終わりではありません。

そう、犯人・津田三蔵の処分です。

上記の通り、国賊扱いされた彼は、この先どうなるのか?

この記事の序盤で書いた通り、「ロシアのご機嫌を損ねてはならない」と、政府は、彼を極刑にしようと躍起になります。

しかし、これは、明らかに政治による司法への介入・・・罪を犯した犯人が裁かれるのは当然ですが、そこに、曲がった圧力がかけられては、正しい司法とは言えません。

この後は、被害者であるロシア皇太子のうかがい知らぬところで、新たなドラマが展開され、新たな主役にご登場いただく事になのですが・・・お察しの通り、記事が長くなりそうなので、そのお話は明日書かせていただく事にします。
 

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2008年5月10日 (土)

武田信玄と勝頼の年表

 

このページは、ブログにupした武田信玄・勝頼のエピソードを年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

ここにきて、信玄さんの記事がけっこう増えたのですが、ブログでは「今日は何の日?」という事で、日付に合わせて記事を書くため、カテゴリー表示などでは、年数が前後してとてもわかりヅライ・・・って事で、以前から、比較的多くのエピソードを書いている人物や事柄について、年表方式にまとめています。

左サイドバーに、『年表方式サイトマップ』として、リンクをつけていますので、このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。

年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Kamontakedaccn_2

 

 

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出来事とリンク
1548 2 14 上田原の合戦
 【信玄・痛手~上田原の合戦】
1550 9 9 戸石城・攻防戦
 【戸石崩れが山本勘助ヒーロー伝説へ?】
1553 4 22 更科八幡の戦い
 【川中島・前哨戦~更科八幡の戦い】
1559 4 27 上杉謙信が上洛・北信濃の平定を託される
 【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】
1561 9 10 第四次・川中島の合戦
 【鞭声粛々・川中島の戦い】
 【川中島の合戦はなかった?】
1568 12 12 薩埵峠の戦い
 【駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 13 今川館の攻防戦
 【今川館の攻防戦~駿河を攻略
12 27 掛川城・攻防戦
 【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 10 6 三増峠の戦い
 【三増峠の戦い~武田VS後北条】
12 6 駿河蒲原城を攻撃
 【武田信玄・蒲原城を奪取!】
1571 3 27 深沢城攻防戦
 【信玄・強気の深沢城矢文】
1572 3 2 重臣・秋山信友が岩村城を攻略
 【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
10 3 信玄・甲斐を発つ
 【武田信玄、上洛!】
12 22 三方ヶ原の戦い
 【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
1573 1 11 野田城・攻防戦
 【武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
4 12 武田信玄・没
 【武田信玄公の命日なので】
1575 5 21 長篠の合戦
 【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
1582 3 11 武田氏・滅亡
 【武田勝頼、天目山に散る】
番外編 【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【風林火山・孫子の兵法】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】

 

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2008年5月 9日 (金)

大江戸・プロフェッショナルな女性事情

 

今回は、『今日は何の日?』を、お休みさせていただいて、以前から書かせていただいていた『教科書に絶対載らないだろうシリーズ』の続き・・・【大江戸・堕胎業禁止令】5月2日参照>>)の時に、「近いうちに」・・・と追記させていただいていたプロフェッショナルな江戸の女性のお話をさせていただきます。

下ネタではありますが、これも歴史の一面という事で、お許しを・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前、三くだり半】(5月15日参照>>)のところで書かせていただいたように、こと法律においては、『大宝律令』の昔から、何となく男尊女卑感が拭えないですねぇ。

当時、世界最先端の大都市であった江戸でも、男性側からは、三行半の手紙一枚で離婚できるのに、女性側からは、昨日の豊臣秀頼さんの娘さんの作った駆け込み寺(昨日・5月8日参照>>)へ逃げ込んで、おかみのご沙汰を待たなくちゃならない・・・

・・・と、何となく女性が不幸なイメージがありますが、その三くだり半のページにも書かせていただいた通り、江戸時代の男女の比率は、だいたい3:1・・・つまり、男性全員が一人の奥さんとしか結婚しなくても、二人の男性が余ってしまうわけです。

まして、現在のように一夫一婦制が確立されていたわけではなく、お金持ちは平気で、何人ものお妾さんを囲う時代ですから、ますます男は余ってしまうわけで、女性の側から見れば選び放題・・・必然的に、男尊女卑をひけらかすような男はモテないわけです。

必死で彼女のご機嫌をとって、必死で彼女に嫌われないよう努める・・・それでも、彼女や奥さんを獲得した人は良いですが、上記の通り、絶対に余ってしまいます。

・・・で、当時大ハヤリだったのが、プロのお妾集団です。

これは、自分で見つけたカワイイ女性をお妾に・・・というのではなく、お妾が欲しいと思う男性が口入屋(くちいれや)に行って、そこの主人に頼み、主人は自分の知ってるプロの集団から、女の子を紹介するという物・・・。

この口入屋というお店は、ウラ稼業ではなく、れっきとした職業紹介所・・・今で言うハローワークみたいな物で、ちゃんとしたまじめな職業も紹介していた・・・というか、そっちがメインですが、同時に、こんな紹介もやってたんですね。

現代では、とても考えられない事ですが、当時は売春禁止法っつーのがありませんから、これも、一つの商売・・・売るほうも買うほうも、紹介するほうも、ビジネスと割り切ってのお付き合いなんでしょうね。

そんな中、『風軒遇記(ふうけんぐうき)という文献には、明和・安永年間(1764年~1781年)に、史上最悪のプロのお妾集団が存在した事が書かれています。

この集団の名は「通称:小便組」と呼ばれたそうですが、ここに所属する女性はいずれも美人揃いで教養も高く、中には武家の娘もいて、価格ランクも上の上・・・。

一両あれば、一年分の米を買える時代に、彼女たちは、契約時の支度金だけで三両~五両・・・もちろん、月々のお手当ても別にいるわけですから、ハンパじゃありません。

・・・という事は、やっぱり彼女たちと契約する男も、それなりにお金を持っている男でなくては、話になりません。

そして、首尾よく、お妾となる契約が成立したら、まずは、彼女たち・・・例のごとく上手に甘えて、お金やプレゼントをねだります。

高級感あふれる彼女たちですから、男のほうも張り切って、それに見合う高級な品々をプレゼント・・・やがて、散々金品を吸い上げた後、ころあいを見計らって、一緒に寝所に入った夜に、オネショをするのです。

突然の事にびっくりする男・・・そのただ一度で、冷めてしまう者もいれば、一度や二度は何とも思わない人も・・・そして、やたら怒る人もいますが、とにかく、相手が愛想をつかして、「もう、いらない」と言うまで、毎晩々々、オネショが繰り返されるのです。

中には、「小で効き目がないなら・・・」と、大をした女性もいたとか・・・。

・・・で、ようやく男が「縁を切りたい」と申し出たところで、高額の手切れ金を要求・・・そして、フリーになったら、また口入屋から紹介してもらって・・・という具合に、詐欺的行為で大儲け!

彼女たちの事が世間に知れ渡るまでの10年間ほどで、ガッポリと稼ぎまくったのたとか・・・そして、世間に、集団の事がバレるようになったところで、キッパリとやめてしまうところまで、まさにプロ・・・。

悪女に手玉に取られ、食い物にされた男性諸君が、その後、立ち直られたのかどうかが心配です。
 

やがて、江戸も後期の天保年間(1830年~1844年)には、「安囲い」というシステムが登場するそうです。

これは、「一人でお妾さんを囲うほどのお金持ちじゃないけど、やっぱお妾さんを囲いたい」という男性たちが集まって、何人かで一人のお妾さんを囲い、その費用をワリカンにしようという、「何て事するんだ!」と言いたくなるようなシステムですが、女性も承知して契約を結んでいた事を考えたら、何とも・・・。

やがて、黒船でやってきたあのペリーさんによって、「日本人は、平気で裸体を見せる未開な人種」と言われた事で、維新を成した明治政府は、混浴をはじめ、裸や男女関係に対する、それまでの日本の観念を払拭しようと、様々な事を禁止し、法律を定める事によって、国もそして、日本人自身も、明治以前の考え方が一掃される事になります。

しかも、この、明治の頃には、人口の男女比も、女性が男性の数を上回るようになっていたため、江戸時代のような事は無くなりました。

今では考えられないお妾さんシステムですが、現在とは、根本的に尺度が違いますから、同じ土俵の上で比べる事はできません。

・・・で、冒頭にも書かせていただいたように、これも、歴史の一面という事で、今日は書かせていただきました。
 

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