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2006年5月29日 (月)

呉服の日

 

今日は、語呂合わせでご)(ふ)(く)の日だそうです。

・‥…━━━☆

日本で、糸をつむいで織物を織って身にまとう・・・という、いわゆる着物を着るようになったのは、弥生時代頃からですが、それまでの縄文時代でも、べつに裸だったわけではなく、木や草など、植物の繊維から布のような物を作って着ていたようです。

最初は、むしろのようだった物がだんだんとやわらかい素材になっていったのでしょう。

古代のファッションに関する事で、これまでの常識が一気にくつがえされたのは、やはり『高松塚古墳』の壁画の発見でしょう。

Takamatudukahekiga600 高松塚古墳・女子群像

この色鮮やかさには驚きました。
特に女性がはいているスカート?のような物。

それまで教科書などに登場する古墳時代の人の着物の色はほとんど白に近い物でした。

でもこの美しい壁画を見ると、当時の人も色づかいに気をくばり、ステキなファッションをしていたんだ・・・という事がよくわかります。

色といえば、奈良時代は冠位によって衣の色も決められていましたしね。

平安時代になるとグッとおしゃれ度がアップします。

女性は十二単で、それこそカラーコーディネイトのセンスが問われました。

わざわざ、薄い透けて見えるような白の着物の下に真っ赤な着物を着て、淡いピンクに見せたりと、重ね着を楽しんでいたようです。
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2006年5月24日 (水)

義経の腰越状

 

文治元年(1185年)5月24日、義経は、腰越から1通の手紙を兄の頼朝に渡してほしいと、側近の大江広元にたくします・・・有名な義経の『腰越状』です。

・‥…━━━☆

ご存じのように源義経(みなもとのよしつね)は、一の谷、屋島と次々に平家に勝利し、ついに寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、壇ノ浦にて滅亡へと追い込みました(3月24日参照>>)

京に凱旋した義経は、それはもう大人気で、本人にとっても平家打倒は父の仇をとったわけですから、それを素直に喜び、ここに絶頂期を迎えます。

義経勝利の報を聞いた後白河法皇(ごしらかわほうおう)からは、義経のもとに勅使(ちょくし=天皇の使者)が訪れ、法皇の親衛隊長とも言える院の御厩の別(いんのみうまやのべっとう)に任ぜられました。

その後、そのルンルン気分まま、壇の浦で捕虜にした平宗盛(むねもり)たちを護送しながら(6月21日参照>>)意気揚々と兄・頼朝(よりとも)のいる鎌倉へと向かいます。

文治元年(1185年)5月15日に、相模の国(神奈川県)に入った義経は、「明日は鎌倉に参上します」と告げます。

ところが、頼朝は、北条時政(ときまさ=政子の父)を使者として捕虜だけを受け取り、義経には、鎌倉に入るなという命令を出すのです。

これには・・・

  1. 頼朝の承諾なしに朝廷から冠位を授かった。
  2. 三種の神器のうちの宝剣を得られなかった(2007年3月24日参照>>)
  3. 独創的で自発的な義経は合戦では役立つが、武士の統制をとろうとしていくうえでは、邪魔になる。
  4. 義経の人気と強さが怖かった。

・・・などなど、その頼朝の真意は、現在でもさまざまに取りざたされますが、『義経記』では、梶原景時(かじわらかげとき)
「日本の半分をよこせと言ってる」とか
「あれじゃ、子孫の代になったら反逆するだろう」とか
「屋島や一の谷でも勝手な事ばっかりやってわがままだ」とか、
さんざん義経の悪口を頼朝に言った事になってます。

まぁ、『義経記』は軍記物語なので、告げ口する景時が、めっちゃヤラシイ人みたいに少々オーバーに書かれてますが、その告げ口も、半分は誇張ですが半分は当たってる感あります。

実際に、平家との合戦のいくつかでは、義経は、全軍の統率を無視して、勝手な作戦に出る事も多々あったようです(2月16日屋島の戦い参照>>)

また、これから御家人の統率をとって行けねばならない頼朝にとって、鎌倉を無視して後白河法皇から冠位を授かった義経を、「弟だから…」と大目に見ていては、部下への示しがつかない事も確かですし、それをやっちゃう弟は、はなはだ危険です。

とにもかくにも・・・
この腰越で十日ほどの足止めをくらった義経は、文治元年(1185年)5月24日1通の手紙を書き、兄=頼朝に渡してほしいと、側近の大江広元(おおえひろもと)にたくしたのです。

それが、『腰越状』です。

Kosigoezyou2000 「腰越状」伝・弁慶筆(満福寺蔵)

「僕は、メッチャ頑張って朝敵(国家の敵)を倒しましたよって、本来なら賞賛されるべきところやのに、思わんところからの讒言(ざんげん=悪口)によって、大きな武功が無視されて、罪も無いのに罰せられて・・・
功こそあっても、誤りなんておませんのに、お兄ちゃんはご機嫌ナナメ・・・
毎日、血の涙を流して悲しんでますわ」

そのあとに、生い立ちから、現在までの苦労、頼朝への思いがめんめんと綴られた物でしたが、結局、頼朝からの返事はなく6月9日、義経はそのまま、空しく京の都に戻ります。

この後、ふたりの兄弟が会う事は、2度とありませんでした。

最終的に頼朝は、弟=義経に兵を向ける事になります(10月11日参照>>)
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2006年5月18日 (木)

ことばの日~「ことば」は変わる

 

5月18日は、語呂合わせで『5(こ)10(と)8(ば)の日』という記念日なのだそうです。

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4月2日の『図書館記念日』にも、チラッとお話しましたが、言葉というのは、常に変わっていくものです。

そして、その変わっていきかたが、面白い・・・

現在、日本の文化は、やはり首都・東京を中心に全国に広がって行く・・・と言うのが当然なのですが、不思議なことに、言葉だけは、今でも、関西から伝わって行く事が多いように思います。

あの、民族学者の柳田國男先生が発表した『蝸牛考』(かぎゅうこう)・・・

上方を中心に、まるで水面を波紋が広がっていくように、言葉が伝わって行って、それが今の方言だ、という考えです。

いくつもの山を越え、川を超え、何百年もかかって、言葉が伝わって行くのだそうです。

蝸牛考』が発表されてから、もう何年もたっていますが、私個人的には、このメディアの発達した時代、その伝わるスピードが増して何百年もかからなくなっているんじゃないかとすら思うんです。

たとえば、私が小さい頃・・・近所のオニイチャンが近くの駅前で、今で言う『ヤンキーずわり』をしていたのが気になって母に「○○兄ちゃん、こんなトコで何してんねんやろ?」と聞いたら、「ああ、アレは、ナンパ張ってんねん」と答えました。

その時に、蜘蛛が獲物捕るのに蜘蛛の巣を張るように、女の子つかまえようと、繁華街で男の子がたむろしながら、女の子探してる事「ナンパを張る」と言うのだと知りました。

母の母が戦前から使っていた言葉だそうです。

一方、1970年代も半ばになった頃には、東京でも、見知らぬ女の子に町で声をかけて誘うという意味で、ナンパが、使われるようになりました。
そして、それは現在も使われていますよね。

私は、今もナンパする物ではなくて、張る物だと思ってしまいます。

ドンクサイメチャメチャてんこもりまったり・・イントネーションが変わったり、意味が少し変わったりしながらも、言葉は、今も確実に西から東へ伝わって行ってるように思うんです。

そして、これから、ぼちぼち伝わって行きそうな気がするのが『はんなり』です。

まず、この『はんなり』には、直訳する標準語がありません・・・たぶん(私は、大阪人なので、標準語がしゃべれないので、もしかして、あったら教えてください)

はんなりとは、心地よい派手さを意味する「ほめ言葉」です。

『ほんのり』とゴッチャになって、淡いパステル色だと思ってらっしゃる方が多いですが、大阪弁の『はんなり』は、そうではなく、鮮やかな色の事・・・見方によっては派手な色の事なんです。

派手というのは、たとえば服なんかの場合、「その服派手やね」と言うと、服の色が鮮やかな色という意味プラス「あなたには似あってないよ」、というけなす=否定の意味が入ってますよね。

でも、ものすごく色鮮やかな服で、着る人によっては派手になるような服でも、その人には似あってる場合もあるわけです。

そんな時、大坂の人は「その服、はんなりしてるね」って言うんです。

そうすると、あざやかな色を表すとともに、とてもよく似あっていると、相手をほめてもいるんです。

逆はどうでしょう。

「その服、地味やね。」と言うと、くすんだ目立たない色プラス「似あってない」という、やはりけなす=否定の意味が入ってます。

でも、くすんだ目立たない色がステキな時もあります。

そんな時は昔から、大阪の人は、こう言います。
「その服、シブイなぁ」

シブイには、目立たないくすんだ色だけど、それが逆にカッコイイって意味が込められています。

そうです・・・この『シブイ』は、ここ何年か前から、東京でも使われ始めています。

やはり、はんなりが全国ネットになる日もそう遠くないのではないかと、思う今日この頃です。
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2006年5月14日 (日)

母の日の起こり

 

今日は「母の日」ですね・・・

「日頃のお母さんの苦労をいたわり、お母さんへの感謝を表す日」という事だそうです。

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その起こりは、
1907年に、アメリカは、ウエストバージニア州の教会で、アンナ・ジャービスという少女が、亡くなったお母さんの命日に、『母を偲ぶ会』を開いた事に始まると言われています。

その時、花言葉が『母の愛』だった白いカーネーションを霊前にたむけて、来てくれた人たちにもそのカーネーションを配ったのが、母の日に贈るカーネーションの始まり・・・

アンナの母が、この教会での日曜学校の教師をしていた事もあって、その「偲ぶ会」への出席者は、教会関係者や生徒の母親たちが多かったわけですが、母を思うアンナの気持ちに感動した彼らから「生きてる死んでるに関わらず、自分たちの母親に感謝する日があってもいいんじゃないの?」なんて声が・・・

そこで、翌年は5月10日に、同じく白いカーネションを使って「母に感謝する行事」を行ったのだとか・・・

その後、キリスト教で5月は、キリストの母である聖母マリアに捧げる『聖五月』という事もあって、徐々にその行事が各地に広がって行き1914年には、アメリカが議会で、正式に5月の第2日曜を母に感謝する『母の日』と定められました。

日本では、戦前は、皇后誕生日(地久節)の3月6日を母の日としていましたが、戦後、アメリカにならって、5月の第2日曜に行うようになりました。

ちなみに、世界では、アメリカや日本と同様に、5月の第2日曜が「母の日」という所が1番多いですが、まったく別の日の国も、案外、たくさんあるようです。
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2006年5月 8日 (月)

世界赤十字デー

 

世界赤十字の創設者、アンリー・デュナンの誕生日という事で、5月8日世界赤十字デーという記念日だそうです。

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スイス人アンリー・デュナンは、北イタリアでオーストリア軍対フランス・イタリア・サルジニア連合軍の悲惨な戦いを目の当たりにして、赤十字の創設を決意します。

そして1864年8月22日に、敵味方の区別なく、病人・けが人の治療にあたる中立と博愛の精神をうたったジュネーブ条約が調印されました。

その旗印として、スイスの国旗の色をさかさまにした物が使用され、白地に赤の十字という事で赤十字となりました。

ところで、この赤十字・・・万国共通かというと、実はそうではありません。

もちろん、中立と博愛の精神は、同じですが、アラブ諸国やパキスタンなどの多くのイスラム国家は、イスラムの象徴である三日月を使っているらしく、白地に赤い三日月の紋章は、その名も『赤新月社』と呼んでいるそうです。

イランは、太陽をバックにライオンの紋章で『赤獅子太陽社』です。
(現在、マークは変更されています)

これもお国柄という事でしょう。

旗印や名前は違っても、中立・博愛の精神は変わらず・・・万国共通で参りましょう。
 

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2006年5月 4日 (木)

ノストラダムスの大予言

 

1555年の5月4日に、ノストラダムス『諸世紀』なる書物を出版しました。

・‥…━━━☆

本当は、『レ・サンチュリ百詩篇集)という題名だそうで、日本では五島勉さん著の『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーになって、一躍有名になりましたね。

ちょうど、公害問題や世紀末が近づいたいた時期にぴったりはまった感じがありましたね。

この時期は、UFO超能力川口探検隊とか、不思議な事に関しての大ブームでしたし、やれアトランティスだの、ムー大陸だの、オーパーツだのと・・・

まぁ、そういう類いの話は、誰でも1度はハマる物・・・かく言う私も、ある一時期は、どっぷりハマってた事もありましたね~

しかし、今思えば、ノストラダムスのあの詩はどうにでも解釈できるし、何か、事が起こってから、この第○○番目の詩は、○○についての予言でした・・・って終わってから言われも・・・←予言の意味ないやん!先にわかれよ!ってね。

今は、こんなことが言えるくらい大人になりました(o^-^o)

でも、オーパーツに関しては未だにちょっと摩訶不思議な感じがありますね。

オーパーツとは、『場違いな遺品』という意味で、本来なら、そこにあるはずの無い物が、その遺跡から出土するみたいな??

たとえば、
ピラミッドの壁画に書かれている電球の絵とか、
南極大陸が発見されるず~と前に書かれたピリ・レイスの地図に南極が描かれていたりとか、
シュメールの遺跡から発見された古代の電池とか・・・。

しかし、それらも、もっと研究が進んだら、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』で、な~んだ・・・って言うような結果になるのかも・・・

結局は、謎は謎のままで解決されないっほうがロマンがあって良かったという結果になるやも知れません。

そんな事も言えるほど大人になりました(o^-^o)
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2006年5月 2日 (火)

丹後風土記の「浦の島子」の物語

 

和銅六年(713年)5月2日、元明天皇が諸国に風土記を命じました。

・‥…━━━☆

風土記とは、
地方の地理や、産物、風俗、伝説などが記載された地方誌・・・今で言えば地理事典、やわらかく言えば観光パンフレットのような物でしょうか。

これは、壬申の乱に勝利して天皇となった天武天皇(2月25日参照>>)、自らと、その子孫の家系が、この国を統治するにふさわしい血筋である事を、この国の歴史で以って正統化しようとした『古事記』『日本書紀』の編さんと、同時進行で進められるべき、中央集権国家の必須アイテム・・・

なぜなら、記紀で正統性を認められた天皇家が全国各地に編さんの命令を出し、それを受けた地方が、自国の名産品や歴史をまとめた物を提出する・・・つまり、その地方が、天皇の支配下にあるという事を意味しますからね。

・・・で、すでに失われた物や未発見の物、さらに疑わしい物も含めれば、この和銅六年(713年)5月2日の命令で、北は越後(新潟県)から、南は九州・壱岐対馬まで、55の風土記が編さんされたと言いますが、

さすがに原本はすでに無く、すべて写本ですが、現在に伝わっているのは5つ・・・ただし、ほぼ完本なのは『出雲風土記』だけで、『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国風土記』『豊後国風土記』の4つは一部欠損があります。

ところで、上記の中の『丹後風土記』に、あの「浦島太郎」のお話が紹介されているのをご存じでしょうか?

本日は、その『丹後風土記』の中の『浦の島子』の物語をご紹介したいと思いますが、このお話は養老四年(720年)4月21日に奏上された『日本書紀』にも、丹後地方に伝わる話『浦島子』として登場します。

この日本書紀の『浦島子』をもとにした話が、室町時代から江戸時代にかけて成立した『御伽草子』に掲載され、それが今、みなさんもご存知の『浦島太郎』の物語という事です。

なので、主人公の名前は苗字が浦島名前が太郎なのではなく、浦に住んでる島太郎(島子)なんですね。

また、丹後地方には、風土記だけでなく口伝えの民話として『水之江の島子』という話が残っていますが、この『水之江』というのは、水のある所という意味ですから、つまり海辺・・・で、海辺=浦ですね。

長い前置きになりましたが・・・
この丹後の民話や風土記に残る『浦島子』の話というのが、今、昔話としてみなさんがご存知の御伽草子の『浦島太郎』よりも、はるかに摩訶不思議でオモシロイのですよ。

まず、亀を助けません。

五色に光る亀が女の人(乙姫ではなく、亀姫という名前です)に変身し竜宮城ではなく常世の国へ行かれます。

もちろん、その国は海の底ではありません。

民話では、「海の上をず~っと行ってふわりと着いた」と表現しています。

風土記では『昴(すばる)』『畢宿(あめふり)と、具体的な星の名前まで言っちゃってます。

その常世の国で、例のごとく亀姫としばらく楽しく暮らして後、やがて島子は帰ってくるのですが、常世の国では、わずかな期間と思っていたのが、地上では、三百年経っていて、途方にくれた島子が、亀姫からもらった玉手箱ならぬ『玉匣(たまくしげ)という箱を開けると・・・(くわしくは8月5日参照>>)

民話では、開けたとたんに島子は空にすぃ~っと呑まれてしまいます。

日本書紀では、白鳥になって空に飛んでいきます。

風土記にいたっては、嘆き悲しむ島子を慰めるべく亀姫がその玉匣を使って声を飛ばす・・・つまり、遠くにいる亀姫の声が玉くしげを通じて聞こえて来るという、まるで携帯電話さながらの様相を呈しています。

オモシロイですね~

アインシュタイン博士の相対性理論によると、光速で移動する宇宙船の中では、時間がゆっくりと流れるそうな。

風土記や民話だけで、即、浦島子が宇宙旅行をした、というのは短絡的ですが、かと言って、1000年以上も昔の人が想像だけでこんな物語を思いつくのか、と言えばそれもまた首をかしげたくなるSFチックな物語です。
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