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2006年5月24日 (水)

義経の腰越状

 

文治元年(1185年)5月24日、義経は、腰越から1通の手紙をお兄さんに渡してほしいと、側近の大江広元にたくします・・・『腰越状』です。

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源義経さんは、一の谷、屋島と次々に平家に勝利し、壇ノ浦で滅亡へと追い込みました(ブログ・3月24日参照>>)。

藤原兼実の日記『玉葉』によれば、義経は都の人々にかなりの人気があったようです。

本人も平家打倒は父の仇をとったわけで、素直に喜び、後白河法皇からも褒めてもらえるし、検非違使の別当(京の都の警備を任される役の長です)にも任命されるし・・・で、ルンルン気分で、壇の浦で捕虜にした平宗盛たちを護送しながら、兄・頼朝のもとへやってきます。

文治元年(1185年)5月15日に、相模の国(神奈川県)に入った義経は、「明日は鎌倉に参上します」と告げますが、頼朝は北条時政を使者として捕虜を受け取り、義経には、鎌倉に入るなという命令を出しました。

それは、
①頼朝の承諾なしに朝廷から冠位を授かった。
②独創的で自発的な義経は合戦では役立つが、武士の統制をとろうとしていくうえでは、邪魔になる。
③義経の人気と強さが怖かった。

・・・など、さまざまに取りざたされますが、『義経記』では、梶原景時が「日本の半分をよこせと言ってる」とか「子孫の代になったら反逆するだろうとか「屋島や一の谷でも勝手な事ばっかりやってわがままだ」とか、さんざん義経の悪口を頼朝に言った事になってます。

めっちゃヤラシイ人のように書かれてますが、実際には頼朝さんは、家臣一人の悪口に心動かされるようなタイプの人ではなさそうですから、これはたぶん作り話で、何か深い理由がからみあってそうなったのでしょうが・・・

とにかく、ここで義経さん一行は十日の足止めをくらい、5月24日、腰越から1通の手紙をお兄さんに渡してほしいと、側近の大江広元にたくします。

それが、『腰越状』です。

生い立ちから、現在までの苦労、頼朝への思いがめんめんと綴られた物でしたが、結局、頼朝さんからの返事はなく、義経はそのまま京の都に戻ります。

この後、ふたりの兄弟が会う事は、2度とありませんでした。
最終的に頼朝は、義経に兵を向ける事になります(ブログ・10月11日参照>>
 

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江ノ電で江ノ島の隣の駅である腰越の近くに満福寺があります。小動神社と道路を挟んで反対側です。 [続きを読む]

受信: 2006年6月 9日 (金) 17時48分

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