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2006年6月30日 (金)

参勤交代、始まる

 

寛永十二年(1635年)6月30日、江戸幕府第3代将軍徳川家光が、先代・秀忠の時代に定められた『武家諸法度』を改定し、新たに参勤交代の制度を定めました。

・‥…━━━☆

将軍と大名の関係は、家光の代になって、やっと主従関係として定まったものの、未だ、いつ裏切るかわからない不安も残っていました。

そこで思いついたのが、各大名の妻子を、将軍のお膝元・江戸に、いわば人質として住まわせ、大名・本人は、原則一年交代で、国⇔江戸を往復させる・・・という参勤交代の制度です。

たしかに、この制度によって、全国的な文化の流通が始まり、各地の道路網も整備され、江戸の町に繁栄をもたらしましたが、各大名を悩ませたのは、その費用です。

もちろん、それは、将軍・家光の思うツボでもありました。

莫大な費用がかかる事により、藩の財政が圧迫され、軍備を整える費用もなければ、それだけ将軍家にはむかう者もいなくなるからです。

大名は、米や料理人も持参。
トイレもお風呂も持参します。

泊まる所は、『本陣』と呼ばれる各村の有力者の家がほとんどで、今も書いたように、米も料理人もついてきますから、いわば素泊まり・・なのにもかかわらず、現在のお金に換算して一泊、10万~30万円の謝礼金を払っていました。

ある大名は、一回の費用が1億2千万円掛かったと記録に残しています。

60万石の大名が60万石の費用を使った・・・という記録も残っています。
参勤交代だけで、一年分の稼ぎを使っちゃった・・・って事ですね。

なので、時代劇などのイメージだと、「したに~、したに~」っと行列を組んで、ゆっくり歩いてるイメージがありますが、あんな感じになるのは江戸の町に入ってからの事・・・大名行列は、一般人の旅をするスピードより1.2倍くらい早かった、と言われています。

それは、一日でも早く江戸(もしくは国)に着いて、費用を少なくするため、必死で歩いていんですね。

連れて行く人数も最小限にして、江戸の町に近づいた頃に、現地でバイトを雇って見た目をカッコよくつくろって、極力少ない費用で収めようと必死に努力してたんですよ。

お疲れ様です<(_ _)>
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2006年6月26日 (月)

清涼殿に落雷!菅原の道真の怨霊か?

 

延長八年(930年)6月26日、この五月、六月とほとんど雨が降らなかった事について、公家たちが殿上で話合っていた時の事・・・・突然、雷鳴が轟き、清涼殿の柱に落雷しました。

・‥…━━━☆

殿上にいた藤原清貫(きよつら)衣を焼かれ、胸を裂かれて即死
平希世(まれよ)顔を焼かれて倒れ込みました。

さらに、
紫宸殿にいた美奴忠包(みぬのただかね)頭髪を焼かれて死に
紀蔭連(きのかげつら)腹をかかえて悶え苦しみ
安曇宗仁膝を焼かれて倒れました。

また、
それ以前から起こっていた数々の悪しき出来事・・・。

人々は、藤原時平の策略によって、大宰府へ左遷され、悲痛の思いを抱いたまま死亡した菅原道真の祟りであると噂し始めます。

醍醐天皇はよほどのショックうを受けたのか、この日から病に臥せってしまいます。

菅原道真(すがわらのみちざね)左遷について【菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕】(1月25日参照>>)に書かせたいただきましたので、今日はその雷神として祀られた菅原道真が、なぜ、学問の神様となったのか?というお話を・・・。

『天満宮御伝略記』によると・・・

道真さんは、生前、第一に神を貴び、第二に親孝行して、主君にはよく忠義を尽くし、物を読み、物を書く事を好んだんです。

心正しく素直であったから、神となってからも、忠孝の道を守らない者を憎み、読み書きを嫌う者に恵みを与えてはくれません。

だから、常に親や師の教えを忘れず、主君には大切に勤め、心を正直に持って、読み書きに精を出して、天満宮のお心にかなうようにする、そうすれば、天神様は罰を与えないのだそうです。

これを聞くと、天神様におまいりしたから、学問の成績があがるのではなく、学問を頑張った人に天神様がご褒美をくれる・・って事なんですね。

やっぱり、楽して神頼みはダメか・・・

Dscn1967 北野天満宮の『なで牛』

 

 

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2006年6月25日 (日)

頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求

 

文治五年(1189)6月25日、源頼朝『泰衡追討の院宣』を要求しました。

・‥…━━━☆

『院宣』というのは、天皇(もしくは、それに準ずる人)の命令書

院宣があれば、その行為は正統で官軍とみなされ、戦争を起こそうが、相手を殺そうが、罪には問われません。

『泰衡』というのは、奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)ですね。

そもそもは、壇ノ浦の合戦にて平家を滅亡(3月24日参照>>)させた功労者である弟・源義経(みなもとのよしつね)が、鎌倉にて幕府を仕切る兄・源頼朝(よりとも)の許可なく勝手に冠位を取得した事など(実際には複数の原因があると思われますが)に激怒し(5月24日参照>>)、鎌倉に入れないどころか追討軍を派遣した(10月11日参照>>)事から、兄との戦いを決意した義経は、後白河法皇『頼朝追討の院宣』を要求・・・

そう、実は、文治元年(1185年)10月18日に、後白河法皇は、その要求通りに義経側に頼朝追討の院宣を下しているんですね。

つまり、この一時期は義経が官軍です。

なので、一般的に、この後の義経の船出を『義経の都落ち』と表現し、このブログでも、そのページには、そんなタイトルをつけさせていただいていますが、実は、義経が都を出る時点では「都落ち」ではなく、あくまで頼朝追討を視野に入れた挙兵のための船出だったわけですが、思うように兵は集まらず、しかも、船出直後に嵐に遭ってしまい、手勢は散り散りに・・・(11月3日参照>>)

これを見た後白河法皇・・・なんと、その義経の難破から1週間後の11月11日に、またまた要求されるがまま、頼朝に『義経追討の院宣』を下しています。

いや、「要求されるがまま」ではなく、むしろ後白河法皇の源氏分断の策略・・・さすがは日本一の大天狗です。

これで、一転、義経主従は逆賊の追われる身となり、近畿各地に身を隠しながら(12月20日参照>>)、やがて若い頃お世話になった奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)をたよって、東北へと向かうのです(2月10日参照>>)

秀衡は、義経や頼朝から見て父親のような年齢で、独自の経済力があり、その頃の奥州藤原氏は、言ってみれば独立国家のような物でしたので、義経が保護されている事がわかっていても、なかなか頼朝も手が出せずにいました。

しかし、文治三年(1187年)その秀衡が亡くなってしまった事により、状況は変わってしまいます。

早速、翌・文治四年(1188年)2月21日、再び頼朝に『義経追討の院宣』が下り、さらに、もう1度・・・10月12日にも院宣が下されます。

大黒柱を失った奥州藤原氏・・・しかも、何度も院宣が下った事で、その内部では、「亡き父の意思を継いでかくまう派」と、「天皇の命令なんだから討つ派」に、意見が大きく分かれます。

そんな中、家督を継いだ長男の泰衡は、朝廷をバックに持つ頼朝に恐れをなし、反対する弟を殺してまで、義経追討の判断を下します。

そして文治五年(1189年)、衣川に義経を攻めて自害に追い込んだのです(4月30日参照>>)

ところが、義経の死のわずか2ヶ月後の文治五年(1189)6月25日頼朝は『泰衡追討の院宣』を要求するのです。

思えば、奥州制圧は、あの八幡太郎義家の頃からの源氏のなんやかや(11月14日参照>>)が込められているわけで・・・

頼朝さん、ひょっとして、義経うんぬんより、むしろ、コチラがメインでは???

・・・と、そのお話は、8月10日の【阿津賀志の戦い】でどうぞ>>
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2006年6月24日 (土)

大海人皇子・吉野出発で壬申の乱勃発

 

白鳳元年(672年)6月24日、大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)は、舎人二十余人、女官十余人と妃・鵜野讃良々皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)を、つれて滞在中の吉野を出発しました。

これが、事実上の壬申の乱の始まり、古代最大の内乱の勃発です。

・・・・・・・・・

複雑な細かい事情はあるものの、一言で言うと、叔父と甥の天皇・相続争いです。

天智七年(668年)に即位した第38代・天智天皇(中大兄皇子)

翌年の669年に、弟の大海人皇子を皇太子に任命しますが、いつしか、日々成長しつつある息子の大友皇子に、皇位を譲りたいと考えるようになっていたと言われています。

その事は、いずれ周囲にも伝わり、宮中も、自然と大海人派と大友派に2分されていきます。

671年の秋に、天智天皇が病に倒れたのをきっかけに、派閥争いは表面化・・・危険を感じた大海人皇子は、側近をつれて吉野に入ります(くわしくは10月19日参照>>)

この、危険を感じた時に『吉野に入る』というのは、この時代の習慣のようで、645年の蘇我入鹿・暗殺事件(6月12日参照>>)の時にも、中大兄皇子の兄で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(6月14日参照>>)が、事件の後、危険を感じて吉野に入っていますが、彼は、その後、中大兄皇子の計略により、謀反の罪で死刑になります。

古人大兄皇子は、どちらかと言うと『逃走』のような感じでしたが、大海人皇子の吉野入りは、それとは少し違い、「虎に翼をつけて放すような物だ」とまわりからウワサされるくらい危険なにおいのプンプンする物でした。

案の定、天智天皇の死後、たった半年で、こうして吉野を出発・・・乱が勃発する事になります。

とにかく、大海人皇子側の行動が素早い!

大友皇子側のほうは、結局すべての行動が後手にまわってしまい、太刀打ちできない・・・といった所でしょうか。

このお話の続きは2010年6月25日のページへどうぞ>>
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2006年6月20日 (火)

天慶の純友、瀬戸内に散る

 

平家物語の冒頭、有名な『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の・・・』の文の後に『・・・近く本朝をうかがうに、承平の将門、天慶の純友、・・・』と続く。

承平の将門は、ご存知『承平の乱』を起こした東国の雄・平将門(たいらのまさかど)(2月14日参照>>)です。

常に、将門と並び称される瀬戸内の雄、『天慶の乱』を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも)が、本日の主役。

天慶二年(939年)、伯父との領地争いに勝利して、その勢いで関東一円を支配下に納めた平将門は、自ら「新皇」と名乗り、関東の独立を宣言しますが、そもそも、それ以前に、海上交通の要所だった瀬戸内海に出没する海賊を制圧させるべく、朝廷から派遣された伊予の国司が藤原純友であったのです。

・‥…━━━☆

ところが制圧どころか、逆に伊予の国・日振島を本拠地とする海賊の首領になって、伊予の国はもちろん、大宰府までも攻め落としていきました。

そして、将門の「新皇」宣言と同時期に、京の近くで神出鬼没しだしたのです。

朝廷では
「将門と純友は、共謀して反旗をひるがえした」
「西から純友が海賊を率いて上陸、東から将門が大軍を率いて上洛」

などと、ウワサが流れ、あわてて純友に冠位を授けよう・・・などの行動にでる始末。

しかし、情勢は急転直下します。

天慶三年(940年)希代の英雄・藤原秀郷(ひでさと=俵藤太)平貞盛将門を討ち取ってしまい(2月14日参照>>)急遽、純友は京突入を断念。

将門の乱を鎮圧した事に勢いづいた朝廷は、純友鎮圧軍・源経基小野好古を送り込んできたのです。

明けて天慶四年(941年)の6月20日純友は瀬戸内海を逃げながら、伊予に帰ったところを討たれてしまいます。

将門と純友の反乱は、短い間でしかも失敗に終わりましたが、反乱を起こした側も、鎮圧した側も、ともに武士であった事が大きな意味を持っています。

朝廷は、右往左往しながら命令を出しただけで、実際に動いたのは武士たちです。

この事で、朝廷への信頼は一気に失われ、まさに武士の時代の幕開けとも言える出来事でありました。
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2006年6月19日 (月)

元号のおはなし

 

大化元年(645年)6月19日、日本で初めて元号・大化が定められました。

・‥…━━━☆

かの『日本書紀』には・・・
孝徳天皇即位(6月14日参照>>)の記録に続いて、6月乙卯(19日の事)のところに、天豊材重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと←皇極天皇の事です)の四年を改め、大化元年とす」と、大樹の下で、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が誓った事が書かれています。
(↑天皇ちゃうんかい!)

元号はもともと中国の物で武帝建元という元号を始めて使ったのに習った物です。

昔は、元号を定めるにあたっては、まず、学者が文字を選んで、次に吉凶を占い、それを天皇に奏上して、天皇が署名し、天下に発表するという順番でした。

現在のように、天皇一代ごとの元号が変わるようになったのは、明治時代からで、それ以前には、天変地異が起こったり、疫病が流行ったりした時に、その悪い部分を払う意味で年号を変える・・・という事が多くありました。

この元号、本家の中国では、すでに廃止され、日本でも賛否両論いろいろありましょうが、政治や思想で考えだすと、ありとあらゆる意見が出て、決着が着きそうにないので、個人的には、是非とも、残していただきたいと思っておりますが、どうでしょうか?

Dscn0512a

難波宮・大極殿(復元)

 

 

 

 

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2006年6月18日 (日)

『父の日』事始め

 

6月の第3日曜日は、父の日ですね。

アメリカは、ワシントン州ジョン・ブルース・ドッド夫人という方が、男女同権の観点から、母の日に対して、父に感謝する行事を行ったのが最初と言われています。

・‥…━━━☆

歴史はまだまだ新しく、1936年に、ニューヨークに全米父の日委員会ができてから、徐々に盛んになっていきました。

日本では、昭和二十五年(1950年)頃から、普及し始めましたが、まだ、母の日ほど盛んではありませんね。

どことなく、影が薄い感じがします。

母の日のカーネージョンに対し、父の日はバラの花を贈ります。
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2006年6月17日 (土)

義経と弁慶、運命の出会い

安元二年(1176年)6月17日、義経と弁慶が運命の出会いを果たします。

・・・・・・・・・・・

京の五条の橋の上~大の男の弁慶は~
 長いなぎなた振り上げて~牛若めがけて斬りかかる~♪

・・・と歌にも歌われ、時代劇では、定番の名場面ですね。

昨年の大河ドラマでも、桜の花びらが舞い散り、とてもきれいなシーンに仕上がってました。

・・・でも、残念ながら、これはフィクション。
本当の、二人の出会いは堀川通と言われています。

義経の幼名・牛若丸も、3年前に遮那王(しゃなおう)に改名し、その翌年には、平泉へ向かう途中の熱田神宮で元服も済ませており、名も義経と名乗っていて、年齢も18歳ですから、幼さは無く、もうりっぱな大の男でした。

でも、道端で戦ってたんじゃ、義経のすばしっこさが、うまく表現できないし、名前も遮那王・義経だと、なんだかもともと強そうだし、ドラマや歌にするんなら、子供のような牛若丸と、豪傑感プンプンの弁慶のほうがずっと盛り上がりますから、ぜんぜんいいんですが、私が気になるのは、翌日の弁慶が正式に義経の家来となるシーンです。

弁慶は、この17日の最初の出会いの時、義経の太刀を奪えなかったばかりか、軽くあしらわれた事が悔しかった・・・

で、たまたま翌18日が清水の縁日の日だったので、「沢山の人がやってくる、ひょっとしたら昨日の男も来るかもしれない」と、狙いを定めて、清水寺の正門の前で仁王立ちで待っていたんですね。

Kiyomizuww720 清水寺・仁王門

そこに、弁慶の予想通り義経が登場。

義経が、「せっかく来たので、先にお経を読ませてくれ」と言うので、ふたり一緒に御堂へ・・・その後、昨夜の続きを・・・という事で、切り合いが始まるのですが、その場所が、なんと清水の舞台

そこで大立ち回りの末、弁慶の上に義経が馬乗りになって、「どうだ!参ったか!わしの家来になるか?」と聞くのです。

このシーンが今まで一度もドラマに登場しないのが、個人的に不思議でなりません。

けっこう、ドラマチックだと思うんですけどねぇ~・・・決闘の場所があの清水の舞台ですよ。

まぁ、この清水の舞台の話も、室町時代に書かれた『義経記(ぎけいき)によるフィクションっちゃぁ、フィクションなのでしょうが、いつか、このシーンをドラマでやってくれないかな~と、一義経ファンとして思っている次第です。

ちなみに、史実として義経が歴史上に登場するのは、頼朝軍より先に京に入った木曽(源)義仲を討つために、鎌倉側の軍が宇治川にやって来る(1月16日参照>>)寿永三年(1184年)頃から・・・義経26歳の時ですね。

もちろん、弁慶の登場もこの時・・・

ドラマなどで描かれる場合、その宇治川の合戦以前の義経の事は、ほとんど『義経記』をもとにしたエピソードなわけですが、この『義経記』自体が鎌倉時代の成立とは言え、史実をもとにしているよりは、フィクションを交えたワクワク感重視のヒーロー物語なので、史実とは、ちと違う感じ・・・

しかし、その『義経記』でさえ、義経と弁慶が出会うのは、義経が「打倒平家!」の思いを抱いて鞍馬を出て、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って、一旦平泉へ行ってから後の事なので、少年=牛若丸というイメージでは無いですけどね。

もちろん、小説やドラマとしては、か弱そうな少年=牛若が、ゴッツイ弁慶を倒すところが、絵になる見せどころなので、それもアリですが・・・

よろしければ・・・妄想満載の【義経と牛若は同一人物か?】もどうぞ>>
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2006年6月15日 (木)

すき焼きは、日本=国際的の証?

 

1963年(昭和三十八年)6月15日、坂本九さんが歌った『上を向いて歩こう』が全米ヒットチャートで1位を獲得しました。

・・・・・・・・・・・

ご存知の方も多いと思いますが、この曲はアメリカでは、『スキヤキ』という曲名で、親しまれています。

なぜ、『スキヤキ』になったかというと、この曲をアメリカで最初に紹介したラジオ番組のDJが、「歌詞の内容は理解できなかったが、曲の雰囲気が以前、日本ですき焼きを食べた時の、みんなで鍋をつつくあの楽しさを思い出すような曲だったので」と言っているのを聞いた事があります。

もちろん、そこには、すき焼きが日本を代表する料理だったという事も含まれています。

よく「日本はもっと国際的にならなければいけない」というのを聞きますが、私個人的には日本はとっくの昔から、世界で1位2位を争う国際的な国だと思うんです。

それが、この日本を代表する料理=すき焼きです。

日本を代表する料理って何ですか?
と外国人に聞かれたら、ほとんどの日本人は、「すき焼き・天ぷら・すし」って答えませんか?

この3つに中で、純粋の日本生まれは、すしだけですよね。

琵琶湖名物の鮒鮨に見られるような、いわゆる『なれずし』・・・魚と魚の間にお米を挟んで発酵させて保存食とした物が原型です。

天ぷらは、戦国時代にオランダから伝わった物・・・小麦粉のCMで、「オランダのテンペロがなまったと言われる天ぷらは…」というフレーズで、みなさんご承知の事と思います。

すき焼きにいたっては、ご存知のように明治維新の後です。

それまで日本人は、牛を食する事はありませんでした。
それが、開国してまもなく、横浜の名物になっています(1月24日参照>>)

外国から入って来た物が、その国を代表する料理になるって・・・あまり聞いた事がありませんね。

明治維新だけではありません。
日本は、古代から国際的だったと思うんです。

その一つは文字
漢字というのは、その名のとおり中国の文字です。

それまで、日本に文字がなかったとも言われていますが、一方では、神代文字大和文字などさまざまな文字が存在したとも言われます。

にもかかわらず、他国の文字を使用し、しかも漢字からカタカナひらがなという独自の文字を発明し、音読みと訓読み&おくりがなを駆使して自国の言葉を表します。

そんな国、他にあるんでしょうか?

そして、もう一つは宗教です。

日本には神話があり、天皇は神様の子孫・・・なのに、その天皇が奈良時代になるとお寺を建立します。

神が仏の姿になって現れるなどという考えも生まれたりします。

こんな国、他にあるんでしょうか?

ほとんどの日本人は、生まれると神社でお宮参りをし、神様の前で結婚式をあげ、死んだらお坊さんにお経をあげてもらいます。

お正月には神社に初詣に行き、お彼岸には墓参りをし、お盆にはご先祖を敬い、クリスマスにはツリーを飾ります。

日本って、昔からとても国際的だと思うんですけど・・・どう思いますか?
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2006年6月11日 (日)

平清盛と厳島神社

 

承安二年(1172年)6月11日、平清盛厳島神社に法華経十巻を奉納しました。

・・・・・・・・・

厳島神社は、ご存知『日本三景』の一つ、安芸の宮島にある有名な神社です。

創立は、推古天皇の頃(600年頃)と伝えられていますが、現在の規模になったのは、やはり安芸守(あきのかみ)平清盛の造営によるものです。

清盛が法華経を奉納した承安二年(1172年)と言えば、その年の2月10日、娘の徳子が高倉天皇の中宮になった年です。(12月13日【建礼門院・徳子の忌日】参照>>)

その高倉天皇の母親は、清盛の奥さん・時子の妹・建春門院滋子でしたから、まさに、平家全盛の真っ只中!

耳聞(みみきき)の禿童(かむろ)と呼ばれるおかっぱ頭の少年たちが、スパイとして都の随所に放たれ、時には宮中にも出入りして、反平家の火種がないか探りを入れていたと言われます。

ちょっとでも平家の悪口を言おう物なら、即しょっぴかれる、まさに、『平家にあらずんば人にあらず』の時代でした。

しかし、そんな全盛の清盛に、たった一つの不安・・・。

それは、自分の健康です。

4年前の仁安三年(1168年)大病をわずらった清盛は、結局は太政大臣の座を退いて出家せざるを得ない状況に陥っています。

幸い、病気から回復したものの、「もう一度そのような事があってはならない」という思いが、この時期の法華経の奉納という行為につながっていったのだという事でしょう。

瀬戸内の航海の守り神としてあがめられてきた厳島神社。

朱塗りの柱が、海の青さと相まって、平家全盛の昔を偲ばせ、何とも言えない美しさと憂いを感じさせますね。
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2006年6月 9日 (金)

百姓の叡智・加賀の一向一揆

 

長享二年(1488年)6月9日、加賀に一向一揆が起こり、守護の富樫正親を自害に追い込みました。

・・・・・・・・・・

そもそもは、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をきっかけに、加賀の守護大名だった富樫家が、教家(のりいえ)泰高(やすたか)の二流に別れて、守護職を争い始めました。

そこに北加賀・半分の守護に任ぜられた赤松政則(まさのり)も加わり、血みどろの戦いが繰り広げられていたのです。

応仁元年(1467年)に起きた応仁の乱(5月20日参照>>)でも、富樫政(とがしまさちか)と赤松政則は東軍の細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)は西軍の山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていました。

以来、加賀の国の農民たちは、ず~っと富樫家の内部争いに悩まされ続けていたんです。

戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出される・・・農民たちは、たまったもんじゃありません。

それでも、それまでの農民たちは、ただ黙って泣き寝入りするしか手立てはありませんでしたが、この頃の、そしてこの北陸・加賀の農民は違っていました。

浄土真宗の教えによって団結すれば、強い集団になれる事に気づいたのです。

真宗の布教のため、北陸各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)は、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めていました。

農民たちにとって、道場は信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあった・・・ここに、農民たちは、一致団結し、組織として活動するようになったのです。

文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・これが、最初の加賀一向一揆である文明一揆です(7月26日参照>>)

しかし、実は、その団結力は、政親にとっても脅威・・・結局、幸千代に勝利した政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかるのです
(2月18日参照>>)

ますます過激になる本願寺門徒・・・そんな過激な行動に反対する蓮如は、とうとう吉崎を後に(8月21日参照>>)、以後、蓮如は、大坂を拠点にする事にします。

やがて訪れた長享元年(1487年)・・・近江(滋賀県)にて六角氏と戦う第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)(12月2日参照>>)の出陣要請を受けて、政親が近江へと向かいます。

これをチャンスとみた一揆勢が活発に動き始めると、慌てて戻って来た政親が、更に弾圧を強化・・・すると、一揆勢は、富樫一族の中でも、政親と対立していた泰高を総大将に擁立して、政親の高尾城を取り囲んだのです。

長享二年(1488年)6月9日南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に20万人ほどの大軍となって高尾城に押し寄せる一揆勢・・・

この時、政親とともに高尾城を守る城兵は、わずかに1万・・・籠城側を圧倒するその数に、もはや、どうしようもなくなった政親は自害します。(2016年6月9日参照>>)

これが長享一揆と呼ばれる加賀一向一揆最大の一揆・・・ここに、約100年間に渡る百姓の持ちたる国が誕生する事になります。
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★一揆の方法や惣について6月9日【一味同心・一揆へ行こう!】で書いています>>>

★加賀一向一揆の終焉については3月9日【金沢御坊・落城~加賀一向一揆にの終焉】でどうぞ>>
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2006年6月 8日 (木)

『うだつ』があがらない

 

毎月8日は、漢字の『八』が屋根の形に似ていることから、『屋根の日』という記念日なのだそうです。

そこで、『屋根の日』にちなんで、今日は建築に関係ある『豆知識』をひとつ・・・。

・‥…━━━☆

よく、立身・出世のできない人の事を、『うだつがあがらない』と言います。

このうだつとは、うだちの変化した言葉で、『梲』または、『卯建』と書きます。

漢字が2種類あるのと同時に、この「うあだつがあがらない」の語源とされる物も二つあります。

のほうは・・・
(はり)の上に立てて、屋根の棟木(むなぎ)を支える短い柱の事を言い、

棟木にいつも頭を抑えられていて、これ以上頭が上がらないので、出世できない人の事を『梲があがらない』と言うようになったそうな。

卯建のほうは・・・
江戸時代になってから、建物の外壁などから防火のために張り出して造られた壁の事で、これは、お金持ちでないと、設置できない物だったそうです。

それで、『卯建が造れない=お金がない』という事で、『卯建があがらない』というようになったんだそうですよ。
 

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