無事故の世づくり大化の改新
皇極天皇四年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて、時の権力者・蘇我入鹿が暗殺され、大化の改新の幕が切って落とされました。
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翌日には、入鹿の父・蝦夷が自宅に火を放って自殺し、皇極天皇の息子・中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が中心となって、蘇我氏の宗家を滅亡に追いやったこの事件を乙巳の変(いっしのへん)と言います。
この乙巳の変と、新政権による班田収受法や戸籍の制定など、律令国家への改新の詔も含めての総称が大化の改新です。
・・・と言っても実際にはなかなか改革も進まず、結局は律令制度が確率するのは、701年の大宝律令ができる頃なので、大化の改新が行われた・・・というよりは、最初に書いたように、大化の改新が始まった・・・とするのが、正解でしょう。
日本書紀に書かれたとおりの入鹿暗殺事件や大化の改新については、『HP:京阪奈ぶらり歴史散歩』で、くわしく書いていますので、ここでは別の観点から・・・。
意地悪な目で、この一連の出来事を見ていくと、ど~も納得いかない事がちらほら出てきます。
まず、クーデターを起こした中心人物が、時の天皇の息子である事。
クーデターとは、政権のないグループが政権を握っているグループにとって変わるために起こす事で、はたして皇極天皇は、そんなにも実権がなかったのでしょうか?
蘇我氏の権力が強かったとも思えますが、入鹿の父が蝦夷、その父親が馬子、その父が稲目。
この稲目の時代には、まだ蘇我氏より物部氏のほうが権力を持っていた事が記録されていますから、馬子→蝦夷→入鹿のたった三代です。
それで、天皇をしのぐ権力を握っていたのかどうか、あやしいところですね。
しかも、倒したのは、その宗家の部分だけ、同じ蘇我氏の蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)は、きっちり新政権で右大臣に収まっています。
また、後に起こる有間皇子の事件でも、蘇我赤兄(そがのあかえ)という人物が中大兄皇子の忠実な味方として登場しますので、蝦夷・入鹿親子以外の蘇我氏は、滅ぼされてはいないわけです。
元号も、せっかくこの大化の改新で大化元年と決めたはずなのに、ここから大宝律令までの間にたびたび、元号があったりなかったりややこしい事になってます。
ものすごく、モヤモヤが残りますね。
古事記の編さんが712年、日本書紀の編さんが720年(ブログ:4月21日参照)ですから、律令国家の成立の歴史を、うまいことつじつまあわせて、天皇家と藤原家の手によるもの・・・とした可能性が、なきにしもあらず・・・というところでしょうか。
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