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2006年6月25日 (日)

頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求

 

文治五年(1189)6月25日、源頼朝『泰衡追討の院宣』を要求しました。

・‥…━━━☆

『院宣』というのは、天皇(もしくは、それに準ずる人)の命令書

院宣があれば、その行為は正統で官軍とみなされ、戦争を起こそうが、相手を殺そうが、罪には問われません。

『泰衡』というのは、奥州藤原氏の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)ですね。

そもそもは、壇ノ浦の合戦にて平家を滅亡(3月24日参照>>)させた功労者である弟・源義経(みなもとのよしつね)が、鎌倉にて幕府を仕切る兄・源頼朝(よりとも)の許可なく勝手に冠位を取得した事など(実際には複数の原因があると思われますが)に激怒し(5月24日参照>>)、鎌倉に入れないどころか追討軍を派遣した(10月11日参照>>)事から、兄との戦いを決意した義経は、後白河法皇『頼朝追討の院宣』を要求・・・

そう、実は、文治元年(1185年)10月18日に、後白河法皇は、その要求通りに義経側に頼朝追討の院宣を下しているんですね。

つまり、この一時期は義経が官軍です。

なので、一般的に、この後の義経の船出を『義経の都落ち』と表現し、このブログでも、そのページには、そんなタイトルをつけさせていただいていますが、実は、義経が都を出る時点では「都落ち」ではなく、あくまで頼朝追討を視野に入れた挙兵のための船出だったわけですが、思うように兵は集まらず、しかも、船出直後に嵐に遭ってしまい、手勢は散り散りに・・・(11月3日参照>>)

これを見た後白河法皇・・・なんと、その義経の難破から1週間後の11月11日に、またまた要求されるがまま、頼朝に『義経追討の院宣』を下しています。

いや、「要求されるがまま」ではなく、むしろ後白河法皇の源氏分断の策略・・・さすがは日本一の大天狗です。

これで、一転、義経主従は逆賊の追われる身となり、近畿各地に身を隠しながら(12月20日参照>>)、やがて若い頃お世話になった奥州・平泉の藤原秀衡(ひでひら)をたよって、東北へと向かうのです(2月10日参照>>)

秀衡は、義経や頼朝から見て父親のような年齢で、独自の経済力があり、その頃の奥州藤原氏は、言ってみれば独立国家のような物でしたので、義経が保護されている事がわかっていても、なかなか頼朝も手が出せずにいました。

しかし、文治三年(1187年)その秀衡が亡くなってしまった事により、状況は変わってしまいます。

早速、翌・文治四年(1188年)2月21日、再び頼朝に『義経追討の院宣』が下り、さらに、もう1度・・・10月12日にも院宣が下されます。

大黒柱を失った奥州藤原氏・・・しかも、何度も院宣が下った事で、その内部では、「亡き父の意思を継いでかくまう派」と、「天皇の命令なんだから討つ派」に、意見が大きく分かれます。

そんな中、家督を継いだ長男の泰衡は、朝廷をバックに持つ頼朝に恐れをなし、反対する弟を殺してまで、義経追討の判断を下します。

そして文治五年(1189年)、衣川に義経を攻めて自害に追い込んだのです(4月30日参照>>)

ところが、義経の死のわずか2ヶ月後の文治五年(1189)6月25日頼朝は『泰衡追討の院宣』を要求するのです。

思えば、奥州制圧は、あの八幡太郎義家の頃からの源氏のなんやかや(11月14日参照>>)が込められているわけで・・・

頼朝さん、ひょっとして、義経うんぬんより、むしろ、コチラがメインでは???

・・・と、そのお話は、8月10日の【阿津賀志の戦い】でどうぞ>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

 茶々さん、こんにちは。

 私も平泉は地理的に比較的近いので、何度か訪れました~。 毎回違う箇所を散策しましたが、二代基衡の造った「毛越寺」は、平安の貴族庭園を感じさせる上品な庭園で、曲水の宴なども行われる優雅な癒しの場所ですね~。

 もちろん、「中尊寺金色堂」もいまだ威厳を保ったまま凛として建っています。奥州でひっそりと(?)栄華を極めた奥州藤原氏は、これからも平泉の人々の誇りとして受け継がれることでしょうね~。(頼朝の藤原氏や義経への政策も謎が多い気がしますね~)

 最近、世界遺産への登録に向けての申請が活発になされているようですので、近い将来世界遺産としての注目も集めそうですね~、ではまた!

投稿: ルーシー | 2006年6月25日 (日) 18時15分

ルーシーさん、コメントありがとうございます。
中尊寺に何度も行かれているとは・・・うらやましいかぎりです。
ちょうど中学生の頃、大河ドラマの影響で義経がマイブームだった次期があり、その時から行ってみたいと思いながら、なんだかんだで、未だ行けずにいます。
何度もグラビア等の写真を見ながら、金色に輝くあの姿をみてみたい・・・と思いをつのらせています。
もちろん、まだ希望は捨てていません。
いつか行ってみたいと思っています。
そうですか~世界遺産に・・・それは、楽しみですね~。

投稿: 茶々 | 2006年6月25日 (日) 21時54分

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