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2006年7月31日 (月)

『夏越大祓』…茅の輪くぐり神事のお話

 

7月30日・31日は、神社で、茅の輪くくりという神事が行われます。

・‥…・‥…・

これは、『夏越大祓』(なごしのはらえ)とも言われ、正月からこっちの半年間の罪・けがれをはらう行事で、昨日・今日だけに限らず6月の半ば頃から7月にかけて全国各地で行われます。

京都の神社では、6月30日に行われる所も多いように思います。

この神事は、『備後風土記』に書かれた素戔鳴尊(スサノオノミコト)の神話がもとになっています。

・‥…━━━☆

昔、スサノオノミコトが旅の途中病にかかり、ある村で一夜の宿を求めました。

その村には、蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟が住んでいました。

弟の巨旦将来は裕福な暮らしぶりでしたが、冷たく宿を拒みました。

しかし兄の蘇民将来は貧しい暮らしにもかかわらず、「たいした事はできませんが・・・」と、茅のふとんと粟の食事で暖かくもてなしました。

そのおかげで、ミコトも元気になり、その後何年かのちに、ふたたびこの村を訪問した時、蘇民将来の家を訪れ、こう教えました。

「近く、この村で疫病が流行るだろう。その時、ちがやで輪を作り腰にぶらさげておきなさい。そうすれば疫病から免れる事ができるだろう」

しばらくして、ミコトの言ったとおり村で疫病が流行りました。

巨旦将来をはじめたくさんの村人が病に倒れる中、蘇民将来の家族だけは、茅の輪を腰にさげていたので、助かりました。

・‥…━━━☆

多くの神社では、罪けがれを託した人形(ひとがた)を、川に流したり、焼いたりしてけがれをはらい、この故事にちなんで、茅萱でつくった茅の輪を、左回り、右回り・・・と∞を描くようにしてくぐります。

そして、この茅萱を抜いて持ち帰り、輪にして吊るしておくと厄除けになるとされています。

Tinowa

京都・椰神社の『茅の輪くぐり』
ここもやはり素戔鳴尊をおまつりする神社です


 

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2006年7月29日 (土)

静御前、男児出産

 

文治二年(1186年)7月29日、静御前が源義経との間にできた子供を出産しますが、男子であったため、その日のうちに殺害されました。

・・・・・・・・・・・

兄・頼朝との不和5月24日参照>>)から、堀川の屋敷を攻められ(10月11日参照>>)、逃亡した義経一行と冬の吉野山で別れた静御前(11月17日参照>>)、すぐに鎌倉方に発見され、翌年の春には母・磯の禅師(いそのぜんじ)とともに鎌倉へ連れてこられました(3月1日参照>>)

義経の行き先を知っているのでは?と色々尋問される中、例の有名な鶴岡八幡宮での「しずやしず・・・」の舞いが披露されたのが4月の事(4月8日参照>>)

そして、7月29日のこの日、男の子を出産するのですが、昨年の大河では、出産してから舞いを舞ってましたね。

小耳に挟んだ情報ですと、出産後のほうが、より哀れさが出せるとのプロデューサーさん御意向で、わざと変更されのだそうですが、紅葉の中で舞いを舞うシーンと義経の奥州逃亡のシーンとが交互になって、けっこう美しくまとまってましたね。

創作色は多いものの、義経にくわしい『義経記(ぎけいき)でも、出産してから舞いを舞った事になってますしね。

妊娠7ヶ月と出産後、どちらにしても、敵方の前で舞うのは、ちょっと・・・って感じですね。

生まれた子供が男なら、殺害する・・・という事は、静が鎌倉に着いた時から頼朝から言われていた事でした。

それこそ『義経記』では、頼朝が静に尋問しながら、「今すぐ腹を裂いて、赤ん坊を殺せ」と言ったのを梶原景時が止めた事になってますが、そこんとこは判官びいきの義経記ですので、さすがにフィクションっぽいのですが、頼朝さんは平治の乱の後に自分を殺さなかった事が、平清盛の最大のミスだ・・・と思っていたふしがあるので、「男なら殺す」と言っていたのはほんとうでしょうね。

生まれてきた赤ちゃんを見て男の子だと確認した静御前は、頭から布団をかぶって、布団の中でさめざめと泣いた・・・といいます。

頼朝の妻・北条政子さんは、ここでも、あの舞いを舞った時と同じように、頼朝に赤ん坊の命乞いをしますが、冷静な頼朝さんは、それこそ感情に溺れて決めた事を曲げる人ではありませんでした。

安達新三郎清経という武士が、赤ん坊を受け取り、由比ガ浜に向かって馬を走らせました。

磯の禅師がその後を追い、滑川河口付近の砂浜で赤ん坊の遺体を発見した、と言われています。

その後、9月16日に静が鎌倉を出る時、同じ女としてその心中を察したのか、政子さんが様々な贈り物をしたといいますが、京に戻ってからの彼女の消息は何もわかっていません。

その後の義経については2月10日【源義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑】でどうぞ>>
 

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2006年7月28日 (金)

木曽義仲、堂々の入京

 

寿永二年(1183年)7月28日、木曽義仲が入京を果たし、同時に後白河法皇が平家追討の院宣を下しました。

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北陸で、平家軍に大勝利した(5月11日参照>>)木曽(源)義仲が、北陸の五万の兵を引き連れて、堂々と都に入って来たのは、平家が都落ちして(7月25日参照>>)から3日後の寿永二年(1183年)7月28日の事でした。

北陸勢を一目見ようと人垣を築いた人々は、新しい都のあるじに期待をしていました。

「平家にあらずんば人にあらず」の言葉に代表されるように、刃向かう事も、文句を言う事もできなかった時代を経て、「何かが変わる」という思いがあったのでしょう。

しかし、その期待を義仲軍はみごとに裏切ってくれちゃいます。

都には北陸の兵士たちがあふれ、人家に押し込んでは略奪・暴行、そして、ようやく刈り入れ間近になった稲を青田刈りして、馬の餌にする。

「これなら、まだ平家がいた頃のほうがマシだった」という人も出る始末。

この北陸の兵士たちの評判の悪さは即、義仲の評判の悪さとなっていきます。

牛車の乗り方も知らず、車の中で転倒したままワケのわからん事を大声でどなり続けたとか、公家に対する口のききかたがなってないとか、『平家物語』『源平盛衰記』も、口をそろえて悪口を書きたてます。

しかし、私は一・義仲ファンとして、男前の彼をそんなアホだとは思いたくはありません。

都の人々も新しいあるじに期待していたかもしれませんが、北陸の兵士たちも華やかな都に期待していたはずです。

ところが来てみれば、昨年からの大飢饉で食べる物も満足するにはほど遠く、故里・北陸で夢見ていた煌びやかな都とはかけ離れた世界だったはずです。

今とちがって、都のウワサが何年もかかって地方にやっとこさ伝わるような時代です。

育ってきた環境も、つちかってきたポリシーも、言葉さえも違います。

おそらくは、ある事無い事、悪口ばかりを書きたてている『平家物語』『源平盛衰記』が、ある程度事実を伝えているとしても、先程の牛車の一件や、口のききかたの一件なんかも、都の人間が義仲のしゃべる北陸弁がわからなかっただけにすぎません。

彼は、相手に合わせて態度を変えて、うまく世渡りしていくような器用さは持っていませんし、顔で笑っておきながら水面下で策略や陰謀を張り巡らせてばかりいる都会人を巧みに操る戦術も身につけてはいなかったでしょう。(そこがイイとこなんです)

ただ、二歳で孤児になってから、兄弟のようにして育った樋口兼光今井兼平らと木曽の野山を駆け巡りながら「天下とったるぞ~」っていう夢を、ひたすら突っ走ってきただけなんだと思います。(そこがイイとこなんです)

しかし、ここに、地方育ちでありながらも緻密な計算力と冷静な判断力を持ち、海千山千の都会人を巧みに操る人物が後白河法皇と接触します。

そう、鎌倉にいる源頼朝です。

義仲に手を焼いた後白河法皇は、義仲に平家追討の命令を下し西の方へ追いやっておいて、その間に頼朝に都に来るように要請します。

しかし、今の都の状態では、自分も義仲の二の舞になる事を予感していた頼朝は、近畿地方の飢饉を理由に上洛を延期します。

そして逆に、朝廷に「東海・東山・北陸の国衙(国の領地)と荘園を、もとの国司に返還せよ」という命令を出してくれるよう要請します。

源平の内乱が始まってからというもの、各地からの年貢が届かず、貴族たちは困り果てていました。

東海や北陸は飢饉ではなかったので、この命令が守られると飢饉にあえいでいた後白河法皇はじめ貴族たちはウハウハです。

朝廷は、ご丁寧に『この命令に従わない者には、(頼朝が兵を出して)必ず実行させる』という文章をつけて命令を発布します。

これによって頼朝は、鎌倉にいながらにして、『朝廷の直属である事』『源氏の大将である事』『軍を進める大義名分』そして、何より『都の貴族たちのご機嫌とり』・・・これらすべてを手に入れる事に成功したのです。

この後、頼朝の弟・源義経が大将となり、年貢の事を名目に、兵を進めていく(1月16日参照>>)のですが、その前に、木曽義仲と後白河法皇の決定的な亀裂が・・・の話は、11月18日のページでどうぞ>>
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2006年7月27日 (木)

蓮如、吉崎に道場を建立

 

文明三年(1471年)7月27日、浄土真宗の僧・蓮如越前吉崎に道場を建てました

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蓮如室町時代の僧で、本願寺八世、女人往生を説いた人です(3月25日参照>>)

よく『北陸同行に安芸門徒』と言われるように、北陸一帯は浄土真宗の盛んな所ですが、昔からそうだったわけではなく、それにはやはり蓮如が深く関わっているのです。

寛正六年(1465年)。京都比叡山・延暦寺の弾圧によって、大谷廟が焼かれ、蓮如は近江・堅田から北陸へと逃げ、加賀と越前の境・吉崎に落ち着きました。

そして、そこで布教活動を始めたのです。

それまででも、仏教には多くの宗派がありましたが、布教の対象はほとんど貴族や武士で、農民層はまったくと言っていいほど無視されていて、農民を布教活動の中心に据えたのは浄土真宗が始めてでした。

浄土真宗の開祖は親鸞(11月28日参照>>)ですが、親鸞が布教活動をしていた鎌倉時代は、農民は数の上では武士や貴族にまさるものの、社会的にも経済的にも、ほぼ奴隷に近いような状態でしたから、生きる事に必死で、いくら教えを説いても集まってくる農民は、そう多くはありませんでした。

しかし、南北朝・・・室町・・・と時代がたつにつれ、農民たちも今までの惨めな境遇から抜け出して、徐々に自分たちの生活を自分たちで築きあげていけるようになってきて、ここで始めて人間はいかに生き、いかに死ぬべきか、来世の事を考える余裕が出てきたのです。

ただ、そのような農民は、近畿地方にいるだけで、まだ全国的には鎌倉時代と、あまり変わらない状況でした。

でも、ちょうどその頃、そういった農民パワーが近畿の外へ広がりつつあった時期で、延暦寺の僧兵からの逃亡とは言え、ナイスなタイミングで蓮如さんは、北陸にやって来たことになります。

今まではほとんどの宗派から、無視されていた北陸の農民たちは、自分たちだけを救ってくれるという蓮如の教えにまたたく間に影響され、蓮如が吉崎に来てからわずか数年後に、北陸の農民のほとんどが、本願寺派の門徒となり、各村に『組』ができ、『組』が集まると『道場』をつくり寄り合いが行われ、『組織』ができあがっていくのです。

文明三年(1471年)7月27日吉崎に道場が完成した後、その4年後の文明七年(1475年)には、蓮如自身は、吉崎をはなれ京に戻りますが(8月21日参照>>)蓮如の手が離れても農民パワーは衰える事がなく、やがて彼ら農民は、農地を荒らし、年貢を徴収し、若い働き手を戦にかりたてる守護に対して、一致団結して「えぇかげんせぇ~」と、集団でブチ切れてしまします

後に『百姓の叡智』と称される加賀の一向一揆・・・その始まりの始まりは文明六年(1474年)7月の文明一揆でした(7月26日参照>>)
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2006年7月26日 (水)

暴れん坊の享保の改革

 

享保七年(1722年)7月26日、徳川八代将軍・吉宗享保の改革の一環として、新田開発を推し進め、幕府の財源確保に勤めました。

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七代将軍・家継が、まだ8歳という若さで死んでしまい、棚ボタ式で、御三家の一つである紀州徳川家から吉宗八代将軍となったのは、享保元年(1716年)の事(8月13日参照>>)・・・就任後すぐ、享保の改革に着手し始めました。

その頃は、徳川の時代になってから、もう百年くらいたっていて、戦国の世には、あまり数が多くなかった町民層が町にあふれ、百姓も農具の改良や効率化によって、かなり豊かになっているのに対して、武士は何を生産するわけでもないため、昔のままの状態・・・。

そのため、武士は貧困にあえいでいて、イコール幕府の財政も火の車!

暴れん坊も、暴れてばかりはいられません。

そこで、武士にも町民にも『倹約令』を出して支出を抑え、諸大名には、石高一万石につき百石を献上させる『上米(あげまい)令』を布告しました。

また、『人材投与』にも熱心で、代官の不正を暴き、年貢の徴収を確実な物にしたりなんぞもしました。

そして、享保七年(1722年)7月26日に出された新田開発です。

さらに、高騰を続ける物価には『物価引下げ令』を、米相場安定には『米市場』を設置し、『株仲間(同業組合)を結成させたり、新しい産業の開発を促進させたり、防火対策に基づく都市開発をして、町火消『いろは四十七組』(3月4日参照>>)を設置したり・・・。

まだまだ・・・
『目安箱』を設けて庶民の意見を投書させたり、貧民救済の『小石川養生所』を作ったり・・・。

これは、スゴイ!
さすがに、「中興の祖」「稀代の名君」と呼ばれるだけあります・・・少しくらいの暴れん坊はご愛嬌!

ってなもんですが、いやいや、このやるにはやった数々の改革が、果たして本当に効果があったのかどうかは、チョイと怪しい部分がなきにしもあらず・・・

そこンとこは、6月18日【徳川吉宗の「享保の改革」に学ぶこと】でご覧あれ>>
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2006年7月25日 (火)

平家・都落ち~維盛の都落ち~

 

寿永二年(1183年)7月25日、平家が安徳天皇を奉じて都落ちをしました

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もう、すでに北陸での合戦の平家軍の大敗は、京の都にも伝わっていました(5月11日参照>>)

いよいよ源氏が攻めてくる、町中で戦が始まるのは今日か・・・明日か・・・と、京中の家が門も戸も閉めて、中で念仏を唱えていた・・・と言います。

後白河法皇は、早々と平家に見切りをつけて、24日のうちに、御所を抜け出して比叡山に入り、一番先に京の都にやって来るであろう木曽義仲を待っていました。

平家一門は、やむなく法皇の同行をあきらめて、建礼門院徳子(平清盛の娘で安徳天皇の母)に抱かれた6歳の安徳天皇をつれて都を出ます。

寿永二年(1183年)7月25日、早朝の事でした。

先の義仲との戦いの時にも、平家の呼びかけに西国の武士たちはけっこう答えてくれていましたから、「西国に行って体制を立て直せば何とかなる」と、平家にとっては、100%の逃げではなく、大いなる希望を持った都落ちでしたが、安徳天皇につきそう公卿はわずか3人でした。

やはり、ほとんどの公家たちは、法皇同様、平家に見切りをつけていたのかも知れません。

栄華をほこった六波羅西八条はもちろん、家来の宿所や在家にも火を放ち、京の都は一瞬にして焦土と化しました。

そして、中には、行進する列の途中から、平家の赤旗を捨てて、都に引き返す者も出たりなんかして、翌日、今は亡き清盛との思い出の地・福原へ着いた時は、残った一門の結束はむしろ強くなっていました。

そして、まもなく、福原の内裏にも火を放って、皆船に乗り、この後平家一門は船で西海へと落ち延びて行くのです。

平家物語軍記物語の代表、と言われますが、作者はこの都落ちのシーンに関しては、ことのほか思いをを込めて、人間の美しさ、深い愛情、滅び行く者の哀愁を語るのです。

ことに平維盛(これもり)の都落ち・・・平家一門の中ではこの人だけが妻子を都に残したまま旅立つ事もあってか、とりわけ同情的に別れのシーンを描いています。

別れの時が迫った維盛は、
「俺が死んでも、尼になんかならんと、誰かよい人を見つけてふたりの子供をしっかり育ててくれ」
と奥さんに頼みます。

しかし、奥さんは
「同じ野原の露と消え、ひとつ底のもくずとならん」
袖にすがるのです。
(セリフ回しがいいですねぇ~)

出立しようと馬にまたがれば、10歳の息子(2月5日参照>>)8歳の娘
「どこへお出かけなさるのですか?私も参りましょう」
と、鎧にすがります。

平維盛は、清盛の長男・重盛の息子・・・平家嫡流としての誇りと責任があります。

安徳天皇の行列は、もうとっくに都の先のほうに行きました。
早く追いつかなくてはなりません。

最後に、弓のはしで、サッとすだれをかきあげ、もう一度3人の顔を見てから、静かに、維盛は都を落ちて行くのでした。

 

Dscn3091

当時、平家の邸宅が立ち並んでいた六波羅蜜寺

 

 

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2006年7月24日 (月)

斉明天皇の心の内は・・・

 

斉明七年(661年)7月24日、第37代・斉明天皇が九州・朝倉宮にて、この世を去りました。

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この天皇の68年の生涯は、自分の心とはうらはらに、まわりの人物たちによって波乱に満ちた物になりました。

斉明天皇は、宝皇女(たからのひめみこ)という名前で、女性です。

最初は高向臣(たかむくのおみ)という人物と結婚していましたが死別して、田村皇子(後の舒明天皇)再婚したのが32~3歳の頃

この結婚がすでに、彼女の心の内とは関係のない蘇我蝦夷(えみし)の計らいでの結婚でした。

この頃在位していた推古天皇には、二人の次期天皇候補がいました。

田村皇子ともうひとり、聖徳太子の子・山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)です。

理想主義で豪族を排除し、皇室を重視する聖徳太子の考えを受け継ぐ山背大兄皇子は、蘇我蝦夷にとって目の上のたんこぶ・・・当然、蝦夷は性格がおとなしく扱いやすい田村皇子を押しますが、天皇になるには、ふさわしい皇后も必要です。

田村皇子には、蘇我馬子の娘・法提郎女(ほていのいつらめ)が嫁いでいて、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)という男の子をもうけていましたが、推古天皇の例もあり、いざという時、天皇になる事も考え、皇后に立つ女性は天皇家の血をひく人でなくてはなりません

それで、敏達天皇の曾孫で、やっぱり扱いやすい宝皇女との結婚を勧めたのです。

蘇我蝦夷のもくろみどおり、推古三六年(628年)に推古天皇が亡くなった後、田村皇子が舒明天皇として即位し、宝皇女が皇后になります。

この頃から蘇我蝦夷の政界における実権は確実に増強していきます。

そして、舒明十三年(641年)に舒明天皇が亡くなった後、皇后の宝皇女が第35代・皇極天皇として即位します。

この頃には、蝦夷の息子・入鹿(いるか)も政界に登場して、先の山背大兄皇子一族を滅ぼし、ますます蘇我氏の天下で、天皇が新嘗祭(新米を神に供え五穀豊穣を祈願する皇室の行事)を行った同じ日に、蘇我氏は蘇我氏で新嘗祭を行うなど、露骨に、その権力を見せつけるようになりました。

そんな蘇我氏にブチ切れたのが、皇極天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・・・露骨な事をされながらも、のほほんとしていたお嬢様の心の内とは関係なく、クーデターは決行されました。

そう、乙巳(いっし)の変蘇我入鹿暗殺事件です(6月12日参照>>)

この時の皇極天皇の驚きぐあいから見ても彼女はクーデターの事は知らなかったし考えてもいなかっただろう事がわかります。

クーデターの後は、皇極天皇の弟・軽皇子(かるのおうじ)が即位して孝徳天皇となります(6月14日参照>>)

しかし、ここからは、案の定、クーデターを決行した中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかわたり)実権を握り、蘇我氏よりだった兄の古人大兄皇子も滅ぼしてしまいます。

そして、飾り物のように無視をされた孝徳天皇は失意のまま10年とたたない間に亡くなり、今度は、またまた本人の気持ち関係なく、斉明天皇元年(655年)1月3日再び宝皇女が斉明天皇として即位しました。

今度の天皇はお母ちゃんですから、遠慮なしに中大兄皇子も政治やりまくり?・・・でも、今回は斉明天皇も負けてません。

多武峯(とうのみね)新宮殿を築いたり岡本宮の東の山に石垣を造ったり吉野離宮を造ったり・・・土木事業に勤しみました。

しかし、これがまた評判が良くなかった・・・。

石垣の石を運ぶために造った溝を人々は、天皇の身勝手な土木工事だと、その建造物を「狂心(たぶれごころ)の溝」と呼んだといいます。

人手と費用がかかったわりには、あまり意味のない物だったのかも知れません。

そんな時、先の孝徳天皇の息子・有間皇子が謀反の罪で死刑となります(11月10日参照>>)

またまた、皇極天皇の感知しない所で、甥っ子が邪魔者として排除されたのです。

それから、間もなくの斉明六年(660年)・・・政局は急展開を迎えます。

朝鮮半島で、新羅(しらぎ)の連合軍に敗れた百済(くだら)救援を求めてきたのです。

今までの付き合い上、無視するわけにもいかず、わが国も朝鮮半島への出兵を覚悟し、護りを固めるため、天皇自ら大船団を組んで九州に出発します。

もちろん皇太子・中大兄皇子もお供します。

斉明七年(661年)、斉明天皇68歳の正月の事でした。

到着後、いったん磐瀬(福岡県)に落ち着いた後、5月には、朝倉の宮殿も完成します。

しかし、朝倉に移ってから、わずか2ヶ月後の斉明七年(661年)7月24日・・・斉明天皇はその生涯を閉じてしまうのです。

ことごとくまわりの人間関係に振り回された感のある女帝の生涯・・・ひょっとしたら、彼女自身は政治になんて興味がなく、ただ、普通の、良き妻、良き母、良きおばあちゃんでありたかったかもしれませんね。

百済救援の出兵をした【白村江の戦い】について8月27日のページへどうぞ>>

Dscn1566
斉明天皇の頃に造営されたとされる亀型石造物

 

 

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2006年7月23日 (日)

由比正雪の乱、発覚!

 

慶安四年(1651年)7月23日、幕府を震撼させる同時多発テロ計画由比正雪の乱(慶安の変)が発覚しました。

・・・・・・・・・・・・

由比正雪(ゆいしょうせつ)は、駿河染物屋のぼんぼんでしたが、江戸に出て楠木流の軍学を学び、軍学者となって道場を開いていました。

道場はかなりの盛況ぶりで、「門弟三千」とも噂され、大名や旗本から、「屋敷に出張講義に来てくれ」と頼まれるほどでした。

そして、正雪の一番の弟子が、槍の名人として有名な丸橋忠弥(まるばしちゅうや)でした。

慶安四年(1651年)の4月に名君と言われた徳川三代将軍・徳川家光が病死・・・後を継いだ長男・家綱はまだ11歳で、しかも病弱。

この頃の江戸幕府は、家光が参勤交代の制度(6月30日参照>>)を確立して、幕府が諸国の大名を統制する立場にある事を知らしめてはいたものの、去る関ヶ原の戦い(関ヶ原の合戦の年表参照>>)の後の大名改易政策によって、お家断絶、領地没収などが相次いで、江戸の街には不平・不満を持った浪人たちがあふれていました。

ヤバイぞ!家光さんを失った徳川幕府!

案の定、この不穏の空気に乗じて、由比正雪と仲間たちは、なんと!江戸・駿府・京都・大阪の同時多発テロを計画したのです。

まず、江戸班は丸橋忠弥が大将となって、市中に火を放って火事を起こし、同時に幕府の火薬庫を爆破。

このニュースを聞いて江戸城にやってくる役人を射殺し、そのどさくさで、諸大名に一目おかれている紀州の殿様の名をかたって城中に入って占領する。

次に、駿府班は正雪自らが大将になって、江戸と同じく町中に放火し、そのどさくさで駿府城から武器を奪って久能山に立てこもる・・・というもの。

久能山は天然の要害で、しかもお宝眠る徳川家康の墓所・久能山東照宮があり、充分な軍資金も手に入る段取りでした。

そして京都班は、やはり江戸と同時にどさくさまぎれで二条城をのっとる大阪班は市中に火事を起こし、大名の蔵屋敷を襲いながら大阪城へ乗り込むという計画。

騒ぎをおこせば、不満モンモンの浪人たちが味方について、幕府を倒せると考えました。

そして、同時多発テロ実行日は7月29日に決定し、正雪は22日に江戸を発ちました。

そんなにスゴイ軍学者が考えたわりには、どうなんでしょう?この計画・・・。

そんなにうまく城をのっとれるもんなんでしょうか?・・・って心配する間もなく、正雪が江戸を発ったその晩に、一番弟子の丸橋忠弥君がとんでもない事を、しでかしてくれちゃいました。

酒に酔ってベラベラと計画をしゃべってしまったんです。

ほんでもって翌日、つまり慶安四年(1651年)7月23日、忠弥以下、江戸担当班の主だった者たちが逮捕されていまいました。

正雪は、25日に駿府に到着しますが、その時はすでに早馬で駿府の役人の耳に入っていました。

そして、正雪の潜伏場所を包囲した捕り方たちが生け捕りにしようと突入したのは、26日の早朝・・・しかし、外の気配に江戸班の失敗を悟った正雪は、すでに部屋のなかで自害していました。

その後、京都や大阪の幹部たちも捕まり、忠弥をはじめ、数十名が死刑となりました。

・・・と、この通り、結局は何も事をおこさないうちに終わってしまったこの事件ですが、幕府は重く受け止め、天下の謀反と位置づけて、とりあえずは、浪人発生の原因となるお家断絶、領地没収の条件緩和へと乗り出す事になります。
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2006年7月22日 (土)

壬申の乱の山場!瀬田合戦

 

天武天皇元年(672年)7月22日は、壬申の乱での最後で最大の戦い瀬田橋の戦いがあった日です。

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兄・天智天皇の死後、後継者をめぐって天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と争った大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)は、吉野を出発してからというもの、押せ押せムードの展開で戦いを進めていました。

大海人皇子には、もう充分戦いに参加できる片腕となってくれる息子が何人かいましたから、先に不破(ふわ)の関所を押さえ、大友皇子の近江朝廷側と東国との接触を遮断します。

しかし、大友皇子は、むしろ、その息子たちに近い年齢・・・しかも周囲に、血を分けた身内がいないせいか、まとまりが悪く、味方の将軍どうしでもめる・・・といった内紛状態になっていました。

まずは、倭京(やまとのみやこ・飛鳥の事)を制圧するのは、大海人皇子に味方すべく、飛鳥古京に残っていた大伴吹負(おおとものふけい)・・・

やむなく、その後は大和周辺から撤退して近江の防御一本にしぼる朝廷軍でしたが、やがて、北陸を通って琵琶湖の西岸を南下してきた別働隊と、瀬田橋の東側までせまってきた大海人皇子側の将・村国男依(むらくにのおより)率いる本隊に挟まれる形となってしまいました。

・・・と、ここまでの経緯・・・くわしくはそれぞれのページでどうぞ
●大海人皇子が吉野に入る(10月19日参照>>)
●大海人皇子が吉野脱出(6月25日参照>>)
●大伴吹負・飛鳥を制圧!(6月29日参照>>)
●大海人皇子軍・野上を進発(7月2日参照>>)
●大和の戦い(7月4日参照>>)
●近江周辺の戦い(7月9日参照>>)

そしていよいよ天武元年(672年)7月22日瀬田を越えさせてはならない!と大友皇子が自ら軍勢を率いて最後の決戦に挑みます。

橋の西側に陣取った大友皇子は、橋に仕掛けを作って渡らせない作戦にでます。

Dscn1557b800 瀬田橋の戦い・復元模型(万葉文化館倉)

橋の中ほどの橋板を約9mほど取り外し、そこに綱のついた長板を置きます。

大海人軍が、ここを渡ろうとすると、そのタイミングで綱を引っ張れば、板が落ちる・・・つまり落とし穴のような作戦です。

さらに、そこに雨のように矢を射かけますから、最初はしばらく、大海人軍もなかなか進む事ができませんでした。

しかし、そこへ、大分稚臣(おおきだのわかみ)なる戦士が現われ、矢を防ぐために挂甲(けいこう・鎧の一種)を何枚も着込み、刀を振りかざして突進・・・その身に矢を受けながらも、何とか橋を渡りきり、長板の綱を一気に斬り刻み、その勢いのまま朝廷軍の陣へと猛ダッシュ!

橋の仕掛けが破られたとなると、当然、後続の大海人軍はなだれ込み・・・次々と稚臣に続きます。

こうなると、もう形勢は一方的、近江朝廷軍は総崩れとなってしまいます。

大友皇子はいったんは、脱出しますが、逃げ切れない事を悟り、翌日・23日山前(やまざき・天王山とも言われています)の地で自害しました(7月23日参照>>)

そして、大津京も焼かれてしまったのです。

戦いに勝利した大海人皇子は、即位して第39代・天武天皇となり、この後、平安京を造営する桓武天皇までの約1世紀の間、天武系の子孫が天皇の座に君臨することになり(桓武天皇は、天智系の皇統です)、日本は、本格的な律令国家への道を歩み始める事となります(2月25日参照>>)

明治になって、大友皇子は壬申の乱勃発までに、すでに即位していた・・・とされ第39代・弘文天皇ということになり、天武天皇は第40代という事になっています。
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2006年7月21日 (金)

ハリスと唐人お吉

 

安政三年(1856年)7月21日、日本の初代アメリカ総領事となるハリスが伊豆・下田に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

ハリス(ハリスについては2012年7月21日参照>>)と言えば『唐人お吉』を思い出しますが、彼女の悲劇の生涯は、歌やお芝居になるにつれ、だんだんと尾ひれがついて、どこまでが本当だったのか、色々な説があります。

下田の人気芸者で、幼馴染で船大工の鶴松と恋仲だったのを、ハリスが見染めて半ば無理やり愛人にした・・・というのは、どうやらお芝居を面白くするためのフィクションのようですね。

Touzinokiti600 『唐人お吉』こと、斉藤きちさんは芸者さんではなく、下田洗濯女だったようです。

洗濯女とは、もちろんクリーニング屋さんではなくて、船乗りが丘にあがっている間の一夜妻。

一緒にいる間は、相手の衣類を洗濯するのも仕事のうちなので、洗濯女と呼ばれていましたが、言わば娼婦で、当時は大きな港のある所には、そういう商売の女性がかなりの数いたらしいです。

そんな彼女の人生の転換が『ハリスの愛人・大募集』だったのです。

しかし、これは当時の幕府の大きな勘違い。

ハリスさんは、アメリカにいた時から内臓に持病をかかえていて、日本に来てからもあまり調子がよくありませんでした。

それで看護婦を探していたんです。

通訳がナース=病人の看護や身の回りの世話をする女性」と言ったのを勝手に日本にいる間の愛人を欲しがっていると思い込んだ役人は、知り合いに声をかけたりしますが、

当時の日本人は、外国人など見た事もなく、レア・ステーキを見て牛を生で食べているとか、ワインを飲んでいるのを血を飲んでいると勘違いしたりとか、とんでもない噂が流れていましたから誰も「YES」とは言ってくれません。

そこで、法外な支度金をつけて一般公募となったわけです。

商売女たちでさえ「たとえたくさんの支度金がもらえても見たこともない外国人は・・・」としりごみするなか、お吉は「外国人だって人間だ。まさかとって食われる事もあるまい」と、この話に乗ったのだとか・・・

弟も妹もいて、決して楽な暮らしではなかった彼女にとって法外な支度金はやはり魅力的だったのでしょう。

恋人もいましたが、泣く泣く別れた・・・というよりは、女に体で稼がせるようなうだつのあがらない男にお吉のほうから見切りをつけた・・という感じでしょう。

そして、幕府の役人は彼女を娼婦だという事を伏せて「いいとこのお嬢さんだ」と言ってハリスのもとにつれていきます。

しかし、ハリスはすぐに、彼女が看護婦ではない事も娼婦である事も見抜いて、解雇しようと思いますが、解雇すれば法外な支度金を返さなければならないかも・・・と聞いて、やさしいハリスさんは、しばらくはとどめおく事にします。

でも、そのうちハリスの体の調子が良くなってきた事と、お吉が体中にできものができるという病気にかかった事で、結局は解雇されてしまいます。

しかし、一度『ハリスの愛人』というレッテルを貼られた彼女にもうお客はつきません。

商売ができなくなった彼女は、江戸や横浜を転々とし、その後下田に戻って男と同棲をして髪結いの仕事を始めたりもしますが、うまく行かず、最後はお酒におぼれて川に身を投げて自殺したと言います。

とは言え、伝え聞くお吉さんの一生は、どこまで本当かわかりません。

しかしハリスのもとへ行ったいきさつはともかく、彼女がずっと『らしゃめん』『唐人』偏見のまなざしで見られた事、失意のまま投身自殺した事はまちがいない所でしょうから、お吉さんの生涯を思うと胸が痛いですね。
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2006年7月20日 (木)

国民の祝日と海の記念日

 

明治九年(1876年)7月20日、明治天皇が東北地方を視察の帰り道、北海道の函館から、明治丸という船で横浜港に戻って来られました。

天皇が軍艦ではない船に乗船されたのは初めての事で、「周辺の海をよく見ておきたい」という天皇の意図からでした。

それを記念して、昭和十六年(1941年)に内閣書記官通牒でこの日を「海の記念日」としたのです。

それから55年経た平成八年(1996年)、この「海の記念日」海の日」として、7月20日が国民の祝日となりましたが、平成十五年(2003年)の祝日改正法により、現在は、「海の日」は7月の第3月曜日という事になっています。

ちなみに「海の記念日」という記念日は、7月20日のままです。

・・・・・・・・・・

時々思うんですが、連休になってうれしいと言えばうれしいんですが、記念日と証する物の日にちを変えちゃっていいもんなんでしょうか?

やっぱり、その日にその出来事があったから記念日なわけですし・・・

たとえば、体育の日なんかも、東京オリンピックの開会日を記念して10月10日が体育の日になったわけで、10月の第2月曜日にしてしまったら、その日はオリンピックの開会日ではないわけですからね。

ちなみに今年は10月9日ですが、これって記念日と言えるのかなぁ~?

祝日と言えば、今日7月20日は、国民の祝日が決まった日でもあります。

昭和二十三年(1948年)の7月20日に『国民の祝日に関する法律』が制定され、九つの祝日が決定されました。

この時制定されたのは・・・
1月1日元日
1月15日成人の日
4月29日天皇誕生日
5月3日憲法記念の日
5月5日子供の日
11月3日文化の日
11月23日勤労感謝の日
ここに春分の日秋分の日を加えた九つでした。

それから考えると、今はずいぶん増えましたねぇ~。

いつか、365日ぜ~んぶ祝日になるんじゃないかと夢見る毎日ですが、その前に、少子化をなんとかしないと夢の実現より、日本人がいなくなる方が早いかも・・・
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2006年7月17日 (月)

細川ガラシャ最期の日

 

慶長五年(1600年)7月17日、細川ガラシャ(お玉・玉子)が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

お玉は、明智光秀の三女として生まれ、天正六年(1578年)に、織田信長の薦めで、同じ16歳だった細川忠興(ただおき)(12月2日参照>>)と結婚しました。

とにかくお玉さんはものすごい美人で、和歌などもたしなむ才媛、忠興さんはそんなお玉さんにぞっこんでした。

ふたりの運命が変わるのは、天正十年、お玉の父・明智光秀が主君・信長を襲った本能寺の変(6月2日参照>>)と、その後の山崎の合戦(6月13日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉に光秀が敗れてから・・・

父親の謀反のとばっちりで、お玉は夫に丹後の山奥で軟禁状態にさせられます。

この時の夫に対する不信感や、精神的苦痛から徐々にキリスト教にのめり込んでいきます。

そして天正十五年(1587年)に正式に洗礼を受け『ガラシャ』と称するようになります。

これには、さすがにお玉スキスキの忠興さんも激怒、改宗するように迫りましたが、お玉さんの意志は固かった・・・

そして、慶長五年(1600年)徳川家康は、「豊臣への謀反の兆しあり」(4月1日参照>>)として会津の上杉景勝を討つために軍を動かし、細川忠興もこれに同行します。

しかし、おそらく、これは家康の作戦。

わざと畿内を留守にして、豊臣家内で何かと対立している(3月4日参照>>)石田三成にしびれを切れさせて行動をおこさせるのが目的でした。

家康の思うツボにはまってしまった三成さん、案の定、挙兵を決意します(7月11日参照>>)

ここから、あの天下分け目の関ヶ原へ一直線(【関ヶ原の合戦の年表】を参照>>)・・・となるのですが、

まずは、武将の妻子たちを、人質とするべく大阪城に入城の命令を下す(7月14日参照>>)のです。

なんせ、この関ヶ原での西軍&東軍というのは、ともに豊臣政権下にいる武将たち・・・政権内の派閥争いなのですから、基本、西につくか東につくかは本人の自由・・・

しかし、会津征伐を大義名分に北へ向かった家康には、現時点で多くの武将が従っているわけで、彼らを西軍につかせるには、彼らの妻子を確保して「嫁さんと子供がコッチにおるねんから、お前もコッチおいでや~」ってするのが手っ取り早いわけで・・・

もちろん、この時、家康とともに会津に向かっていた忠興の屋敷にも、三成の捕縛隊がやってくるわけです。

慶長五年(1600年)7月17日・・・この時、大阪・玉造の細川家の屋敷にいたのは女ばかり。

ガラシャは自分の娘・二人を大阪教会オルガンチノ神父に預け、息子の嫁をお隣さんの宇喜多家へ避難させてから、自分はキリスト教信者であるため、自殺は許されないと、留守家老の手によって、その生涯をとじました。

♪ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
  花も花なれ 人も人なれ ♪
 細川ガラシャ:辞世

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大阪・玉造の聖マリア大聖堂の細川ガラシャ像

Dscn1470_1

大聖堂のとなりにある細川家跡
台所にあった越中井が残っています

くわしい場所や地図などはHPの歴史散歩・上町台地へ

夫・忠興さんについては【ブログ:12月2日・細川忠興の意外な才能】へGo→

追記:このページは、ブログを初めて間もなくの2006年に書いた記事・・・という事で、2013年の7月17日に、再び、ガラシャさんの、さらにくわしいページを書かせていただきましたので、よろしければ、ソチラの【関ヶ原に花と散る~細川ガラシャ=明智玉の壮絶最期】もどうぞ>>
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2006年7月16日 (日)

ヤマトタケルは実在したか?

 

景行四十年(110年?)7月16日に、景行天皇が息子の日本武尊東方征伐の命令を下しました。

・・・・・・・・・・

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、日本の歴史の波に飲まれ、ある時は実在した英雄と言われ、ある時は架空のおとぎ話の主人公とされてきました。

『日本書紀』では「日本武尊」と表記され、『古事記』では「倭建命」と表記され、どちらも『ヤマトタケルノミコト』と読みます。

古事記によれば、ヤマトタケルノミコトは、景行天皇と針間伊那毘能大郎女(イナビノオオイツラメ)との間に生まれた双子の兄弟の弟です。

兄が大碓命(オオウスノミコト)、弟が小碓命(ヲウスのミコト)

このヲウスノミコトが顔色一つ変えず平気な顔で兄を殺してしまった事に恐怖を感じた景行天皇は、すぐにヲウスノミコトに西方の熊曾に住む熊曾建(クマソタケル)の征伐を命令します。

(タケル)というのは、猛々しい強い者という意味で、みごと、クマソタケルを討ったヲウスノミコトは、この時から、『ヤマトの猛々しい者』という事で、ヤマトタケルと名乗ります。

そして帰り道で、出雲建(イヅモタケル)も討ち負かして都へ帰ってきますが、旅のつかれを癒す間もなく、景行四十年(110年?)7月16日東方征伐の命令が下る事になります。

この時、ヤマトタケルは「父は私が早く死ねばいいとでも思っているのだろうか」と嘆きながら、命令が出てから、わずか2ヶ月半後の10月2日東方の征伐に出発しています。

この後半のヤカトタケルノミコトは、あの、兄を平然と殺害した前半のヲウスノミコトとは、まるで別人のように天皇の命令には従順に働きますね。

そんな別人のように変わる人が神話の中にもうひとりいました~。
そう、スサノオノミコトです。

彼も、高天原で大暴れして、姉のアマテラスオオミカミに岩戸隠れまでさせて、高天原を追放されたのに、追放されて出雲の国に降りてきてからは、ヤマタノオロチを退治して、草薙の剣をアマテラスオオミカミに献上して・・・と、まるで別人のように従順になります。

これは、ヤマトタケルノミコトもスサノオノミコトも、古事記・日本書紀の筆者によって作り上げられた架空の人物・・・というよりは、多数の実在の人物をモデルにして、それらを一人の人物として表した結果のように思えてなりません。

スサノオノミコトは、出雲の国の建国と大和朝廷の支配下になる過程を一つの人格としたもの、ヤマトタケルノミコトは、西方の国々と東方の国々を支配下に治めたそれぞれの過程を一つの人格としたものなのではないでしょうか。

『旧唐書』の倭国日本伝には、『倭と日本は別の国である』と記されています。

日本は、倭より東、つまり日の本にあったという事になっています。

倭』『日本』『大和』このすべてをヤマトと読むのは、それぞれの国の出来事をひとつの物語にまとめあげた名残りなのではないかと思えてならないのでます。

HPでは、大和朝廷によって、経歴査証や存在抹消された神様たちについてヤマトタケル以外にも色々書いています。
興味がありましたら、
コチラからどうぞ→
 

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2006年7月15日 (土)

ええじゃないか!で大騒ぎ

 

慶応三年(1867年)7月15日、三河国・吉田=現在の愛知県豊橋市で、伊勢神宮のお札が空から降ってきました

・‥…━━━☆

これは、吉兆だ!と村の人々は大喜び。

じつは、その前日にも近くの村で降ったばかりでした。

そして、その翌日も、そのまた翌日も・・・。

周辺の村々は、にわかにお祭り騒ぎとなりました。

お札が降ったお家はお金持ちの家が多かったため、親類縁者を集めて宴会を開くわ、家の前で、通りを歩く人に振る舞い酒や餅まきなどするわ、そのうち誰からともなく「ええじゃないか」と踊りはじめます。

始めは吉兆にたいして、めでたい事じゃないか!「ええ(事)じゃないか」と踊っていたのが、いつしか(何でも)ええじゃないか」に変わり、そのうち(何をしても)ええじゃないか」となっていき、またたく間に作法もくそもなくなっていきます。

男が女の姿をしたり、老婆が若い娘の着物を着たり、派手な格好で踊ったり・・・最終的に(これもらっても)ええじゃないか」豪商の家を破壊し、金品を強奪していくようになります。

この現象は、20世紀のメディア顔負けの猛スピードで、各地に波及していきます。

西方面は、10月に京都・大阪で、11月には尾道で、12月には広島まで到達。

東方面へは、もっと早く8月に浜松、すぐに駿河・箱根を越えて、11月には江戸へ・・・。

とは言え、これほどの大流行には、やはり、わけがあります。

この慶応三年という年は、日本において一大転換期だったのです。

10月には大政奉還(10月14日参照>>)、12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)。

世の中が変わってほしいという期待、未来が見えない不安、それらが交錯してわけのわからない大騒ぎへと民衆は走ったのでしょう。

現に、未来への道筋が見え始めた翌年には、嘘のように「ええじゃないか」の大騒ぎは、なりをひそめ鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)の後に、東へと進む官軍は、楽チンな進軍となる(3月3日参照>>)のですから・・・
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2006年7月14日 (金)

源頼朝の愛娘・大姫のお話

 

建久八年(1197年)7月14日、源頼朝の愛娘・大姫が亡くなっています。

・‥…━━━☆

征夷大将軍になって(7月12日参照>>)名実ともに日本のトップに立った源頼朝さん。
男顔負けの決断力で、夫を支えて天下取りへと導いた北条政子さん(7月11日参照>>)

このご夫婦の華やかな活躍の中で、どうしても涙をさそってしまうのは、この大姫(長女という意味で固有名詞ではありません)の存在です。

話は、頼朝が、平家打倒の旗揚げをした治承四年(1180年)にさかのぼります。

この年、頼朝が受け取った以仁王の令旨(平家追討の命令書: (4月9日参照>>)・・・もうひとり、この令旨を受け取った人物がいます。

そう、木曽にいた頼朝の従兄弟・源義仲です(8月16日参照>>)

ふたりは、ほぼ同時期に兵を挙げ、頼朝は関東から (8月17日参照>>)義仲は北陸から (9月7日参照>>)平家との合戦が始まります。

翌年の養和元年(1181年)に平清盛が亡くなる(2月4日参照>>)と、ますます平家打倒の機運が高まると同時に、頼朝・義仲の対決の噂が流れはじめます。

「源氏の大将は、ふたりはいらない」という事です。

とにかく、ひとつにまとまらないと、倒せる平家も倒せなくなってしまします。

そこで、和睦の証として、頼朝の娘・大姫と義仲の息子・義高との結婚の話が持ち上がります。

鎌倉に侍所(警察)などを設置して政治の基盤を造りつつあった頼朝に対して、戦上手ではあっても、北陸に確固たる基盤のなかった義仲は、泣く泣く義高を鎌倉側に出す、いわゆる婿養子としての婚姻でこの話はまとまります。

寿永二年(1183年)義高は、鎌倉に入ります

この時、義高は10歳、大姫は5~6歳のとても夫婦とは呼べない幼いカップルで、これは完全に政略結婚・・・結婚という名の人質でした。

この事によって、一応源氏はひとつにまとまったものの、義仲は頼朝より1日でも1時間でも早く平家を打ち破って源氏の大将が自分である事を証明しなければ、義高を取り戻せません。

幸いにも、義仲軍は倶利伽羅・礪波の合戦で勝利し(5月11日参照>>)、平家を都落ちに追い込み(7月25日参照>>)頼朝よりも先に京の都に入ってきました。

しかし、先程言いましたように、どうしても源氏の大将にならなければならないというあせりからか、義仲は後白河法皇を脅してまで強引に征夷大将軍の座についてしまいます(11月18日参照>>)

義仲の行動を恐れた後白河法皇は、頼朝に義仲追討の院宣を下します。

そして、征夷大将軍になってからひと月もたたない間に義仲は、頼朝の弟・義経の率いる軍に破れ命を落とします(1月20日参照>>)

それが、寿永三年(1184年)正月のことでした。

頼朝は、義仲を滅ぼしてすぐに敵の息子である義高を殺そうとします

しかし、ここに頼朝の大きな誤算がありました。

政略結婚、人質だったはずの義高を大姫は兄のように慕い、幼いながらも恋をしていのです。

父親の思惑を知った大姫は、義高を密かに館から脱出させて逃がしましたが、追捕はきびしく、この年の4月に義高は入間川にて斬られました。

義高の死を知った大姫は、頼朝と話すこともなくなり、食べ物も口にしないようになります。

やがて、湯水ものどを通さなくなり、床にふせるようになりました。

あわてた頼朝・政子夫婦は、義仲が幼い頃に別れた妹の宮菊という女性を鎌倉に呼んで手厚くもてなしたり、源平合戦の時、義仲と行動をともにしていた愛妾で、義高の母とされる人の妹でもある女武者の巴御前を鎌倉に招いたりしたとか・・・(諸説あり)

もちろん、義高自身の供養塔なども建てますが、大姫の彼への気持ちはますます募るばかり。

年頃になって、縁談の話も持ち上がりますが(2011年7月14日参照>>)本人がかたくなに拒み、生きるしかべねのように暮らしていたということです。

そして、とうとう・・・建久八年(1197年)7月14日二十歳に満たない若さで、悲しみの生涯を閉じたという事です。
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2006年7月13日 (木)

オカルトの日に後鳥羽上皇のオカルト話

 

昭和四十九年(1974年)7月13日に映画『エクソシスト』が公開された事を記念して、今日7月13日はオカルトの日なのだそうです。

・‥…━━━☆

映画公開の後、しばらくオカルトブームが続いたんですよね。

たしか『オーメン』とか『サスペリア』とか『ヘルハウス』とかのオカルト映画が次々と公開されました。

ところで、恐怖映画の手法として、人間の心理を突いた三大原則『サスペンス(違和感)』『スリル(不安感)』『ショック(驚き)順に場面展開をしていくと、人は恐怖を感じるそうです。

たとえば、外出先から帰宅したら、閉めたはずの玄関の鍵が開いていて、ドアを開けて中に入ると、どうやら部屋の中が荒らされている様子で「アレ?おかしいな」と思う違和感・・・これが、サスペンスです。

次の場面はおかしいと思いながら奥へと進んでいくと、タンスの引き出しが開けられ、洋服が散乱している「おかしい」と思った違和感が確実なっていく中をさらに奥へ・・・この「何かあったゾ」というドキドキ感がスリル。

そして、最後に一番奥の部屋を開けると、いきなり目の前に見知らぬ誰かが・・・これがショックです。

ここで大きな効果音か入れば完璧!心理学的に誰もが「怖い」と思うそうです。
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・・・・と、まぁ、『オカルトの日』の話が長くなりましたが、一応ここは、歴史ブログ

本日の、7月13日は、承久三年(1221年)に起こった承久の乱(5月14日参照>>)が失敗に終わった後鳥羽上皇隠岐に流罪となった日でもあります。

隠岐に流された後の後鳥羽上皇の消息が、ほとんど記録されていない中・・・ほんの少し、それも実にオカルト的な逸話が残っています。

百人一首で有名な藤原定家の日記によれば・・・
嘉禄元年(1225年)6月12日
「琵琶湖畔の志賀浦に、全身が青黒く光る羽根でおおわれ、眼は炎のように燃え、鋭い爪の生えた足が4本ある大きな怪鳥が多数現れ、それを殺して食べた者は、その場で絶命した。その鳥は『隠岐掾(おきのじょう)と呼ぶ」と記されています。

隠岐掾とは隠岐の国司、隠岐は流刑地なので、そこで国司のようにエライ人と言えば・・・

つまり後鳥羽上皇の事・・・怪物の鳥を、そんなお方の名前で呼ぶとは!!

はたまた、延応元年(1239年)のある秋の夕暮れ、隠岐に住む漁師が島に帰ろうと舟を急がせていた時、島全体を覆い隠すような数のこの怪鳥の大群を目撃・・・その鳥はしばらく上空を旋回した後、一斉に南東(都)の方角へ飛んでいったというのです。

その同じ時刻、隠岐では、20年間の幽閉生活をおくった後鳥羽上皇が、京の都の地を踏むことなくこの世を去ったというわけで、しばらく、京の都はこのウワサでもちきりだったとか・・・。

怪鳥の話は、どこまでが事実なのかは定かではありませんが、それが都で噂になったという事は、それだけ、後鳥羽上皇は幕府への深い怨みを持ったまま亡くなったと人々に思われていたわけです。

とこどで、上記に登場した藤原定家・・・

彼が選んだという有名な『小倉百人一首』は、とても天才歌人が厳選したとは思えない、妙な歌の選び方をしているとの評判なのをご存じですか?

実は、それには、無念の死を遂げた後鳥羽上皇が深く関わっているとの噂もがあります・・・そのお話は、5月27日【百人一首に隠された暗号】のページへどうぞ>>
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2006年7月10日 (月)

日本で始めてのボーナスは?

 

明治九年(1876年)、日本で最初の賞与制度(ボーナス)を実施したのは、三菱商会でした。

・‥…━━━☆

三菱は当時、海運界を独占、業績が向上していたので、社員に利益の還元を考えたのです。

会計事務長だった荘田平五郎という人物が、平社員の給料が5円の頃、歳末賞与という形で(夏じゃなかったのね)約1ヶ月分の賞与を支給することにしました。

なので、逆に業績が上がらなかったときは、中断されたりもしました。

その後、日清戦争が終わってからは、他の企業でもぼちぼち利益に応じた賞与を出し始めるようになります。

そして、明治26年、三井に入社した中上川彦次郎さんは、優秀な人材を集める手段として年2回の賞与制度を打ち出します。

やがて日露戦争の後は、労働者にも賞与が支給されるようになりました。

昭和に入って戦争の声が聞かれるようになると、軍需景気も重なって、中小企業にまで賞与制度が浸透し、金額も大きくなっていきました。

しかし、その頃はまだ、普通の社員と、課長・部長クラスとは、かなり格差のある倍率で、大変不平等な物でした。

戦後になって労働組合が確立されてから、ほぼ現在のような形になったという事です。

はたして今年のボーナスは出るか出ないか、出ないか出るか何に使おか、貯金をしよか・・・迷ってる間に生活費に消えてしまうんやろな~今年も・・・
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2006年7月 9日 (日)

ほおずき市の起源は頼朝さん

 

7月9日、東京の下町では、あちこちでほおずき市が立ちます。

・‥…━━━☆

その中でも代表的なのは、浅草(せんそう)寺のほおずき市

古くから夏の風物詩として、下町の人々に親しまれてきました。

四万六千日(しまんろくせんにち)という7月10日の縁日の日にお参りをすると、4万6千日参った事になるという言い伝えがあり、その信仰と相まって、ほおずき市は多くの人で賑わいます。

うちわを片手に浴衣姿でほおずきを買い求める姿は、関西人の私でもテレビのニュースなどで映像が流れると、江戸情緒というか・・・下町の風情を感じますね。

「夏がきたんだなぁ~」って思います。

ところで、このほおずき市は、もともと源頼朝が、奥州征伐(8月10日参照>>)の帰り道、浅草で部隊を休ませ、日射病で倒れた兵士たちにほおずきを食べさせて元気づけた・・・という逸話から、ここに市が立つようになったんだそうですよ!
ま、あくまで伝説の域を出無い話ではありますが・・・
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2006年7月 7日 (金)

七夕の夜に日本最古のK-1ファイト

 

天平六年(734年)7月7日、あの大仏建立で有名な聖武天皇が、七夕の宴と相撲見物を行った・・・という記録があり、一般的にはこれが、七夕と相撲の起源とされています。

・‥…━━━☆

・・・が、どうしてどうして、それよりずっと以前から、七夕は伝わっていて、七夕の行事の一つとして相撲・・・というより格闘技が行われていました。

大阪の北東部にある交野市は、七夕発祥の地と言われています。

ここには、天の川が流れ、かささぎ橋がかかり、機物(はたもの)神社(祭神は織姫があり、川の向こう岸には牽牛石と呼ばれる石があります。

くわしい場所や伝説は本家HP:大阪歴史散歩『交野ヶ原、七夕伝説』で>>

機物神社は、もともと秦者神社で、4~5世紀頃、朝鮮半島の百済からやってきて養蚕と機織の技術を伝えた渡来人・秦氏の氏神でした。

彼らは、機織の技術とともに、ふるさとに伝わる七夕伝説を日本の地に伝えたのです。

一方相撲のほうはというと、日本書紀に垂仁天皇の七年、7月7日に天皇の前で『死合』(←こんな字かよ!)が行われた」とあります。

垂仁天皇は、第十一代の天皇で、年代的には3世紀前半に活躍したとされる天皇です。

Kehayatukacc_1 当麻蹶速(たいまのけはや)という強い男が朝廷にやってきて「自分と力比べをしてくれる強い者を探している」と申し出て、ならば・・・という事で、出雲の勇士・野見宿禰(のみのすくね)が相手をする事になります。

しかし、その『試合』がまさに『死合』なんです。

両者は、向かい合って互いに足をあげて蹴り合い、宿禰が蹶速のアバラを蹴り折って、腰骨を踏んで殺してしまった・・・て言うんです。

これは、相撲というよりは、K-1いや、K-1もルールがあるし、もちろん殺しちゃいけません。

この『死合』はまさに、ルールなきストリートファイトですね。

ファイトマネーは、領地。

勝った宿禰は蹶速の領地を貰い受けています。

以来、格闘技が七夕の行事の一つとして、かの聖武天皇の奈良時代にも、7月7日におこなわれていたのですね。

現在の格闘技は年末の行事の一つとなりましたね。

現在、当麻蹶速の塚の隣には、相撲の元祖=蹶速さんのゆかりの地という事で、全国でも珍しい相撲の博物館=葛城市相撲館「けはや座」があります。
当麻蹶速塚けはや座のくわしい場所は、本家HP:奈良歴史散歩「当麻の里」でどうぞ>>
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2006年7月 3日 (月)

ザビエルが以後よく広めるキリスト教

 

天文十八年(1549年)7月3日、イスパニアキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきました。

・・・・・・・・・・・・

この2年前の1947年、マレー半島のマラッカに滞在していたザビエルのもとを、アンジロウ(ヤジローとも)という日本人の青年が訪ねてきました。

Franciscusdexabier600 故郷、鹿児島殺人を犯して逃げていたアンジロウは、罪の重さにさいなまれ、ザビエルに救いを求めてきたのでした。

ザビエルの一言々々に感銘をを覚え、心救われたアンジロウでしたが、彼以上に感銘を受けたのはザビエルにほうでした。

アンジロウの話す、故郷・鹿児島の事、日本人の事、・・・ザビエルは深く心を動かされ、日本に渡る決意をします。

イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父フアン・フェルナンデス修道士マヌエルという中国人、アマドールというインド人、そしてゴアで洗礼を受けたばかりのアンジローら3人の日本人とともにジャンク船に乗り込んだザビエルは、ゴアを出発し、一路日本へ・・・

かくして天文十八年(1549年)7月3日鹿児島は薩摩半島の坊津に上陸したのです。

日本に上陸後は、まずは島津貴久に謁見して許可を得、鹿児島でキリスト教の布教活動を始めました。

その後は平戸山口でも布教活動をしています。

最初はたどたどしい日本語で、あまり、うまくはいかなかったようですが、そのうち禅僧と霊魂の不滅について禅問答をするくらい日本語がうまくなったそうです。

ザビエルさんは、長身で、なかなかのイケメンだったらしく、女性にも人気があったとの事。

しかし、異教徒への伝道となると難しく、信者は思うように増えず、滞在した2年間で約1500人程だったそうです。

それでも、ザビエルさんは「日本人は、現在までに発見された人民の中で一番善い人々だ」と、当時のヨーロッパで抱かれていた日本の印象とはまったく違う高い評価をしてくれています。

ザビエルさんのご命日=12月3日ザビエル死して奇跡を残す】>>もどうぞm(_ _)m
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