静御前、男児出産
文治二年(1186年)7月29日、静御前が源義経との間にできた子供を出産しますが、男子であったため、その日のうちに殺害されました。
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兄・頼朝との不和(ブログ:5月24日参照)から、堀川の屋敷を攻められ、逃亡した義経一行と冬の吉野山で別れた静御前は、すぐに鎌倉方に発見され、翌年の春には母・磯の禅師(いそのぜんじ)とともに鎌倉へ連れてこられました。
義経の行き先を知っているのでは?と色々尋問される中、例の有名な鶴岡八幡宮での「しずやしず・・・」の舞いが披露されたのが4月の事。
そして、7月29日のこの日、男の子を出産するのですが、昨年の大河では、出産してから舞いを舞ってましたね。
小耳に挟んだ情報ですと、出産後のほうが、より哀れさが出せるとのプロデューサーさん御意向だったのだそうですが、紅葉の中で舞いを舞うシーンと義経の奥州逃亡のシーンとが交互になって、けっこう美しくまとまってましたね。
先日、『義経・弁慶運命の出会い』(ブログ:6月17日)で出てきた『義経記(ぎけいき)』でも、出産してから舞いを舞った事になってます。
妊娠7ヶ月と出産後、どちらにしても、敵方の前で舞うのは、ちょっと・・・って感じですね。
生まれた子供が男なら、殺害する・・・という事は、静が鎌倉に着いた時から頼朝から言われていた事でした。
それこそ『義経記』では、頼朝が静に尋問しながら、「今すぐ腹を裂いて、赤ん坊を殺せ」と言ったのを梶原景時が止めた事になってますが、そこんとこは『判官びいきの義経記』ですので、さすがにフィクションっぽいのですが、頼朝さんは平治の乱の後に自分を殺さなかった事が、平清盛の最大のミスだ・・・と思っていたのは確かですので、「男なら殺す」と言っていたのはほんとうでしょうね。
生まれてきた赤ちゃんを見て男の子だと確認した静御前は、頭から布団をかぶって、布団の中でさめざめと泣いた・・・といいます。
頼朝の妻・北条政子さんは、ここでも、あの舞いを舞った時と同じように、頼朝に赤ん坊の命乞いをしますが、冷静な頼朝さんは、感情に溺れて決めた事を曲げる人ではありませんでした。
安達新三郎清経という武士が、赤ん坊を受け取り、由比ガ浜に向かって馬を走らせました。
磯の禅師がその後を追い、滑川の河口付近の砂浜で赤ん坊の遺体を発見した、と言われています。
その後、9月16日に静が鎌倉を出る時、同じ女としてその心中を察したのか、政子さんが様々な贈り物をしたといいますが、京に戻ってからの彼女の消息は何もわかっていません。
その後の義経については4月30日【義経と牛若は同一人物か?】へどうぞ>>
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コメント
こんにちは!ちこりんです!
コメントありがとうございました♪
これからもよろしくお願いします♪
今日は何の日か・・・おもしろそうなブログでですね♪歴史と関連させると結構面白いものですね♪
投稿: ちこりん | 2006年7月30日 (日) 00時03分
ちこりんさん、こちらこそ、コメント&TBありがとうございました。
ちこりんさんの情報量は、スゴイですね。
これからも、勉強させていただきます。
投稿: indoor-mama | 2006年7月30日 (日) 01時57分