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2006年7月29日 (土)

静御前、男児出産

 

文治二年(1186年)7月29日、静御前が源義経との間にできた子供を出産しますが、男子であったため、その日のうちに殺害されました。

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兄・頼朝との不和(ブログ:5月24日参照)から、堀川の屋敷を攻められ逃亡した義経一行と冬の吉野山で別れた静御前は、すぐに鎌倉方に発見され、翌年の春には母・磯の禅師(いそのぜんじ)とともに鎌倉へ連れてこられました。

義経の行き先を知っているのでは?と色々尋問される中、例の有名な鶴岡八幡宮での「しずやしず・・・」の舞いが披露されたのが4月の事。

そして、7月29日のこの日、男の子を出産するのですが、昨年の大河では、出産してから舞いを舞ってましたね。

小耳に挟んだ情報ですと、出産後のほうが、より哀れさが出せるとのプロデューサーさん御意向だったのだそうですが、紅葉の中で舞いを舞うシーンと義経の奥州逃亡のシーンとが交互になって、けっこう美しくまとまってましたね。

先日、『義経・弁慶運命の出会い』(ブログ:6月17日)で出てきた『義経記(ぎけいき)』でも、出産してから舞いを舞った事になってます。

妊娠7ヶ月と出産後、どちらにしても、敵方の前で舞うのは、ちょっと・・・って感じですね。

生まれた子供が男なら、殺害する・・・という事は、静が鎌倉に着いた時から頼朝から言われていた事でした。

それこそ『義経記』では、頼朝が静に尋問しながら、「今すぐ腹を裂いて、赤ん坊を殺せ」と言ったのを梶原景時が止めた事になってますが、そこんとこは『判官びいきの義経記』ですので、さすがにフィクションっぽいのですが、頼朝さんは平治の乱の後に自分を殺さなかった事が、平清盛の最大のミスだ・・・と思っていたのは確かですので、「男なら殺す」と言っていたのはほんとうでしょうね。

生まれてきた赤ちゃんを見て男の子だと確認した静御前は、頭から布団をかぶって、布団の中でさめざめと泣いた・・・といいます。

頼朝の妻・北条政子さんは、ここでも、あの舞いを舞った時と同じように、頼朝に赤ん坊の命乞いをしますが、冷静な頼朝さんは、感情に溺れて決めた事を曲げる人ではありませんでした。

安達新三郎清経という武士が、赤ん坊を受け取り、由比ガ浜に向かって馬を走らせました。

磯の禅師がその後を追い、滑川の河口付近の砂浜で赤ん坊の遺体を発見した、と言われています。

その後、9月16日に静が鎌倉を出る時、同じ女としてその心中を察したのか、政子さんが様々な贈り物をしたといいますが、京に戻ってからの彼女の消息は何もわかっていません。

その後の義経については4月30日【義経と牛若は同一人物か?】へどうぞ>>
 

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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちは!ちこりんです!

コメントありがとうございました♪
これからもよろしくお願いします♪

今日は何の日か・・・おもしろそうなブログでですね♪歴史と関連させると結構面白いものですね♪

投稿: ちこりん | 2006年7月30日 (日) 00時03分

ちこりんさん、こちらこそ、コメント&TBありがとうございました。

ちこりんさんの情報量は、スゴイですね。
これからも、勉強させていただきます。

投稿: indoor-mama | 2006年7月30日 (日) 01時57分

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1186(文治2)年4月、義経の愛妾静が捕らえられて鎌倉へ送られ、政子の要請によって鶴岡の神前で舞いましたが、静は義経への思慕の念をあからさまに示したため頼朝の不興を買いました。その際、政子は頼朝の挙兵当初、その安否がわからないまま自分がいかに不安に思ったかを..... [続きを読む]

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