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2006年7月23日 (日)

由比正雪の乱、発覚!

 

慶安四年(1651年)7月23日、幕府を震撼させる同時多発テロ計画由比正雪の乱(慶安の変)が発覚しました。

・・・・・・・・・・・・

由比正雪(ゆいしょうせつ)は、駿河染物屋のぼんぼんでしたが、江戸に出て楠木流の軍学を学び、軍学者となって道場を開いていました。

道場はかなりの盛況ぶりで、「門弟三千」とも噂され、大名や旗本から、「屋敷に出張講義に来てくれ」と頼まれるほどでした。

そして、正雪の一番の弟子が、槍の名人として有名な丸橋忠弥(まるばしちゅうや)でした。

慶安四年(1651年)の4月に名君と言われた徳川三代将軍・徳川家光が病死・・・後を継いだ長男・家綱はまだ11歳で、しかも病弱。

この頃の江戸幕府は、家光が参勤交代の制度(6月30日参照>>)を確立して、幕府が諸国の大名を統制する立場にある事を知らしめてはいたものの、去る関ヶ原の戦い(関ヶ原の合戦の年表参照>>)の後の大名改易政策によって、お家断絶、領地没収などが相次いで、江戸の街には不平・不満を持った浪人たちがあふれていました。

ヤバイぞ!家光さんを失った徳川幕府!

案の定、この不穏の空気に乗じて、由比正雪と仲間たちは、なんと!江戸・駿府・京都・大阪の同時多発テロを計画したのです。

まず、江戸班は丸橋忠弥が大将となって、市中に火を放って火事を起こし、同時に幕府の火薬庫を爆破。

このニュースを聞いて江戸城にやってくる役人を射殺し、そのどさくさで、諸大名に一目おかれている紀州の殿様の名をかたって城中に入って占領する。

次に、駿府班は正雪自らが大将になって、江戸と同じく町中に放火し、そのどさくさで駿府城から武器を奪って久能山に立てこもる・・・というもの。

久能山は天然の要害で、しかもお宝眠る徳川家康の墓所・久能山東照宮があり、充分な軍資金も手に入る段取りでした。

そして京都班は、やはり江戸と同時にどさくさまぎれで二条城をのっとる大阪班は市中に火事を起こし、大名の蔵屋敷を襲いながら大阪城へ乗り込むという計画。

騒ぎをおこせば、不満モンモンの浪人たちが味方について、幕府を倒せると考えました。

そして、同時多発テロ実行日は7月29日に決定し、正雪は22日に江戸を発ちました。

そんなにスゴイ軍学者が考えたわりには、どうなんでしょう?この計画・・・。

そんなにうまく城をのっとれるもんなんでしょうか?・・・って心配する間もなく、正雪が江戸を発ったその晩に、一番弟子の丸橋忠弥君がとんでもない事を、しでかしてくれちゃいました。

酒に酔ってベラベラと計画をしゃべってしまったんです。

ほんでもって翌日、つまり慶安四年(1651年)7月23日、忠弥以下、江戸担当班の主だった者たちが逮捕されていまいました。

正雪は、25日に駿府に到着しますが、その時はすでに早馬で駿府の役人の耳に入っていました。

そして、正雪の潜伏場所を包囲した捕り方たちが生け捕りにしようと突入したのは、26日の早朝・・・しかし、外の気配に江戸班の失敗を悟った正雪は、すでに部屋のなかで自害していました。

その後、京都や大阪の幹部たちも捕まり、忠弥をはじめ、数十名が死刑となりました。

・・・と、この通り、結局は何も事をおこさないうちに終わってしまったこの事件ですが、幕府は重く受け止め、天下の謀反と位置づけて、とりあえずは、浪人発生の原因となるお家断絶、領地没収の条件緩和へと乗り出す事になります。
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コメント

 茶々さん、こんにちは。

 今日は「由比正雪の乱」だったんですね~、記載のとおり結局は全く大事に至らず未遂に終わったもので、乱とか変とかの範疇かどうか疑問もありましたね~。

 あの2・26事件などと比べると、はたして丸橋忠弥の証言だけであれだけ厳罰に処されたのは、ある意味当時の浪人の不満への見せしめ的な対処だったのかも知れません。しかし、その後緩和政策に移ったのも世相として仕方のないところでしょうか。

 徳川体制の基盤は、その将軍後継の都度さまざまな歪みを生んでいたようすで、やはり先日のコメントのように慶喜の時代まで絶えず頭を悩ませていたんでしょうね~いつの時代もあちらを立てればこちらが立たず~で、万能な政策は難しいようです。

 あれ?そういえば「慶安の御触書」ってこの頃でしたでしょうか?

投稿: ルーシー | 2006年7月23日 (日) 16時45分

ルーシーさん、コメントありがとうございます。
そうですね。おっしゃるとおり何もできなかったわりには、きびしい処分ですね。
やはり幕府側にも、町中にあふれる浪人たちに対して「このままでは、アブナイぞ!」という気持ちがあったんでしょうね。

ところで、「慶安の御触書」は、家光さんが出したお触書で、たしか亡くなるちょっと前に出したような・・・。
内容もくわしく知りませんが、「農民は地頭の言うことをよく聞いてまじめに畑に出て働け」みたいな、大きなお世話だ!と言いたくなるような内容だったと思います。

投稿: 茶々 | 2006年7月23日 (日) 18時23分

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