島津を180゚変えた生麦事件
文久二年(1862年)8月21日、横浜で生麦(なまむぎ)事件が起こりました。
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尊皇攘夷派を力で押さえつけていた大老・井伊直弼が、桜田門外の変(3月3日参照>>)で暗殺され、いよいよ幕府の体制が揺らぎはじめました。
幕府は何とか体制を立て直そうと、朝廷と幕府が協力して政治を行う『公武合体運動』を掲げます。
その象徴が、14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮の結婚でした。
このふたりの結婚を一番におし進めていたのが、薩摩藩のご隠居・島津久光・・・そして、参勤交代の緩和や西洋式軍隊の採用など、文久の改革と呼ばれる幕府の新体制を整え、これで尊皇攘夷派を押さえこむ事ができるだろうと、江戸での仕事を終え、京に向かう途中に事件は起こります。
島津久光の行列が、横浜の生麦村に差し掛かったところ、馬に乗った4名のイギリス人に出会います。
このイギリス人が下馬もせず、道を譲る事もしなかったので、「無礼だ!」と、お供の武士たちが斬りかかりました。
一人が死亡、残りの三人はアメリカ領事館に逃げ込んで助かりました。
イギリス側は、幕府に犯人の逮捕と正式な謝罪、そして10万ポンドの賠償金を要求・・・薩摩藩にはイギリス人立会いのもとの裁判と極刑、遺族への2万5千ポンドの慰謝料の支払いを要求しました。
幕府はイギリス側の要求どおり、陳謝状の公布と賠償金を支払いましたが、薩摩藩は要求に応じません。(7月1日参照>>)
話はモメにモメ、薩摩対イギリスの砲撃戦=薩英戦争に発展します。
イギリスの最新式のアームストロング砲で、大きな被害を被った薩摩藩は、結局、幕府からの借金で2万5千ポンドを支払い、軍艦購入の世話をイギリスに頼む事を条件に和解したのです。
欧米の軍事力のスゴさを、直接体験した久光は、急遽方針を転換。
長州とともに開国討幕派の先頭に立つ事となります。
ちなみに、『生麦・生米・生卵』って、けっこう言いやすい早口言葉やと思ってましたが、これに『事件』をつけて言ってみると、メッチャ難しい!という事を今夜発見しました~。
『生麦事件・生米・・・』ぐらいまでしか言えません(#^o^#)
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コメント
indoor-mamaさん、こんばんは。
おぉ~っ、「生麦事件」ですか!
1860年代はホント、特に激動の時代でしたね~!
仰るとおり、「桜田門外の変」にはじまり明治維新へ~と間髪入れずに実にさまざまな重要な出来事が起こりました。
そんな時に(文化の違いを理解していなかったせいですが・・・)4人のイギリス人がたしか川崎大師の見物に向かう途上、列を横切ってしまい・・・(汗)~薩英戦争へ。
犠牲になったリチャードソンの写真も何かで見たことがありましたが、命を奪うなんて・・・と今の感覚では当然思ってしまいますね~。時代背景とはいえ、う~ん、複雑です。
そうですね~結果的に、開国へ向かいました。
そんなイギリスとその40年後には「日英同盟」がかわされ、第一次大戦まで重要な同盟となって日本にとり軍事的な力強い後ろ盾となったなんて、歴史の皮肉性も感じたこともありました・・・昨日の敵は今日の友~出来れば各国ともずっと争いのない友でいれたら素晴らしいですね。
indoor-mamaさん考案の早口言葉~難しいです(笑)、おっと、めまいが・・・いえいえただの研修疲れ(笑)です。
では、おやすみなさいませ~!
投稿: ルーシー | 2006年8月22日 (火) 22時22分
ルーシーさん、研修でお忙しいのにコメントありがとうございます。
そうですね~戦争したあと、同盟組めるくらい仲良くなれるんなら戦争しなくても何とか解決できそうな気もするんですが・・・そこが外交の難しいところですね。
文化の違いを理解しあって仲良くいきたいものです。
では、研修につき物のレポート(←勝手につき物にしゃいましたが・・・)頑張ってください。
投稿: indoor-mama | 2006年8月23日 (水) 00時48分