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2006年8月31日 (木)

7月と8月、大の月が続くのはナゼ?

 

今日は、ちょっといつもと趣向を変えて・・・7月・8月が、なぜ連続して31日なのか交代々々じゃないのか?っていうお話です。

・‥…━━━☆

そもそも、現在の暦の基礎を作ったのが、かのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)です。

それまでヨーロッパで使っていた暦は、今の3月が年の始まり=1月にあたり、一年が355日でした。
太陽の動きとは、10日間のズレがあることになります。

それで、エジプトの暦が365日なのを知ったシーザーは、エジプト暦を採用する事にします。

それは、奇数月が大の月で31日。
偶数月が小の月で30日。

つまり、普通に交代々々で進んでいって、2日多いので12月だけが29日になって、1年が365日というものだったんです。

これを、『ユリウス暦』として使用しますが、7月がキンチリス(第五の月)と呼ばれている事が、どーも気に入らない。

そう、7月は自分の誕生日だったんです。

それで、7月の名前をユリウス(英語でジュライ・July)に変えます。

なので、一応、この時点では、名前を変えただけで、ほぼ、大の月と小の月は交代々々だったわけですが・・・

その後、ローマの政権を握ったのがオクタビアヌス

彼は、3回の戦争に勝利を収めて、元老院から皇帝の称号であるアウグスツスを送られました。

それを記念して、勝利を収めた8月をシーザーに習って、アウグスツス(英語でオーガスト・August)という名前にしました。

しかし、8月は偶数月ですから、小の月。

そのままでは、なんかシーザーに負けてる感じがするので、8月も31日にしちゃったんですね。

けど、それだと、大の月が3つ並んじゃってシックリ来ないので、ついでに、以下の月の順番を入れ替えて、9月を小、10月を大、11月を小、12月を大・・・としました。

しかし、そうすると、合計が365日にならないので、2月を減らして28日にして日数を合わせてしまったのです。

この時、なぜ2月を減らしたのか?

また、1年365日でいくと少しずつズレてしまうため、4年に1度だけ1日増やして366日にする閏年というのもありますが、それも、1日増やして29日にするのは2月・・・

なんで?2月だけ減らし、なんで?2月だけ増やすのか・・・って事についてはハッキリとはわかっていないのですが、

一説には、この時代の暦の使用目的として1番重要だったのが農業・・・
(中国や日本の二十四節季なんかも農業のため…10月8日参照>>
農業を始めるのが春なので冒頭に書いたように、それまで使用していたヨーロッパの暦の1年の始まりも、現在でいうところの3月が最初の月だったわけです。

・・・で、3月が最初だったという事は=2月が最後の月だったわけで、結局は、その最後の月でなんやかんやのズレを調節したのでは?という説が有力なようです。

とにもかくにも、そんなこんなで、結果、7月・8月と大の月が2回続く事に・・・つまり、天下を取った英雄の勝手なエエカッコで、不規則な暦になってしまったんですね。
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2006年8月30日 (水)

千島最北端に初の上陸!

 

明治二十六年(1893年)8月30日、郡司成忠海軍大尉ら一行が、千島列島の最北端に位置する占守島に到着しました。

・・・・・・・・

当時は、まだ手付かずの状態だった千島列島に漁業基地を置く事を考えた郡司成忠は、開拓団を組織しようと仲間に声をかけます。

趣旨に賛同して集まった人は60人程で、その中には南極探検(1月29日参照>>)で有名な白瀬矗(しらせのぶ)もいました。

最初は海軍の船で出発する計画(海軍大尉ですから・・・)でしたが、それがうまく行かず、なんと、無謀にも東京・隅田川からボートでの出発となりました。

ボートって・・・他に何とかならなかったのか?という思いもありますが・・・とにもかくにも、大勢の見送りを受け、明治二十六年(1893年)3月20日に出航します

しかし、岩手沖で暴風雨に見舞われ18名の隊員が死亡・・・居合わせた軍艦・磐城に助けられ、からくも函館に到着します。

函館からは、あまりにもボートが無謀という事で、定期船や民間船に便乗させてもらいながら択捉島斜古丹島へと上陸します。

ここで、希望した9名が島に残り、やっと乗船が許された軍艦・磐城に再び便乗し、最北端をめざしました。

そして、いよいよ明治二十六年(1893年)8月30日・・・最北端に位置する占守島に足を踏み入れたのです。

当時としては、大変な快挙で、郡司大尉の名前は一躍有名になりました。

しかし、彼らの探検はこれで終わったわけでは、ありませんでした。

そうです・・・越冬です。

漁業基地にするためには、越冬して様々な調査をしなければなりません。

日本人初の北千島越冬は壮絶なものでした。

食料事情もままならない中での探検調査・・・。

占守島は何とか無事だったものの、斜古丹に残った9名は全員死亡という悲惨な状態でした。

翌年、日清戦争の勃発により、郡司は帰還を命じられ、後のことを白瀬に託して彼は帰りました。

2度目の越冬も死者を出し、最終的に50余名の犠牲をはらいながらも、カムチャッカ南部の調査に加え、千島の経営の貴重な資料を得て、調査としては満足な結果が得られたとして、明治28年(1895年)に残っていた全員が帰還しました。

この探検をきっかけに千島経営は、本格化していく事になります。

ちなみに、余談ですが、郡司成忠大尉は、あの文豪・幸田露伴のお兄さんだそうです。
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2006年8月29日 (火)

アヘン戦争の終結

 

1842年、8月29日、イギリスと清国との間に南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結しました。

・・・・・・・・・

その頃、イギリス清国(中国)から東インド会社を通じて、絹織物やお茶などを輸入し、逆に毛織物や綿製品を輸出していました。

しかし、輸入の増大に対して、輸出の方はなかなか伸び悩み、なんとかこの状況を改善したいと考えていました。

そこで、イギリスが目を付けたのが、当時、東インド会社が独占販売していたアヘンでした。

それを、インドで大量に栽培・造成して、密かに清国に売り込もうという作戦です。

とは言え、アヘンはケシの実からできる麻薬・・・密輸をほっておくと、中毒患者が増大し、銀の大量流出や貨幣流通の崩壊を招きます。

そこで、清国政府の担当大臣・林則徐(リーツォシュー)は、銀の大量国外流出防止策を打ち出します。それは・・・
① アヘン吸引者と販売者の処刑
② イギリス商人の貿易禁止
③ 外国商館の閉鎖
④ アヘン約2万箱の償却

というものでした。

それに対して、イギルス監察官・エリオットは、あくまで輸入解禁・アヘン貿易の継続を主張し、1840年にアヘン戦争に突入しました。

清国では、民衆が自発的に作った武装自衛団などで、応戦していましたが、イギリスは最新鋭の軍艦を登場させ砲撃し、武力の違いを見せつけます。

結局、清国政府は林則徐を解任して、イギリスとの交渉に臨み、1842年8月29日、この屈辱的な南京条約を結ばされ半植民地状態になってしまうのです。

南京条約
① 賠償金1200万銀ドルの支払い。
② 広州・福州・厦門・寧波・上海の5港を開放し、イギリス人の居住と治外法権を認める。
③ 香港島をイギリスに譲り渡す。
④ 特許商人の独占貿易をやめ、自由貿易とする。
⑤ 清国の関税自主権の放棄。
⑥ 清国は、イギリスに最も有利な条件・待遇をすること。

この条約は、その後に欧米諸国がアジア諸国と結ぶ不平等な条約のモデルとなり、日本でも江戸幕府や、幕末のリーダーたちに大きな影響を与える事になりました。

アヘンはダメです・・・やっぱり・・・。
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2006年8月28日 (月)

万葉の貴公子・大伴家持

 

延暦四年(785年)8月28日、万葉集の編さんで知られる大伴家持が亡くなりました。

・・・・・・・・

大納言・大伴旅人(たびと)の嫡子として生まれた大伴家持(おおとものやかもち)は、父を早くに亡くしましたが、母親がわりの坂上郎女(さかのうえのいつらめ)が常に身近にいて、けっこう裕福な恵まれた環境で育ちました。

そんな家持が国守として越中(富山県)の地に派遣されたのは、30歳前後の頃。

天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)の5年間を、国守として富山で過ごします。

家持の57年の人生でのたった5年間ですが、この富山での生活は彼にとって特別なようです。

なぜなら、全万葉歌の1割を占める家持作の歌の中で、約半数をここで作っています。

歌の専門家によれば、帰京後の歌のできばえは、かなり低落し、一説には、万葉集の編さんの仕事さえ、この地でやったのでは?という話もあるくらいです。

しかし、そんなノリノリの時期だった富山時代も、実は二つの思いを持っていました。

♪春の日に 萌れる柳を
 取り持ちて
 見れば都の 大路思ほゆ♪

♪東風 いたく吹くらし
 奈呉の海人の
 釣する小舟 漕ぎかくる見ゆ♪

この二首の歌。
一つ目は、「都恋しい!早く帰りた~い」と言ってるように思え、二つ目は、「この海の景色めっちゃキレイやん!」と言ってるみたいに聞こえますね。

私も、大阪生まれの大阪育ちでありながら、仕事の関係で10年間富山で暮らした時、まさに同じ思いでした。

慣れ親しんだ故里に思いを馳せる反面、富山の自然の美しさには感銘をうけました。

しかも、彼は富山の冬が特にお気にめさなかったようで、あんなに歌を詠んでおきながら、冬の歌はほとんどありません。
(私は、生まれて初めて見る大量の雪にけっこう興奮してましたが・・・(≧∇≦))

二つ目の歌に出てくる『東風』は、菅原道真の歌のように『こち』と読むのではなく、『あいのかぜ』と読みます。

これは、春に吹く富山湾独特の強風の事・・・地元では、その風を「あいの風」と呼ぶんです。

実際には台風みたいな強風で、音の響きから感じる優雅な雰囲気の風ではありませんが・・・

少し話しが寄り道してしまいましたが・・・

家持は越中での5年間のつとめを終えた後も、因幡、薩摩など遠国への勤務を命じられ、最後はみちのくの多賀城で、その生涯を閉じました。

その時は、都で起こった桓武天皇の側近・藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わっていたとされ、冠位を剥奪され、葬式をあげる事さえ許されませんでした。

この事件は真犯人がわからないにもかかわらず十数名が死刑になったという謎の事件・・・結果的に、桓武天皇の弟=早良(さわら)親王(9月23日参照>>)恐怖の怨霊にしてしまうアノ事件です。

結局、関わった人たちの罪が許されたのは、桓武天皇の次に天皇になった平城天皇の時代になってから・・・罪人である家持が編さんした万葉集も、やっとここで日の目を見る事になりました。

秀歌がたくさん収められた万葉集が、もしかしたらお蔵入りして、闇に葬られていたかも知れない思うと・・・家持でなくても、ホッと胸をなでおろしますね。
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2006年8月27日 (日)

古代海外出兵・白村江の戦い

 

天智称制二年(663年)8月27日、日本+百済軍唐+新羅軍白村江の戦いで敗れました。

・・・・・・・・・

斉明天皇五年(659年)の頃、朝鮮半島では、新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)の三国がたがいに、しのぎをけずっていましたが、ここに来て、百済と高句麗に多くの城を奪われた新羅が唐に助けを求めます。

年号も唐に合わせすっかり唐の傘下に収まっていた新羅は、唐の高宗から十万の援軍を得てその年の7月に百済を攻撃。

唐も同時に海路から攻撃を仕掛けます。

挟み撃ちされた百済は、次々と城を奪われ、やがて百済王・義慈(ぎじ)は捕虜となって唐に送られ、ここに百済は滅亡しました。

しかし、一つの国が一発でそう簡単に滅ぶわけもなく、その後も朝鮮半島での生き残りたちが、百済の復活を願って、各地でテロを起こしたりしていました

そんな彼らが、復興の旗印として白羽の矢が立てたのが、当時、日本に滞在していて難をまぬがれた義慈王の息子・余豊章(よほうしょう)でした。

彼を、王として担ぎ上げ、日本の救援を得て再び百済を再生しようと考えたのです。

日本の朝廷は議論の末、百済の救援を承諾・・・つまり、唐・新羅を相手に戦う事を決断します。

天皇自らが指揮をとるべく、斉明天皇七年(661年)正月大船団を組んで出兵の拠点となる九州へ出発しました(7月24日参照>>)

九州に着いて、間もなく高齢のためか斉明天皇が亡くなりましたが、息子の中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)が引き続き指揮をとり、将軍・安倍比羅夫(あべのひらふ)豊章とともに日本海へと送り出しました。

しかし、日本軍は、唐軍の待ち受ける白村江(はくすきのえ・朝鮮半島の西側の沖)に吸い寄せられるように船を進め、見事に負けてしまいます。

唐の書物には・・・
「倭の船四百隻を焚く、煙焔 天にみなぎり、海水皆赤し」
と、記され、戦闘の激しさが伺えます。

これによって百済という国は完全に滅亡してしまいました。

その後、中大兄皇子は本土決戦を視野に入れて、九州に防人を置いたり、大宰府を始め西日本の各地に朝鮮式の城を築きます。

幸か不幸か、この時の百済からの大量の亡命者により、日本に大陸の様々な技術が輸入される結果となりました。

白村江の戦いにが敗戦となった要因については、2008年の8月27日で書いておりますのでコチラからどうぞ>>
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2006年8月26日 (土)

伊達政宗の幕府転覆計画

 

元和六年(1620年)8月26日、伊達政宗によってスペインへ派遣されていた支倉常長が帰国しました。

・・・・・・・・・

今では、誰もが知っている支倉常長(はせくらつねなが)を代表とする、伊達政宗が派遣した遣欧使節。

しかし、この事実は長い間、日本人は誰も知らなかったのです。(伊達家の関係者は知ってたでしょうが・・・)

それは、偶然・・・と言ってもいいでしょう。

明治六年(1873年)、岩倉具視(いわくらともみ)が新政府の一人として、欧米を視察旅行している中で、ヴェネチア古文書館を訪れた時に、「ここには、昔やって来た日本人が持ってきた手紙が保管されているんだよ」と、一つの書簡を見せてもらいます。

それが、支倉常長が持ってきた伊達政宗の手紙だったのです。

そこで、始めて伊達政宗がスペインに使節を送っていた事が、日本人の知るところとなりました。

手紙の内容は、使節を派遣した理由で、宣教師の派遣と通商を求めるものでした。

現在は、すっかり研究も進んで、使節が派遣されたのが、慶長十八年(1613年)である事や、二年後のの元和元年(1615年)の11月3日には、ローマ教皇=パウロ5世に謁見している事もわかっています。

・・・ん?ちょっと待てよ。

慶長十八年(1613年)と言えば大阪冬の陣の前の年。

すでにキリシタン禁止令が出ていて、布教活動も禁止され、それが全国に拡大されて、キリシタン大名の高山右近がフィリピンに追放された(1月5日参照>>)のも、この頃だったはずです。

そんな時期に「宣教師の派遣」とは・・・。

しかも、この頃は、諸大名に五百石以上の船の建造を禁止しているはずなのに、使節団はその十倍近い大きさの帆船で送り出されています。

伊達政宗の真意は何なのでしょうか?

そして、別の古文書館に、もう1通の手紙が残っています。

それは、使節団を引率した宣教師がスペイン国王に送った手紙です。

彼は伊達政宗の事を、奥州王と呼び、徳川家康と同列の位置に置いて話を進めています。

この手紙によると、
日本皇帝(家康)新皇帝(秀忠)は、スペイン国王がカトリックを広めようとしている事を悪とするオランダ人やイギリス人と親交を結び、キリシタンを迫害し、次々と教会を壊している。
しかし、奥州ではそのような事はない。
奥州王
(政宗)は、スペインを友人と思い、自らが家来とともにキリスト教徒になっても良いと言っている。
そして、30万人のキリシタンを部下にし、その助けを借りて、皇帝になる事を望んでいる」

のだそうです。

これは、明らかにスペインの手助けを得て、天下を取ろうとする『幕府転覆計画』です。

今となっては、この宣教師の手紙の内容が、どこまで本当だったのか、それともまったくの作り話なのか、知るすべはありませんが・・・

なんせ、幕府転覆どころか、徳川はこの先300年も続くわけで、結局、支倉使節団の派遣自体が闇に葬られてしまうわけですから・・・。

しかし、キリシタン禁制の時代にありえない理由で派遣された支倉常長という人物がいた事は事実なのですから、やはりここでは、よく言われる「伊達政宗がもう少し早く生まれていたら、天下は・・・」という、歴史談義に花が咲く事になるでしょうね。

・・・想像はふくらみますね~。

★政宗の幕府転覆計画については
【齢70…晩年の伊達政宗】>>
【舅・伊達政宗と幕府転覆??松平忠輝の長い勘当】>>
でも、触れていますのでよろしければどうぞm(_ _)m
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2006年8月25日 (金)

鉄砲伝来で戦国が変わる

 

天文十二年(1543年)8月25日、、種子島に中国船が漂着、乗っていたポルトガル人より、鉄砲が伝えられました。

・・・・・・・・・・

昨日までの暴風雨がうそのように、その日の種子島は台風一過の晴天に恵まれていました。

そんな大隈国・種子島・西村浦昨日の台風で被害を受けた一艘の商船が漂着します。

最初は、普通の船だと思ってのんびり見ていた村人たちは、船が近づいて来るにつれ、その見た事もないような造りにびっくり仰天!

おそるおそる様子を見ていると、その船から異国の人々が次々と下りてくる・・・

「中国人だ!」「この船は中国船だったんだ!」

村中が大騒ぎになる中、上陸した約百人の乗組員の中に見た事もない人たちが2~3人混ざっていました。

赤い毛、青い目、誰とも言葉が通じない・・・村人の驚きはさらにアップする。

あわてて駆けつけた村領主・西村織部丞(おりべのじょう)が、昔、勉強した漢文をたよりに、砂浜に文字を書いて、中国人とみられる船員に「船中の客人はどこの人なのか?」と訪ねます。

中国人は「この人たちは、西南蛮の商人である」と、答えました。

当時は、東南アジア(カンボジアやタイのあたり)の事を南蛮と呼んでいて、西南蛮とはそのもっと向こうのすべての地域を指していました。

もちろん、彼らはポルトガル人だったわけで、ポルトガルも西南蛮に含まれます。

西村は島領主の種子島時堯(ときたか)に連絡します。

この時、時堯=16歳・・・何でも興味津々のお年頃。

早速、ポルトガル人と謁見した時堯。

見た事も無い顔つき・・・見た事もない服装・・・しかし、時堯が一番興味を抱いたのは、彼らが大事そうに抱える黒い鉄の棒でした。

「これは、何だ?」
彼らは、一生懸命説明しますがらちがあきません。

「百聞は一見にしかず」とばかりに、ポルトガル人は城の庭で実射して見せます。

庭いっぱいに響き渡る轟音と、あらゆる物を一発でしとめるその威力を目の当たりにした少年は、目を輝かせ大興奮!

早速、大金をはたいて、彼らの持っていた2丁の鉄砲を、その場で購入します。

ここで時堯が、この鉄砲を家宝としてうやうやしく神棚にそなえたりなんぞしてたら、そこでストップしていたかも知れませんが、さすがに16歳の少年、そうはしませんでした。

島の鍛冶屋に1丁を渡し、分解して製法を調べるように命じたのです。

やがてその製法は、根来の僧・杉之坊によって内地に伝えられ、大阪・堺の町に伝わります。

そうなると日本人お得意の製品向上に向けての職人の腕が鳴ります。

ポルトガル人の持っていた鉄砲は、一発撃つたびに筒がばらけ、また組みなおして次に撃つ・・・といったような物でしたが、あっと言う間にその難点を克服した本家よりスゴイ改造型を作ってしまいます。

しかも、アッと言う間に、それを大量生産するシステムも開発し、『種子島』という名前で販売されるようにまでなるのです。

こうして、南の島に伝わった、たった2丁から始まった鉄砲は、やがて戦国の戦い方を一変させてしまう・・・これは、もう皆さん、ご存じですよね。
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●鉄砲伝来は種子島じゃない?という話については
      2009年8月25日【異説とその後】をどうぞ>>

●火縄銃・種子島のご使用方法については
      11月29日【火縄銃取扱説明書】をどうぞ>>

 

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2006年8月24日 (木)

ポンペイ最後のの日

 

西暦79年、8月24日、南イタリアのナポリに近いベスビオ火山が大噴火し、ポンペイ・エルコラ・スタビアの3つの町を埋め尽くしました。

・・・・・・・・・・

ちょうどその頃は、古代ローマ帝国の最盛期で、ポンペイの町はローマの貴族や富豪の別荘地でした。

近代になって発掘されたポンペイが特に注目を浴びたのは、その滅亡があまりにも突然の事だったため、幸か不幸かそこで生活していた人々の様子が、手に取るような状態でそのままに残されていたからです。

たとえば、パン屋の窯の中に作りかけのパンがそのまま炭化していたり、酒場のテーブルに酒代の硬貨が置かれていたり、ある家庭では、お母さんが台所でご飯の支度の最中で、その子供たちがペットの犬と中庭で遊んでいた・・・というような日常の光景も垣間見えたりします。

また、当時は紙が貴重だったので、町や家の壁などに落書きをするように様々なメモや覚書が書かれていて、食事のマナーや家のしきたり、あるいは、いくらで何を買ったなど今で言う家計簿のような物、恋人同士の待ち合わせの約束など、歴史的な書物では知りえない普段の生活がわかるのです。

中でも興味深いのは、町のメインストリートに大きな文字で書かれた選挙の広告。

『○○に投票しない者は、ロバに乗せて市中を引き回すぞ』とか『有能な○○を監督官の位につけよう』など、これは世界最古の選挙ポスターと言われています。

近年では、それらの点と点をつなぎ合わせて、誰が=どんな人が、どこに住んで、どんな生活をしていたかなども、徐々に特定されてきていて、まさに古代のタイムカプセルと言える物です。
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2006年8月23日 (水)

源頼朝が敗走…石橋山の合戦

 

治承四年(1180年)8月23日、石橋山の合戦で、源氏の源頼朝と平氏の大庭景親が激突しました。

・・・・・・・・・・・

平治の乱(12月9日参照>>)に敗れて父・義朝(よしとも)を失った(1月4日参照>>)13歳の時から、伊豆の(ひる)ヶ小島で流人生活をおくっていた源頼朝(みなもとのよりとも)(2月9日参照>>)以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が発した平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を受け取ったのは治承四年(1180年)の4月27日でした。

その後、挙兵を決意した頼朝は、8月17日に山木兼隆邸の夜討ち(8月17日参照>>)に勝利した後、早速、次の作戦を練ります。

時間はありません。

早くしなければ・・・山木の死を知って伊豆にいる平氏が必ず動くに違いありません。

あせっていたのか若かったのか、この頃の頼朝はのちに鎌倉幕府を開く頃の頼朝と同一人物とは思えないくらい無計画で突発的です。
(ま、個人的にはそんな感じのほうが好きですが・・・)

8月23日の朝から、平氏の襲撃に備えて、山と呼ぶにはほど遠い、丘のような石橋山の山上に陣をしき、槍を垣根のようにして壁を造り、山の木を切り倒してバリケードにして、源氏の白旗をなびかせました

あとで、三浦勢の援軍が来ることになっていたとは言え、たった三百騎の軍勢にこの低い石橋山では、要害と呼べる要害ではありません。

先日の山木攻めは、ゲリラ的な奇襲作戦でしたから、こんな合戦らしい合戦は頼朝にとってあの父とともに戦った平治の乱以来。

しかも、その時はまだ子供で指示通り着いていって、指示通り戦っただけ。

実質上の初陣とも言えるこの石橋山は、やはり若気の至りといったところでしょうか。

この日は、昼間曇り空だった天気が日が暮れて豪雨となっていました。

相対する大庭景親(おおばかげちか)は、暗闇に乗じて三千の兵で、この石橋山を包囲します。

計画では、明日の朝から攻撃をしかけるつもりでしたが、雨空の向こうの東の方向に煙が立ち昇るのを見て、夜のうちに攻撃をしかける決断をします。

その彼方の煙が、頼朝の援軍としてコチラに向かっている三浦勢が日暮れに酒匂川の大庭方の家屋を焼いたものだと知ったからです。

明日まで待っていたら、その軍勢がこの場所までやってきますから、それなら夜であっても人数の少ないうちに攻め落としてしまったほうが良いわけです。

治承四年(1180年)8月23日・・・三千騎からいっせいにときの声があがり、戦闘の火蓋が切られました。

山を一気に駆け上がる平氏軍、槍の垣根を飛び越えて山を駆け下りる源氏軍。

両軍は、山の中腹でぶつかります。

戦いは明け方近くまで続きましたが、三百と三千ではとうてい頼朝に勝ち目はありません。

結局。頼朝は、わずか5~6騎を従えて敗走するしかありませんでした。

さすがの頼朝もこの時ばかりは死を覚悟したようですが、
「なんとか落ち延びて再起をはかってほしい」
という重臣の声に、とりあえず大きな木の根元の大きく穴の開いた場所に身をひそめて朝になるのを待ちました。

やがて夜が明ける頃、できるだけ遠くへ落ち延びようと、穴から出ようとした時、馬のいななきが聞こえ人の近づいて来る気配がします。

あわてて、また穴の中に戻って身を潜めます。

静まりかえって外の気配をうかがう頼朝たち。

突然、ヌ~っと穴を覗き込む人の顔が・・・。

当然、目と目が合います。

万事休す・・・見つかってしまいました!

中にいた全員が刀の柄に手をかけた時、その男は少し遠くにいる仲間に向かって大声で叫びます。

「お~い、大庭殿~ どうやら見当違いのようや…ここには誰もいてないぞ」

「この山に、逃げ込んだのではなかったようやな」

遠くから聞こえたその声は、まさしく敵の大将・・・大庭景親。

大庭が向こうへ去っていくのをたしかめた男は、もう一度穴の中を覗き込むと頼朝に向かって、
「早よ、逃げなはれ…ほんで、もし源氏が勝利のあかつきには、この梶原の事をお忘れなく」
少し、笑いながらそう言って、男は去っていきました。

後に頼朝の右腕となって鎌倉幕府を支える梶原景時(かじわらかげとき)との出会いでした。

その後、九死に一生を得た頼朝たちは、五日間もかかって真鶴岬まで行き、船で逃走しました。

何とか拾ったこの命・・・さぁ、再起の時!!・・・ですが、そのお話は10月6日のページでどうぞ>>
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2006年8月22日 (火)

足利義満の「王権争奪計画」

 

延文三年(正平十三年・1358年)8月22日は、室町幕府三代将軍・足利義満さんのお誕生日です。

・・・・・・・・・・

足利尊氏が開いた室町幕府(8月11日参照>>)は、後醍醐天皇南朝に対する北朝という言わば逆賊からのスタートでした。

南朝という最大の敵と戦いながら、幕府の中でも内紛が起こるという混乱を乗り越えて、応安元年(1368年)に、足利義満が11歳で室町幕府三代将軍になってから後は、徐々に落ち着き始めてはいました。(12月30日参照>>)

そして、将軍職を継いでから10年後、京都の室町に花の御所と呼ばれる華麗な邸宅を建設し、そこで政治をおこなった事から、この時代は室町幕府と呼ばれます。

官僚や侍所、政所といった政治機関を足利一門で固め、京常駐では最大規模の『奉公衆』という将軍・親衛隊まで持つ事になり、ついに明徳三年(1392年)、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に皇位を譲る形で、南北朝時代は終わりを告げます。

その間すでに、義満は宮中に参内した時に武家のマナーではなく、公家のマナーで天皇と接したり、次期天皇の即位の大礼の日程を決めたり、元号を決定したりと、うさん臭さ丸出しの行動をとっています。

やがて、応永元年(1394年)、37歳の若さで将軍職を息子の義持に譲り、朝廷から任命された最高官である『太政大臣』を、翌年すぐに辞退してしまいます。

武家と公家、両方の最高職を蹴った事になるわけです。

これは、将軍や太政大臣より上の地位を狙っていた証拠とも言えますねぇ~。

しかし、それより上の地位というのは、天皇しかありません。

その直後、義満の邸宅を訪れた関白・一条経嗣が、決定的な場面を目撃してしまいます。

それは、参議に昇進した西園寺実敦が邸宅の庭で舞を舞っていて、それを義満が見ている・・・という場面。

これは「拝賀奏慶(はいがそうけい)という物で、新しい官職に任命された公卿が謝礼の意味で舞を舞う、という儀式のような物で、当時めずらしい事ではありませんでした。

ただ、それは上皇に対して行う儀礼であって、未だかつて将軍の前では、ただの一度も行われた事はなかったのです。

そのうち、義満は右大臣や内大臣の任命まで行うようになります。

そして、応永八年(1401年)義満は、との国交を開きますが、明の皇帝からは「日本国王」としての扱いを受け、自分自身も皇帝に対して「日本国王臣源」と署名しています(5月13日参照>>)

Dscn1995a いよいよ義満が天皇になる日も近いのでは?・・・と思いきや、応永十五年(1408年)あっけなくこの世を去ってしまいます。

それまで日本の歴史上、天皇をしのぐ権力を持った人は何人もいます。
しかし、天皇にとって代わろうとした人は、まずいない。

はたして、義満が本当に天皇になりたかったかどうかは、「本人のみぞ知る」・・・といったところでしょうか。

今となっては、状況証拠による憶測でしかありませんが・・・
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2006年8月21日 (月)

島津を180゚変えた生麦事件

 

文久二年(1862年)8月21日、横浜で生麦(なまむぎ)事件が起こりました。

・・・・・・・・・・・

尊皇攘夷派を力で押さえつけていた大老・井伊直弼が、桜田門外の変(3月3日参照>>)で暗殺され、いよいよ幕府の体制が揺らぎはじめました

幕府は何とか体制を立て直そうと、朝廷と幕府が協力して政治を行う『公武合体運動』を掲げます。

その象徴が、14代将軍・徳川家茂(いえもち)孝明天皇の妹・和宮結婚でした。

このふたりの結婚を一番に推し進めていたのが、薩摩藩のご隠居・島津久光・・・そして、参勤交代の緩和や西洋式軍隊の採用など、文久の改革と呼ばれる幕府の新体制を整え、これで尊皇攘夷派を押さえこむ事ができるだろうと、江戸での仕事を終え、京に向かう途中に事件は起こります。

文久二年(1862年)8月21日、島津久光の行列が、横浜生麦村に差し掛かったところ、馬に乗った4名のイギリス人に出会います。

このイギリス人が下馬もせず、道を譲る事もしなかったので、「無礼だ!」と、お供の武士たちが斬りかかりました。

一人が死亡、残りの三人はアメリカ領事館に逃げ込んで助かりました。

イギリス側は、幕府に犯人の逮捕と正式な謝罪、そして10万ポンドの賠償金を要求・・・薩摩藩にはイギリス人立会いのもとの裁判と極刑、遺族への2万5千ポンドの慰謝料の支払いを要求しました。

幕府はイギリス側の要求どおり、陳謝状の公布と賠償金を支払いましたが、薩摩藩は要求に応じません。(7月1日参照>>)

話はモメにモメ、薩摩対イギリスの砲撃戦=薩英戦争に発展します(7月2日参照>>)

イギリスの最新式のアームストロング砲で、大きな被害を被った薩摩藩は、結局、幕府からの借金で2万5千ポンドを支払い、軍艦購入の世話をイギリスに頼む事を条件に和解したのです。

欧米の軍事力のスゴさを、直接体験した久光は、急遽方針を転換(9月28日参照>>)

以後、薩摩は、長州とともに開国討幕派の先頭に立つ事となります。

ところで・・・
『生麦・生米・生卵』って、けっこう言いやすい早口言葉やと思ってましたが、これに『事件』をつけて言ってみると、メッチャ難しい!という事を今夜発見しました~。

『生麦事件・生米・・・』ぐらいまでしか言えません(#^o^#)
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2006年8月20日 (日)

三笠の山に出でし月かも

 

養老元年(717年)8月20日、遣唐使・安倍仲麻呂(中国)へ出発しました。

・・・・・・・・・・・

ご存知だとは思いますが、この遣唐使というの簡単に言えば日本から中国への留学制度です。

推古十五年(607年)に聖徳太子が、第1号の小野妹子を派遣(7月3日参照>>)してから、寛平六年(894年)に廃止される(9月14日参照>>)まで、300年近くの長きにわたって実施されていました。

途中、中国で隋が滅び唐になったため名前も、最初の遣隋使から遣唐使に変わります

全盛期には、数百名が4艘の船に分乗して海を渡りました。

ただ、そのうち純粋の遣唐使は百名くらい・・・純粋の遣唐使というのは、国が外交目的で派遣する今でいうところの外交官のような人と、特に優秀な人材でコイツには先進国で学ばせたいと思って100%国費で留学する留学生と僧です。

残りの4~5百名は、私費で渡る留学生や学問僧でした。

以前最澄のところで書きましたが(6月4日参照>>)最澄は国費、空海は私費で行ってます。

安倍仲麻呂(あべのなかまろ)も、養老元年(717年)8月20日20歳のときに私費で留学しました。

・・・とはいえ、かなり優秀な人であったらしく、当時の都・長安で、儒学や算術・法律といったさまざまな学問をマスターしていき、現地の中国人でもなかなか受からない役人の試験・科挙(かきょ)にも合格しています。

やがて仲麻呂は、時の皇帝・玄宗の右腕として働き、高い位の役人へと上り詰めます。

しかし、いくら出世しても、生まれ育った故里への望郷の念は忘れる事がせきません。

唐にわたって十五年程の時に、日本からの遣唐使船がやって来たとき、玄宗皇帝に帰国を願い出ますが、その時は許しがでませんでした。

その次に遣唐使船がやってきたのは、二十年後・・・もう彼は55歳になっていました。

今度が最後のチャンスかも知れないと、ふたたび帰国を願い出ます。

さすがに今回は玄宗皇帝も、仲麻呂の年齢を考慮したのか、帰国の許しが出ました。

天平勝宝五年(753年)、勤めを終えた遣唐使たちを乗せて、4艘の船は唐の港を出発しました。

しかし、この時代、海を越える事はたいへんな事でした。

げんに、遣唐使船は全部で16回派遣されていますが、出発した4艘が4艘とも無事に帰還したのは、たったの1回だったと言われています。

それだけ、当時の東シナ海は、海の難所でした。

この時の4艘も、1艘は和歌山に、次に鹿児島に漂着。

3艘めも、歳月はかかったものの日本に無事到着しました・・・ちなみに、この遅れて帰ってきた船に鑑真が乗っていたと言われています(12月20日参照>>)

しかし、残念ながら仲麻呂の乗った船はベトナムに漂着してしまいます。

しかも、海賊に襲われたり、病気にかかったりで、無事長安に戻れた者は10人ほどでした。

仲麻呂は、命があっただけでもラッキーだったのかも知れません。

しかし、結局その後、日本に帰ることはできませんでした。

Dscn0699_2♪天の原 ふりさけ見れば
  春日なる
 三笠の山に 出でし月かも

 

今、唐にいる自分が見ているあの月は、遠い故里の三笠山に出ている月と同じ月なんだ!

仲麻呂の故里への思いが伝わってくる一首です。
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2006年8月19日 (土)

鼠小僧次郎吉 御用だ!

 

天保三年(1832年)8月19日、江戸・品川の鈴ヶ森の刑場で、鼠小僧次郎吉が処刑されました。

・・・・・・・・・・

真っ暗な闇夜の江戸の空に、けたたましく鳴り響くピーッ!ピーッ!という呼び子の音に、
眠りを妨げられた幼い姉と弟は、あわてて病気の母のもとにかけ寄る。

その、ただ事ではない雰囲気に、ふるえながら寄り添う三人が見つめる破れ障子の向こうには、いくつもの御用ちょうちんが右に左に走り回る。

「御用だ!御用だ!」
その声が少し向こうへ遠ざかったかと思うと、チャリ~ン!破れ障子の向こうから小判が2枚、3枚と投げ込まれる。

あわてて土間に飛び降り、小判を拾い集めた弟が、障子の隙間から外をのぞくと、千両箱を小脇にかかえ、屋根から屋根へヒョイヒョイっと小判をバラまきながら飛び移る人影。

手玉にとられて、右往左往するだけの同心・捕り方を尻目に、その人影はいつしかス~っと闇にかき消される。

盗みのターゲットはもっぱら大名や旗本の屋敷ばかり、人を傷つけず、脅さず、品物を取らず現金だけを取り、盗んだ現金は、まずしい庶民にバラまく・・・

『盗みはすれど、非道はせず』・・・義賊・鼠小僧次郎吉です。

カッコイイ~ヽ(´▽`)/カッコ良すぎる~

・‥…━━━☆

最近は、めっきり少なくなった時代劇ですが、以前毎日のように各チャンネルで時代劇が放送されていた頃は、鼠小僧(ねずみこぞう)と言えば、誰もが知る江戸のヒーローでした。

小川真由美さんの『女ねずみ小僧』はホントにカッコよかった~

実際の次郎吉は、12歳で父親と死に別れ、建具職人のところへ弟子入りし、建具職人として、りっぱに生計を立てていました。

ところが、小さい頃から身が軽かったからか、二十歳過ぎてから突然とび職に転職します。

その頃から、どんどん博打にハマっていき、いつの間にやら借金まみれで、4回の結婚のお相手もすべて稼ぎのある料理屋の酌女・・・つまりヒモです。

いつしか、生まれながらの身の軽さを盗みに使うようになってしまいます。

ターゲットを大名や旗本の屋敷にしたのは、お金持ってるわりには警備があまかったから・・・。

品物を取らず現金のみにしたのは、品物をさばくのがめんどうだから・・・。

脅したり強盗をしなかったのは、自分が、色白で小柄で弱々しい見た目だから・・・。

盗んだ金は、庶民にバラまく事なく、ぜ~んぶ博打に使っちゃいました。

なので、残念ながら、義賊ではなく、普通に盗賊です。

ただ、あちこちの賭博場で、少しずつ使っていて、ド~ンとはぶりよく賭けるといった感じではなかったので、「あの大量に盗んだお金はどこへ消えたんだ?」という人々の憶測から、貧しい庶民に分け与えた・・・という噂が広まったようです。

捕まるまでの約10年間で、122件の盗みを働き、盗んだ金額は1万両、現在のお金で約10億円と言われています。

しかし、いくら10億円盗んだと言ってもあくまで窃盗・・・本来なら、どう転んでも単なる死刑が関の山です。

強盗殺人でもない犯人を『市中引き回しのうえ獄門』というのは、異例の重さです。

これは、どう考えても見せしめ・・・鼠小僧がいかに江戸の庶民に人気があったかの証拠ですね。

処刑のこの日集まった人々は、罪人を見に来るというよりは、スターを見に来るといった感じで、普通、罪人が市中引き回しをされると、やじ馬から石を投げられるのが当然でしたが、次郎吉には誰ひとりとして石を投げつける者はなく、逆に手を合わせて拝んでいた人までいたというから、たいしたものです。

押さえつけられた封建社会の中で、権力を持つ大名・旗本に一泡ふかせた鼠小僧は、何だかんだ言っても、やっぱり江戸のヒーローだったんでしょうね。
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2006年8月18日 (金)

なにわのことも夢のまた夢

 

慶長三年(1598年)8月18日、百姓から天下人にまでのぼりつめた、あの豊臣秀吉が63歳で、その生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

秀吉が病に倒れたのは、慶長三年(1598年)の端午の節句の後でした。

最初はそんなに思い病気だとは、誰も思っておらず、年のせいでちょっと体長を崩したかな?・・・という感じでした。

現在では、秀吉の病気は、肺結核か気管支炎などの呼吸器系の病気だったのでは?と言われていますが、ともかく7月2日には、意識がなくなり、一旦危篤状態になります。

その後、意識を取り戻した秀吉は、このままで、ふたたび意識がなくなっては、えらいこっちゃ!とばかりに、大阪城伏見城に大名を集めて、十一ヶ条の『覚書』を提示して、五大老に遺言を残し、五奉行を任命します。

7月15日には、諸大名に秀頼への忠誠を誓う誓詞を要求(7月15日参照>>)
8月9日には、皆の前で、しっかりと今後の事を話した(8月9日参照>>)秀吉・・・

それでも、秀吉の心残りは、やはり、まだ6歳だった息子・秀頼の事・・・自分自身が織田信長の死後にとった行動を思い出した事でしょう。

秀吉は、信長が本能寺で自害(6月2日参照>>)した時、大急ぎで京に戻って(6月6日参照>>)山崎の合戦明智光秀を討ちました(6月13日参照>>)・・・

そして、織田家の後継者を話し合う『清洲会議』(6月27日参照>>)・・・

この時、秀吉は、織田家の重臣・柴田勝家の押す信長の三男・信孝を退け、わずか3歳の孫・三法師を担ぎあげました。

後見人として、実権を握る目的です。

そうやって、織田家を見守るポーズをとって、結果的には、自らが天下を握ったわけで・・・

今度は、自分の跡継ぎが、わずか6歳です。
その時の自分自身が走馬灯のように浮かんだに違いありません。

『かえすがえす秀頼の事、頼み申し候。
五人の衆頼み申し候。
委細、五人の者に申し渡し候。
名残惜しく候。』

天下人の遺言にしては、悲しいまでに幼い息子を心配している様子が伝わってきます。

この五人の衆というのは、五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五人です。

五人の者というのは、五奉行・・・石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家の五人。

特に、まだ足軽だった頃からの友人・前田利家には、その手を握り「どうか、秀頼を護ってくれ」と何度も何度も頼んだと言います。

そして、慶長三年(1598年)8月18日・・・希代の出世男・豊臣秀吉は息をひきとりました。

しかしこの後、秀吉の思いもむなしく、五大老のひとり・徳川家康が大阪夏の陣(5月8日参照>>)で、淀君・秀頼親子を自害に追い込む事になります。
 

Dscn0484 ♪つゆと落ち  つゆと消えにし
わが身かな
なにわのことも 夢のまた夢 ♪
            
 
秀吉辞世

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2006年8月17日 (木)

伊豆に白旗!頼朝挙兵

 

治承四年(1180年)8月17日、伊豆に流罪の身となっていた源頼朝が挙兵しました。

・・・・・・・・・・

平治の乱(12月9日参照>>)に敗れ、父・義朝(よしとも)を失ったのは、源頼朝(みなもとのよりとも)13歳の時でした(1月4日参照>>)

彼もこの戦いには、出陣していますから、捕まった以上、長兄・義平(よしひら)(1月25日参照>>)同様に斬首になるはずでした。

しかし、敵の大将・平清盛(たいらのきよもり)の母・池禅尼(いけのぜんに)が、亡くした息子に顔立ちが似ていた頼朝を「何とか命だけは助けてやってほしい」と清盛に頼みこんで(理由はそれ以外にも諸説ありますが…)斬首ではなく、伊豆に流罪となったのです(2月9日参照>>)

以来、挙兵をする、この治承四年(1180年)までの二十年間、彼は(ひる)ヶ小島の狭い草家で、青春の日々を送ります。

清盛の命によって頼朝を監視していたのは、伊東祐親(いとうすけちか)北条時政(ほうじょうときまさ)の二人。

流人の身ですから、他の人々と接触がないのはわかります。

青春真っ只中で、その有り余る情熱をぶつける相手が限られていたのもわかります。

・・・で、やっぱり・・・と言うか、まさか・・・と言うか、頼朝さんはこのお目付け役の二人の、両方の娘さんに手をつけてしまいます~。

まずは、伊東祐親の娘・八重姫と・・・たまたま祐親が京に滞在している間に関係を持ってしまいます。

なるようになって、祐親の館にころがり込んだ頼朝。

やがて、男の子が生まれ千鶴と名付けられ、3人で仲良く暮らしていましたが、3年後戻ってきた祐親は激怒・・・千鶴は即殺され、八重姫も近くの豪族と無理やり結婚させられてしまいます。

しかたありません、頼朝の子供を孫と認める事は、平家に反旗をひるがえしたと同じ事になるのですから・・・。

頼朝は、ふたたび蛭ヶ小島で悲しみに耐えながらひとり寂しく暮らしている・・・・と思いきや、祐親の怒りっぷりに危険を感じて、いち時、逃げ込んだ北条時政の館で、今度は、時政の娘・政子に手を出します。

時政は祐親のように、二人の関係をあからさまには反対しませんでした・・・と言うより、勝気な政子が頼朝にベタ惚れ、反対しても反対しても、勝手に会いに行ってしまう状況に、ある意味あきらめた・・・という感じでしょうか。

それと同時に、やはり心のどこかに、「清盛の世が永遠に続くはずもない。その時は・・・」という野心を持っていたのも事実でしょう。

やがて、小中太工藤土肥などという伊豆、相模、駿河周辺の武士たちが、蛭ヶ小島の頼朝の家に出入りするようになります。

そんな時にグッドタイミングで、打倒平家を掲げる以仁王(もちひとおう・後白河法皇の息子)平家討伐の令旨(天皇家の命令書)(4月9日参照>>)が届きます。

頼朝が令旨を受け取ったのは4月27日・・・しかし、彼はスグには、動きませんでした。

そして5月26日に以仁王と源頼政が敗死(5月26日参照>>)、その知らせを受け取るのが6月19日。

その時の使者は、「こうなると、清盛から命を狙われるかもしれないから、奥州へ逃れてはどうか」という警告します。

伊豆の目代・山木兼隆(やまきかねたか)も、もし清盛からの命令があれば、すぐにでも頼朝を討ちにくるに違いありません。

そして、頼朝はその5日後、決断を下します。

それは、逃亡ではなく発起・・・6月24日に関東の武士に参集を呼びかけたのです。

この状況に、蛭ヶ小島から自分の館に頼朝を迎え入れた時政も、平家に反旗をひるがえす決意を固めます。

一説には、度々頼朝に会いに来ていた僧・文覚(もんがく)の後押しもあったとか・・・(7月21日参照>>)

かくして、治承四年(1180年)8月17日頼朝率いる源氏軍は闇にまぎれて、かの山木の館を取り囲み夜襲の準備にかかります。

この日は、三島神社の祭礼の日で、ほとんどの者が祭り見物に出かけ、館の護りは手薄、しかも、中にいる者も酒など酌み交わし宴会の真っ最中。

城門もまたたく間に打ち破られ、あっという間に、あたりは修羅場と化し、兼隆も討たれていまいました。

この日、伊豆の夜空にたなびいた源氏の白旗は、これから先の源平の合戦を予感させるように、堂々と風をはらんでいたに違いありません。

このお話の続き・・・石橋山の合戦のお話は8月23日のページでどうぞ>>
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2006年8月16日 (水)

義仲が木曽にいたワケは・・・

 

久寿二年(1155年)8月16日、悪源太義平叔父・義賢を殺害しました。

・・・・・・・・・・

Genzikeizu_3あの八幡太郎・源義家の孫にあたるのが源為義(みなもとのためよし)

この人の長男義朝(よしとも)で、義平(よしひら)・頼朝(よりとも)・義経(よしつね)などのお父さんです。

為義の次男義賢(よしかた)で、 義仲(よしなか)のお父さん

つまり、頼朝・義経のお兄さんが、義仲のお父さんを斬ったという事件なのです。

義賢は、為義の次男という立場から、武蔵の豪族・秩父重隆の養子となって上野から武蔵一帯を仕切っていましたが、それは、同時に関東に勢力を広げたいと思っていた義朝にとって、あまり面白くない事でもありました。

この頃、義朝は、父・為義とともに京の都にいる事が多かったので、源氏本家の地元での細かな事は、ほとんど長男の義平にまかされていました。

そんな中で、はっきりした事はわかりませんが、おそらくは、領地争いのもつれから久寿二年(1155年)8月16日・・・15歳の義平は、血気にまかせて、武蔵国大倉館(埼玉県)を襲撃し、叔父・義賢を討ち取ってしまいました。

この事で、義平は鎌倉の悪源太(あくげんた)と呼ばれる事になります。

この時、義賢の息子・義仲はまだ2歳で、駒王と呼ばれていました。

義平は、父の仇として将来怨まれる事をおそれ、今のうちに殺してしまおうと、早速駒王の捜索に取り掛かります。

しかし、まもなく義平に「上洛せよ」との命がくだり、配下の畠山重能(はたけやましげよし)「必ず駒王を探し出して殺せ」と命令して旅立ちます。

そして、ほどなく駒王は発見されてしまいます。

しかし、重能は、わずか2歳の幼児をその手で殺す事ができずに思い悩んで、斉藤実盛(さいとうさねもり)という男に託します。

でも、斉藤も困ってしまいます。

いつまでも、駒王を隠しておける自信もないし、かと言って、もし見つかったら自分が処分を受ける事になります。

そこで、信州木曽谷の豪族・中原兼遠(なかはらかねとお)に預けるのです。

「木曽の山奥なら、おそらく見つかりはしないだろう」との思いでした。

この時代、東国においては、源氏が武門の棟梁として君臨し、西にはもちろん平家がいました。

しかし、信州には、未だ棟梁と呼べる者はおらず、各豪族が互いにしのぎをけずっている・・・といった状況でした。

『源平盛衰記』では、この時の兼遠はこう言ったといいます。

「此の人は正しくは八幡殿には四代の御孫也。

世の中の淵は瀬となるたとえあり、いまこそ孤子(みなしご)にて御座すとも、知らず世の末には、、日本国の武家の主とも成りや給はん。

如何様にも、養ひ立て、北陸道の大将軍になし奉って・・・」

(今は孤児やけど、本当なら八幡太郎義家の源氏の流れ・・・いつか、この子が武家の棟梁となる日が来るかもしれへん。

それなら、なんとしてでもこの子を育てて北陸道の大将に仕立てて・・・)

これまで、どんぐりの背比べだった北陸・信州に、源氏の御曹司がやってきたわけで、兼遠も大いに野心をかきたてられたに違いありません。

兼遠には、ちょうど良い年頃の子供たちがいました。

後に四天王と呼ばれる長兄・樋口兼光(ひぐちかねみつ)と弟・今井兼平(いまいよしひら)、そして生まれたばかりの女の子。

この時、兼平は4歳で、生まれたばかりの女の子は後に義仲の妻となる女の子です。

女武者として有名な巴御前は、この3年後に生まれます。

以前、『義仲入京』のページ(7月28日参照>>)で、木曽の山奥で兄弟のように育った・・・と書いたのは、こういういきさつがあったからです。

その後、平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)の後、かの義平が六条河原で斬首され(1月25日参照>>)、やっと駒王=義仲は、逃げ隠れせずともよくなったという事なのです。
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2006年8月15日 (火)

石橋を叩いて渡る北条早雲

 

永正十六年(1519年)8月15日、北条早雲が88歳で、この世を去りました

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)は、まさに戦国の幕開けでした

足利将軍家は衰退の道を歩み始め、守護大名は没落し、山城に国一揆が起こり、世は強いもん勝ちの実力社会・下克上となります。

そんな時いち早く頭角を現したのが戦国の風雲児(児と呼ぶにはオッチャンですが・・・)北条早雲(ほうじょうそううん)です。

ホントの名前は、伊勢新九郎長氏(諸説あり)

剃髪をして早雲と号し、彼の次世代から北条氏を名乗るので、実際には、本人が北条早雲と名乗った事はありませんが、一般的には北条早雲と呼ばれます。

早雲の生まれは永享四年(1432年)、出生地は京都とも伊勢とも言われ、はっきりしません。
(出自についての論争は【物議をかもしだした北条早雲の手紙】のページで>>)

はっきりしているのは、早雲は、かなりの遅咲き、大器晩成型だという事。

それは、石橋を叩いて渡る・・・いや、叩いてもまだ渡らないくらいの用意周到な性格が影響しているのでしょう。

強固な確信がないかぎり、絶対に動かない人だったようです。

そんな早雲がある夜、夢を見ます。

ネズミが二本の杉の木をかじる夢

早雲は子年の生まれ、二本の杉の木は、当時、関東管領の座を争っていた山内扇谷(おうぎがやつ)の、両上杉家

ちょうどその時、将軍家も鎌倉公方の座を争っていて、まさに関東は真っ二つに分かれていたのです。

そんな分裂状態の合間をぬって、今川義忠の側室となっていた妹(または姉)北川殿を頼って駿河にやってきたのが、すでに50歳の早雲・・・。

義忠の死後、義忠と北川殿の間に生まれた氏親を助けて今川の内紛を収め(6月21日参照>>)、扇谷上杉家の太田道灌とも話し合い、氏親を今川家の当主に押し立てたことにより、興国寺城を譲り受け城主になります。

そして、ここから早雲の怒涛の出世が始まっていくのです。

堀越公方を滅ぼし伊豆に進出した(10月11日参照>>)のが60歳。

大森藤頼をだまし討ちして、小田原城を奪い取ったのが64歳(2月16日参照>>)

その後、伊豆と西相模を固め、85歳で三浦半島・新井城の三浦氏を滅ぼし、相模一国を手に入れました(7月13日参照>>)

87歳でやっとこさ長男に家督をゆずり、その翌年=永正十六年(1519年)8月15日88歳の生涯を閉じました。

波乱万丈な戦国の世で、静かに畳の上で息をひきとったのは、やはり石橋を叩いて渡るその用意周到な性格のなせるワザと言ったところでしょう。

早雲が奪った小田原城は、こののち北条氏・五代の本拠地となり、豊臣秀吉天下統一を最後まで阻みます。(7月5日参照>>)

*さらにくわしくは【北条・五代の年表】でどうぞ>>
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2006年8月14日 (月)

『仮名手本忠臣蔵』初上演

 

寛延元年(1748年)8月14日、討ち入りから50年近くたったこの日、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』が、大坂・竹本座で初上演されました。

・・・・・・・・・・・

ちょっと前までは、外題に困れば忠臣蔵という事がよく言われ、劇場の入りがどんなに悪くても、とりあえず忠臣蔵の芝居をやっとけば、お客は入る・・・のだそうです。

それくらい、日本人の魂を揺さぶる作品なんですよね、この忠臣蔵って・・・。

忠臣蔵は、ご存知、赤穂浪士が亡き主君のあだ討ちをしに、吉良邸へ討ち入りをした事件を(12月14日参照>>)、人形浄瑠璃の戯曲として『仮名手本忠臣蔵』の題名で上演された物です。

しかし、実は『仮名手本忠臣蔵』が上演される以前から、赤穂浪士の討ち入り事件は、それぞれ別の題名で、何度もお芝居として上演されていて、『仮名手本忠臣蔵』は言わばそれらの集大成!と言った感じで、今だと完全に著作権法違反・・・でも、もともとの話は事実だからドキュメンタリーなわけですからね。

よく、ドラマの最後にテロップで出る『この作品は事実をもとにしたフィクションです』って言うアレですね。

でも、数多くの中からこの『仮名手本忠臣蔵』が現在に残る・・・という事は、やはりこの作品が一番良い出来だったからでしょう。

しかし、驚くなかれ、
討ち入り直後どころか、実は、討ち入りの前に、すでにお芝居として上演されたいたのです。

もちろん、それは、『仮名手本忠臣蔵』という題名ではなく、東山栄華舞台(ひがしやまえいがのぶたい)という題名なのですが、あの浅野内匠頭が、江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかった刃傷事件(3月14日参照>>)のあったその月に、早くもその刃傷事件を題材にしたお芝居が上演されたと言います。

吉良邸討ち入り後は、その翌年の正月(討ち入り12月やから・・・正月ってメッチャ早っ!)京都で、二月には江戸で、『傾城三ツ車(けいせいみつぐるま)『曙曾我夜討(あけぼのそがのようち)などという題名で上演されたとか・・・。

曾我兄弟のあだ討ちとからませてあるのは、江戸時代は実名上演禁止だったためで、『仮名手本忠臣蔵』でも、主人公の名前は微妙に変えられていますよね。

ともあれ、現代の私たちが、メディアだ!ニュースだ!ネットだ!とスピードの早さでは負けないと思っていましたが、どうしてどうして、江戸時代の庶民のニュース・スキャンダルへの食いつきの早さは、たいした物です。

ところで、私たちにとっては、冬場のイメージの強い忠臣蔵が、この夏の盛りに初演されたのにも驚きますね。

それは、この忠臣蔵・・・今回の初上演の少し後からではありますが、江戸時代を通じて、おおむね二本立てで上演されていたんですね~。

その、もう1本というのは・・・ご存じ、四谷怪談・・・っと、そのお話は、【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】でどうぞ>>
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2006年8月13日 (日)

日本初の野球中継は・・・

 

昭和二年(1927年)8月13日、野球の実況が初めて電波にのりました

・・・・・・・・・・・

日本初の野球中継・・・

それは、JOBK大阪中央放送局甲子園から放送した全国中学校優勝野球大会・・・つまり、今の高校野球・夏の甲子園の初日の試合でした。

最初は、主催の朝日新聞「ラジオで中継されたら観客が減る」として、難色を示していましたが、いざ中継してみると、逆に入場者が増え、その後は、甲子園からの野球中継はラジオの人気番組となりました。

同じ昭和二年の8月24日には、東京放送局が、当時人気だった一高対三高の試合の中継をしましたが、アナウンサーがそのまましゃべるのではなくて、野球通の作家が試合を見ながら原稿を書いて、それをアナウンサーが読む、という今では考えられない無茶なシステムを取り入れたために、筆が試合のスピードに着いて行けず(当然やろ!)、以後はアナウンサーが、見たままを即時描写する中継方式になったという事です。
(良かった、良かった、急がされる作家が気の毒やがな)

東京六大学の野球中継も同年の10月から開始され、当時、職業野球と呼んでいたプロ野球の中継は、昭和十一年から始まりました。

東京六大学の野球中継と言えば、エンタツ・アチャコの早慶戦の「打ちました!ヒット、ヒット、ひっとごろし~」を思い出してしまうのは、私がお笑い好きだからでしょうか・・・。
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2006年8月12日 (土)

大岡・名裁きは本当?

 

元文元年(1736年)8月12日、徳川吉宗江戸町奉行に19年間在任した大岡越前守忠相を寺社奉行に任命しました。

・・・・・・・・・・・

享保の改革をした徳川八代将軍暴れん坊・吉宗さん(6月18日参照>>)

人材投与にも力を入れた人ですが、そんな吉宗さんの大のお気に入りがドラマやお芝居でもお馴染みの大岡越前=忠相(ただすけ)さんです。

あの胸のすくような大岡裁きは本当にあったんでしょうか?

大岡さんは、町奉行を務めた19年間で、裁いた件数がなんと!25万9千件。

計算してみると・・・1日当たり37件という数字に・・・。

ホンマかいな?と疑いたくなるような数字ですね。

もちろん現在の裁判制度とはまったく別物ですから、比較はできませんが、たまには休日をエンジョイする日もあっただろうと考えると大変な数です。

たしかに大岡さんは、常に公平に真実を追究し、なるたけ寛大な処置をするよう心がけていたようです。

あったかい心の持ち主で、吉宗さんもそんな所がお気に入りだったんでしょうか。

当時、仲が良かった蘭学者青木昆陽(こんよう)(3月9日参照>>)らを通じて海外事情にくわしかった大岡さんが、裁判の時に諸外国の説話などを交えて判決を下す、その口ぶりが聞く人に「ヨッ!大岡・名裁き!」・・・の印象を与えたんでしょう。

実際には、正式な記録に残っているもので、ドラマのような名裁きと思われるものは2~3件だと言われています。

吉宗に「今まで謝って何人殺しんだ?」と聞かれて、真剣な顔で「二人です」と答えたという大岡さん。

真面目なかたですから、裁きが終わったあとも自分自身で振り返って、ほんとうに正しかったのかどうか考えたりしていたんでしょうね。

そこんトコがやっぱり名奉行と言えるところなんでしょう。
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2006年8月10日 (木)

御成敗式目て何じゃらホイ?

 

貞永元年(1232年)8月10日、執権・北条泰時『御成敗式目』を定めました。

・・・・・・・・・・

定められた時の年号から『貞永式目』とも呼ばれる『御成敗式目』。

歴史の教科書には必ず太字で、重要項目として書かれていますが、いったいどんな物なんでしょうか。

一言で言うと(リンカーンじゃないですが・・・)
『武士の、武士による、武士のための法律』ってとこですね。

9年前に起こった承久の乱(5月14日参照>>)の勝利で、全国支配が可能になった北条政権が、ここに来ていよいよ法律の制定に乗り出したわけです。

51か条から成るこの法律は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時からの、色々な裁判例に基づいて、領地のもめ事や財産の相続などを、身分の高い低いを問わず公平に裁くための物で、守護の職務についてや、地頭の役目、御家人の身分、財産相続に関するきまりごとが中心です。

武士の大部分が律令を知らないために、朝廷の裁判官の都合の良いように裁判されてしまう現状を打破するための物でもあります。

この『御成敗式目』は、武士だけに適用された法律ですが、これから後に作られる足利尊氏『建武式目』(11月7日参照>>)や、徳川幕府の『武家諸法度』などにも、武家の法律のお手本として、大きな影響を与えました。
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2006年8月 9日 (水)

ザンギリ頭を叩いてみれば・・・

 

明治四年(1871年)8月9日、明治政府が『断髪令』を発布しました。

・・・・・・・・・・・

要するに、「ちょんまげを切って、洋風の散髪をしなさい」というおふれを出したんですね。

これは、岩倉具視の意見だそうで、その頃、欧米諸国が日本の風俗に難癖つけて、なかなか外交問題が解決しなかったらしく、法令として決めちゃいました~って事です。

でも、千数百年続いた長い長い習慣ですから、ハイそうですか!ってすぐに短くできる人ばっかりじゃありませんしね。

各地で相当トラブルになったみたいです。

散髪屋は、その頃は西洋床と呼ばれていて、もうすでに明治二年(1869年)に横浜の南京町と、東京の銀座に開店していました。

当時も、何人か有名な理髪師、今で言うカリスマ理容師さんがいたようですね。

散髪屋さんの前に今もある例のグルグル回るヤツ・・・あれは、有平棒(あるへいぼう)という名前で呼ばれていて、東京の庄司辰五郎という人が明治四年(1871年)に始めて使って、他のお店も次々と、それに習ったという事です。

名前の由来は、当時流行っていた南蛮風のねじり飴の名前が有平糖と呼ばれていて、形が似ていたからです。

なかなか髪を短くする事に抵抗のあった当時の人たちも、明治六年(1873年)に明治天皇が散髪してからは、庶民にも一気に広がり始め、明治二十年(1887年)頃には、もう98%の国民がザンギリ頭になっていたとか・・・。

♪半髪頭を 叩いてみれば
  因循姑息
(いんじゅんこそく)の音がする
♪総髪頭を 叩いてみれば
  王政復古の音がする
♪ザンギリ頭を 叩いてみれば
  文明開化の音がする

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2006年8月 8日 (火)

雪舟さんのご命日です

 

永正三年(1506年)8月8日、室町時代の水墨画の頂点を極めた雪舟が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

雪舟は、応永二十七年(1420年)、備中の生まれと伝えられていますが、その前半生は、はっきりと分かりません。

十二・三歳の頃に、生まれ育った備中の宝福寺に入門したと伝えられています。

いたずらをして叱られて柱に縛りつけられた時、涙でねずみの絵を書いたというエピソードはこの頃の物なのでしょう。

Dscn2417a その後、京都の相国寺で、禅の修業をするのと同時に、周文から画を習い始めます。

周文は、『日本水墨画の父』と呼ばれる人ですから、雪舟の才能ももちろんですが、やはり先生も良かったんでしょうね。

その後、周防(すおう・山口県)大内氏をたよって西へ向かった雪舟は、応仁の乱の起こった応仁元年(1467年)に、幕府の船に便乗して中国に渡ります。

中国のお寺でも壁画を描いたと言われていて、その頃、もうすでに、雪舟の絵のうまさが中国でも知れわたっていたようです。

そして、彼はこの中国で、中国人の画家たちから新しい画法を学び、より雪舟らしい独自の画風を確立していきます。

帰国後は、周防を中心に諸国をめぐり、たくさんの名作を世に送り出しました。

ある日、以前世話になっていた大内義興(よしおき)が、「明中国)から素晴らしい画を手に入れたぞ!」と、雪舟に自慢げに見せたところ、それは雪舟が描いた物だったというエピソードも残っています。

Sessyu 代表作の「花鳥屏風」「秋冬山水図」などを世に残し、永正三年(1506年)8月8日雪舟は亡くなりました。

87歳という大往生・・・いえいえ、人間、何年生きたって、「これでいい!」と思う事はありません。

芸術家たる者、常に志半ば・・・雪舟さんも、もっともっと絵を描きたかった事でしょうね。
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2006年8月 7日 (月)

煙とともに、灰、左様なら~十辺舎一九が死す

 

天保二年(1831年)8月7日、『東海道中膝栗毛』で有名な、十辺舎一九が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

十辺舎一九(じっぺんしゃ いっく)は、明和二年(1765年)生まれ。

駿河(静岡)千人同心(郷士身分の幕臣集団)の子供で、小田切家に仕えていた時に、赴任先の大坂で浄瑠璃を見物し、浄瑠璃作家にあこがれて、物書きをめざすようになります。

その後、江戸に出て、萬屋重三郎(よろずやしげさぶろう)という出版元の家に居候しながら、本の執筆をしました。

その頃の著書には、『心学時計草(しんがくとけいぐさ)などが、あります。

それから、もちろん大ベストセラーとなった『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)も・・・。

『東海道中膝栗毛』は、正編・続編合わせて三十二編、21年かけて刊行された超大作です。

最初は、版元の萬屋さんが、引き受けてくれず、別の版元から出版しましたが、あれよあれよと言う間に大人気に・・・。

一大ブームを巻き起こし、よく似た膝栗毛本が次々に出たとか・・・そういう所は、昔も今も変わりませんねぇ~。

動物占いがヒットすれば次々と、寿司占いとか、色占いとか・・・。

今、ゲームの世界がスゴイですよね、脳ブームで・・・。

ところで、その『東海道中膝栗毛』は、親から受け継いだ財産を、役者道楽で食いつぶした栃面屋弥次郎兵衛(とちめんややじろべえ)と、役者くずれの喜多八(きたはち)が、お伊勢参りをする道中のドタバタコメディです。

狂歌や絵が得意だった一九は、ところどころにに歌や挿絵を盛り込んで、ダジャレを駆使した軽快な語り口。

弥次さん喜多さんは、行く先々で失敗したり、女にチョッカイ出してフラれたり・・・。

オマケに旬の有名人である『仮名手本忠臣蔵』天川屋義平を登場させたり、弥次さんに十辺舎一九の名を騙らせたりと、これでもか!というパロディの大サービス。

それでいて、「ここぞ!」という旅の名所や、土地の名物は絶対に外さない、ガイドブック的要素もバッチリ!

おみごと!と言うほかありません。

よほど、私生活も楽しい人だったんでしょう。

『今日は何の日?』のブログをやってきて、これまで何人かの人のご命日について、○月○日、今日は○○さんの亡くなられた日です・・・・と書いてきましたが、ご命日なのに、これほど楽しく、軽快にキーボードが打てたのは、始めてですね。

それに、一九さんは自分の葬式のとき、遺骸がだびにふされると同時に花火が上がるように仕掛けをしておいて、参列者を驚かせたそうです。

そんな一九さんの時世の句は・・・

♪此の世をば どりゃお暇に せん香の
   煙とともに 灰 左様なら ♪

時世の句にあるまじき楽しさです。

ホント、最後の最後まで、やってくれます。
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2006年8月 6日 (日)

広島平和記念日

 

昭和二十年(1945年)8月6日、広島に原爆が投下、やはり今日はこの話を、避けて通る事はできないでしょう。

この日の朝・8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機『エノラ・ゲイ』が、世界で初めての原子爆弾『リトルボーイ』を投下しました。

・‥…━━━☆

広島市・中心部の上空で炸裂した原子爆弾は、一瞬にして14万人の命を奪い、町は焦土と化しました。

その後、死亡した人を含めると、原爆の犠牲者は約25万人に達します。

この3ヶ月前、この原爆投下の計画を聞かされ、大変なショックを受けた一人のアメリカ人がいました。

国務次官のジョセフ・グルーという人です。

彼は日本が開戦した時、駐日大使をしていた人で、親日家でもあり、日本とアメリカの戦争を何とかやめさせようとした人でもありました。

この2月にはヤルタ会談で、これからソ連が参戦する事も決まっていましたし、グルーがこの話を聞いた前の日には、ドイツが無条件降伏をしていました。

「このままでは、日本が破滅してしまう。何とかしなければ・・・」と考えます。

そして、起こした行動が対日声明の発表でした。

4月に急死したアメリカ大統領・ルーズベルトの方針では、アメリカとソ連の両方で、日本を占領し、ドイツのように、北と南(あるいは東と西)に分断する計画でした。

「分断などさせてはいけない」
と、グルーは、終戦後のアメリカが行うであろう政策を先に発表して日本がそれを受諾するならば、最悪の結果から救われる・・・と思ったのです。
それが、『ポツダム宣言』でした。

しかし、グルーの努力だけでは、なかなかルーズベルトの立てたもともとの計画をかけ離れる事は難しく、宣言の内容は日本にとっては、重いものでしたので、日本はすぐには受諾しませんでした。

結局、広島と長崎に原爆が落ち、ソ連も参戦していまいます。

とは言え、この『ポツダム宣言』ができるにあたっては、グルーの日本を救いたいという気持ちが盛り込まれているのは確かでしょう。

昭和三十年(1955年)8月6日には、日本で初の『原水爆禁止世界大会』が行われています。
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2006年8月 5日 (土)

日本初のタクシー誕生

 

明治四十五年(1912年)8月5日、日本発のタクシーが登場したので、今日は「タクシーの日」という記念日だそうです。

・・・・・・・・・

明治四十五年(1912年)8月5日、東京数寄屋橋のタクシー自動車が6台のT型フォードで、営業を開始しました。

料金は、半マイル60銭(なぜに?マイル)
1マイル=1.6kmとして・・・800m?で60銭!

おそばのモリが一枚3銭の時代なので・・・これは、高い!高すぎる!

とても庶民には手が出ませんね。

そのうち大正時代に入ると、台数も2000台を越え、運転手はダブルの背広に鳥打帽子、革の手袋といった当時としては小粋なスタイルで、女性たちに大人気だったそうです。

今でいう、ファミレスのアンナ○○ー○のような事なのかな?

大卒の初任給が15円だったこの頃に平均収入100円というのは、いかに花形職業だったのかがうかがえますね。

そら、女の子もキャーキャー言うわ!

大正十三年(1924年)の大阪には、さすが!大阪らしく、市内料金1円均一の『円タク』が登場します。

そして、早くも2年後には、東京にも『円タク』が登場して、その後、各地にも飛び火します。

ところが、そうなると過当競争で、だんだんと運転手の質が落ちていって、ついには助手席に売春婦を乗せて走る『徘徊魔窟』なる物まで現れます。
(↑それは、タクシーやないやろ!)

一方では、法外な料金を要求する雲助タクシーも登場するかわりに、客のほうも料金を値切るのが常識でした。

この頃は、車先進国の欧米とちがって、日本では登録されている車のほとんどがタクシーまたはハイヤーで、一般の人が車を持つようになるのは、まだまだ先のようですね。

終戦直後には、燃料不足のため、(たきぎ)タクシーが走っていたそうで、目的地まで行って燃料がなくなると、そのへんの木切れやゴミをかまに入れて、また走って行ったとか・・・。

その後、昭和三十年(1955年)には、交通停滞の中で客の回転率を上げるために、スピード重視の無謀運転をする神風タクシーなんていうのもあったり、それから、今もお馴染の個人タクシーも生まれ、LPG(液化天然ガス)も走ってましたね~。

無資格営業の『白タク』(業務用ではない白のナンバープレート)なんて言うのも、この頃でしょうか。

今は、日本も車社会になって、バブルもはじけて、タクシー業界は、どうなんでしょうか?

でも、京都や奈良では、修学旅行の学生さんを案内しておられるのを、よく見かけますが、あれはなかなか良いです・・・運転手さんも、バスガイドさん顔負けの案内をすべく、猛勉強されてますしね。

学生さんにとっても、良い思い出になる事でしょう。
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2006年8月 4日 (金)

橋の日なので橋姫の怖い話

 

今日は8月4日、語呂合わせで橋の日という記念日なのだそうです。

そこで、今日は橋にまつわる怖いお話を・・・。

・・・・・・・・・

京都の宇治橋に伝わる橋姫伝説については、丑の刻参りのページ(10月28日参照>>)で書かせていただきましたのでここではサラッとだけお伝えします。

Dscn1896 京都の宇治橋へ行った事のあるかたは、お気づきになったと思いますが、橋の途中に『三の間』と呼ばれる出っ張りがあります。

もともと、そこは、三角関係のもつれから、生きながら鬼となった『橋姫』が封印された場所なんです。

現在、橋姫さんは、宇治橋の南側の橋姫神社に祀られています。

・・・で、この宇治橋の橋姫伝説は、平家物語に登場するお話すですが、今日は、今昔物語に書かれている『瀬田の橋姫』のお話をご紹介します。

・‥…━━━☆

紀遠助(きのとおすけ)という男が、都の東三条殿の勤めが終わって、美濃の国に帰る途中、瀬田の橋で一人の女に、「美濃の収(おさめ)の橋にいる女に、この小箱を渡して欲しい」と頼まれます。

その時「この箱の中は絶対に見ないで!」と忠告されます。
(よくあるパターンやな~こうゆう時、絶対開けてしまうねんなぁ~)

美濃に帰り着いてから、遠助は毎日の忙しさにかまけて、しばらくの間つい、箱を渡さずに持っていました。

ところが、遠助の留守中に妻がその箱を開けてしまったのです。

中には、なんと!えぐり抜いた眼球や男根が入っていたのです。

遠助は、妻が箱を開けてしまった事に驚いて、あわてて橋のたもとへ行って、女に箱を渡しました。

しかし、やっぱり・・・と言うか、当然・・・と言うか、箱を開けた事が女には、バレています。

遠助は、逃げるように家に帰りますが、間もなく死んでしまいました。

物語は触れていませんが、箱の中身はきっと橋姫の愛した男の物でしょうね。

眼球は自分以外の女を見た物、男根は自分以外の女に触れた物、・・・という事で、やっぱり三画関係のもつれでしょう。

・‥…━━━☆

しかし、もともと平安時代以前は、橋姫とは水の神で、橋のたもとで、橋を護る美しい女神だったんです。

それが、中世から近世になるにつれ、だんだんと恐ろしい伝説に変わってしまったのです。なぜでしょうか?

それは、どうやら人柱の風習と関連しているようです。

人柱などという未開の地のような行為は、時代をさかのぼる程多いように思ってしますが、実は、昔話や民話を見てみると、中世より近世のほうが増えているのです。

封建的な支配の強い時こそこのような行為が多く行われているそうです。

通りがかりの旅人だったり、立場の弱い女・子供だったり・・・。

大阪の『長柄の人柱』(くわしくはHPへ>>>)のように言い出しっぺの場合もあります。

時には、その土地の権力者や代表者の時もありますが、そういう場合はたいてい、その人物を讃える美談となっています。

もともと、橋という物は、本来なら接点を持たない町と町を結ぶ通路・・・これは、トンネルと同じで、昔は、異世界へと結びつく入口と同じ見方をされ、何やら不思議な事が起こる場所とされて来ました。

そこに、さらに、建設の難工事にともなう人柱です。

むごい事だと思いながら、誰かを犠牲にしなければ、収まらない封建社会の中で、人々は、表向きは、工事を成功させるために必要な儀式なのだと言い聞かせて行った風習。

しかし心のどこかで、犠牲になった人への思い、怖さなどが、だんだんと恐ろしい伝説へと変えていったという事ではないでしょうか。
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2006年8月 3日 (木)

鑑真和上が唐招提寺を建立

 

天平宝字三年(759年)8月3日、鑑真和上が奈良・西の京に、唐招提寺を建立しました。

・‥…━━━☆

鑑真さんは、中国の僧で、何度も失敗し、ついには失明したにもかかわらず、初心を忘れる事なく、日本に渡り仏教に命を捧げ、日本の僧たちに影響を与えた人です(12月20日参照>>)

そんな鑑真さんが、天平宝字三年(759年)8月3日・・・天武天皇の皇子・新田部親王の旧邸地に、唐招提寺、別名・建初律寺を建立しました。

唐招提寺のある西の京は、今、見ると奈良から少し離れた郊外にあるお寺のように思いますが、奈良時代には、東にある東大寺よりも平城宮に近く、むしろ大都会でした。

その頃は、たくさんの若い僧たちが、鑑真さんに教えを請うために、このお寺を訪れたことでしょう。

現在、金堂は、平成の大修理中ですが、その柱はギリシャのパルテノン神殿と同じエンタシス。

少し真ん中がふくらんだ形は、威風堂々としていて、とても美しいです。

Dscn2198 金堂の後ろにある講堂は、唐招提寺建立の時、平城宮にあった東朝集殿を移築した物だそうで、現在、平城宮はすべての建物がなくなって、遺構だけとなっている事を考えると、唐招提寺に移築されたおかげで建物が残ったわけで、同じ『建物』でありながら、宮邸で政治に使用されるのと、仏教寺院として使用されるのとの、運命的なちがいなどを感じてしまいます。

政治の建物は、その政治が別の場所で行われるよう(平安京へ遷都)になると崩壊しますが、仏教寺院は残るのだなぁ・・・と思います。

Dscn2196_1 また、少し奥まった戒壇や、御影堂のあたりは、静寂に包まれしっとりと落ち着いていて、日頃のあわただしさを忘れさせてくれます。

お庭も、京都の寺院に見られる枯山水や回遊式庭園とは違う、自然な感じ・・・とでも言いましょうか・・・趣のある美しさです。

拝観した時に戴いたパンフレットに、『1~2時間では見尽くせない』と書かれてありましたが、本当にそうだと思います。

*唐招提寺への行き方、西の京巡りのモデルコースは、本家HP:奈良歴史散歩「西の京」でどうぞ>>
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2006年8月 1日 (火)

八朔と家康、江戸入府

 

天正十八年(1590年)8月1日、徳川家康が江戸に入りました。

・・・・・・・・・

『八朔』と書いて「はっさく」と読みます。

これは、8月1日の事・・・
八月朔日朔日「ついたち」と読み、それを縮めたものです。

この日、農家では、新しい穀物を収めて祝う『田実(たのみ)の節句』という行事が行われます。

このお祝いの起源は、様々な説があって決定打はないのですが、一番古い説では、承久の乱後の後嵯峨天皇(2月17日参照>>)が天皇になる前の不遇の時代(1230年代頃?)に、近臣の者が田実(稲の事)を献上して慰めたのを、即位後も恒例の行事にした・・・というのがあります。

鎌倉時代の後期の頃からは、武家の社会でもこの風習が取り入れられ8月1日を祝うようになります。

ことに、江戸時代からは、『徳川家康が江戸入りしためでたい日』という事で、幕府の重要な式典の日となりました。

ところで、家康さんが、豊臣秀吉から関八州を与えられた時(2008年7月13日参照>>)・・・
確かに秀吉の打診があったという話もありますが、最終的には、家康自らこの広い江戸の地を自分の本拠地にする事を決めました。

江戸には、太田道灌が築いた江戸城がありましたが(4月8日参照>>)、萱葺きの粗末な物で、畳や襖もボロボロでした。

その頃の江戸は、まだな~んにもない所だったんです。

小田原鎌倉といった大都会をさしおいて、この地を選んだのは、やはり広大な関東平野。

家康さんは、もう出来上がった町ではなく、この広~い土地に、自分の思い描く通りの大都会を築きたいと思ったのでしょう(2011年7月13日参照>>)

おかげで、とんでもないややこしい道路網になってしまいましたが、これは、京都や奈良のような碁盤の目をした道路の都ではなく、町全体が鉄壁の要塞となるような町並みにしたのです。

それでいて、四神相応の風水にかなった理想の町造りをして、鬼門には東照宮を配置し、自らが神となって悪霊から護っています。

(四神相応については、HPの古墳を知ろうのページへどうぞ>>>

家康さんの思い描いた『千年の都』は、本当に『千年の都』になりましたね。

家康さんが、入府した当初は、約2千人だった江戸の人口は、5代将軍・綱吉の元禄の頃には百万人世界一の大都市にふくれあがるのですから・・・

そして、平成の現在は・・・・。
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