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2006年8月16日 (水)

義仲が木曽にいたワケは・・・

 

久寿二年(1155年)8月16日、悪源太義平叔父・義賢を殺害しました。

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Genzikeizu_3あの八幡太郎・源義家の孫にあたるのが源為義(みなもとのためよし)

この人の長男義朝(よしとも)で、義平(よしひら)・頼朝(よりとも)・義経(よしつね)などのお父さんです。

為義の次男義賢(よしかた)で、 義仲(よしなか)のお父さん

つまり、頼朝・義経のお兄さんが、義仲のお父さんを斬ったという事件なのです。

義賢は、為義の次男という立場から、武蔵の豪族・秩父重隆の養子となって上野から武蔵一帯を仕切っていましたが、それは、同時に関東に勢力を広げたいと思っていた義朝にとって、あまり面白くない事でもありました。

この頃、義朝は、父・為義とともに京の都にいる事が多かったので、源氏本家の地元での細かな事は、ほとんど長男の義平にまかされていました。

そんな中で、はっきりした事はわかりませんが、おそらくは、領地争いのもつれから久寿二年(1155年)8月16日・・・15歳の義平は、血気にまかせて、武蔵国大倉館(埼玉県)を襲撃し、叔父・義賢を討ち取ってしまいました。

この事で、義平は鎌倉の悪源太(あくげんた)と呼ばれる事になります。

この時、義賢の息子・義仲はまだ2歳で、駒王と呼ばれていました。

義平は、父の仇として将来怨まれる事をおそれ、今のうちに殺してしまおうと、早速駒王の捜索に取り掛かります。

しかし、まもなく義平に「上洛せよ」との命がくだり、配下の畠山重能(はたけやましげよし)「必ず駒王を探し出して殺せ」と命令して旅立ちます。

そして、ほどなく駒王は発見されてしまいます。

しかし、重能は、わずか2歳の幼児をその手で殺す事ができずに思い悩んで、斉藤実盛(さいとうさねもり)という男に託します。

でも、斉藤も困ってしまいます。

いつまでも、駒王を隠しておける自信もないし、かと言って、もし見つかったら自分が処分を受ける事になります。

そこで、信州木曽谷の豪族・中原兼遠(なかはらかねとお)に預けるのです。

「木曽の山奥なら、おそらく見つかりはしないだろう」との思いでした。

この時代、東国においては、源氏が武門の棟梁として君臨し、西にはもちろん平家がいました。

しかし、信州には、未だ棟梁と呼べる者はおらず、各豪族が互いにしのぎをけずっている・・・といった状況でした。

『源平盛衰記』では、この時の兼遠はこう言ったといいます。

「此の人は正しくは八幡殿には四代の御孫也。

世の中の淵は瀬となるたとえあり、いまこそ孤子(みなしご)にて御座すとも、知らず世の末には、、日本国の武家の主とも成りや給はん。

如何様にも、養ひ立て、北陸道の大将軍になし奉って・・・」

(今は孤児やけど、本当なら八幡太郎義家の源氏の流れ・・・いつか、この子が武家の棟梁となる日が来るかもしれへん。

それなら、なんとしてでもこの子を育てて北陸道の大将に仕立てて・・・)

これまで、どんぐりの背比べだった北陸・信州に、源氏の御曹司がやってきたわけで、兼遠も大いに野心をかきたてられたに違いありません。

兼遠には、ちょうど良い年頃の子供たちがいました。

後に四天王と呼ばれる長兄・樋口兼光(ひぐちかねみつ)と弟・今井兼平(いまいよしひら)、そして生まれたばかりの女の子。

この時、兼平は4歳で、生まれたばかりの女の子は後に義仲の妻となる女の子です。

女武者として有名な巴御前は、この3年後に生まれます。

以前、『義仲入京』のページ(7月28日参照>>)で、木曽の山奥で兄弟のように育った・・・と書いたのは、こういういきさつがあったからです。

その後、平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)の後、かの義平が六条河原で斬首され(1月25日参照>>)、やっと駒王=義仲は、逃げ隠れせずともよくなったという事なのです。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

こんなに楽しく読ませるブログを見つけ嬉しく思います。
 義仲・巴を研究しておりますが、大蔵館で父を殺されたあと、2歳から中原兼遠に育てられた地は木曽谷ではなく、松本ではないかと思います。
 当時松本に国府があり、中原兼遠は今で言う副知事にあたる任務を帯びていたと思います。当時の木曽は美濃の国の所轄だったと思います。
中原兼遠は信濃の国の豪族(根井・海野)の一族であり、挙兵の地も丸子町と言われています。
 また、木曽川は明治の初めまで、分水嶺がなく、日本海と太平洋に注いでいました。松本の横を流れる奈良井川(旧木曽川)です。
 今井兼平の館跡の横を流れています。
 松本には、「巴町」「中原町」義仲の嫡男「清水冠者義高」が産湯を使った「清水」など、歴史を彷彿させる地名も多く残っています。
 木曽伝説は、おそらく粟津で討たれた義仲の残党が頼朝の手の回った深志(現松本)に入れず、木曽谷に隠れ住み、伝承になったと思われます。

 また、お邪魔しますね。

投稿: 木内 基裕 | 2014年1月 9日 (木) 18時21分

木内 基裕さん、こんにちは~

そうですね。
義仲の生い立ちについては、何もかも伝承の類いの話ですから、今に残る地名などがヒントになる事は、大いにあると思います。

また、遊びにいらしてください

投稿: 茶々 | 2014年1月10日 (金) 10時42分

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