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2006年8月17日 (木)

伊豆に白旗!頼朝挙兵

 

治承四年(1180年)8月17日、伊豆に流罪の身となっていた源頼朝が挙兵しました。

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平治の乱(12月9日参照>>)に敗れ、父・義朝を失ったのは、源頼朝が13歳の時でした。(1月4日参照>>)

彼もこの戦いには、出陣していますから、捕まった以上、長兄・義平同様に斬首になるはずでした(1月25日参照>>)

しかし、敵の大将・平清盛の母・池禅尼(いけのぜんに)が、亡くした息子に顔立ちが似ていた頼朝を「何とか命だけは助けてやってほしい」と清盛に頼みこんで、斬首ではなく、伊豆に流罪となったのです(2月9日参照>>)

それから、この挙兵をする治承四年までの二十年間、彼は(ひる)ヶ小島の狭い草家で、青春の日々を送ります。

清盛の命によって頼朝を監視していたのは、伊東祐親北条時政の二人。

流人の身ですから、他の人々と接触がないのはわかります。

青春真っ只中で、その有り余る情熱をぶつける相手が限られていたのもわかります。

・・・で、やっぱり・・・と言うか、まさか・・・と言うか、頼朝さんはこのお目付け役の二人の、両方の娘さんに手をつけてしまいました~。

まずは、伊東祐親の娘・八重姫と・・・たまたま祐親が京に滞在している間に関係を持ってしまいます。

祐親の館にころがり込んだ頼朝

やがて、男の子が生まれ千鶴と名付けられ、3人で仲良く暮らしていましたが、3年後戻ってきた祐親は激怒・・・千鶴は即殺され、八重姫も近くの豪族と無理やり結婚させられてしまいます。

しかたありません、頼朝の子供を孫と認める事は、平家に反旗をひるがえしたと同じ事になるのですから・・・。

頼朝は、ふたたび蛭ヶ小島で悲しみに耐えながらひとり寂しく暮らしている・・・・と思いきや今度は、北条時政の娘・政子に手を出します。

時政は祐親のように、二人の関係をあからさまには反対しませんでした・・・と言うより、勝気な政子が頼朝にベタ惚れ、反対しても反対しても、勝手に会いに行ってしまう状況に、ある意味あきらめた・・・という感じでしょうか。

それと同時に、やはり心のどこかに、「平家の世が永遠に続くはずもない。その時は・・・」という野心を持っていたのも事実でしょう。

やがて、小中太工藤土肥などという伊豆相模駿河周辺の武士たちが、蛭ヶ小島の頼朝の家に出入りするようになります。

そんな時にグッドタイミングで、打倒平家を掲げる以仁王(もちひとおう・後白河法皇の息子)平家討伐の令旨(天皇家の命令書)が届きます。

頼朝が令旨を受け取ったのが4月27日。

しかし、彼はスグには、動きませんでした。

そして5月26日に以仁王と源頼政が敗死(5月26日参照>>)、その知らせを受け取るのが6月19日。

その時の使者は、「こうなると、清盛から命を狙われるかもしれないから、奥州へ逃れてはどうか」という警告します。

伊豆の目代・山木兼隆も、もし清盛からの命令があれば、すぐにでも頼朝を討ちにくるに違いありません。

そして、頼朝はその5日後、決断を下します。

それは、逃亡ではなく発起・・・6月24日に関東の武士に参集を呼びかけたのです。

時政も、蛭ヶ小島から自分の館に頼朝を迎え入れ、平家に反旗をひるがえす決意を固めます。

かくして、治承四年(1180年)8月17日、頼朝率いる源氏軍は闇にまぎれて、かの山木の館を取り囲み夜襲の準備にかかります

この日は、三島神社の祭礼の日で、ほとんどの者が祭り見物に出かけ、館の護りは手薄、しかも、中にいる者も酒など酌み交わし宴会の真っ最中。

城門もまたたく間に打ち破られ、あっという間に、あたりは修羅場と化し、兼隆も討たれていまいました。

この日、伊豆の夜空にたなびいた源氏の白旗は、これから先の源平の合戦を予感させるように、堂々と風をはらんでいたに違いありません。

このお話の続き石橋山の合戦8月23日でどうぞ>>
 

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