石山本願寺、焼失
天正八年(1580年)8月2日、織田信長との石山合戦で石山本願寺が焼失しました。
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京都・大谷にあった本願寺が延暦寺の弾圧によって焼かれ、本願寺八世・蓮如は一時、北陸へ逃れました(ブログ:7月27日参照>>)が、ほとぼりがさめた文明十一年(1479年)に、再び畿内へともどり、京都・山科に山科本願寺を復興させました。
そして、明応五年(1496年)には摂津・石山に、山科本願寺の別院として大坂御坊を建立・・・やがて、その周囲には、徐々に寺町が形勢されていきます。
この頃から、このあたりは『大坂』と呼ばれるようになります(ちなみに、大坂の坂の字が阪になるのは、明治以降です)。
やがて、戦国の争乱に巻き込まれ、天文元年(1532年)山科本願寺が焼失、そこから逃れた本願寺十世・証如らが、この大坂御坊を本願寺の本拠地としました。
大坂御坊は名前を変え、石山本願寺となります。
石山とは、大阪の上町台地の北側にある小高い丘の事で、現在の大阪城とその公園のあたりです。
石山は当時から交通の要衝で、本拠地がここに移ってから本願寺は、ますます巨大化していきます。
やがて、彼ら、真宗門徒の強大なパワーの集大成・一向一揆に、戦国大名たちが悩まされる事になります。(ブログ:6月9日参照)
そんな、真宗門徒たちの前に立ちはだかったのが織田信長・・・宗教の政治への介入を許さない信長は、武装解除を要求して徹底的に対立・・・真宗門徒(一向衆)たちも、信長の天下統一を阻もうとします。
やがて勃発した石山合戦と呼ばれるこの戦いは、10年にも及ぶ事になるのです。
この頃の法主(ほっす)は、蓮如のひ孫にあたる本願寺十一世・顕如(けんにょ)でした。
顕如は、上杉謙信、武田信玄、北条氏政、そして、浅井・朝倉とも組んで信長に対抗しますが、ついに、天正七年(1579年)に、正親町(おうぎまち)天皇が間に入り、本願寺を明け渡すという形で決着を迎えます。
「翌年の7月までに退去」という約束に従い、顕如は天正八年(1580年)の4月には、石山本願寺を出て、紀州へ退去しましたが、顕如の息子・教如はこの命令に従いません。
全国の門徒に手紙を出し、徹底抗戦を叫びかけます。
これに対して、顕如も全国の門徒に戦いをやめるよう手紙を出しました。
そして、やがて教如も引き上げ、本願寺は信長に明け渡される事になるのですが、その明け渡しの前後に失火・・・その炎は、3日間燃え続け、本願寺はもちろん寺町も焦土と化してしまうのです。
交通の要衝であったこの地に、信長は一大軍事拠点を築こうと思っていたかどうかは定かではありませんが、その2年後に信長は本能寺の変で亡くなります。
そして、教団も顕如派と教如派に別れることになり、本願寺は東西に分裂してしまいます。
その時に大幅な土木工事が行われ、その後の大阪夏の陣の後に徳川の大坂城が築かれ、その時もかなり手を加えられているため、現在の大阪城公園のどのあたりに石山本願寺があったのか、正確な位置や伽藍配置などは、確認されていません。
ただ、最も多く瓦などが出土している大阪城の京橋口あたりが中心部だった可能性が高いとして、現在、大阪城公園の片隅に石山本願寺推定地とされた場所があります。
石山本願寺推定地
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コメント
indoor-mama さん、おはようございます。
先日、なぜかコメントが送信されず(?)四苦八苦しておりました(笑)が、今回はよさそうです~!
信長と一向宗(浄土真宗)の闘いも壮絶で大規模なものでしたね~仏敵となった信長はこの争いで浪費してしまい、天下をとる計画が遅れたのでしょうけれど、避けて通れなかった戦いでした~。
篭城戦に持ち込んだ石山本願寺、信長に敵対するあの毛利家の村上水軍から海上ルートで物資補給をしていたようで、長期戦の構えでした。 結果は・・・焼失となってしまいます、歴史的にも信長の非道さの印象を強めた感がありますね~。戦乱の世は怖いものです・・・健康で平和が一番です!
投稿: ルーシー | 2006年8月 5日 (土) 07時31分
ルーシーさん、コメントちゃんと届きましたよ。
ありがとうございます。
村上水軍は、私のご先祖様で、大阪城は実家の庭みたいな近さです。
幼い頃、毎日のように行っっていた大阪城公園で、よく、亡くなった父が「石山本願寺が昔ここにあって・・・」と話をしてくれましたが、その頃は小さくて、何の事やら、話の内容をまったく覚えていません。
現在の大阪城には、石山本願寺の影すら見当たりませんし、訪れる人もあまりご存知ないようですが、もう少しちゃんと父の話を聞きたかったな・・・と、ちょっと残念に思いますね。
投稿: indoor-mama | 2006年8月 5日 (土) 16時56分
indoor-mamaさん、おはようございます。
暑い日が続きますね、京都もかなりの気温らしいですね~。
そうなんですか~ご先祖様があの村上水軍!! 瀬戸内の雄~村上水軍、当時の信長を苦しめた優秀な今で言う海軍ですね~! お父様をはじめ、代々誇りを持ち、受け継がれていらっしゃるのでしょうね~ところで、私のルーツは???(お恥ずかしい)なんです。祖父は下町の知られた竹細工職人でしたが・・・さらに遡って調べたいと思います~(汗)。
ちなみにindoor-mamaさんはご存知かと思いますが、愛媛の今治に「村上水軍博物館」があるそうで、そのアドを今回のURLに入れました~クリックしてみて下さいませ~それではまたです!
投稿: ルーシー | 2006年8月 7日 (月) 07時32分
ルーシーさん、コメントありがとうございます。
早速、博物館のHPをお気に入りに追加させていただきました~。
景色とかが、懐かしいです。
小さい頃は、よく瀬戸内の方へ行ったんですが、やはり祖父も祖母もそして父も亡くなって最近は皆無ですね。
その頃は、まだ、この博物館はなかったように思います。(小さいから覚えてないだけかも知れませんが・・・)
因島のお城や、大山衹神社は行ったの覚えています。
ちなみに、ウチは因島村上氏です。
博物館のHPに○に上の字の家紋が書いてありますよね。
ウチの家紋は、8角形に上の字なんですよ。
投稿: indoor-mama | 2006年8月 7日 (月) 15時25分
indoor-mamaさん、こんばんは。
そうでしたか~因島村上氏なのですね~すみません能島、来島と因島の三島ですものね! 確認する前に博物館のHPを・・・先走ってしまいました、とほほ(汗)。
懲りずに因島村上氏のブログさんを見つけましたので(笑)、またクリックしてあげて下さいませ~! 大丈夫です、もうおせっかいは致しませんので~(笑)。
なるほど、家紋はやはり違うのですね~。
それでは、取り急ぎ失礼致します~!
投稿: ルーシー | 2006年8月 7日 (月) 20時57分
いえいえ、ルーシーさん、大丈夫ですよ。
私の伯父の奥さん(つまりは、伯母さんなんですけどね)は、能島村上氏からお嫁に来られたかただと聞いていますので、遠からずですよ。
また、おもしろそうな、HPやブログがあったら教えてくださいね。
投稿: indoor-mama | 2006年8月 7日 (月) 22時27分