50の手習い、伊能忠敬の日本地図
文政四年(1821年)9月4日、伊能忠敬の弟子たちにより、『大日本沿海輿地全図』と『大日本沿岸実測録』が完成しました。
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伊能忠敬は、現在の千葉県・中央部にあたる上総で生まれ、その後、18歳の時に酒・醤油の製造をしていた現在の千葉県北部・下総の伊能家の養子になり、家業を継ぎました。
伊能家は代々続いた、かなりの資産家でしたが、忠敬が継いだ頃はすでに傾き始めていて、彼がまずしなければならない事は、伊能家の建て直しでした。
とにかく倹約・・・倹約で、徐々に盛り返していき、40歳になる頃やっと以前の伊能家の勢いを取り戻しました。
最初に書いたように『伊能忠敬=日本地図』と、頭に浮かびますが、この頃はまだその片りんをのぞかせる事もありませんでした。
やがて村の名主となり、後見人などの役職にもついて、飢饉などの援助をし、村のために尽くした後、50歳で家業を長男に譲って隠居の身となりました。
忠敬は、ここでやっと、趣味に勤しむ事ができるようになりました。
天文学や暦に関心があった忠敬は、なんと50にして、学問を志し江戸に出るのです。
19歳も年下の江戸の天文学者・高橋至時に弟子入りし、寝る間を惜しんでの猛勉強。
その姿勢に感銘した高橋も、自分の知識のすべてを忠敬に教えるべく、師弟一体となって勉学に励み、数年のうちに忠敬は、弟子の中でもトップクラスの優秀な生徒になります。
当時、天文学者の間では、子午線の長さを測る事が問題になっていて、忠敬も「長さを知りたい」との欲求にかられますが、それには、現在自分がいる日本の位置を正確に知る事が重要です。
測量しかありません。
しかし、時は江戸時代・・・全国の海岸線を自分の足で回って測量するわけですから、それには、自分のヤル気以外にも莫大な費用がかかります。
忠敬は、日本の正確な地図を作るという名目で、幕府に願い出て許可をもらい、寛政十二年(1800年)4月19日、測量のために江戸を出て、最初の一歩を踏み出したのです(この4月19日は現在「地図の日」という記念日となっています)。
そして、奥州街道、北海道、東南海岸を歩いて測量し、その地図を幕府に献上するのです。
じつに、忠敬・56歳の時でした。
そんな時、幕府の天文方だった師匠・高橋は、オランダの新しい暦の本を手に入れ、つたない語学力で、必死になって半年で読み終え、すぐさまレポートを書きましたが、その時の無理がたたって、41歳の若さで亡くなってしまいました。
高橋亡き後も、幕府からの依頼で各地へ出かけ、海や陸を測量してまわり、文化十四年(1817年)ついに日本全土測量を終えました。
忠敬、72歳・・・。
しかし、その2年後、地図の完成を見ないまま74歳でこの世を去ってしまいます。
その後の作業は、弟子たちの手にゆだねられます。
そして、文政四年(1821年)の9月4日、『大日本沿海輿地全図』という地図と『大日本沿岸実測録』という各地の距離や緯度等の数値を書いた記録が完成したのです。
ところで、生前、忠敬は、知りたがっていた子午線ですが・・・
彼は、一度の長さを、28.2里(110.75km)と計算していましたが、それは後に渡来したオランダの天文書とみごと一致していたという事です。
50歳から志して、ここまでやれるとは・・・感服いたしました~。
人間・・・まだまだ、頑張らなくてはいけませんね~。
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