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2006年9月30日 (土)

白紙に戻そう遣唐使

 

寛平六年(894年)9月30日、菅原道真の意見により、遣唐使の派遣をやめる事が決定されました。894年なので、ハ・ク・シって覚えましたね。

・・・・・・・・・

学問の神様=天神様(6月26日参照>>)でおなじみの菅原道真さんは、代々学者さんの家柄で、ご本人も勉学に勤しみ、当時としては遅咲きではありましたが、33歳で文章(もんじょう)博士、42歳で讃岐(香川)国司(県知事)、47歳にして、蔵人頭(くろうどのとう)という重職に任ぜられました。

時の天皇・宇多天皇が、たいそう道真の事を、お気に入りだったようで、道真が次の遣唐大使に任ぜられたこの時、遣唐使派遣の中止を提案し、その案が採用されたのです。

もはや唐に学ぶ事なし・・・という風にも言われますが、それよりも、道中の危険を考えたようです。

なんせ、朝鮮半島の政情によって、途中から大きくルートを変えた(4月2日参照>>)遣唐使船は、とにかく危険な海の難所=東シナ海を渡らねばならず、4隻同時に出発した遣唐使船が全部ちゃんと帰ってきた事がほとんどありませんでした。

現在の唐から得る物より、優秀な人材を亡くす事のリスクの方がはるかに大きいと判断したのでしょう。

中止の決定がされる前の9月14日、道真は天皇にこんな手紙を書いています。

『現在、唐に留学中の僧・中瓘(ちゅうかんが去年商人に託した報告書によりますと、あれほど繁栄していて唐が今は衰えてきている事がよくわかります・・・・古来の記録を調べてみますと、度々の遣唐使の中には、うまく航海できなかったり、賊に襲われたりしてしまった者もおります。ただ、唐に着いてからは今のところ、大変な苦しみを味わった者がいないのは幸いですが、しかし、唐の状況が中瓘の知らせのとおりであるならば、今後はそれも保証できなくなるでしょう・・・・』

これを見た宇多天皇が、寛平六年(894年)9月30日に中止を決定したのです。

宇多天皇が、道真を重視したのは、あまりにも強大になったきた大臣・藤原時平の力を抑えようと、その能力のある良きライバルとして道真を抜擢したようですが、残念ながら、道真は、この7年後に失脚してしまいます。

宇多天皇の後に天皇に即位した醍醐天皇と藤原時平時代に、大宰府に左遷されてしまうのは、皆さまご存じの通り・・・と言っても、なにやら、道真にも打算があったようですが・・・(1月25日参照>>)

PS:最近では、「遣唐使廃止の正式な決定はなかった?」という新しい説も登場しています・・・9月14日【保身か?英断か?菅原道真の遣唐使・廃止】をどうぞ>>
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2006年9月29日 (金)

文明開化の『光』の競争

 

明治五年(1872年)9月29日、横浜の外国人居住地に、日本初のガス灯がともりました。

・・・・・・・

前年の明治四年(1871年)に、断髪(8月9日参照>>)廃刀(3月28日参照>>)の令が出て、廃藩置県(7月14日参照>>)が行われ、日本がめまぐるしく変わっていったこの時代。

『光』の競争も、抜きつ抜かれつ・・・たいへんなものでした。

開国とともに、まずやってきたのは、外国人たちが持ち込んだ石油ランプでした。

しかし、当時は石油自体が高価な輸入品であり、とても庶民には、手の出るシロモノではありませんでした。

ところが、明治四年、越後(新潟)に古くからあるクソウズという燃える水が石油ではないか?と注目した石坂周造が、石油会社を創設して本格的な採油と精製に乗り出します。

今度は翌年の明治五年(1872年)、高島嘉右衛門(たかしまかえもん)(12月29日参照>>)らが、横浜にガス会社を設立し、明治五年(1872年)9月29日外国人居住地にガス灯を点灯します。

そして、次の年・明治六年(1873年)には、東京で石油ランプを見た柏崎県・参事が、石油とクソウズが同じ物である事を確認し、本格的出荷を始め、越後の石油が東京で販売されるようになります。

しかし、ガスチームも負けられません。

同じ時期に芝浜崎町ガス製造所を建設し、せっせと東京の金杉から新橋~京橋~日本橋~万世橋と続く大通りにガス燈の建設工事を行います。

ところが、ガスチームが工事に手間取っている間に、明治七年(1874年)の9月、早くも本石町河岸から馬喰町四丁目までの間に石油ランプの街灯がともり、一大ブレイク!新名所として人々の喝采をあびます。

ちょっと出遅れたガスチーム、7月末には金杉・京橋間で85基の点灯にこぎつけました。

石油ランプは臭いがきつく、その煙もひどい物でしたが、急速な勢いで全国に普及していきます。

それは、「国産のなたね油の売れ行きを圧迫して国をダメにする」という亡国論も生まれたくらいですから、その勢いはスゴかったんでしょうね。

でも、ここからガスチームが見事な追い上げ。

地道に着々と増設していって、明治九年(1876年)には東京市内のガス燈は350基になり、ここでとうとう石油チームの街灯を超えたのです。

しかし、街灯では勝利したガスチームも、一般家庭の屋内灯となると、なかなか石油ランプに追いつきません。

そんな所にまたまた別の強敵が・・・。

そう、電気チームです。

明治のはじめの『』競争に、完全に出遅れた電気チームでしたが、明治十一(1878年)年、電信局の祝賀会場で、初めてアーク灯がともされ、列席者を驚かせます。

その明るさが、ガス燈と石油ランプの比ではなかったからです。

明治十五(1882年)年には、東京電灯会社が宣伝のため東京銀座大倉前に2000燭光のアーク灯を点灯させました。

「その輝きは数十町まで届き、まるで昼間のようだ!」と人々は絶賛でした。

その翌年には、京都の祇園や大阪の道頓堀にもアーク灯が設置され、さらに明治十九年(1886年)には、エジソンの白熱電球の輸入も始まり、瞬く間に国産の電球も売り出されるようになります。

そして、ご存知のように、『光』に関しては、最終的に電気チームの一人勝ち!って事になるわけです。

まるで、最近の携帯電話・事情を見ているようです。

次から次へとめまぐるしく新しい物が生まれていく・・・いつの世も変わりません。
関わっている人は大変ですね。
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2006年9月28日 (木)

楠木正成登場!元弘の変

 

元弘元年(1331年)9月28日、後醍醐天皇が笠置山で挙兵し、元弘の変が勃発しました。

・・・・・・・

鎌倉幕府・将軍家はわずか三代で絶え、その後、執権としておおいに権力を握った北条氏でしたが、2度にわたる蒙古襲来(10月5日参照>>)で、御家人たちに不満がつのり、徐々にその権力に陰りが見え始めていた頃でした。

かねてから、天皇の皇位継承にまで口出しする幕府のやり方にムカついていた後醍醐天皇は、院政ではなく、天皇自らが権力を持って政治をしたいと思い、討幕の計画を立てます。

しかし、この正中の変(9月19日参照>>は事前に計画が漏れてあえなく失敗。

そして、7年後の元弘元年(1331年)、ふたたび討幕の計画を立てます。

息子の護良(もりよし・もりなが)親王宗良(むねよし・むねなが)親王を通じて僧兵を味方に引き入れ、側近の日野俊基に命じて畿内の悪党たちを集めようとしたのです

悪党とは、権力に対抗しようと集まった、非御家人の武士や土豪(地元密着型の半農反士の武士)たちで、荘園を襲ったり物資を強奪したりして、自分の領地を増やし、のし上がろうとしていた者たちです。

しかし、これまた側近の裏切りで計画が事前に発覚。

幕府は後醍醐天皇を捕まえようとしますが、天皇は御所を出て奈良の笠置山へ逃走し、畿内の悪党たちに挙兵を呼びかけます。

そんなある夜、天皇は夢を見ます。

南に向いた枝の勢いがいい大きな木の夢でした。

その枝の下には、公家たちが居並び、中央に立派な座席がしつらえてありました。

そこへ、二人の童子が現れ「あの座席はあなたが座る場所です。あの枝の下なら安心です」と言うのです。

そこで、目覚めた天皇は考えます。

南の方角に枝ぶりの良い木・・・へんにと書いて・・・笠置山の僧に聞いてみると「それは、楠(くすのき)という者が有力な見方になるであろう、という知らせにちがいありません。河内の国に楠木正成という評判の武士がいます。」と言う。

そこで、早速、楠木正成を呼び寄せた・・・というのが、太平記でおなじみの後醍醐天皇と楠木正成の運命の出会いです。(たぶん、かなり脚色されてますが・・・)

天皇を目の前にして、感激した正成は「正成ひとりが生きていれば、聖運は必ず開かれるとお思いになって下さい」と、答えるのです。

この言葉どおり、正成は湊川の戦い(5月25日参照>>)で自刃する最期の最期まで、たとえ後々足利尊氏が敵にまわろうとも、後醍醐天皇のために戦う事になるのです。

そうして、今日、元弘元年(1331年)9月28日挙兵した後醍醐天皇でしたが、なんせこの時、強そうな味方は正成だけ・・・。

結局、赤坂城はすぐに落とされ、正成は逃走・・・天皇は隠岐へ流され、側近の日野俊基は斬首されます。

しかし、一年後に正成は再び挙兵し、後醍醐天皇も隠岐から脱出・・・足利尊氏新田義貞といった東国の武士も味方について、鎌倉幕府を倒す事になるのですが(5月22日参照>>)、ご存知のように、後に尊氏は天皇と敵対する事になります(12月11日参照>>)

それにしても、なぜ、正成は、尊氏が裏切った後も、最期まで後醍醐天皇に尽くしたのか?

それは、やはり出身の違いでしょうね。

なんだかんだ言っても、足利家は源氏の流れを受け継ぐ名門。
正成は悪党と呼ばれる土豪。

名門の坊ちゃんには、はなから源氏という後ろ盾があるけれど、正成には天皇の忠臣というレッテルが剥がれると何も残りません。

誰も見方になってくれない時の、究極の選択とは言え、自分を一人前の武士として認めてくれた天皇に命を賭けたんでしょうね。
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2006年9月27日 (水)

昭和天皇とマッカーサー元帥

 

昭和二十年(1945年)9月27日、昭和天皇が、アメリカ大使館のマッカーサー元帥を訪問されました。

・・・・・・・・・

ポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏した日本。

8月の末には、連合軍最高司令官・マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、アメリカ軍の進駐も始まりました。

そして、9月2日、ミズリー号の甲板の上で、降伏文書に署名したその日から、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ-SCAP)の間接統治下に置かれる事になりました。

やがて、マッカーサーの指令のもと、婦人の解放、労働組合の結成、教育の民主主義化、秘密検察やその濫用や諸制度の廃止、経済機構の民主化の5大改革が推進され、天皇の『人間宣言』など、旧・日本は完全に改造されていく事になるのですが・・・

その前の昭和二十年(1945年)9月27日昭和天皇が、アメリカ大使館のマッカーサー元帥のもとを訪問されたのです。

Emperorhirohitomacarthur600 この会談は極秘で行われましたが、マッカーサーの『回想記』によりますと、昭和天皇はこの時、「全責任を負うから、連合軍の裁決にゆだねる」と、おっしゃったという事で、この言葉に感動したマッカーサーにより、後に5400人余りがかけられる軍事裁判で、天皇の戦犯指定を回避する事になるのです。

その後、朝鮮戦争の連合軍総司令官も経験したマッカーサーは
「日本の産業は、絹以外の固有資源がなく、それ以外の資源を輸入に頼らなくてはならない現状があり、もし、これらの供給が絶たれたならば、一千万人以上の失業者が出る事を恐れたのであって、日本が戦争に突進していった動機の大部分は安全保障の必要に迫られての事だ。」

と、朝鮮戦争の体験で日本への見方が変わった事を述べています。
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2006年9月26日 (火)

織田信長、上洛!

 

永禄十一年(1568年)9月26日、織田信長が、足利義昭を奉じて上洛しました。

・・・・・・・・

永禄十年(1567年)の夏、斉藤家の内部分裂のゴタゴタという願ってもないチャンスを、織田信長は見逃しませんでした。

一気に稲葉山城を攻め落として、十年来の美濃制覇を成し遂げました(8月15日参照>>)

古代中国の周を統一した文王が、岐山を本拠地として天下を統一した故事を引用し、稲葉山城下町・井ノ口を岐阜と改め、難攻不落の稲葉山城をさらに難攻不落の岐阜城に造り替え、いよいよ天下取りを意識し始めます

この頃、父・後奈良天皇の火葬の費用さえままならないほど、家計が火の車だった第106代・正親町(おおぎまち)天皇などは、早くも信長に目を付け、美濃・尾張の御料所の復興や、息子の元服の費用などをムシンしています。

信長も、『天下布武』(天下に武をしく)というハンコを作り、それまで、書類や手紙などで使用されていた花押(サイン)の代わりに重要書類に使用するなど、天下取りの意志を内外に表明し始めまるのです。

(この時の信長さんのこの行動がなかったら、日本もハンコ社会ではなく、欧米のようにサインだったかも・・・)

そんな、昇り調子の信長の所へ、接近してきたのが、幕府再興をもくろむ足利義昭でした。

当時、義昭は、兄で13代将軍の義輝が暗殺された後(5月19日参照>>)奈良に幽閉されたいましたが、そこを脱出し越前(福井)朝倉義景の保護を受けながら(7月28日参照>>)「誰か自分を助けて京へ上ってくれる有力な大名ないないものか」と、せっせと手紙を書いていたのです。

上杉や武田といった名だたる武将はもちろん、僧兵のいる寺院にまで手紙を書きましたが、誰も良い返事は返してくれませんでした(10月4日参照>>)

そんな義昭と信長の、仲介をしたのが明智光秀でした(10月18日参照>>)

信長は早速、足利義昭を奉じ、4万の軍勢とともに、9月の始め岐阜を出発します(9月7日参照>>)

信長にとって足利将軍家の再興など眼中にありません

なんせ、自分が天下を差配したいんですから・・・。

しかし、天下を取るには、京に上って畿内を制し、朝廷と接触して全国ネットのブランドを手に入れなければ、他の戦国大名より一歩抜きんでる事はできません。

信長にとって、この義昭は、上洛のための絶好の大義名分といった所でしょうか。

途中、伊勢を平定し、浅井長政の軍勢も加わり、京へと進みますが、そこに立ちはだかったのが近江の名門・六角氏

しかし、その六角氏の17箇所の城をたった3日で攻め落としてしまった信長軍。

六角承禎は観音寺城を捨てて敗走します(9月13日参照>>)

岐阜を出発してからわずか20日足らずで、義昭を奉じた信長軍が意気揚々と京に入ったのが、永禄十一年(1568年)9月26日でした。

Dscn2789a その後、義昭を清水寺に入れ、信長は東寺に陣を置いて、京を牛耳っていた三好三人衆(9月29日参照>>)を倒し、京を制圧したのです。
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2006年9月25日 (月)

和気清麻呂、大隈へ流罪

 

神護景雲三年(769年)9月25日、和気清麻呂(わけのきよまろ)が、称徳天皇と道鏡の怒りをかい、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)改名されて大隈(鹿児島県)に流されました

・・・・・・・・・

このお話をするには、まず、時の天皇・称徳天皇と道鏡アツ~イ関係についてのお話から始めなければなりません。

称徳天皇は二度、皇位についていて、一度めは、孝謙天皇という名前の女性です。
最近、にわかに注目を浴びている女性天皇

歴史上、何人か女性天皇がいますが、そのほとんどがもともと皇后だった人で、後継者の皇子がまだ幼く、皇位につけない場合に、先に亡くなった夫(天皇)と次に後を継ぐ息子(皇子)の中継ぎ的な役割で即位します。

ところが、この孝謙天皇はそうではなく、歴史上まれに見る20歳のプリンセス時代に皇太子に任命された異例の女性天皇なのです。

彼女の父は、大仏を造った事で有名な聖武天皇、母はこれまた有名な光明皇后です。

彼女のたった一人の弟で皇太子であった(もとい)が早くに死んでしまい「このままだと聖武天皇と別の妃の間に生まれた子供が皇位を継いでしまう!そんな事になったら、もう権力握れないじゃん」と焦った光明皇后の実家の藤原氏が、急遽仕立てあげた女性皇太子だったのです。

やがて、聖武天皇が亡くなって彼女は孝謙天皇として即位します。

32歳の時でした。

おそらくは、この時の彼女は恋も男も知らない純粋な女性だった事でしょう。

なぜなら、彼女は若い時に皇太子になり、いずれ天皇になる事が決まっていましたから、絶対に結婚してはならないのです。

もし、結婚して子供でもできたら・・・それが今、問題になってる女系です。

平成の世でこんなに問題になるんですから、奈良時代になんて許されるものではありません。

彼女は一生、独身を貫き通さなければならない宿命を背負っていたのです。

独身の彼女に子供はできませんから、天皇に即位した時、皇族の中から大炊王(おおいのおう)という人が選ばれ皇太子となりました。

この大炊王を押していたのが、時の権力者・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)でした。

大炊王は、早くに亡くなった仲麻呂の息子の嫁の再婚相手の子・・・ん~とりあえず、仲麻呂の意のままに動いてくれる皇子だったので、強く推薦していたのです。

仲麻呂は光明皇后の甥、つまり孝謙天皇とは、いとこになります。

どうやら、孝謙天皇はこの仲麻呂にほのかな恋心を抱いていたようです。

仲麻呂も、まんざらでないようで何かと世話をやいてくれる。

いとこ同士で、幼い頃から親しかった兄のような人に恋心を抱く・・・純粋な乙女の陥りそうなパターンです。

ところが、やがて孝謙天皇が大炊王に皇位を譲り、大炊王が淳仁天皇として即位すると、仲麻呂は、もう淳仁天皇にベッタリ・・・わがもの顔で、思い通り自分勝手にやり始めます。

彼女は、仲麻呂のやさしさは、女性としての自分にではなく、天皇という権力に対してのやさしさだった事に気づかされるのです。

そんな傷心な彼女に追い討ちをかけるように、大好きだった母・光明皇后が亡くなり、とうとう彼女は、体調を崩して寝込んでしまいます

そんな時、病気になった彼女の治療に派遣されてきたのが、僧・道鏡だったのです。

道鏡は、葛城山で修行し、呪術や医術も身につけ、さらにサンスクリット語も理解する学識にあふれた僧でした。

そんな彼が、枕元でつきっきりで献身的な奉仕をしてくれる・・・もう、こうなったら女心は止まりません。

やがて、看護の甲斐あって元気になった孝謙上皇は、道鏡との恋に落ちていくのです。

この時彼女は44歳、道鏡も同じくらいか、少し上くらいだったそうです。

もう、誰が見ても夫婦にしか見えないくらいに、人目もはばからず彼女は、道鏡にゾッコンです。

その恋の進展と平行して道鏡は出世していくのです。

翌年の763年には、大・中納言の相当する少僧都(しょうそうず)
764年には、左大臣に相当する大臣禅師に昇りつめます。

この様子に腹をたてた藤原仲麻呂が、淳仁天皇を通じて彼女と道鏡の関係を非難した所、激怒した孝謙上皇は「もう、アンタたちの勝手にはさせない!これからは、私が政務をやる~。」と言い出します。

「そうは、させるか!」仲麻呂は反乱を起こしますが、あえなく撃沈(9月11日参照>>)。

淳仁天皇も退位させられ、なんとここに、孝謙上皇がもう一度即位して称徳天皇となるのです。

こうなったら、道鏡の出世も止まりません。

765年には、太政大臣禅師766年には、ついに法王になってしまいます。

もう法王の上は、天皇しかありません。

しかし、そこまでトントン拍子に駆け上がると、昇り調子の人物に取り入って自分も何とかしようと、コバンザメのようにくっついてくる輩が、いつの世にもいるものです。

(たぶん、道鏡は頼んでもいないのに)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という人物が、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば、天下が太平になるであろう」というお告げが下った、と報告してきたのです。

しかし、歴史上、皇族でもない人物が天皇になった例は一度もありません。

さすがに、恋に目がくらんだ称徳天皇も、にわかには信じがたく、重臣の和気清麻呂(やっと出てきました~長くてすいません)を、宇佐八幡宮に派遣して、実際に向こうで本当かどうか確かめて来るように頼んだのでした。

清麻呂は、宇佐八幡で「天つ日嗣(ひつぎ)には、必ず皇緒(こうちょ)を立てよ」という神託を受け取ります。

つまり、やはり皇族以外は天皇になってはいけない・・・という事です。

清麻呂が、宇佐から帰って、この事を報告し、道鏡が皇位につくことはありませんでした。

しかし、その事を激怒した道鏡が、神護景雲三年(769年)9月25日に、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に改名させて大隈(鹿児島県)に流した・・・となっていて、後世では道鏡は皇位を狙った『悪僧』清麻呂は天皇家を救った『英雄』として、戦前などは教科書にも載っていたらしいのですが、どうも清麻呂を流罪にしたのは、道鏡ではないような気がしますね~。

もちろん、称徳天皇でもありません。

たぶん、先程言ったコバンザメのような輩たちです。

道鏡は、別に出世したいとも、天皇になりたいとも思っていなかったようですし、称徳天皇も、愛しいから彼を出世させたのではなく、能力のある人物だから出世させたのでしょう。

なぜなら、今回の事で天皇への道が絶たれてもふたりの関係は以前と変わらず仲むつまじく続いているからです。

もし、道鏡が本当に皇位を狙って称徳天皇のゴキゲンをとっていたのなら、先の藤原仲麻呂のように、皇位継承がなくなった時点で彼女から去って行くはずですし、称徳天皇もそんな皇位を狙ってる男をいつまでもそばに置いているはずがありません。

結局翌年、称徳天皇が亡くなり、後継者の光仁天皇が即位して、清麻呂は都に戻され宮廷に復帰し、逆に道鏡は下野(栃木県)の国分寺に追いやられますが、その後の道鏡は、ただひたすら称徳天皇の冥福を祈っていた、と言います。

なんか、道鏡さんって、天下の悪僧というよりも、野心まるだしのコバンザメにもてあそばれた、かわいそうな感じがするのは、私だけでしょうか?

Dscn1191
←京都府八幡市・和気神社の境内に残る清麻呂が建立したとされる足立寺跡

 

内容がかなりかぶってますが、道鏡事件については【道鏡事件のウラのウラ】(10月9日参照>>)もどうぞ
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2006年9月24日 (日)

大津皇子、謀反発覚!

 

朱鳥元年(686年)9月24日、大津皇子の謀反が発覚しました・・・といっても、濡れ衣ですが・・・たぶん。

・・・・・・・・・

朱鳥元年(686年)9月9日に、あの壬申の乱(7月20日参照>>)に打ち勝って天皇の座に座った(2月20日参照>>)第40代・天武天皇が亡くなります(9月9日参照>>)

天武天皇には幾人かの皇子がいましたが、母親の身分の差もあって、その後継者として候補に上がる皇子は二人・・・ともに、天武天皇の兄の天智天皇の娘であった姉の太田皇女(おおたのひめみこ)の息子=大津皇子(おおつのみこ)と、妹の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)の息子=草壁皇子(くさかべのみこ)・・・

しかし、宮廷内の雰囲気では、病弱でおとなしい性格の草壁皇子より、奔放で決断力と行動力を兼ね備えた大津皇子のほうが帝王にふさわしい・・・とのもっぱらの噂でした。

ただ、大津皇子の母の太田皇女はすでに亡くなっていて、逆に、鵜野讃良皇女は、亡き天皇の皇后となっている・・・もちろん、どうしても鵜野讃良皇女にとっては、我が子がカワイイ

その皇后の心の内も、誰の目にも明らかでしたから、天武天皇が亡くなった今、何かが起こる事を、まわりもそして当人たちも感じていました。

早速、新羅の僧・行心(こうじん)という者が、大津皇子に近づきます。

「あなた様こそ、天皇の位に着くにふさわしいおかたです。お顔にその相があふれておりまする・・・」

しかし、聡明な大津皇子が、そんなあやしげな僧の言葉の惑わされる事はありません。
むしろ逆に、いよいよ皇后が自分を消すために、行動を起こし始めたを痛感しました。

さて、これから自分はどうするか?

以前、入鹿暗殺事件後の古人大兄皇子や、天智天皇死後の父・天武のように(10月19日参照>>)出家して吉野に入ろうか?

いや、しかし、古人大兄皇子は吉野に入っても殺されてしまった・・・いっそのこと、海の向こうの大陸の行ってしまおうか?

思い悩んだ大津皇子は、一番親しかった身内・川島皇子(かわしまのみこ=天智天皇の皇子)に相談した後、伊勢へ旅立ちます。

伊勢には、同じ母から生まれた姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)斎宮として伊勢神宮に仕えていました。

幼い頃に母を亡くしてから、ふたりは寄り添うように生きてきてに違いありません。

皇后の強大な黒い影を前に、可憐な姉弟は、どんな話をしたのでしょう。

やがて、ふたたび飛鳥に戻る弟を見送りながら、大伯皇女は歌を詠みます。

♪二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を
 いかにか君が ひとり越ゆらむ♪

「ふたりでも、たいへんな山を、弟は、どうやってひとりで越えて行くのでしょう」

万葉集に残るこの歌を聞くと、去ってゆく弟の背中を見て、大伯皇女の胸が締め付けられるような悲しみを感じずにはいられません。

案の定、大津皇子が伊勢にいる間に大和では、事が大きく動いていたのです。

朱鳥元年(686年)9月24日・・・大津皇子の謀反発覚!

密告したのは、他ならぬ川島皇子でした。

はたして先日、大津皇子が川島皇子に持ちかけた相談は、本当に『謀反の意志』だったのでしょうか?

おそらくその時は、この先の身の置き所を相談しただけで、結局のところ川島皇子は長いものに巻かれてしまったのだ・・・と、思います。

なぜなら、この先の皇后の行動が、あまりにもスピーディで、はなから計画していたとしか思えないからです。

10月2日、飛鳥に戻った大津皇子を待っていたのは、皇后の『謀反の罪で逮捕せよ』という命令でした。

その日のうちに、大津皇子と共犯者三十余名が逮捕され、翌日には大津皇子ひとりの死刑が執行されてしまいます。

それに、共犯者として一緒に逮捕された者のなかで、有罪になった者でも、側近の礪杵道作(ときのみちつくり)が伊豆に、大津皇子を誘惑した僧・行心が飛騨の寺に左遷されただけで、残りは全員無罪。

明らかに、大津皇子ひとりをターゲットにした茶番劇のように思えてなりません。

大津皇子は二上山に葬られ、やがて伊勢の斎宮を解任された大伯皇女が毎日のようにその塚の前に姿を見せていたと言います。

さて、皇后の身分のまま天皇の政務をこなし、なりふりかまわず可愛い息子のお膳立てをしてやった鵜野讃良皇女に、たった一つ、想定の範囲外の出来事が起こってしまいます。

それは、大津皇子の事件からわずか三年後、最愛の我が子・草壁皇子が病死してしまうのです。

さすがの、皇后も遺体にすがって泣き苦しみますが、またしても、その見事な精神力で立ち直ります。

草壁皇子には、その時8歳になる軽皇子(かるのみこ)という子供がいたのです。

「この子が大きくなって皇位を継ぐまで、何とか頑張らなければ・・・」

偉大なる母は、翌年、自らが即位して持統天皇となるのです。
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2006年9月23日 (土)

鞭声粛々の作者・頼山陽

 

天保三年(1832年)9月23日は、歴史家で詩人でもある頼山陽の亡くなった日であります。

・・・・・・・・・・・

先日、川中島の合戦の日に少し書きました、あの合戦の様子を詠った有名な詩

♪鞭声粛々 夜 河を渡る
 暁に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年 一剣を磨き
 流星光底 長蛇を逸す♪

この詩の作者が頼山陽(らいさんよう)です。

彼は、広島藩の儒学者の子供として、大阪で生まれます。

朱子学(1200年頃の中国で生まれた儒学の一種)の学者・柴野栗山の話を聞いて大いに感動し、朱子学を学ぶため、18歳の時に江戸に出てきます。

1年間、尾藤二州に弟子入りして勉強し、広島へ戻りますが、かなりの不良だった(この頃の不良というのがイメージできないのですが・・・)らしく、しばらく自宅に幽閉されてしまいます。

この時に『日本外史』22巻を書き上げます。

彼は、江戸文化・華やかなりし頃の文化文政時代を代表する文人でしたが、生前に出版された書物は『日本楽府』だけで、門弟も少なく、書画を書いて、それを売って生計をたてていました。

その代金の取立てはきびしく、近隣ではケチだと噂されていた彼でしたが、書画の人気は高く、依頼のために、家の前に行列ができるほどだったと言います。

また、彼はたいへん旅行好きで、九州の果てまで旅していきましたが、行く先々で書画の依頼を受けたので、旅費の心配もなく、楽しく旅を続けていたようです。

しかし、自分の作品にはきびしく、たとえ旅先であっても、決して手を抜いて書く・・・というような事はなかったそうです。

自分の特技を生かして日本中を旅する・・・なんて、羨ましいかぎりです。
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2006年9月21日 (木)

石田三成、逮捕!

 

慶長五年(1600年)9月21日、先日の関ヶ原の戦いで敗走していた石田三成が東軍に捕らえられました。

・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦い・・・
(関ヶ原のイロイロに関しては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

お昼過ぎからの小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返りと大谷吉継(おおたによしつぐ)の死によって、形勢はあっけなく東軍有利となり、順々に西軍は崩れていきます(9月15日参照>>)

大谷の次に崩れたのは小西軍・・・小西行長(こにしゆきなが)は、伊吹山の方角に逃走しました。

その次は、最初の段階から福島正則(ふくしままさのり)軍と一進一退の互角の戦いを続けていた宇喜多軍でした。

小早川の裏切りに激怒していた宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、形勢が悪くなったのを感じ、「こうなったら、秀秋と刺し違えたる!」と、敵の真っ只中に突入しそうになったのを家臣に止められ、行長同様、伊吹山に逃走しました。

結局、最後まで頑張って敵の攻撃を一身に受けていた石田軍でしたが、次から次へと新手の敵が加わるわ、小西・宇喜多軍の敗走を目の当たりにするわで、士気は下がりっぱなし・・・。

とうとう、重臣・蒲生郷舎(がもうさといえ)が盾となって敵を引きつけ、彼の壮絶な最期と引き換えに石田三成(いしだみつなり)も、伊吹山方面に脱出しました。

その後日、秀秋ら裏切り組みと監督役の井伊直政とともにが三成の居城・佐和山城を攻略(9月17日参照>>)している間にも、西軍の武将たちが逃げていったと思われる伊吹山を中心に大がかりな落ち武者狩りが行われていました。

19日には、小西行長が伊吹山の山中で捕らえられました(9月19日参照>>)

そして今日・・・慶長五年(1600年)9月21日、石田三成が自らの領内の伊香郡高時村の岩窟の影に潜んでいるところを田中吉政(2月18日参照>>)の兵に見つけられました。

三成は、一見わからないようにボロボロの着物を着て、(きこり)の姿であったと言います。

その装束は、高時村の農民が三成と知って、かくまうために貸してくれた物だったそうです。

翌22日に、『三成逮捕』の知らせが家康のもとに届きます。

そしてこの日は、家康にとってもう一つのうれしい知らせも届きました。

それは、大坂城にいる毛利輝元(もうりてるもと)からの返事でした。

15日の関ヶ原の戦いが終わった時から、家康はず~っと気になっていたのです。

関ヶ原で勝利したものの、大坂城に残っている西軍・総大将の輝元が、秀吉の遺児=豊臣秀頼を担ぎあげて「いざ!もう一度合戦を・・・」って事になったらヤバイ、と・・・。

それで、黒田長政(くろだながまさ)に命じて、輝元に連署状出させていたのですが、その返事として、家康に反発する意志がない事、大坂城から退出する事を告げてきたのです(9月28日参照>>)

奇しくも、この日こそ、家康の完全勝利が決定付けられた日だったのです。

鳴くまで待った家康も、さすがにこの日は、勝利の美酒に酔いしれたのかもしれません。

このお話の続き石田三成斬首10月1日でどうぞ>>
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2006年9月20日 (水)

したたかなのは一豊か?

 

慶長十年(1605年)9月20日、今年の大河ドラマ・功名が辻の主役(主役は妻か?)山内一豊さんがお亡くなりになっています。

・・・・・・・・・

山内一豊さんに関しては資料が少なく、あまり多くの事はわかっていませんが、やっぱりドラマでもおなじみの、奥さんの内助の功が有名です。

とにかく戦前は、貞女の鏡として女性教育に使用され、教科書のも載っていたくらいですから・・・。

一豊さんが気に入った高価な馬を、「高すぎて買えない」とふさぎこんでいたら、「あなた、これを使いなさい」と、妻が鏡箱の底に隠しておいた持参金・黄金十両を手渡した。

一豊が喜んで馬を買い、馬ぞろえに参加したところ、その馬が信長の目にとまり、出世のきっかけになった・・・っていう話・・・。

ドラマの中でも、けっこうな時間を割いて描いていた有名なエピソードですが、やはりツッコミどころはあります。

馬ぞろえは天正四年(1576年)の事とされていますから、当時、一豊さんはすでに四百石の武将です。

とても馬が買えない程の貧乏とは思えませんし、もし本当に家計が火の車なら、それは奥さんのやりくりがヘタッピーという事になります。

黄金十両と言えば、今の金額でだいたい150万~200万円といったところだそうですが、ひょっとしたらその時代の十両は、もっと価値が高かったかもしれません。

武将が乗る馬=現代では車と考えた場合、天下の信長さんがおおいに気に入るわけですから、フェラーリポルシェを用意しなければ話になりませんが、そうなると、金額は大きく跳ね上がり、逆にそれだけの金額を、奥さんはず~っとヘソクリとして隠し持っていた事になります。

ドラマの中でも、「もっと何か隠しているんじゃないか?」と奥さんを疑うシーンがありましたが、旦那さんがそう思うのも無理ない・・・といった金額で、怪しいと言えば怪しい・・・。

一方では、『法秀院由緒書』『近江坂田郡志』といった古文書には、お金を出したのは、奥さんはなくお母さん(法秀院)と書かれていますし・・・。

まぁ、でも、ドラマの場合は、母親がらみだとマザコンっぽいし、美人の奥さんが一肌脱いだ事にしといたほうが、丸く収まりますしね。

もう一つのエピソードとして、『関ヶ原の合戦の時、徳川家康に従って関東にいた一豊のもとへ、大坂にいた奥さんが西軍の挙兵をいちはやく知らせた』というのがありますが、これも、怪しいと言えば怪しい・・・。

相手の行動をスパイするのは兵法の基本中の基本。

あの家康さんが、家臣の妻から聞くまで知らなかったと思う事に無理があります。

そんな中で逆に、一豊さんのエピソードとして、関ヶ原の合戦の前の『小山の陣での軍議』の時の話があります。

この時、家康は、西軍と一戦を交えるにあたって武将たちを集めて、「君らの妻子は、もうすでに人質として大坂城いるはずだから、このまま打倒・三成の自分に従うか、大坂に戻って西軍につくかは自由にしてくれ」と、言います。

その時、山内一豊が進み出て、「これから、西へ攻め上るには城と兵糧が必要になりましょう。私の城を家康殿に差し出し、自分は先陣となって戦いましょう」と言って、東軍の士気を高めた・・・という有名な話(7月25日参照>>)

しかし、これは前日、一豊さんが同僚の堀尾忠氏と、「これから戦になったら、どうする?」なんて話をしていた時に堀尾さんがした話。

一豊さんの質問に、堀尾さんが「俺なら、自分の城を家康公に提供し、先頭で大坂へ向かう!」と言ったのを、そのまんまパクッちゃいました。

小山の軍議で目立ったおかげなのか、戦後は、まんまと土佐二十四万石を手に入れる一豊さん。

実は、したたかなのは奥さんではなくて、一豊さんのほうではなかったのか?と思うしだいです。
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2006年9月19日 (火)

正岡子規は野球好き

 

明治三十五年(1902年)9月19日は、歌人・正岡子規のご命日です。

・・・・・・・・・・

彼は、慶応三年(1867年)、現在の愛媛県松山市で、松山藩士の長男として生まれました。

大学中退後、新聞「日本」に入社(4月7日参照>>)、ここで俳句・和歌の革新運動を起こします。

俳句雑誌「ホトトギス」を創刊して、近代俳句の確立におおいに貢献しました。

一方、和歌でも「アララギ」を発刊し、短歌運動の一大源流となりました。

雅号の「子規」というのは、ホトトギスの別名で、結核という病に犯された自分を「血を吐くまで鳴く」と言われるホトトギスに例え、「子規」と名乗ったのです。

その名前でもわかるとおり、その活動がほとんど病床で行われたので、病弱な人のような印象を受けますが、若い頃はたいへん元気で活発な人で、野球が大好きだったらしく、学生の頃のポジションはキャッチャーだったとか・・・。

野球の歌もたくさん詠んでいます。

短歌史上、野球を歌に詠んだのはこの人が初めてではないでしょうか?

2002年には、その事が評価されて「野球殿堂入り」を果たしているそうです。

以前「サラダ記念日」が大ブームになった時、「こんな現代的な短歌があるんだ!」と感心しましたが、どうしてどうして、子規も、とても明治時代とは思えない現代的な歌を詠まれているので驚きました~。

♪久方の アメリカ人の はじめにし
 ベースボールは 見れど飽かぬも♪

これは、初めて野球を見た時に詠んだ歌だそうで、ルールもわからないまま見ているにもかかわらず、一発で大好きになった様子がうかがえますね。

しかも、この歌の最初の部分の「久方の」は本来、空、月、光、天、雨などにかかる枕詞(まくらことば)です。

、あるいはにひっかけてアメリカ人の・・・」の枕詞にしてしまっているあたりは最高ですね。

♪九つの 人九つの 争いに
 ベースボールの 今日も暮れけり♪

9人の選手が9回の表裏を戦って一日を過ごした・・・楽しげな雰囲気が伝わってきますね。

正岡子規は、明治三十五年の(1902年)9月19日35歳という若さでこの世を去りました。

ホトトギスの名にふさわしく、最後まで歌い続けた明治を代表する文学者です。
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2006年9月18日 (月)

日本初!正長の土一揆

 

正長元年(1428年)9月18日、日本の国が始まって以来、初めて土民がいっせいに反乱に立ち上がった正長の土一揆が勃発しました。

・・・・・・・

戦国時代は、多くの名だたる武将が歴史を動かしました。

しかし、歴史を動かしたのは、貴族や武士だけではありません。

名も無き庶民たちが歴史を動かす・・・それが、一揆です。

一揆の火種は、この日本が戦国に突入するもっと以前、建武の新政(6月6日参照>>)の頃から、すでに少しずつくすぶり始めていました。

「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨(りんじ・天皇の命令)・・・」で始まる有名な二条河原の落書

この落書きが張り出されたのが、後醍醐天皇の建武の新政が行われた翌年、建武元年(1334年)の事です。

同じ年、若狭国・太良荘(たらのしょう)では、派遣された代官が、自分の領地の耕作に地元農民を使ったり、城造りに農民を動員したり、農民の田畑を奪おうとしたりした事に怒った農民たちが代官の悪行を文書にまとめ、代官追放を訴える、という事件も起こりました(8月21日参照>>)

この頃から農民たちの生活が徐々に変わり始めていたのです。

トラクターこそ無いものの、、鋤(すき)や鍬(くわ)などの鉄製道具の発達や、二毛作の開始

物の流通や貨幣の流通がさかんになって、農家の作物が商品として作られるようになります。

その結果、どんどん豊かになる者、逆に借金に苦しむ者と格差が出るなかで、自分たちの農村を自分たちで管理する心が生まれてくるのです。

そうなると、領主が無理難題をふっかけてきても、村全体で抗議する・・・といった事が起こるようになってくるのです。

正長の一揆の二年前・応永三十三年(1426年)に、近江の国・坂本の馬借(貨物運送業者)たちが一揆を起こしました。

しかし、この時はそれほど広範囲に広がることはありませんでした。

そして正長元年(1428年)の年。

この年は、前年からの凶作に加えて疫病の流行、そして将軍の交代などが重なって、不安が高まっていました。

そんな時、二年前と同じく近江国の大津坂本の馬借たちから始まった馬借一揆が広がりはじめ、土民たちが一斉に立ち上がる土一揆と変化し、高利貸しをしている酒屋・土倉・寺院などを破壊。

質に入っている品物を勝手に取り出し、借金の証文を破って捨てるといった行為に走ります。

この時は、管領の畠山満家が幕府の命を受け鎮圧に乗り出しますが、なかなかその勢いは衰えませんでした。

やがて、この土一揆は、播磨・丹波・伊勢・大和と近畿一帯を巻き込んでしまいます。

土一揆とは、土民(農民や都市の庶民)が、荘園領主や大名・高利貸しに対して起こす一揆の事をいいます。

たいていの場合、土一揆は「徳政」を要求する徳政一揆に変化します。

「徳政」とは、借金をチャラにしたり、売却地を取り戻したりする事です。

一揆の勢いで自分たちで徳政を行うのを「私徳政」と言いますが、時には一揆を終結させるため幕府が「徳政令」を出す事もありました。

この、正長の土一揆の時は、幕府は徳政令を出しませんでしたが、証文などが破棄されたため、私徳政が行われた・・・という事になります。

ただし、この時、大和では、多くの荘園を持っていた興福寺が徳政令を認めたためこの地域では徳政令が施行されました。

その記念に農民たちが、お地蔵様に刻んだ宣言文が、現在も奈良市柳生町に残っています。

やがて、徐々に一揆も成長し、山城の国一揆(12月11日参照>>)加賀の一向一揆(6月9日参照>>)といった、より団結の強いものへとなって行くのです。
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2006年9月17日 (日)

関ヶ原の後始末・佐和山城攻め

 

慶長五年(1600年)9月17日、一昨日の関ヶ原の戦いの、寝返り組・小早川秀秋らが、保身をかけて佐和山城を攻めました。

・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日に勃発した関ヶ原の戦い(9月15日参照>>)

天下分け目と言われながらも、結局、昼過ぎには、ほぼ決着が着いてしまいました。

夕方、首実検をおこなっていた徳川家康の本陣に、あの小早川秀秋(こばやかわひであき)(9月14日参照>>)が顔を出しました。

秀秋の寝返りによって、一気に戦況が家康側に向いたのは事実ですから、ある意味、東軍勝利の功労者です。

しかし、寝返りが遅かった事で、家康をイライラさせたのも事実。

秀秋は、家康の前に進み出て、寝返りが遅れた事を詫びると同時に「佐和山城攻めの先鋒を務めたい」と願い出ました。

佐和山城は、事実上(現地での)西軍の大将(大将は毛利輝元でしたが、合戦のあったこの日は大坂城にいたので)であった石田三成の居城です。

まさか、関ヶ原から敗走した三成が、落ち武者狩りの網の目をくぐって、佐和山城まで逃げきれる(直線距離で20kmくらいでしょうか)とは思えませんが、こうなった以上、その居城をそのままにしておくわけにもいきません。

すると、秀秋のその言葉を聞いた脇坂安治朽木元綱小川祐忠らが「自分も」「自分も」と名乗り出てきます。

そう、彼らは秀秋の寝返りをきっかけに、西軍から東軍へ、くらがえした人物たちです。

ここで、家康のご機嫌をとって、後から仲間に加わったハンディを少しでも取り戻そうと必死です。

もちろん、秀秋自身もそのつもりで、先鋒を願い出た事は言うまでもありません。

監督役の井伊直政とともに、彼らが関ヶ原を出発したのは、合戦の翌日=9月16日の事でした。

そして、さらにその翌日の慶長五年(1600年)9月17日小早川秀秋はじめ1万5千の軍勢は、二手に分かれて一気に佐和山城に攻め入りました。

この時、城を守っていた兵は2千8百と言われていますが、半日のうちに湖東の山城は、かなりの所まで落とされてしまいました。

夕方には、三成の兄・正澄の切腹を条件に講和が成立して、家康は攻撃をやめさせます。

ところが、なぜか翌日の18日の早朝に、田中吉政(2月18日参照>>)の兵が天守閣の門を破り、一気に城内に攻め込んだために、天守にいた三成の父・正継、そして先程の兄・正澄が天守閣に火を放ち、一族全員が自害し、佐和山城は落城してしまいました。

この佐和山城の先鋒を勤めた事で、小早川秀秋の保身は成功したのでしょうか?

いや、家は守られたかも知れませんが、ご本人の心には、何かが大きく圧し掛かっていたのかも知れません。

なんせ、ご本人は、わずか21歳の若さで・・・続きは2009年10月18日参照>>
そして、居城の岡山城には開かずの間が・・・続きは2011年10月18日参照>>

このお話の続きとなる石田三成の逮捕9月21日でどうぞ>>
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2006年9月16日 (土)

新天地への旅立ち

 

1620年9月16日、メイフラワー号が新天地に向けてイギリスを出発しました。

・・・・・・・・

当時イギリスでは、貴族や僧侶・大地主・特権商人などが支持するイギリス国教会と、都市や地方の地主・独立自営農民・商工業市民などが支持する清教徒(ピューリタン)がはげしく対立していました。

ジェームス一世や、チャールズ一世が、国教会を強制した事から、それに対して不満を抱く人々が増えていきました。

清教徒たちは、イギリス国教会からの迫害から逃れて、理想の地へ旅立とうと、1620年9月16日・・・その中の102名がメイフラワー号(180トン)に乗り込み、イギリスを出発

大西洋を横断してアメリカに向かいました。

メイフラワー号は、大西洋を66日で横断、乗客102名のうち2名が船上で無事出産したという事です。

しかし、新大陸の冬は厳しく、寒さと飢えのため約半数の人が亡くなりました。

やがて、春にはなんとか生活できるようになり、その年の秋には収穫も得られるようになりました。

アメリカで、11月の第4木曜日に行われる『感謝祭』は、この時の収穫を祝うお祭りです。

ちなみに、その後イギリスでは1649年に、7年間に及んだイギリス国教会(王党派)と清教徒(議会派)の内乱が終結し、議会派が勝利をおさめました。

それは、『清教徒革命』と呼ばれ、世界最初の市民革命だと言われています。
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2006年9月15日 (金)

天下分け目の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知!天下分け目の関ヶ原の戦いがあった日です。

・・・・・・・・・・

思えば、豊臣秀吉が亡くなったその時から、関ヶ原への扉はすでに開かれていたのです。

その頃からすでにあった、政治担当の文系石田三成と、朝鮮出兵の最前線で戦ってきた体育会系加藤清正たちとのすれ違い・・・(3月4日参照>>)

徳川家康は、このすれ違いを利用して、体育会系の加藤清正らを味方につけ、豊臣家を分断しました。

しかし、豊臣家をぶっ潰そうと思っても、自分から直接弓を引いたのでは、謀反になってしまいますから、何とか三成側から攻撃を仕掛けさせ、内紛を起こさせなければなりません。

そんな時、五大老のひとり、会津上杉景勝に謀反の疑いがかかります(4月1日参照>>)

家康は上杉討伐を口実に、東北に軍を進めます。
「自分が大坂を離れれば、三成は攻撃をしかけて来るに違いない」と確信していたのです。

案の定、三成は挙兵します(7月19日参照>>)

しかし、その時の西軍の数は、家康の予想をはるかに超えるものでした。

家康は早速、会津へ行くのをやめ(7月25日参照>>)江戸城に入り、せっせと手紙を書きます。

西軍に味方している大名に片っ端から、恩賞をちらつかせ、自分に寝返るように説得をするのでした。

かくして、慶長五年(1600年)9月15日午前八時、井伊直政宇喜多秀家軍に発砲したのを合図に、天下分け目の合戦の火蓋が切られました。

Sekigahara (なんとか、わかりやすくならないかと表にしてみました)

最初は、互角の戦い・・・いや、むしろ西軍がやや有利に駒を進めていましたが、戦闘開始から2時間たっても、西軍の半数はまったく動かず見ているだけ・・・。

やがて、三成の右腕として活躍していた島左近が負傷するにあたって、三成は、島津義弘に再三救援を要請しますが、島津はまったく動かず、やる気ゼロ。

そこで、総攻撃の狼煙(のろし)をあげますが、家康の周りを取り囲んでいた毛利吉川長束も、そして小早川秀秋も、まったく動く気配がありません。

家康は、その動かない軍からの寝返りに期待していました。
なかでも、小早川秀秋は豊臣秀吉正室・ねねの甥にあたり、幼い時は子供のいない二人の養子となって秀吉の後継者となるはずでした。

しかし、淀君秀頼を生んだため、小早川家に養子にだされた・・・という過去があります(9月14日参照>>)

「小早川は必ず寝返る」と、家康は確信して、一刻もはやく決断させようと、小早川軍に鉄砲を打ち込みます。

正午過ぎ、秀秋はようやく軍を動かします。
それも、西軍の大谷吉継に向けて・・・

秀秋の寝返りで、次々と寝返り組が続出し、大谷軍に襲い掛かります。
戦況は一気にくつがえされました。

大谷吉継は自刃(2008年9月15日参照>>、小西と宇喜多は敗走、最後まで戦った三成軍も崩壊しました。

天下分け目の大合戦は、わずか半日で終結・・・この戦いの勝利で、豊臣家内でのトップの位置を獲得した家康は、やがて天下へと突き進む事となります。
 

このお話の続き関ヶ原の後始末・佐和山城攻め9月17日>>>です

今日のこの合戦を武将たちが振り返り討論する【関ヶ原の合戦大反省会】>>
個々の出来事へのリンク集=【関ヶ原の合戦の年表】>>
も見ておくなはれ~~
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2006年9月14日 (木)

墨俣の一夜城凸建設中!

 

永禄九年(1566年)9月12日、木下藤吉郎の指揮のもと、墨俣に城の建設を開始し、15日に完成・・・世に言う墨俣一夜城です。

・・・・・・・・・

桶狭間の戦い(5月19日参照>>)今川義元を破ってノリノリの織田信長にとって、美濃・稲葉山城斉藤氏は、目の上のタンコブでした。

これから天下を狙うにあたって、是が非でも手に入れておきたい重要地点です。

『美濃のまむし』と呼ばれた斉藤道三の娘・濃姫を奥さんにしていた信長は、その道三を倒して(4月20日参照>>)美濃を継いだ道三の息子・義龍(よしたつ)に対して、『義父の弔い合戦』という名目で攻撃をしかけますが、なかなか討ち負かす事ができません。

義龍が病死した後、14歳で家督を継いだ龍興(たつおき)の代になっても、再三に渡って攻撃を仕掛けますが、さすが『まむし』の造った難攻不落の稲葉山城はびくともしません。

いつしか、最初の攻撃から六年もの歳月が流れていました。
そこで、信長は美濃攻略の最終手段として、墨俣に出城を築こうと考えます。

たしかに、墨俣は長良川を挟んで稲葉山城の真正面・・・ここに、城を築けば格段に攻撃がしやすくなります。

しかし、墨俣は木曽川と長良川と揖斐川が接近する中州の湿地帯で、しかも敵地の真っ只中です。

とても城を築ける場所ではないところに、果敢にも挑戦した佐久間信盛柴田勝家でしたが、二人とも失敗・・・

そして、3番目に手を上げたのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)でした。

藤吉郎はその頃、まだ足軽頭という低い身分ではありましたが、合理主義者で身分に関係なくやる気のある者、できる者を登用する信長は、藤吉郎に墨俣の築城を任せる事にします。

さて、藤吉郎の一世一代の大仕事の始まりです。

まずは、人材集め・・・藤吉郎は、尾張の土豪・蜂須賀小六(正勝)に頼んで、地元の土豪や野武士に声をかけます。

そうやって集まった二千人の中には野武士たちだけでなく、山方衆や川の船頭衆も含まれていたため、地元の地理にもくわしく、フットワークも軽いという願ってもないラッキーな人材が集合しました。

各担当部署の代表者にあらかじめ図面を配り、何をどうするかをしっかりと頭に叩き込んでから、まずは、4分の1の500余人を木曽川の上流へ出発させ、木材の切り出しにかかります。

決められた寸法に切り分けられた木材をいかだに組んで船頭衆が川を下り、稲葉山より少し下流で待ち受けていた2分の1・約1000人が次々と岸に引き上げ、今度は大工の棟梁の指揮のもと、築城用に加工していきます。

その間に、残りの300人余りが土木・建築道具と食糧の調達をすると同時に、美濃一帯に「この大量の材木は、信長が伊勢を攻めるための準備だ」というウソの情報を流します。

そして、すべての準備が整った9月12日午前2時、高らかに上がった狼煙(のろし)の合図とともに、各地に集合した藤吉郎軍は一斉に行動を開始します。

藤吉郎、自らが率いる信長から預かった鉄砲隊75名を含む500人ほどが木曽川に向かって出発。

同時に、残りの1500人は木曽川沿いに集めておいた加工木材を長良川へとつながる枝川に運び、そこから小船に乗せて運びます。

やがて、川を渡り墨俣の目の前の長良川の岸までやってきた藤吉郎は、一緒に来た500人を半分に分け、1隊を食糧作りや負傷兵の手当てをする後方支援にまわします。

そうしているうちに、お昼頃には加工木材が到着し始め、残りの人数で周囲の堀や馬よけの柵を作り始めます。

このあたりで異変に気づいた美濃の軍勢が襲ってきますが、鉄砲や弓で応戦。

夕方になって、大型の木材が到着し、本格的に築城を開始します。

寸法通りに加工された木材を現地で組み立てる・・・今で言うプレハブってヤツ?ですね。(建築に関してはあまりくわしく知りませんが・・・)

かがり火の中、夜を徹して築城作業が続けられました。

13日も、不眠不休の工事が続行されます。

そして、9月14日には、再び美濃の軍勢が攻撃をしかけてきます。

藤吉郎軍は、半数が死傷しながらも、傷の手当てをしながら、時々届く食糧を補給しながら、そしてもちろん城の建設もしながら、何とかしのぎきり、とうとう15日の朝、墨俣城は完成しました。

翌年の8月に美濃が降伏する(8月15日参照>>)までの約1年間、藤吉郎は墨俣の城主としてここを守り、これを足がかりに織田家の重臣へとのし上がっていくのです。

ただし、実際のところ、墨俣城に関しては、諸説あります。

『信長公記』『真書太閤記』には、この永禄九年以前に墨俣城(もしくは別の名前の城)があったと書かれていたり、逆に『太閤記』には、墨俣の名前が出てこないとか。

あるいは、単なる砦のような物で、とても城と呼べるほどのシロモノではなかった・・・など。

ホントのところは、まったくなかった話なのかもしれませんが、今日のところは、あまりにも見事で、痛快な胸のすくようなこのお話を、あえて書かせていただきました。
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2006年9月13日 (水)

最後の武士・乃木希典

 

大正元年(明治四十五年・1912年)9月13日、明治天皇の大葬が行われ、陸軍大将・乃木希典・静子夫妻が殉死しました。

・・・・・・・・・

この年の7月に明治天皇が崩御され(7月30日参照>>)、元号も明治から大正に変わった大正元年(1912年)9月13日明治天皇の葬儀が行われました。

その、大葬の列が宮城を出発する午前八時・・・まさに、その時刻、陸軍大将で学習院に勤める乃木希典(のぎまれすけ)は、時世の句を詠んで軍刀を持ち腹部を切った後、頚動脈を切断して絶命・・・63歳の生涯を閉じました

妻・静子は、それを見届けてから懐剣を深く胸に突き刺して自害しました。

乃木には、ずっと以前から、明治天皇への負い目がありました。

その一つは、明治十年(1877年)の西南戦争の時に、小倉第14連隊長だった乃木が、熊本鎮台(政府陸軍)に救援に向かっている途中で、薩摩軍に攻撃され、連隊旗手が戦死してしまい、その時に連隊旗を奪われてしまった事(2月22日参照>>)

その頃の軍隊にとって、天皇から授かった連隊旗は、自分たちの象徴であり、魂でした。

それを奪われておきながら、何の処分も受けなかった事を、ずっと重荷として背負っていたのです。

そして、もう一つは明治三七年(1904年)に勃発した日露戦争で、自らの指揮ののもとで、多くの犠牲者を出してしまった事でした(1月2日参照>>)

乃木は、当時難攻不落と言われた旅順の港を攻撃するため、203高地を占領するのに第三軍司令官として出陣していました。

そして、1度目は4800人の死傷者を出して失敗。
2度目は、2800人の死傷者を出したにも関わらず、これも失敗。

この時、一度、「乃木の司令官をやめさせるべきだ」という意見が出ましたが、それに反対したのは、他ならぬ明治天皇でした

「そんな事をしたら、乃木は生きてはいまいという明治天皇の一言に、その一件は見送られたのでした。

その後、3度目の攻撃でやっと占領し、一気に旅順港内のロシア軍艦を攻撃、旅順を陥落させ奉天を占領しました。

この事で乃木は、凱旋将軍と讃えられる事になりますが、彼にはやはり、この事も重荷となって大きく圧し掛かり、「自分の理解者は明治天皇だけだ」と思うようになったのです。

乃木夫妻の死は、世間を大きく騒がせました。

森鴎外も、夏目漱石も、小説に書きました。

しかし、すでに、この時代には、『忠臣』と賛美する意見ばかりではなく、殉死の是非について、世論は大激論になったと言います。

殉死、というあまりに古風なふたりの死は、時代の変わり目を感じさせるものとなったに違いありません。

映画『ラスト・サムライ』では、西郷さんらしき人物をラスト・サムライとして描いていましたが、ここにもう一人ラスト・サムライがいた・・・って感じですね。

♪うつし世を 神さりましし 大君の
 みあとしたひて 我はゆくなり♪  
乃木希典・辞世
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2006年9月12日 (火)

信長の比叡山焼き討ち

 

元亀二年(1571年)9月12日、織田信長によって、比叡山・延暦寺が焼き討ちされました。

・・・・・・・・・

比叡山・延暦寺は、12歳で出家した最澄(伝教大師)が、延暦四年(785年)に、僧の資格を得た直後に比叡山に入山・・・その後、弘仁十四年(823年)に延暦寺と名を改めた天台宗の総本山です(6月4日参照>>)

しかし、それと同時に多くの僧兵を抱える軍事勢力でもありました。

第72代・白河天皇が生前、「自分の思い通りにならない物は、賀茂川の水の流れと、サイコロの目と、比叡山の僧兵だ」と言った事は、あまりにも有名です。

天皇でさえ、仏罰を恐れて一歩退く・・・といった状態でしたから、僧兵たちが少々エラそうな態度に出ても、誰も正面から立ち向かうような事はなかったのです。

しかし、ここに神をも恐れぬ男がひとり・・・いえ、自分こそが神である!とまで思っていたかも知れない人・・・そう、織田信長です。

でも、信長さんも当時は大変な『四面楚歌』状態。

越前朝倉義景近江浅井長政(11月26日参照>>)三好長逸・三好政康・石成供通三好三人衆に、長島一向一揆(5月16日参照>>)・・・と、まわりは敵ばかり。

石山本願寺とも交戦中だし(9月12日参照>>)、猛将・武田信玄の動きにも注意しなければなりませんでした。

ちょっとでも手をゆるめようものなら、そこから付け入られて崩されては命取りです。

この状況を打開するには、逆にひとつずつ敵を崩していくしかありません。

ちょうど、その頃、浅井・朝倉連合軍の落ち武者が比叡山に逃げ込んでかくまってもらう・・・といった事が何度かありました。

いくら僧兵が強いと言っても、彼らの本職はあくまで僧。

それに比べて信長軍は戦いのプロです。

崩すならここしかない!彼はそう思ったに違いありません。

9月に入って信長は近江の善立寺を攻め、その足で琵琶湖のほとり坂本に進みました。

信長軍の多くの者たちが、このまま京に入る・・・と思っていた所に、信長様の比叡山攻めの発表!

当然、明智光秀・佐久間信盛以下、そこにいた武将たちは驚き、そして必死で止めました。

しかし、当然そんな部下たちの声を聞く信長ではありません。

かくして元亀二年(1571年)9月12日比叡山を焼き討ちしました。

根本中堂をはじめとする堂塔も、大切な仏像や経典もことごとく灰になり、逃げ惑う人々は捕らえられ、女・子供・僧を含む3千人余りが殺されたと言います。

・・・とは言え、個人的には、この比叡山焼き討ちは無かったかも知れないと思っている私・・・そのお話は=【信長の比叡山焼き討ちはなかった?】へどうぞ>>>
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2006年9月11日 (月)

悪女・藤原薬子の乱

 

弘仁元年(810年)9月11日、藤原薬子とその兄・仲成の、平城天皇・返り咲き計画が発覚し、薬子が自殺しました

・・・・・・・・・

藤原薬子(ふじわらのくすこ)は、平安京遷都で知られる第50代桓武天皇の片腕として活躍した藤原種継(たねつぐ)の娘です。

種継は、桓武天皇のお気に入りで、長岡京遷都の仕事(11月11日参照>>)などをまかされたりした重要人物でしたが、反対派に暗殺され、その真犯人がはっきりしないまま十数名が処刑された事から、後々桓武天皇がその時死刑にした人物の怨霊に悩まされる(9月23日参照>>)という出来事の原因となった人物です。

薬子は、父の死後、同じ藤原氏の縄主(なわぬし)という人物と結婚して、三男二女をもうけていました。

やがて、成長した薬子の長女が桓武天皇の息子・安殿(あて)親王妃として、宮中に召される事になりました。

ところが安殿親王は、宮中へやって来た薬子・親子をひとめ見るなり、娘のほうではなく、母親の薬子のほうを好きになってしまうのです。

とにかくこの薬子、歳のわりにはとてつもない美人!

安殿親王のほうは、一気に燃え上がるタイプの情熱派!

ペタジーニ真っ青の歳の差で不倫関係が始まってしまいます。

この事を知った桓武天皇は、当然激怒・・・すぐさま薬子を宮中から追い出しました。

その時、一旦はもとのさやに納まったものの、しばらくして桓武天皇が亡くなると、安殿親王は、平城天皇として即位して、二人の関係は復活!

早速、天皇は薬子の夫・藤原縄主を九州へ転勤させて、薬子を宮中に呼び戻します。

薬子は、尚侍(ないしのかみ)という天皇の身の回りの世話をする女官の係長として、今度は堂々と、毎日々々、天皇の「あの世話」も「この世話」もやりまくる事ができるようになりました。

さらに・・・
桓武時代の重臣として活躍した父のDNAを受け継ぐ薬子・・・こうしてある意味頂点に立つと、なんやかやと政治にも口出しするようになります。

そこへ、ハイエナのように、今までうだつが上がらなかった薬子の兄・仲成(なかなり)までくっついてきて天皇にとり入り、すき放題やり始めました。

ところが、薬子や仲成とは逆に、平城天皇は政治があまり好きではないようで、しかも薬子に一目ぼれしたように、何かと熱しやすくさめやすいタイプ。

思うように政治がいかなくなると「や~めた!」とばかりに、あっさりと皇位を弟に譲ってしまい、自分は上皇となって、大好きだった奈良の都に戻って暮らし始めます。

すると、平城天皇の後を継いだ弟・嵯峨天皇は、前天皇時代の政策を変更したりして、けっこううまく政治をこなしていきました。

ところが平城上皇は、奈良の古都に引きこもってみると、またまた熱しやすくさめやすいコロコロ変わる性格が飛び出してきて、「惜しいことをした~」と思うようになるのです。

それは、薬子も仲成も同じです。

せっかく頂点に立ったと思ったのに、気まぐれ坊ちゃんのわがままで、その座を渡してしまったのですから・・・。

とにかく、三人で新天皇・嵯峨天皇の悪口言いまくりの政策に反対しまくりで、平安京と平城京の二つの朝廷があるような状態になってしまいました。

ここまで事が大きくなると、嵯峨天皇も黙ってはいられません。

とうとう、仲成を逮捕し処刑(2013年9月11日参照>>)、薬子の官位を剥奪してしまいました。

「こうなったら武力に訴えるしかない!」と平城上皇は、東国で挙兵する計画を立てますが、未然に発覚し、身柄を拘束され無理やり出家させられてしまいます。

ひとりぼっちになってしまった薬子・・・弘仁元年(810年)9月11日に、毒を飲んで自殺をはかりました。

この薬子の乱の事が書かれている『日本後紀』には、希代の悪女として書かれている薬子ですが、これってホントに悪女なのかなぁ?

薬子を勝手に好きになったのも平城天皇だし、皇位を譲ったのも、また欲しくなったのも平城天皇だし、それを許さなかったのは嵯峨天皇だし・・・。

皇位継承の揉め事に巻き込まれてしまった感も拭えない気が・・・(゚ー゚;
 
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2006年9月10日 (日)

鞭声粛々・川中島の戦い

 

永禄四年(1561年)9月10日、武田信玄上杉謙信の歴史に残る第四次・川中島の合戦八幡原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

北信濃の(さい)千曲川の合流する場所が『川中島』・・・信玄と謙信は、この川中島で、計・5回戦っています。

その中で、例の名場面、本陣で床机に腰をかけた信玄に、颯爽と騎馬にまたがった謙信が斬りかかる・・・手に持った軍配で防ぐ信玄・・・戦国の合戦の中でも屈指の名シーンです。

あの一騎打ちのあったのが、この4回目の戦いで、一般的に『川中島の合戦』と言うと、この4回目の戦いの事を指します。

そもそもは、クーデターを起こして父を追いやった信玄が、甲斐・一国を手に入れた後、信濃のほうに手を広げ出したのが始まりでした。

まずは、塩尻峠の戦い小笠原長時を破り、長時は葛尾城を本拠地とする村上義清を頼って落ちのびていきました。

葛尾城というのは、ちょうど甲斐と越後の中間あたりに位置する城です。

そして信玄は、次にその村上を攻めます(2月14日参照>>)
葛尾城も落とされ、信濃を捨て、村上は謙信を頼って越後に逃げてきました。

「これ以上、信玄に進まれては大変だ」という思いと、「村上を保護する」意味とで、謙信は出陣します。

これが、1度目の川中島の戦い、天文二十二年(1553年)4月更級八幡の戦い・4月22日参照>>)と8月布施の戦い・9月1日参照>>)でした。

しかし、これは、あくまでお互いが「ただ者ではないぞ!」と、アピールした感じのデモンストレーションで終わりました。

2回目は、弘治元年(1555年)7月犀川の戦い・7月19日参照>>)

この時は、大きな戦いは無かったものの、200日間も小競り合いとにらみ合いを続けたけっこうマジな戦いでしたが、今川義元が間に入って講和が成立して、双方が軍を退きました。

3回目は、弘治三年(1557年)8月上野原の戦い・8月29日参照>>)ですが、こう着状態の続く決定打の無い戦いで、決戦を避けた雰囲気さえあります。

そして、いよいよ永禄四年(1561年)9月10日4回目の戦いです。

この時、信玄は『啄木鳥(きつつき)戦法』を計画していました。

それは、「上杉軍の陣取る山の後方にに部隊を送り込み、早朝に奇襲をかけ、あわてて山を降りる兵を、本陣が迎え撃つ」という作戦・・・。

Kawanakazimafuzinzucc 画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

しかし、戦の前の食事の準備で、立ち昇った炊事の煙を見て、謙信は、逆にまもなく襲撃がある事を見破ってしまうのです。

上杉軍は、武田軍に気づかれないように、音をださずに静かに山をおり、夜のうちに千曲川を渡り、武田軍の本陣の前までやってきます。
頼山陽(らいさんよう)(9月23日参照>>)の詩で有名な【鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)、夜 河を渡る】です。

そして、夜が白々とあけてくる頃、信玄は驚きの光景を目にします。
本陣の目の前に、すっかり戦いの準備を整えた上杉の大軍がいたのです。【暁に見る千兵の大牙を擁するを】

そして、上杉軍が奇襲をする形で戦いは始まります。
今度は、謙信の『車がかりの戦法』・・・に戦った部隊が退くと見せかけて、今度は別の部隊が攻めてくるという戦法です。

しかし、奇襲をかけられても、グラグラと総崩れにならないのが、武田軍のスゴイとこ!
そしてこの時、例の一騎打ち!

この一騎打ちは、信玄の横にいた兵士が、謙信の馬に槍を突き立てた事で、馬が謙信を乗せたまま走り去ってしまい、決着が着かなかったのです。

やがて、先程の夜のうちに山の後方に先に潜伏していた信玄の奇襲部隊が、本陣に合流することとなり、上杉軍が一気に不利になってしまい、謙信は兵を引き揚げました。

結局、双方ともに、一万前後の死傷者を出し、勝ち負けの決着のないまま、4回目の戦いは引き分けで、終わってしまいました。

しかし、引き分けではありましたが、信玄はこの戦いで、弟・信繁(2008年9月10日参照>>)と、名軍師・山本勘助を失ってしまい、ある意味、今後の武田家の明暗を分けた戦いになったと言えます。

そして、5回目の戦いは、永禄七年(1564年)8月塩崎の対陣・8月3日参照>>)でしたが、この戦いは刃を交えることなく、お互い出陣はしたものの、にらみ合いだけで終わりました。

信玄と謙信が、川中島でぶつかり合ってる間に、政情は刻々と変わり、戦国武将の勢力図にも変化が見られ、合戦は鉄砲の時代へと移り変わります。

もう、『大将どうしの一騎打ち』なんてドラマチックな光景は、この戦いを最後に見れなくなってしまいました。

*2007年9月10日の記事【川中島の合戦は無かった?】へもどうぞ>>>


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2006年9月 9日 (土)

天武天皇崩御で持統天皇が動き出す

 

朱鳥元年(686年)9月9日、第40代・天武天皇が崩御されました。

そして、その死をきっかけに、いよいよ持統天皇『強烈ママの我が子を天皇にするぞ作戦』が、動き始めます。

・・・・・・・・・・

天武天皇は、乙巳(いっし)の変大化の改新(6月12日参照>>)を行った第38代・天智天皇の弟で、その天智天皇の娘のうち2人を妃にしていました。

姉・大田皇女(おおたのひめみこ)と妹・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)です。

このふたりの皇女には、同時期に相次いで子供が生まれます。

大田皇女には、女子=大伯皇女(おおくのひめみこ)と男子=大津皇子(おおつのみこ)

鵜野讃良皇女には、男子=草壁皇子(くさかべのみこ)です。

しかし、大田皇女は大伯皇女が7歳・大津皇子が5歳の時に病気で亡くなってしまいます。

後に起こる大津皇子の悲劇は、この時に始まっていたと言ってもいいでしょう。

やがて、天智天皇が崩御され、その息子・大友皇子(おおとものみこ)との皇位継承の争いである壬申(じんしん)の乱(7月22日参照>>)勝利した大海人皇子が天武天皇として即位します(2月25日参照>>)

そして、鵜野讃良皇女が皇后となるのです。

天武天皇は、9人の妃に17人の皇子・皇女をもうけていましたが、もうすでに宮中では、次の皇位継承について波乱の噂が囁かれていたようです。

・・・と、言うのもこのふたりの皇子は、草壁皇子が10歳、大津皇子が9歳で、壬申の乱の時、父をアシストしましたが、その後、大人になるにつれ、徐々にその帝王としての素質に差が出てくるのです。

大津皇子は奔放で才気にあふれ・・・対する草壁皇子は悪くはないものの少し軟弱な青年でした。

ふたりの皇子がともに恋をした石川郎女(いしかわのいつらめ)という女性も最終的に大津皇子の手の中に落ちています。

やはり、男としても大津皇子のほうが魅力的だったようです。

天武天皇も、どうやら「大津皇子を皇太子にしたい」と、思っていたようですが、大津皇子の母・大田皇女はすでに亡く、草壁皇子の母・鵜野讃良皇女は皇后として君臨していますから、なかなかすぐには決定できません。

そこで、鵜野讃良皇女はここで、予防線を張ります。

彼女は、生涯の中で31回吉野に旅をしていますが、たった1回だけ、天武天皇も同行した吉野行きがありました。

それが、天武八年(679年)5月の吉野のちかいと呼ばれる旅で、この旅の中で「千歳の後に事なからしめむ」と神と天皇の前で誓う儀式が行われたのです。

その儀式の時、代表で天皇の前に進み出る役を、草壁皇子が行うようにダンドリをしたのは、言うまでもなく鵜野讃良皇女でした。

そのパフォーマンスが効いたのか、その翌年に草壁皇子は皇太子になります。

草壁皇子・19歳、大津皇子18歳でした。

しかし、鵜野讃良皇女の大津皇子を疎外しようという意図がミエミエだったのか?、宮中の大臣たちの声もあがり、その2年後には、天武天皇は大津皇子も政治に関わる役職につけたり・・・と配慮をしていました。

そんな中・・・今日の天武天皇・崩御です。

鵜野讃良皇女は、片方で夫の死を悲しみながら、いよいよ我が子のライバルを消しにかかります。

・・・が、そのお話は、その事件が起こる9月24日>>にさせていただく事にします。

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天武・持統天皇陵

 

 

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2006年9月 8日 (金)

明治に改元・一世一元を定む

 

明治元年(慶応四年・1868年)9月8日、元号を慶応から明治に改めるとともに、以後、一天皇は一元号とする事、つまり一世一元の制を定めました。

・・・・・・・・・・・

以前、『元号のおはなし』(6月19日参照>>)でも書きましたが、それまでは天皇が即位した時はもちろん、疫病が流行ったり、凶作だったり、何か不吉な事が起こると元号を改めていました。

それを、この時から現在のように、一人の天皇にひとつの元号で、亡くなったときにその元号の名前が(おくりな)として使用される・・・というふうになったのが明治のこの日から。

明治という名前になるにあたっては、いくつかの候補の中から、天皇がくじで引いて・・・えぇ?くじびきかい!・・・とお思いかも知れませんが、天皇がくじを引く=これは神託なのだそうです。

たしかに、くじというのは、ある意味、神のなせる業と言えなくもないですから。

ところで、もっと以前は天皇が亡くなって次の天皇に継承するのではなく、ある程度の年齢、あるいは政治的要因によって、天皇自体がけっこうすぐに交代していたし、その上、あの後醍醐天皇は8回も、崇徳天皇も在位中に6回改元していますから、そんなにころころ元号が変わって、昔の人は混乱しなかったのでしょうか?

江戸時代も、徳川家康が征夷大将軍になった1603年から60年間でこそ、慶長・元和・寛永・慶安の四つであるけれども、これも後期になって幕府の力が弱まるとけっこう頻繁に、改元が繰り返されます。

2年や3年で交代ばかりしていたら、「昭和生まれだ」「平成生まれだ」もあったもんやない!と心配していたら・・・

どうやら昔の人は、元号よりも、干支(えと)を使ってその年を表していたとの事・・・。

十干と十二支の組み合わせだと、同じ組み合わせの年がめぐってくるのは60年に一度・・・例の、還暦ってヤツです。

十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10個。
十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12個ですね。

当時の寿命からいくと、60年はけっこう長く、生年や出来事のあった年を表すのに、何の不自由もなく混乱もありませんでした。

そう、甲・子の年に完成したから、甲子園球場なのだ・・・というのは、けっこう有名ですよね。

現在のように、元号が国民生活に、どっぷり根をおろすのは、やはりこの明治以降のようです。
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2006年9月 7日 (木)

義仲・初陣!市原の戦い

 

治承四年(1180年)9月7日、木曽義仲が市原の戦いで初陣を飾りました。

・・・・・・・・・・・・

幼くして父を亡くし、木曽の中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとに身を寄せた駒王(8月16日参照>>)、一族の暖かい庇護のもと、すくすくと成長し、仁安元年(1166年)、15歳で元服し、木曽次郎義仲(源義仲)と名乗りました。

この治承四年(1180年)の5月に、義仲のところにも、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の皇子)令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書(4月9日参照>>)が届いていましたが、義仲が腰をあげる前に事が発覚して、以仁王と、彼に協力した源頼政(よりまさ)は、平家との宇治川での合戦に露と消えました(5月26日参照>>)

やがて、先の平治の乱(12月9日参照>>)に敗れて、伊豆に流罪となっていた(2月9日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)が、8月17日に山木邸を奇襲して勝利をおさめた(8月17日参照>>)と聞いた義仲は、おおいに刺激され兼遠に決意のほどを語ります。

頼朝はすでに挙兵して、関東八ヵ国を従えて東海道をのぼり平家を追い落とそうとしてる。この義仲も東山・北陸道を従えて、1日でも早く平家を攻め落とし、日本国に二人の将軍(頼朝と義仲)あり、と言われたい」

これを聞いた兼遠は、
「この日が来ると思ったからこそ、引き取ったんや。さすがは八幡太郎の末裔や!」
と、涙を流して喜んだと言います。

この1日でも早く・・・という所に義仲の思いがこもっています。

義仲の父は、頼朝の兄・義平に殺されています。
例え源氏の同族であっても、仇の弟・頼朝には、負けたくありません。

早速、信濃の武士たちに平家討伐を呼びかける回状まわします。

すると、根井小弥太(ねのいのこやた=行親?行忠?)海野幸親(うんのゆきちか)矢田(源)義清らが馳せ参じ、たちまち兵は千余騎に及びました。

そして、この挙兵にはもちろん、幼い頃から義仲と兄弟のようにして育ち、ともに夢を語り合った中原兼遠の息子の樋口(中原)兼光(ひぐちかねみつ)今井(中原)兼平(いまいかねひら)の兄弟も加わっています。

北条家が頼朝を奉じて家名をあげたように、この中原氏も、この若き源氏の大将に一族の運命をたくしたのです。

しかし、木曽谷に不穏な動きが立ちはじめた事は、すぐに平家方の豪族・笠原頼直(かさはらよりなお)に知れてしまい、頼直も義仲を討つべく軍勢を集めました。

その事を知った木曽方の村山義直(よしなお)栗田寺別当大法師範覚(はんかく)が、まずは平家打倒の第一歩とばかりに、市原にてこれを向かえ討ちます。

しかし、頼直は大ベテラン・・・歴戦の武将で、木曽方は、なかなかの苦戦を強いられます。

そこで、義直は義仲に援軍を頼みます。

義仲は、先程の一千余りの兵を引き連れて参戦し、たちまちのうちに勝利してしまいます。

やむなく頼直は越後へ敗走・・・奇しくもこれが義仲の初陣となり、木曽軍の初勝利となりました。

治承四年(1180年)9月7日・・・義仲27歳の秋でした。

とは言え、この市原の合戦は、まだまだ信濃国内の小競り合い程度の戦い・・・この後、都の平家をビビらせる事になる義仲大躍進の戦い=横田河原の合戦があるのですが、

そのお話は6月14日【北陸に義仲あり!横田河原の合戦】でどうぞ>>>
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2006年9月 5日 (火)

神功皇后の三韓征伐

 

日本書紀によれば、仲哀天皇八年(200年?)9月5日、神功皇后三韓征伐の神託がくだりました。

・・・・・・・・・・

神功(じんぐう)皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)という名前で、父は開化天皇から数えて三代目の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、母は新羅(しらぎ)からやって来た渡来人の娘・葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)

あ゙ぁ~、ややこしい~名前長過ぎ!
ま、天孫降臨のニニギノミコトはもっと長いですが・・・いったい、お互いを呼ぶ時、何て呼んでたのかメッチャ知りたい~落語のジュゲムみたな感じだったんですかね?

そんな事はともかく、あのヤマトタケルの息子である第14代仲哀天皇の皇后となった神功皇后が、まだ新婚さんの頃・・・

仲哀天皇の熊襲(くまそ)征伐に従って筑紫へ渡り、橿日宮(かしひのみや)にいた仲哀天皇八年(200年?)9月5日・・・その神功皇后に、「天皇は、熊襲が従わない事を気にして熊襲を討とうとしているが、海の彼方に豊かな国がある。この国を与えよう。」という神託がくだるのです。

それを聞いた天皇は、高い山に登ってはるか水平線の彼方を見渡したがそのような国は見えなかったので、「神のいたずらである」と、信じませんでした。

とにかく、古事記日本書紀も、この神功皇后に関しての部分は、ホント皇后を主役に持ってきます。

天皇、影うすいです。

古事記なんか、天皇と皇后と大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)と、三人で神様を呼ぶ儀式を行ってるのに、やはり皇后に神託が下ります。

この、シャーマン的な部分から、歴史好きの人の中には、神功皇后こそが、卑弥呼では?という人もいます。

・・・で、この神託を一蹴した天皇に神の怒り爆発!

「神を疑う天皇にはその国は与えない。皇后のお腹の中の子供がその国を得るだろう」と、もう一度神託がくだって、その直後に仲哀天皇は死んでしまいます。

そして、臨月の皇后は、腰に石をはさみ、「どうぞ、旅の途中で子供が産まれませんように・・・」と、帰還の日に出産する事を祈願して、和珥津(わにのつ・対馬・鰐浦)から出航・・・神のお告げにあった「海の彼方の豊かな国」を目指しました。

この時、風の神は風を起こし、海の神は浪をあげ、海の魚まで皇后の軍船の後押しをしたと言います(ホンマかいな?)

皇后の船を押した大波は、新羅(しらぎ)の国中にうちあがったので、新羅の王は戦う前に恐れをなして降伏しました(ホンマかいな?)

そして、『三韓』と言うくらいだから、あと二つ、百済高麗(高句麗)の王も、「勝つ見込みがない」として、自発的に降伏を申し込んで来たと言います(またまたホンマかいな?)

ま、この時代には、まだ無かったはずの百済という国名が出ているし、相手国の歴史書にもそのような記述がない事ですし、実際には、大陸には行ったかも知れないけれど、征服・・・とまではいってないでしょうと言われています。

ともかく、神功皇后は、臨月で出発したにもかかわらず、ちゃんと帰還してから無事赤ちゃんを出産します。

その赤ちゃんが次期天皇になる応神天皇です。
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2006年9月 4日 (月)

50の手習い、伊能忠敬の日本地図

 

文政四年(1821年)9月4日、伊能忠敬の弟子たちにより、『大日本沿海輿地全図』と『大日本沿岸実測録』が完成しました。

・・・・・・・・・

伊能忠敬は、現在の千葉県・中央部にあたる上総で生まれ、その後、18歳の時に酒・醤油の製造をしていた現在の千葉県北部・下総伊能家の養子になり、家業を継ぎました。

伊能家は代々続いた、かなりの資産家でしたが、忠敬が継いだ頃はすでに傾き始めていて、彼がまずしなければならない事は、伊能家の建て直しでした。

とにかく倹約・・・倹約で、徐々に盛り返していき、40歳になる頃やっと以前の伊能家の勢いを取り戻しました。

最初に書いたように『伊能忠敬と言えば日本地図』と、頭に浮かびますが、この頃はまだその片りんをのぞかせる事もありませんでした。

やがて村の名主となり、後見人などの役職にもついて、飢饉などの援助をし、村のために尽くした後、50歳で家業を長男に譲って隠居の身となりました。

忠敬は、ここでやっと、趣味に勤しむ事ができるようになったのです。

その趣味というのが天文学・・・以前から、天文学や暦に関心があった忠敬は、なんと50にして、学問を志し江戸に出るのです。

19歳も年下の江戸の天文学者・高橋至時に弟子入りし、寝る間を惜しんでの猛勉強。

その姿勢に感銘した高橋も、自分の知識のすべてを忠敬に教えるべく、師弟一体となって勉学に励み、数年のうちに忠敬は、弟子の中でもトップクラスの優秀な生徒になります。

当時、天文学者の間では、子午線の長さを測る事が問題になっていて、忠敬も「長さを知りたい」との欲求にかられますが、それには、現在自分がいる日本の位置を正確に知る事が重要です。

測量しかありません。

しかし、時は江戸時代・・・全国の海岸線を自分の足で回って測量するわけですから、それには、自分のヤル気以外にも莫大な費用がかかります。

忠敬は、日本の正確な地図を作るという名目で、幕府に願い出て許可をもらい、寛政十二年(1800年)4月19日、測量のために江戸を出て、最初の一歩を踏み出したのです(この4月19日は現在「地図の日」という記念日となっています)

そして、奥州街道、北海道、東南海岸を歩いて測量し、その地図を幕府に献上するのです。

じつに、忠敬・56歳の時でした。

そんな時、幕府の天文方だった師匠・高橋は、オランダの新しい暦の本を手に入れ、つたない語学力で、必死になって半年で読み終え、すぐさまレポートを書きましたが、その時の無理がたたって、41歳の若さで亡くなってしまいました。

高橋亡き後も、幕府からの依頼で各地へ出かけ、海や陸を測量してまわり、文化十四年(1817年)ついに日本全土測量を終えた忠敬・・・時に、72歳。

しかし、その2年後、地図の完成を見ないまま74歳でこの世を去ってしまいます。

もちろん、その後の作業は、弟子たちの手にゆだねられます。

かくして、文政四年(1821年)の9月4日・・・『大日本沿海輿地全図』という地図と『大日本沿岸実測録』という各地の距離や緯度等の数値を書いた記録が完成したのです。

ところで、生前の忠敬が知りたがっていた子午線ですが・・・

彼は、一度の長さを、28.2里(110.75km)と計算していましたが、それは後に渡来したオランダの天文書とみごと一致していたという事です。

50歳から志して、ここまでやれるとは・・・感服いたしました~。

人間・・・まだまだ、頑張らなくてはいけませんね~。
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2006年9月 3日 (日)

奥州・藤原氏の滅亡

 

文治五年(1189年)9月3日、藤原泰衡が殺害され、栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・・

源平合戦の屈指のヒーローご存知、源義経は、兄・頼朝との不和により(5月24日参照>>)頼朝から追われる身となって、若い頃お世話になり、父のように慕っていた奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)のもとへ身を寄せていました(2月10日参照>>)

しかし、大黒柱であった秀衡が亡くなると、後を継いだ4代めの泰衡(やすひら)は、たちまち頼朝側に寝返って、義経を攻め、義経は衣川で自害に追い込まれます。(4月30日参照>>)

泰衡はそんなに悪人ではありません。

若い頃、奥州の野山を一緒に駆け巡った義経を憎いと思ってもいません。

ただただ、頼朝の威勢に屈したという事だったのかも知れません。

秀衡が亡くなってから、頼朝は気弱な若きリーダーに手紙を出して、さんざんプレッシャーをかけていました。

「義経の身柄を差し出せば恩賞を与えよう、さもなくば武力も辞さない」と・・・。

ところが、頼朝に屈して義経の首を取った泰衡との約束を、頼朝はあっさりと裏切って、朝廷から『泰衡追討の院宣』武力行使しても良いという天皇の許可書)を、取ってしまいます。(6月25日参照>>)

そして、とうとう頼朝は大軍を率いて平泉に押し寄せてきます。

文治五年(1189年)8月8日~10日にかけて繰り広げられた阿津賀志(あつかし)の戦い(8月10日参照>>)に敗れた泰衡は、もはや平泉を焼き払って逃げるのが精一杯でした。

藤原三代の太平と栄華を誇り、ある意味独立国家であった平泉はこの日、焦土と化してしまいます。

しかし、そんな泰衡にも、勝機はありました。

俗に奥州17万騎と言われる戦力です。

ただ、その大半は半士半農の農民兵だったため、農繁期の8月(旧暦)では兵力にならず・・・

もちろん、頼朝としては、それを承知でこの時期に攻めたわけですが、何とか、この時期だけでも踏ん張れば、農繁期の終わった農民兵を動員する事ができますし、さらに、まもなくの雪の季節ともなれば、雪に不慣れな鎌倉武士より、東北の農民兵たちのほうが、はるかに有利です。

おそらくは泰衡も、そのつもりで平泉に火を放ち、さらに北へ逃げたのかも知れませんが、残念ながら、文治五年(1189年)9月3日厨川柵(岩手県盛岡市)にて家臣の河田次郎に殺害されてしまうのです。

さすがに、泰衡も、信じて頼った家臣が、その恩賞に目がくらんで頼朝側に寝返っていた事までは気づかなかったのでしょう。

こうして、栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡してしまいました。

奥州・藤原氏の誕生は11月14日参照>>
 

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2006年9月 2日 (土)

鬼神の如き朝比奈義秀の話

 

正治二年(1200年)9月2日の出来事として、朝比奈三郎義秀の逸話が『吾妻鏡』に登場します。

・・・・・・・・・・・

義秀は、あの鎌倉幕府の重臣・和田小太郎義盛の三男です。

源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、鎌倉幕府の実権を握りたい北条氏は、梶原景時(かげとき)(1月20日参照>>)比企能員(ひきよしかず)(2009年9月2日参照>>)といった源平合戦の時からの重臣を次々と失脚に追い込んでいきます。

さらに北条氏は、和田義盛をも怒らそうと画策し、見事その術中にはまってしまった義盛は、建保元年(1213年)に反乱を起こします。(5月2日参照>>)

この乱で、群を抜いて鬼神のごとき活躍をするのが、義盛の三男・朝比奈三郎義秀なのですが、今回のお話は、その13年前の正治二年(1200年)9月2日のお話・・・

この日、鎌倉二代将軍・頼家(よりいえ)鎌倉の海を遊覧した時のエピソードです。

海上に舟を浮かべて、舟遊びを楽しんでいる時、義秀の泳ぎの上手さが話題となりました。

その頃、義秀はまだ12~3歳の少年だったと思われますが、その芸とも言えるくらいの評判を聞いた頼家が
「是非見たい」
という事になり、義秀は舟から海に飛び込み、舟と岸の間を数回往復して見せた後、海に潜ったまま、しばらく浮かんできませんでした。

あまりに時間がたったため、まわりが心配をし始めた頃、プク~ンと浮かんできた義秀の両手には3匹の鮫が握られていました。

頼家の舟の前までやってきて、今、素手で捕まえた獲物を差し出します。

感激した頼家は、自分の愛馬を褒美に与える事を約束します。

しかし、その馬はかなりの名馬で、家来たち皆がかねてから欲しいと心の中で思っていた馬でした。

なかでも、和田義盛の長男(つまり義秀のお兄さん)新左衛門常盛は、どうしてもその馬を手に入れたいと思い
「水練では負けるかもしれませんが、相撲では私のほうが上手です」
と頼家に申し出ました。

たしかに、いくら運動神経バツグン、スポーツ万能でも、義秀はまだ少年です。

長男の常盛のほうが体格ではずっと勝っているわけですから・・・。

それならば、この名馬を賭けて・・・という事になり、丘にあがっていざ!相撲勝負と相成ります。

見合って・・・そして、ぶつかって・・・一進一退のなかなかの名勝負でしたが、まわりの見た目には、やや義秀が有利に見えました。

あまりの名勝負に頼家は、勝負の途中でストップをかけ、両人に花を持たせようと、引き分け・・・という判断を下します。

ところが、その瞬間、常盛は裸のまま一目散に馬のもとへ駆け寄り、飛び乗ったかと思うとそのまま逃げていってしまったのです。

横取りの早さでは常盛の勝ちだ・・・とばかりに、その場にいた者たちは大笑いしたのだとか・・・

この日のエピソードは以上ですが、面白いのはこの朝比奈三郎義秀の母が、あの木曽義仲の愛妾・女武者の巴御前である・・・という話が『源平盛衰記』に書かれています。

それによると、未来の夫になるべく鎌倉に来ていた木曽(源)義仲の息子・義高が、義仲の死後に頼朝に殺された事で、頼朝の娘の大姫が病気になってしまった(7月14日参照>>)ために、頼朝・政子夫婦がなんとか大姫の機嫌をなおそうと、義高の叔母である巴御前を鎌倉に呼んだ、というのです。

しかし、巴御前は、女とは言え実際に戦場で大活躍した武将です(1月21日参照>>)から、鎌倉の武士たちの中には、仲間の仇だと思う者もいて、処刑すべきでは?との声も出ていました。

そんな時、和田義盛が頼朝に申し出ます。

「自分は、この鎌倉で1・2を争う剛の者。巴御前は一騎当千の女武者。

ふたりの間に生まれた子供は、さぞや武勇優れたつわものになるに違いありません。きっと後々幕府のお役に立ちましょう」と・・・。

真偽の程はさだかではありませんが、琵琶湖のほとりで、木曽殿とお別れしてから、故里に帰って尼になりました・・・よりは、とほどドラマチックで面白いと思います。

一騎当千の女武者と、鬼神の如き若武者を結びつけたくなる気持ちも、わからないではありませんね。
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2006年9月 1日 (金)

悲劇の人・おたあジュリア

 

慶長元年(1596年)9月1日は、豊臣秀吉が、再び朝鮮へ出兵する事を決意した日だという事です。

・・・・・・・・・

一度目の出兵は、文禄元年(1592年)、朝鮮と親交の深かった対馬宗氏を通して、(中国)の征服の手伝いを頼みますが、拒否されたため15万の軍勢を派遣します。・・・文禄の役(4月13日参照>>)

最初こそ秀吉軍有利でしたが、朝鮮水軍の活躍や、明国の参戦によって兵糧の補給路を断たれるなどして、結局、休戦となりました。

しかし、秀吉の出した講和条件が拒否されたため、再び出兵を決意するのです。

実際にはこの翌年・慶長二年(1597年)に14万の大軍を朝鮮に送ります。

これが慶長の役(11月20日参照>>)ですが、本日はその秀吉の朝鮮出兵によって、人生を狂わされた悲劇の人・おたあジュリアという女性について、お話させていただきたいと思います。

おたあとは、『大姉(たいねい)という意味で、ジュリアは洗礼名です。

彼女の本名も生年もわかりません。

なぜなら、彼女は1度目の朝鮮出兵=文禄の役で捕らえられ、日本に連れてこられた朝鮮人だからです。

戦場で両親をなくし、泣き叫んでいた幼い彼女を見つけた肥後(熊本)の戦国大名・小西行長が、「このままでは、この子は飢え死にするだけだ」と思って、日本に連れて帰り、自らの宇土城で、奥さんの侍女としたのです。

戦場でこんな事いっても、キレイ事の言い訳になってしまいますが、熱心なキリスト教徒であった行長は、一応、強制連行ではなく、親切心で連れて帰ってきたようです。

当時九州ではキリスト教が盛んで、その行長のもとで、彼女は洗礼を受けました。

ところが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦小西行長は敗れて処刑されてしまいます(10月1日参照>>)

その時、彼女に声をかけたのが徳川家康でした。

おたあは、たいへんな美人で、しかも、朝鮮貴族の娘だったという事もあって、気品もあり、かつ聡明で意志の強い人・・・完全にモノにする気で声をかけた家康の側室への誘いを蹴って、夫人の女官として江戸城に入ります。
(家康さんフラれました~)

信仰に関しても、だんだんと立場が悪くなるキリスト教を曲げる事なくつらぬき続け、信者の中でも『慈悲の人』と尊敬されていました。

しかし慶長十七年(1612年)、またも彼女は歴史の波にのまれる事になります。

3月21日・・・家康が、徳川幕府初のキリシタン禁止令を出し、彼女はその最初の犠牲者となって、伊豆七島の神津島へ流罪となってしまうのです(3月21日参照>>)

それから40年間、彼女は島を1歩も出ることなく、流人としての生涯を送ります。

日本の天下人に人生を狂わされた悲劇の人、しかし、自分の意志をつらぬき続けた強い人・・・彼女は、今も神津島で眠っています。
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