« 新天地への旅立ち | トップページ | 日本初!正長の土一揆 »

2006年9月17日 (日)

関ヶ原の後始末・佐和山城攻め

 

慶長五年(1600年)9月17日、一昨日の関ヶ原の戦いの、寝返り組・小早川秀秋らが、保身をかけて佐和山城を攻めました。

・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日に勃発した関ヶ原の戦い(9月15日参照>>)

天下分け目と言われながらも、結局、昼過ぎには、ほぼ決着が着いてしまいました。

夕方、首実検をおこなっていた徳川家康の本陣に、あの小早川秀秋(こばやかわひであき)(9月14日参照>>)が顔を出しました。

秀秋の寝返りによって、一気に戦況が家康側に向いたのは事実ですから、ある意味、東軍勝利の功労者です。

しかし、寝返りが遅かった事で、家康をイライラさせたのも事実。

秀秋は、家康の前に進み出て、寝返りが遅れた事を詫びると同時に「佐和山城攻めの先鋒を務めたい」と願い出ました。

佐和山城は、事実上(現地での)西軍の大将(大将は毛利輝元でしたが、合戦のあったこの日は大坂城にいたので)であった石田三成の居城です。

まさか、関ヶ原から敗走した三成が、落ち武者狩りの網の目をくぐって、佐和山城まで逃げきれる(直線距離で20kmくらいでしょうか)とは思えませんが、こうなった以上、その居城をそのままにしておくわけにもいきません。

すると、秀秋のその言葉を聞いた脇坂安治朽木元綱小川祐忠らが「自分も」「自分も」と名乗り出てきます。

そう、彼らは秀秋の寝返りをきっかけに、西軍から東軍へ、くらがえした人物たちです。

ここで、家康のご機嫌をとって、後から仲間に加わったハンディを少しでも取り戻そうと必死です。

もちろん、秀秋自身もそのつもりで、先鋒を願い出た事は言うまでもありません。

監督役の井伊直政とともに、彼らが関ヶ原を出発したのは、合戦の翌日=9月16日の事でした。

そして、さらにその翌日の慶長五年(1600年)9月17日小早川秀秋はじめ1万5千の軍勢は、二手に分かれて一気に佐和山城に攻め入りました。

この時、城を守っていた兵は2千8百と言われていますが、半日のうちに湖東の山城は、かなりの所まで落とされてしまいました。

夕方には、三成の兄・正澄の切腹を条件に講和が成立して、家康は攻撃をやめさせます。

ところが、なぜか翌日の18日の早朝に、田中吉政(2月18日参照>>)の兵が天守閣の門を破り、一気に城内に攻め込んだために、天守にいた三成の父・正継、そして先程の兄・正澄が天守閣に火を放ち、一族全員が自害し、佐和山城は落城してしまいました。

この佐和山城の先鋒を勤めた事で、小早川秀秋の保身は成功したのでしょうか?

いや、家は守られたかも知れませんが、ご本人の心には、何かが大きく圧し掛かっていたのかも知れません。

なんせ、ご本人は、わずか21歳の若さで・・・続きは2009年10月18日参照>>
そして、居城の岡山城には開かずの間が・・・続きは2011年10月18日参照>>

このお話の続きとなる石田三成の逮捕9月21日でどうぞ>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 新天地への旅立ち | トップページ | 日本初!正長の土一揆 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

いつも「そ~なんだぁ」と言いながら楽しみに読ませてもらってます(^o^)
フォトアルバムを見させてもらいました。あまり関係ないかもしれませんが、京都の風情って好きで修学旅行以来、訪れてないので機会があればまた、見て回りたいなぁと思ってます。

寝返りが遅れた原因て何か迷いがあったのでしょうかね?

投稿: 見習い大工 | 2006年9月17日 (日) 21時01分

見習い大工さん、いつもありがとうございます。

小早川さんの迷いは・・・やはり血縁関係ではないでしょうか?

秀頼が生まれて養子に出されたとは言え、甥であるという血縁関係はなくなりませんからねぇ。
単なる家臣と親戚筋の家臣とでは、つながりも違ったのではないでしょうか?

私の想像ですが・・・。

投稿: 茶々 | 2006年9月17日 (日) 22時23分

こんにちは(^^)2×4についてですが、うちは在来(軸組み)工法で2×4はやっていませんが、調べてみたところ確かに1階なら1階の床・壁・天井の順に『面』で組み立てていくので寸法通りの木材を現地で組み立てていくとゆう表現は合っています。…が、在来も柱や桁などは予め寸法通りに刻んでやります。ただ、筋交いや間柱は現地で測って入れてくので、そんな細かいとこを気にしなければ間違っていることはないですよ(^o^)
もともとはアメリカだかカナダで使われてる工法なのですが早さに関して言うと2×4の方が早くできるので、もしかしたらって思っちゃいますねヽ(^o^)

投稿: 見習い大工 | 2006年9月18日 (月) 18時12分

見習い大工さん、こんばんわ~。

墨俣の一夜城の建設では、とにかく、早く仕上げるために、すべての準備を先にしておいて、現地でパーツを組み立てていった・・・と聞いて、勝手に「2×4」みたいだなと思ってたんです。

一応、まちがいではないのですね。
それなら、良かったです。

教えていただいてありがとうございました~。

投稿: 茶々 | 2006年9月18日 (月) 21時17分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/3470192

この記事へのトラックバック一覧です: 関ヶ原の後始末・佐和山城攻め:

« 新天地への旅立ち | トップページ | 日本初!正長の土一揆 »