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2006年9月 7日 (木)

義仲・初陣!市原の戦い

 

治承四年(1180年)9月7日、木曽義仲が市原の戦いで初陣を飾りました。

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幼くして父を亡くし、木曽の中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとに身を寄せた駒王(8月16日参照>>)、一族の暖かい庇護のもと、すくすくと成長し、仁安元年(1166年)、15歳で元服し、木曽次郎義仲(源義仲)と名乗りました。

この治承四年(1180年)の5月に、義仲のところにも、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の皇子)令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書(4月9日参照>>)が届いていましたが、義仲が腰をあげる前に事が発覚して、以仁王と、彼に協力した源頼政(よりまさ)は、平家との宇治川での合戦に露と消えました(5月26日参照>>)

やがて、先の平治の乱(12月9日参照>>)に敗れて、伊豆に流罪となっていた(2月9日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)が、8月17日に山木邸を奇襲して勝利をおさめた(8月17日参照>>)と聞いた義仲は、おおいに刺激され兼遠に決意のほどを語ります。

頼朝はすでに挙兵して、関東八ヵ国を従えて東海道をのぼり平家を追い落とそうとしてる。この義仲も東山・北陸道を従えて、1日でも早く平家を攻め落とし、日本国に二人の将軍(頼朝と義仲)あり、と言われたい」

これを聞いた兼遠は、
「この日が来ると思ったからこそ、引き取ったんや。さすがは八幡太郎の末裔や!」
と、涙を流して喜んだと言います。

この1日でも早く・・・という所に義仲の思いがこもっています。

義仲の父は、頼朝の兄・義平に殺されています。
例え源氏の同族であっても、仇の弟・頼朝には、負けたくありません。

早速、信濃の武士たちに平家討伐を呼びかける回状まわします。

すると、根井小弥太(ねのいのこやた=行親?行忠?)海野幸親(うんのゆきちか)矢田(源)義清らが馳せ参じ、たちまち兵は千余騎に及びました。

そして、この挙兵にはもちろん、幼い頃から義仲と兄弟のようにして育ち、ともに夢を語り合った中原兼遠の息子の樋口(中原)兼光(ひぐちかねみつ)今井(中原)兼平(いまいかねひら)の兄弟も加わっています。

北条家が頼朝を奉じて家名をあげたように、この中原氏も、この若き源氏の大将に一族の運命をたくしたのです。

しかし、木曽谷に不穏な動きが立ちはじめた事は、すぐに平家方の豪族・笠原頼直(かさはらよりなお)に知れてしまい、頼直も義仲を討つべく軍勢を集めました。

その事を知った木曽方の村山義直(よしなお)栗田寺別当大法師範覚(はんかく)が、まずは平家打倒の第一歩とばかりに、市原にてこれを向かえ討ちます。

しかし、頼直は大ベテラン・・・歴戦の武将で、木曽方は、なかなかの苦戦を強いられます。

そこで、義直は義仲に援軍を頼みます。

義仲は、先程の一千余りの兵を引き連れて参戦し、たちまちのうちに勝利してしまいます。

やむなく頼直は越後へ敗走・・・奇しくもこれが義仲の初陣となり、木曽軍の初勝利となりました。

治承四年(1180年)9月7日・・・義仲27歳の秋でした。

とは言え、この市原の合戦は、まだまだ信濃国内の小競り合い程度の戦い・・・この後、都の平家をビビらせる事になる義仲大躍進の戦い=横田河原の合戦があるのですが、

そのお話は6月14日【北陸に義仲あり!横田河原の合戦】でどうぞ>>>
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