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2006年9月21日 (木)

石田三成、逮捕!

 

慶長五年(1600年)9月21日、先日の関ヶ原の戦いで敗走していた石田三成が東軍に捕らえられました。

・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦い・・・
(関ヶ原のイロイロに関しては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

お昼過ぎからの小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返りと大谷吉継(おおたによしつぐ)の死によって、形勢はあっけなく東軍有利となり、順々に西軍は崩れていきます(9月15日参照>>)

大谷の次に崩れたのは小西軍・・・小西行長(こにしゆきなが)は、伊吹山の方角に逃走しました。

その次は、最初の段階から福島正則(ふくしままさのり)軍と一進一退の互角の戦いを続けていた宇喜多軍でした。

小早川の裏切りに激怒していた宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、形勢が悪くなったのを感じ、「こうなったら、秀秋と刺し違えたる!」と、敵の真っ只中に突入しそうになったのを家臣に止められ、行長同様、伊吹山に逃走しました。

結局、最後まで頑張って敵の攻撃を一身に受けていた石田軍でしたが、次から次へと新手の敵が加わるわ、小西・宇喜多軍の敗走を目の当たりにするわで、士気は下がりっぱなし・・・。

とうとう、重臣・蒲生郷舎(がもうさといえ)が盾となって敵を引きつけ、彼の壮絶な最期と引き換えに石田三成(いしだみつなり)も、伊吹山方面に脱出しました。

その後日、秀秋ら裏切り組みと監督役の井伊直政とともにが三成の居城・佐和山城を攻略(9月17日参照>>)している間にも、西軍の武将たちが逃げていったと思われる伊吹山を中心に大がかりな落ち武者狩りが行われていました。

19日には、小西行長が伊吹山の山中で捕らえられました(9月19日参照>>)

そして今日・・・慶長五年(1600年)9月21日、石田三成が自らの領内の伊香郡高時村の岩窟の影に潜んでいるところを田中吉政(2月18日参照>>)の兵に見つけられました。

三成は、一見わからないようにボロボロの着物を着て、(きこり)の姿であったと言います。

その装束は、高時村の農民が三成と知って、かくまうために貸してくれた物だったそうです。

翌22日に、『三成逮捕』の知らせが家康のもとに届きます。

そしてこの日は、家康にとってもう一つのうれしい知らせも届きました。

それは、大坂城にいる毛利輝元(もうりてるもと)からの返事でした。

15日の関ヶ原の戦いが終わった時から、家康はず~っと気になっていたのです。

関ヶ原で勝利したものの、大坂城に残っている西軍・総大将の輝元が、秀吉の遺児=豊臣秀頼を担ぎあげて「いざ!もう一度合戦を・・・」って事になったらヤバイ、と・・・。

それで、黒田長政(くろだながまさ)に命じて、輝元に連署状出させていたのですが、その返事として、家康に反発する意志がない事、大坂城から退出する事を告げてきたのです(9月28日参照>>)

奇しくも、この日こそ、家康の完全勝利が決定付けられた日だったのです。

鳴くまで待った家康も、さすがにこの日は、勝利の美酒に酔いしれたのかもしれません。

このお話の続き石田三成斬首10月1日でどうぞ>>
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コメント

また勉強になってしまった。
今妄想を書き込んでるなかで
石田三成についてちょうど
考えてました。

投稿: touyou | 2006年9月22日 (金) 23時38分

touyouさん、コメントありがとうございます。

『勉強になる』などと・・・お恥ずかしいかぎりです。

10月1日は、三成さんのご命日なので、もう一度、三成さんについて書ければ・・・と考え中です。

投稿: 茶々 | 2006年9月23日 (土) 02時22分

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