奥州・藤原氏の滅亡
文治五年(1189年)9月3日、藤原泰衡が殺害され、栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡しました。
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源平合戦の屈指のヒーローご存知源義経は、兄・頼朝との不和により(ブログ:5月24日参照)頼朝から追われる身となって、若い頃お世話になり、父のように慕っていた奥州平泉の藤原秀衡のもとへ身を寄せていました。
しかし、大黒柱であった秀衡が亡くなると、後を継いだ泰衡はたちまち頼朝側に寝返って、義経を攻め、義経は衣川で自害に追い込まれます。(ブログ:4月30日参照)
泰衡はそんなに悪人ではありません。
若い頃、奥州の野山を一緒に駆け巡った義経を憎いと思ってもいません。
ただただ、頼朝が怖かった・・・それだけです。
秀衡が亡くなってから、頼朝は気弱な若きリーダーに手紙を出して、さんざんプレッシャーをかけていました。
「義経の身柄を差し出せば恩賞を与えよう、さもなくば武力も辞さない」と・・・。
ところが、頼朝に屈して義経の首を取った泰衡との約束を、頼朝はあっさりと裏切って、朝廷から『泰衡追討の院宣』(武力行使しても良いという天皇の許可書)を、取ってしまいます。(ブログ:6月25日参照)
そして、とうとう頼朝は大軍を率いて平泉に押し寄せてきます。
手紙だけでもビビッていたのに、実際に軍隊を引き連れて頼朝がやってきたひにゃ、泰衡はもう戦う気力もありません。
平泉を焼き払って逃げるのが精一杯でした。
藤原三代の太平と栄華を誇り、ある意味独立国家であった平泉はこの日、焦土と化してしまいます。
そして、泰衡自身も逃げる途中、配下の者の手にかかって殺害され、文治五年の今日、奥州藤原氏は滅亡してしまいました。
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