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2006年10月31日 (火)

栄西のお土産・日本茶の日

 

1191年(建久二年)10月31日、臨済宗の開祖・栄西(えいさい)が、(中国)から帰国し、お土産に持参したお茶を日本に広めた事から・・・

といっても、旧暦に10月31日は無いので、おそらくは「1191年10月31日=建久二年10月5日」という事なのだと思うのですが、とりあえず、今日は「日本茶の日」という記念日という事なので

・・・・・・・・・・・

そもそも中国では、三国時代(220年~280年)から、お茶を飲む習慣が生まれていて、唐の時代(618年~906年)には、広く庶民の間にも普及していました。

そんなお茶を日本にもたらした栄西(7月5日参照>>)・・・と言いたいところですが、実は、平安時代にすでに貴族の間ではお茶が飲まれていたのです。

延暦二十四年(803年)、唐から帰国した永忠という僧が中国からお茶を持ち帰り、第52代・嵯峨天皇をお茶でもてなし、天皇はたいへん喜んだと言います。

ただ、これは、ほんの一部の高貴な人たちの間に広まっただけで、しかも団茶と呼ばれるお茶の新芽を火であぶり、粉にしてから団子状に固めた物

香料や甘味料がないと、とても飲めた物ではないシロモノで、当時は100%薬用として使用されていたという、現在の、飲むのを楽しむ日本茶とは、ほど遠い物でした。

・・・と言う事で、やはり、現在の私たちがお茶と認識できる日本茶の元祖は鎌倉時代の栄西さん

そんな栄西さんは、永治元年(1141年)備中(岡山)のお生まれ・・・14歳で出家して、比叡山で修行した後、27歳で宋に渡りました。

一旦帰国しますが、「まだまだ、勉強し足らない~」と、46歳で再び海を渡り宋に留学します。

そして、50歳の時の2度目の帰国でお茶を持ち帰り『興禅護国論』『喫茶養生記』などのお茶の効能や、飲み方などを記した書物を書いて日本に広めたのです。

栄西さんがこの時、持って帰ってきたのは抹茶で、当時の中国の禅僧の間で眠気覚ましとして飲まれていたようです。
 坐禅は眠い?

著書の中で栄西は、「お茶は五臓の和合をはかり、心身の健康増進の役立つ妙薬である」と紹介しています。

有名なところでは、建保二年(1214年)2月4日、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝(さねとも)が、二日酔いで苦しんでいる時、栄西が薬だと言って、お茶と効能書きを献上した、という記録が残っています。

もちろん、栄西がもたらしたのは、お茶だけでなく、臨済宗の教えも、もたらしました。

博多に日本最初の禅寺・聖福寺を、そして鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建立し、精力的に禅を広めたのです。

栄西の伝えたお茶のその後については、2008年の10月31日のページ【栄西の伝えたお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】でどうぞ>>

Dscn3073 京都・建仁寺

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2006年10月30日 (月)

金色夜叉の尾崎紅葉、没

 

明治三十六年(1903年)10月30日金色夜叉の作者・尾崎紅葉が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

それまで、江戸時代の義理人情を描いた作品を多く書いていた尾崎紅葉(おざきこうよう)
ち~っとばかし落ち目になっておりました。

そんな紅葉が、起死回生を狙って読売新聞紙上に『金色夜叉』の連載を開始したのです。

時は、日清戦争の興奮さめやらぬ明治三十年(1897年)の1月

これが、連載開始と同時に爆発的な人気を呼び、紅葉自身の人生をも変える大ベストセラーになるのです。

最近のお若い方々は『金色夜叉』と言ってもピンと来ないかもしれませんので、軽く筋書きを言いますと・・・

旧制高等学校・一高生の間貫一(はざまかんいち)とラブラブだった許婚(フィアンセ)お宮さん。

ところが、突然お宮さんの前に、大金持ちの銀行家・富山(とみやま)が現れ、大金に目がくらんだお宮さんは貫一を裏切り、すんなり富山にお乗換え。

有名な熱海の海岸での別れの後、復讐を誓った貫一は、高利貸しという(金色)の鬼(夜叉)になってお宮さんの前に登場し、お宮さんは愛と金の板ばさみになって苦しむ・・・というストーリーです。

「来年の今月今夜のこの月も~再来年の今月今夜のこの月も~俺の涙で曇らせてみせるぁ~」

「よっ!日本一!」
っと、熱海の海岸の名場面は、お芝居の定番でもありました。

いったい、何十万部売れたのか見当もつかない・・・というこの作品。

それにしても、なんでこんなにヒットしたんでしょうか?

それは、まさに当時の社会の風潮にピッタンコだったという事。

日清戦争に勝利して、この調子ならウザいロシアもやっつけられるんじゃないの?というイケイケムードの中、急激に資本主義が勢いを増してきた時代。

世間には成金がはびこり、「お金がすべて」という考え方が目立つようになった時代背景が、読者の共感を呼んだのでしょう。

愛か?お金か?

思い悩むヒロインは、我がことのように読者の胸に突き刺さったに違いありません。

今なら、さしずめ、イケメン一流大学生を主役に、黒皮の手帳を持ったキャバ嬢をヒロインに、IT関連企業で一躍有名になったヒルズ族をからませ、惚れたはれたの恋愛話・・・と、いったところでしょうか?

この作品で、再びベストセラー作家に返り咲いた紅葉は、次が怖くて、打ち切る事ができず『続金色夜叉』『続々金色夜叉』『新続金色夜叉』と、亡くなる直前まで書き続け、皮肉にも作者ご自身が金色夜叉になってしまわれたようです。

きっと、次を期待された作家さんのプレッシャーたるや、大変なものでしょうねぇ~
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2006年10月29日 (日)

昭和の宝くじ,江戸の富くじ

 

昭和二十年(1945年)10月29日、政府発行の、第1回宝くじが発売されました。

・・・・・・・・・・・

まさか、あの太平洋戦争が終結してから、わずか3ヶ月足らずで、宝くじが発売されてるとは、驚きました~。

宝くじは一枚10円で、1等=10万円2等=1万円
1等~4等までには、副賞として純綿のキャラコ(幅広の白生地)がついていました。

戦後、数年間の宝くじには、必ず賞品(現物)がついていたそうで、発売元の勧業銀行の倉庫には、革靴や木綿、地下足袋といった景品が、所狭しと積まれていたとか・・・まずは物品が必要だった戦後の混乱がよくわかりますね。

その後、昭和二十二年には百万円、次の年の二十三年には早くも倍の2百万円で副賞には木造住宅(土地はあるけど家がない・・・って事なのかな?)

昭和四十七年にいよいよ1等・1千万円となりました。

そして、もうすぐ♪年末ジャンボ!3億円♪・・・と、とどまる事を知らないかのような、まさにジャンボなドリーム商品ですが、これは近年に始まった事ではありません。

江戸時代も中期になって、天下泰平の世が続いた頃、庶民はレジャー、ギャンブルに殺到するようになるのです。

社寺は、もっぱら秘仏・秘宝の御開帳・・・今で言う特別公開イベントや博覧会を行って、人集めをします。

これが、また観光客がたくさんやってきて、けっこうなお金を落としてってくれます。

そして、そのイベントの中の一つとして富くじが行われるのです。

文化文政の末期の富くじ全盛期には、なんと一年で120回の富くじが記録されています。

なかでも、谷中の感応寺、目黒の秦叡山湯島天神『大江戸三富』と呼ばれて、特に大人気だったそうです。

あと10年は奉公しなければならなかった小僧が豪華な着物を着て故郷に帰ったとか、質屋に鏡を売りに行った嫁さんが次の日にはその何十倍もするようなかんざしをつけて歩いていたとか、様々なトクトク話がまことしやかに囁かれ、人々はますます富くじに走ります。

しかし、そうそう、うまい話が簡単に転がっているわけはありませんよね。

なんだかんだ言っても、結局は興行元がごっそりと、一番大きな『夢』を持ってってしまうのは、江戸も昭和も平成も・・・いつの時代も変りのない事でございます。

あまりの過熱ぶりに、江戸の富くじは、天保十三年(1842年)に禁止となりましたが、平成の富くじは、まだまだ安泰のようです。
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2006年10月28日 (土)

梶原景時・弾劾状を作成

 

正治元年(1199年)10月28日、鎌倉幕府の御家人・66人が、鶴岡八幡宮に集結し、梶原景時の弾劾状を作成しました。

・・・・・・・・・・・

この梶原景時(かじわらかげとき)さんには、とにかく悪人の印象がつきまといます。

石橋山の合戦(8月23日参照>>)では、大庭景親(おおばかげちか)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)と戦いながら、敵である頼朝を助け、そのすぐ後に平家に見切りをつけて、さっさと頼朝軍に加わってしまうしたたかさ。

その後、頼朝の弟・範頼(のりより)義経(よしつね)平家追討に目付け役として同行し、最終的に頼朝と義経の確執を生んだ張本人でもある事(5月24日参照>>)

それらの事が入り乱れて、時代劇では、ものすご~く意地悪な人に描かれています。

昨年の大河ドラマ・義経でも、主役の義経さんになんやかんやと文句ばっかり言う景時をネジネジの中尾さんが憎たらしく演じておられました(←演技がお上手なので憎たらしさ100倍!)

しかし、よくよく考えてみると、景時さんの行動は、別にそんなに批判されるべき物でもありません。

石橋山の合戦の後の寝返りにしても、当時は平家全盛の時代。

源氏が壊滅状態にあったわけですから、その時生き残っていた武士は、ほとんど平家の傘の下にいた人たちです。

あの北条氏も、流人の頼朝を見張る役だった平家の人。

木曽義仲(きそよしなか=源義仲)と運命をともにする中原一族も、幼子を殺すのはしのびないとして、彼を預かった平家の人。

この時に平家から源氏に乗り換えた人は景時さんだけではありません。

義経さんとの平家追討の時の論争も(2月16日参照>>)、時として独走しがちな義経を、兄・頼朝の代役として軍目付けの立場から、意見を言っただけですし、その事を頼朝に報告したのも、言わば役目を果たしただけです。

そのために、頼朝さんから派遣されてるわけですから・・・。

石橋山の合戦の後、頼朝の家臣となってからの景時は、とにかく頼朝第一で、忠誠をつくしていました。

頼朝も、事務処理にすぐれ、自分の命令には絶対服従してれる景時を高く評価していたのです。

景時の印象を悪くさせるのは、やはり北条氏の残した書物によるプロパガンダです。

『北条九代記』などには、建久三年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍になった時、和田義盛(わだよしもり)に代わって景時が侍所の別当(現在の警察庁長官のようなもの)に就任した出来事を、かねてから侍所の別当の役職を狙っていた景時が、当時の別当だった義盛に「一日だけその職を貸してくれ」頼み込んで、単細胞の義盛が承知したのを幸いにそのまま居座った・・・などと書かれていますが、そんな事は常識で考えてありえない事です。

別当の交代は、あくまで頼朝の人事であって、そんな重要な役職を、そんな事で居座り続けられるものではありません。

とにかく、嫁の実家である北条氏にとって、自分たちより頼朝に気に入られている景時が、どうしても気に入らない。

目の上のたんこぶだったんでしょうね。

それは、北条氏以外の他の御家人たちにとっても同じでした。
誰だって幕府の長である頼朝に気に入られたいのです。

そして、訪れた正治元年の正月。

鎌倉幕府の確立を見ないまま頼朝が死んでしまいます(12月27日参照>>)

景時の不幸はその時から始まったのです。

頼朝という大きな柱をなくした鎌倉幕府・・・頼朝の嫁・政子(まさこ)の実家の北条氏と、後を継いだ二代将軍頼家(よりいえ)の嫁の実家の比企(ひき)、それと、多くの御家人たちが、主導権を争う事になります。

そんな中で、将軍・頼家は、どうしても嫁の実家を重視してしまいます。

このままでは統率が取れなくなるので、とりあえず頼朝時代からの重臣13人を宿老と定めて、その13人の宿老たちで政務を行う事を決めました(4月13日参照>>)

その13人の中には、景時に別当職を取られた義盛も、政子の父・北条時政(ほうじょうときまさ)も、将軍・頼家の嫁の父・比企能員(ひきよしかず)も、そして景時自身も入っていたのです。

しかし、頼朝という大きな後ろ盾を失った景時・・・まず、最初のターゲットとなってしまいます。

頼朝の死から一年とたたない正治元年(1199年)10月28日梶原景時・弾劾状が作成されるのです。

弾劾(だんがい)・・・を辞書で引くと『失敗や犯した罪を暴いて責めること』とありますが、要するに、景時が将軍(頼家)の悪口言ってた・・・とか、なんか裏でコソコソ画策してた・・・などという事をいっぱい書いて提出したのです。

この弾劾状を将軍・頼家に提出する役は、13人の宿老のひとり・大江広元(おおえひろもと)でしたが、この人は政所の長官を勤める良識のある人物で、さすがに「亡き主君の一周忌を迎えてもいないのに・・・」と、この弾劾状を将軍に渡さず、しばらく手元に止めておきました。

しかし、この弾劾状を作った張本人である義盛に即され、しぶしぶ将軍・頼家に取り次ぎ、頼朝一番の寵臣であった景時は鎌倉を追われる事になるのですが、もちろん、景時とて、このまま引き下がるわけにはいきません。

・・・と、そのお話は、弾劾状提出から3ヶ月経った翌年の1月20日・・・【梶原景時の乱】でどうぞ>>
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2006年10月27日 (金)

正倉院展に行ってきました~

 

昨日、奈良国立博物館で行われている正倉院展に行ってきました~。

・‥…━━━☆

Dscn4368 今回は、お昼頃から奈良坂を出発して東大寺に向かって散歩して来て、一番最後に博物館に到着したのが、ちょうど午後4時頃。

見物を終えて出てくると「もうすぐ、皇太子殿下と雅子妃殿下がおみえになる」との事で、周辺はかなり盛り上がっていました。

奈良には、何度も行ってますが、正倉院展は3回目くらい・・・十年以上ぶりですね。

毎年開かれている正倉院展ですが、お宝の数が多いのと保存上の理由で、同じ宝物が公開されるのは10年に一度くらいだそうです。

もちろん、どのお宝もすばらしいんですが、今回の展示で私が個人的に一番感動したのは『紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく、どてもゴージャスなものさしなんです。

象牙を赤く染めて、文様を白く掘り出す・・・この技を撥鏤(ばちると呼ぶのだそうです。

一つの文様の大きさが『1寸』になっていて、一応長さははかれますが、それ以上細かい物は計れませんので、実用としてではなく儀式に使用されたのでは?との事でした。

何と言っても注目は、昨日まで使用したのではないか?と疑いたくなるような美しさです。

色鮮やかな赤の中に浮かび上がる鳳凰や麒麟の文様が見事です。

やはり、正倉院のお宝の魅力はそこですね。

遺跡から発掘された物と違って、そのままの状態で保存されているすばらしさ・・・見事な保管ぶりは、正倉院の建物の構造がすばらしいんでしょうね。

ガラスのコップや、楽器類、経文なんかも、「この文字、昨日書いたんちゃうん?」というくらいきれいです。

今回の正倉院展は11月12日まで行われています。

Syousouin4おみやげに、、『紅牙撥鏤尺』そのままの現代版ものさしを買ってきました~!
(画像をクリックすると、ほぼ原寸大で開きます)

正倉院の内部の構造や、正倉院にまつわる豆知識は、正倉院が建立された6月21日のページでどうぞ>>>

今回、訪れた奈良坂・般若寺から正倉院への地図や行き方は、本家HP:奈良歴史散歩にてupしましたので、もっとくわしくお知りになりたいかたはコチラからどうぞ>>
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吉田松陰、死刑!

 

安政六年(1859年)10月27日、吉田松陰が、江戸小塚原において、斬首されました。

・・・・・・・・・・

時の大老・井伊直弼が断行した安政の大獄・・・多くの勤皇の志士が弾圧・処刑された、その中に、吉田松陰もいたわけです。

先日の【井伊直弼の本心】(10月7日参照>>)のページでも書かせていただきましたが、これは吉田松陰が、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画と梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)奪還計画を、自白したために極刑が言い渡された物で、しかもこの自白は拷問とかではなく、松陰自らの覚悟の自白だったと言われています。

この時、松陰・29歳・・・年齢を聞いて驚いてしまいました。

彼の教えを受けた幕末の志士たちが、80人にも及ぶというところから、ついつい、それなりの年齢の人を想像してしまいますからね。

高杉晋作久坂玄瑞伊藤博文山県有朋、数えあげたらきりがありません。

また、友人として親しくしていた桂小五郎も、少なからず彼の影響を受けていた事は確かです。

そんな松陰が、来航したペリーの黒船(6月3日参照>>)に忍び込んで、アメリカに渡ろうとして失敗したのが24歳の時。

この時、捕らえられた松陰は、萩の野山獄3年間獄中生活を送る事になるのですが・・・ここで、同室になった11人の罪人たち・・・。

彼らは皆、世間を逆恨みし、未来に希望を持てず生きる気力さえ失った人たちでした。

しかし、松陰はそんな彼らにも、それぞれの長所を見出すのです。

それは、投獄される以前についていた仕事や趣味・・・といった類の物で、ある者は俳句が得意だったり、ある者は字が上手であったり・・・などのたわいのない物でしたが、松陰はそんな人たちに教えを乞いました。

そして、逆にお返しとして自分の持つ知識を彼らに講義します。

やがて、それは獄中サークル活動獄中同好会のように野山獄の中で広がっていきます。

最終的にその活動は周囲も巻き込んで、看守までもが受講を願い出て同好会に入るようになりました。

まったくやる気のない人を、これほどまでに変えてしまう・・・松陰の教育法のマニュアルをぜひ見てみたいものですね。

某テレビ番組の冒頭のナレーションでも言っていましたが、「人は生まれながらに知る事を欲する」

本来、人に備わっているはずの、その意欲を引き出す力・・・だからこそ、松下村塾(11月5日参照>>)は多くの逸材を輩出したのでしょう。

罰せられる事を承知で、進んで自白した松陰・・・。

自らの身を投じて、信頼できる教え子たちにバトンを渡す・・・そんな気持ちだったのでしょうか。

♪身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
  留め置かまし 大和魂 ♪

♪親思ふ 心にまさる 親心
  今日のおとづれ 何と聞くらむ♪

この歌を時世の句として萩の両親に送り、安政六年(1859年)10月27日松陰は刑に服しました。
 

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2006年10月26日 (木)

榎本武揚,五稜郭の後は・・・

 

明治四十一年(1908年)10月26日、幕末の戊辰戦争で五稜郭に立てこもり、新政府と最後まで戦ったあの榎本武揚が亡くなりました。

・・・・・・・・・

榎本武揚(えのもとたけあき)は26歳の時に、幕府の命で数年間オランダに留学します。
この事が、維新後の彼の人生を大きく変える事になるのですが、その前に・・・

武揚は、数年間の留学の間に、化学や法律、砲術、兵制にいたるまで、あらゆる知識を吸収して帰国しましたが、残念ながら崩壊寸前の幕府では、その知識を発揮する間もなく、大政奉還(10月14日参照>>)を迎えてしまいます。

その後の鳥羽伏見の戦いでも先頭に立ってヤル気満々(1月2日参照>>)の旧幕府海軍・副総裁の武揚は、やがて新政府の江戸占領も間近になった時、最新鋭の軍艦を手元に残し、江戸湾内で徹底抗戦の構えを見せますが、あの勝海舟(かつかいしゅう)西郷隆盛(さいごうたかもり)の会見(3月14日参照>>)の末に、江戸城は無血開城される事が決定しました。

しかし、その決定に不満を持った武揚は、本来ならそっくりそのまま新政府に渡さねばならない艦隊を率いて、単独で江戸を脱出(8月19日参照>>)・・・途中の会津で仲間を追加し、一路、蝦夷(北海道)へ向かい、函館の五稜郭を占領します(10月2日参照>>)

そして、この五稜郭で、徳川を主君とし、北海道開拓を目的とする蝦夷共和国の成立を宣言するのです(12月15日参照>>)

イギリスやフランスはこの共和国を、ちゃんとした独立政権として承認したようですが、新政府は許しませんでした

宮古湾海戦(3月25日参照>>)矢不来の戦い(4月29日参照>>)・・・そして函館総攻撃(5月18日参照>>)と、約1年間の攻防戦によって、武揚らは降伏し、函館戦争は終結します。

その後、武揚は捕らえられ、しばらくの間、投獄・・・しかし、その人生が一転するのは、それから6年後の事でした。

赦免された武揚を待っていたのは、オランダ留学の知識を大いに発揮できる場だったのです。

ただ、それは皮肉にも、留学をさせてくれた幕府ではなく、その幕府を倒した新政府のための場所でしたが・・・。

北海道樺太開拓初代長官黒田清隆(くろだきよたか)(8月23日参照>>)の頼みで、ロシアに派遣され、千島樺太交換条約を取り付けたのです。

これが、武揚の新政府での最初の仕事でした。

その後、伊藤博文(いとうひろぶみ)を助けて天津条約を締結し、逓信、文部、外務、農商務省の大臣を歴任しました。

薩長中心の新政府の中で、旧幕臣の武揚がここまで高官として活躍できたのは、やはり留学時代に得た新しい知識による物でしょう。

そして、明治四十一年(1908年)10月26日、武揚は73歳でこの世を去りました。

同じ年の夏には、大杉栄(おおすぎさかえ)らによる赤旗事件(仲間の出獄祝いで、赤旗を掲げ革命歌を歌ったとして逮捕された事件)が起こり、時代は社会主義という大きな波に飲み込まれて行く事になるのです。

ひとつの時代が終わった・・・と知らせるかのような死でした。
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2006年10月25日 (水)

一揆か?聖戦か?島原の乱

 

寛永十四年(1637年)10月25日、天草四郎をリーダーとするキリスト教徒と、島原半島と天草の農民が結合した『島原の乱』が勃発しました。

・・・・・・・・・

『今から二十五年後に16歳の天童が現れるだろう。
その子は、習わないのに文字を書き、天のしるしをあらわす。
天は雲を焦がし、地の花は狂い咲き、国土は揺り動き、民家は焼け滅びる。
人々は首にクルス
(十字)をいただき、野山には白旗がなびき、神は万民を救うだろう』
慶長十九年(1614年)
マルコス神父の予言書・末鑑
(すえかがみ)

かつて、キリシタン大名・小西行長有馬氏の領地であった島原・天草は、特にキリシタンの多く住んでいる場所でした。

新しく島原の領主となった松倉氏は、江戸幕府のキリシタン禁止令を受けて、徹底的な弾圧を行い、多くの人が火あぶりにされたり、水責めにされたりしたと言います(11月16日参照>>)

しかも、過酷な税のとりたても行われていたとか・・・。

鎖国令が出され、海外貿易ができなくなった上に前年から続く凶作で、農民たちは納める年貢がないにもかかわらず、先程のような火あぶりや水責めが税の滞納者に対しても行われていたとされます。

死人にまで税金をかけられ農民たちは餓死寸前
どんどん追い込まれていきます。

一方で、ここにもう一つ不満を抱えた集団がいました。

それは、関ヶ原の合戦大坂冬の陣・夏の陣で負け、所領を没収された大名の下にいた浪人たちです。

ふたたび合戦でも起きれば、手柄をたてて再仕官するなどの道も開けますが、徳川幕府は3代将軍・家光の時代になり、確固たる基盤を作り太平の世となった今、それも望めません。

そんな時、関ヶ原で散った旧領主・小西行長(9月19日参照>>)の家臣だった浪人たちが目をつけたのが、最初に書いたマルコス神父(慶長十九年に、長崎からマカオへ追放された宣教師)の予言書・末鑑でした。

数人の旧・小西の浪人たちは、末鑑を持って島原や天草にマルコス神父の予言を宣伝してまわります。

実は、小西の浪人たちには、この遺言に出てくる天童に心当たりがあったのです。

それは、同じ小西の浪人で、大矢野に住む益田甚兵衛好次(よしつぐ)の子、益田四郎時貞、彼もキリシタンで洗礼名はジェロニモ、当時16歳でした。
(天草四郎は、地名を冠にした後世の呼び名です)

彼が起こした数々の奇跡は、後世の創作、あるいは小西の浪人たちの協力によるパフォーマンスだったとしても、端整な顔立ち、にじみ出る教養は、カリスマになるにふさわしい人物だったと言えるでしょう。

おりしも、ちょうどその頃、予言に合わせたような奇妙な現象が起こります。

秋だというのに桜が咲いたり、流星が空を飛んだり、朝夕の空がいつも以上に赤かったり・・・。

「天草に天の御子が現れた」
苦しみから抜け出したいと思っていた島原の農民たちは、この噂に救いを求め、またたく間に広がり、四郎のもとでキリシタンへ立ち帰る者が続出します。

そんな、寛永十四年(1637年)10月25日、島原領内でキリシタンに戻ったとして二人の農民を捕らえた代官が、仲間の農民たちによって殺される・・・という事件が発生します。

これをきっかけに農民たちは、途中の村々から武器を集め、仲間を募り、島原城へと攻めかかったのです。

「待ってました!」とばかりに、旧・小西の浪人たちは、四郎をリーダーにかつぎ上げ、島原領内の元・キリシタンの庄屋や有力農民を次々と説得し、一揆の拡大を狙います。

彼らの思惑通り、一揆には徳川政権下で浪人となった者たちが次々と参加しはじめ、一揆勢はどんどん増えていきます。

しかし、やはり相手は現役の武士。

一揆勢は島原城を落とす事ができず、しかたなく、島原半島南部にあった古城・原城を手直しして、ここを拠点として活動を続けます。

11月には、最初に発起した島原農民班と四郎率いる天草班が合流し、唐津藩が籠る富岡城を攻めますが、これも攻め落とす事ができず、その後、12月3日からは、撃って出る事をやめ、原城に籠城する作戦をとります。

一方、大騒動になっている島原藩は、再三お隣さんの熊本藩と佐賀藩に援軍を要請していましたが、両藩とも『武家諸法度』に、「幕府の許可なく領外へ兵を出してはならない」と書いてある事から、まったく動こうとしませんでした。

「これは、もう、島原藩だけにまかせてはおけない!」と、やっと重い腰をあげた幕府は、板倉重昌石谷貞清を中心とした一揆鎮圧軍を派遣するのですが・・・

この続きは、幕府が島原の乱鎮圧に板倉重昌らを派遣する11月9日のページでどうぞ>>

それにしても、16歳の少年に、これだけの集団をまとめる能力があったとは、とでも思えません。

やはり、天草四郎はあくまで広告塔・・・実際に統率を取っていたのは、旧・小西の家臣だったのでしょう。

今日のタイトルに『一揆か?聖戦か?』と書きましたが、本当はもう一つ、浪人の反乱が深くかかわっていると考えています。
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2006年10月24日 (火)

征韓論で西郷隆盛、辞職

 

明治六年(1873年)10月24日、明治政府内で巻き起こっていた征韓論の論争で、西郷隆盛が参議を辞職しました・・・、明治六年の政変です。

・・・・・・・・・・・

元号も明治になり、首都の名前も江戸から東京に改まりました。

徳川幕府の支配に嫌気がさしていた人々は、維新に大いに期待します。

新しい思想、新しい学問も起こり、町と町は鉄道でつながり、人々の生活は大きく変りました。

しかし、良い事ばかりではありません。

いえ、むしろ明治新政府の行く手は問題山積みです。

最初、今までの半分にすると約束していた年貢の徴収は、逆に以前の倍になってしまいましたし、一部の人たちの華やかで贅沢な生活に比べて、庶民の暮らしは以前と変わらない・・・むしろ、悪くなっていました。

そんな中で一番の問題は士族という呼び名に変った武士でした。

版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)で藩はなくなり、藩主こそ知事という役に着くことができましたが、一般の武士たちは、士族という名前があるだけで、実質的には他の一般人と何ら変りありません。

今まで、国家を護る戦いのプロとして特権階級だった武士ですが、徴兵令が出され一般人も軍隊に入る事になりますから、その存在は意味がありません。

それまで、藩が支払っていた(ろく・武士の給与)を、明治政府が代わって支払う事になっていましたが、そんなもんすぐに財政は行き詰ってしまいます。

そんな士族たちの状況に、心を痛めていたのが西郷隆盛でした。

西郷さんは、とにかく士族が大好き。

士族の事を思い、「なんとか彼らの救済策を打ち出さなければ反乱が起きてしまう」、と考えていました。

そんな時、明治政府に新たな問題が浮上します。
隣国・朝鮮との外交問題でした。

当時、清国の属国であった朝鮮に、日本が送った徳川から天皇に政権が移った事を知らせる国書の中に、朝鮮より上位の国である清国しか使ってはいけない「皇」と「勅」の文字があった事から国書を受け取らない・・・という事態になってしまいました。

加えて、もともと、朝鮮とは徳川幕府の鎖国時代でも国交が続いていましたが、あのペリーの黒船以来、日本は欧米諸国の圧力に屈した形で、通商条約を結んで開国してしまい、日本と同じように鎖国をしていた朝鮮は、「勝手に開国してしまった日本とは付き合えましぇ~ん」と、国交断絶を通告して来たのでした。

こじれた関係を何とかしようと、外務省の官僚が釜山に出向いたりもしましたが、いっこうにらちがあきませんでした。

「これは、まさに国家への侮辱だ!」と怒った太政大臣・三条実美(さねとみ)が、「陸軍・海軍を朝鮮に送り込んで、朝鮮にいる日本人を保護しよう」と言い出します。

この三条の考えが『征韓論』です。

たとえ、保護の名目であっても、今この時点で軍隊を出せば、戦争になってしまうのは明らかでした。

西郷は反対します。

そして、軍隊を出す前に、まず自分が使節として朝鮮を訪問する・・・という策を提案します。

この意見に板垣退助後藤象二郎大隈重信多くの者が賛同しました。

ただ、この時、岩倉具視大久保利通木戸孝允伊藤博文といった政府の中心人物がヨーロッパ視察に行っていて、彼らが留守の間に、勝手に国家の大事を決断するわけにもいかず、西郷の意見は一旦保留される事になります。

ところが、ヨーロッパから帰ってきた四人は、西郷の意見に猛反対

しかも、ここに来て最初賛成していた大隈も反対側に寝返ったりして、結局、閣議は反対派に押し切られてしまいます。

西郷はあくまで話し合いの訪問のつもりでしたが、反対派は西郷が行けば必ず戦争になる・・・と思って反対したようです。

ただし、一方では、はなから大久保や岩倉が西郷を政界から排除するために、征韓論を口実に使っただけだったという説もありますが・・・。

とにかくこうして、明治六年(1873年)10月24日西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが、一斉に辞職しました。

その後、板垣と後藤は愛国公党を結成し、それはやがて自由民権運動(10月18日参照>>)へと発展していきます。

一方の西郷は、鹿児島に戻って学校を開きました

しかし、ここで、西郷が政界から離脱した事に非常にショックを受けた人たちがいるのです。

そう、最初に書いた士族たちです。

彼らは、士族びいきの西郷が政府の中心にいる事によって、「今は苦しいが、これから先、なんとかしてくれるだろう」という希望を持っていたのです。

その希望が、一気に崩れてしまいました。

そして、不満を爆発させた士族たちは、各地で反乱を起こします。
佐賀の乱>>
神風連の乱>>
秋月の乱>>
萩の乱>>
思案橋事件>>

それは、やがて西郷も巻き込まれる事になる士族最大の反乱・西南戦争(2月15日参照>>)へとつながって行くのです。
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2006年10月23日 (月)

女歌舞伎の禁止令

 

寛永六年(1629年)10月23日、江戸幕府が風紀を乱すとして、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止しました。

・・・・・・・・・・・・

徳川家康が征夷大将軍になった(慶長八年・1603年)頃、京の都を中心に活動するスーパースターが登場します。

女歌舞伎の花形座長・出雲阿国(いずものおくに)です。

彼女は、もともと出雲大社の巫女で、神前で神楽舞など舞っていた人だったのですが、ある時、勧進のため京の都に興行にやってきたのです。

勧進というのは、神社の運営資金を作るための興行・・・つまり、舞を舞って寄付金を集める地方周りです。

彼女にとって当時の京は、様々な物が流通し、様々な人が行き交い、自分の生まれ育った出雲とは、まったく違ったきらびやかな都に映った事でしょう。

その京で、能や小舞などを見て「あんなんで、あんなにウケるんなら、私はもっとスゴイのやってやる!」と、一大決心をして神楽一座を脱退し、新しい団体を立ち上げます。

阿国自らが企画・製作・主演をこなし、ちゃんとしたストーリーに、歌あり、踊りありのエンターテーメントショー阿国歌舞伎の誕生です。

ただでさえ楽しいのに、そこに今まで男が演じていた物を女が演じる・・・つまり、今のタカラヅカのような男役の女性もいて、胸元をはだけながら魅惑な雰囲気をかもし出す・・・。

ウケないわけがありません。

阿国歌舞伎はまたたく間に評判となり、やがて江戸に進出!

慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城に招かれて本丸にて勧進歌舞伎の上演までしています・・・現在2月20日は『歌舞伎の日』という記念日になってます。

勧進歌舞伎から女歌舞伎の名称に変るのは慶弔十九年(1614年)頃、女浄瑠璃もこの頃から盛んに行われるようになってきます。

しかし、その頃を頂点に、女歌舞伎はだんだんと墜落の道をたどって行くのです。

それは、やはり有名税・・・とでも言いましょうか、各地に阿国を名乗る者が登場するのです。

その頃は写真もありませんからね~。
本物かどうか見分けがつかないんでしょう。

そして、阿国歌舞伎と称して中途半端な芸を見せ、客の酒宴の席に登場して酒の相手をしたり、求めに応じて肉体を提供する、といった事が当然のように行われるようになるのです。

元号が元和から寛永に変ろうとする頃(1623年頃)になると、女役者の売春行為はもうあたりまえ、中には舞台で実演する者まで現われます。

裸の美少女の玉乗りや綱渡り、なんていうのもあったらしい・・・。

そんなこんなで、幕府はエスカレートしっぱなしの興行小屋を一斉摘発!

寛永六年(1629年)10月23日全面禁止にしました。

なんかそんな光景、最近『警察24時』的な番組で見たような・・・いつの世もかわらないなぁ
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2006年10月22日 (日)

未完の都・平安京

 

延暦十三年(794年)10月22日、桓武天皇都を平安京に遷しました。

毎年この日行われる京都三大祭の一つ時代祭は、明治二十九年(1895年)に平安遷都1100年の記念事業として始まりました。

・・・・・・・・・・

桓武天皇が都を遷したこの日から、明治二年(1869年)に東京に遷るまで、天皇が住み、政治を行った日本史上一番長い歴史を持つ都・平安京は、東西約4.5㎞、南北約5.2km、平城京を上回る大きさの壮大な都になるはずでした。

しかし、相次ぐ遷都で資金が不足

その上に工事が難航、加えて東北地方平定のために人民が兵士として借り出され人手不足・・・結局、新都造営は行き詰まり、着工から10年で工事は停止されました。

そのため、右京(西側)は荒れ放題の無残な状態で、桓武天皇は都の完成を見る事なく、この世を去ったのです。

Heiankyoub その後、左京(東側)のほうは発展し人口も増えますが、右京は荘園となり、鎌倉・室町の頃には、朱雀大路も畑になってしまっていたと言います。

(左京は洛陽城、右京は長安城に見立てられ、京都を『洛』と呼ぶのはここから来ています。洛中とか洛外とか上洛とか言うのがそうです。)

そもそも桓武天皇がまだ、山部王と呼ばれていた若かりし頃、まさか自分が天皇になるなど思ってもいなかったのです。

なぜならそれまで、あの壬申の乱以来、1世紀に渡って乱に勝利した天武天皇の系列が皇位を受け継いでいたので、天智天皇系列の自分は「皇位とは無関係にある」と思っていたのです。

ところが、第46代・孝謙天皇の後を継いだ第47代・淳仁天皇が、つるんでいた藤原仲麻呂とともに乱の失敗によって失脚(9月11日参照>>)

弓削道鏡と組んだ先代・孝謙天皇が第48代・称徳天皇として帰り咲きます(10月9日参照>>)、称徳天皇は一生独身を貫いた女帝だったのでに子供がなく、その為、桓武天皇の父・光仁天皇62歳という高齢で第49代天皇として即位したのです(10月1日参照>>)

そしてその後、父の後を継いだ桓武天皇も、45歳という年齢で第50代の天皇になります。

しかし、天皇即位の影には常に陰謀が渦巻いていました。

その頃は、以前失脚した天武系の子孫もまだいましたので、朝廷内が天武系派と天智系(桓武)派にわかれ謀反を企てたとか、呪詛(死を願う呪いをかける事)したとか、という事件がたびたび起こっていました。

そんな天武系の影から逃れるため、そして強くなりすぎた仏教勢力からの離脱のため、桓武天皇は即位4年目に平城京(奈良)を捨て、当時、右腕として信頼していた藤原種継(たねつぐ)の薦める長岡京へ都を遷しました。(11月11日参照>>)

しかし遷都した翌年、その種継が暗殺されてしまうのです。

真犯人がはっきりしないまま、十数人が死刑となり、関係している人物の中には、桓武天皇の弟・早良親王も含まれていました。

早良親王は食物を絶って無実を訴えますが、聞き入れられず淡路へ流罪となり、その護送中、船の中で餓死してしまいます

異変はその時から起こります。

桓武天皇の夫人、母、皇后そして後を継がせようと思っていた皇太子も相次いで亡くなり、長岡京も2度の洪水に見舞われます。

「これは、非業の死を遂げた早良天皇の祟りだ」と都じゅうの噂になります。

桓武天皇にとっては、早良親王以外にも、思い当たるふしがあります。

自分に反対する天武系の人々を、謀反や呪詛の疑いで、ことごとく抹殺してきていました。

もう、怖くてたまりません。

わずが10年で長岡京を捨ててしまいます。

桓武天皇は、和気清麻呂の助言を得て四神相応の地(四つの神に護られた土地)に、徹底的に怨霊を排除した都を造ります。

それが、平安京だったのです。

北に玄武の船岡山東に青龍の鴨川南に朱雀の巨椋池西に白虎の山陽・山陰道

これが、東西南北を護る四神です。

そして、北東・北西・南東・南西の都の四隅に早良親王と非業の死を遂げた人々の霊を祭る大将軍神社を建て、御所の北と南に、これまた早良親王らを祭る御霊神社

都の鬼門には比叡山延暦寺があり、裏鬼門には石清水八幡宮

Dscn4213←上御霊神社

さらに、怨霊を鎮める祭り・御霊会(ごりょうえ)が平安京の周辺で行われるようになります。

現在の祇園祭をはじめ、多くの京都のお祭りはこの御霊会が起源のようです。

何事も起こらないように・・・そんな願いを込めて桓武天皇は平安京と名づけました(11月8日参照>>)

★ HP京阪奈ぶらり歴史散歩
    平安京の遺跡を巡り東寺から二条城へ

★ HP京阪奈ぶらり歴史散歩
     
平安京魔界マップ

Dscn2926

朱雀門跡付近

 

 

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2006年10月21日 (土)

頼朝と義経,黄瀬川の対面

 

治承四年(1180年)10月21日、黄瀬川源頼朝源義経兄弟が対面しました。

・・・・・・・・・・・

流罪の身から平家に反旗をひるがえし(8月17日参照>>)『頼朝追討』の宣旨(天皇家の命令が下った(10月20日参照>>)以上、源頼朝にとっては平家を倒し、源氏の世を造る以外に生き延びる道はなく、これから西へ西へと攻め上らなくてはなりません。

平家もまた、自分たちの保身をかけて、これから頼朝追討のための軍備を整え、都を死守しなくてはなりません。

そんな頼朝が黄瀬川の陣屋にいた時の事。

三町ほど離れた場所に、陣をたて白旗をかかげる者がいます。

頼朝は、堀弥太郎(ほりのやたろうという人物を使いに出し、誰の陣なのか探ってくるように命じます。

弥太郎がその陣を訪ねてみると、色の白い24~5歳のりっぱな大将が姿を見せました。

じっくりと顔を見る弥太郎・・・。

すると、その大将が言うには
「鎌倉殿も、ご存知のはずと思うが、わしは幼名を牛若と言い、弟にあたる者。
兄の旗揚げを聞いて奥州より馳せ参じた。
お目通りをお願い申す。」

そう、彼が義経だったのです。

弥太郎はあわてて戻り、頼朝に報告します。

頼朝は目を輝かせて、「すぐに、こちらに来るように」と大喜びです。

思えば、二人の父・義朝平治の乱(1月4日参照>>)で敗死してからというもの、兄弟の運命は大きく変りました。

兄たちは皆殺され、頼朝も斬首は免れたものの(2月9日参照>>、14歳で伊豆に流されずっと流人として暮らしてきました。

義経は義経で、その時まだ2歳・・・義朝の愛妾だった義経の母・常盤(ときわ)御前は、「追手から逃げきれない」と思い、三人の子供(義経とその兄・二人)をつれて、乱の勝者・平清盛のもとへ自首します(1月17日参照>>)

しかし、この常盤御前が元ミス平安京の肩書きを持つものスゴイ美人だったため、一目惚れした清盛は、彼女が自分の愛人になる事を条件に三人の息子の命を助けたとか・・・(あくまで伝説で、愛人なった事実はなかったととされています)

年長の二人の兄はすぐに出家させられましたが、あまりに幼かった義経だけが少しの間、手元に置かれ、その後、7歳の時に鞍馬寺に預けられます。

その後16歳の時に鞍馬を脱出、奥州藤原秀衡(ひでひら)を頼って平泉に身を寄せていました。

そんな二人の初めての対面です。

頼朝にとっても、源氏の棟梁になったとは言え、味方になった豪族たちを完全に掌握しきれてはいない不安な状況。

孤独な頼朝にとって、ここに登場した血のつながった肉親は、何よりも強い味方であった事でしょう。

義経は、奥州の秀衡から預けられた佐藤継信忠信兄弟と、最初に家来となった伊勢三郎義盛三人を連れて頼朝に会いに行きます。

関東八カ国の大名たちが居座る中、前に進み出た義経は、おもむろに兜を脱ぎます。
「おお、牛若か・・・。よくぞ参った。」

その後は、お互いの顔を見合って涙があふれ、そのうれしさを語るのに、もう言葉はいりませんでした。

居並ぶ者たちも皆涙を流していました。

この中の誰も、やがてこの兄弟に訪れる運命(10月11日参照>>)を予測してはいなかったでしょう。

この後、頼朝は義経を、自分の代わりの大将として、京へ平家追討に向かわせる事になります(1月16日参照>>)

以上、本日は『義経記』をもとに、黄瀬川の対面をご紹介させていただきました。
 

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2006年10月19日 (木)

蒙古襲来!文永の役

 

文永十一年(1274年)10月19日、ユーラシア大陸の大帝国・元が日本に侵略の手をのばしてきました。

元寇と呼ばれるこの出来事は、この文永十一年と弘安四年(1281年)の2回ありました。

今日はその1回目、壱岐・対馬を次々と制圧した(10月5日参照>>)元の船が博多湾に侵入してきた日です。

・・・・・・・・・

以前から、の皇帝・フビライは、日本に向けて服従を迫る国書を何度も送りつけていましたが、朝廷も鎌倉幕府も返事をしなかった事に腹を立てて軍を起こしてやって来たという事なのですが・・・

対する日本は・・・六年前に元の最初の使いがやって来た時から、今日の日を予想していたと思われる時の執権・北条時宗

幕府の準備も整え、西国の御家人にも、元に注意するように呼びかけていたおかげで、元軍の博多湾侵入の知らせを聞いて、続々と御家人たちが集まって来ます。

どうやら日本の武士たちは、「元軍などチョロい」と思っていた可能性あり・・・

まぁ、見た事もない敵をチョロいと思う根拠がよくわからないのですが、それだけ自分たちの武芸に誇りを持っていた・・・という感じなのでしょうか?

とにかく、翌・20日の早朝に戦いは始まります。

元軍が一気に上陸し始め、浜辺での攻防戦が始まるのですが、ここで早くも日本の苦戦が始まるのです。

なぜなら、当時の日本の合戦のしきたりは、まず、開戦の合図となる鏑矢(かぶらや)を放ち、その次に武将が進み出て「やぁ、やぁ、遠からん者は音に聞け、近くばよって目にも見よ。我こそは・・・」って名乗りをあげて一騎打ち・・・というダンドリなのですが、当然元軍がそんなん知るわけがありません。

前に進み出た武将は、格好の標的で、名乗りをあげてる間にどんどんやられていきます。

敵は、一騎打ちどころか、指揮官の命令のもと大勢の兵が自由自在に進退をくりかえし、後方からは、とてつもない数の矢が降り注ぎます。

しかも、その矢は日本の物より細く短い矢で、殺傷能力はないものの、より遠くに、より正確に飛ぶ物で、弱い殺傷能力をおぎなうために、先に毒が塗ってある物でした。

鉄の玉に火薬をつめて飛ばすてっはうという爆弾のような武器も持っていました。

これも、殺傷能力はないものの、鎌倉武士を怖気づかせるには充分な物でした。

これだけ戦法が違えば、勇敢な鎌倉武士も、くそもありません。

勝手の違う強い敵の前にじりじりと追い詰められ、その日のうちに博多の町は陥落しました。

夕刻には日本軍は大宰府まで退却、武士たちの間では、「明日はどうなるのだろう」と不安の声が聞かれ、疲れきった武士たちは、不安なまま、一夜を過ごします。

ところが、一夜明けた21日の朝・・・博多湾を目にした鎌倉武士はびっくりします。

あの900隻の大船団が、こつ然と姿を消していたのです。

夜になって、もしも新たに到着した日本軍にやられてはまずい、という事で元軍は博多の町で一夜を過ごす事をせずに、みんな一旦、沖の船に戻っていたのですが、そこに、例の後々『神風』と呼ばれる事になる突風が吹いたために、船は難破し、1万人を越える兵士が溺れ死んだと言います。

かろうじて、岸にたどりついた兵士も、もはや鎌倉武士たちの餌食となってしまうだけでした。

こうして、第1回目の日本の危機は救われたわけです。

もちろん、神風の影響もあるでしょうが、やはり騎馬民族中心の元という事と、船を急ぎすぎ、あまりの突貫工事のせいで、船の造りが甘かった・・・って所でしょうか。

むしろ、そんな船で、日本までたどり着けた事のほうが奇跡なのかも知れませんね。

そして、7年後の弘安四年(1281年)にフビライは再びやって来る(6月6日参照>>)のですが・・・その前に、執権=北条時宗が、徹底抗戦の意思表示をします。

そのお話は、9月7日【北条時宗が元との徹底抗戦を決意した日】でどうぞ>>
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2006年10月17日 (火)

江戸の上水・大坂の下水

 

明治二十年(1887年)、10月17日は、相模川から野毛山の貯水地へ水を引き、横浜の市街地へ給水するという日本初の近代的上水道による給水が開始された日で、それを記念して、今日は『上水道の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日はその上水道の日にちなんで、江戸時代の水道事情についてお話してみたいと思います。

・・・・・・・・・

もちろん、近代的な水道システムは明治になってからの、その横浜が最初なのでしょうが、それよりずっと以前から、江戸という町は万年水不足という問題を抱えていて、早くから水道システムを導入せざるをえない状況だったようです。

もともと江戸の町は、湿地と台地からなる水の乏しい土地で、最初は神田川赤坂のため池で市民の飲料水をまかなっていましたが、町の発展とともに急激に人口が増え始め、とてもそれだけでは足らなくなってしまいました。

それで、神田上水が建設される事になります。

井之頭池を水源とし、途中の池から水を引き入れながら、目白台へ・・・

途中でふた手に分かれて、後楽園のある水戸屋敷を通り、神田からは地下にもぐって、神田・日本橋一帯に給水したそうです。

やがて、それでも水不足となってしまい、今度は承応二年(1653年)1月13日、玉川上水の開発が行われました(1月13日参照>>)

玉川の水を上流の羽村で取り、四谷まで素堀(すぼり)というむき出しの堀で引き、そこから、やはり地下にもぐって地中の石の樋(とい)によって江戸の町に分けられたそうです。

それから後も、万年水不足の江戸の町には、いくつかの上水が引かれて、人口が増えるたびに、その給水の範囲網は広がっていきましたが・・・この上水網、武家のために引かれた物で、まずは武家優先

町人はその残りの余り水を使わせてもらっていたのだそうです。

それでも、当時は『水道で産湯を使う』というのが江戸っ子のステータスだったと言います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、話は変わって今度は、大阪の下水のお話・・・というのも、先日14日に、『太閤下水の一般公開』を見に行ってきたので、ちょっとここで報告させていただきます。

太閤下水というのは、豊臣秀吉が大坂城・築城の際に大坂の街づくりの一環として整備した日本最古の下水道です。

今も、約20kmが現役で活躍中のため、大阪市都市環境局の管理になり、普段は関係者以外は立ち入り禁止なのです。

その一般公開と、同じ日に行われていた徳川時代の大坂城の地下に埋もれた豊臣時代の大坂城の石垣の公開も見てきました~。

HPにくわしく紹介しましたので、よろしければコチラからどうぞ→

とりあえず、ここでは写真をupしておきます。

Dscn4143 Dscn4113a_1

太閤下水(左)と豊臣時代の石垣(右)

 

 

 

 

追記:太閤下水は、2007年2月1日にガラス張りののぞき窓が設けられ、現在は、上からではありますが、常時見られるようになっています。
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2006年10月16日 (月)

藤原道長の栄華物語

 

寛仁二年(1018年)10月16日、時の権力者・藤原道長は一首の歌を詠みます。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

まだ、わずか9歳の孫を後一条天皇として即位させた時、道長は自分の栄華に歓喜したのです。

・・・・・・・・・・

昨日のページで紹介した藤原一族の基礎を築いた藤原(中臣)鎌足(ふじわらのかまたり)の実践した天皇家に娘が嫁ぎ~の作戦・・・鎌足の息子・不比等(ふひと)もきっちり実践していました。

娘の宮子(みやこ)は天武天皇と持統天皇の孫・文武天皇の妃になり、もうひとりの娘・光明子(こうみょうし)聖武(しょうむ)天皇の皇后になりました。

娘を次々と天皇家へ入らせて、天皇の子供をたくさんつくる・・・

不比等の四人の息子の時代になるとそれぞれが独立して、「武智麻呂=南家」「房前=北家」「宇合=式家」「麻呂=京家」の四つに分かれ、それぞれの子孫が政権を独占しようとしのぎを削る事になるのです。

この藤原家独占権争奪レース・・・最初は式家が優勢でしたが、息子の藤原広嗣(ひろつぐ)乱を起こして失敗(9月3日参照>>)・・・その後、種継が暗殺されたうえ、その子供の仲成・薬子兄妹の反乱の失敗(2006年9月11日参照>>)で式家は脱落。

南家仲麻呂(なかまろ=恵美押勝)称徳女帝&道鏡との一件(2007年9月11日参照>>)で脱落。

京家浜成も大宰府に追放され・・・以後、北家だけが政界に生き残り良房(よしふさ)基経(もとつね)らがせっせと天皇家に娘が嫁ぎ~の作戦を実践しつづけ、摂政・関白の地位を独占する(8月19日参照>>)ようになっていました。

藤原道長(ふじわらのみちなが)はそんな北家のひとりの左京大夫・兼家(かねいえ)の息子として生まれますが、北家の中ではそれ程期待されていたわけではなく・・・その証拠と言っては何ですが、幼い頃の記録はほとんどありません。

ただ、ほんの少し、その片鱗を感じさせるエピソードが残っています。

ある時、父の兼家がいとこの頼忠(よりただ)の息子・公任(きんとう)の秀才ぶりを見て・・・
「うちの息子たちは金任の影さえ踏まれへんやろ」と嘆いた事がありました。

それを聞いたふたりの兄は何も反論できず、うつむいたままでしたが、道長ひとりだけが・・・
「大丈夫、影なんか踏みませんよ。あの面(ツラ)を踏んだります」と平然と答えたと言います。

やがて、左京大夫となった22歳の時、現左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)と結婚し、翌年すぐに元左大臣・源高明の娘・明子(めいし)と結婚、その他にも数人の妻を持ち、着々と例の天皇家に娘が嫁ぎ~の作戦の準備段階に入ります。

特にこの時代の貴族社会では、母方の縁が重視されていて、天皇の後見人(幼少時は摂政・成人後は関白)になるには、母方の親戚でなければなりませんでした・・・外戚というヤツですね。

はたして、道長の努力(?)の甲斐あって、4人の娘がすべてそれぞれの天皇の皇后となったのです。

そして、寛仁元年(1017年)12月4日には太政大臣となった道長・・・さらに翌年、長女・彰子(しょうし)が生んだ孫が後一条天皇として即位する事によって藤原一族同氏の争い、北家同氏の内紛にも終止符が打たれる事となり、まさに栄華の絶頂・・・冒頭の歌を詠むわけです。

道長は、第68代・後一条、第69代・後朱雀、第70代・後冷泉三人の天皇の祖父という事になり、30年間もトップの座に着く事になるのですが、道長の摂関政治のやり方は、よくありがちな『天皇を無視してやりたい放題』というのではなく(金銭的に贅沢はしていましたが)天皇の意向をちゃんと聞き、けっこううまくやっていたらしいです。

道長の時代には、朝廷内での争いが少なく、ある程度平和だったからこそ、紫式部(むらさきしきぶ)小野道風(おののみちかぜ)(12月27日参照>>)和泉式部(いずみしきぶ)(3月21日参照>>)といった文学の華が開く事にもなるわけです。

Dscn1872a ←宇治・平等院

*道長の最期については12月4日のページでどうぞ>>

 

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2006年10月15日 (日)

中臣鎌足,藤原の姓を賜る

 

天智八年(669年)10月15日、中臣鎌足が藤原の姓を賜りました

・・・・・・・・・

この日、病床にふせっている中臣鎌足(なかとみのかまたり)のもとへ、天智(てんじ)天皇の使いとして見舞いに訪れた天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)から、生前の功労を評価して、最高の冠位である大織冠(だいしょくかん・だいしきのかうぶり)大臣の位を授けられ、同時に藤原の姓を賜ります。

ここに日本の歴史上に君臨する大豪族・藤原氏が誕生したのです。

これから先、第二次世界大戦の敗戦直後に服毒自殺する近衛文麿(このえふみまろ)(12月16日参照>>)まで1300年の長きに渡り、多少の盛衰はあるものの政治的中心にいる事を誰が予想できたでしょう。

その一族の初代となる中臣鎌足ですが、彼が表舞台に登場するのは、やはり大化の改新の発端となった蘇我入鹿の暗殺乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)です。

これは、皆さんもうご存知のように、天智天皇(中大兄皇子)・主演、中臣鎌足・演出による革命劇・・・主役に天智天皇を抜擢したのも鎌足です。

蘇我氏に変って政治の中枢に加わりたいと思った鎌足は、最初は時の天皇・皇極(こうぎょく)女帝の弟・軽皇子(後の孝徳天皇)に声をかけます。

しかし、軽皇子にその気がない事を察した鎌足は、さっさと軽皇子に見切りをつけ、自分から天智天皇に近づいてこの計略に誘い込んだと言われます(異説あり=6月14日参照>>)

蘇我一族の有力者・蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)を味方に引き入れたり、蘇我入鹿とタッグを組んでいる古人大兄皇子(ふるひとのみこ)娘を妃に迎えて安心させたり、蘇我氏滅亡直後の天皇を孝徳天皇(先程の軽皇子です)に即位させたり・・・などという策略は、おそらく鎌足の手による物でしょう。

なんせ、天智天皇はこの時まだ20歳になったばかり、いくら聡明でも歴史上の英雄・源頼朝や徳川家康らがそうであるように、20歳そこそこの頃はまだまだ青いはず・・・一連の出来事に二重三重の策略を張り巡らすなど、到底無理でしょう。

その点、鎌足は男盛りの32歳。
その後の用意周到な行動から見てもかなりの策略家であった事は間違いありません。

用意周到な行動というのは・・・そうです、これだけ鎌足が天智天皇にべったり着いているにもかかわらず、後に起こる天智天皇の息子・大友皇子と大海人皇子の間の後継者争いの壬申の乱(6月4日参照>>)で、大海人皇子が勝利し、天武天皇の時代になっても鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)は、ちゃっかり政治の中心に座っています(8月3日参照>>)

いや・・・ご存じのように、もっと藤原氏は繁栄しているのです。

それは、上記の通り、壬申の乱で負け組となって、しばらくの間不遇の時代を味わいながらも、その間の猛勉強して、新しい政治の手腕を身に着けた不比等の努力とともに、やはり鎌足が張り巡らした二重三重の念を入れた対処も功を奏していました。

鎌足は、天智天皇の妃であった鏡王女(かがみのおおきみ)を、妻にもらい受け、天智天皇べったりの姿勢を見せておきながら、自分の娘ふたりを大海人皇子の妃にしています。

大友皇子にも自分の娘を妃に入れています。

これなら、誰が天皇になっても藤原一族は何とかなります。

こうして、今後の基礎を築いた鎌足は、藤原の姓を賜った天智八年(669年)10月15日翌日に56歳の生涯を閉じました。

そのお墓は、奈良の談山神社とも、京都の山科とも、大阪の阿武山古墳とも言われています。

阿武山古墳の埋葬者は50歳代とみられ、豪華な棺とともに、精巧な金のモールで飾られた絹製の冠が出土していて、その冠がこの世に一つしかない『大織冠』ではないか?と噂されるシロモノです。

もし、阿武山古墳が鎌足のお墓だとしたら、出土した人骨に落馬による骨折の跡が見られる・・・との事ですので、鎌足が倒れたのを聞いて天智天皇がすぐお見舞いに行ったのが10月10日、その6日後に亡くなる・・・という病気とは思えないスピードにも納得がいくのですが・・・。

Dscn3201 藤原氏の氏寺・興福寺と猿沢の池

 

 

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2006年10月14日 (土)

大政奉還,徳川慶喜の思惑

 

慶応三年(1867年)10月14日、政権を幕府から朝廷に返す・・・という大政奉還がなされました。

・・・・・・・・・・

徳川幕府・最後の将軍となった第15代・徳川慶喜(よしのぶ)御三家・水戸徳川家の徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれます。

やがて、御三卿のひとつ一橋家を相続しますが、第13代将軍・徳川家定の後継者争いで、ライバル・紀州家の慶福(よしとみ)に敗れ、慶福が第14代将軍・家茂(いえもち)として就任しました。

一旦、謹慎処分となりますが、その後、家茂の後見職として復帰

そして、家茂急死の後、慶応二年(1866年)12月に将軍職を継ぎ、徳川幕府・第15代将軍となるのです。

慶喜は就任早々、幕府改革に腕をふるいます。

急いで、旗本から優秀な人材を抜擢し、幕府の財政の再建、軍備の強化をはかります。

彼が急がなければならなかったのは、言うまでもなく、この年の1月にそれまで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が手を結び(1月21日参照>>)討幕という一つの目標に向かって力をつけてきたからです。

慶喜は稀代のリーダーシップを発揮します。

それは、あの木戸孝允(たかよし・桂小五郎)「徳川家康の再来」と評価し、維新の中心人物・岩倉具視(ともみ)にも「軽視してはならない敵」と言わせる程でした。

しかし、状況は次第に薩長の倒幕派が有利に展開していきます。

このまま幕府が倒されれば、当然、何もかも失ってしまいます。

慶喜は何とか、『何もかも失わない方法』を考えました。

薩長側も、慶喜が意外に名将軍である事を知り、「これは、早めに討幕を果たさねば・・・」という空気に包まれて行きます。

そんな悩みに悩んでいる時、慶喜の心を決定づけたのが、土佐藩・前藩主の山内容堂(ようどう)が提出した建白書でした。

この建白書に書かれてあったのは、あの坂本龍馬が長崎から京都へ向かっていたとき、その船の中で作ったとされる『船中八策』のアイデアをもとに、その船に一緒に乗っていた土佐藩の後藤象二郎が作り上げた『列藩会議』という物でした(6月22日参照>>)

それは、「まずは朝廷に政権を返し、天皇の下に諸大名で組織された列藩会議なる物を設けて、将軍はその議長となって政治を行う」というのです。

将軍という名前はなくなるものの、これなら、政治のトップは朝廷でありながら、実際には将軍家を中心に政治を行う事ができます。

この構想は、側近の西周(にしあまね)が考える「大君制」(11月22日参照>>)ともつながるもので、すでに、慶喜の選択肢の一つだったとも考えられます。

そうなると慶喜のフットワークは軽い。

10月9日に、幕閣・重臣たちを二条城に集め、大政奉還について一旦話し、翌10日には、朝廷に提出、11日に天皇の許しを得て、慶応三年(1867年)10月14日、あっさりと大政奉還をしてしまいました。

「慶喜は最後まで政権を手放すはずはない」と思っていた討幕派は、これにはびっくりです。

政権が朝廷に戻った以上、討幕する理由がありません
大義名分が無くなってしまったのです。

慶喜の思惑はズバリ敵中!

10月26日には、慶喜は日本の総石高の4分の1にあたる800万石の直轄(ちょっかつ)と旗本八万騎の兵力を持ったまま、朝廷のOKサインをもらっています。

しかし、討幕派は黙っていません・・・もちろん、すでに手は打ってあります。

Dscn2879慶喜が最終決断を下した10月13日と14日・・・この同じ日に、薩摩と長州に「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)が下され、さらに、12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターを決行するのです。

 

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2006年10月13日 (金)

仏教伝来・物部VS蘇我

 

欽明天皇十三年(552年)10月13日、朝鮮半島の百済の国の聖明王の使者が、欽明天皇に仏像・仏具・経典を献上しました・・・と、『日本書紀』にあります

・・・・・・・・・・

近年では、様々な研究から、仏教の伝来は538年であるという説が有力とされていますが、とりあえず、書紀に従ってお話させていただきますと・・・

今回、欽明天皇に送られた、この仏像一式には、聖明王の手紙も添えられていました。

『この法は、他のどれよりも、入りにくく達しにくい物で、周公も孔子もこれを知らなかった。この尊い法は天竺(インド)から三韓(当時の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の三つの国)に伝わった物で、皆が敬っている。仏陀の予言では、この法は東方へ流れると言われているので、貴国にこれを伝承する』

欽明天皇は「これほど、微妙な法を聞いた事がない」といたく感動して、仏教を崇拝するかどうかを、大臣たちに相談します。

すると大臣のひとりの蘇我稲目(そがのいなめ)は、「大陸のほうの国は皆仏像を礼拝しています。わが国も是非受け入れましょう」賛成しますが、もうひとりの物部尾輿(もののべのおこし)は、「わが国の王は、神代の昔から天地におられる八百万(やおよろず)の神々を祭っています。

今ここで、他国の神を礼拝すれば、国神(くにつかみ)の怒りを招きます」反対します。

Dscn1498 決めかねた天皇は、とりあえず、蘇我稲目だけに私的な仏像礼拝を許しました。

稲目は、百済から伝えられた仏像をもらい受け、自宅を浄めて寺として、その仏像を安置し、礼拝する事にします。

それが、日本初の寺と言われている豊浦寺です。

しかしその後、疫病が流行し多くの死者を出す・・・という事態が起こってしまいます。

仏教崇拝に反対していた物部氏派は、「それ、見たことか!他国の神を信じるからだ」と、ますます猛反対!

天皇は、仏像を難波の堀江に沈め、豊浦寺に火をつけて焼き払ってしまいました(3月30日参照>>)

Naniwaike 豊浦寺跡(明日香村)にある難波池

この頃はまだ、蘇我一族は朝廷の中では弱かったんですかね。

それから32年後の敏達天皇十三年(584年)、百済に行った唐深臣(からかみのおみ)という人物が、今度は弥勒菩薩像を持ち帰って来たのです。

時代はそれぞれの息子たちの時代に移っていました。

蘇我稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)が、自宅の東方に仏殿を造り、仏像を安置したところ、再び疫病が流行ったので物部尾輿の息子・物部守屋(もののべのもりや)がまたまた怒り爆発!

仏像を燃やし修行していた者たちを捕らえました。

しかし、今度の蘇我氏の長・馬子はちょっと強気。

それでも、礼拝をやめません。

しかたなく敏達天皇は、蘇我氏の私的な礼拝だけを許可しました。

この蘇我一族のかたくなな仏教押しにはわけがあります。

この時代に突然現れ一時代を築いた蘇我氏。

蘇我氏の系図は満智(まち)韓子(からこ)高麗(こま)稲目と続き、この稲目が欽明天皇の時代に始めて大臣となります。

そもそも、この時代よりずっと前の5世紀頃から、日本にはたくさんの渡来人がやってきて、大陸の様々な技術を伝えていました。

文字や儒教を伝えた王仁(わに)、機織の技術を伝えた(はた)、仏像造りの細工技術や学芸に秀でた鞍作(くらつくり)氏など・・・。

そんな渡来系の人々の束ね役としてのし上がってきたのが蘇我氏なのですが、約5世紀頃の応神天皇の時代、百済の国で国政を荷っていながら、国王の母親と不倫をしたために国を追われ日本にやってきた木満致(もくまち)という人物。

彼は、日本で高級官僚として応神天皇に仕えるのですが、この人物が蘇我氏の系図の一番最初の人物・満智と、同一人物ではないか?と言われています。

そうなると、蘇我氏自身も渡来系の人々であった可能性も出てきますが、この時代、もはや渡来系の人々なしでは、日本の経済が回らない状況になっていたのです。

技術を伝えるだけではなく、その莫大な財力は大きな勢力となって、時の権力者を支える事になるのです。

対する、物部氏大伴氏中臣氏といった豪族たちは、天孫降臨の昔から天皇のそばについて政治を行ってきた一族です。

それぞれ、高天原にいた神様たちから枝分かれしていった神様の子孫たち。

彼らが、かたくなに神々を崇拝するように、渡来系の人々は仏教を崇拝したのでしょう。

蘇我氏にとっては、仏教うんぬんよりも、渡来人の技術力・経済力も含めた豊かな財源を確保する事が重要だった・・・そのための仏教押しだったと思われます。

宗教がらみで表面化した物部氏(守屋)VS蘇我氏(馬子)の構図は、それぞれがお気に入りの皇子の皇位争奪、政治と経済の権力の握り合いが複雑に絡み合って大きな戦争へと向かって行くのです。

そして、その戦いは蘇我氏が勝利を収める事となり、物部氏は滅亡します(7月7日参照>>)

馬子の時代に名実ともに豪族のトップにのし上がった蘇我氏。

その後、馬子→蝦夷→入鹿と続き、入鹿が大化の改新の乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)で、中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)中臣鎌足に殺害され、蘇我氏も滅亡となるのです。
 

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2006年10月12日 (木)

夢は枯野を駆け巡る・芭蕉忌日

 

元禄七年(1694年)10月12日、江戸前期の俳人・松尾芭蕉が亡くなりました

・・・・・・・・・・

松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野の城下、赤坂町で手習師匠をしていた松尾与左衛門の次男として生まれました。

通称を甚七郎と言い、芭蕉というのは、庭に植えた芭蕉の木にちなんで用いるようになった俳句を詠むうえでの号です。

子供のうちから津藩・藤堂家の若君の側に仕えていましたが、その若君が亡くなった後、脱藩し寛文十二年(1672年)には江戸に出て俳句作りに励みます。

最初は、若者らしくお笑い系の俳句を作っていましたが、なかなか売れず、水道工事などハードな肉体系のバイトをしながら食いつないでいる状態でした。

37歳頃までは、バイトを続けていたという事なので、俳句という文系のイメージとはほど遠い、けっこう色黒のマッチョな人だったんでしょうね。

やがて年齢とともに、「わび」「さび」といった独自の境地に達するようになり、『虚栗(みなぐり)』『冬の日』『春の日』などの俳句集を出す頃には、しだいに人気も高まり、やっとバイトをやめて俳句で食って行けるようになるのです。

有名な♪古池や 蛙飛び込む 水の音♪は、『春の日』という俳句集に収録されています。

そして、46歳の時、弟子の曾良(そら)を連れて『奥の細道』の旅に出るのです。

『奥の細道』は、旅に死んだ先人の史跡を巡って、尊敬する歌人・西行が歌を詠んだ場所に立って自分も俳句をひねる・・・という旅の記録物ですが、同行した曾良の『曾良旅日記』と比べると旅の日程や天候がずいぶんと違っています。

おそらくは、旅の記録としての正確さは『曾良旅日記』のほうが正確で、『奥の細道』のほうは、どちらかと言えば俳句の造りあげる世界を重視した少しフィクションもちりばめた作りになっているようです。

衣川で戦死した源義経を偲んで♪夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡♪のように、その場の情景だけでなく歴史の事も入れつつ、また、同じ宿になった新潟の遊女の♪一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月♪といった色っぽいのも入れつつ・・・。

それにしても、『奥の細道』2400キロの大旅行、一日平均12里(48km)というのはスゴイ!
やはり、若い頃の肉体労働のたまものなのかしら?

あまりの健脚ぶりと、伊賀上野の出身そして母親が忍者で知られる百地一族の出であることから芭蕉=忍者説というのも有名です。

まぁ、諸国を見てまわって、その様子を報告するだけでも隠密としては成り立ってますし、俳句という隠れ蓑があれば、けっこういろんな所に行っても怪しまれませんからね。

そうやって、旅から旅への生活をしていた芭蕉でしたが、元禄七年(1694年)の5月、江戸から長崎への旅の途中、病気にかかってしまい、元禄七年(1694年)10月12日、大阪の宿でその生涯を閉じました。

♪旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる♪

もう、だめ死ぬ~と思って詠んだこの句。

ただ、そのあと、ちょっとだけ元気になって♪清滝や 波に散り込む 青松葉♪という京都の嵯峨野を詠んだ句を最後に亡くなったという事です。

『奥の細道』は彼の死後、8年経った元禄十五年(1704年)に刊行されています。

●2013年10月12日の記事【松尾芭蕉…最後の旅】もどうぞ>>
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2006年10月11日 (水)

義経危機一髪!堀川夜討ち

 

文治元年(1185年)10月11日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌峻が、六条堀川の源義経の屋敷に夜討ちをかけました。

・・・・・・・・

壇ノ浦で平家を破り(3月24日参照>>)、意気揚々と兄・頼朝(よりとも)のいる鎌倉に戦勝報告に向かった源義経(みなもとのよしつね)でしたが、兄の許しを得ぬままに勝手に朝廷から冠位を授かった事がきっかけで怒りを買ってしまい、腰越で足止めされ鎌倉に迎え入れられる事はありませんでした(5月24日参照>>)

しかたなく京都に戻る義経でしたが、その時「関東に怨みのある者は我について来い!」と言ったとか言わなかったとか・・・。

とりあえず京都に帰った義経は、伊予守(いよのかみ)に任ぜられますが、次は叔父・行家(ゆきいえ)と組んで、「鎌倉に反旗をひるがえすのでは?」・・・などという噂が絶えませんでした。

とうとう、頼朝は義経を討つ事を決めます。

その役目を命じられたのが、土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)でした。

昌峻はいったんは、「同じ御一門を滅ぼせとの仰せは、お受けいたしかねます」と断りますが、逆に頼朝に「それは、九郎(義経)の味方やと見てもええんやな?」と強い口調で一喝され、結局引き受けてしまいました。

『頼朝の名代で熊野詣に行く』との名目で、昌峻ら一行が京都に入ったのが、文治元年(1185年)10月11日・・・・四条河原を過ぎ、東洞院通りを南へ向かい、義経の屋敷近くに宿をとります。

ちょうどその時、三条京極に住む愛しい彼女のもとへ出かけようとしていた義経の家来の江田源三弘基(えだのげんぞうひろもと)が、あきらかに熊野詣とわかる装束の一行の中に、顔見知りの昌峻がいるのを見つけました

不審に思った源三は、一行の宿をつきとめ、あわてて主君・義経のもとに報告します。

義経は、もしや?と疑いますが、とりあえずは
「どこかの家臣が鎌倉に入った時は、まず頼朝に挨拶をするのが礼儀なように、京に入った武将は、まず義経に挨拶するのが筋とちゃうん?」
という事を昌峻に告げ、挨拶に来るようにと、源三を使いに出します。

ところが、昌峻はとにかく熊野詣でを強調し、
「もう、夜中やから・・・明日、挨拶に行きまっさかいに・・・」
と、なんだかんだ理由をつけてやって来ようとはしません。

子供の使いのように、昌峻に言いくるめられて帰ってきた源三は、義経にこっぴどく叱られてしまうのですが、義経は、律儀な昌峻が挨拶に来ない・・・という事実に直面して、これは、頼朝の命で自分を討ちにきたのでは?という疑いを、より強く持つのです。

その頃になると、それぞれ六条の彼女の所に行っていた武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)片岡八郎、そしてこれまたそれぞれ室町に住む彼女の所へ行っていた伊勢三郎佐藤忠信といった主要メンバーも、騒ぎを聞きつけて義経の屋敷に集まって来ていました・・・ってみんな彼女のトコに行っとるんかい!(まっ、成人男性としては、しかたないか)

それで、弁慶が代表で昌峻の宿所に乗り込み
「明日やなんて、許さんゾ!俺と一緒に来んかい!」
と無理やり腕を引っ張って、昌峻を義経の屋敷に連れて行きます。

昌峻は、ここでバレてはいっかんの終わり、とばかりに必死で弁明します。

あくまで、熊野詣である事を主張し、
「そこまでお疑いなら・・・と起請文を差し上げましょう」
と、持っていた熊野の牛王の誓紙・7枚『この度の上洛は熊野詣のためで、討っ手としてではない』と書いて誓いをたてます。

そして、三枚は八幡宮に、一枚は熊野に収める事にして、残りの三枚をその場で焼いて灰を飲み込みました。

この、昌峻が起請文に誓った事で義経は彼を信用するのですが・・・「えっ?こんな事で?」って思ってしまいますが、当時の人々の神仏の罰への恐れという物は現代人の私たちとは比較にならない物で、もし、誓いを破れば必ず天罰が下るという事で、めったに書かれる物ではなかったのです。

それは、なるべく早く事を起こして、神仏に誓いが達しないうちに夜討ちを終わらせようと、宿所に帰ってすぐさま支度をして、大急ぎで義経の屋敷に夜討ちをかけに行く・・・という昌峻の行動からも読み取れます。

そうとは知らず、すっかり信用してしまった義経。

「気をゆるしては、いけません」という家来たちを、皆帰して、自分は大酒を飲んで泥酔して眠ってしまいました。

・・・てゆーか、義経にとっては、頼朝との絶縁状態がかなりショックだったようで、ちょっとは疑ってはいるものの疑うとその事がまた腹立たしい・・・といった具合で、要するにヤケ酒あおって寝ちゃった・・・て感じですかねぇ~。

その義経の醜態を、そばで見ていたご存知・・・静御前

どうにも昌峻が信用できない彼女は、侍女に「昌峻の宿所の様子を見て来てくれ」と頼みます。

ところが、その侍女は帰ってきませんでした。

昌峻の家来に見つかって斬られてしまっていたのです。

侍女が帰って来ない・・・と静か気を揉んでいると、どどお~と、鬨(とき)の声があがります。

静はあわてて義経を起こしますが、泥酔状態の義経は目覚めません。

ふと、かたわらにあった鎧・兜を手に取り、義経に投げつけ
「オラ!夜討ちや!起きんかい!」と言った・・・
かどうかはともかく、めっちゃ荒っぽい起こし方で、やっと義経は目を覚まします。

「土佐めか・・・」すくっと立ち上がって疑いが現実になった事を確信する義経ですが、家来たちを皆帰してしまい残っているのは、下男の喜三太(きさんた)ひとり。

あとは、女たちばかりです。

義経から、自分が支度をしている間、なんとか敵を防ぐように命じられた喜三太は、スッスッ~と屋根に昇り、屋根から押しよせる敵めがけて矢を射かけます。

下男とは言え、喜三太はかなりの弓の名手。

先頭の何人かを討ち取ったところで、昌峻が屋根の上を見上げて名乗りはじめました。

「今夜の御大将は誰ぞ?我は鈴木党・土佐坊昌峻なり。鎌倉殿の代官としてまかり越した。名乗られい」

しかし、喜三太は下男・・・なので、名乗りを知りません。

「我は、名も無き下郎なれど、心剛き殿に認められ、今夜の先駆けを承った~」と、一世一代の名乗りをあげます。

なんだ、下郎なのか・・・と、昌峻らがバカにしていると、そこへ、はなから胸騒ぎを覚えて寝つけないでいた弁慶が駆けつけます。

そのスキに、けっこう『キレ者』の喜三太は、屋根の上から
「夜討ちや~!後家来衆はおられんか~」
と、真夜中の京じゅうに響くような大声で叫びます。

その声を聞きつけた家来たちが次々と馳せ参じ、見事な活躍・・・昌峻らは、みるみる崩れ、散り散りに敗走していきました。

ただ、最初に義経に叱られた源三。

彼は、この戦いで敵の首を二つ取りますが、反対に矢を受けてしまい、駆け寄った義経の腕の中で息をひきとりました。

鞍馬山に逃げ込んだ土佐坊昌峻はやがて捕らえられ、息子とともに六条河原で斬首されます。

義経は、これによって、決定的となった兄・頼朝との絶縁をひしひしと感じた事でしょう。

以上、本日は『義経記』に沿ってお話させていただきました。

Dscn1957 鴨川

このお話の続きは11月3日:義経の都落ちへ→

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2006年10月10日 (火)

真田幸村の必勝作戦!

 

慶長十九年(1614年)10月10日、真田幸村が大坂城に入城しました・・・って、昨日九度山を脱出したんですから(10月9日参照>>)、そりゃ、着くだろう・・・って事なんですが、実は、この後に行われたであろう大坂城内での軍儀の日や真田丸の構築に着手した日付がわからない(私が知らないだけかもしれませんが・・・)ので、今日はそれを書きたくて、昨日の続きという形で書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

明日の10月11日には、徳川家康駿府を出陣していますので、おそらくは今日10月10日に幸村が大坂城に入ってまもなく軍儀が行われたものと思われます。

一説には真田幸村は、『黄金2百枚、銀3百貫+五十万石の大名』という破格の待遇で大坂城に迎え入れられたと言われていますが、とにかく豊臣秀頼には、父・秀吉の残してくれた遺産はあるが合戦をする武将がいない・・・という状況だったと言われています(あくまで定説では)

これには、豊臣方もおおいに落胆したようです。

「秀頼が家康に宣戦布告すれば、豊臣恩顧の武将たちが大坂城に駆けつけて来るに違いない」と思っていたのに、蓋を開けてみれば、集まったのは、ほとんどが金で雇われた浪人たちだったとか・・・

長宗我部盛親毛利勝水明石全登後藤基次仙石秀範など、大名クラスの武将がいるものの、ほとんどが現在は浪人・・・実質的に当時大坂城を仕切っていた大野治長は、実際の合戦となればどれほどの力量があったものか・・・

本当なら、もう22歳になっている秀頼が総大将となって腕をふるうところですが、実戦経験はゼロのうえ、それまで貴族のような生活をしていたため、とてもまかせられるものでは無かったという見方もあります。

見かねた秀頼の母・淀殿が自ら武装して軍儀に口出ししますが、そんなのはむしろ邪魔なだけ、「こうなったら幸村ちゃんたちにすべてやらせてあげてよ!」って私なんか思ってしまうんですが、そうはいかないのです。

この時の幸村は、金で雇われた浪人のグループなので、大名扱いをされてはいなかったのです。

軍儀の席での幸村の提案した作戦は、「家康隊が来る前に、自分と毛利を先鋒に秀頼自らが出陣し、その間に後藤が伏見城を落とし、宇治・瀬田で合流、そこで西上して来る徳川軍を迎え討つ」というものでした。

後藤基次もそれに賛成し、「自分と真田に2万の兵を預けてくれ」と訴えますが、大野治長が籠城を主張。

治長だけに限らず、豊臣方にとって、この大坂城は難攻不落の名城という確固たる自信があったのかも知れません。

たしかに、ここは、石山本願寺の時代から、あの信長でさえ攻めあぐねた天然の要害・・・『三十万の兵に囲まれても城は落ちない』と言われていました。

結局、幸村と後藤の意見は採用されず、軍儀の結果、籠城作戦をとる事になりました。

Oosakazyoubl 軍儀で籠城と決まったからには、それに従わなければなりません。
幸村は考えます。

「自分ならこの城をどう攻めるだろうか?」と・・・。

「西は海、北は淀川、東は平野川、南は上町台地、天然の要害・難攻不落の大坂城を攻めるとしたら、この南側しかありえないとう考えた幸村は、大坂城の南に出城を構築します。

三方向に空堀をめぐらし、約2mの土塁の上に一重の塀と三重の柵をめぐらした出丸には、ちゃんと櫓も築かれていたそうです。

これが真田丸と呼ばれるものです。

そして、この真田丸の最大の『売り』は、側面から敵を攻撃できる事。

平城で、南側からしか攻撃できないとしたら、防ぐほうも正面から南に向いて防ぐしかてだではありません。

しかし、ここに出城あれば、城の正面に向かって攻撃する敵に横から矢や鉄砲を仕掛けられます。

幸村の作戦はみごと的中!

徳川軍はこの真田丸におおいに悩まされる事になるのですが・・・そのお話は、真田丸の攻防があった12月4日のページへどうぞ>>

・・・とその前に、大坂冬の陣では、籠城戦だけでなく野戦もありました。

続きのお話は11月29日の【大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】へどうぞ>>
 

Dscn1462 真田丸の跡とされる大坂・真田山公園にある三光神社。
この段差がわずかに真田丸をしのばせます。

HPで、幸村最期の地と真田山のある上町台地を散歩した記事upしてます。
よろしければ
コチラからどうぞ→

「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの【大坂の陣の年表】>>のリンクからまとめてどうぞ!
 

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2006年10月 9日 (月)

真田幸村、九度山を脱出!

 

慶長十九年(1614年)10月9日、関ヶ原の合戦の後、九度山に追放されていた真田幸村が九度山を脱出し、大坂城へ向かいました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦が終わった後でも、まだ表面的には、徳川家康豊臣秀頼を主君とする家老という立場でした。

しかし、慶長八年(1603年)には、家康が征夷大将軍(2月12日参照>>)・・・さらに、その2年後には、その将軍職を息子・秀忠に譲り(4月16日参照>>)・・・と、徐々に、その力関係にゆがみが生じて来ます。

・・・と、このあたり、以前のページ(5月10日参照>>)でも書かせていただいていますが、個人的には、後の徳川政権によって、かなり歴史が書き換えられていると睨んでおりますが、いずれにしても、両者が微妙な関係にあった事は確か・・・

おそらくは、家康は自らの年齢を踏まえて、自分の目の黒いうちに豊臣を潰してしまわなければ・・・という思いにかられた事でしょうね。

かくして慶長十九年(1614年)7月・・・秀頼が、亡き父・豊臣秀吉の悲願だった方広寺の大仏建立(7月26日参照>>)をやっとこさ実現しようとした時、その方広寺の鐘に書かれている銘文に、家康はイチャモンをつけます。

鐘に書かれていた文字の中に「国家安康」「君臣豊楽」というのがあるのを見つけ、「これは、家康を二分して豊臣の繁栄を願う」という意味、つまり家康を呪う言葉であるという言いがかりをつけて来たのです(7月21日参照>>)

慌てて弁明の使者を派遣する豊臣側ですが、家康が出した条件は
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替えする

の3つ・・・(8月20日参照>>)

どれも、とても実現できないような条件を出して、ケンカ売る気満々の家康・・・

かくして、追い詰められた大坂方は、思い当たる所に使者を出し、大坂城への参集を呼びかけたのです。

この大坂城の動きを見てとった家康は、いよいよ大坂討伐を決意・・・この10月1日に、諸大名に出陣の命令を下します。

これが大坂冬の陣・・・。

一方、秀頼の出した出陣要請は、高野山々麓の九度山にいる真田幸村(信繁)のもとにも届きました。

幸村は、父・真田昌幸ととも、先の関ヶ原の合戦の時、西軍・石田三成に味方して、上田城にて徳川秀忠軍本隊をくい止め(201年9月7日参照>>)関ヶ原に間に合わなかった(2011年9月7日参照>>)・・・という事態を引き起こしていて、合戦後に九度山に追放され、浪人として暮らしていたのでした。

もちろん、徳川方もこういう時には、真っ先に幸村に声をかけるであろう事を予測していたので、はなから近在の役人たちに、幸村が九度山から出ないように見はらせていたのです。

そこで、慶長十九年(1614年)10月9日・・・幸村は「身内に祝い事があるから・・・」と言って、近在の村人や村役人を大勢集めて、飲めや歌えの大騒ぎ。

さんざん酔わせておいて、警戒をかいくぐって突破し、大坂城に馳せ参じたのです。

『村中を 酔わせて真田 すっと抜け』

すっと抜けた後の続きのお話は明日、10月10日真田幸村・必勝作戦>>でどうぞ

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2006年10月 8日 (日)

今日は寒露、二十四節季のお話

 

今日10月8日は、二十四節季の一つ寒露(かんろ)です・・・って、こういうセリフ、ニュースや天気予報でよく聞くけど、そもそも二十四節季って何?って思ってませんか?

実は、私もけっこう大人になるまで、ちゃんとした意味をわかってませんでした。

ただ、さすがに夏至は太陽が昇ってる時間が一番長い日で、冬至がその逆の一番短い日・・・という事は知ってましたが・・・。

二十四節季というのは・・・

一年を24等分してそれぞれに立夏・立春などの季節をあらわす名前をつけた物で、古代の中国で、陰暦と季節のズレをおぎなうために考え出された暦です。

陰暦は、月の満ち欠けによって日付が決まりますから、当然太陽の動きと差が出てしまい、農業の種まきや、収穫の日を決めるのにとても不便だったんですね。

それで、太陽の軌道を24等分した分点にそれぞれの節季を配置して古代のカレンダー的な物に記入して、農作物を作るヒントにしたんです。

では、一つ一つご紹介・・・

まずは立春(2月4日頃)、これは有名ですよね。
春がキターーーーって事で、昔のお正月です。
八十八夜とか二百十日などは、この日を起点に数えた日にちで、お茶積みをしたり台風に気をつけたり・・・とか、

雨水(うすい・2月18日頃)、雪や氷が解けて水になるという意味で、そろそろ農耕の準備を始める日だそうです。

啓蟄(けいちつ・3月6日頃)、冬眠していた虫が目を覚まして地中から這い出てくるという意味で、南からの暖気か強まり、春雷が大きくなる季節です。

春分(3月21日頃)、これは説明不要ですよね。とりあえず、暑さ寒さも彼岸まで・・・

清明(4月5日頃)、草木が生き生きし始め明るくなるという意味で、西日本は桜の咲き始める頃、ただし天気は変りやすい頃です。

穀雨(こくう・4月21日頃)、春雨がけむるように降って作物が生長する時期なので、この名前がつきました。

立夏(5月6日頃)、夏が立ちました~暦のうえでは、夏・・・って事ですね。

小満(しょうまん・5月21日頃)、野山の草木が実をつけはじめ、万物が満つるという意味で、この頃から梅雨に入ります。

芒種(ぼうしゅ・6月6日頃)、米や麦など(のぎ・実の外側にある固い毛の事)のある作物の種をまく時期という意味で、そろそろ田植えの季節です。

夏至(6月22日頃)、一年のうちで、太陽が一番長く照ってる日・・・たしかに太陽は長く出ているけど、梅雨の真っ只中で、あんまり夏っぽくないですね。

小暑(7月7日頃)、梅雨も明け、そろそろ暑くなってくる頃です。

大暑(7月23日頃)、その名のとおり暑くてたまらん!

立秋(8月8日頃)暦の上では秋・・・暑中見舞いはこの日までに出しましょう。立秋から後は残暑見舞いになりますよ。

処暑(8月23日頃)、暑さがやむ・・・という意味です。秋の訪れを感じます。

白露(はくろ・9月8日頃)野草に露が宿る頃です。

秋分(9月23日頃)、またまた暑さ寒さも彼岸まで・・・っと。

寒露(毎年10月8日頃です)、野草に宿る露が寒気にあたって凍る手前にあるという意味で、朝晩は寒気を感じ始める頃です。

霜降(そうこう・10月21日頃)早朝などは霜が降りるという意味、物寂しい季節です。

立冬(11月7日頃)が来ちゃいました~。

小雪(11月23日頃)寒さもまだ小さく、雪もまだ少ないという事です。

大雪(12月7日頃)、もう山は積雪、町は北風。

冬至(12月22日頃)、んん~太陽が一番遠く、昼が一番短~い「ゆず湯に入って寝よ」

小寒(1月6日頃)、意味はもういいですよね。よく耳にする『寒の入り』はこの日の事です。

大寒(1月21日頃)、その名のとおり寒くてたまらん!

以上が、二十四節季でした。

実は、二十四節季をさらに3等分ずつした七十二侯というのもあるんですよ。

七十二侯には・・・
『獺祭魚(たっうおをまつる)=かわうそが魚を食べる季節とか、
『武始交(とらはじめてまじわる)=虎が成長して初体験をする季節とか(・∀・)ニヤニヤ

「それ、知ってどうすんねん!」って言う物や、
『鷹が鳩になる季節』などというワケのワカラン物まであるので書くのはやめときます。

とにかく、寒露は秋冷えが体にしみる季節です、風邪などに注意しましょうね。
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2006年10月 7日 (土)

安政の大獄~井伊直弼の本心

 

安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄で、越前藩士・橋本左内、儒学者・頼三樹三郎死罪になりました。

・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)は、日本という国を開国か攘夷(外国を追い出す)かで真っ二つに分けてしまいました

ペリーが突きつけた『日米和親条約』(下田と函館を開港し、アメリカ船の燃料補給を許可する)

そして、今度はその和親条約に基づいてやってきたハリスの突きつけた『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)

賛成だ!反対だ!の意見が渦巻く中、大老・井伊直弼(なおすけ)天皇の許可なしに『日米修好通商条約』に調印します

そして、その事に反対・反発していた攘夷派を、死刑にしたり投獄したりと、徹底的に武力で弾圧してしまうのです。

これが『安政の大獄』と、言われるものです。

この事によって、直弼は大悪人と、呼ばれる事になり、最終的には桜田門外の変で暗殺されてしまう事になるわけですが(3月3日参照>>)・・・当然、そこには、直弼さんなりのの言い分、考えがあってやった事なのです。

もともと条約調印の際の江戸城の会議で、彼はむしろ「天皇の許しを得てから調印すべき」という意見を述べているのです。

しかし、その場にいた人間で彼の意見に賛成したのはたった一人だけ。

その他大勢の強硬論者の「早くしなければ・・・天皇の返事を待ってられない!」という意見が会議の場で通ってしまい、彼はその幕府の決定を実行しただけなのです。

それでもまだ彼は、個人的に親しい交渉役の者に、こっそりと「許しが出るかもしてないから交渉をできるだけ延ばせ」と指示しています。

そして、彼はその時「天皇の許しを得ずに調印した重罪の責任は、すべて自分が一人で受ける決心である」という自分の心情も書き残しています。

私は、その重罪の責任が『安政の大獄』ではないのか?って思うのです。

それは『罪を犯した者が刑に服す』という責任のとり方ではなく、いわゆる『尻をぬぐう』という責任のとり方です。

やり方が正しかったとは言えませんが、とにかく「二つに分裂した国家をなんとか一つにまとめたい」それが、彼の本心ではなかったか?という事。

彼が本当に心配したのは、国内で争っている間に、日本も中国のように欧米諸国の植民地化のターゲットになってしまう事。

とりあえず、条約に調印しておいて、アメリカの武力侵攻を避け、国内を一つにして、対外国の軍備を整えたい。

急を要する現段階では、武力弾圧をしてでも一つにまとめあげようとした彼なりの愛国心のなせる苦渋の決断ではなかったか、と思います。

井伊直弼が『大悪人』との印象を受ける原因の一つとして、勤皇の志士のリーダー的存在で、今でも人気バツグンの幕末のヒーローの一人・吉田松陰を死刑にした事が、かなり影響していると思われますが、それは、松陰自らが、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画と、仲間・梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)の奪還計画を正直に自白してしまったためで、そのようなテロ行為の計画を聞いてしまった以上、幕府の長として何もしないでは、しめしがつかないわけで、それは、それ相当の処分を下すのは、ある意味、当然の事ではなかったか、と思うのですが・・・。

ちょっと、今日は井伊直弼さん寄りの話になってしまいましたが、なんせ、敵役になる事が多い人なので、たまには、良いかと・・・。

できれば、直弼さんにもう少し時間を与えてあげて、武力弾圧ではなく、別の方法で日本を一つにまとめる事をじっくりと考えさせてあげたかったですね~。

井伊直弼を影で支えた女スパイ=村山たかのお話は2009年の10月7日へどうぞ>>
橋本左内については2012年の10月7日のページでどうぞ>>
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2006年10月 6日 (金)

源頼朝、鎌倉で再起

 

治承四年(1180年)10月6日、先の石橋山の合戦で敗れた源頼朝が、再起を賭け鎌倉入りし、鎌倉を本拠地とする事を決めました。

・・・・・・・・

平治の乱(12月9日参照>>)に敗れて後、伊豆の(ひる)ヶ小島で流人生活(2月9日参照>>)をおくっていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が発した平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を受けて挙兵を決意・・・

治承四年8月17日には、山木兼隆邸の夜討ち(8月17日参照>>)をカッコ良くキメた頼朝でしたが、続く石橋山の合戦(8月23日参照>>)で敗れて山中を逃げ回り、真鶴岬から、何とか小舟に乗って、落ち武者狩りの包囲網から脱出しました。

先に到着していた三浦義澄(みうらよしずみ)和田義盛(わだよしもり)北条時政(ほうじょうときまさ)に迎え入れられ、勝山近くに上陸た頼朝は、みじめな思いをして5日間逃げ回ったにもかかわらず、すぐさま中央からはじき出された武士たちや、上総・下総の武士たちに、参集の命令を携えた使者を送りました。

その呼びかけに、まず応じたのは、千葉常胤(ちばつねたね)・・・彼の3百余騎の兵を得て士気もあがり、武蔵の国境・隅田川のほとりに到着した頃、今度は上総介広常(かずさのすけひろつね・平広常)(12月20日参照>>)2万の大軍を引き連れてやってきました。

しかし、本当は広常は、これよりもっと早くに頼朝の所へ駆けつける事ができていたのですが、わざと様子を見ていたのです。

「平家打倒の旗揚げをしたものの、石橋山で敗れた源氏の御曹司が、もしたいした人物でないのなら、その首を討ち取って平家に献上してやろうか・・・ちょっと、その顔を見てきてやれ」ぐらいの、軽い気持ちでここまでやってきたのです。

ところが、頼朝はそんな広常に「参加するのが、遅い!」と、怒りまくるのです。

大軍を率いて味方に加わりに来たのだから、感謝されこそすれ、怒られるとは思ってもみなかった広常。

でも彼は、そんな頼朝の態度に器の大きさを感じてしまったのです。

「この人こそ、主として仰ぐにふさわしい」と、瞬時にして服従する事を決意したのです。

実は、頼朝という人は、こういう飴とムチの使い方がじつにうまかったんですねぇ~。

ある時は寛容なやさしさを見せ、ある時は威圧的に押さえ込む・・・まぁ、それが大将の器という物なのかもしれませんが・・・。

そんな感じで、頼朝はあっと言う間に、関東一円の東国の武士たちを従える棟梁となっていくのです。

かねてから、父・義朝の館跡でもあり、ゆかりの地でもあった鎌倉に居所を定めるよう進言していた千葉常胤の言葉を聞いて、頼朝は鎌倉を自分の本拠地とする事を決意しました。

Yoritomoそして、石橋山の敗戦からわずか1ヶ月余りしかたたない治承四年(1180年)10月6日堂々鎌倉入りした頼朝の軍勢は、すでに5万の大軍になっていました。

翌日、伊豆からやって来た北条政子(ほうじょうまさこ)も迎え入れられ、晴れてふたりは正式な夫婦となりました。

父の反対を押し切って、かけおち同然で頼朝の胸に飛び込んだ彼女にとって(7月11日の前半部分参照>>)、その喜びは例えようもない物だったでしょうね。

しかし、やっと本拠地に落ち着いた頼朝でしたが、ゆっくりしている暇はありません。

そう、石橋山の出来事は、すぐに京の都へ伝えられ、西から、平家の轡(くつわ)の音が徐々に迫りつつあるのですが・・・

続きのお話は、富士川の合戦のあった10月20日に>>させていただく事にします。
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2006年10月 5日 (木)

南北朝の合一

 

元中九年・明徳三年(1392年)10月5日、足利義満の時代に、南朝・後亀山天皇が北朝・後小松天皇に譲位する形で、ようやく南北朝が合一しました。

・・・・・・・・・・

最初は仲良く、執権・北条氏を倒して、鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐天皇足利尊氏でしたが、後醍醐天皇の建武の新政の失敗(6月6日参照>>)からふたりの関係に亀裂がはいり、尊氏は京都で北朝を、後醍醐天皇は吉野で南朝(12月21日参照>>)、それぞれの天皇、それぞれの元号を主張した南北朝時代に突入します。

後醍醐天皇の大いなる味方・楠木正成湊川の戦い(5月25日参照>>)で敗死しても、新田義貞越前で倒れても(7月2日参照>>)ひとつの国にふたりの天皇がいるオカシナ形は、57年間に渡って続きました。

しかし、その57年間も、最初のうちこそ互角に戦っていたものの、そのほとんどは圧倒的に北朝=室町幕府の優勢で、政治の中心は京都にありました。

・・・にも、かかわらず、なぜ、57年間も北朝は南朝を倒せなかったのか?

それは、三種の神器を南朝の後亀山天皇側が持っていたからです。

三種の神器とは、神代の昔から天皇家に伝わる八咫の鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の3つの宝物です。

若いかたには、ピンと来ないかもしれませんが、この三種の神器はとても重要で、これを持っている事が正統な天皇家の証とされています。

現在でも、第二次世界大戦で無条件降伏した際、昭和天皇が三種の神器を相手側に奪われないかと心配されたという事がありましたし、現在の天皇陛下も即位される時、昭和天皇からの継承の儀式を行って即位されています。

昨年の大河ドラマでも、平家とともに海に身を投げた安徳天皇から三種の神器を奪えなかった・・・と義経さんが悔しがるシーンがありました。

ですから、南朝が三種の神器を持っている以上、本来はそちらが正統な天皇家となるわけで、いくら北朝がとてつもない強さであっても、一気に南朝をぶっ潰してしまう、という強硬手段になかなか出れなかったわけです。

しかし、やはり57年経って、圧倒的強さの北朝に、南朝はもはや虫の息。

北朝の出した講和条件を呑んで命をつなぐしかてだてがありませんでした。

そして、元中九年明徳三年(1392年)10月5日に南朝後亀山天皇から、北朝後小松天皇に、三種の神器と皇位を譲る・・・という形で講和が成立し、南北朝の時代は終わりました。

室町幕府はもう三代将軍・足利義満の時代でした。

その講和条件とは、
① 三種の神器を北朝・後小松天皇に渡し、南朝・後亀山
   天皇は譲位する。
② 以後、天皇は南朝・北朝が交互に立つ。
③ 皇室領のうち、国衙領は南朝派の物、長講堂陵は北朝
   派の所領とする。

という物でした。

しかし、結局はそれらの条件は一つも守られませんでした。

皇位継承は、三種の神器だけが後小松天皇のもとに渡され、譲位の儀式などはいっさい行われる事もなく、所領に関しても、すでに幕府が全面的に仕切っていて南朝側の入る余地もなく、元号も北朝の使っていた明徳がそのまま使用され、南朝の元中は消されました。

次の天皇さえも、北朝の次に南朝に来ることはなく、後小松天皇の息子が継承してしまいました。

もちろん、元南朝側は不満を抱いて、後亀山天皇は京都を出奔(4月12日参照>>)武士たちも各地で反乱を起こしたりもしますが、もはや室町幕府が揺るぐ事はなかったのです。

いつの世も講和条件というのは、対等の間でこそ成り立つ物で、ここまで力の差が出ていれば、無条件降伏も同じ事なんでしょうかね。
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2006年10月 4日 (水)

薬師寺、伽藍完成

 

文武天皇二年(698年)10月4日、薬師寺の伽藍が完成しました。

・・・・・・・・・・

Dscn2157a 680年に第40代・天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)の病気全快を願って薬師寺建立を発願。

天武天皇が亡くなった後、皇后の第41代・持統天皇がその遺志を継いで、697年に本尊を開眼、そして天武・持統帝の孫である第42代・文武天皇の時代に建物が完成しました。

持統天皇は、どのような思いで、この薬師寺の完成を見たのでしょうか・・・。

父・天智天皇の亡き後、夫・大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)と、天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ=弘文天皇)との後継者争いで始まった壬申の乱(10月19日参照>>)

その乱に勝利して(7月22日参照>>)夫は、天武天皇として即位(2月25日参照>>)しますが、今度はその天武天皇亡き後の後継者争いで、自分の息子・草壁皇子(くさかべのみこ)のためにライバル・大津皇子(おおつのみこ)を消し去った10月3日参照>>)ものの、息子は病死・・・

かわいい孫に皇位を譲るため、孫が大きくなるまで、彼女は、自らが即位して持統天皇になりました。

そして、やっと孫が文武天皇として即位して、夫の願いであった薬師寺が完成したこの時、偉大な母は人生をふりかえって物思いにふけったにちがいありません。

なぜなら、この薬師寺にある『聖観音菩薩像』(現在も東院堂に安置されています)

その姿はたいへんすがすがしく、初々しく、年若き青年の姿をしているのですが、この像のモデルがあの大津皇子だと言われています。

もし、本当にこの像が大津皇子の姿で、持統天皇の発願で造られた物だとしたら、冷酷なまでの政治を行った女帝とは別の、隠された女としての母としての一面が、この像の美しさに秘められている気がするのです(12月22日参照>>)

そして薬師寺は、その後、平城京に都が遷る時(710年)、同時に飛鳥の地から現在の西の京に移されました。

現在は、大仏さんのある東大寺を中心に見てしまうので、この薬師寺のある西の京は、奈良の郊外にあるように思ってしまいますが、平城京の時代は、平城宮を中心に東に東大寺、西に西大寺が位置し、南は大和郡山のあたりまでありましたから、当時このあたりは、大都会の真ん中といった所でしょう。

Dscn2182_1奈良のお寺めぐりをしていると、「あぁ、ここは変らないなぁ~」と、懐かしい風景に感動する事がしばしばありますが、この薬師寺は久しぶりに訪れると、その変貌ぶりには、驚いてしまします。(もちろん、悪い意味ではありません) 

私が最初に薬師寺を訪れた時には、建物は東塔講堂だけだったと思います。

西塔は礎石のみが残っていて、その礎石の穴に水がたまって、東塔の法輪がその水面に写る風景に感動を覚えたものでした。

Dscn0001 それから金堂が建ち、西塔も復元されて、最近訪れたときは玄奘三蔵院伽藍という、ものすごく美しい建物が建っていて、またまた新たな感動をしてしまいました。

 

 

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2006年10月 3日 (火)

武田信玄、上洛!

 

元亀三年(1572年)10月3日、武田信玄が甲斐を出発しました

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)に、将軍・足利義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)して以来、しばらくは蜜月を過ごした織田信長と義昭でしたが、しだいに、お飾りの将軍より、実力のある信長の方に、様々な実権が握られて行くわけで・・・

当然、義昭はおもしろくありません。

自分が、将軍としてもう一度権力を握りたかったわけですから・・・。

それに・・・
義昭以外にも、並み居る戦国武将たちが、このままやすやすと信長が天下統一をするのを黙ってみているはずがありません。

越前の朝倉、近江の浅井比叡山延暦寺三好三人衆、そして、石山本願寺(9月12日参照>>)、さらに、ここに武田信玄も加わって、「信長に、これ以上好きにはさせない!」とばかりに包囲網を張り巡らします。

しかし、もう信長の勢いはとまりません。

浅井・朝倉を姉川の合戦(6月28日参照>>)で破り、三好三人衆を攻め、石山本願寺とも戦い(8月2日参照>>)を始めました。

比叡山延暦寺も、合戦で負けた浅井・朝倉の落ち武者をかくまう形で参戦し、怒った信長は、比叡山を焼き討ち(9月12日参照>>)してしまいます。

そんな時、いよいよ武田信玄が動きだします。

宿敵・上杉謙信との戦い(9月10日参照>>)が、一段落ついて、とりあえず越後に封じ込め、ついに・・・と言うか、やっと・・・と言うか、上洛を決意?ます。(12月12日参照>>)

もう、すでに信玄は五十代・・・京を制する者は、天下を制す・・・この機会を逃せば、天下も逃してしまうかもしれません。

そして、元亀三年(1572年)10月3日・・・4万5千の軍勢を従えて、甲斐を出発しました。

謙信のてまえ、北陸道は通らず、東海道を西に向かいます。

そうすると、まず行く手を阻むのは、信長と同盟関係にある徳川家康浜松城です。

ほどなく、浜松城にいる家康のもとにも、『信玄上洛』の知らせが届きます。

「味方は1万足らず、まともに武田軍と戦っては勝ち目がない」と思った家康は、『籠城し信長の援軍を待つ』という作戦に出ます。

しかし、その頃の家康は、信玄にとって痛くも痒くもない、眼中にもない存在だったようで・・・

信玄は、「城を攻めれば間単に勝てるだろうが、時間が惜しい・・・一刻も早く上洛し、来たるべき信長との戦いに力をそそぎたい」と、思っていたようです。

信玄は、家康を無視して、浜松城を素通りして、そのまま西へ向かいました。

これは、家康を籠城させないで、城から出て戦わせるために、わざと素通りした信玄の作戦だったとも言われていますが、もし本当にそういう作戦だったとしたら・・・家康はものの見事にひっかかってしまいます。

この頃の家康は、まだ青かったんですね。

のちのち秀吉と対峙する頃の家康からは想像もできない言葉がでます。

「自分の城下を素通りして行くのを、見過ごすなんて武士の恥!末代まで腰抜けと言われる。城を出て戦を仕掛けるぞ~!」

重臣たちは、はやる家康をなんとか抑えようとしますが、信玄に無視された家康のプライドが許しません。

そして、家康は無謀を承知で、信玄に戦いを挑みます。

これが、『三方ヶ原の戦い』(12月22日参照>>)と言われている戦いです。
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2006年10月 2日 (月)

安政の大地震でなまず絵が売れる

 

安政二年(1855年)10月2日、午後10時頃、開国して間もない江戸の町を、マグニチュード6.9の直下型地震が襲いました。

・・・・・・・・・・

震源地は、北緯35.8度、東経139.8度、亀戸から市川16キロ四方で、被害は半径20キロに及んだそうです。

1万4千戸の家屋が倒壊し、死者は4~5000人、翌朝の明け方まで三十数回余震が続いたと言います。

江戸中心部の被害は大きく、江戸城もかなり破壊され、続いて起こった火事のために江戸市街の大半が焼失しました。

しかも、先ほどの倒壊家屋は、あくまで町屋の数で、武家屋敷は含まれていないらしく、実際の被害はもっと大きかったと思われます。

日本橋茅場(かやば)に住んでいた佐久間長敬(おさひろ)という人は、
「ちょうど、布団に入ったところで、寝巻きのまま布団ごと3尺余り以上も持ち上げられた。
戸も障子も襖もガラガラとはずれ、壁は落ちてくる・・・」

と、日記に書いています。

また、水戸藩士で儒者として有名な藤田東湖(とうこ)は、小石川後楽園の水戸藩邸で、母親を抱きかかえ、庭に放り投げて助けた後、自分も逃げようとしましたが一瞬遅く、落ちてきた建物の梁の下敷きとなって亡くなっています(2009年10月2日参照>>)

Namazue1日本には、古くから地震は地中にいる大なまずが暴れて起こる物で、そのなまずを鹿島神社(茨城県)要石(かなめいし)で押さえつけようとする信仰がありました。

この時も、「地震の前になまずが騒いだ」という記録も残っていて、なまずを主人公にした瓦版や錦絵・絵図などが売り出され、地震のお守りとして「なまず絵」が、大いに売れたそうです。

また、江戸の被害の状況も瓦版で全国に伝えられました。

『災害は、忘れた頃にやってくる』
いつの時代も心がけておきたいものです。
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2006年10月 1日 (日)

石田三成、斬首!

 

慶長五年(1600年)10月1日、先の関ヶ原の戦いで敗者となり、その後、捕らえられた田三成ら三人の処刑が行われました。

・・・・・・・・・

先日の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)の後、逃走し、伊吹山で捕らえられた西軍の石田三成(9月21日参照>>)小西行長(9月19日参照>>)安国寺恵瓊(えけい)(9月23日参照>>)の三人。

小西行長は、熱心なキリシタンだったので、キリスト教の戒律を守り、自殺することができずに捕まりましたが、石田三成はなぜ、「もはや、これまで!」と、戦国の敗者のならいとも言うべき自害をしなかったのでしょうか?

それは、最後まであきらめない!・・・という彼のポリシー
打倒・家康への執念といった物だったのです。

彼を京都まで護送した本多正純が、その道中に、「合戦に敗れたからには、いさぎよく自害すればいいものを・・・」と、バカにして言ったところ、三成は「その昔、源頼朝公は、石橋山の合戦(8月28日参照>>)に敗れながらも命を残して、後に源氏の世を開いた。天下に号令せんとする者、これが心がけ」と、逆に一喝されたそうです。

そして、慶長五年(1600年)10月1日のこの日も・・・彼は京の町を車に乗せられ引き回されるのですが、その時・・・。

途中でのどが渇いた三成は、警固の侍に、「湯が欲しい」と、申し出ますが、あいにく近くに湯がなく、たまたまその侍が持っていた干し柿をすすめられました。

すると彼は「干し柿は痰の毒なので、辞退する」と言って口にしなかったのです。

警固の侍が「もうすぐ処刑されるのに、痰の毒などと、命を惜しむ必要もないだろう」と笑うと、「まことの勇士とは、最後の最後まで命を大切にするものだ!」と、またしても一喝されたと言います。

その後、三人は六条河原の処刑場へ運ばれます。

三成らの処刑を見ようと、黒山のように群集が集まっている中、三人は首をはねられ、その首は三条大橋にさらされました。

武士の美学からすると、三成の一連の行動は恥ずべき事なのかも知れませんが、私個人的には、最後の最後まであきらめない彼の考え方に賛成です。

そして、当時はバカにされたであろうその考えを、最後の最後までつらぬいた彼の死に様にも拍手を送りたい気持ちです。
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