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2006年10月11日 (水)

義経危機一髪!堀川夜討ち

 

文治元年(1185年)10月11日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌峻が、六条堀川の源義経の屋敷に夜討ちをかけました。

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壇ノ浦で平家を破り(3月24日参照>>)、意気揚々と兄・頼朝(よりとも)のいる鎌倉に戦勝報告に向かった源義経(みなもとのよしつね)でしたが、兄の許しを得ぬままに勝手に朝廷から冠位を授かった事がきっかけで怒りを買ってしまい、腰越で足止めされ鎌倉に迎え入れられる事はありませんでした(5月24日参照>>)

しかたなく京都に戻る義経でしたが、その時「関東に怨みのある者は我について来い!」と言ったとか言わなかったとか・・・。

とりあえず京都に帰った義経は、伊予守(いよのかみ)に任ぜられますが、次は叔父・行家(ゆきいえ)と組んで、「鎌倉に反旗をひるがえすのでは?」・・・などという噂が絶えませんでした。

とうとう、頼朝は義経を討つ事を決めます。

その役目を命じられたのが、土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)でした。

昌峻はいったんは、「同じ御一門を滅ぼせとの仰せは、お受けいたしかねます」と断りますが、逆に頼朝に「それは、九郎(義経)の味方やと見てもええんやな?」と強い口調で一喝され、結局引き受けてしまいました。

『頼朝の名代で熊野詣に行く』との名目で、昌峻ら一行が京都に入ったのが、文治元年(1185年)10月11日・・・・四条河原を過ぎ、東洞院通りを南へ向かい、義経の屋敷近くに宿をとります。

ちょうどその時、三条京極に住む愛しい彼女のもとへ出かけようとしていた義経の家来の江田源三弘基(えだのげんぞうひろもと)が、あきらかに熊野詣とわかる装束の一行の中に、顔見知りの昌峻がいるのを見つけました

不審に思った源三は、一行の宿をつきとめ、あわてて主君・義経のもとに報告します。

義経は、もしや?と疑いますが、とりあえずは
「どこかの家臣が鎌倉に入った時は、まず頼朝に挨拶をするのが礼儀なように、京に入った武将は、まず義経に挨拶するのが筋とちゃうん?」
という事を昌峻に告げ、挨拶に来るようにと、源三を使いに出します。

ところが、昌峻はとにかく熊野詣でを強調し、
「もう、夜中やから・・・明日、挨拶に行きまっさかいに・・・」
と、なんだかんだ理由をつけてやって来ようとはしません。

子供の使いのように、昌峻に言いくるめられて帰ってきた源三は、義経にこっぴどく叱られてしまうのですが、義経は、律儀な昌峻が挨拶に来ない・・・という事実に直面して、これは、頼朝の命で自分を討ちにきたのでは?という疑いを、より強く持つのです。

その頃になると、それぞれ六条の彼女の所に行っていた武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)片岡八郎、そしてこれまたそれぞれ室町に住む彼女の所へ行っていた伊勢三郎佐藤忠信といった主要メンバーも、騒ぎを聞きつけて義経の屋敷に集まって来ていました・・・ってみんな彼女のトコに行っとるんかい!(まっ、成人男性としては、しかたないか)

それで、弁慶が代表で昌峻の宿所に乗り込み
「明日やなんて、許さんゾ!俺と一緒に来んかい!」
と無理やり腕を引っ張って、昌峻を義経の屋敷に連れて行きます。

昌峻は、ここでバレてはいっかんの終わり、とばかりに必死で弁明します。

あくまで、熊野詣である事を主張し、
「そこまでお疑いなら・・・と起請文を差し上げましょう」
と、持っていた熊野の牛王の誓紙・7枚『この度の上洛は熊野詣のためで、討っ手としてではない』と書いて誓いをたてます。

そして、三枚は八幡宮に、一枚は熊野に収める事にして、残りの三枚をその場で焼いて灰を飲み込みました。

この、昌峻が起請文に誓った事で義経は彼を信用するのですが・・・「えっ?こんな事で?」って思ってしまいますが、当時の人々の神仏の罰への恐れという物は現代人の私たちとは比較にならない物で、もし、誓いを破れば必ず天罰が下るという事で、めったに書かれる物ではなかったのです。

それは、なるべく早く事を起こして、神仏に誓いが達しないうちに夜討ちを終わらせようと、宿所に帰ってすぐさま支度をして、大急ぎで義経の屋敷に夜討ちをかけに行く・・・という昌峻の行動からも読み取れます。

そうとは知らず、すっかり信用してしまった義経。

「気をゆるしては、いけません」という家来たちを、皆帰して、自分は大酒を飲んで泥酔して眠ってしまいました。

・・・てゆーか、義経にとっては、頼朝との絶縁状態がかなりショックだったようで、ちょっとは疑ってはいるものの疑うとその事がまた腹立たしい・・・といった具合で、要するにヤケ酒あおって寝ちゃった・・・て感じですかねぇ~。

その義経の醜態を、そばで見ていたご存知・・・静御前

どうにも昌峻が信用できない彼女は、侍女に「昌峻の宿所の様子を見て来てくれ」と頼みます。

ところが、その侍女は帰ってきませんでした。

昌峻の家来に見つかって斬られてしまっていたのです。

侍女が帰って来ない・・・と静か気を揉んでいると、どどお~と、鬨(とき)の声があがります。

静はあわてて義経を起こしますが、泥酔状態の義経は目覚めません。

ふと、かたわらにあった鎧・兜を手に取り、義経に投げつけ
「オラ!夜討ちや!起きんかい!」と言った・・・
かどうかはともかく、めっちゃ荒っぽい起こし方で、やっと義経は目を覚まします。

「土佐めか・・・」すくっと立ち上がって疑いが現実になった事を確信する義経ですが、家来たちを皆帰してしまい残っているのは、下男の喜三太(きさんた)ひとり。

あとは、女たちばかりです。

義経から、自分が支度をしている間、なんとか敵を防ぐように命じられた喜三太は、スッスッ~と屋根に昇り、屋根から押しよせる敵めがけて矢を射かけます。

下男とは言え、喜三太はかなりの弓の名手。

先頭の何人かを討ち取ったところで、昌峻が屋根の上を見上げて名乗りはじめました。

「今夜の御大将は誰ぞ?我は鈴木党・土佐坊昌峻なり。鎌倉殿の代官としてまかり越した。名乗られい」

しかし、喜三太は下男・・・なので、名乗りを知りません。

「我は、名も無き下郎なれど、心剛き殿に認められ、今夜の先駆けを承った~」と、一世一代の名乗りをあげます。

なんだ、下郎なのか・・・と、昌峻らがバカにしていると、そこへ、はなから胸騒ぎを覚えて寝つけないでいた弁慶が駆けつけます。

そのスキに、けっこう『キレ者』の喜三太は、屋根の上から
「夜討ちや~!後家来衆はおられんか~」
と、真夜中の京じゅうに響くような大声で叫びます。

その声を聞きつけた家来たちが次々と馳せ参じ、見事な活躍・・・昌峻らは、みるみる崩れ、散り散りに敗走していきました。

ただ、最初に義経に叱られた源三。

彼は、この戦いで敵の首を二つ取りますが、反対に矢を受けてしまい、駆け寄った義経の腕の中で息をひきとりました。

鞍馬山に逃げ込んだ土佐坊昌峻はやがて捕らえられ、息子とともに六条河原で斬首されます。

義経は、これによって、決定的となった兄・頼朝との絶縁をひしひしと感じた事でしょう。

以上、本日は『義経記』に沿ってお話させていただきました。

Dscn1957 鴨川

このお話の続きは11月3日:義経の都落ちへ→

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