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2006年10月10日 (火)

真田幸村の必勝作戦!

 

慶長十九年(1614年)10月10日、真田幸村が大坂城に入城しました・・・って、昨日九度山を脱出したんですから(10月9日参照>>)、そりゃ、着くだろう・・・って事なんですが、実は、この後に行われたであろう大坂城内での軍儀の日や真田丸の構築に着手した日付がわからない(私が知らないだけかもしれませんが・・・)ので、今日はそれを書きたくて、昨日の続きという形で書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

明日の10月11日には、徳川家康駿府を出陣していますので、おそらくは今日10月10日に幸村が大坂城に入ってまもなく軍儀が行われたものと思われます。

一説には真田幸村は、『黄金2百枚、銀3百貫+五十万石の大名』という破格の待遇で大坂城に迎え入れられたと言われていますが、とにかく豊臣秀頼には、父・秀吉の残してくれた遺産はあるが合戦をする武将がいない・・・という状況だったと言われています(あくまで定説では)

これには、豊臣方もおおいに落胆したようです。

「秀頼が家康に宣戦布告すれば、豊臣恩顧の武将たちが大坂城に駆けつけて来るに違いない」と思っていたのに、蓋を開けてみれば、集まったのは、ほとんどが金で雇われた浪人たちだったとか・・・

長宗我部盛親毛利勝水明石全登後藤基次仙石秀範など、大名クラスの武将がいるものの、ほとんどが現在は浪人・・・実質的に当時大坂城を仕切っていた大野治長は、実際の合戦となればどれほどの力量があったものか・・・

本当なら、もう22歳になっている秀頼が総大将となって腕をふるうところですが、実戦経験はゼロのうえ、それまで貴族のような生活をしていたため、とてもまかせられるものでは無かったという見方もあります。

見かねた秀頼の母・淀殿が自ら武装して軍儀に口出ししますが、そんなのはむしろ邪魔なだけ、「こうなったら幸村ちゃんたちにすべてやらせてあげてよ!」って私なんか思ってしまうんですが、そうはいかないのです。

この時の幸村は、金で雇われた浪人のグループなので、大名扱いをされてはいなかったのです。

軍儀の席での幸村の提案した作戦は、「家康隊が来る前に、自分と毛利を先鋒に秀頼自らが出陣し、その間に後藤が伏見城を落とし、宇治・瀬田で合流、そこで西上して来る徳川軍を迎え討つ」というものでした。

後藤基次もそれに賛成し、「自分と真田に2万の兵を預けてくれ」と訴えますが、大野治長が籠城を主張。

治長だけに限らず、豊臣方にとって、この大坂城は難攻不落の名城という確固たる自信があったのかも知れません。

たしかに、ここは、石山本願寺の時代から、あの信長でさえ攻めあぐねた天然の要害・・・『三十万の兵に囲まれても城は落ちない』と言われていました。

結局、幸村と後藤の意見は採用されず、軍儀の結果、籠城作戦をとる事になりました。

Oosakazyoubl 軍儀で籠城と決まったからには、それに従わなければなりません。
幸村は考えます。

「自分ならこの城をどう攻めるだろうか?」と・・・。

「西は海、北は淀川、東は平野川、南は上町台地、天然の要害・難攻不落の大坂城を攻めるとしたら、この南側しかありえないとう考えた幸村は、大坂城の南に出城を構築します。

三方向に空堀をめぐらし、約2mの土塁の上に一重の塀と三重の柵をめぐらした出丸には、ちゃんと櫓も築かれていたそうです。

これが真田丸と呼ばれるものです。

そして、この真田丸の最大の『売り』は、側面から敵を攻撃できる事。

平城で、南側からしか攻撃できないとしたら、防ぐほうも正面から南に向いて防ぐしかてだではありません。

しかし、ここに出城あれば、城の正面に向かって攻撃する敵に横から矢や鉄砲を仕掛けられます。

幸村の作戦はみごと的中!

徳川軍はこの真田丸におおいに悩まされる事になるのですが・・・そのお話は、真田丸の攻防があった12月4日のページへどうぞ>>

・・・とその前に、大坂冬の陣では、籠城戦だけでなく野戦もありました。

続きのお話は11月29日の【大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】へどうぞ>>
 

Dscn1462 真田丸の跡とされる大坂・真田山公園にある三光神社。
この段差がわずかに真田丸をしのばせます。

HPで、幸村最期の地と真田山のある上町台地を散歩した記事upしてます。
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「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの【大坂の陣の年表】>>のリンクからまとめてどうぞ!
 

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コメント

茶々さん、こんばんは。

 最前線に突き出た(!)真田丸、彼の並々ならぬ意気込みが感じられる~まるでドラマのような展開ですね。主役は揃い、いよいよ冬の陣ですね。

 ところで、秀頼の側近である大野治長も意外に神秘的な人で、秀頼の実父ではないか~ともささやかれる人物ですね。晩年、秀吉はあんな状態でしたから仕方ないのかも知れません。
他には石田三成と淀君の子(?)とかいろんな説もありましたが、いずれにしても、家康の豊臣家に対する恐ろしいまでの「つぶし」が始まってしまいますね。

 しかし現在から見ると、戦国の世を終わらせ太平の世に~と、家康なりの先見性ある戦略だったのでしょう。

投稿: ルーシー | 2006年10月11日 (水) 00時01分

ルーシーさん、こんばんは~。

そうですね。
秀吉亡き後に家康と結婚するはずだったのを、治長が阻止したみたいな話もありますし、秀吉が背が小さかったのに対し治長は大柄で、秀頼も身長190cm・体重130kgの巨漢だったって話もありますね。

おねさんはもちろん、あれだけの側室にひとりも子供ができないのに、淀君だけ2回も出産してますから、皆がアレコレ想像するのは、しかたないですね~。

それから、京都や奈良を歩くとつくづく感じますが、徳川家の豊臣つぶしは人だけでなく、建物も徹底的に潰してしまいますからね~。

まぁ、それだけやらないと、「徳川家=将軍家」というのが維持できなかったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2006年10月11日 (水) 00時37分

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