« 源頼朝、鎌倉で再起 | トップページ | 今日は寒露、二十四節季のお話 »

2006年10月 7日 (土)

安政の大獄~井伊直弼の本心

 

安政六年(1859年)10月7日、安政の大獄で、越前藩士・橋本左内、儒学者・頼三樹三郎死罪になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)は、日本という国を開国か攘夷(外国を追い出す)かで真っ二つに分けてしまいました

ペリーが突きつけた『日米和親条約』(下田と函館を開港し、アメリカ船の燃料補給を許可する)

そして、今度はその和親条約に基づいてやってきたハリスの突きつけた『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)

賛成だ!反対だ!の意見が渦巻く中、大老・井伊直弼(なおすけ)天皇の許可なしに『日米修好通商条約』に調印します

そして、その事に反対・反発していた攘夷派を、死刑にしたり投獄したりと、徹底的に武力で弾圧してしまうのです。

これが『安政の大獄』と、言われるものです。

この事によって、直弼は大悪人と、呼ばれる事になり、最終的には桜田門外の変で暗殺されてしまう事になるわけですが(3月3日参照>>)・・・当然、そこには、直弼さんなりのの言い分、考えがあってやった事なのです。

もともと条約調印の際の江戸城の会議で、彼はむしろ「天皇の許しを得てから調印すべき」という意見を述べているのです。

しかし、その場にいた人間で彼の意見に賛成したのはたった一人だけ。

その他大勢の強硬論者の「早くしなければ・・・天皇の返事を待ってられない!」という意見が会議の場で通ってしまい、彼はその幕府の決定を実行しただけなのです。

それでもまだ彼は、個人的に親しい交渉役の者に、こっそりと「許しが出るかもしてないから交渉をできるだけ延ばせ」と指示しています。

そして、彼はその時「天皇の許しを得ずに調印した重罪の責任は、すべて自分が一人で受ける決心である」という自分の心情も書き残しています。

私は、その重罪の責任が『安政の大獄』ではないのか?って思うのです。

それは『罪を犯した者が刑に服す』という責任のとり方ではなく、いわゆる『尻をぬぐう』という責任のとり方です。

やり方が正しかったとは言えませんが、とにかく「二つに分裂した国家をなんとか一つにまとめたい」それが、彼の本心ではなかったか?という事。

彼が本当に心配したのは、国内で争っている間に、日本も中国のように欧米諸国の植民地化のターゲットになってしまう事。

とりあえず、条約に調印しておいて、アメリカの武力侵攻を避け、国内を一つにして、対外国の軍備を整えたい。

急を要する現段階では、武力弾圧をしてでも一つにまとめあげようとした彼なりの愛国心のなせる苦渋の決断ではなかったか、と思います。

井伊直弼が『大悪人』との印象を受ける原因の一つとして、勤皇の志士のリーダー的存在で、今でも人気バツグンの幕末のヒーローの一人・吉田松陰を死刑にした事が、かなり影響していると思われますが、それは、松陰自らが、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画と、仲間・梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)の奪還計画を正直に自白してしまったためで、そのようなテロ行為の計画を聞いてしまった以上、幕府の長として何もしないでは、しめしがつかないわけで、それは、それ相当の処分を下すのは、ある意味、当然の事ではなかったか、と思うのですが・・・。

ちょっと、今日は井伊直弼さん寄りの話になってしまいましたが、なんせ、敵役になる事が多い人なので、たまには、良いかと・・・。

できれば、直弼さんにもう少し時間を与えてあげて、武力弾圧ではなく、別の方法で日本を一つにまとめる事をじっくりと考えさせてあげたかったですね~。

井伊直弼を影で支えた女スパイ=村山たかのお話は2009年の10月7日へどうぞ>>
橋本左内については2012年の10月7日のページでどうぞ>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】で応援を・・・
このブログ内での人気ページとしてランキングされます
(゚ー゚)
あなたの応援で元気でます!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 源頼朝、鎌倉で再起 | トップページ | 今日は寒露、二十四節季のお話 »

幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

はぁ~・・・「安政の大獄」=直弼さんが反対派を弾圧した、としか習わないしそうなのね、と思ってたけど、裏にはそういう事情が・・・きっとあったと思います!ますます感動ドラマになりそうじゃないですか。茶々さん脚本の歴史ドラマはきっと面白いはず!!日本の未来のかじ取りをした男と、陰で支えた才色兼備の恋人・彼女は女スパイ。いいですよね。直弼さんをもっと知りたくなりました。

投稿: Hiromin | 2009年10月 7日 (水) 21時36分

Hirominさん、こちらも読んでくださったのですね・・・ありがとうございますm(_ _)m

まだまだ、いろいろとあったと思います。
実際の直弼公は、ドラマより感動できるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年10月 8日 (木) 00時01分

2013年大河ドラマに関してある小話を思い出しました。彦根市で現在、大河ドラマ第1作目の「花の生涯」のリメイク版を、大河放送50周年の13年作品にしようと言う運動があるようです。タイトルの問題もあり丸々リメイクは難しいのですが、仮に13年が「リメイク版・花の生涯」になると、2004~2013年の10年間で幕末作品が4つになるので、採用される可能性は低いと思います。
ただ、映画「桜田門外ノ変」が秋に公開されます。

投稿: えびすこ | 2010年8月13日 (金) 12時49分

えびすこさん、こんにちは~

ドラマにするなら…
たぶん、井伊直弼が、「そんなに人気者ではない」ってところが一番の問題なのでは?

幕末は人気者が多いですからね~

投稿: 茶々 | 2010年8月13日 (金) 14時51分

 こんばんは 、茶々さま

井伊直弼も立場的に苦しんだと思いますよ。

が、梅田雲浜や頼三樹三郎、吉田松陰、橋本左内の死罪や獄死は いささかやりすぎたと思いますdespair

幕僚としては仕事はできる人で優秀な人材でしたが...強引な安政の大獄は 悲しいことに井伊の寿命をちぢめましたng

もし、処分するにしても 温情ある 刑に軽減にして その人の立場を考慮して 政治の場にアドバイザーなり 藩での指導係に なんらかの任務に就かせていたら こうはならなかったのでは ありませんかthink

投稿: zebra | 2010年10月 2日 (土) 01時09分

zebraさん、こんにちは~

そうですね~
井伊さんのマジメさ、責任感の強さがアダとなった感がありますね。

でも、一昨年の「篤姫」では、ちょっとイイ人に描かれていてよかったです。

投稿: 茶々 | 2010年10月 2日 (土) 11時22分

茶々さん、こんばんは!
実は井伊直弼は条約調印にはまったく消極的な立場にいたそうですよ?松平忠固に押し負かされたかたちの直弼は、家臣からその「独断」に対してそう言ったところには日本の開国を断行した自負は微塵もない。対外問題での政敵への敗北にうちのめされ、真剣に辞職を考えるまでになっていた。だから堀田と忠固の罷免を断行した。直弼ら彦根藩サイドは条約締結それ自体はともかく、西洋人という存在と無勅許というプロセスには明らかに快く思ってなかったことは確かだそうですw
昭和堂『幕末維新人物新論』より。
けっこう私には衝撃的な内容でしたw

投稿: 暗離音渡 | 2010年10月 7日 (木) 23時00分

暗離音渡さん、こんばんは~

本文にも書かせていただきました通り、江戸城の会議において、直弼は条約調印に反対していますが、彼に賛同してくれたのは一人だけ…やむなく、幕府の決定に従ったのだと思います。

投稿: 茶々 | 2010年10月 8日 (金) 01時14分

安政の大獄が攘夷派に対する弾圧であるならば、なぜ幕臣の岩瀬忠震を処罰したのでしょうか。岩瀬忠震は開国派のリーダーで攘夷派の対極にある人です。やはり、安政の大獄は井伊直弼の権力闘争であったと見るべきでしょう。

投稿: | 2011年7月12日 (火) 18時31分

おっしゃる通り、この時期の政情不安は開国か攘夷かという問題とともに、将軍の後継者問題もありました。

岩瀬忠震の場合は、ソチラで井伊直弼と対立したという事ではないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2011年7月13日 (水) 01時57分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/3721148

この記事へのトラックバック一覧です: 安政の大獄~井伊直弼の本心:

« 源頼朝、鎌倉で再起 | トップページ | 今日は寒露、二十四節季のお話 »