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2006年10月25日 (水)

一揆か?聖戦か?島原の乱

 

寛永十四年(1637年)10月25日、天草四郎をリーダーとするキリスト教徒と、島原半島と天草の農民が結合した『島原の乱』が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・

『今から二十五年後に16歳の天童が現れるだろう。
その子は、習わないのに文字を書き、天のしるしをあらわす。
天は雲を焦がし、地の花は狂い咲き、国土は揺り動き、民家は焼け滅びる。
人々は首にクルス
(十字)をいただき、野山には白旗がなびき、神は万民を救うだろう』
慶長十九年(1614年)
マルコス神父の予言書・末鑑
(すえかがみ)

かつて、キリシタン大名・小西行長有馬氏の領地であった島原・天草は、特にキリシタンの多く住んでいる場所でした。

新しく島原の領主となった松倉氏は、江戸幕府のキリシタン禁止令を受けて、徹底的な弾圧を行い、多くの人が火あぶりにされたり、水責めにされたりしたと言います(11月16日参照>>)

しかも、過酷な税のとりたても行われていたとか・・・。

鎖国令が出され、海外貿易ができなくなった上に前年から続く凶作で、農民たちは納める年貢がないにもかかわらず、先程のような火あぶりや水責めが税の滞納者に対しても行われていたとされます。

死人にまで税金をかけられ農民たちは餓死寸前
どんどん追い込まれていきます。

一方で、ここにもう一つ不満を抱えた集団がいました。

それは、関ヶ原の合戦大坂冬の陣・夏の陣で負け、所領を没収された大名の下にいた浪人たちです。

ふたたび合戦でも起きれば、手柄をたてて再仕官するなどの道も開けますが、徳川幕府は3代将軍・家光の時代になり、確固たる基盤を作り太平の世となった今、それも望めません。

そんな時、関ヶ原で散った旧領主・小西行長(9月19日参照>>)の家臣だった浪人たちが目をつけたのが、最初に書いたマルコス神父(慶長十九年に、長崎からマカオへ追放された宣教師)の予言書・末鑑でした。

数人の旧・小西の浪人たちは、末鑑を持って島原や天草にマルコス神父の予言を宣伝してまわります。

実は、小西の浪人たちには、この遺言に出てくる天童に心当たりがあったのです。

それは、同じ小西の浪人で、大矢野に住む益田甚兵衛好次(よしつぐ)の子、益田四郎時貞、彼もキリシタンで洗礼名はジェロニモ、当時16歳でした。
(天草四郎は、地名を冠にした後世の呼び名です)

彼が起こした数々の奇跡は、後世の創作、あるいは小西の浪人たちの協力によるパフォーマンスだったとしても、端整な顔立ち、にじみ出る教養は、カリスマになるにふさわしい人物だったと言えるでしょう。

おりしも、ちょうどその頃、予言に合わせたような奇妙な現象が起こります。

秋だというのに桜が咲いたり、流星が空を飛んだり、朝夕の空がいつも以上に赤かったり・・・。

「天草に天の御子が現れた」
苦しみから抜け出したいと思っていた島原の農民たちは、この噂に救いを求め、またたく間に広がり、四郎のもとでキリシタンへ立ち帰る者が続出します。

そんな、寛永十四年(1637年)10月25日、島原領内でキリシタンに戻ったとして二人の農民を捕らえた代官が、仲間の農民たちによって殺される・・・という事件が発生します。

これをきっかけに農民たちは、途中の村々から武器を集め、仲間を募り、島原城へと攻めかかったのです。

「待ってました!」とばかりに、旧・小西の浪人たちは、四郎をリーダーにかつぎ上げ、島原領内の元・キリシタンの庄屋や有力農民を次々と説得し、一揆の拡大を狙います。

彼らの思惑通り、一揆には徳川政権下で浪人となった者たちが次々と参加しはじめ、一揆勢はどんどん増えていきます。

しかし、やはり相手は現役の武士。

一揆勢は島原城を落とす事ができず、しかたなく、島原半島南部にあった古城・原城を手直しして、ここを拠点として活動を続けます。

11月には、最初に発起した島原農民班と四郎率いる天草班が合流し、唐津藩が籠る富岡城を攻めますが、これも攻め落とす事ができず、その後、12月3日からは、撃って出る事をやめ、原城に籠城する作戦をとります。

一方、大騒動になっている島原藩は、再三お隣さんの熊本藩と佐賀藩に援軍を要請していましたが、両藩とも『武家諸法度』に、「幕府の許可なく領外へ兵を出してはならない」と書いてある事から、まったく動こうとしませんでした。

「これは、もう、島原藩だけにまかせてはおけない!」と、やっと重い腰をあげた幕府は、板倉重昌石谷貞清を中心とした一揆鎮圧軍を派遣するのですが・・・

この続きは、幕府が島原の乱鎮圧に板倉重昌らを派遣する11月9日のページでどうぞ>>

それにしても、16歳の少年に、これだけの集団をまとめる能力があったとは、とでも思えません。

やはり、天草四郎はあくまで広告塔・・・実際に統率を取っていたのは、旧・小西の家臣だったのでしょう。

今日のタイトルに『一揆か?聖戦か?』と書きましたが、本当はもう一つ、浪人の反乱が深くかかわっていると考えています。
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コメント

茶々さん、こんにちは。
風邪がまだ治らず困っています。今日は家で寝ています。茶々さんは如何ですか?
ちょうどこのころの欧州は三十年戦争の真っ最中、中東ではオスマン帝国とサバーヒー朝というトルコとイランの大戦争、中国では清と明の戦争です。
その中での島原の乱が世界の戦争と無縁でなかったのはオランダとスペインの動向を見ていますとそう思えます。
松倉、寺澤はある意味この大戦争での犠牲だったのではと思います。
欧州などでの戦乱が終わって江戸時代の安定が出来たのではと思います。
実はイランはイギリスの手を借りてホルムズ海峡などのペルシャ湾でのポルトガルの支配下を奪い返しました。鄭成功も日本人ですが台湾の奪還も日本の浪人の助けです。そういう意味で言いますと幕府がオランダの力を借りたとはいえ自分自身で解決したのはこの時代での奇跡と言えるでしょう。
風邪等で心身が悪いのでここで終わりにします。

投稿: non | 2016年10月25日 (火) 12時13分

nonさん、こんばんは~

幕府は「小さな出来事」にしときたかっただろうと思います。
お大事になさって下さい。

投稿: 茶々 | 2016年10月26日 (水) 03時59分

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