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2006年10月20日 (金)

富士川の合戦?

 

治承四年(1180年)10月20日、源頼朝を大将とする源氏と、平維盛を大将とする平家富士川の合戦?がありました。

を付けたのは、要するに戦ってもいないのに、合戦と呼べる物なのかどーなのか?という意味で付けました。

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石橋山の敗戦から立ち直り、鎌倉に本拠に定めて、晴れて北条政子と結婚もした源氏の大将・源頼朝でしたが、ゆっくりしてはいられませんでした。

頼朝が平家に反旗をひるがえした事はすでに京に伝わり、9月5日には頼朝追討の宣旨(天皇の言葉)が下され、平家の軍が東に向いてやって来る事が明らかだったからです。

頼朝は、鎌倉入りしてわずが10日後の10月16日に、平家の追討軍を迎え撃つべく、西に向かって出陣しました。

かたや、平家の頼朝追討軍の総大将に任命された平維盛(清盛の孫)。
いや、維盛だけではありません。

平家のほとんどは、事の重大さに気づいてはいなかったのです。

まして、この年、近畿地方はたいへんな飢饉に見舞われていて、鴨川が死体で見えなくなるほどの餓死者が出たと言われています。

軍備を整えるにしても、兵糧を集めるにしてもうまくいかず、兵士の訓練さえまともにできる状況ではありませんでした。

宣旨が下された後も、だらだらと準備に手間取り、維盛自身も「なんで俺が総大将・・・」と、気の進まない出陣でした。

重い腰をあげ、やっとこさ平家軍が富士川の西岸に着いた頃には、向こう岸には源氏の白旗が風をはらんでたなびいていました。

平家の軍勢は約5万。
東岸に集う源氏軍は約20万。

それでも、頼朝は気を許しません。

なぜなら、頼朝から見れば、未だ相模や伊豆が支配下になったとは言い難く、また、石橋山で頼朝を取り逃がした大庭景親らが追討軍に合流するであろうと考えていたからです。

しかし、こっちの平家はやる気のなさ100%。

「飢饉のさなか、東国に出陣しただけでも褒めてやってよ~」的な気持ちが軍全体に蔓延していました。

そうとは知らない源氏軍は、対岸に陣取った平家軍がなかなか攻めてこないので、その間せっせと、毎日何百本もの白旗を作って川べりに立て、見方の軍勢が徐々に増えているように見せかけました。

それを、遠目から観察する平家軍。

ますますやる気がなくなって、もはや戦意喪失度200%。

中には、支度をして逃げ出そうとするヤツまで出る始末。

侍大将の上総守忠清などは「大将がゆっくりしている間に、関東の名だたる武将は皆敵に回ってしまった・・・」と嘆きましたが、武勇で名を馳せた斉藤実盛は「合戦は数だけではない。将軍の軍略こそ重要なのだ」と、維盛に早く指揮を取るようにうながしますが、いっこうにラチがあきません。

やがて、頼朝は自分のほうから総攻撃をかける決意を固めます。

いよいよ、明日仕掛けるぞ~!という前の夜、頼朝の指揮により、各武将たちがそれぞれの部署に着き、戦闘の準備を整えます。

そのひとり、甲斐源氏・武田信義の一隊が、敵の背後に回ってやろうと闇にまぎれて川べりに近づくと・・・それに驚いた水鳥の大群がいっせいに飛び立ったのです。

数百羽の水鳥の羽音が、まるで夜襲の大軍があげる(とき)の声に聞こえ、急に眠りを妨げられた平家軍は「源氏の夜討ちだ~!」と上を下への大騒ぎ

兵士たちは、矢も弓もその場に置いて我先に逃げ出し、他人の馬に乗って逃げるヤツ、杭につないだままの馬に乗ってつんのめるヤツ、近在から呼び寄せた遊女をほったらかしにして裸のまま走るヤツ・・・。

総大将・平維盛以下5万の兵は、その夜のうちに一兵残らず姿を消してしまいました。

翌朝、そうとは知らない源氏軍は渡河作戦を決行しますが、いくら進んでも敵陣からは矢の1本も飛んでは来ません。

不思議に思って、兵士を偵察に向かわせたところ「皆、逃げました」と言う。

対岸に着けば、そこは何もかも、ちらかりっぱなしの無残な状態。

やがて、合流した武田勢の報告で、水鳥の羽音を聞いて逃げたのだと聞いて頼朝一同大笑い・・・というのが、伝えられている富士川の合戦なのですが・・・これでは、維盛さんがあまりにもかわいそう。

飢饉で準備が整わなかった・・・やる気がなかった・・・とは言え、いくらなんでもあの平家がここまで体たらく、というのは考えにくいですよね~。

おそらく鎌倉時代に、勝った源氏の武将たちによって、かなり脚色されてるんだと思います。

ただ、飢饉で準備が整わなかったのは本当でしょうし、軍勢の数も圧倒的に源氏が多かったのも事実でしょうから、どちらかと言うと『勝ち目のない戦はしなかった』というのが正解ではないでしょうか?

平家軍は、逃げたというより、一旦撤退したのだと思います。

平家にしてみれば、ここで合戦をして多くの兵を失うより、軍備を立て直して、再び頼朝追討をする気が充分あったでしょう。

ただ、翌年2月の平清盛の死によって、その予定が大いに狂ってしまったのではないでしょうか。

このお話の続きは11月26日・わずか半年の都・福原で→
 

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コメント

こんばんは!

物語って書いた人によって偏りが出てきますよね。両軍とも戦わずして終わった戦なんてあったんだぁとまた1つ勉強?になりましたヽ(^o^)丿

最後の2行、気になる書き方をしますねぇ(^^)

投稿: 見習い大工 | 2006年10月20日 (金) 19時13分

見習い大工さん、こんばんは~。

私も、単なる歴史好きで専門家ではないので明確な線引きがよくわからないのですが・・・軍備を整えて挙兵した時点で、刃を交えなくても、歴史学界では『合戦』と呼ぶのかな?って勝手に考えています。

先日書いた『川中島の戦い』でも、兵を出しただけの時も、合戦の数に入ってますからね。

あと清盛さんの死に関してはその日にまた、書かせていただくつもりです。

投稿: indoor-mama | 2006年10月20日 (金) 21時24分

indoor-mamaさん、こんにちは。

 早速、『太閤下水』の記事拝見しました。
とても詳細で勉強になりますね~当時あれほどしっかりと下水として石垣を構築するなんて、やはりその必要性と綿密なデータがあったのでしょうね。想像と違い、驚きました。

 また、大阪城の巨石として有名な京橋口の肥後石が大きさとして一番~と思っていましたが、桜門の巨石の方だったのですね。

 私も大阪城に行きたくなりました~と、遠い・・ううぅ~~~(笑)。

投稿: ルーシー | 2006年10月21日 (土) 14時51分

ルーシーさん、HPまで見に行って下さってありがとうございます。

さすがルーシーさん『京橋口』なんてマイナーな場所(大阪の人でもあまりご存知ないですよ)をよくご存知で・・・

あそこの肥後石は2位だそうです。
3位が蛸石の横にある振袖石で、すべて岡山の池田さんの寄進だそうですよ。

大名の皆さんも大変だったでしょうね。

投稿: indoor-mama | 2006年10月22日 (日) 00時57分

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