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2006年10月17日 (火)

江戸の上水・大坂の下水

 

明治二十年(1887年)、10月17日は、相模川から野毛山の貯水地へ水を引き、横浜の市街地へ給水するという日本初の近代的上水道による給水が開始された日で、それを記念して、今日は『上水道の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日はその上水道の日にちなんで、江戸時代の水道事情についてお話してみたいと思います。

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もちろん、近代的な水道システムは明治になってからの、その横浜が最初なのでしょうが、それよりずっと以前から、江戸という町は万年水不足という問題を抱えていて、早くから水道システムを導入せざるをえない状況だったようです。

もともと江戸の町は、湿地と台地からなる水の乏しい土地で、最初は神田川赤坂のため池で市民の飲料水をまかなっていましたが、町の発展とともに急激に人口が増え始め、とてもそれだけでは足らなくなってしまいました。

それで、神田上水が建設される事になります。

井之頭池を水源とし、途中の池から水を引き入れながら、目白台へ・・・

途中でふた手に分かれて、後楽園のある水戸屋敷を通り、神田からは地下にもぐって、神田・日本橋一帯に給水したそうです。

やがて、それでも水不足となってしまい、今度は承応二年(1653年)1月13日、玉川上水の開発が行われました(1月13日参照>>)

玉川の水を上流の羽村で取り、四谷まで素堀(すぼり)というむき出しの堀で引き、そこから、やはり地下にもぐって地中の石の樋(とい)によって江戸の町に分けられたそうです。

それから後も、万年水不足の江戸の町には、いくつかの上水が引かれて、人口が増えるたびに、その給水の範囲網は広がっていきましたが・・・この上水網、武家のために引かれた物で、まずは武家優先

町人はその残りの余り水を使わせてもらっていたのだそうです。

それでも、当時は『水道で産湯を使う』というのが江戸っ子のステータスだったと言います。

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・・・と、話は変わって今度は、大阪の下水のお話・・・というのも、先日14日に、『太閤下水の一般公開』を見に行ってきたので、ちょっとここで報告させていただきます。

太閤下水というのは、豊臣秀吉が大坂城・築城の際に大坂の街づくりの一環として整備した日本最古の下水道です。

今も、約20kmが現役で活躍中のため、大阪市都市環境局の管理になり、普段は関係者以外は立ち入り禁止なのです。

その一般公開と、同じ日に行われていた徳川時代の大坂城の地下に埋もれた豊臣時代の大坂城の石垣の公開も見てきました~。

HPにくわしく紹介しましたので、よろしければコチラからどうぞ→

とりあえず、ここでは写真をupしておきます。

Dscn4143 Dscn4113a_1

太閤下水(左)と豊臣時代の石垣(右)

 

 

 

 

追記:太閤下水は、2007年2月1日にガラス張りののぞき窓が設けられ、現在は、上からではありますが、常時見られるようになっています。
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