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2006年11月30日 (木)

老いらくの恋をした人たち~シルバーラブの日にちなんで…

 

昭和二十三年(1948年)11月30日、歌人で当時68歳だった川田順弟子の大学教授夫人とかけおち。

この恋の行く末を思い、心中するつもりでしたが、養子に連れ戻され、その後二人は結婚しました。

・・・で、この事を記念(?)して、11月30日は『シルバーラブの日』なのだそうです。

その時川田さんが詠んだ
♪墓場に近き 老いらくの恋
 恐るる 何もなし ♪

なる歌から『老いらくの恋』という流行語が生まれたとか・・・。

・・・って事で、今日は歴史上の人物の“老いらくの恋事情”など紹介しちゃいましょう。

・・・・・・・・・

老いらくの恋・・・で、私が知る限りの最高年齢は、やはり一休さんですね。
一休さんは室町時代の僧。

アニメの姿から、とんちの利く可愛い小坊主のイメージがつきまといますが、そんな可愛い一休さんだって年はとります。

もちろん、名僧であった事は間違いありません。

山崎宗鑑(俳人)村田珠光(茶人)金春禅竹(こんばるぜんちく・能楽)など、一流と言われる人々がその弟子になっているぐらいですから・・・。

ただし一休さんの場合、仕事とプライベートは別(坊さんは24時間営業のような気もするが・・・)
憎めないのは、酒好き・女好きである事を自ら告白しているところ。

あまりにもヒドイので、先輩の僧から注意された事もあるとか・・・。

そんな一休さんの老いらくの恋は、76歳の時。

しかも相手は26歳森侍者(しんじしゃ)という初々しい女性。

二人の関係は一休さんが死ぬまで続き、森侍者は最期を看取っています。

やっぱ、「このはし渡るべからず・・・なんて書いてあったら、君どうする?」なんて、クイズ形式の会話で和ましてって口説いたのかしらん

その次は72歳5度目の結婚をした蓮如さん・・・(またまたお坊さんやがな!)

蓮如は、戦国時代に衰えかけた浄土真宗全国ネットに盛り返し、あの織田信長を困らせる大勢力にまでした願寺第八世法主(ほっす)(3月25日参照>>)

そんな蓮如さんは27歳で初めて結婚、当時としてはかなりの晩婚ですが、頑張った(?)おかげで、13年間の結婚生活で7人の子供が誕生しました。

しかし、ここで奥さんが他界。

悲しむ暇もなく、即座に2度目の結婚、しかも相手は先妻の妹さん。

蓮如さん、やりますねぇ~。

そして、12年間で10人の子供が誕生したところで、このかたも他界。

3度目の奥さんとは、一人の子供を設けてこれまた他界。

4度目の奥さんも、二人の子供を産んでお亡くなりに・・・。

そして、72歳で最後の結婚。

なんと、お相手は21歳。

蓮如さんは、この5度目の奥さんとの12年間の結婚生活でも、7人の子供を授かります。

合計27人の子供を残して、さすがの蓮如さんも、85歳で亡くなりました。

最後のお子さんは、84歳の時のお子さんです。

ここまでいったら、お見事

そして、老いらくの恋というには、少し早いかもしれませんが、あの伊藤博文47歳の時のエピソード。

でも、その頃の平均寿命を考えると、この事件もかなりのもんです。

それは明治二十年、鹿鳴館(ろくめいかん)華やかなりし頃(11月28日参照>>)首相官邸で開かれたパーティでの出来事。

そこで、伊藤さんは、一人のものスゴイ美人を見つけてしまいます。
相手は戸田伯爵の夫人

夫人という事は旦那がいる・・・もちろん、伊藤さんにも奥さんがいます。

しかも、伊藤さんは今日のパーティの主催者です。

ところが「そんな事は関係ないネ」とばかりに、迫力満点の猛アタ~ック!

力づくで、庭園の茂みに誘い込んだそうな。

この事件は「みめうるわしいご夫人が、どういう事か、髪は乱れ、色青ざめて、くちびるをふるわせ、地に足つかず、腰もフラフラに・・・」と、新聞報道までされてしまいますが、結果的には未遂、伊藤さんは思いは遂げられなかったようです。

伊藤さん、内閣総理大臣が力づくはいけません(注:総理大臣でなくてもいけません)

・・・てな事で『シルバーラブの日』かぁ・・・←って、欧米か!
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2006年11月29日 (水)

大坂冬の陣・野田福島の合戦

 

慶長十九年(1614年)11月29日、大坂冬の陣の野戦、博労淵野田・福島の戦いが繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・

真田幸村九度山から脱出し(10月9日参照>>)のが、10月9日でした。
そして、10月11日には、徳川家康駿府を出陣します。

この出陣の日を『大坂冬の陣の勃発』とするのが一般的のようです。

そして、その後の大坂城の軍儀(10月10日参照>>)で、籠城作戦と決定した豊臣方でしたが、ずっと籠城戦で城から一歩も出なかったわけではありません。

野戦もいくつかあったのです。

幸村がせっせと真田丸の構築を始めた頃の10月23日、家康は京都の二条城に到着し、秀忠は、この日に江戸を出発し、11月10日に伏見城に入りました。

そして、11月15日、家康・秀忠がそれぞれ城を出発して大坂に向かいます。

いよいよ冬の陣の火蓋が切られたわけです。

しかし、実際に衝突が起こったのは11月16日

九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、豊臣方の水軍の本拠であった伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・さらに、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)らが木津川口砦を攻撃し、まずは徳川方の一勝。

その後、小競り合いを続けながらも、慶長十九年(1614年)11月29日労淵(ばくろうふち)が陥落し、野田・福島の戦いは終結します(くわしくは2014年11月29日の【大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】を参照>>。

野田・福島一帯は石山本願寺の時代から砦があった軍事の要所で、豊臣方にとっては、どうしても護っておきたい場所だったのですが、残念ながら徳川方に奪われてしまいます。

この日の敗北は豊臣方にとって大きな誤算でした。

そして、もう一つの誤算・・・それは、こうして戦いが始まれば、徐々に集まってくるだろうと考えていた豊臣恩顧の武将たち・・・彼らが大坂方として参戦してくる事はなかったのです。

この時、同時進行で、冬の陣で最大の激戦と言われる鴫野(しぎの)・今福の戦が、26日に勃発しています(11月26日参照>>)が、だんだんと孤立していく大坂城を見つめながら家康は、自分が勝利への道を歩んでいる事を確信したに違いありません。

いや、勝利を確信するには、まだ早いですよ家康さん。

まだ、5日後に真田丸の攻防(12月4日参照>>)あります。

Dscn5066acc_1 

写真は、大阪市城東区にある白山神社の大銀杏。

大坂冬の陣では、本多忠朝がここ白山神社に陣をおき、この銀杏の木に昇って豊臣方の様子を探った本多忠朝・物見のいちょうと言われています。

まぁ、本人が自ら昇ったとは思えませんが・・・。

地図とくわしい場所は、HPで紹介しています。
よろしければコチラからどうぞ→

「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>のリンクからまとめてどうぞ!
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2006年11月28日 (火)

鹿鳴館,バカ騒ぎ真の狙い

 

明治十六年(1883年)11月28日、東京日比谷日本で最初の西洋式社交クラブ鹿鳴館が誕生しました。

・・・・・・・・・

「私たちは、ロンドンかニューヨークにでも到着したのだろうか・・・」
これは、鹿鳴館に招かれたあるフランス人の言葉。

鹿鳴館(ろくめいかん)は、煉瓦造りの2階建て、ルネッサンス様式の堂々たる迎賓館です。

『詩経(しきよう・中国最古の詩篇)にある高貴な人をもてなす宴会=鹿鳴の宴にちなんで鹿鳴館と名づけられました。

鹿鳴館時代と呼ばれる明治二十年前後には、夜ごと舞踏会や仮装会が開かれ、上流階級の人たちや、その婦人・令嬢たちが夜を徹して踊りまくり、高級官僚や実業家たちも、何かにとり憑かれたかのように競って催しを行いました。

このバカ騒ぎには、いったい何の意味があったんでしょう?

第1回帝国議会招集(11月24日参照>>)でも書きましたが、やはりこのバカ騒ぎも、黒船来航のドサクサで結んでしまった不平等な条約を、改正させたいがための物でした(10月8日参照>>)

不平等な条約を改正してもらうには、何とか日本という国を一人前に見てもらわなければ国権回復は果たせない・・・そう考えた当時の外務卿井上馨(かおる)の案だったのです。

とにかく文明開化・欧米化が必要であるとの信念で、当時の最高実力者・伊藤博文もこの案に賛成し、まずは上流社会が外国使臣と交流する社交場が必要だとして、この鹿鳴館の誕生となり、ここから欧米化<欧米化と進んでいく事になるのです。

鹿鳴館からスタートした欧化政策は、またたく間に一般社会にも広がり、文化や風俗の改良運動へと広がり、ミーちゃんもハーちゃんも、とにかく外国かぶれが大流行の時代がやってきたのです。

しかし、それも長くは続きませんでした。

せっかくの接待外交も、不平等な条約の改正にはまったく結びつかなかったのです。

そうなると、当然、鹿鳴館のバカ騒ぎは、世論の非難を浴びる事になり、井上さんはクビ。

そして、鹿鳴館も明治二十二年に第十五銀行に払い下げられます。

結局この後、日本は色々模索しながら、また地道な外交を続けていく事になるのです(10月8日参照>>)

あ~ぁ・・・仮装舞踏会かぁ・・・
一度は、そんなん出席してみたいもんやね。

私は、帝国華撃団真宮寺さくらでいきま~す。
↑それは、違うパーティやろ!
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2006年11月27日 (月)

徳川家康は四人いた?説

 

天文十八年(1549年)11月27日、松平家が治めていた三河が今川義元の支配下となり、竹千代(後の徳川家康)人質として駿府に送られました。

・・・・・・・・・・

三河岡崎城主・松平広忠の子として生まれた徳川家康は幼名を竹千代といいます。

今川義元の援助を得るために6歳の時に人質に出されますが、人に騙され、なぜか尾張の織田信秀の人質に・・・(8月2日参照>>)

そして、今度は8歳のこの日、改めて今川義元の人質となっのです。
(織田から今川へと移る経緯については11月6日:安祥城の戦いを参照>>

家康は、この日から桶狭間の戦い義元が織田信長に倒される、19歳の時まで今川家で人質生活を送る事になるのです(5月19日参照>>)が、その間、竹千代→松平元信→松平元康と名前を変え、人質生活が終った後、徳川家康と名乗る・・・そして、最後はご存知のように天下を取って江戸にて幕府を開くわけですが、はたして、これらの人物は、本当に一人の人物なのか?どいう疑問・・・

もちろん、これらは、あくまで仮説の域を出ない物・・・正史とは呼べないドンデモ説なわけですが・・・。

まず、1つめの仮説は、最初に竹千代と呼ばれていた人物と、改名した元康は親子であって、親子二代の物語が、一人の人物の事として語られている・・・というものです。

たしかにこれは、ない話しではありません。

一生のうちで19回も名前を変えたあの斉藤道三の、坊さんから油商人そして、やがて美濃一国を手に入れる国盗りの物語が、親子二代の話しであった事は、今や有名な話です(4月20日参照>>)

家康の場合も、素性のわからないご先祖さまの親氏(ちかうじ)を、清和源氏の子孫という事に書き換えちゃった話や、家康の父親・広忠24歳で家臣に暗殺され、その父親(つまり家康のおじいちゃん)清康25歳で家臣に暗殺という、ミョーな雰囲気漂う経歴となっていますから、疑い出したらキリがありませんね。

しかし、もっとスゴイ仮説が・・・。
それは、家康の奥さん・築山殿と息子・信康死に追いやった一件(8月29日参照>>)に関係があります。

築山殿と信康は武田方と通じている疑いをかけられて、信長の命令によって家康が殺害(信康は自害)するのですが、この時の家康の心中が、かねてから大きな謎なのです。

家康という人は、信長の命令だからしかたなく涙を呑んで斬ったのか?
それとも、嫁と息子を平気で死に追いやれるくらい冷徹な人物だったのか?

という点が、あーだこーだと論議のまとになるのですが、その仮説によると・・・。

家康は、今川の人質時代に今川義元の姪である築山殿と結婚します。
そして、二人の間に生まれた息子・信康。(ここまでは正史です)

この信康を、町を放浪していた願人坊主(町で施しをもらう坊主)世良田二郎三郎元信という男が誘拐したところ、その間に家康(当時・元康)が家臣に暗殺されてしまい、その事を知った元信が、信康をつれて乗り込み、まんまと、家康になりすました・・・というのです。

何とか築山殿を言いくるめて過ごしたものの常に不安でした。
ですから、武田との密通が疑われ、信長の命令が出た時は、「これ幸い!」と、むしろ喜んで真相を知っている赤の他人の築山殿と信康を始末できた
・・というのですが・・・。

これは、どうでしょう?ちょっとキツイですね。

この築山殿の一件が起きたのは、家康38歳の時・・・入れ替わったのがいつかわかりませんが、人質時代なので最高でも19歳。

事件の時ですでに、二十年近くなりすましていた事になりますが・・・奥さんが騙されていたのか?知ってて黙っていたのか?

いずれにしても20年間はちょっと無理がありますよね。

そして、もう一つの仮説。

これは、大坂夏の陣であの真田幸村に襲撃を受けた時の話・・・たしかに、あの時、幸村は「家康の首さえとれば、勝機あり」と狙って、あわやというシーンがあったのは事実なのですが・・・(5月7日参照>>)

仮説では、実はその時、幸村に襲われた怪我がもとで、家康は死んでしまったのだそうです。
しかし、家康の死が公になれば、幸村の言う通り、どんな風に戦況が変るかわかりません。

そこで、側近たちが天下が治まるまで、替え玉を用意して、家康の死を隠します。

そして、一年たって、政情が安定して不要になった替え玉・家康に毒入りの鯛の天ぷらを食べさせて闇から闇へと葬った・・・というのです【堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説】参照>>)

たしかに、武田信玄は三人の影武者を使っていて、やはりその死を隠したと言いますし、家康自身、替え玉・・・というより影武者を使っていたとも言われますから、これはひょっとすればひょっとする話ですが、もし、仮に全部の仮説が本当だったら、家康と言われる人は四人いた事になります~。

いや~、実にワクワクしますね~。
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2006年11月26日 (日)

わずか半年の都・福原遷都

治承四年(1180年)11月26日、平清盛が平安京から福原(神戸)へ遷した都を、わずか半年足らずで、また平安京に戻しました。

・・・・・・・・・・

第80代・高倉天皇に嫁いだ娘・徳子が、次期天皇である男の子を産み、栄華の頂点を極めた平清盛でしたが(2月10日参照>>)、まさに、この時を頂点に下り坂へと歩み始めて行くのです。

清盛の独裁に、徐々に不満をあらわにして来る朝廷・・・この治承四年という年は、まさに歴史の変わり目でした。

前年の治承三年(1179年)の8月1日、清盛の暴走を止めるブレーキの役目をはたしていた清盛の息子・重盛がこの世を去ります。

それまでは、一度、重病をわずらった清盛は、福原の地に別荘を建て、息子たちに政務を任せて、半ば隠居生活を送っていたので、平安京にいる後白河法皇(高倉天皇の父)とは、距離をおく事ができていました。

しかし、重盛が亡くなった後の11月、清盛は兵を率いて都に入り、法皇を幽閉して院政をやめさせてしまいます(11月17日参照>>)

そして、波乱の治承四年(1180年)・・・

年が明けてまもなく、清盛は、高倉天皇を退位させて、娘・徳子が産んだ自分の孫を、わずか3歳で安徳天皇として即位させました。

もうこうなると、朝廷や公家はもちろん、地方の武士団や大寺院までが、清盛への不満を大きくし始めます。

5月には、とうとう不満が爆発・・・

後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が、清盛追討の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発し(4月9日参照>>)源頼政(みなもとのよりまさ)とともに、平家に反旗をひるがえしました(5月26日参照>>)

宇治川での壮絶な戦いで、平家が勝利し、以仁王と頼政は自害して果てますが、その翌月の6月2日に、清盛は自分が住んでいた福原に、都を遷したのです。

これは、清盛の理想の都を造るためのお引越しでした。

瀬戸内海の海上交通を整備して、福原の地で盛んに宋(中国)や高麗(朝鮮)との交易を行っていた清盛は、国の拠点もここに置いて自分の思う国づくりを行うつもりでいました。

かつて桓武天皇が、平城京から都を遷して、新たな国づくりをしたたように、自分も平安京から都を遷して国を変えようと思っていたのかも知れません。

しかし歴史はすでに、清盛が思い描いていた物とは別の方向へ変りつつあったのです。

2ヶ月後の8月には、源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆にて挙兵し(8月17日参照>>)、続く9月には、木曽(源)義仲北陸にて兵を挙げました(9月7日参照>>)

これを受けて、10月には、その頼朝・討伐に大軍を率いて向かうものの、富士川の合戦で平家は大敗してしまいます(10月20日参照>>)

しかも、11月に入ると、頼朝は鎌倉に侍所(警察庁)を設置して、もはや新しい幕府の準備を開始・・・(7月12日参照>>)

それでも、秋には、かろうじて、新しい福原の都で、新嘗祭などの皇室行事を行ったものの、それが終わると、多くの公家たちは福原にとどまる事なく、平安京に戻ってしまいました。

こうなったら、理想の国づくりよりも、この内乱をどうにかしなくてはなりません。

治承四年(1180年)11月26日、清盛は、わずか半年足らずで、都を、再び平安京に戻したのでした。

もちろん、清盛にしてみれば、あくまで内乱を鎮めるための策であり、新しい国づくりの夢は、この時点ではまだ捨ててはいなかったのですが・・・。

結局、波乱はさらに拡大し、このあとの清盛は、仏教をも敵に回す事になってしまいます(12月28日参照>>)
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2006年11月25日 (土)

福沢諭吉の『学問のすゝめ』刊行

 

明治九年(1876年)11月25日、福沢諭吉『学問のすゝめ』の最終篇・第十七篇を刊行しました。

・・・・・・・・・

福沢諭吉は、天保六年(1835年)に九州の中津藩の下級武士の子供として生まれます。

封建社会の中で生きる父の姿を見ての身分の違いという物の屈辱を味わうのです。

父が早くに亡くなった後、「自分が父と同じ封建社会の中で功名を得るには学問しかない」と感じ、学問の道を志すようになるのです。

22歳の時には、大坂にある緒方洪庵(こうあん)適塾塾長を務めました(6月10日参照>>)

翌年、得意な蘭学のおかげで、江戸にできた蘭学塾の教師に選ばれます。

ここで教育者・福沢諭吉の誕生です。

やがて、27歳の時に幕府の使節の一員として、咸臨丸でアメリカに渡ります(1月13日参照>>)

日本に帰る時、アメリカで購入した1冊の英語辞書を持ち帰りましたが、この辞書を読むのがなかなかたいへん。

英語の難しさを痛感し、「辞書があればなぁ~」と思い、塾の生徒に教えながら、自分も、この辞書に発音と、日本語と中国語の訳をつける作業にとりかかります。

そうやって完成した『増訂華英通語』を刊行。

ここで、本の著者・福沢諭吉の誕生です。

慶応三年(1867年)、諭吉34歳の時に、欧米を見聞した経験を生かし、西欧諸国の政治や社会、学校や病院などの海外事情をつぶさに紹介した『西洋事情』を刊行します。

この本が、誰にでもわかりやすい文章だと大評判!

10万部を越えるベストセラーになり、寺子屋やできたばかりの小学校の教科書としても使用されます。

翌年、諭吉が教師をやっていた塾が新しい場所に移転して、それをきっかけに名前を変更、当時の元号を取って『慶応義塾』となります。

同じ年の慶応四年、いよいよ『学問のすゝめ』初篇が刊行されるのです。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり、されば天より人を生ずるには、万民は万民皆同じ位にして、生まれながら貴賊上下の差別なく・・・」
という有名な書き出しで始まり、やはりこれも読みやすい文章に軽快な言い回しで、20万部という空前の大ヒットとなるのです。

『学問のすゝめ』の中で諭吉は、個人の解放・自由・平等・独立を主張し、それら抑え続けてきた封建思想を批判します。

ただ、「教育も強制ではなく、自由でなくてはならない」のに、「学問をすすめる」というのは、相反する気もしないではありませんが、とにかく、諭吉は「学問をする事が目的なのではなく、国が独立する事が目的であり、そのために学問する事が必要なのだ」と主張します。

西洋のまねをするのではなく『今、西洋の文明を学ぶ事で、後々に日本の独立(自立)へとつながる』のだそうです。

また、今までの身分制度ではなく、学問の有る無しによって、個人に格差が出てしまう現状も書いています。

そして、明治九年(1876年)11月25日、いよいよ最後の巻となる『学問のすゝめ』最終篇・第十七篇が刊行されるのです。

あまりの売れ行きに海賊版も登場し、百人に一人はこの『学問のすゝめ』を買ったと言います。

確かに、江戸時代からすでに識字率が高かったと言われる日本ですが、これはものすごい売れ行きです。

この『学問のすゝめ』を読んで自由民権に目覚めた人も多く、また義務教育(小学校)などの教育制度に大きな影響を与えたのは言うまでもありません。

そら、お札にもなるっちゅーねん!
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2006年11月24日 (金)

第1回・帝国議会召集

 

明治二十三年(1890年)11月24日、第1回・帝国議会開かれ、日本の議会政治の歴史が始まりました。

・・・・・・・・・

この時期、明治政府は一刻も早く、立憲君主制を確立し、近代的な憲法を打ち出して国会を開設したかったのです。

それは、黒船来航(6月3日参照>>)のドサクサで幕府が結んでしまった不平等な条約を、平等な条約に変える事を急いでいたのです。

そのためには、幕府に代わって新しく登場した明治政府が、外国から一人前の近代国家と認めてもらわなければなりません。

事実、これまでは、何度交渉に行ってもバカにされて帰ってくるだけでした。

政府が目指している立憲君主制というのは、「天皇の権力が憲法に定められている」という物ですから、憲法の制定は必須です。

政府はドイツプロイセン憲法に習って、様々な天皇の権限と、帝国議会会議会の設置などを盛り込んだ大日本帝国憲法を制定し公布しました。

それが、帝国議会が開かれる前の年の二月の事・・・

さぁ、憲法を発布した・・・次は国会の開催・・・でも、議会を召集するには国会議員を選出しなければなりません。

憲法で定められた帝国議会は、貴族院衆議院二院制

まず、貴族院議員は、皇族、華族、勅任議員からなります。

勅任議員というのは、国家功労者や学士院会員、高額納税者の事なので、この貴族院議員というのは、選挙をする必要のない最初から決まっている議員たちです、天皇と、現在の体制を守る、保守派の人々です。

そして、もう一つの衆議院議員は、衆とつく以上一般国民の代表・・・という事で、選挙によって選出されます。

選挙は憲法と同時に発布された衆議院選挙法にのっとって行われました。

しかし、この選挙法に書かれてある条件がキビシィ~。

まず、25歳以上の男子である事が条件。

さらに、直接国税(地租(固定資産税のようなもの)と所得税)を15円以上納めている事が条件でした。

これ、当時としては、なかなかの額です。

そうとうな土地を持つ大地主か何かでないと選挙に参加できません。

そのため、第1回総選挙では、国民の人口・4千万人に対して選挙権のある人は、わずか46万人でした。

1%の人しか参加できない選挙って・・・どうなの?と、今なら思っちゃいますが・・・

それでも、自由民権運動(10月18日参照>>)の流れを汲む政党が続々誕生し、今と変わらない議席確保に走り回る光景が見られたそうです。

・・・で、選挙の結果は、

民党(民権派の野党)派勢力
 立憲自由党:130人
 立憲改新党:41人

吏党(政府系与党)派勢力
 吏党大成会:79人
 国民自由党:5人
 吏党系無所属:45人

と、反政府派が大勝利!

明治二十三年(1890年)11月23日開かれた議会では、反政府与党議員たちは、おおいにはりきった事でしょう。
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2006年11月23日 (木)

殿上の闇討~平家物語の始まり~

 

天承元年(1131年)11月23日、平忠盛殿上の闇討ち(忠盛暗殺計画)回避しました。

・・・・・・・・

殿上闇討(でんじょうのやみうち)とは、あの平家物語の、始めの部分に語られるお話です。

皆さんよくご存知の『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・』という書き出しの部分は、言わば『序文=前書き』みたいな部分で、平家物語の全編にわたるテーマと、主人公である平清盛の出生・人物紹介のような内容になっています。

ですから、実質的に物語の始まりというのは、この殿上の闇討ちの事件の話からなのです。

この事件は、当時、平家のトップだった平忠盛(清盛の父)が、その功績から時の権力者・鳥羽上皇に気に入られ、欠員だった但馬国守に任ぜられた上に清涼殿へ昇る事を許された事から始まります。

内裏にある清涼殿というのは、天皇家の中心部。
当時は、貴族しか入れない場所でした。
そこに、貴族でもない武士の忠盛が入れる・・・というのは異例中の異例です。

わかりやすく例えれば、社長クラスの人間しか入れない代表取締役会長のお部屋に、つい最近入社して、ちょっと業績をあげたおかげで、係長になった新参者が出入りするような物です。

昔っから、上皇に張り付いている貴族たちにとって面白いわけがありません。

そこで、ねたみそねみ満々の貴族たちは、11月23日のこの日、五節豊明の宴会に出席するため内裏にやって来た殿上人(清涼殿に入れる人のこと)忠盛を、暗殺しようと計画するのです。

しかし、この計画は事前に忠盛の耳に入っていました。
こっちは武士ですから、武力でもってやっつける事はたやすいですが、相手は大物貴族です。
傷つけてしまっては、大問題にもなりかねません。

そこで、忠盛は「何とか武士として恥をかかず、相手も傷つけずに、身を守れる方法はないか?」と思案し、家来の左兵衛尉家貞(さひょうえのじょういえさだ)という、ちょいとスゴみのある若武者と組んで一芝居うつ事にします。

木刀に銀紙を貼り付けたニセの刀を準備しておいて、その貴族たちが忠盛に近づいてきて、今にも襲いかかろうとした時、やおら、そのニセ刀を抜き、月夜に照らしながら(びん・頭の両脇の髪の部分)に押し当てました。

忠盛の黒いシルエットに氷のように光る刀・・・刃物を見ただけでも震え上がる貴族連中はその光景を見てビビリまくりです。

そして、ふと庭を見ると控えている家貞の姿が目に入ります。

貴族のひとりが、怯えながら「ここをどこだと思ってる!身分の低い者が勝手に入って良いいと思ってるのか!出て行け!」と叫びます。

家貞は「先祖代々お仕え申しあげている我が主君が、今夜、闇討ちに遭うかも知れぬと聞き、事の成り行きを見定めようと、ここに控えているのです」と、いつでもやってやるぜ!・・・という雰囲気満載の口調で言います。

貴族たちは、皆、腰を抜かさんばかりに驚いて、この日も、そしてそれから後も闇討ちは決行されなかったのです。

それにしても、この武士という人たちは、いつから殿上人にもなれるくらいの力をつけてきたのでしょうか?

そもそも、この源氏平家は、どちらも天皇家の人・・・

当時は一夫多妻制ですから、一人の天皇に何人もの子供が生まれる事もしばしば。
子供が多く生まれた天皇は、その子供をみんな天皇家にすると、どんどん天皇家が増え続けます。

ですから、母親の身分の低い息子などに姓を与え、皇族の身分から離し、家臣・・・という身分にしたのが源氏の始まりです。

それぞれの天皇の名前を冠につけて、清和源氏宇多源氏村上源氏などと呼びました。

一方の平家は、桓武天皇のひ孫にあたる高望王(たかもちおう)が、やはり家臣の身分になったもので、桓武平氏と呼ばれました(7月6日参照>>)

そんな中、最初に、中央で力を現してきたのは、源氏のほうでした(6月5日参照>>)

天皇家の命令で、武力によって、各地(東北など)の反乱などを押さえる役割を荷っていました。

前九年の役(9月17日参照>>)後三の役(11月14日参照>>)で大活躍した八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)などは、天下一の武将と言われ、その力は天皇家も自分たちのボディガードとしておおいに利用したのです。

しかし、義家があまりにも強くなりすぎて、貴族と肩を並べるくらいになると、突然目障りになってきます。

その頃、一方の武門である平氏は、地方へと下って、その地に根づき、その土地を守る方向で、力をつけていきました。

そんな中で、伊勢に拠点を置く伊勢平氏は、各地の受領(ずりょう=地方に赴任して行政を行う長官)を経験しつつ、京の有力貴族とも関係を持ち、度々強硬な態度を取る比叡山の僧兵に対抗する軍事活動にも参加して、中央にて昇進していくのです。

さらに、本日主役の忠盛さんの父・正盛(清盛のジィチャン)は、時の権力者・白河院が溺愛していた娘で、今は亡き郁芳門院(いくほうもんいん=媞子内親王)の菩提寺に自らの領地を寄進したりなんぞしてのゴマスリ作戦で院のお気に入りとなり、ここらあたりから、どんどん出世していくのです(12月19日参照>>)

そして、その頂点に立ったのが、平家物語の主人公とも言える平清盛(2月11日参照>>)ですね。
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2006年11月22日 (水)

近松門左衛門と曾根崎心中

 

享保九年(1724年)11月22日、江戸時代の町人芸術を確立させた浄瑠璃・歌舞伎狂言作者近松門左衛門が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

近松門左衛門は、承応二年(1653年)に越前藩士の次男として生まれます。

Tikamatu_1_1しかし、途中で父親が浪人になってしまったため、京都に出て公卿に仕え、20代後半から浄瑠璃を書き始めます。

今では、脚本家といえば作家先生・文化人で、言わばあこがれの職業ですが、江戸時代は河原者(役者さんなどもそうですが・・・)と呼ばれ、一段下に見られている職業でした。

そのため、近松が元武士の身でありながら、浄瑠璃作者となる事はとても勇気のいる事でしたが、30歳の時に書いた『世継曾我(よつぎそがという作品で、堂々と作者として自分の名前を明かしたのです。

今後は、この作家の道で生きて行くという近松自身の覚悟の表れでした。

『世継曾我』は、義太夫節や歌舞伎でも演じられ大ヒット!

近松の名は一躍有名になるのです。

その後、義太夫や歌舞伎の作品も書くようになり、いよいよ元禄十六年(1703年)5月7日に初上演された近松50歳の時の作品=『曾根崎心中』で、大当たりを取ったのです。

そして、近松は竹本義太夫二代目義太夫のために、百作を越える浄瑠璃を書き、一方で坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を書きました。

やがて、竹本義太夫の後を継いで竹本座(たけもとざ=大阪市中央区道頓堀一丁目)の座本となった元祖・竹田出雲座付き作者として迎えられるのです。

『曾根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』など、これらの作品は、それまで江戸Tikamatuhaka_1 時代以前の、武家などを主人公とする時代物が中心だった浄瑠璃の世界に、同時代の町人を主人公にする事により新しい分野が生まれ、浄瑠璃の中で確固たる地位を築き上げる事になるのです。

これらの町人芸術作品は世話物と呼ばれました。

『曾根崎心中』は、大坂の曾根崎天神の森で、実際にあった心中を浄瑠璃に仕立てた物で、竹本座にて、元禄十六年(1703年)5月7日に初上演されました。

主人公・徳兵衛は堂島新地・天満屋の遊女・と恋人どうしでした。

しかし、徳兵衛が働く平野屋の主人でもあり、叔父でもある久衛門は自分の妻の姪と徳兵衛を結婚させようと考えます。

徳兵衛の継母が、その姪の持参金を勝手に受け取ってしまったため、徳兵衛は恋人がいる事情を話て何とか取り返し、久衛門に返そうとしますが、途中で友人に出会い、「どうしても・・・」と頼まれ、その友人にお金を貸してしまいます。

しかし、友人はいつまでたってもお金を返してくれません。
しびれを切らしその友人に印鑑を押した証文を見せて「早く返してくれ」と直談判。

すると、その友人は「その印鑑は以前どこかで落とした物で、その証文はニセモノだ、」
と、公衆の面前で逆に、徳兵衛が詐欺・恐喝の犯人であるかのように言い、仲間とともに徳兵衛ボコボコにします。

お初は、たまたま馴染みの客と一緒に通りがかり、偶然その場面を見てしまいますが、客はお初を無理やり駕籠(かご)に乗せて連れて帰ります。

その夜、返す金も失い、世間の信用も失った徳兵衛はお初に会いにきて、自害を決めた事を伝えるのです。

深夜になって白装束に着替えたお初は、徳兵衛とともに死に場所探します。

天神の森で松と棕櫚(しゅろ)の根元が一つになった相生の木を見つけた二人は、お初の着物の帯で自分たちをその木に結び、徳兵衛が脇差をお初の首に突き刺した後、自分もかみそりでノドを切って心中するのです。

近松作品の世話物に描かれる人物の姿は、現代人にも通じるところが多く、今でも映画やお芝居などでたびたび上演され喝采をあびています。

近松の心中物がヒットした当時、ちまたで心中が大流行だったそうですが、心中はいけません。
実際の心中はお芝居のようにキレイな物ではありませんからね。

・・・で、あまりのブームに、とうとう幕府は、心中に厳しい規制をかけます。
その話題については2月20日の【大江戸心中ブーム】でどうぞ>>
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2006年11月21日 (火)

非常の人・平賀源内、殺人で逮捕

 

安永八年(1779年)11月21日、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われるマルチな天才平賀源内が殺人犯として逮捕されました。

・・・・・・・・

平賀源内は、享保十三年(1728年)、高松藩士の子供として生まれます。

22歳で父の後を継いで高松藩の蔵番職になり、翌年に長崎に留学しますが、この長崎で外国の様々な文化に触れ、源内は学問に目覚めるのです。

高松に帰ってから、さっそく、歩いた距離を測る量程器、方角を測る磁針器などを製作し、これが、新し物好きの藩主・松平頼恭(よりたか)の目にとまり、藩の特産品の開発を担当します。

この時、高松藩の名産となる白砂糖を開発しています。

32歳の時に自由な研究に没頭するため、妹婿に家督を譲り江戸に出てきますが、この江戸で彼を一躍有名にしたのは、5回に渡って開いた薬品会の成功でした。

薬品会というのは、全国の珍しい物を集めた展示会で、今で言う博覧会・物産展のような物で、マルチな知識を持つ源内が企画して集めた品々が、どれもこれも人々を驚かせる物ばかりだったのでしょう。

薬品会の成功を知った高松藩は、彼を呼び戻し再び召抱えますが、藩のお抱えでは自由な研究ができず、34歳にして再び脱藩します。

しかし、今度は高松藩から「仕官お構(おかまい)という命令付きでした。

これは、「他家へ仕官してはいけない」というもので、コレのおかげで源内はお金を稼ぐために、あらゆる物に手を出していきます。

有名なところでは、コピーライター

彼が考えた『清水餅』のコピーは、とにかく餅をほめる軽妙な語り口に言葉遊びが入って、まさにラップのようです。

少し長いので、割愛してご紹介しますと・・・、

『そも我が朝のならわしにて、めでたき事に、餅鏡
 子もち、金もち、屋敷もち、・・・・
 家持
(やかもち)歌に名高く、惟茂(これもち武勇かくれなし・・
 器物もさっぱり清水餅、味はもちろん良い良いと・・・
 ワタシ身代もちなおし、よろしき気持ち心もち、
 婦
(かか)もやきもち打ち忘れ、尻もちついてうれしがる・・・』

これがあまりに評判だったので、次に、逆に餅を徹底的にけなすという手法の2番めのコピーも作っています。

真夏に脂っこいうなぎが売れなくて、うなぎ屋の主人から頼まれて『土用の丑の日は、うなぎを食べよう』キャンペーンを考えたのは、けっこう有名ですよね。

ただし、この土用のうなぎは、源内さんの100%オリジナルではなくて、『万葉集』の編さんでお馴染みの、奈良時代の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)の歌からのアイデア引用である可能性が高いですね(7月30日参照>>)

お金を稼ぐには好都合の戯曲や浄瑠璃の台本も書いています。
これもけっこう人気が高く、長く上演されたとか・・・。

有名なところでは『神霊・矢口渡』・・・

南北朝時代の新田義興を主人公にした浄瑠璃なのですが、物語のクライマックスで、天から正義の矢が降って来て主人公の危機一髪を助ける・・・しかも、この物語の舞台である新田神社では、実際に、その正義の矢がお土産として売られ、大評判になったそうです。(10月23日参照>>)

そう、今でいうところの、大ヒット映画やアニメとのコラボ商品です。

もちろん、アイデアは源内さん自身・・・しかも、これが、あの神社でいただく、破魔矢(はまや)の始まりなんだとか・・・もう、頭がさがります~

やがて、36歳の時には、秩父で石綿を発見し、燃えない布・火浣布(ひかんぷ)を作ったり、陶土を発見して焼き物を作ったりもしてます。

しかし、一方では、大名や富豪から莫大な資金を提供してもらった金山の採掘に失敗して借金を抱えたりもします。

そんなこんなの47歳の時、翻訳の仕事で訪れた長崎で、有名なエレキテルに出会うのです。

それはオランダから輸入された小さな箱でしたが、何に使うのか誰もわからず、しかも壊れているようなので、倉の隅に捨てられていたのです。

その箱を、静電気の知識もない、オランダ語も読めない源内が修理・復元したのです。

人々は小さな箱から発生する電気が火花を散らすのを見て、「魔法だ!魔法だ!」と大騒ぎです。

また、温度計を一目見るなりその原理を見抜き、寒熱昇降器なる温度計も作り、それで設けたお金を借金の返済にあてたりもしています。

どうやら、彼は成功と失敗の差が激しいようですね。

しかも、本人の心の内とはうらはらに、自分が気に入った物は評価されず、そうでもない物がバカ売れする・・・。

そんな現象に、彼は徐々に悩まされていく事になったのではないでしょうか。

世の中からは変人扱いされ、いつしか、源内は心を病んでしまっていました。

事件が起こる安永八年の頃の源内は、最初の持ち主が切腹し、次の入居者の父親が追放されその子供が井戸で死んだ・・・といういわく付きの家に住み、意味不明の放尿シーンの絵を大事そうに持っていたと言います。

そんな彼に仕事が舞い込んできます。
ある大名(田沼意次だという噂もあります)お屋敷の修理の見積もりを頼まれます。

それは、すでに別の者が請け負っていたのですが、念のために源内にも見積もりを頼んだものでした。

源内は、その者よりも2~3割安い見積もりをはじき出しました

当然、言い争いになりますが、とりあえず「共同でやってくれ」という事になり、その者との仲直りの酒宴を源内の家で行ったのです。

そのお酒の席で、源内は自分の考えた修理の計画書をその者に見せ、説明すると相手も納得して、お互い酔いにまかせてその場で眠ってしまいました。

ふと、源内が目を覚ますと、その計画書がありません。
となりに寝ていたその者を起こして聞いてみますが「知らない」と言います。

てっきり、そいつが盗んだと思った源内は突然相手に斬りつけました。

相手はあわてて逃げ帰りますが、その傷がもとで死んでしまったのです。

実は、後で探してみると、計画書は自分の手元の箱にちゃんとしまってあったんです。

酔って記憶があいまいだったとは言え、勘違いで人を殺してしまった源内・・・

安永八年(1779年)11月21日殺人犯として逮捕された後、小伝馬町へと投獄されますがそれから約1カ月後の12月18日・・・刑が確定しないまま、死亡してしまいました。

破傷風だったとも、自殺だったとも言われています。

有名人の源内が殺人を犯し、牢獄で死亡・・・しばらくの間、江戸ではこの話で持ちきりだったとか・・・。

田沼意次が事件の黒幕だという小説が出たり、牢を抜け出し蝦夷に渡ってアイヌの英雄になったという噂がでたりもしましたが、親友の杉田玄白が、彼の碑にこう刻んでいます。

『ああ非常の人、非常の事を好み、行うもこれ非常、なんぞ非常の死なる』

この文章を見る限り、やはりこの時代には早すぎた天才だったのだろうと思いますね。

江戸という時代も、やっと後半に入ったばかり、まだ、彼の才能を充分発揮できる時代ではなかったようです。
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2006年11月20日 (月)

帝国ホテル、開業

 

明治二十三年(1890年)11月20日、「首都にホテルがないのは屈辱である」として、欧米化政策のもと建設された帝国ホテルが営業を開始しました。

・・・・・・・・・

この7年前に建てられたあの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)の工費が14万円だったのに対し、その倍近くの23万円をかけて建築された帝国ホテル

木造煉瓦(れんが)造りの3階建て、ルネッサンス風の外観に寝室が60室、居間付きが10室。

食堂や舞踏室、奏楽堂など、欧米の最新式の設備を供えた堂々たるホテルでした。

一般の旅館が一泊二食付きで40銭~70銭が相場だったこの頃に、帝国ホテルの値段設定はなんと50銭~7円だったそうな。。。

しかも、当然の事ながらホテルですから食事は別料金。

朝食が50銭、昼食が75銭、夕食に至っては1円!
一泊で2円を越えてしまいます。

さすがに、創業当時は70室の部屋が満杯になる事はなく、一日平均10人くらいしかお客さんがいなかったそうですが・・・

この帝国ホテル。

そもそもの発端は、日本欧米化計画を進めていた外務卿井上馨(かおる)が、渋沢栄一大倉喜八郎という財界の大物に「首都に設備の整った様式ホテルがないのは国家の恥だ」嘆いた事から建設話が持ちあがったのです。

当時も、外国人客が利用できるホテルとして東京ホテルがありました。

しかしここは、木造2階建ての洋館でこそありましたが、部屋数が25室・・・となんとも少なかったのです。

さっそく渋沢が理事長になって、東京市内の富豪に一人1万円の寄付金を募りますが、なかなか資金は集まりませんでした。

しかし、お国はこの計画におおいに乗り気で、外務省宮内省やその他の官有地が貸付・・・宮内省は5万円も資金を提供してくれたのです。

そうやって、麹町に完成した帝国ホテル・・・いえ、最初の時点では、日本ホテルという名前になるはずでしたが、なぜか完成した時は帝国ホテルという名前になっていました

というのも、実は、『帝国』というネーミングがこの頃ブームだったんですね。
帝国大学や帝国工業・・・など、名前に帝国の2文字を付けるのが大流行していたのだとか・・・

とは言え、この帝国ブーム・・・聞くところによれば、あまりに欧米化する日本の情勢を憂いて、欧米化に反対する人たちが流行らせた物だったらしいんですが・・・

そんな名前が、欧米化推進の象徴でもあるこのホテルにつけられたのは皮肉な事ですが、この名前のおかげで、外国では「帝国ホテル=インペリアル・ホテル」と呼ばれ、日本を代表するホテルとして知られる事となるのです。
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2006年11月19日 (日)

落日の尼子氏と十勇士

 

永禄九年(1566年)11月19日、山陰の雄・尼子氏月山富田城毛利軍に包囲され、降伏を表明しました。

・・・・・・・・

南北朝時代、婆娑羅大名で知られる佐々木道誉(どうよ)の孫が名字を尼子としたのに始まる尼子氏は、室町時代に出雲(島根県)守護代となってから、同族どうしの争いがなどがあったものの、戦国時代の尼子晴久の頃には、山陰・八ヶ国を治める大大名になっていました。

しかし、その晴久の晩年の頃に、またまた同族の対立による争いが起こり(毛利がウラで糸を引いていたとの噂もあります)、少し影が見え始めました(1月13日参照>>)

絶好のチャンス!と見て取った安芸毛利元就は尼子氏の領地に進攻し始めます。
晴久は必死に応戦するも、相手は今、まさに昇り調子の元就。

しかも、毛利はそれまで対立していた九州の大友氏とも和解し、その全力を対・尼子氏に注いできます。

そんな中、晴久が急死してしまい(12月24日参照>>)、後を継いだ息子・義久が毛利の圧迫に屈し、永禄九年(1566年)11月19日降伏し、11月28日には開城されました。

ここに尼子氏はいったん滅亡してしまいます(12月28日参照>>)

そして、ここで登場してくるのが、山中鹿之介です。

鹿之介は、尼子氏が滅亡する以前から仕えていた旧臣ですが、当時はまだ若僧。
この頃になって、その才覚を表してくるのです。

鹿之介ら尼子氏の旧臣たちは、尼子一族の勝久を擁立し、隠岐の豪族・隠岐為清の協力のもと、いったん出雲一国を奪還しますが、またまた毛利に攻められ、主君・勝久とともに京都に脱出。

そして、京都で織田信長に会います。

信長はこの頃、四方敵ばかりの状態。

毛利も気になるけれど、とりあえず石山本願寺との戦いに力を注ぎたい時期でしたから、対・毛利の軍勢が増える事は、信長にとっても好都合です。

勝久と鹿之介は中国攻めで尼子氏が先方を努める事を条件に、信長の援助を得る事に成功します。

その後、織田勢の助けを借りながら、因幡に進攻して若桜鬼ヶ城・私都城を攻略し、ようやく尼子氏の再興に漕ぎつけました。

しかし、ここに来て古くからの重臣たちが毛利へ寝返り、信長も援助を打ち切る(5月4日参照>>)・・・という事態になってしまい、残った者たちだけでは無理だと判断し、城を捨てて丹波に落ちのびていきます。

そして今度は、信長の命を受けた羽柴秀吉の中国攻めに加わり、播磨の上月城を手に入れ(11月29日参照>>)、またまた尼子氏復興のチャンスを得ますが、またまたまた織田軍が手薄の時に、毛利軍に包囲され勝久は自害し、鹿之介は毛利に投降します(7月3日参照>>)

鹿之介はなぜ、自害せずに投降したのでしょう?

それは、まだまだ尼子氏復興のチャンスを狙っていたからだそうで、本当にそうだとすると、なんともスゴイ執念ですね。

しかし、そんな気持ちを秘めている鹿之介を、毛利が恐れないわけがありません。

毛利輝元のもとへ護送されている途中で、彼は殺されてしまいます(7月17日参照>>)

尼子勝久と鹿之介の死によって、尼子氏は完全に滅亡してしまいました。

この間の何度も何度も御家再興に立ち上がる尼子氏を支えたのが、尼子十勇士

山中鹿之介がそのリーダー的存在だったのです。

彼が御家再興のため「願わくば、我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与えたまえ!」と三日月に祈った話は有名です。

しかし、これらは、やはり真田十勇士と同じく、いろんな人物のエピソードと史実を混ぜ合わせて面白くした講談のお話。

鹿之介以下、秋上庵介あきあげいおりのすけ)横道兵庫助上田早苗助(さなえのすけ)四人は、実在の人物だそうですが、残りの人物はどうやら架空のようです。

それにしても、尼子一族というと、あの「たたりじゃ~」『八ツ墓村』を思い出してしまうのは、私だけでしょうか・・・。
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2006年11月18日 (土)

木曽義仲、法住寺殿を焼く

 

寿永二年(1183年)11月18日、木曽義仲が御所法住寺殿に放火し、後白河法皇を幽閉しました。

・・・・・・・・

初陣を飾った市原の戦い>>
北陸にその名を轟かせた横田河原>>
快進撃の般若野の戦い>>
圧勝した倶利伽羅峠>>
奇しくも命の恩人と戦った篠原の戦い>>

ここまで、負け知らずで攻め昇り、とうとう寿永二年(1183年)7月25日には、あの平家を都落ち(7月15日参照>>)させて、意気揚々と京の都に入って来た木曽(源)義仲(7月28日参照>>)・・・

しかし、北陸育ちの義仲も兵士たちは、言葉や態度が荒々しく、雅な都に馴染む事ができなかったため、平家全盛の世から新しい時代へ期待を膨らませていた京の人々からも、ひんしゅくを買うようになってしまいます。

それは、朝廷の貴族たちも同じでした。

後白河法皇は、とにかく義仲を都から追い出して、朝廷との礼儀もわきまえた源頼朝と接触しようと考え、義仲に瀬戸内へ落ちた平家追討を命じます。

そんな裏工作を知ってか知らずか、義仲は、はりきって平家追討に向かいますが、法皇は、その間に鎌倉にいる頼朝と、密かに接触。

なんと頼朝は、鎌倉にいながらにして、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に復帰し、源氏の棟梁の座を射止めました。

一方の義仲は、勢力を挽回しつつある平家と備中(岡山)水嶋で戦って、手痛い敗北を喰らいます。

しかも、自分が都を留守にしたいる間の、法皇と頼朝の画策を知って、怒り心頭!
あわてて、都に帰ってきます。

さっそく義仲は、法皇に頼朝追討の命令を下すように迫ります。

しかし、もはや法皇のお気に入りは頼朝のほうですから、そんな命令出すわけはなく・・・

これで義仲は、法皇を敵にまわし、頼朝にも注意を払い、西海の平家にも気をつけなければならなったわけで・・・住み慣れない都でどんだけ神経をすり減らした事でしょうね。

しかし、法皇と義仲の関係はますます悪化していきます。

やがて法皇は、「もう一度、平家追討に西へ向かえ、それができないなら京を去れ」と言ってきたのです。

ここにきて、義仲の怒りは爆発!

寿永二年(1183年)11月18日、法皇の住む御所法住寺殿を攻撃・・・矢を射かけ、火を放ち、多くの人が死に、法住寺殿は燃えてしまいました。

この時、義仲は法皇を幽閉しますが、もはや朝廷との亀裂は修復が不可能になったのは言うまでもありません。

ところで、この法住寺殿、その時燃えてしまったため、現在は三十三間堂のお庭にその跡だけが残っています。

当時は、上皇(天皇の位を譲った人)になると、天皇の住む御所とは別の『院御所』という場所を造営する慣わしでした。

後白河法皇も、皇位を譲ってすぐ、この法住寺殿の造営にとりかかったのです。

Houzyuuzitizu2 その広さは、東西は東山山麓から鴨川のほとりまで、南北は八条坊門小路(現在の東海道線南側)から六条通までの広範囲にひろがり、蓮華王院、法華堂、最勝光院、東殿、西御所など、壮大な伽藍が建ち並んでいました。

その建物は、政治を行う北殿と、『常の御所』と呼ばれる住居や、宗教的堂塔のある南殿に大きく分けられていました。

現在、通称・三十三間堂と呼ばれている蓮華王院は、南殿に位置していた建物だそうです。

Houzyuuziato 法住寺殿跡より三十三間堂を見る

今日のお話の続きは1月11日【征夷大将軍・木曽義仲】へどう>>
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2006年11月17日 (金)

静御前、吉野にて捕まる!

 

文治元年(1185年)11月17日、前日に源義経の一行と別れた静御前が吉野山中で捕らえられました。

・・・・・・・・・

兄・頼朝との対立(5月23日参照>>)が決定的となり、頼朝配下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)夜討ちをかけられた(10月11日参照>>)源義経(みなもとのよしつね)・・・もはや覚悟を決めて、船で都を落ちた(11月3日参照>>)ものの、嵐に遭い出航した場所に戻ってしまいます。

船も失い、仲間もバラバラになってしまって、ごくわずかの人数で吉野山に潜伏していました。

嵐に遭ってからこの日までの間には、朝廷から頼朝『義経追討の院宣(いんぜん・天皇の許可)も下され、義経一行は犯罪者となってしましました。

落ち目になった義経を見捨てて、後白河法皇はあっさりと頼朝を源氏の棟梁と認め、義経を朝廷の敵としてしまったのです。

犯罪者となってしまった以上、その身を隠して安全な場所へ逃げるしかありません。

そうして、やって来たのが、この吉野山でした。

しかし、険しい山道・・・屈強な兵士に混じって歩く、義経のカノジョ=静御前が、どうしても遅れてしまいます。

「静のペースに合わせて歩いていたら、いつか捕まってしまうのではないか?」
誰もがそう思うようになってきます。

まして吉野は女人禁制・・・愛しい気持ちを振り切って義経は、「ここで、別れよう」と告げます。

と、その義経の言葉に、静は突然!!

「ワタシのお腹の中にはアンタの赤ちゃんがいるのよ」
(でた~っ!別れたくない女の究極のセリフ!!(゚ロ゚屮)屮)

ショックを受け、いっそうの事がいとおしくなる義経ですが、そこは武将・・・感情をグッとこらえ、意志の固さをアピール。

しかし本当は、もず~と前からわかっていた事でした。

お互いが助かるために、いつかは別れなければならない・・・その日が、今日になったのだ・・・と。

義経は、自分が毎日使っていた鏡を「これを僕だと思って使ってね」とプレゼント。

♪見るとても 嬉しくもなし 増鏡
  恋しき人の 影を止めねば♪

「愛しい人の顔が映らないんだから、鏡を見ても悲しいわ」と悲しむ

かわいそうに思い、他に秘蔵の鼓や愛用の枕、その他たくさんの財宝を、に持たせて、五人の従者をお供につけて、義経は振り返り・振り返りしながら去っていきました。

見えなくなるまで見送っていたも、やっと諦めがついて山を降りはじめます。

日が暮れそうになった頃、一人の従者が「この山麓に十一面観音の寺があり、そこに知り合いがいます。相談して来ますのでここで待っていて下さい。」と言い、木の根元に敷物を敷いてを座らせ、彼らは、その寺に向かいます。

しかし、五人の従者は姿を消したまま、帰ってはきませんでした。

財宝も荷物も持ったまま、彼らが逃げてしまった事を悟ったは、しかたなく、もうすっかり日が暮れてしまった山中を、あてもなくさまよい歩くのです。

沓は雪にとられ、笠は風にとられ、着物もドロドロになりながらも、何とか一夜を明かし、次の日も夕暮れまで、さまよっていましたが、ふと大きな道にぶつかりました。

ホッと息をつく

少し休んでから、「この道はどこへ行くのやろ?」と思いながら、また歩きはじめます。

すると向こうの方に灯りが見えてきました。

それは、蔵王権現に供えた灯籠の灯りで、参道はたくさんの参拝客で賑わっていました。

そう、この日は11月17日、権現様の縁日の日だったのです。

参拝者にまぎれて、も祈りを捧げます。

やがて、僧の読経が終わり、芸の奉納の時間になりました。

思い思いの舞を奉納する人々・・・近江の猿楽や伊勢の白拍子も舞を奉納していました。

「ウチも、追われる身やなかったら、舞を奉納して、義経様の無事をお祈りするのに・・・」

そう思っている所に、近くにいた人からこんな話を聞きます。

「ここの権現様は、下手な人でも一心に芸をすれば喜んでくださるけれど、逆に芸のできる人が芸を捧げないとご機嫌が悪くなるんですよ」

は思います。

「霊験あらたかな権現様が、自分を見てどう思っていはるのやろ?このまま帰ったらどないなるんやろ?」

以前の堀川夜討ち(再び10月11日参照>>)の時にも書きましたが、この頃の人々の神罰への恐怖は現代人の我々とは、比べ物にならないくらい大きいですから・・・。

・・・で、は決心して一番・舞ったのです。

♪・・・親の別れ 子の別れ
  勝
(すぐ)れて げに悲しきは
  夫婦の別れなりけり♪

人々は、その舞いの美しさに目を見張ります。

なんせ彼女は、都一番・・・いえ、日本一の白拍子ですからね。

ひとたび舞を舞えば、2日間も山中をさまよってドロにまみれた着物が、金糸銀糸を散りばめた唐衣のように見え、薄汚れたその顔が吉祥天女のように光輝く・・・日本一の舞というのはそーゆー物です。

の舞に目を見張る人だかりの中に、治部法眼(じぶのほうげん)という法師がいました。

「うまい、うまいと思てたら、そりゃぁうまいはずや!誰かと思えば、あの静御前やないかい!」

静は、以前、百日間も日照りが続いて、法皇の前で百人の白拍子が雨乞いの舞を舞った時、その中で最もすばらしいと絶賛され、法皇に「静が舞ったからこそ雨が降ったのだ」と言われた・・・つまり、日本一白拍子とのお墨付きをもらった事があったのですが、治部法眼はその時にの顔を見ていたのです。

がっくり肩を落とす

たちまち、仲間の法師たちに囲まれてしまいました。

やがて、北条時政の詮議を受け鎌倉へ送られる事となるのです。

Sinsenen1_1 義経と静の出会いの場所と言われる京都・神泉苑
ここで雨乞いの舞いを舞った静御前に義経が一目ぼれしたのだとか…

 

このお話の続きは、
3月1日【静御前の白拍子なる職業】へどうぞ→

 

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2006年11月16日 (木)

西郷隆盛と月照~共に入水自殺を図る

 

安政五年(1858年)11月16日、左幕派から逃れ、共に京都を脱出した西郷隆盛と僧・月照が、日向に向かう途中に入水自殺を図りました。

・・・・・・・・・

安政五年の5月に、彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)が大老になります。

続く6月には『日米修好通商条約』が調印され、紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)将軍・家定の後継者に決定します。

そして、直弼は、将軍の後継者に慶福のライバルである慶喜(よしのぶ)を押して幕府改革を唱えていた一橋派(慶喜が一橋家の当主だったので、こう呼ばれます)の人々を、公家や大名・志士にいたるまで、逮捕・投獄・死刑などにして一掃する=後に安政の大獄(10月7日参照>>)と呼ばれる弾圧を行おうと画策しはじめるのです。

これに不満を抱いていた薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)は、7月に鹿児島城下に薩摩軍を集め大々的な軍事訓練を行います。

この軍事訓練は、単なる訓練ではなく、実際に挙兵するつもりの下準備だったとも言われていますが、その真意のほどはわかりません。

なぜなら、その訓練の最中に、斉彬が急死してしまったからです(7月16日参照>>)

京都で、尊敬する斉彬の死を聞いた西郷隆盛は、その時、すぐに殉死しようとしましたが、それを止めたのが、友人の僧・月照(げっしょう)でした。

月照は14歳の時に、叔父を頼って清水寺成就院に入り、22歳で成就院の住職になっていましたが、その時、「後を追って死ぬのではなく、その遺志を継いで改革を行う事こそ、主君の恩恵に報いる事なのだ」という事を、西郷に諭したのでした。

月照に支えられ、西郷は、斉彬の遺志を継ぐ事を決意し、水面下で仲間たちと、井伊直弼を大老の座から引きずり下ろす幕府改革計画を立てていましたが、9月になっていよいよ西郷らにも、直弼の弾圧の手が伸びてきました。

それは、月照も同じ・・・。
彼も、京都の公家たちと関係を持ち、尊皇攘夷派(一橋派)として動いていたため(8月23日参照>>)、危険人物と見なされていたのでした。

そして、西郷と月照は共に京都を脱出します。

しかし、途中で西郷は、友人に月照を鹿児島まで送り届けるように頼んで、自分は再び京都に戻り、なんとか、先の計画を進めようとしますが、警戒が厳しく、あきらめて月照たちとは、別ルートで鹿児島を目指します。

ところが、鹿児島に着いた彼らを待っていたのは、薩摩藩のNO!の答えでした。

追われる身の月照は、薩摩藩にとっては厄介者だったのです。
入国を拒否され、日向への追放を命じられます。

しかも、この日向追放は、あくまで名目上で、本当はその道中で斬り捨てるつもりだったのです。

安政五年(1858年)11月16日、夜・・・ゆっくりと錦江湾を進む船の上で、その事をさとった西郷と月照は、自らの死を覚悟して、二人とも海に身を投げたのです。

船に同乗していた者たちが、あわてて救助をします。
西郷は運良く生き返りますが、月照は帰らぬ人となってしまいました。

その後、1ヶ月して何とか快復した西郷を、薩摩藩は幕府の追跡を逃れさせるため、死亡として届出て、しばらくの間、奄美大島に移住させます。

そして、皆さまご存じのように、再び表舞台に登場するその日まで、西郷は沈黙する事になります。

♪大君の ためにはなにか 惜しからむ
 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも♪ 
月照・辞世

Tukinoniwa2800 清水寺成就院の「月の庭」…西郷と月照が明日を語りながら眺めた庭です(撮影禁止ですのでポスターの写真でご辛抱を・・・)
成就院への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でどうぞ>>
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2006年11月15日 (水)

坂本龍馬・暗殺の謎の謎

 

慶応三年(1867年)11月15日午後8時過ぎ、京都・四条河原町の醤油商・近江屋に潜伏していた坂本龍馬中岡慎太郎が、数名の刺客に襲われ、龍馬は即死、慎太郎は2日後に死亡しました。

奇しくも、この日は龍馬の32回目の誕生日でした。

・・・・・・・・

Ryouma25坂本龍馬は歴史上の人物の中でも、1位・2位を争う人気を誇る幕末の有名人。

彼は、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟(1月21日参照>>)を成立させました(最近は否定説も出ていますが・・)

また、土佐藩が幕府に提出した大政奉還を推進し、後の統一国家のシナリオとも言うべき『建白書』の原案を考えたのも龍馬だと言われています(6月22日参照>>)(これも否定説ありますが…)

幕末の日本を近代国家へと導くリーダー的存在だった龍馬を暗殺したのは、いったい誰なのか?

今や『幕末史上最大の謎』とまで言われるようになったこの事件ですが、事件当時は新撰組の仕業とされ、明治に入って見廻組の今井伸郎(のぶお)が自白し、そこで手打ちとなっていました。

ここまで話題になるようになったのは、けっこう近年になってからの事なのです。

事件の詳細や暗殺犯の推理については、私のHP『京阪奈ぶらり歴史散歩』で、事細かく書かせていただきましたので、関心のあるかたはHPで読んでいただければうれしいです。
(HPへはコチラから→)

・・・なので、今日は龍馬暗殺がいつから、どういう経緯で謎になったのか?龍馬暗殺の謎の謎について考えたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冒頭に書かせていただいたように、当初は遺留品によって新撰組が犯人とされ、多くの人が新撰組の仕業だと信じたまま維新を迎えます。

しかし、明治三年(1870年)、旧見廻組・隊士の今井伸郎が、真犯人はリーダーの佐々木唯三郎以下、自分を含む7人の見廻組・隊士である事を自白するのです。

龍馬暗殺に関する公文書は、今でもこの時の『刑部省口書』(調書)だけです。

他に信用できる史料は残っていません。

他の者は、みんな幕末の動乱で死亡し、生き残った今井が自白して刑に服したわけですから、当然事件はここで一件落着・・・となるのです。

その後の龍馬研究でも、『刺客は見廻組』と断定されていて、まったく謎として扱われてはいませんでした。

龍馬の功績じたいも、当時の人がどこまで把握していたか、とても疑問です。

最初に書いた薩長同盟にしても、建白書の原案である『船中八策』にしても、表立って何かをやってる風には、とても見えません。

知ってる人は知ってるが、知らない人はまったく知らない・・・実際には、当時の龍馬は、京の町をうろつく不逞浪士の一人でしかなかったわけですし、最初に書いた近代国家へと導くリーダー的存在・・・というのも、後の龍馬研究から表に出てくる事で、当時は一部の人しか知らない事だったのではないでしょうか?

そんな中で、近年になってから、当初死刑だった今井伸郎が禁固刑で済んだウラには、西郷隆盛が今井の助命のために奔走したから・・・という所から、『薩摩黒幕説』なる物が生まれてくるのです。

そして、その薩摩黒幕説をベースにした日活映画・六人の暗殺者昭和三十年(1955年)に上映され、ここで初めて一般市民が龍馬の存在を知り、その暗殺の事を知るのです。

だいたい、このあたりから謎になってきます。

その後、昭和四十四年に土佐藩の後藤象二郎を黒幕とした三好徹氏の推理小説・竜馬暗殺異聞(もちろんこれは小説なのでフィクションです)が発表されます。

そうやって、フィクション・仮設がいつの間にか新説となってマスコミを賑わすようになってくる・・・そして、今や幕末最大の謎となるわけです。

もともと、今井の自供が二転三転したり、その自供と2日間生きていた中岡慎太郎の証言が食い違っていたり・・・という、謎を予感させる種があったのも事実なのですが・・・。

まだ、生きている人がいる太平洋戦争の事でさえ、色々な意見が生まれる歴史という世界。

タイムマシンでも作ってその日に行って見て来ないかぎり答えが出るはずもない事ですが、いつも、書いています通り、私個人としては、色々な意見を持った人が、色々な意見を戦わす事こそが、歴史の楽しさだと思っていますので、謎と言われると不謹慎(暗殺事件なので・・・)ですがワクワクしてしまいます。
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2006年11月14日 (火)

奥州藤原氏の誕生~後三年の役・終結

 

寛治元年(1087年)11月14日、源義家清原清衡の連合軍が清原家衡を破り、後三の役が終結しました。
あ~名前がややこし過ぎ!

・・・・・・・・・

時は平安後期、都では藤原氏があの藤原道長・頼道親子の全盛期が過ぎ、ちょっとばかり陰りが見えたか見えないかのあたりの頃・・・。

場所は東北・・・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)蝦夷征伐(11月5日参照>>)、中央政府に服従する形になっていた蝦夷の子孫で、東北の半分くらいに勢力を誇っていた安倍一族を、前九年の役で滅亡に追いやって(9月17日参照>>)、もともと自分の持っていた出羽と合わせて、東北最大の豪族となった清原武則(たけのり)さん。

その戦いから30年くらいたって時代はその子・孫へと移ります。

武則の子・武貞(たけさだ)には三人の息子がいました。

長男・真衡(さねひら)先妻との子供

次男・家衡(いえひら)後妻との子供

そして、もうひとり、後妻の連れ子清衡(きよひら)の三人・・・
(年齢的には真衡と家衡の間…つまり兄と弟に挟まれた状態です)

しかも、この後妻=清衡の母というのが、父・武則が滅ぼした安倍氏の娘で、父親は、先の戦いで安倍氏に味方して死んだ藤原経清(つねきよ)という人なのです(7月13日参照>>)

もうすでに、昼ドラのような不穏な空気が・・・(゚ー゚;

まずは、清原一族の中の吉彦秀武(きみこひでたけ)という人が真衡とモメて、家衡と清衡に助けを求めたため、真衡VS家衡&清衡の戦いが勃発します。

しかしこの時は、中央政府から陸奥守(むつのかみ)として派遣されている、あの八幡太郎と呼ばれ鎮守将軍・源義家(みなもとのよしいえ)が間に入り、大きくならずになんとか納まりました。

それから間もなく、真衡が病死してしまったので、義家は、真衡の残した領地を、家衡と清衡に分配します。

これが、家衡には気に入らなかった・・・。

なんせ、兄弟とは言え清衡は連れ子、真衡が持っていた領地は自分が独占するつもりでいたのです。

そんな家衡は清衡の留守中に家を焼き、一族を殺してしまうのです。

怒った清衡は合戦を決意し、義家に助けを求めます。

義家は、清衡に非はないわけですから、当然、清衡の味方・・・こうして始まった家衡VS清衡&義家の戦い後三年の役です。

最初は家衡側が有利に戦いを進めていましたが、やがて、義家の弟・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が加わり、清衡+義家の連合軍が、寛治元年(1087年)11月14日勝利を収め、後三年の役は終結しました。

しかし、中央政府はこの事をあまり快く思っていませんでした。

なんせ、これは、あくまで東北の豪族・清原家のお家騒動・・・

個人的とも言えるお家騒動に中央政府の将軍が介入しまくってしまいましたからねぇ~。

もちろん恩賞もなく、結局、義家は陸奥の国司を解任され、追われるように東北を去ります。

お家騒動で荒れ果てた奥州の地に、一人残った清衡・・・。

彼は、姓を清原から父方の藤原に戻し、藤原清衡と名乗り、ここに中央政府の支配の届かない独立王国の建設を始めるのです。

奥州・藤原氏の誕生です。

奥州・藤原氏の滅亡については8月10日へどうぞ>>
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2006年11月13日 (月)

ネッシー写真で大論争

 

1933年の今日、11月13日に、始めてネッシーの写真撮影に成功!・・・だそうですが、はたしてホンマモンなのでしょうか?

・・・・・・・・・・・

ネッシーは、イギリスインパネス地方ネス湖に棲む、世界的に最も有名な未確認動物です。

有名な未確認・・・というのも何だか変ですが(゚ー゚;

正式には、ロッホ・ネス・モンスター[Loch Ness Monster(s)]という名前で、ひし形のヒレを持つネス湖の怪獣という意味のネッシテラス・ロンポプリテウス[Nessiteras rhom-bopteryx]という学名までついているそうです。

ジュラ期の海生爬虫類、プレシオザウルスの生き残りか、それが環境に順応した亜種とする説が有力です。

もともと、最初の目撃例は565年で、この地方には奇妙な動物『水中ケルピー(怪獣)として記録も残っていましたが、この写真撮影によって、ネッシーという名前が一躍世界中に知られる事になるわけです。

その後、1960年にイギリスの航空技師ティムディンス・テイルという人が、1週間ネス湖に張り込んで(1週間は早すぎるやろ・・(^-^;・)16ミリ・フィルムでの撮影に成功したと言います。

そうなると、「はたして、このフィルムに写っている移動する黒いコブのような物は、本当に未知の生物なのだろうか?」

と、当然の事ながら、大論争が巻き起こるのです。

1966年時点でのイギリス空軍・偵察情報センターの分析結果によると、
●撮影された物体は船ではない
●人工物の根拠も見当たらない
●推定時速10マイル(約16km)
●幅6フィート(1.8m強)
●高さ5フィート(1.5m強)

なのだそうです。

最近、『木曜スペシャル』=川口探検隊的な番組にお目にかからないので、こーゆー事には無知なのですが、最新技術の分析結果などはあるんでしょうか?

少なくとも、何枚かの写真がニセ物だと確認された話は聞きましたが・・・

ところで、ネッシーのような未確認の動物をUMA[Unidentified Mysterious Animal(s)]と呼ぶのは最近けっこうメジャーになってきていますが、その定義は「ある程度知られてはいるが、科学的には確認されていない動物。特に、なるべく最近の物で、目で見て手で触れる事のできる可能性がある物」だそうです。

ヒマラヤの雪男、中国の野人、北米のビッグフット、プエルトリコのチュパカブラが人を襲うなんていう話もありました。

日本では、ツチノコ(へびに似た生物)ヒバゴン(広島県比婆山にいる雪男)を筆頭に、タキタロウ(体長2mのイワナ)クッシー(北海道屈斜路湖の怪獣)イッシー(鹿児島県池田湖の怪獣)などはわかりますが、河童なども含まれるそうです。

個人的には、鬼や河童は妖怪のたぐいではないかと思うのですが・・・。

これらを研究するのは、未確認動物学というちゃんとした学問で、世界的な学会も開かれているらしいです。

ネッシーに関しては、イギリスの希少動物保護法の対象にもなっているそうなのですが・・・見つかると、うれしいような・・・でも、いつまでも謎のままのほうが良いような気もしますね。

つい最近、長年UMAとされてきたスカイフィッシュを高感度スピードカメラで撮影したところ、ただの虫だった・・・というのもありましたからね。
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2006年11月12日 (日)

津田梅子のアメリカ留学

 

明治四年(1871年)11月12日、津田梅子ら5人の日本初の女子留学生がアメリカに出発しました。

・・・・・・・・・・

この日、岩倉具視全権大使とする使節団が、欧米諸国との不平等条約の交渉と、諸国見聞のためアメリカ丸で横浜港を出航したのです。

その船には、53人の若き留学生とともに、上田悌子(15歳)・吉益亮子(15歳)・山川捨松(12歳・2月18日参照>>)・永井繁子(9歳)・津田梅子(8歳)の五人の少女たちも乗船していました。

当時の日本にとっては、女性をしかも幼い少女たちを留学させるというのはたいへんな冒険でした。

もちろん、少女たちにとっても大冒険だった事でしょう。

特に一番年下の津田梅子に至っては・・・この8歳というのは数え年ですから、現在の満年齢にするとわずか6歳だったわけですすから・・・

小学校一年生ですよ!・・・その年齢に驚いてしまいます~。

条約交渉が一番の目的であった岩倉使節団に、多くの留学生、特に5人の少女を同行させたのは、当時、北海道開拓使であった黒田清隆(8月23日参照>>)の発案による物でした。

黒田の考えは「人材を生ずるは師弟を教育するにあり」という事。

つまり、これから先、良い人材を育成するためには、子供たちを育てる母親の教養が不可欠である、と考えたのです。

この時代に女性教育の重要性を訴える人がいた・・・という事にも驚きを感じますね。
先見の明があった・・・という事でしょうか?

ともあれ、後に女子英学塾を設立する事になる最年少の津田梅子は、留学中、驚くほどの熱心さで勉学に励みます。

勉強だけでなく、ピアノにもその才能を発揮して、卒業式には米大統領夫人の前で演奏も披露しています。

11年後の明治十五年(1882年)、「日本の女子教育に尽くしたい」との理想を持って帰国した梅子でしたが、残念ながら当時の日本には彼女の夢を実現できる場所はまだ無かったのです。

しばらくの間、華族女学校の教授補を務めますが、やはり自分の理想を追い求め、再びアメリカへ渡ります。

アメリカの大学でも、その才能を認められ、「研究者としてずっととどまってほしい」と言われますが、やはり、彼女の理想はあくまで、日本の女性教育でした。

「日本に自分の理想とする女子教育の場が無いのなら、自分で学校を創設しよう」梅子はそう考えるようになります。

明治二十五年(1892年)に帰国した彼女は、さっそく学校創設の準備に入ります。

女子留学生のための『日本婦人米国奨学金』の設立、『万国婦人連合大会』への参加など、日本女性の地位向上のために、ありとあらゆる努力を始めるのです。

そして、明治三十三年(1900年)、英語教育+英語教員の養成を目的とした日本で最初の女子専門学校『女子英学塾』を設立したのです。

現在の津田塾大学です。

第1回の入学者はたった10人でしたが、彼女は少ない人数だからこそ実現できる少数精鋭をモットーに、10人の生徒たちにいかに「熱心」という事が大切かという事を、その入学式で語ったと言います。

そう、それは自分が幼くしてアメリカ留学した頃から、ずっと実践してきた「熱心」でした。

明治という時代に、女性が新たな一歩を踏み出すために努力した人がいた事を忘れてはいけませんね。
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2006年11月11日 (土)

戦国大名・大友氏の落日

 

天正六年(1578年)11月11日、北九州に勢力を誇っていた大友氏と南九州を統治していた島津氏の雌雄を決する耳川の戦いが勃発しました。

・‥…━━━☆

当時、北九州一帯はキリシタン大名のオンパレードでした。
一番早くにキリシタンになったのは、長崎を治める大村純忠(すみただ)で、永禄六年(1563年)に入信。

その後、島原領主・有馬氏をはじめ、五島氏天草氏黒田氏小西氏、そして今日の主役・大友氏と、50家以上を数える一大キリシタンワールドでした。
(この事は後の島原の乱にも少なからず影響があるかと思います)

これだけ多くの大名たちがキリスト教に入信したのは、中には純粋な信仰心の人もいたのかも知れませんが、後々にキリシタン禁止令が出されると、あっさりと改宗する大名がたくさん出た事を考えると、やはり外国貿易の利益・・・というのが大きく左右されていたと思われます。

しかし、大友氏を率いる豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)は、利益だけではなく、こころからキリスト教への強い信仰心を持っていたようで・・・

大友宗麟・・・この宗麟というのは、禅宗の法名で、本当の名前は大友義鎮(よししげ)

そんな禅宗にどっぷり浸かっていいた宗麟の人生が変るのは、天文二十年(1551年)にあのフランシスコ・ザビエルと会ってからでした。

ザビエルの話に感銘を受け、気持ちはどんどんキリスト教に傾いていきます。

宣教師たちは、宗麟の事を「豊後の王」と呼び、「日本の初期の布教の成功は、神デウスと豊後の王のおかげである」とイエズス会への報告書にも書いています。

領主が熱心に布教活動するのですから、当然家臣のなかにもキリスト教信者がどんどん増えて行きます。

しかし、そうなるとやはり家族や重臣などの中にも、あまりのキリスト教どっぷりぶりにこころよく思わない者も出てきます。

やがて、宗麟はキリスト教に反対する奥さんとも離婚するし、家臣の内部分裂も深刻な問題になってきます。

そこで、元亀四年(1573年)に宗麟は家督を息子の義統(よしむね)に譲り、天正五年(1577年)には、いっさいの政務から身を引いて隠居となり、純粋にキリスト教徒としてのみ生きようと心に決めたのです。

ちょうどその頃、隣国・日向(宮崎県)の大名・伊東義祐(よしすけ)島津氏との戦いに敗れ、国を捨てて豊後へ逃げて来る・・・という事が起こります(8月5日参照>>)

いずれは決着を着けなければならない北九州の雄・大友氏と南九州の雄・島津氏・・・「そうだ!もし、その戦いに勝って、日向を手に入れる事ができたなら、そこに、キリスト教徒によるキリスト教徒のための理想郷を造れる!」

宗麟は洗礼を受け、正式にキリスト教徒のドン・フランシスコとなり、日向争奪の戦いへと進んで行きます。

翌・天正六年(1578年)春になると、早速、大友氏は日向に進攻を開始します。

またたく間に日向北部を占領し、秋には宗麟自ら船団を組んで、海路、日向へ・・・船には十字架の軍旗をかかげ、兵士は胸にロザリオを懸け・・・まさにキリスト教一色です。

上陸した宗麟は、延岡市郊外の無鹿(むしか)を本拠地と定め、近隣の社寺を取り壊しては、その材料で教会を建築・・・「いつか、ローマにもその名声が轟くようなキリスト教国家・ムシカを造るぞ~」と、大ハリキリです。

やがて、日向の各地に城を攻め落としながら南下していた大友軍の主力部隊は、天正六年(1578年)11月11日児湯郡高城あたりで、島津軍の主力部隊と衝突・・・耳川の戦いの火蓋が切られました。

しかし、翌日の12日まで続いたこの合戦に大友軍は大敗してしまうのです(2008年のページ参照>>)

多くの重臣を失い、全軍総崩れとなった大友軍は、耳川のあたりまで追撃され壊滅状態となります。

12日の夕方には、傷ついた兵士たちが命からがら無鹿に逃げ込んで来て、合戦の状況が明らかになるにつれ、無鹿で理想郷建築に携わっている者たちにも動揺が走ります。

宗麟自身もその日の深夜、とりあえず無鹿を脱出・・・こうして、大友宗麟のキリシタン理想郷建国の夢は終わりました

この日を境に、大友氏は内部分裂が収拾不可能な状態のまま、衰退の道を歩んで行くのです。

やがて豊後の本拠地にまで進攻してくる島津軍・・・結局、自ら九州征伐に出陣してきた豊臣秀吉の力を借りて、何とか豊後一国を死守した大友氏でした。

大友氏にとって、今日・11月11日が運命の別れ道だったようです。
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2006年11月10日 (金)

悲劇の皇子・有間皇子死刑

 

斉明天皇四年(658年)11月10日、有間皇子が謀反の罪で、紀州・藤白の坂で死刑となりました。

・・・・・・・・・・

話は大化の改新の頃にさかのぼります。

皇極天皇四年(645年)6月12日に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり)の手による蘇我入鹿の暗殺によって始まった大化の改新(6月12日参照>>)

時の天皇・皇極天皇(中大兄皇子の母)は退き、その弟の孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となります。

元号も大化と定められ、都は飛鳥から難波に遷されました。

その孝徳天皇の息子が有間(ありま)皇子です。

この時わずか5歳でした。

有間皇子の母・小足媛(おたらしひめ)の父・安倍倉梯麿(あべのくらはしまろは、この新政権で左大臣に任命され、有間皇子の前途は希望に満ち溢れていたはずです。

しかし、新政権の実権を握っているのは中大兄皇子の一派で、彼らから見れば孝徳天皇は、だだの飾り物。

やがて、有間皇子の大きな後ろ盾であった母方の祖父・倉梯麿が亡くなると、孝徳天皇軽視の姿勢はあからさまになって来ます。

白雉四年(653年)、孝徳天皇が反対するにもかかわらず、皇太子・中大兄皇子は都を難波から飛鳥に強引に戻してしまうのです。

中大兄皇子はもちろん、先の天皇(皇極天皇)や皇后・間人(はしひと)皇后(中大兄皇子の妹)までもが、孝徳天皇を難波に置き去りにしたまま、全員で飛鳥に引っ越してしまいました。

失意の孝徳天皇は翌年、孤独のまま亡くなってしまいます。

この時、有間皇子15歳でした。

以前、蘇我入鹿のお気に入りだった古人大兄皇子(中大兄皇子の兄)も、ともに入鹿暗殺を行った蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)も、邪魔者だと思えば容赦なく死に追いやってきた中大兄皇子。

聡明な有間皇子は、次のターゲットが自分である事を感じずにはいられませんでした。

そして、先の皇極天皇がもう一度即位して、斉明天皇となった頃、有間皇子は気がふれたふりをして身を守ろうとするのです。

そして、病気治療として牟婁(むろ)の湯(和歌山県・白浜温泉)にしばらく滞在するのでした。

やがて三年後、病気が治ったと、都(飛鳥)に戻って来るのですが・・・そんな時、斉明天皇がことのほかかわいがっていた孫の(たける)皇子が、わずか8歳で亡くなってしまいます。

病気のように落ち込んでしまう斉明天皇・・・。

・・・ならば、「あの有間皇子の病気を治した牟婁の湯へ我々も行こう」と、いう事になります。

後から思えば、この旅行は中大兄皇子の計略だったのかも・・・

なぜならこの頃、斉明天皇が次から次へと行った無茶な土木工事が朝廷の中でも問題になっていて、政府内に反対派が生まれつつあったのですが、そんな時期に、天皇と皇太子そろって都を離れるなど、なかなか考えられない事ですから・・・。

案の定・・・
天皇御一行が都を出発した斉明四年(658年)10月10日からまもなくの11月3日、蘇我氏の生き残り蘇我赤兄(そがのあかえ)が、有間皇子のもとを訪ね、次々と現政府の批判を口にします。

赤兄が中大兄皇子に滅ぼされた蘇我氏の人間であったからなのでしょうか、有間皇子はこれが陰謀だという事を見抜けず、赤兄の口車に乗ってつい、同じように政府の批判をし、自らが政権を握りたい意志がある事を赤兄に告げてしまうのです。

その、わずか2日後の11月5日赤兄本人が出した兵によって、有間皇子は逮捕されてしまいました

9日には、天皇と皇太子のいる紀州へ有間皇子は護送されました。

その護送の途中、南部町の岩代で有間皇子が詠んだ歌が万葉集に残ってします。

♪磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び
 真幸
(まさち)あらば また還り見む♪
「磐代の浜に生えている松の枝を結んで行く(当時の長寿のおまじないです)、幸いにも許されたなら、帰り道この枝を見る事にしよう」

しかし、有間皇子の小さな願いが叶う事はありませんでした。

南紀の地で、謀反の意志を詰問する中大兄皇子に有間皇子は、こう答えます。

「天知る、地知る、赤兄知る、吾(おのれ)(もはら)(し)らず」
天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない)と・・・。

わずか19歳の少年は、紀州に着いた翌日の斉明天皇四年(658年)11月10日、藤白の坂で絞首刑に処せられました。
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2006年11月 9日 (木)

今日は、太陽暦採用記念日

 

明治五年(1872年)11月9日、明治政府が、今まで使用していた太陰太陽暦=天保暦を廃止し、これから新しく太陽暦を採用する事を発表をしたので、今日は太陽暦採用記念日という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

要するに、これまで日本が使っていた旧暦から、欧米が使用している新暦に変るわけですが、具体的にはこの明治五年の12月3日が明治六年の1月1日になるって事で、なんと12月2日が大晦日って事になるわけです。

そんな事を、1ヶ月前の今になって発表しちゃうもんですから、もう国民は大変!

しかも当初の発表では、12月3日ではなく、11月を2日増やして(旧暦は11月が29日までしかない)31日までとし、12月をまるまる無しにする・・・つまり11月31日の次が1月1日って事にすると発表したのですが、さすがにそれは非難殺到になってしまい、急遽2日間だけの12月を過ごしてからお正月という風にしました。

それでもエライ事です。

それにしても、何でこんな暮れのややこしい時の採用を、わずか1ヶ月前の今日発表したのか?と言いますと、もちろん外国からの要請もありましたが、何と言っても明治政府の財政難です。

実は、江戸時代の日本では、給料も物品等の支払いもほとんど年俸制だったのですね。

何か、物を買ってもその場で支払う・・・あるいは月末に支払うのではなく、年末にまとめて支払っていたんです。

だからこそ、12月の別名が師走=師(坊さん)も金集めに走る・・・と、いう意味で、そう呼ぶようになったらしいのですから・・・

なので、1年間の買い物代=借金を年末までに支払わないといけない・・・と思うと、気になって気になって何も手につかない・・・

だったら、いっその事、パァーっと派手に何かやってその事を忘れちゃえ!・・・これが、今も年末のテレビ番組などでよく使われている年忘れという言葉です。

もちろん、忘年会もそーゆー意味です。
(借金忘れちゃいましょうv(^o^)v)

ちょっと話がそれましたが、とにもかくにも、そんな感じの江戸時代の年俸制を、現在のような月給制に、維新後の新政府が率先して変更したわけですが、それが、前年の明治四年・・・

おかげで、それに続くように、この頃は、庶民の生活でも徐々に、月払いが浸透しつつある頃であったわけですが・・・

そんな中、この翌年の明治六年が旧暦の(うるう)にあたる年だったわけで・・・・

で、この閏年・・・現在の新暦の閏年は、2月が29日まである年の事を言いますが、旧暦の閏年とは一年が13ヶ月ある年の事を言います。

たとえば、幕末動乱の真っただ中の慶応元年(1865年)が閏年なのですが・・・
「人斬り以蔵」と恐れられた土佐勤皇党岡田以蔵(いぞう)が処刑されるのが慶応元年(1865年)5月11日(2011年5月11日参照>>)、その以蔵に暗殺を指示していたと言われる勤皇党トップの武市半平太(たけちはんぺいた)が切腹するのが慶応元年(1865年)閏5月11日(2010年5月11日参照>>) ・・・

同じ慶応元年(1865年)5月11日ですが、半平太が切腹するのは閏5月=つまり2度目の5月11日なので、両者の死は、ほぼ1ヶ月の間が開いていた・・・という感じですね。

つまり、このまま、旧暦で来年を迎えたら、次の明治六年は、1年間が13ヶ月なので政府は、公務員たちに13回給料を払わなければなりません

・・・が、来年が新暦になるなら、1年が12ヶ月なので、給料は12回で済みます。

しかも、今、新暦を採用して12月を無くしてしまえば、その給料も支払わなく済む・・・全国の公務員全員の2ヶ月分の給料分が浮くという事になります。

あの大隈重信「うまい事考えただろ?」と、後々自慢していた・・・というから、彼の考えた事なんでしょうね。

しかし、いきなり「暮れの12月3日が元日です」と言われた市民は大騒ぎです。

収入は1ヶ月分減るのに、支払いは1ヶ月早まる・・・となれば大迷惑。

それでも東京などでは、なんとかすばやくなじめたものの、やはり地方では農業・漁業などで二十四節季(10月8日参照>>)などの昔からの暦を使って仕事をしていた人々には、かなり抵抗があったようで・・・

ある商人の息子が、嫁さんをもらう事になり、結婚の日取りを○月○日と決めておいたところ、嫁さん側は嫁入り道具一式をそろえはるばるをやって来たものの、婿殿の家はシ~ンと静まりかえっています。

不思議に思いながら戸を叩くと、出てきた相手もびっくり仰天。

急遽、結婚式を行って事なきを得ましたが、あとで確かめてみると、これまで嫁さん側は新暦、婿殿は旧暦のつもりで話しをていたとか・・・。

当時の人たちの混乱ぶりがうかがえるエピソードですね。
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2006年11月 8日 (水)

平安京、命名の日

 

延暦十三年(794年)11月8日、桓武天皇新しい都に平安京と名付けました。

・・・・・・・・・

桓武(かんむ)天皇が怨霊に怯えながら、何事もないように・・・との願いを込めて平安京と名付けた事は、都が遷された10月22日>>に書かせていただきましたが、当時は一般的に都の事を、もしくは京都と呼んでいました。

ですから、藤原京も長岡京も、そして平安京も、京または京都と呼んでいたんです。

それにしても、最初は桓武天皇もまさか、ここまでこの地が長く都であり続けるとは、思っていなかったでしょう。

古来から、天皇が変れば遷宮(天皇の居所を都の中の別の場所に遷す事)したり、何か不吉な事で引越したり・・・という事がしばしばありましたから、平安京も最初のうちは、そのような不安定な状況だったようです。

桓武天皇の後を継いだ息子の平城(へいぜい)天皇が、たった三年で弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲って、奈良の平城京で隠居暮らしをしている時、奈良の平城京に都を戻し+自分が天皇に返り咲こうとした例の藤原薬子の乱(9月11日参照>>)が起きた事で、ビビッた嵯峨天皇は、退位した元天皇の居場所として、現天皇の住む内裏の近くに、前天皇の住む後院という建物を造り、不穏な動きが起きるのを防ぐ・・・という措置をとりました。

鴨長明(かものちょうめい)『方丈記』にも
「この京はじめ聞けることは、嵯峨の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにける・・・」
と、嵯峨天皇の時代にやっと平安京が落ち着いた事が書かれてあります。

これ以降は、平清盛(たいらのきよもり)が政権の建て直しを図って、福原に遷都した(11月26日参照>>)5ヶ月間を除いて、明治までの長きにわたり、ここに都が置かれる事になります。

源頼朝(みなもとのよりとも)は、かなり都志向が強かったらしく、それを心配した千葉常胤(ちばつねたね)の進言(10月6日参照>>)により、都で幕府を開くのをやめ、鎌倉で幕府を開きました。

足利尊氏(あしかがたかうじ)の場合は、すでに経済が京都を中心に回っていた事、南北朝の動乱で自身が京都を離れられなかった事などあって(8月15日参照>>)京都以外では幕府を開けない状態だったと思われます。

もし、ここで強引に別の場所で幕府を開いていたら、現在の京都の町は大きく変わっていたのでしょう。

室町時代に、北山文化&東山文化が花開いた(6月27日参照>>)事によって伝統文化の息づく町となった京都は、明治に東京に遷都された後も、都としての魅力を持った町としての現在の位置を保っているのでしょうね。

Dscn0965 清水寺の夕景

 

 

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2006年11月 7日 (火)

荒木又右衛門は何人斬ったか?

 

寛永十一年(1634年)11月7日は、曽我兄弟の仇討ち(5月28日参照>>)忠臣蔵(12月14日参照>>)と並んで、日本三大仇討ちと称される伊賀上野鍵屋の決闘があった日だと言われています。

・・・・・・・・・

その決闘で、剣豪・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が大活躍!

ちょっと、前までは時代劇の定番にもなっていました。

伝説の36人斬りで、又右衛門は超・有名人になるわけですが・・・この人数・・・怪しすぎます~
(ウチの祖母は「アレはホンマは二人半やねんで」と見てきたような事を言ってましたが、その半の意味もワカラン)

そもそもの発端は、岡山藩士の渡辺数馬(わたなべかずま)なる人物の父親・渡辺靭負(ゆきえ)が、ちょっとしたイザコザで、河合又五郎(かわいまたごろう)に殺されてしまい、この数馬さんが、「父のカタキ!」とばかりに、主君・池田忠雄(いけだただかつ)に願い出て、仇討ちを決意するのです。

しかし、この数馬さん、けっこう腕に自信がない・・・で、お姉さんの旦那で、大和郡山藩の剣法師範だった荒木又右衛門に助太刀(すけだち)を頼むのです。

そして、仇討ちの旅に出て、全国を探し歩くなか、伊賀上野の鍵屋の辻(三重県上野市小田町)にて、にっくき敵・河合又五郎を発見します。

「やっと見つけたぞ。父の敵!
いざ、尋常に勝負しろ!」

と、決闘が始まります。

しかしこの時、相手にも助っ人が大勢いました。

又右衛門は、とにかく数馬と又五郎を一対一で戦わせようと大奮闘!

相手の助っ人36人を斬り倒し、ふたりっきりになった所で・・・
「さぁ、どうぞ」と・・・

数馬は、勇んで又五郎に斬りかかり、本懐を遂げる・・・というのが、時代劇で描かれるストーリーです。

(なんか・・水戸黄門でこんなシーン見た気がする・・・その場合は、たいてい助さん格さんがまわりの邪魔者をやっつけて、幼い弟と美人の姉さんが仇討ってるなぁ~)

ところが、皆さんお察しのように、実際はこんなドラマのような話ではありません

そもそも父の敵でもなかった・・・というのだから、話は根底からくつがえされますよね~。

本当は又五郎が斬ったのは、数馬の兄で、しかもその兄は主君・池田忠雄の恋人だった(もちろん男同士のアレです)そうで、恋人を殺されてメチャメチャ怒った池田さんが、本当は自分が敵討ちしたいぐらいなんだけど、殿様なのでそーゆーわけにはいかず、弟の数馬に「やっちゃいな」と、命令したというのです。

しかも、又五郎の雇った助っ人は十数人らしく、全員斬っても、36人にはほど遠い・・・。

事実、この時の仇討ちの報告書が、藤堂藩に残っているそうなのですが、その文書によると・・・
●本人:渡辺数馬 年齢:27歳
     胸に2ヶ所の重症
●荒木又右衛門:姉婿 年齢36歳
     右手親指と薬指軽症
●河合甚左衛門:又五郎伯父 年齢41歳
     左肩1ヶ所・又右衛門討つ
記録はこれで終わりです。

えぇ!・・・一人?
しかも伯父って・・( ̄○ ̄;)!・
36人はないにしても、まさか一人とは・・・

歴史って、知らないほうがロマンがあって良い事も時々ありますね。

とにかく、江戸時代、この仇討ちは講談で大評判になります。

評判を呼べば呼ぶほど、どんどん人数が増えていってしまった・・・て所でしょうか。
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2006年11月 6日 (月)

八犬伝の滝沢馬琴、忌日

 

嘉永元年(1848年)11月6日、あの南総里見八犬伝の著者として有名な滝沢馬琴が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

この滝沢馬琴(ばきん)さん・・・本名を滝沢興邦(おきくに)さんと言い、ペンネームが曲亭馬琴(きょくていばきん)です。

曲亭は読み方を変えるとくるわと読め、馬琴まことと読めます。

『くるわ(廓)でまこと(誠)・・・遊郭で遊びもしないで、真剣に遊女に尽くす・・・という意味で、若い頃の遊びすぎに対する反省の意味が込められているそうな。

ちなみに、滝沢馬琴という呼び方は後世の人が本名とくっつけて勝手にそう呼ぶようになたのであって、ご本人は一度も使った事がないそうです。

馬琴は、江戸・深川旗本屋敷の用人滝沢興義(おきよし)の三男として生まれます。

9歳の時に父が亡くなり後を継ぎますが、15歳でそれを捨て放浪生活(早くもニート?)に入ります。

24歳の時に、やっと自分の目標とする物を見つけたのか、人気作家山東京伝(さんとうきょうでん)の弟子になり、作家としてのスタートを切りました。

その後は驚異的な精力をもって、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『月氷奇縁(げつひやうきえんなどの多くの小説を書きまくります。

中でも有名なのが、文化十一年(1814年)~天保十三年(1842年)の28年の歳月を費やして完成させた98巻の膨大な伝奇小説『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)です。

しかし馬琴は、この八犬伝の最後のほうを書く頃には、老齢のためか、視力が「昼と夜の違いがやっとわかる」程度まで落ちてしまいます

息子にも先立たれたため、しかたなく、少しだけ文字を知っている息子の嫁・みちに、めっちゃムズイ漢語だらけのこの原稿を、口述筆記するという無謀な状況で執筆を続けたのです。

そのため「息子の嫁ばかり、そばに近づける~」と奥さんがヤキモチを焼いて、そうとう嫁いびりもキツかったと言いますが、何とか完成して刊行するやいなや大評判となり、明治まで続く大ロングセラーとなるのです。

歌舞伎や浄瑠璃でも花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつぶさ)という演目で上演され、今でも、映画やドラマになる人気作品ですよね。

やはり、人気の秘密は、下克上の激しい時代背景、化け猫妖婦といった特異なキャラクター、水滸伝をベースにした荒唐無稽な設定に、勧善懲悪のヒーロー物・・・ありとあらゆる要素が詰まっている感じでしょうか?

犬と結婚するというとんでもない事になっちゃった伏姫

その伏姫の死に際に飛び散った八つの玉・・・その玉に導かれて集まる8人の剣士

八つの玉にはそれぞれ、の文字が浮かびあがります(これは、NHKの人形劇で覚えました)

それぞれの剣士の性格や運命がこの文字の意味と関係がありそうな所もイイですね。

剣士全員の名前にの文字がついているという作者の変なこだわりも面白いです。

・・・で気づいてました?

伏姫のの字も人+犬

伏姫を誤って鉄砲で撃ってしまう家臣の金碗大輔(かなまりだいすけ)が出家して名乗る名前がヽ大(ちゅだい)法師

これもヽ+大で犬の字になるんです。

最近まで気づいてなかったのは、私だけかな?( ̄◆ ̄;)

とにもかくにも、漢語だらけの難しい文なので、私はまだ原文で読んだ事は無いのですが、これが、講談師の語り口のように、けっこう名調子なのだそうで、いつか機会があったら、全部は大変なので、名場面をちょびっと読んでみたいな・・・とは、思ってるんですけどね。

*最期の時の様子2015年11月6日【滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身】でどうぞ>>
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2006年11月 5日 (日)

坂上田村麻呂の真実

 

延暦十六年(797年)11月5日、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍に任命されました。

・・・・・・・・・

平安時代でも、まだ日本は一つの国家ではありませんでした。

東北には、中央政府から蝦夷(えぞ・えびす)と呼ばれる別の国家があったのです。

この蝦夷に関しては、縄文人の末裔説や、今のアイヌ系の人々がそうだという説など、定まった説は未だありませんが、ともかく、東北には強い勢力を持つ、別国家が存在し事は、もはや誰もが知っている事です。

畿内に誕生した大和政権は、そんな抵抗勢力を押さえ、中央集権化をめざし度々軍を差し向けていましたが、平安京に都を遷した(10月22日参照>>)第50代・桓武天皇の時代になっても、未だ配下に組み入れる事はできていませんでした。

蝦夷を征伐するという意味の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)なる役職に、武勇優れた武将を任命し、何度も軍隊を派遣しますが、蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)の抵抗にあって、あえなく失敗。

そして、延暦十六年(797年)の11月5日に、新しく征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が派遣され、3度目の正直で、蝦夷を平定した事は、【清水寺建立への思い】(7月2日参照>>)のページにも書きましたが、その蝦夷平定はどうやら武力だけではなかったようです。

田村麻呂の家系は、もとは渡来人・東漢(やまとのあや)という人物で、田村麻呂のひぃじいちゃんが天武天皇を助けて壬申の乱(7月22日参照>>)で大活躍した事から、その後、武勇で朝廷に仕える家柄となったのです。

身長は五尺八寸(約175cm・当時としてはデカイか?
胸の厚さ一尺二寸(約36cm・一瞬バストかと思った(^-^;
目は鷹のようで、髪は黄金の糸のよう(金髪か?)
体重は、必要に応じて64斤~201斤(一斤=600g)の間で、自由に変えられる(そんなアホな!)・・・

なんていう記録が残っていますが、猛獣も恐れる容貌というのは、彼の武勇伝をより豪快に伝えたいがための後世の創作で、本当はそんな恐ろしい容姿の人、力で相手をねじ伏せるといったような人ではなかったようです。

敵の大将・アテルイを都に連れて帰ったのも、彼を処刑するためではなく、朝廷と話し合いをさせるためだったと言われています。

ずっと抵抗し続けていたアテルイが、延暦二十一年(802年)の4月15日に、あっさりと田村麻呂に投降するのも、降伏ではなく、話し合いの意志があったからなのです。

ところが、都の公家たちが、「蝦夷は獣の心を持っているので、話し合ってもムダだ」と言って、その5ヵ月後の9月・・・アテルイを斬首してしまうのです。

この田村麻呂・アテルイ仲良し説が、にわかに真実味を帯びてきたのは、蝦夷平定の拠点として築城された胆沢(いざわ)から、田村麻呂の時代の物と思われる農業試験場が発見された事からです。

この遺跡は、当時の田村麻呂が、未だ稲作を知らない蝦夷の人々に、寒い地方での稲作の方法を農業試験場で研究しつつ、教えていたのではないか?と考えられるいう事なのです。

また、彼が蝦夷の人々の崇拝する神を認め、記紀神話の神々や仏教などとの同等の扱いをしていた事もわかっています。

そうやって、お互いの信頼関係を築いていき、戦わずして蝦夷を平定したのではないでしょうか?

もし、本当に田村麻呂が戦わずして蝦夷を平定したのなら、まさに大将軍と呼ぶにふさわしい人物ですね。

まだまだ研究の余地はありますが、もしかしたら、中央のお役人・官僚の方々と、最前線の武人とは、蝦夷の人々への接しかたが違っていた可能性もありますね。

亡くなる1年前に勃発した藤原薬子の乱(9月11日参照>>)の平定にも活躍し、最後まで武人として生きた田村麻呂は、弘仁二年(811年)の5月23日54歳でこの世を去りました。
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2006年11月 4日 (土)

服部半蔵に影はあったか?

 

慶長元年(1596年)11月4日、伊賀忍者のボス・服部半蔵正成が55歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

服部半蔵と言えば・・・忍者ハットリくん!←これはハットリ・カンゾウ

やっぱ、服部半蔵と言えば・・・影の軍団!かな?

・・・で、服部半蔵というのは、服部家が代々受け継いでいく名前なので、服部半蔵さんの息子も服部半蔵なのです。

実は、服部半蔵さんはいっぱいいるんですね。

ただ一般的に服部半蔵と言えば、あの徳川家康江戸入りに従って、三河から江戸にやって来た伊賀組のボス・服部半蔵正成さんの事を指します。

服部氏のルーツとしては、紀元460年頃の第21代・雄略天皇の時代に大陸からやってきた渡来人・秦氏という説と、藤原鎌足の子孫を祖とする藤原氏説

あの平安京を造営した第50代・桓武天皇の皇子から枝分かれする桓武平氏の出だとする説もあって、はっきり言って、わからないのです。

ただ、とにかく伊賀一帯に大きな勢力を持っていた豪族であった事だけは確かです。

やがて源平合戦の時代に、伊賀(服部)平内左衛門家長(いえなが)平知盛とともに平家の一員として活躍しますが、家長の息子・保清(やすきよ)源頼朝について源氏の家臣となります。

この保清の三人の息子が、それぞれ上服部・中服部・下服部として3つの家系に別れます。

半蔵正成は、この中の上服部の出身で、20歳の時に父・半三保長とともに三河へ行き、家康の父・広忠仕えたのが、徳川家との出会いでした。

家康と年齢が近かった半蔵正成とは、けっこう気が合い、ともに武術の鍛錬などに励んと言います。

織田信長徳川家康の連合軍と、浅井長政とが戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)では、一番槍の功名をあげ、家康からご褒美をもらったりなんかしてます。

そして、『鬼の半蔵』というニックネームがつくほどの武勇伝とともに、天正十年(1582年)には、伊賀の同心200人を束ねる「鳴海伊賀衆」の棟梁となり、やがて天正十八年の家康の江戸入りに従って半蔵正成も江戸にやって来ます。

その後、鳴海伊賀衆から伊賀組に名前を改めた軍団の棟梁を勤め上げ、禄高八千石の大名並みで、慶長元年の今日11月4日に、この世を去ったのです。

・・・と、ここまでの半蔵正成の経歴を見る限り、表向きは、主君に忠実な一武将という事でしかありません。

そもそも忍者というのは、読んで字のごとく、しのんでるわけですから、記録として残ってるほうが変です。

戦国武将のバイブルとも言える兵法書・孫子(12月28日参照>>)には、いかに用間(スパイ)が重要かが書かれています。

『爵禄百金をおしみて敵の情を知らざる者は不二の至りなり』
お金をケチって敵の情報収集をしないのはバカだ
・・・という事だそうです。

また、具体的に、スパイには全軍の中で最も信頼のおける者を選び、最高の待遇を与えなければならないが、その活動は極秘にする・・・という事も書かれています。

古くは、蘇我氏VS物部氏の時に、聖徳太子が大伴細人という志能備(しのび)を使い、天武天皇壬申の乱の時、多湖弥(たこや)という者を使ったと言われていますが、いずれにしても、例の黒装束を着て、手裏剣を投げていてくれれば(ついでに赤い仮面をつけてくれれば、よりGOOD!)わかりやすいんでしょうが、やはり半蔵正成は、一武将として家康に仕えていた姿しか、表には現しません。

ただ、半蔵正成の著書として、忍法三大秘伝書の一つと言われる『忍秘伝』『服部半蔵忍法秘事伝書・一子相伝』なども伝えられていますので、上忍(指示を出す側の忍者)と呼ばれる忍者であった可能性もあると思われます。

それと、服部家の自宅の位置にも、注目ですね。

今、皇居の半蔵門と呼ばれている場所。

もともと、その門の周辺一帯に服部一族が住んでいた場所なので、その名が付いたわけですが、城には必ず退却口という物があって、いざという時、ごく一部のSPが主君を守って脱出する場所を作っておくものなのです。

江戸城の場合、甲州街道に通じる西の門が、その退却口で、そこから脱出して甲州へ落ちる手はずになっていたとか・・・。

退却口周辺に自宅を構える服部一族は、やはり重要な役目を荷っていたと考えられますね。

伊賀忍者甲賀忍者については12月2日【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】をどうぞ>>
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2006年11月 3日 (金)

義経の都落ち

 

文治元年(1185年)11月3日、あの源義経が、都を落ちて行きました

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黄瀬川の対面(10月21日参照>>)ではともに涙を流し、一連の源平の合戦数々の功績(3月24日参照>>)を残してくれたにも関わらず、そんな弟・義経拒否する(5月24日参照>>)兄・頼朝・・・。

配下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)を派遣して、義経を討とうとしますが、この時はあえなく失敗(10月11日参照>>)

そして今度は、嫁・政子の父・北条時政が総大将となって、義経追討軍がいよいよ鎌倉を出発しました。

もう、京の町はその噂で持ちきりです。

そんな中、11月1日に義経は後白河法皇「四国と九州をちょーだいなv(^o^)v」と、願い出ます。

壇ノ浦で平家を滅亡に追いやったのは義経ですから、筋が通ってなくもないですが、それはあくまで、鎌倉の頼朝になり代わって行った合戦ですから、そんな事したら鎌倉の頼朝が怒るに決まってます。

・・・かと言って、今、目の前にいる義経に拒否する勇気もなく、朝廷は迷いに迷ったあげく・・・

『義経記』では、この時の義経には、四国と九州を治めるように朝廷から命令が出た事になっていますが、『平家物語』では、あくまで、四国と九州の武士たちに「義経に従え」という手紙を書いただけ、という事になってます。

そして、いよいよ文治元年(1185年)11月3日義経一行は京都を出発します。

とにかく、結果的には都落ちであったとしても、少なくとも、この時点での義経自身は、四国と九州を治める気満々での旅立ちだったのです。

義経の名声に数多くの者が従う中には、義経の叔父で、源平合戦の発端ともなった『以仁王の令旨(りょうじ・天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を源氏の生き残りに配達してまわった源行家(みなもとのゆきいえ=義経の叔父)もいました。

一行は、陸路を西へ進み、やがて大物の浦(尼崎)から船に乗って四国を目指します。

最初は、船はゆっくりと漕ぎ進み、おだやかな船旅でしたが、播磨の国・書写山が見えだした頃、にわかに異様な黒雲が現れ、強い風が吹きつけてきます。

弁慶が、「あれは、平家の怨霊に違いない」と、黒雲に向かって矢を射掛けたところ、黒雲は消え去り、一旦は穏やかになりましたが、ホッとする間もなく、また嵐が襲ってきました。

今度の風はもっと強く、帆をおろそうとしますが、滑車が凍りついておろせません。

しかたなく、カマなどで、帆をズタズタに切り裂き、なんとか船は転覆をまぬがれますが、なおも続く大きな波にもまれて木の葉のように揺れ動きます。

この船には、義経が都から連れてきた女性が十数人乗っていましたが、都ではあれほど仲が悪かった女たちも、今にも転覆しそうなこの船の中では、お互いに抱き合い、励まし合ったと言います。
もちろん、静御前も・・・。

そのうち、帆柱も中ほどから折れてしまい、舵も壊れて、ますます船は波にもまれ、ともに船出したいくつかの船も、もうどこへ行ったかわからなくなってしまいました。

やがて、一夜が明け、風は静まり、船は、見るも無残な状態にはなりましたが、何とか転覆せずに、陸の近くに漂いつきました。

命からがら陸にあがったものの、船に乗っていた一行には、ここがどこだかわかりません。

家来の片岡八郎が、あたりを調べてみると、古い鳥居が見え、神社には80歳くらいの老人いましたので、その老人に尋ねたところ「ここは、芦屋の里だと言います。

芦屋の里とは、大物の浦一帯の事をさしていて、つまり昨日船出した同じ場所に帰ってしまっていたのでした。

一行は愕然とします。

船はもう、航海のできる状態ではありませんし、陸には、頼朝配下の追討軍が迫ってきていました。

別の船に乗っていた叔父・行家の所在もつかめないままです。

義経はしかたなく、ここから摂津大和を越え、吉野へと向かう事になるのですが、先ほどの十数人の女性たち・・・。

平家物語によると、義経は浜辺の松の下ですすり泣くこの女性たちを、ここに置き去りにしたままとっとと吉野へ行ってしまうようなのですが、次は、例の静御前との『吉野の別れ』の名場面(11月17日参照>>)が待ってるわけですから、静御前だけは連れてったって事なんでしょうか?・・・ちょっとショック・・・。

結局、この一週間後の11月11日には、かの後白河法皇が、頼朝に対して『義経追討の院宣(天皇家の命令)を下し、義経は正式に朝廷から追われる賊軍、頼朝は官軍となります。
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2006年11月 2日 (木)

織田信長が信行を暗殺

 

弘治三年(1557年)11月2日、清洲城において織田信長が、弟・信行を殺害しました。

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若い頃の織田信長が、天下一のうつけ者と呼ばれていたのは有名なお話で・・・

ペラペラの着物の片袖を脱いで、帯の代わりに縄を腰に巻いて、そこに火打ち石などぶら下げた、なんとも奇抜なファション。

髪を茶せんのように結って、近所のワル仲間のヘッドをやって、フラフラ遊び歩いてばかりいました

父・信秀が亡くなった時も、葬儀にその格好のまま現われ、仏前のお線香の灰を投げつける・・・これは、数々の信長を描くドラマでも必ず登場するシーンですね。

その葬儀の時でも、弟・信行は、姿形はもちろん、凛とした振る舞いで、兄・信長とは対照的でした。

当然、周囲には「そんな『うつけ者』の兄より弟のほうが織田家を継ぐにふさわしい」という声が出て来るようになります。

父が亡くなった後は、一応『うつけ者』を卒業し、尾張統一に向かって突き進む信長でしたが、そうなっても、まだ信行を押す家臣たちも多く、最終的に織田家の中では、信行が最大のライバルとなっていました。

ところが、弘治二年(1556年)信長の才覚を見抜いて高く評価していた隣国・美濃(岐阜県)斉藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて亡くなってしまいます(4月20日参照>>)

それが、きっかけとなったのか・・・その後すぐに信行は、柴田勝家林秀貞(ひでさだ)らの重臣を見方につけて、信長に反旗をひるがえします。

信行にしてみれば、やはり「織田家を継ぐのは兄より自分のほうがふさわしい」という気持ちがあったのかもしれません。

受けて立った信長は、勝家や通勝らを次々と打ち破り、追い詰められた信行は自分の城で籠城の構えです。

そんな時、信長・信行兄弟の生母の実家である土田氏が間に入り、この戦いは一応、和睦・・・という事で終結を向かえました(8月24日参照>>)

しかし、翌・弘治三年、信行は再び謀反を企てますが、今度は勝家がその計画を信長に密告します。
勝家さん、世渡り上手ネ!

かくして、弘治三年(1557年)11月2日・・・
信長は「重い病気にかかった・・・」と、ウソをついて、信行を清洲城におびき寄せます。

そして、そうとは知らずやって来た信行を、信長は有無を言わさず、自らの手で斬殺しました。

こうして、家内の最大のライバルを消し去った信長は、その後、同族どうしで争ってきた尾張の国を統一(11月1日参照>>)、いよいよ天下取りへと進んで行きますが・・・

その途中での、信長、初めての上洛については2010年の11月1日でどうぞ>>
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2006年11月 1日 (水)

灯台記念日に灯台の歴史

 

明治元年(1868年)11月1日、東京湾の入り口、観音崎に日本で初めての西洋式灯台が設置されたのを記念して、昭和二十四年(1949年)に海上保安庁が、11月1日を『灯台記念日』としました。

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灯台の歴史は、遠くギリシャ時代にさかのぼります。

それは、ギリシャの数学者フィロンが選んだ『世界七不思議』の一つ、アレクサンドリアの大灯台、これが世界最古の灯台でしょう。

ちなみに世界七不思議とは・・・
 エジプトの大ピラミッド
 バビロンの空中庭園
 ハルカリナッソスの巨大廟マウソレウム
 オリンピアのゼウス像
 エフェソスのアルテミス神殿
 ロードス島の巨人像
そして、このアレクサンドリアの大灯台の七つです。
現存するのは、エジプトのピラミッドだけ。
私にとっては、なぜ不思議がいつも七つなのかが、一番不思議です。

紀元前280年にエジプトのアレクサンドリア港のファロス島に建設された高さ180mの、石を積んで造られた塔の上で、樹脂に草木を混ぜた物を燃やして、灯りとしました。

日本の灯台の歴史としては、まずは(これは灯台とは言えないかもしれませんが・・・)海岸に灯した松明がその原型とも言える物です。

Dscn2630a600 そして、9世紀の初めに、僧・空海が大阪湾に近い住吉神社に奉納した『灯明台』が、正式な記録としては、最も古い物です。

この灯明台はその後、19世紀に入って、種油で火を灯す高さ20m石灯篭に改築されました。

他に灯りがないこの時代・・・真っ暗闇の中に浮かぶその火は10km向こうからでも見えたそうです。

住吉神社は、大阪の住吉大社を総本宮とする海上安全の守り神

水を司る水神ですからね~。

そして、次は慶長元年(1596年)の神奈川県・城ヶ島の灯明台

その次は、慶安元年(1648年)の浦賀の灯明台

しかし、この二つは、海の安全を護る・・・というよりは、外国船が近づいてきた時に合図する見張り台のような物で、本来の灯台としての役目ははたしていなかったようです。

そして、いよいよ日本で初めての西洋式灯台観音崎灯台の登場となります。

明治元年11月1日に工事が着工されて、翌年の1月1日に点灯されました。

今でこそ、全自動の無人の灯台ですが、けっこう最近まで『喜びも悲しみも幾年月』という映画にも見られるように、灯台守という仕事はたいへんなお仕事でした。

なんせ灯台が街中に立ってる事は、ほとんどありませんからね。

岬の突端で、しかも現在のように岬にまで道路があるところなんていう方が少なかったでしょう。

岬の突端には、その灯台を護る灯台守とその家族しか住んでいないわけですから・・・利用者が少ない所に道路は作りませんからね。

けもの道をかきわけ何十時間もかかって、やっと一番近くの町にたどり着ける・・・といった状況でした。

大正天皇の皇后である貞明皇后は、そんな観音崎灯台を訪問された時、灯台守の苦労話をお聞きになって深く感銘を受け、昭和十一年(1936年)にラジオ受信機200台を各地の灯台に寄贈され、燈台守の援助活動に打ち込まれました。

そんな貞明皇后の詠まれた短歌をご紹介して、本日の記念日に当時の燈台守の人たちへの感謝の気持ちと致しましょう。

♪荒海を くだかむほどの 雄心(おごころ)
 やしなひながら 守れともし火♪

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