大坂冬の陣・野田福島の合戦
慶長十九年(1614年)11月29日、大坂冬の陣の野戦、博労淵・野田・福島の戦いが繰り広げられました。
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真田幸村が九度山から脱出し(10月9日参照>>)のが、10月9日でした。
そして、10月11日には、徳川家康が駿府を出陣します。
この出陣の日を『大坂冬の陣の勃発』とするのが一般的のようです。
そして、その後の大坂城の軍儀(10月10日参照>>)で、籠城作戦と決定した豊臣方でしたが、ずっと籠城戦で城から一歩も出なかったわけではありません。
野戦もいくつかあったのです。
幸村がせっせと真田丸の構築を始めた頃の10月23日、家康は京都の二条城に到着し、秀忠は、この日に江戸を出発し、11月10日に伏見城に入りました。
そして、11月15日、家康・秀忠がそれぞれ城を出発して大坂に向かいます。
いよいよ冬の陣の火蓋が切られたわけです。
しかし、実際に衝突が起こったのは11月16日。
九鬼守隆(くきもりたか)らが率いる徳川方の水軍が、豊臣方の水軍の本拠であった伝法口を攻撃(伝法口の戦い)・・・さらに、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)らが木津川口砦を攻撃し、まずは徳川方の一勝。
その後、小競り合いを続けながらも、慶長十九年(1614年)11月29日、博労淵(ばくろうふち)が陥落し、野田・福島の戦いは終結します(くわしくは2014年11月29日の【大坂冬の陣・初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】を参照>>。
野田・福島一帯は石山本願寺の時代から砦があった軍事の要所で、豊臣方にとっては、どうしても護っておきたい場所だったのですが、残念ながら徳川方に奪われてしまいます。
この日の敗北は豊臣方にとって大きな誤算でした。
そして、もう一つの誤算・・・それは、こうして戦いが始まれば、徐々に集まってくるだろうと考えていた豊臣恩顧の武将たち・・・彼らが大坂方として参戦してくる事はなかったのです。
この時、同時進行で、冬の陣で最大の激戦と言われる鴫野(しぎの)・今福の戦いが、26日に勃発しています(11月26日参照>>)が、だんだんと孤立していく大坂城を見つめながら家康は、自分が勝利への道を歩んでいる事を確信したに違いありません。
いや、勝利を確信するには、まだ早いですよ家康さん。
まだ、5日後に真田丸の攻防が(12月4日参照>>)あります。
写真は、大阪市城東区にある白山神社の大銀杏。
大坂冬の陣では、本多忠朝がここ白山神社に陣をおき、この銀杏の木に昇って豊臣方の様子を探った本多忠朝・物見のいちょうと言われています。
まぁ、本人が自ら昇ったとは思えませんが・・・。
地図とくわしい場所は、HPで紹介しています。
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「大坂の陣」関連のイロイロについては、左サイドバーの『大坂の陣の年表』>>のリンクからまとめてどうぞ!
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