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2006年11月 4日 (土)

服部半蔵に影はあったか?

 

慶長元年(1596年)11月4日、伊賀忍者のボス・服部半蔵正成が55歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

服部半蔵と言えば・・・忍者ハットリくん!←これはハットリ・カンゾウ

やっぱ、服部半蔵と言えば・・・影の軍団!かな?

・・・で、服部半蔵というのは、服部家が代々受け継いでいく名前なので、服部半蔵さんの息子も服部半蔵なのです。

実は、服部半蔵さんはいっぱいいるんですね。

ただ一般的に服部半蔵と言えば、あの徳川家康江戸入りに従って、三河から江戸にやって来た伊賀組のボス・服部半蔵正成さんの事を指します。

服部氏のルーツとしては、紀元460年頃の第21代・雄略天皇の時代に大陸からやってきた渡来人・秦氏という説と、藤原鎌足の子孫を祖とする藤原氏説

あの平安京を造営した第50代・桓武天皇の皇子から枝分かれする桓武平氏の出だとする説もあって、はっきり言って、わからないのです。

ただ、とにかく伊賀一帯に大きな勢力を持っていた豪族であった事だけは確かです。

やがて源平合戦の時代に、伊賀(服部)平内左衛門家長(いえなが)平知盛とともに平家の一員として活躍しますが、家長の息子・保清(やすきよ)源頼朝について源氏の家臣となります。

この保清の三人の息子が、それぞれ上服部・中服部・下服部として3つの家系に別れます。

半蔵正成は、この中の上服部の出身で、20歳の時に父・半三保長とともに三河へ行き、家康の父・広忠仕えたのが、徳川家との出会いでした。

家康と年齢が近かった半蔵正成とは、けっこう気が合い、ともに武術の鍛錬などに励んと言います。

織田信長徳川家康の連合軍と、浅井長政とが戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)では、一番槍の功名をあげ、家康からご褒美をもらったりなんかしてます。

そして、『鬼の半蔵』というニックネームがつくほどの武勇伝とともに、天正十年(1582年)には、伊賀の同心200人を束ねる「鳴海伊賀衆」の棟梁となり、やがて天正十八年の家康の江戸入りに従って半蔵正成も江戸にやって来ます。

その後、鳴海伊賀衆から伊賀組に名前を改めた軍団の棟梁を勤め上げ、禄高八千石の大名並みで、慶長元年の今日11月4日に、この世を去ったのです。

・・・と、ここまでの半蔵正成の経歴を見る限り、表向きは、主君に忠実な一武将という事でしかありません。

そもそも忍者というのは、読んで字のごとく、しのんでるわけですから、記録として残ってるほうが変です。

戦国武将のバイブルとも言える兵法書・孫子(12月28日参照>>)には、いかに用間(スパイ)が重要かが書かれています。

『爵禄百金をおしみて敵の情を知らざる者は不二の至りなり』
お金をケチって敵の情報収集をしないのはバカだ
・・・という事だそうです。

また、具体的に、スパイには全軍の中で最も信頼のおける者を選び、最高の待遇を与えなければならないが、その活動は極秘にする・・・という事も書かれています。

古くは、蘇我氏VS物部氏の時に、聖徳太子が大伴細人という志能備(しのび)を使い、天武天皇壬申の乱の時、多湖弥(たこや)という者を使ったと言われていますが、いずれにしても、例の黒装束を着て、手裏剣を投げていてくれれば(ついでに赤い仮面をつけてくれれば、よりGOOD!)わかりやすいんでしょうが、やはり半蔵正成は、一武将として家康に仕えていた姿しか、表には現しません。

ただ、半蔵正成の著書として、忍法三大秘伝書の一つと言われる『忍秘伝』『服部半蔵忍法秘事伝書・一子相伝』なども伝えられていますので、上忍(指示を出す側の忍者)と呼ばれる忍者であった可能性もあると思われます。

それと、服部家の自宅の位置にも、注目ですね。

今、皇居の半蔵門と呼ばれている場所。

もともと、その門の周辺一帯に服部一族が住んでいた場所なので、その名が付いたわけですが、城には必ず退却口という物があって、いざという時、ごく一部のSPが主君を守って脱出する場所を作っておくものなのです。

江戸城の場合、甲州街道に通じる西の門が、その退却口で、そこから脱出して甲州へ落ちる手はずになっていたとか・・・。

退却口周辺に自宅を構える服部一族は、やはり重要な役目を荷っていたと考えられますね。

伊賀忍者甲賀忍者については12月2日【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】をどうぞ>>
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

 茶々さん、こんばんは。

 服部半蔵と言えば・・・影の軍団です、やっぱり(笑)。
でも、当時いろいろな忍びがそれぞれの主人についていたのでしょうね。
仰るとおり、歴史の表舞台には登場しませんし記録にも残っていませんが、その存在と影響力は絶大だったようです。

 現代でももちろん情報は戦略の要ですから、情報大国アメリカの知らない情報は情報ではない、とまで言われている或る意味恐ろしい状況になっています。

 有史以来、情報は狩猟などでも重要だったのでしょうから、情報への執着はある種生物の宿命なのでしょうね。(動物も)

 それなのに、情報の専門機関を持たない日本って・・・??(アメリカがいるから大丈夫!?)

投稿: ルーシー | 2006年11月 4日 (土) 22時46分

ルーシーさん、こんばんは~。

そうですね。いざ!という時アメリカは日本を守ってくれるでしょうか?
心配です~。

いや、でも、政府があんなに機密費を使ってるって事は、ひょっとしたらすごい優秀な平成の服部半蔵・影の軍団が情報収集にあたってくれてるかも・・・ですよ。

なんせ、その活動は極秘なんですから・・・(笑)。

投稿: 茶々 | 2006年11月 5日 (日) 01時29分

こんにちは。はじめまして。
鳴海伊賀衆という名前に興味があります。
私の先祖は少なくとも8代前から名古屋の鳴海に住んでいたのですが、苗字を服部と申します。鳴海の近くの大高には伊賀殿という地名もみられ、鳴海伊賀衆の鳴海という名は、やはり地名から来たものと思われますか?

投稿: K | 2010年2月17日 (水) 12時44分

Kさん、こんにちは~

>鳴海伊賀衆の鳴海という名は、やはり地名から来たものと思われますか?

確証はありませんが、そうだと思います。
天正十年というのは、ご存知、本能寺の変で信長が亡くなった年ですが、この時、堺にいた家康は身の危険を感じ、決死の伊賀越え>>で岡崎まで戻り、すぐさま、光秀を討つべく尾張国鳴海まで出兵していますが、この時に半蔵から誘われて伊賀越えを手伝った200人がその配下となって、ともに出兵していますので、そこから「鳴海伊賀衆」と呼ばれたのではないか?と・・・

ちゃんとした、確証を取るためには、もう少し調べなくてはいけませんが・・・そのためのヒントになれば幸いです。

投稿: 茶々 | 2010年2月17日 (水) 17時33分

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徳川三大将軍家光の死後、世継ぎをめぐる幕府の争いはそのまま伊賀と甲賀、忍びの二大勢力の争いへと直結。「下」の服部半蔵(渡瀬恒彦)は、伊賀忍者の復権を目論む「上」の服部半蔵(西郷輝彦)の野望にやむなく協力し、甲賀四郎兵衛(緒形拳)ら甲賀忍軍と対峙することになるが…。 映像の刺客と謳われた工藤栄一監督が、光と影の美学を駆使して描いたアクション時代劇。忍者同士の戦いにアメフトの動きを用いるなど、必ずしも成功していない点もあるが、斬新なアイデアの数々で時代劇をいかに現代的におもしろく見せ... [続きを読む]

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