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2006年11月 5日 (日)

坂上田村麻呂の真実

 

延暦十六年(797年)11月5日、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍に任命されました。

・・・・・・・・・

平安時代でも、まだ日本は一つの国家ではありませんでした。

東北には、中央政府から蝦夷(えぞ・えびす)と呼ばれる別の国家があったのです。

この蝦夷に関しては、縄文人の末裔説や、今のアイヌ系の人々がそうだという説など、定まった説は未だありませんが、ともかく、東北には強い勢力を持つ、別国家が存在し事は、もはや誰もが知っている事です。

畿内に誕生した大和政権は、そんな抵抗勢力を押さえ、中央集権化をめざし度々軍を差し向けていましたが、平安京に都を遷した(10月22日参照>>)第50代・桓武天皇の時代になっても、未だ配下に組み入れる事はできていませんでした。

蝦夷を征伐するという意味の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)なる役職に、武勇優れた武将を任命し、何度も軍隊を派遣しますが、蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)の抵抗にあって、あえなく失敗。

そして、延暦十六年(797年)の11月5日に、新しく征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が派遣され、3度目の正直で、蝦夷を平定した事は、【清水寺建立への思い】(7月2日参照>>)のページにも書きましたが、その蝦夷平定はどうやら武力だけではなかったようです。

田村麻呂の家系は、もとは渡来人・東漢(やまとのあや)という人物で、田村麻呂のひぃじいちゃんが天武天皇を助けて壬申の乱(7月22日参照>>)で大活躍した事から、その後、武勇で朝廷に仕える家柄となったのです。

身長は五尺八寸(約175cm・当時としてはデカイか?
胸の厚さ一尺二寸(約36cm・一瞬バストかと思った(^-^;
目は鷹のようで、髪は黄金の糸のよう(金髪か?)
体重は、必要に応じて64斤~201斤(一斤=600g)の間で、自由に変えられる(そんなアホな!)・・・

なんていう記録が残っていますが、猛獣も恐れる容貌というのは、彼の武勇伝をより豪快に伝えたいがための後世の創作で、本当はそんな恐ろしい容姿の人、力で相手をねじ伏せるといったような人ではなかったようです。

敵の大将・アテルイを都に連れて帰ったのも、彼を処刑するためではなく、朝廷と話し合いをさせるためだったと言われています。

ずっと抵抗し続けていたアテルイが、延暦二十一年(802年)の4月15日に、あっさりと田村麻呂に投降するのも、降伏ではなく、話し合いの意志があったからなのです。

ところが、都の公家たちが、「蝦夷は獣の心を持っているので、話し合ってもムダだ」と言って、その5ヵ月後の9月・・・アテルイを斬首してしまうのです。

この田村麻呂・アテルイ仲良し説が、にわかに真実味を帯びてきたのは、蝦夷平定の拠点として築城された胆沢(いざわ)から、田村麻呂の時代の物と思われる農業試験場が発見された事からです。

この遺跡は、当時の田村麻呂が、未だ稲作を知らない蝦夷の人々に、寒い地方での稲作の方法を農業試験場で研究しつつ、教えていたのではないか?と考えられるいう事なのです。

また、彼が蝦夷の人々の崇拝する神を認め、記紀神話の神々や仏教などとの同等の扱いをしていた事もわかっています。

そうやって、お互いの信頼関係を築いていき、戦わずして蝦夷を平定したのではないでしょうか?

もし、本当に田村麻呂が戦わずして蝦夷を平定したのなら、まさに大将軍と呼ぶにふさわしい人物ですね。

まだまだ研究の余地はありますが、もしかしたら、中央のお役人・官僚の方々と、最前線の武人とは、蝦夷の人々への接しかたが違っていた可能性もありますね。

亡くなる1年前に勃発した藤原薬子の乱(9月11日参照>>)の平定にも活躍し、最後まで武人として生きた田村麻呂は、弘仁二年(811年)の5月23日54歳でこの世を去りました。
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平安時代」カテゴリの記事

コメント

  茶々さん、こんばんは。

 先週のテレビ朝日「アタック25」で、「延暦十六年(797年)11月5日に征夷大将軍になったのは?」というクイズが出ていました。
 ちゃんと解答されていましたね~あの番組は週によって難易度が違う気がしますので、何とも掴みどころがありません(笑)。

 テレビを見ながら、歴史博士の茶々さんなら全問解答なんだろうなぁ、といつも思いますよ~♪

投稿: ルーシー | 2006年11月 9日 (木) 00時29分

ルーシーさん、こんばんは~。

私も「アタック25」よく見ますね~。
特に、最後の映像問題が好きです。

児玉さんの「スタート!」の声につい、テレビの画面を覗き込んでしまいます。
1回目はCMなのに・・・。

一度はクイズに挑戦してみたいですが、たぶんダメでしょうね。

映像問題でも、半分以上見えなくても最初の時点でわかる時と、全部見えてても、答えを聞いてもわからない時と極端ですから・・・

投稿: 茶々 | 2006年11月 9日 (木) 01時05分

茶々さん、
阿弖流為は田村麻呂の真意を理解したと思いますし、無益な戦いはお互い日本人なので無駄だと分かったのに、これは東洋の問題ですけど・・・貴族は武士の気持ちを理解していないですね。
それがある意味で南北朝とか秀吉後の関ヶ原の時まで文官、武官の対立が続いたのかなと思いました。
ところで炎立つをご覧になりましたか?あれは酷いです。田村麻呂が阿弖流為をだまし討ちにしたと言う滅茶苦茶な設定です。それが真実ならば田村と言う郡や田村氏と言うのは現れなかったし、田村高校も東北には無いはずです。本当に酷い話だと思いました。
田村麻呂抜きには桓武天皇の事業は成功しなかったと思います。

投稿: non | 2015年6月22日 (月) 00時19分

nonさん、こんばんは~

「炎立つ」は見て無いのですが…騙し討ちなんですか?
それは無い…と私も思います。
おそらく田村麻呂は東北の人々と親密な交流をしていたと…

投稿: 茶々 | 2015年6月22日 (月) 01時36分

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