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2006年11月15日 (水)

坂本龍馬・暗殺の謎の謎

 

慶応三年(1867年)11月15日午後8時過ぎ、京都・四条河原町の醤油商・近江屋に潜伏していた坂本龍馬中岡慎太郎が、数名の刺客に襲われ、龍馬は即死、慎太郎は2日後に死亡しました。

奇しくも、この日は龍馬の32回目の誕生日でした。

・・・・・・・・

Ryouma25坂本龍馬は歴史上の人物の中でも、1位・2位を争う人気を誇る幕末の有名人。

彼は、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟(1月21日参照>>)を成立させました(最近は否定説も出ていますが・・)

また、土佐藩が幕府に提出した大政奉還を推進し、後の統一国家のシナリオとも言うべき『建白書』の原案を考えたのも龍馬だと言われています(6月22日参照>>)(これも否定説ありますが…)

幕末の日本を近代国家へと導くリーダー的存在だった龍馬を暗殺したのは、いったい誰なのか?

今や『幕末史上最大の謎』とまで言われるようになったこの事件ですが、事件当時は新撰組の仕業とされ、明治に入って見廻組の今井伸郎(のぶお)が自白し、そこで手打ちとなっていました。

ここまで話題になるようになったのは、けっこう近年になってからの事なのです。

事件の詳細や暗殺犯の推理については、私のHP『京阪奈ぶらり歴史散歩』で、事細かく書かせていただきましたので、関心のあるかたはHPで読んでいただければうれしいです。
(HPへはコチラから→)

・・・なので、今日は龍馬暗殺がいつから、どういう経緯で謎になったのか?龍馬暗殺の謎の謎について考えたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冒頭に書かせていただいたように、当初は遺留品によって新撰組が犯人とされ、多くの人が新撰組の仕業だと信じたまま維新を迎えます。

しかし、明治三年(1870年)、旧見廻組・隊士の今井伸郎が、真犯人はリーダーの佐々木唯三郎以下、自分を含む7人の見廻組・隊士である事を自白するのです。

龍馬暗殺に関する公文書は、今でもこの時の『刑部省口書』(調書)だけです。

他に信用できる史料は残っていません。

他の者は、みんな幕末の動乱で死亡し、生き残った今井が自白して刑に服したわけですから、当然事件はここで一件落着・・・となるのです。

その後の龍馬研究でも、『刺客は見廻組』と断定されていて、まったく謎として扱われてはいませんでした。

龍馬の功績じたいも、当時の人がどこまで把握していたか、とても疑問です。

最初に書いた薩長同盟にしても、建白書の原案である『船中八策』にしても、表立って何かをやってる風には、とても見えません。

知ってる人は知ってるが、知らない人はまったく知らない・・・実際には、当時の龍馬は、京の町をうろつく不逞浪士の一人でしかなかったわけですし、最初に書いた近代国家へと導くリーダー的存在・・・というのも、後の龍馬研究から表に出てくる事で、当時は一部の人しか知らない事だったのではないでしょうか?

そんな中で、近年になってから、当初死刑だった今井伸郎が禁固刑で済んだウラには、西郷隆盛が今井の助命のために奔走したから・・・という所から、『薩摩黒幕説』なる物が生まれてくるのです。

そして、その薩摩黒幕説をベースにした日活映画・六人の暗殺者昭和三十年(1955年)に上映され、ここで初めて一般市民が龍馬の存在を知り、その暗殺の事を知るのです。

だいたい、このあたりから謎になってきます。

その後、昭和四十四年に土佐藩の後藤象二郎を黒幕とした三好徹氏の推理小説・竜馬暗殺異聞(もちろんこれは小説なのでフィクションです)が発表されます。

そうやって、フィクション・仮設がいつの間にか新説となってマスコミを賑わすようになってくる・・・そして、今や幕末最大の謎となるわけです。

もともと、今井の自供が二転三転したり、その自供と2日間生きていた中岡慎太郎の証言が食い違っていたり・・・という、謎を予感させる種があったのも事実なのですが・・・。

まだ、生きている人がいる太平洋戦争の事でさえ、色々な意見が生まれる歴史という世界。

タイムマシンでも作ってその日に行って見て来ないかぎり答えが出るはずもない事ですが、いつも、書いています通り、私個人としては、色々な意見を持った人が、色々な意見を戦わす事こそが、歴史の楽しさだと思っていますので、謎と言われると不謹慎(暗殺事件なので・・・)ですがワクワクしてしまいます。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

 茶々さん、こんばんは。

 毎年この日がくると龍馬をやはり思い出しますね。もしも龍馬が維新後も生きていたとしたら・・・と切なくもなります。

 翌日が西郷さんの・・・だなんて初めて知りました。なにか運命的なつながりかなぁ、と勝手に思いました。
 私も『薩摩黒幕説』傾向で、投票もしました。でも、見回り組のしわざというのも否定できませんね~。
やはりミステリーのままなのでしょうか。
茶々さんのご意見は?(特集記事があるので答えにくいですよね、失礼致しました・・汗)

投稿: ルーシー | 2006年11月16日 (木) 20時40分

ルーシーさん、こんばんは。
HPのほうも読んでいただいて、重ね重ねありがとうございます。

龍馬さんは、ファンのかたも多く、ものすご~く詳しい人が様々なご意見をのべておられるので、私ごときがとうとうと自論を展開するのも何だかなぁ~・・・と思ってあえてHPでは問題提議のような形をとらせていただきました~。

2度も死のうとした西郷さん。
自殺未遂で快復するのに大変だったようですが、もし、この時お亡くなりになっていたら、その後どうなっていたのか?と運命のイタズラを感じますね。

西南戦争後の西郷生存説なんかについても、いつか書いてみたいです。

投稿: 茶々 | 2006年11月16日 (木) 21時15分

若いの連れて案内がてらに久し振りに11月15日の日曜日、龍馬暗殺デーで京都東山墓前祭へ出かけて来ました。

観光シーズン真っ盛りの、四条通りの人混みはやはり凄かった。
どこに景気の悪さがあるのか判りませんが、格差社会が観光地には確かにありました。

龍馬を通じた現代は歴史、歴史は現代を痛感した日曜日の龍馬暗殺デーでしたが、墓前に行かれたらぜひ石柱にある海援隊建立の印刻はぜひ見て下さい。

さて、今回久し振りに中世山城の霊山城の犬ばしりを見ようと、木戸孝允夫妻墓域の横から上がろうとしたら、なんと鉄線で通せんぼ。これでは犬ばしりも、山頂の伊藤博文碑も行けない、酷いことをするものです。

高知の友人を案内して数年前には登って行けたし、中世の山城の名残りを見つつ、清水寺に下って抜けれる旧道なのに実に残念な限りです。

頑固として参拝料とせずに、拝観料として龍馬.慎太郎奥津城を見せ物にする姿勢に抵抗する龍馬ファン対策でしょうが、普通にお参りする参拝者の様に参る道がなくもありません。
参拝料としてはお金を取れないので、拝観料とするのでしょう、と想う2009年11月15日(旧暦9月29日)龍馬墓前余話でした。
因みに、今年の2009年12月30日が旧暦11月15日になります。

投稿: 幕末飛脚伊三郎 | 2009年11月23日 (月) 12時46分

幕末飛脚伊三郎さん、こんにちは~

私も、3年ほど前に行きましたが、その時は通れない道などなかったように思います。

そこが「規制されている」という事でしょうか?
それは、少し残念ですね。

投稿: 茶々 | 2009年11月23日 (月) 14時28分

茶々さん、こんにちは。

龍馬が暗殺の日に、別の女性を部屋に呼んでたなんて!
やっぱり、、、(笑)
茶々さんが書いてらしゃるように
私も龍馬は「チャラ男」だった気がしてます。
洗脳されやすかったのかな。グラバーに操られてた説もあるし。

龍馬の恋人のなかで、加尾さんだけは幸せな結婚をしたみたいでホっとしましたー。
どんな女性だったか気になります。

私は晋作ファンなので、龍馬になぜみんなが心酔するのか不思議で。
「動けば雷電の如し…」と評され、風流な晋作のほうがカッコよく感じます。
(なぜ龍馬伝で晋作のキャストが発表されないんでしょ!?)

暗殺については、、陸奥さんが龍馬暗殺直後に、新撰組の人を含め宴会してたって話もあるし、、本当に謎ですね。
龍馬暗殺ではなく、中岡暗殺という話が私は当たっているような気がします。
龍馬伝で、上川隆也さんの中岡慎太郎が光ることを期待します!

いつも楽しいお話をありがとうございます♪

投稿: ぽっぽ | 2010年2月25日 (木) 10時31分

ぽっぽさん、こんにちは~

高杉晋作・・・いいですね~
NHKのサイトを見ると、登場人物の中に晋作の欄があるので、きっと登場するんだと思います。

個人的に気になるのは、佐久間象山・・・サイトの登場人物のところにも名前はないし、すでに出てきていてもよさそうなのに出ないという事は、このまま出ないんでしょうか?
気になります。

投稿: 茶々 | 2010年2月25日 (木) 11時44分

こんにちは。
ラジオで龍馬の盟友・三吉慎蔵が紹介されました。あまり知られていないようです。

投稿: やぶひび | 2010年7月 5日 (月) 03時42分

一緒にいた中岡慎太郎がなすすべなく斬られたのも不思議。
「龍馬伝」での中岡慎太郎(上川隆也さん)は、武市半平太や岡田以蔵とは顔を合わせる事がないようですね。初登場がどういう場面になるか?「昔からの親友」と言う感じで出るのでしょうか?
それにしてもどう考えても出番が遅いですよね。

投稿: えびすこ | 2010年7月 5日 (月) 09時08分

P.S.
通の間で不評の「龍馬伝」。
視聴率でもやはりと言うべきか、不安的中と言うべきか、関東では5月以降低迷して20%に届かない回が目立ちます。1~6月の「月間視聴率」で見たら、月別で篤姫や天地人より明らかに低いです。6月は朝ドラ「ゲゲゲの女房」に逆転されたかもしれません。
11日の参議院選挙投票日は、「繰り上げ放送」のため、さらに視聴率が低迷するかも。
国政選挙投票日は大河ドラマの視聴率が低い傾向です。

投稿: えびすこ | 2010年7月 5日 (月) 10時05分

やぶひびさん、こんにちは~

このあいだやってた2時間ドラマ…題名は「坂本龍馬の真実」でしたか?高島兄弟のお兄ちゃんが龍馬を演じてたやつだと、チョコッとだけ出てましたね~やっぱり寺田屋騒動のシーンで…

大河では筧利夫さんがやるみたいなので、けっこうスポット当たるんじゃないですか?
楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2010年7月 5日 (月) 12時34分

えびすこさん、こんにちは~

ホント中岡さん、遅いですね~

それにしても、最初から弥太郎が幼馴染という創作でスタートした龍馬伝ですが、だんだん天地人化してきてますよね~

いやぁ~、ドラマや小説は、創作で当たり前なんですが、だんだんと、歴史をくつがえすような一大事をやりはじめて来ています。

今後が心配です。

投稿: 茶々 | 2010年7月 5日 (月) 12時41分

>だんだん内容が天地人化~
「土佐の人を中心に物語が進むが、中央の動きにあまり絡まない」。この意味を含むのでしょうか?去年は「越後の人を中心に物語が進み、主人公が直接中央とはあまり関与しない」でしたね。むしろ、中央の動きに絡みたくない節もあるような気がしますね。
ここまでいくつかご指摘の「史実と創作の乖離点が多い」と言う事もありますね。物語展開そのものは違うんですけどね。さて本文の「龍馬・慎太郎暗殺」の場面。これをやるのかどうかも、あの中途半端な演出では微妙かも。

来年は女性主人公なので「ストーリーテイスト」が違いますね。来年は極端に史実とかけ離れる事はないでしょう。

投稿: えびすこ | 2010年7月 5日 (月) 16時38分

えびすこさん、こんばんは~

内容が「天地人化」というのは、「創作が歴史に及ぶような」というような意味です。

あくまで個人の意見ですが…
ドラマや小説は、創作があって当たり前なので、創作はどんどんしていただいて良いと思うのですが、歴史物の場合は、やはり、変えてはいけない聖域のような部分がある気がするのです。

歴史人物の人生には、変えてはいけない重要な点と点があって、その間を結ぶ線がある…その線をいかに太く&おもしろく描くかが作家の腕の見せ所のような気がするのですが、重要な点の部分までを脅かすような創作をしてしまっている気がするのです。

投稿: 茶々 | 2010年7月 6日 (火) 01時10分

>「重要な点」の部分を脅かす創作

確かに来年以降の課題と言えますね。
実はこの10年くらいは、それを時々やらかしていると言う指摘があるんですよね。
21世紀の大河ドラマは、1990年代までとはコンテンツが違うらしいんです。これは仮説ですが、20代の俳優を多く起用していると言う点が証拠の1つ。30代で死んだ人物をよく主人公にしている点がもう1つの証拠。「~ブームに便乗」が3点目の証拠。

小山ゆうさん(「お~い、龍馬」の作者)はあの番組にどういう意見をお持ちなのか、視聴者として知りたいです。ところで、勝海舟が龍馬暗殺を知ったのは実際はいつ頃ですか?

投稿: えびすこ | 2010年7月 6日 (火) 09時34分

えびすこさん、こんにちは~

勝海舟が、その日記に「黒幕は榎本対馬守道章かも…」って書いてるのは、聞いた事がありますが、いつ知ったのかは知りません。

ひと月も経たないうちに、陸奥らが天満屋事件を起してますから、知り合いに伝わるのはけっこう早かったかも…

投稿: 茶々 | 2010年7月 6日 (火) 10時04分

龍馬中岡暗殺の謎の中で、あまり注目されない謎があるんです。それは、霊山神社に、1868年7月19日に海援隊士によって建立された彼らの墓碑なのです。龍馬の墓碑には、慶応三丁卯十一月十六日闘死と刻まれ、中岡の墓碑には、慶応三丁卯十一月十六日闘被創翌十七日死と刻まれてることなのです。通説だと二人が襲われたのは15日の夜なんです。ところが墓碑を建立した海援隊士たちは16日、といっても夜ではもちろんなく、午前零時以降つまり夜中から未明にかけて襲われたと認識していたということなんです。二人と藤吉が霊山神社に葬られたのが十一月十七日の夜で、檜木の墓標が立てられるんですが、そこには三者とも十一月十六日神去と記されているんです。その後、檜木に変わって墓碑が建てられるんですが、建立した海援隊士たちは、二人が15日の夜に襲われたという認識は持っていなかったということなんです。墓碑が後世に伝えようとしてるのは、事件後数十年かけて形成された通説の15日夜ではなく、二人は16日に襲撃されたということなんです。

投稿: あじさい川 | 2012年6月15日 (金) 03時04分

あじさい川さん、こんにちは~

なるほど…そういう謎もあるのですね。
興味津々ですね。

龍馬は「即死ではなく、しばらく息があった」という事か?とも思いますが、気になるのは、

>16日、といっても夜ではもちろんなく、午前零時以降つまり夜中から未明にかけて襲われたと認識していた

という部分…午前0時に日づけが変わるという認識が、いつ頃から一般に定着したのか?というところですね。

あの赤穂浪士の討ち入りは、厳密には12月15日の午前4時頃ですが、多くの人の認識は「12月14日の深夜」です。
まだ、夜明けを迎えていませんのでね。

このように、古代より江戸時代までは、「夜明けとともに日づけが変わる」というのが、一般の認識でした。

しかし、事は幕末ですから、すでに、午前0時に日づけが変わると認識していたのかも…
そこのところは、調べてみないとわかりませんね。

いい情報をありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年6月15日 (金) 15時32分

龍馬中岡が夜明けまでに襲われたのは、まずまちがいないと思われるので、当時の不定時法によれば二人は15日に襲われたことになります。なのになぜ海援隊士は墓碑に、16日に襲われたとしたのか?この頃は西洋懐中時計が流入してました。龍馬も持っていました。つまり龍馬は懐中時計によって、西洋的定時法の時間の見かたを、いち早くしていた人間ということになります。近江屋に隊士として最初に駆けつけたと思われる白峰駿馬は、西洋製の大型船舶を操る高度の操船技術を身につけていたといいますし、長崎では得意の語学力で外国人応接係をしていたといいます。だとすると懐中時計を持っていた可能性が高いし、西洋時間に慣れていたと思われるんです。あの日、酢屋で一報をきいた白峰は、懐中時計で時刻を確認したか、近江屋に行ったとき倒れている龍馬が身につけていた懐中時計で、時刻を確認したと思われるんです。それが1時か2時だったとしたら西洋時間的には、16日の午前1~2時ということになるわけです。彼らは墓碑を和時間ではなく、西洋時間で刻んだのではないのか?だとすると龍馬の墓碑の十一月十六日闘死。中岡の十一月十六日闘被創翌十七日死というのは西洋時間でいう、16日午前零時以降に事件は発生したと伝えようとしていると思われるんです。ややこしいですがポイントは、近江屋に駆けつけた隊士は、不定時法の和時計か、定時法の西洋懐中時計か、どちらで時刻を確認したかということなんです。

投稿: あじさい川 | 2012年6月17日 (日) 17時17分

あじさい川さん、こんばんは~

先日は、つい忘れてましたが、思えば、除夜の鐘なんてのもありますから、0時に日づけが変わる認識もあったかも知れませんね。

海援隊の彼らが到着した時は、すでに日づけが変わっていたという事なのでしょうね。

ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年6月17日 (日) 23時04分

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