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2006年11月 2日 (木)

織田信長が信行を暗殺

 

弘治三年(1557年)11月2日、清洲城において織田信長が、弟・信行を殺害しました。

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若い頃の織田信長が、天下一のうつけ者と呼ばれていたのは有名なお話で・・・

ペラペラの着物の片袖を脱いで、帯の代わりに縄を腰に巻いて、そこに火打ち石などぶら下げた、なんとも奇抜なファション。

髪を茶せんのように結って、近所のワル仲間のヘッドをやって、フラフラ遊び歩いてばかりいました

父・信秀が亡くなった時も、葬儀にその格好のまま現われ、仏前のお線香の灰を投げつける・・・これは、数々の信長を描くドラマでも必ず登場するシーンですね。

その葬儀の時でも、弟・信行は、姿形はもちろん、凛とした振る舞いで、兄・信長とは対照的でした。

当然、周囲には「そんな『うつけ者』の兄より弟のほうが織田家を継ぐにふさわしい」という声が出て来るようになります。

父が亡くなった後は、一応『うつけ者』を卒業し、尾張統一に向かって突き進む信長でしたが、そうなっても、まだ信行を押す家臣たちも多く、最終的に織田家の中では、信行が最大のライバルとなっていました。

ところが、弘治二年(1556年)信長の才覚を見抜いて高く評価していた隣国・美濃(岐阜県)斉藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて亡くなってしまいます(4月20日参照>>)

それが、きっかけとなったのか・・・その後すぐに信行は、柴田勝家林秀貞(ひでさだ)らの重臣を見方につけて、信長に反旗をひるがえします。

信行にしてみれば、やはり「織田家を継ぐのは兄より自分のほうがふさわしい」という気持ちがあったのかもしれません。

受けて立った信長は、勝家や通勝らを次々と打ち破り、追い詰められた信行は自分の城で籠城の構えです。

そんな時、信長・信行兄弟の生母の実家である土田氏が間に入り、この戦いは一応、和睦・・・という事で終結を向かえました(8月24日参照>>)

しかし、翌・弘治三年、信行は再び謀反を企てますが、今度は勝家がその計画を信長に密告します。
勝家さん、世渡り上手ネ!

かくして、弘治三年(1557年)11月2日・・・
信長は「重い病気にかかった・・・」と、ウソをついて、信行を清洲城におびき寄せます。

そして、そうとは知らずやって来た信行を、信長は有無を言わさず、自らの手で斬殺しました。

こうして、家内の最大のライバルを消し去った信長は、その後、同族どうしで争ってきた尾張の国を統一(11月1日参照>>)、いよいよ天下取りへと進んで行きますが・・・

その途中での、信長、初めての上洛については2010年の11月1日でどうぞ>>
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コメント

織田信行の不幸は、やはり、織田信長の弟として生まれたことでしょう。もし信行が、織田家の嫡男であったなら、織田家の進むべき道や信行の運命が違っていたかもしれないと同時に、織田家が天下統一に名乗りをあげなかった可能性が高いような気がします。あと、信行が信長に対して、従順な気持ちがあれば、長生きすることができたのではないでしょうか。

投稿: トト | 2017年3月18日 (土) 09時36分

トトさん、こんにちは~

1度目の反意は、信長も許してますから…
信玄と信繁のような関係だったら良かったと思います。

投稿: 茶々 | 2017年3月18日 (土) 10時57分

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