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2006年11月12日 (日)

津田梅子のアメリカ留学

 

明治四年(1871年)11月12日、津田梅子ら5人の日本初の女子留学生がアメリカに出発しました。

・・・・・・・・・・

この日、岩倉具視全権大使とする使節団が、欧米諸国との不平等条約の交渉と、諸国見聞のためアメリカ丸で横浜港を出航したのです。

その船には、53人の若き留学生とともに、上田悌子(15歳)・吉益亮子(15歳)・山川捨松(12歳・2月18日参照>>)・永井繁子(9歳)・津田梅子(8歳)の五人の少女たちも乗船していました。

当時の日本にとっては、女性をしかも幼い少女たちを留学させるというのはたいへんな冒険でした。

もちろん、少女たちにとっても大冒険だった事でしょう。

特に一番年下の津田梅子に至っては・・・この8歳というのは数え年ですから、現在の満年齢にするとわずか6歳だったわけですすから・・・

小学校一年生ですよ!・・・その年齢に驚いてしまいます~。

条約交渉が一番の目的であった岩倉使節団に、多くの留学生、特に5人の少女を同行させたのは、当時、北海道開拓使であった黒田清隆(8月23日参照>>)の発案による物でした。

黒田の考えは「人材を生ずるは師弟を教育するにあり」という事。

つまり、これから先、良い人材を育成するためには、子供たちを育てる母親の教養が不可欠である、と考えたのです。

この時代に女性教育の重要性を訴える人がいた・・・という事にも驚きを感じますね。
先見の明があった・・・という事でしょうか?

ともあれ、後に女子英学塾を設立する事になる最年少の津田梅子は、留学中、驚くほどの熱心さで勉学に励みます。

勉強だけでなく、ピアノにもその才能を発揮して、卒業式には米大統領夫人の前で演奏も披露しています。

11年後の明治十五年(1882年)、「日本の女子教育に尽くしたい」との理想を持って帰国した梅子でしたが、残念ながら当時の日本には彼女の夢を実現できる場所はまだ無かったのです。

しばらくの間、華族女学校の教授補を務めますが、やはり自分の理想を追い求め、再びアメリカへ渡ります。

アメリカの大学でも、その才能を認められ、「研究者としてずっととどまってほしい」と言われますが、やはり、彼女の理想はあくまで、日本の女性教育でした。

「日本に自分の理想とする女子教育の場が無いのなら、自分で学校を創設しよう」梅子はそう考えるようになります。

明治二十五年(1892年)に帰国した彼女は、さっそく学校創設の準備に入ります。

女子留学生のための『日本婦人米国奨学金』の設立、『万国婦人連合大会』への参加など、日本女性の地位向上のために、ありとあらゆる努力を始めるのです。

そして、明治三十三年(1900年)、英語教育+英語教員の養成を目的とした日本で最初の女子専門学校『女子英学塾』を設立したのです。

現在の津田塾大学です。

第1回の入学者はたった10人でしたが、彼女は少ない人数だからこそ実現できる少数精鋭をモットーに、10人の生徒たちにいかに「熱心」という事が大切かという事を、その入学式で語ったと言います。

そう、それは自分が幼くしてアメリカ留学した頃から、ずっと実践してきた「熱心」でした。

明治という時代に、女性が新たな一歩を踏み出すために努力した人がいた事を忘れてはいけませんね。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

 茶々さん、こんばんは。

 津田梅子さんもまた波乱万丈な人生を送った方でしたね。 実は平塚らいてうさんの前に記事にしようと私が考えていた方なのですが、より現代に近いらいてうさんを記事にした経緯がありました。

 女性の地位と教育の向上を念頭に置いて活動した津田梅子さん、そして女性の権利や平和を唱えたらいてうさん。現状を変えようと必死に行動されるこうした方々の尽力により、今日の繁栄があるのでしょうね。

 あらためて教育のあり方が問われている今、こうした必死で先見性ある人物がやはり望まれますね。

投稿: ルーシー | 2006年11月12日 (日) 21時49分

ルーシーさん、コメントありがとうございます。

>現状を変えようと必死に行動されるこうした方々の尽力により、今日の繁栄が・・・

おっしゃるとおりですね。

最近の教育関係のニュースを見ていると、子供たちを教育する人を教育する事が、いかに大切かを痛感させられますね。

投稿: 茶々 | 2006年11月12日 (日) 22時13分

茶々さん、初めまして。
私中3で 、社会のレポート(宿題)を今やっているんですが、
説明がすごくわかりやすくて、津田梅子さんについて書かせて頂く上で、とても参考になりました!!
すごく良かったです*\(^o^)/*
他の記事も見させて頂いたんですけど、とても面白かったです!! こういう文が書ける人って憧れます!!

投稿: ゆいゆい | 2014年7月20日 (日) 18時09分

ゆいゆいさん、はじめまして…

コメントありがとうございます。
「わかりやすい」なんて言っていただけるとウレシイです。

お勉強、がんばって…また、遊びに来てくださいね。

投稿: 茶々 | 2014年7月21日 (月) 01時12分

津田塾大学の創設者となった津田梅子が、どういう経緯で、留学生に抜擢されたのかは全く分かりませんが、幼くして抜擢されたということは、おそらく、岩倉具視が梅子に対して、何らかの可能性を見出だしたのかもしれませんね。余談ですが、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の最終回のみに、梅子が登場するそうです。しかも、知花くららさんという女性タレントが演じるそうです。なお、梅子が大河ドラマに登場するのは、2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、河北麻友子さんが演じて以来です。

投稿: トト | 2015年12月 7日 (月) 10時34分

トトさん、こんにちは~

>津田梅子が、どういう経緯で、留学生に抜擢されたのか…

という事ですが、
「抜擢」というよりは、政府からの「募集」に梅子が「応募」したんですね。

以前、梅子といっしょに留学した山川捨松さんのページ>>でも書かせていただきましたが、この時代に自分の娘をアメリカ留学させようという人はほぼいません。

政府が募集したけど、応募がほとんど無かったので、2次募集もかけていて、捨松さんは、その2次募集に応募してます。
捨松は会津藩の家老の娘、梅子は幕臣の娘、同じくともに留学した永井繁子も幕府の医者の娘です。

皆、維新の際に負け組となった事で、父とともに家族全員が過酷な運命を背負った人たちの娘であり、だからこそ、留学という起死回生の一手に人生を賭けたのだと思います。

もちろん、政府とて多額のお金をかけて留学させるわけですから、誰も応募して来ない中で応募して来たからといって誰でも良いわけではなく、才能を持った少女を求めていたと思いますが、誰も望まないアメリカ留学をしてでも「そんな過酷な運命から這い上がってやろう!」という心意気&ハングリー精神こそが、彼女たちの最大の才能であったのだろうと思います。

投稿: 茶々 | 2015年12月 7日 (月) 16時40分

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