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2006年12月16日 (土)

高杉晋作・功山寺で挙兵

 

元治元年(1864年)12月16日、幕末の風雲児・高杉晋作が、長州藩内の保守派を倒すため功山寺で挙兵しました。

・・・・・・・・

その10年前、幕府がアメリカの圧力に屈して和親条約を結んで、下田と函館の港を開港した時から、攘夷(外国人出ていけ)中心だった長州藩は、保守派の幕府と対立しながらも、朝廷内の攘夷派とともに政界の中心となっていました。

しかし、薩摩・会津の巻き返しによる前年の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、長州藩に味方していた攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)らとともに、長州藩は京都から追い出され、政治の表舞台からしめ出しを喰らいます。

そこで、この年の7月、劣勢を挽回するため大軍を率いて京都に攻め上りますが、激烈の戦闘の後、敗退・・・ご存じ禁門(きんもん。蛤御門)の変です(7月19日参照>>)

その交戦中に、御所に向かって発砲した事から、長州藩は朝敵(国家・天皇の敵)とみなされ、幕府は長州征伐の準備を始めます(5月22日参照>>)

しかも、そんな時にかぎってイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合軍から、下関に攻撃されてしまいます(8月8日参照>>)

実は、長州藩は、「外国人は来るな!」とばかりに、前年の5月10日、下関海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃したのを皮切りに、海峡を通る外国船に次々と大砲を撃ち込んでいたのです。

その時の外国の報復がこのややこしい時期に行われ、手ひどくやられた長州が、「これでは、いかん!」とばかりに、高杉晋作の発案によって結成したのが、藩が率いる正規兵とは別の組織という意味の奇兵隊だったのです。

晋作25歳の時でした。

それは、武士にこだわらず、農民・町民・猟師や僧侶まで、様々な階層から隊員を公募し、約300人程が集まりました。

晋作は、その組織の総監となりますが、すぐ後、奇兵隊員が正規兵と揉め事を起こし、流血事件にまで発展したため、その責任を負って総監を辞任しています。

そんなややこしい中での幕府の長州征伐・・・

今、国を相手に戦えば大変な事になりますし、何たって、このまま長州藩がお取り潰しになる可能性だってあります。

そこで、長州藩は、「先の禁門の変は、先走った家老らが勝手にやった事で、藩主の知らぬ事である」という事にして、関与した家老を切腹させて(11月12日参照>>)、藩の存続を図ります。

これで、何とか幕府の長州征伐は回避されましたが、当然の事ながら、それまで藩の主流だった尊王攘夷派は一掃され、藩のエライさんは保守派で固められる事になります。

もちろん、そんな保守派は、幕府に忠実な姿勢を見せ、攘夷の旗印でもあった“奇兵隊”の解散も口にするようになります。

かくして、「このままでは、長州藩は戦わずして、幕府に負けてしまう」と思った晋作は、奇兵隊に声をかけますが断られ、しかたなく伊藤俊輔(博文)率いる相撲取りで構成された力士隊20人と、奇兵隊の中で賛同した者60人をつれて、元治元年(1864年)12月16日功山寺に向かいます。

その功山寺には、先に書いた京都を追われた三条実美ら公卿がいたのです。

彼らを擁立し、その許可を得る事で、この戦いが私的なクーデターではなく、長州のため思う聖戦である事を強調しようとしたのです。

たった80人に大砲が一問の粗末な軍隊に、不安を隠しきれない実美たちを前にして、晋作は「長州男児の肝っ玉をお見せもうす」と言って笑ってみせたと言います。

今まで、対立する保守派から目をつけられ、危ないめに合うたび、すばしっこく逃げ隠れして、その身を守ってきた晋作の、覚悟の挙兵でした。

功山寺を出発した一同は午前4時、下関にある長州藩の役所・新地会所を攻撃します。

ここには、藩所有の武器弾薬が保管されていて、それらを奪うのが目的でした。

ふいをつかれた役人は、無抵抗のまま降伏。

気をよくした晋作は、このまま三田尻に停泊中の藩の軍艦3隻を奪う事にしますが、さすがに「それは無謀だ」と、皆、尻込みします。

「ならば、俺と一緒に死んでくれる者だけついて来い」と、うながしたところ18人がその場に残ります。

その18人とともに、晋作は三田尻へ・・・。

そして、一人の死者を出す事もなく、軍艦3隻の奪取に成功します。

たった18人で??・・・とても、信じられない事ですが、おそらくは、もともと藩の中に決起した者以外にも、いくらかの晋作支持者が潜んでいたのではないかと思われます。

軍艦の守備に着いていた、ある程度地位のある上司が、晋作の決起を知って同調したとすれば、その配下の者たちが、ことごとくついて来る・・・というのは、ありえる事です。

とにかく、この事の成功により、決起に尻込みしていた奇兵隊本隊が動き出し、やがて町民や農民も反乱軍に加わりました。

そして、翌年1月2日には、下関会所を再び占拠・・・こうして長州藩は、再び尊王攘夷の藩に生まれ変ります

今でも、この日の晋作の功山寺での挙兵が無かったら、維新は2~3年遅れていただろう、と言われるターニングポイントでしたね。

こののち、晋作は肺結核という病と闘いながら、長州征伐にやって来た幕府を迎え撃つ事になります(6月8日参照>>)
 

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