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2006年12月25日 (月)

孝明天皇・暗殺説

 

慶応二年(1866年)12月25日、第121代・孝明天皇が、36歳の若さで亡くなりました。

・・・・・・・・・

この年の12月11日から発熱し、病に臥せっていた孝明天皇

いったん、快復に向かったものの、24日の夜に、突然病状が悪化します。

天皇は嘔吐を繰り返し、やがて慶応二年(1866年)12月25日・・・帰らぬ人となってしまいます。

その死は4日間伏せられ、12月29日に死因は天然痘と発表されました。

しかし、その死後すぐに、“孝明天皇・暗殺説”が囁かれます。

天皇は、文字を書くとき筆の先をなめる癖があったので「その筆に毒が塗ってあった」とか、「いや硯の中に毒が仕込んであった」とか、様々な噂が飛び交うようになるのです。

こうなると、当然、人々の間に犯人探しの話題が持ち上がってきます。

こーゆー場合、やはり天皇が亡くなって一番得をする人物があやしいわけで・・・。

孝明天皇は、確固たる公武合体派(左幕派)・・・となると、天皇の死は討幕派にとって有利に働く事になります。

やがて、孝明天皇の後を継いだ明治天皇は、「毎夜孝明天皇の悪夢に悩まされている」といった噂も流れ、来るべき王政復古の大号令(12月9日参照>>)で、明治天皇を担ぎあげる岩倉具視最も怪しい容疑者として名前をあげられる事になるのです。

孝明天皇と岩倉具視の微妙な関係は、あの黒船来航から始まります。

この時、幕府に突きつけられた日米修好通商条約

結果的に、この条約には、大老・井伊直弼孝明天皇の許しを得ず調印してしまう(10月7日参照>>)のですが、実はその前に老中・堀田正陸(まさよし)が孝明天皇に許しをもらいに行った時、孝明天皇は一旦許しを出す方向に進んでいたのです。

ところが、それを寸前のところで阻止したのが岩倉具視でした。

岩倉具視は当時、ほとんど政治に口出ししない公卿の中では唯一、公卿であり政治家でもあった人でした。

そして、次に岩倉が孝明天皇に薦めたのが、公武合体の証しでもある孝明天皇の妹・和宮と、将軍・徳川家茂の結婚です。

これによって、朝廷主導の攘夷(外国しめ出し)を実現しようとしたのです。

この事は“尊皇攘夷派”の反感をかい、岩倉はしばらく自宅謹慎をさせられてしまいます。

しかし謹慎中も、他の公卿を使って孝明天皇に様々な助言を送り続けていたのですが、この頃からしだいに、岩倉は討幕派へと変わって行くのです。

こうなると、討幕派・岩倉の、左幕派・孝明天皇への助言はことごとく排除されるようになり・・・と、そんな時に起こった孝明天皇の死です。

しかも、岩倉の妹は孝明天皇の侍女

もちろん、真相は藪の中です。

しかし、外国人に対するいかなる譲歩にも決して同意しなかった孝明天皇が生きていたなら、この先、倒幕も維新も進まなかっただろう事を考えると、謎が謎呼ぶアヤシイ死ですね。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

黒船が来る前と来た後の維新の混乱では、やはり寿命にも影響があるんでしょうか?維新の荒波をうまく乗り越えた人は、明治後半以降まで生きられましたね。江戸時代以前に「平均余命」の統計がないですが、幕末期に一時平均余命が縮んだかなと思いますね。

人から聞いた話ですが、「この所の大河ドラマは側室・愛人が多い男性を、極力主人公にはしない傾向がある」らしいです。理由が「女性の身上を悪くするから(だから女性の主人公起用が多い?)」らしいです。実際にそういう傾向でしたが、根拠としては信憑性に欠けますね。では妻1人で「恋人」が3人いる坂本龍馬はセーフ?

投稿: えびすこ | 2010年11月10日 (水) 10時31分

えびすこさん、こんにちは~

>理由が「女性の身上を悪くするから(だから女性の主人公起用が多い?)」らしいです

私は、ソレあると思いますよ。
篤姫で女性ファンを獲得して、下がり気味だった視聴率を盛り返した事で、今度は女性が離れていかないよう工夫してるんだと思います。

この間の龍馬伝も(個人的には)見たくもない痴話げんかか何か、一時のトレンディードラマのような事やってましたしね。

投稿: 茶々 | 2010年11月10日 (水) 14時13分

なるほど、女性層の動向で視聴率が上下する現象が定着しましたね。男性が主人公でも配役(と内容)次第と言えますね。でも大河ドラマは21世紀になってからは、「男性単独の主人公だと視聴率が振るわない」と言う、新しいジンクスが定着しつつあります。
「痴話げんか」と言うのは7日の事ですね。31日に登場した外国人俳優の事件が発覚しましたが、なぜか番組内で「おわび」の表記をしなかったですね。

来年は「篤姫テイスト」のいい所を再現してほしいですね。

投稿: えびすこ | 2010年11月10日 (水) 15時20分

あの、今日の内容について歴史について深いお二人のトークを期待したのですが。

投稿: MINORU | 2011年12月 4日 (日) 17時59分

MINORUさん、こんばんは~

この件に関しては、やっぱり謎でしょうね。
限りなく黒に近いグレーですが、真っ黒ではありません。

疑わしくとも証拠はありませんし、天皇の暗殺という一大事件の証拠を、軽々しく残しておくとも思えませんしね。

投稿: 茶々 | 2011年12月 5日 (月) 02時03分

コメントありがとうございます。本当につまらない突っ込みに答えて下さり嬉しいです。天皇の暗殺、、一大事ですよね。証拠は残さないですね、孝明天皇が亡くなったのは京都だったのでしょうか?あ~久しぶりに行きたくなりました。

投稿: MINORU | 2011年12月 6日 (火) 05時25分

MINORUさん、こんばんは~

本当に頼りない返答で申し訳ありません。

やはり、答を出すには、もう少し、新たな発見を待たねばならないでしょうね。

どこかにスゴイ物が埋もれているかも知れません。
期待しましょう!

投稿: 茶々 | 2011年12月 6日 (火) 18時56分

孝明天皇が謎の崩御を遂げたことで、多くの人々の運命を左右したのは間違いないでしょう。慶応2年(1866年)当時としては、大混乱といっても過言ではないと思います。おそらく、NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルとなった、広岡浅子の人生にも影響を与えたことでしょう。天皇の崩御によって、歴史が大きく変わったケースがどのくらいあるかは分かりませんが、孝明天皇の崩御が、確実なケースであるような気がします。

投稿: トト | 2015年10月25日 (日) 08時52分

トトさん、こんばんは~

やはり「攘夷」が揺らぐ事の無かった天皇様ですから…その後の展開はずいぶん変わっていたでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年10月26日 (月) 02時19分

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孝明天皇は慶応2年(1866)12月11日頃から少し体調を崩していました。天然痘でしたが、24日頃には殆んど治っていました。 ところが、24日の夜に突然病状が悪化し、25日には血を吐いて夜中に崩御されたのです。孝明天皇の死因については、痘瘡(天然痘)で死..... [続きを読む]

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