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2006年12月22日 (金)

家康惨敗・三方ヶ原の戦い

 

元亀三年(1572年)12月22日、徳川家康の生涯で最大とも言える敗戦・三方ヶ原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)織田信長足利義昭を奉じて上洛し(9月26日参照>>)天下取りに大手をかけます。

そんな信長に触発されたのか、武田信玄が領地を拡大し、自分も天下取りレースに参加しようというのか?(2008年12月22日参照>>)・・・元亀三年の10月、4万5千の大軍を率いて甲斐を出発、東海道を西へと進みます。

そうなると、当然、徳川家康のいる浜松城の近くを通る事になる武田軍・・・兵の数で劣る家康は籠城作戦をとり、迫り来る武田軍に備えますが、なんと、武田軍は家康を無視して浜松城下を素通りしようとするのです。

この時の家康は、まだまだ、鳴くまで待てないお年頃・・・プライドを傷つけられた家康は、
「このまま、我が領地を素通りさせては末代までの恥」とばかりに、家臣が止めるのも聞かず、三方ヶ原に打って出るのです。

Kakuyoku2 家康率いる徳川軍の陣形は“鶴翼(かくよく)の陣”(←左図)
(鶴が羽を広げた形、鶴の頭の部分に大将が位置します)

広く軍勢を配置し、どこから攻められても対処できる陣形ですが、今回は兵力が少ないため、途中を分断されると、そこから総崩れになる可能性があり、今日の場合は家康さん、一か八かの賭けに出ましたね。

Gyorin かたや、信玄率いる武田軍の陣形は“魚鱗(ぎょりん)の陣”(→右図)
(魚のウロコの形、ちょうど中心部に大将が位置します)

こちらは、あくまで目的は敵を倒す事ではなく、敵を突破するための陣形で、一箇所に兵力を集中させています。

さすがは、信玄さん、冷静ですね。
(陣形については、9月8日のページへどうぞ>>>

Mikatagaharanotatakaizucc 画像をクリックすると大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、元亀三年(1572年)12月22日午前4時、家康の家臣・石川数正隊の突撃によって、三方ヶ原の戦いの火蓋が切られました

血気盛んな若き家康は、じっと陣で構える事ができず、自ら先頭に立って敵陣に進んでいきます・・・が、数の少ない“鶴翼の陣”はあっけなく打ち破られ、みるみるうちに徳川軍の敗戦の色が濃くなります。

「もはや、これまで!」と討ち死に覚悟で、敵陣に突っ込もうとした家康を、夏目吉信(2012年12月22日参照>>)が止めます。

「殿は早くお逃げ下さい!ここは私が・・・」と、家康の馬の尻を槍で突っつきました。

家康を乗せたまま、一目散に走り出す馬・・・浜松城まで約7km、顔は青ざめ、手は奮え、家康は必死の思いで逃げ帰りました。

Ieyasusikamizou600 ・・・で、あまりの恐怖に馬上で“おもらし(しかも大)をしてしまった家康さん。

家臣たちには、「アレはクソではなく、ミソだ」と言い訳していたそうですが、その帰還直後の惨めな姿を絵師に書かせて、自分への戒めと子孫への教訓』とした事は大河ドラマ・功名が辻でも取り上げられてましたね。
←徳川家康・しかみ)

しかし、そのわりには、そのあとの行動が、とても不思議・・・。

城門を開け放ち、門の周辺を明々とかがり火で照らし、自分は湯漬(ゆづけ)を食べて「疲れた~」と言って寝てしまうのです。
湯漬がどんな食べ物かはブログ:2月13日【戦国時代の食べ物事情】をご覧あれ→

大胆不敵なのか?一か八かの作戦なのか?
文字通り「ヤケクソ」になったのか?

しかし、この行動はうまく転がりました。

信玄は、あからさまに開けられた城門に入る事はなく、深追いをやめ、兵を引き揚げ、軍勢を整えた後、再び西へと向かうのです。

・・・と、言うより“魚鱗の陣”を布いた事でもわかるように、信玄は、はなから突破目的・・・深追いする気はなかったのかも知れません。

そして、裏の裏を読めば無謀に見えた家康の行動は、見事な筋書き通りだったのかも知れません。

なぜなら、この三方ヶ原の戦い・・・結果的には家康の惨敗でしたが、当時最強と言われた『武田の騎馬軍団と戦った』という事実は残ります。

実際この事により、後々、家康は「東海一の弓取り」呼ばれるようになり、後に豊臣秀吉が政権を握った時も、周囲に一目置かれる存在となるわけで、赤字覚悟の先行投資・・・すべて想定の範囲内だったのかも知れません。(“おもらし”は想定外)

いずれにせよ、家康が最も尊敬した武将といわれている武田信玄との、この三方ヶ原の戦いは、家康にとっては、無謀でも汚点でもなく、礎(いしずえ)となった事は確かですね。

とは言え、この三方ヶ原の後に、一矢報いようと徳川勢が夜襲をかける・・・と、このお話は、12月23日のページでどうぞ>>
 .

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんわ(^o^)
そういう陣形ってほんとに幾つかあるんですね。て、ことは陣形の練習とかも日頃やっていたりもしたんだよなぁ~。

そお②徳川家康と武田信玄が戦っていたなんて茶々さんのブログで初めて知りました。(^_^;)

投稿: 見習い大工 | 2006年12月22日 (金) 19時28分

見習い大工さんこんばんは~。

陣形がどーの・・・ってシュミレーションゲームみたいですよね。
平安時代に中国から伝えられた基本の陣形は八つあるんですよ。

家康さんは、この時の敗戦がよっぽどくやしかったのか、武田勝頼相手の長篠の合戦では大ハリキリで、あまりのハリキリぶりに信長さんに「少し押さえろ」って注意されてます。

投稿: 茶々 | 2006年12月22日 (金) 20時30分

 茶々さん、こんばんは!

 家康の生涯でも一番恐怖な記憶なのでしょうね。
「徳川家康しかみ像」はその時の状況をわざわざ家康が描かせた有名なイラスト(?)ですが、その後の用意周到で盤石な戦法はこのときの苦い経験からのものなのでしょうね。

 仰るとおり、「無謀でも汚点でもなく、礎(いしずえ)となった事は確か~」な合戦でした。

投稿: ルーシー | 2006年12月22日 (金) 22時32分

ルーシーさん、おはようございます~。

家康さんのしかみ像・・・。
記事中にも書きましたが、「大河ドラマ」に登場したり、先々週くらいの「世界一受けたい授業」でもやってました。

最近、特に有名になってきましたね。

用意周到な家康さんは、この戦いの後、鎧をメチャメチャ分厚くしたそうですよ。

投稿: 茶々 | 2006年12月23日 (土) 07時37分

すばらしい御サイトに敬意を表明致します。

細かなことですが、本記事中に、
「元亀三年(1572年)12月22日、徳川家康の生涯で最大とも言える敗戦・三方ヶ原の戦いがありました。」
とありますが、
「元亀3年12月22日」は「ユリウス暦1573年1月25日」、すなわち、西暦では「1573年」です。
NHK「その時歴史が動いた」第276回 完成・戦国最強軍団~武田信玄・苦悩の生涯~(放送日平成19年2月7日)の番組概要
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_syokai.html
においても、やはり、
「その時:1572(元亀3)年12月22日、出来事:三方ヶ原の戦いで武田信玄が徳川家康に大勝、最強軍団が完成」
となっていますが、
いずれも、元亀3年12月22日(1573年1月25日)とするのが望ましいであろうと思われます。

慣行上「元亀三年(1572年)12月22日」の表記法はよく行われてはいますが、特に上記NHKの「1572(元亀3)年12月22日」のような表記法は不適切のように思われます。

和暦(旧暦)と西暦の変換には、
和暦⇔西暦変換WEBツール「換暦」(かんれき)
http://maechan.net/kanreki/
の利用が推奨されます。

まことに僭越ながら、ご参照までに申し上げます。

投稿: KOBAYASHI Masatsugu | 2007年2月 8日 (木) 14時03分

はじめまして、KOBYASI様、コメントありがとうございます。

おっしゃる事は、よくわかります。
私もブログを開設するにあたって、西暦と旧暦をどう表記すべきか悩みました。

サイドバーの説明だけでは、わかりにくかったかも知れませんが、日付は「今日何を書くか?のテーマを決める際の突破口」として使用させていただいています。

また、ブログのテーマとして、「歴史好きの人だけではなく、まったく歴史に興味のないかたにも読みやすくわかりやすい」という事も心がけております。

たとえば、赤穂浪士の討ち入りは元禄十五年の12月14日(厳密には15日の午前4時)で、西暦では1703年の1月30日ですが、やはり、一般的に見て、12月14日にそのお話をしなければ盛り上がりに欠けます。

そういう意味で、今のところは、メディアや教科書など、ごくごく一般的に使用されている日付を表記させていただいております。

投稿: 茶々 | 2007年2月 8日 (木) 17時29分

こんばんは。
この前の「その時歴史は動いた」でこの家康のエピソードを取り上げていました。
「失敗から学ぶ」ことは、仕事にも、勉強にも、人生にとっても重要ですね。

投稿: さときち | 2007年2月 8日 (木) 23時41分

さときちさん、こんばんは~。

そうですね、失敗から学ぶ事は多いです。

私が座右の銘にしている“ユダヤの格言”に(以前どこかに書いたかも知れませんが・・・)「恥をかく事は、学ぶ事」というのがあります。

たとえば、漢字ひとつにしても人間なかなか覚えられませんが、ある日、その文字を知らない事で、すごい恥ずかしい思いをしたら、人はその字を一生忘れない。
だから、「怖がらずどんどん恥をかきなさい、それは勉強ですから・・・」という事だそうです。

まぁ、私は、恥だけをかいて、勉強になってない事が多々ありますが・・・

投稿: 茶々 | 2007年2月 9日 (金) 01時09分

この有名な絵は城に戻ってすぐに書かせたとありますが、戦の時に城に絵師がいたんでしょうか?それともすぐさま呼んだ?
でも生涯この事を忘れなかったのは天下取りの原点ですね。「神君苦悩の図」として徳川家で家宝として保管していたんでしょうね。
人間は成功(要因)はすぐに忘れてしまいますが、失敗(理由)は忘れないそうです。

もうすぐアクセス数が200万になりますね。

投稿: えびすこ | 2010年5月29日 (土) 21時20分

えびすこさん、こんばんは~

「城に戻ってすぐに書かせた」っていうのは、家康の言い分ですからね~

諸葛孔明ばりの「空城の計」も含め、後から書き足した感満載でどこまで本当の事か微妙な気もします。

ユダヤの格言に
「恥をかく事は学ぶ事」
というのがあるそうです。

人間、何か物を知らなくて、その事で恥ずかしい思いをすると、その時知った「知らなかった事」は一生忘れないのだそうで、
「だから、どんどん恥をかきないさい」
という事だそうです。

「なるほど…」と思いました。

投稿: 茶々 | 2010年5月30日 (日) 00時30分

この時の家康は、まだまだ、鳴くまで待てないお年頃…ということですが、
三方原合戦も細かい点では解明されていない所が幾つかありますが、最大のものは当初籠城だった作戦が何故野戦に切り替わったかということですよね

個人的には信長の援軍がポイントだったのではないかと思います。実数3千のところ、武田方の記録では6千~8千と見積もられていて、これがミスリードで魚鱗の陣を組んでしまい、家康を逃してしまった信玄の失策、なんてよく言われますが、自分としては3千というのが信玄を欺くウソだったのではないかと思っています。

武田方も2万5千とはありますが、これは細かく見ていくとどうやら動員を呼びかけた数の可能性もあり、実際に駿河衆の動員が思うように行かなかったという話もあり、おそらく-3千ほど、さらに北条の援軍2千は中立的行動を取ったようで、三方原は2万vs1万6千とかなり数の拮抗したきわどい戦いだったというのが真相に近かったのではないかと思います。

また、合戦場についても、切欠陣から三方原から浜松城下まで色々言われますが、「すべてが本当」だとすると、徳川方は天竜川を超えた敵の荷駄から攻めこんで、逃げる武田軍は三方原で本体と合流、その後後退しながら浜松城下の戦いになるも、夜に入り武田方に同士討ちが出て退却、ここでグダグダやってると朝倉やら他勢力との予定が‥と焦った信玄が退いたみたいな感じだったのではないかと個人的には思っています。

投稿: ほよよんほよよん | 2014年5月 4日 (日) 15時44分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

記事をupした日付をご覧いただければご理解いただけるかと思いますが、このページはブログを始めた年に書いた物で、そういう点では、いわゆる基本の一般的な見方での合戦の経緯のご紹介となっております。

もちろん、おっしゃる通り、未だ謎多き合戦で様々な見方ができ、それこそ、それを推理していく事が歴史の醍醐味ですから、三方ヶ原に限らず、年を重ねるごとに、違った見方のページを増やしていければ…と思っております。
よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2014年5月 5日 (月) 01時33分

ブログ開設十周年に別の記事にコメントしますw

信長の援軍が一体何の役割だったかというのに考察することが多いです。
色々言われますが、この援軍がなければ家康は篭城を決め込んだのではないかと思います(確かに最近出ている動員地盤の三河と本城の遠江が分かれている所をたくみに突こうとした信玄の策みたいなのもありますが、それなら二股城に時間をかけすぎている気がしますし、山県・秋山別働隊の動きの意味が良く分からなくなります)

以前はあまり信じていなかったのですが、この援軍は家康の監視役+篭城時の防衛用だった説がやはり有力なのかなぁと思ってしまいます

正直、信長からの吉田城まで退却すべきとかのアドバイスを含め、この時の対応は信玄とまともに勢力争いをする策に乏しい印象を受けます

戦国現場の感情論として、いくら包囲網を敷かれたといっても、書面上や同盟交渉上の敵対関係と、実際に大規模に槍を合わせてしまったときの後戻りの難しさとでは、比ぶべくもありません

おそらく信長は、信玄の軍勢と直でやりあわなければ、最悪の場合は降伏してしまっても要求が過度にエスカレートすることはないと読んでいたのではないか(また万一の為、それらの二択を留保していた)と最近思います。

これらはアドバイスや援軍は、ある意味自身の足利家の上洛を軸とした天下取りへの策が失敗したことに無駄に巻き込んでしまった家康への申し訳ない部分(せめて徳川家はある程度存続するように)という計らいの意味だったのではないかと…

投稿: ほよよんほよよん | 2016年2月14日 (日) 20時05分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

未だ信長包囲網の真っただ中でしたから、信長も、色々な面で、かなり覚悟していたでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年2月15日 (月) 02時43分

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