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2006年12月18日 (月)

西郷隆盛生存説と銅像建立

 

明治三十一年(1898年)12月18日、上野の西郷隆盛像の除幕式が行われました。

・・・・・・・・・・

維新の志士の中でも西郷隆盛さんは、屈指の人気を誇る有名人ですね。

それは、維新の時、まさに一触即発だった江戸の町を、火の海から救った功績が大ですし(4月11日参照>>)、それプラス何かとついて回る庶民の味方的なイメージもあっての事でしょう。

とりわけ、西南戦争で散っていく最期(9月24日参照>>)は、日本人の大好きな判官びいきの心を揺さぶられ、国のために力を尽くしたにもかかわらず、ちょっとした歯車の違いで、朝敵のレッテルを貼られてしまう所も、ついつい応援したくなってしまうんですよね。

そして、やはりあります・・・判官びいき特有の生存説。

言葉の元となった源義経はもちろん、やはり悲運の死を遂げた明智光秀豊臣秀頼ら同様に、西郷さんにも生存説が多々あります。

ご存じのように、明治十年(1877年)の9月に、鹿児島城山で西郷さんは自刃する(9月24日参照>>)わけですが、実は、未だ西南戦争真っ最中の頃から、この時、大接近中だった火星をめぐって様々な噂が流れていた(9月3日参照>>)わけですが・・・

西南戦争が終結してもなお、生存説はそのまま、引き継がれます。

最初のうちは、四国に逃げた・・・中国大陸に渡ったなど、漠然とした物でしたが、4年後の明治十四年になると「インド洋の孤島で身を隠していた西郷さんが、新政府の誰かエライ人に招かれて政界に復帰する」といった内容の小冊子が大阪市内で出回り、噂は俄然、真実味をおびてくるのです。

そして、翌年の明治十五年には、朝鮮亡命説が登場。

この時は「もし西郷が朝鮮で出兵したら、政府は北海道から出兵して・・・」などと、具体的な尾ひれがついて、多くの人を信じ込ませました。

やがて明治も二十年を過ぎ始める頃になると、過去最大級の噂が流れはじめます。

それは今度「明治二十四年(1891年)に、日本を訪問する予定になっているロシアのニコライ皇太子とともに帰国する」というもので、これは新聞報道までされ、しかも、最終的に、血気にはやった一巡査が皇太子・ニコライ2世を襲撃するという大津事件にまで発展しています(5月11日参照>>)

やがて政府は、明治二十二年の憲法発布に際して西郷さんへの特赦を行うのです。

それは、西南戦争の悪よりも、それ以前の功労のほうが勝るとして、「十数年間の“朝敵”の汚名を除き、これに加えてさらに正三位を贈る」という寛大なものでした。

この恩赦・・・政府が、かの噂を信じての判断かどうかは別として、これによって罪人ではなくなった西郷さんは、帰国すればすぐにでも政界に復帰する事も可能になるわけで、西郷さんを待ち望む人は大いに期待しました。

ここまで、生存説が広まった原因は、もちろん城山で自刃した時、西郷さんのものと思われる胴体は発見されたものの、その首が発見されず、西郷さんには生前7人の影武者がいたため、その胴体も本人の物かどうかわからないという事が発端になってはいますが、やはり、今の政府への落胆ぶりが大きく作用していたものと思われます。

明治維新で、徳川幕府という大きな権力が崩壊し、庶民は新しい世の中に期待していたのです。

ところが、蓋を開けてみれば、政府高官は以前の幕閣を思わせるような大邸宅で悠々と暮らし、あいも変らず豪商だけが私腹を肥やし、多くの庶民や下級武士の生活は、江戸の頃と変りのないものでした。

人々の間に芽生えた「誰か、もう一度世直ししてはくれないだろうか」という世直し願望、・・・決起してくれるヒーローを待ち望む気持ちが、当時のヒーローに最もふさわしい人物・西郷隆盛へと繋がっていった・・・これが一番大きかったのだと思います。

そして、それだけ生存説が囁かれる、という事は人気があるという事で、朝敵の汚名がなくなると同時に、待ちかねた人々から“銅像建立”の話が持ち上がります。

最初は、丸の内に建てる予定でしたが、そこは皇居に近く、華族から猛反対を受けたため現在の上野に決まったという事です。

しかし、ここでも旧幕臣から彰義隊(5月15日参照>>)の墓に背を向けるとは・・・」とのクレームがあったそうですが、2万5千人の賛同という事で何とか収め、明治二十六年に着工。

そして、明治三十一年(1898年)12月18日に除幕式を迎えたのです。

その姿は、
平民的な姿をしているイタリア独立の志士・ガルバンジーの像をヒントに、鹿児島で狩りをしている時の西郷さんの姿をモデルに・・・

ただし、親族からは「ぜんぜん似てない・・・」とのもっぱらの評でしたが、生前、西郷さんは暗殺防止のため顔バレしないよう極力写真を撮らなかったというので、あの有名な肖像画も空想で書いてる以上、しかたのないところでしょうか。

ところで余談ですが、建立当時、「九段にある大村益次郎の銅像が、この西郷さんを睨んでいる」との事で、大村さんの銅像がえらく嫌われたという事ですが、先に建ってる大村さんにとっては迷惑な話ですね。

とにもかくにも、明治政府の人気のなさが、西郷さんの人気向上へ、そして生存説から銅像建立へと繋がっていったのは確かでしょう。

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

西郷隆盛の器の大きさ(!?)を示すエピソードを一つ。ある日、街を歩いていた西郷さんの懐に手を伸ばす輩が。そう、掏摸です。幸い、未遂に終わりますが、周りにいた西郷さんの弟子たちがいきり立ち、制裁を加えようとしますが、西郷さんは彼等を制止。その掏摸を、寿司屋へ連れて行き寿司をご馳走。掏摸に懇々と人の懐を狙う愚かさを説き、挙げ句の果てには、「これで足を洗え。」と50円の大金を渡し、掏摸を解放します。その後、掏摸はどうしたかって?止めて足を洗うどころか、懲りずに掏摸を続けて、「掏摸の中の掏摸」と呼ばれるまでになったとさ。(あらら…)

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月13日 (水) 22時40分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

ホント…西郷さんは、愛すべき逸話の多い方ですね。

投稿: 茶々 | 2015年5月14日 (木) 02時25分

西郷さんは、当時の日本人の平均を遥かに越える体格の持ち主(178㎝,100㎏余り)だったので、山道が苦手。そこで、2.3人の『尻押し係』が後ろから押して山道を歩く手助けをしたそうです。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月14日 (木) 17時49分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

幕末は意外に背の高い人が多いですよね。
久坂玄瑞も180ですし、山岡鉄舟なんか188cm…高いデス!!(゚ロ゚屮)屮

投稿: 茶々 | 2015年5月15日 (金) 01時44分

上野公園にある西郷隆盛の銅像は、私も何度か見物したことがあります。私の断片的な記憶ですが、銅像が完成した際の除幕式で、隆盛の妻の西郷イトという方が、「こげん顔じゃなかと。」=「こんな顔ではない。」とコメントしたという話があったということを知りました。イトが、隆盛の外見や風貌の全体像をどこまで知っていたのかは、分かりませんが、もしかしたら、NHK大河ドラマ「八重の桜」で、隆盛役を演じた、歌手兼俳優の吉川晃司さんのような外見だったのかもしれませんね。あと、隆盛の銅像が完成したのが、偶然なことに、大久保利通暗殺事件=紀尾井坂の変の発生から、満20年というのは不思議な感じがしますね。ところで、銅像の除幕式には、利通の遺族や政府関係者も出席していたのでしょうか?

投稿: トト | 2015年11月 4日 (水) 10時46分

トトさん、こんばんは~

除幕式に大久保さんの関係者が出席していたかどうかは存じ上げませんが、奥さんの「こんな人じゃ無い」発言の話は聞いた事があります。

どちらかというと「顔が似て無い」という意味ではなく、奥さんは「こんな普段着で外出する人じゃない」と、銅像の服装が気に入らない=「こんな人じゃ無い」という意味の事を発言されたらしいなんて話もありますね。

奥さんとしては立派な軍服姿を想像されていたんでしょうが、本文にも書いた通り、あくまで人気取りの一環で、名誉回復しての銅像建立をした明治政府としては、反乱を起こした西郷さんを政府の軍服姿で再現したくは無かったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2015年11月 5日 (木) 02時58分

西郷隆盛の銅像を建立した理由が、人気取り&名誉回復の一環だったのは知りませんでした。ただし、私が西南戦争に関連したコメントにおいて、会津藩出身で軍人に出世した、柴五郎が、「余の日記に次のことをしるしたるをみる。真偽いまだたしかならざれども、芋征伐仰せだされたりと聞く。めでたし、めでたし。」というコメントを残しているように、旧会津藩の人々や旧幕府関係者などが、隆盛に対して、恨みや憎しみを抱き続けていたことを、決して忘れてはならないと思います。

投稿: トト | 2015年11月 5日 (木) 07時19分

トトさん、こんにちは~

トトさんは会津ファンなんですね(*^-^)
やはり、ついつい判官贔屓しちゃいますね。

投稿: 茶々 | 2015年11月 5日 (木) 17時05分

私は、西郷隆盛という人は「幕末・維新の義経」だと思います。源義経も西郷さんも新しい時代を作る立役者となりながら、最後は逆賊、罪人として悲劇的な最期を遂げています。ただ、ふたりの大きな違いは、「義経は人望が無さ過ぎて身を滅ぼした。逆に西郷さんは人望が有り過ぎて身を滅ぼした」ことだと思います。

投稿: アッチ君 | 2018年3月31日 (土) 00時05分

アッチ君さん、こんばんは~

ウーン(_-_)お二人は似てますか?
申し訳ないですが、私には、よくわかりません。
清盛と信長は似てると思いますが…

投稿: 茶々 | 2018年4月 1日 (日) 02時33分

スミマセン、あくまで私的の独断と偏見で述べたのに過ぎませんので┉┉┉┉😅😅🙇🙇

投稿: アッチ君 | 2018年4月 1日 (日) 11時08分

アッチ君さん、こんにちは~

いえいえ、こちらこそスミマセンm(_ _)m

私も確固たる下敷きがあるわけではなく、「なんとなく、そんな気がする」ってな感じなだけです。

決してアッチ君さんの持たれている印象を否定しているわけではありませんので…お許しを

歴史には100%正確な答えなんてありませんから、そこから受ける印象などは、人それぞれ違うし、その時々によっても違うので、誰もが、お互いに「自分はこう思う」で良いのではないか?と思ってます。

投稿: 茶々 | 2018年4月 1日 (日) 15時09分

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