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2006年12月23日 (土)

切支丹禁止令と戦国日本

 

慶長十八年(1613年)12月23日、二代将軍徳川秀忠が、2回目の“キリシタン禁止令”を出しました。

・・・・・・・・・

・・・という事で、今日は日本人とキリスト教について、戦国時代を中心に書かせていただきます。

Franciscusdexabier600 日本にキリスト教を伝えたのは、天文十八年(1549年)にやってきたフランシスコ・ザビエル(7月3日参照>>)

もちろん、正式に宣教師がやって来て、布教活動をしたのは、この時が始めてでしょうから、それで正解なのですが、キリスト教自身はもっと以前・・・奈良時代の前半には日本に伝えられていました。

それは、当時の日本と最も密接な関係にあった外国・中国にキリスト教が伝わっていたからで、635年の唐の時代に『ペルシャから正式な伝道師たちが首都・長安にやって来て、布教活動をする事を認められた』という記録があり、中国では“景教”という名前でしっかりと根付いていましたので、キリスト教の様々な伝説が、当時の日本に伝えられたのは充分考えられます。

聖徳太子の母がウマヤで太子を産み、“厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた・・・というのは、どう考えても「聖徳太子を神格化するため、アチラの神様の伝説をお借りしました~」っていう匂いがプンプンします。

また、東北は十和田湖の近くにある新郷村は、昭和三十年までは“戸来(ヘライ)村”という名前で、以前からヘライ=ヘブライではないか?と言われ、ここには“キリストの墓”と伝えられるお墓まであります。

磔から逃れたキリストは、この地で105歳まで生きたのだそうです。

しかし、これらは一部の人にキリスト教の伝説のみが伝えられたもので、伝道して信者を増やす布教活動とはやはり別のもの・・・という事で話はザビエルに戻りますが・・・

「この国の国民は、私が今まで遭遇した国民の中では、一番優れている」
これは、ザビエルが日本人の印象を語った言葉です。

この優れた国民は必ずキリスト教の深い部分まで理解できると考えたザビエルは、「日本に派遣する宣教師は特に吟味するように・・・」と、イエズス会に対して要請しています。

その要請に応じてやってきた優れた宣教師たちの布教活動によって、大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)や、高山友照右近(1月5日参照>>)親子、小西隆佐行長(9月19日参照>>)親子など多くのキリシタン大名も生まれます。

もちろん、彼らの中には、外国との貿易のために信者になった者もいましたが、この時期に急激に日本社会に広まっていったのは確かです。

日本に伝わった当初は、“南蛮宗”あるいは、ポルトガル語で神父を意味するバテレンから“伴天連宗”などと呼ばれていましたが、その後「キリスト教信者」を意味するポルトガル語“キリシタン”という呼び名が定着しました。

漢字の表記は、“吉利支丹”“貴理志端”などの字が当てられていましたが、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の頃から“切支丹”という表記に落ち着きます。

最も迫害された時代には、“鬼利至端”“鬼利死炭”など「暴走族か!」と言いたくなるような当て字が用いられ、当時の世間の厳しさをうかがわせますね。

そうです。
急激な勢いで日本社会を席巻しそうになったキリスト教は、天正十五年(1587年)6月の豊臣秀吉の発布した“禁教令”によって迫害の運命をたどるのです。

しかし、それまでキリスト教に寛大だった秀吉が、ここに来て一気に“キリスト教禁止”の方向へ豹変したのは、なぜ?なのでしょう。

それは、その前年・天正十五年の5月、九州征伐に出陣し島津氏を降伏させた秀吉が九州の現状を目の当たりにし、かつ、布教活動を隠れ蓑にしたスペインの日本征服の思惑に気づいたからではないかと思います。

天正七年(1579年)に10万人だった信者は、この年には20万人になっていたと言われています。

大友宗麟が夢見たキリスト教国家・無鹿(ムジカ)の建設・・・。
自分の知らない所で、破壊されて教会に建て直された由緒ある社寺、まるで外国の領土のようになってしまった村は、秀吉にとって、以前織田信長が手を焼いた一向一揆の猛威を思い起こさせたに違いありません。

秀吉は、ひと月後の6月には「宣教師は、20日以内に国外退去せよ」という命令を出します(6月19日参照>>)

しかし、“禁止令”が出ても、その数は増え、慶長五年(1600年)には75万人になったと伝えられています。

それにしても、ここまでの急激なキリシタン増加に至った要因は何なのか?

近代の歴史を見てみると、キリスト教の布教が精力的に行われた時が2度あります。

一度は明治の始め、もう一度は昭和二十年頃・・・どちらも、それまでの体制が崩れ始め、社会全体が不安と混乱の時期にあった時代だという事がわかります。

そうです、その不安と混乱の究極が戦国という乱世であった事は言うまでもありません。

打ち続く戦乱、明日をも知れない命、人々は僅かな救いを求めて宗教に走りますが、ちょうどその頃の日本は、鎌倉以来の新仏教も色あせ始めた頃で、彼らの要求に答えてくれるものではなかったのです。

不安な心を満たしてくれる新たな教えに、人々は殺到したのです。

そして、秀吉亡き後も、なおもおさまらない信者の増加に対して、慶長十八年(1613年)12月23日、二代将軍・徳川秀忠2回目の“キリシタン禁止令”を出します。

やがて、3代将軍徳川家光の時代に起こった島原の乱(10月25日参照>>)に驚いた幕府は、キリシタンへの弾圧をいっそう強めます。

あの踏み絵などが行われ、磔・火あぶり・水責めなどの残酷な刑罰を用いて、徹底的な根絶を図るのです。

ある者は改宗し、ある者は“かくれキリシタン”となって、ひっそりと信仰を続けました。

このキリシタンの冬の時代は“キリシタン禁止令”が廃止される(3月9日参照>>)明治六年(1873年)まで続くことになります。
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