源義経=ジンギスカン伝説
昭和二十二年(1947年)12月30日は、『上海』『旅愁』などで知られる“新感覚派”の作家・横光利一(りいち)さんのご命日です。
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横光さんは生前、なぜか“義経=成吉思汗(ジンギスカン)説”を、かたくなに主張していた人で、彼が言うには「弁慶という大参謀がついているのに、義経があんな死に方をするわけがない」との事・・・・しかし、横光さんは、「義経が・・・」「弁慶が・・・」というよりは、壮大なロマンに魅了されていたようです。
「“成吉思汗は義経なり・・・”そのくらい壮絶な夢を持ちたい。日本文学の今後はそういう風でありたい」とおっしゃっていたとか・・・。
・・・て事で、今日は“義経=成吉思汗(ジンギスカン)説”について、書きたいと思います。
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ご存知源義経は、「兄・頼朝と不和になり、都を落ちて奥州・平泉の藤原秀衡を頼って東北へ逃れます。
しかし、秀衡の死後、頼朝の命を受けた秀衡の息子・泰衡に急襲され衣川で自刃した」というのが通説です。
もっとくわしく・・・という方は、左サイドバーの【源義経の年表】を見ていただければ幸いです。
さて、それでは、“義経=ジンギスカン説”に飛躍する前に、まずは“義経・北行伝説”。
とにかく、「義経は頼朝の追手を逃れて北海道まで行った」という説。
これは、“判官びいき”の都の人々が、起こした噂かと思いきや実は、発祥は北にあるのです。
東北や北海道で発生した噂が、徐々に南に下って全国ネットになったようです。
12世紀の末、北海道の平取という所にあるアイヌの村に、見知らぬ武士の一団がやってきたのだそうです。
アイヌに人たちは「すわ!敵の来襲か?」と構えましたが、彼らは以外にも友好的で、農耕や漁業、船や織物の製法を教えていった・・・というのです。
アイヌには、「昔、オキクルミカムイという神様が空からやって来て衣食住や病気の治療法を授けた」という伝説が伝わっていたので、この武士の一団を「オキクルミカムイの再来だ~」と、大いに喜んだのです。
そして、この武士の一団の長のような人物の事を、仲間の武士たちは「はんがんさま」と呼んでいた事から、アイヌの人たちは、彼の事を「ホンカンカムイ」という名前で呼んだのです。
この“ホンカンカムイ”の伝説は、その後、北海道から東北一帯に広がり、“義経生存説”として語られるようになり、やがて、江戸時代に中央へ伝わり、江戸幕府のお抱え学者・林鵞峯(がほう)が「義経死せず、逃れて蝦夷に至る」と発表してから、江戸では“義経生存説”の大ブームが巻き起こるのです。
そうなると、北海道や東北の各地に、義経が宿泊した場所だとか、座った石だとか、そういった伝説の場所も登場してきますが、やはり、本当の歴史として語られる事はありませんでした。
しかし、北条氏の公式記録と言われる『吾妻鏡』の記述も不可解なのです。
通常20日間で行けるはずの平泉~鎌倉間を、義経の首を運ぶ時だけ、倍の43日かかっています。
しかも、義経の最期が4月30日で到着は6月13日という、真夏の季節(旧暦なので・・・)。
このおかげで、義経の首は、本人かどうかなんて判断できるものではなかったのです。
ですから、“義経生存説”を一蹴する歴史の定説からみても、「衣川で死んだ」という確実な証拠はどこにもないという事になり、様々な憶測が流れる事になるのです。
やがて、江戸中期になって“義経生存説”は海を越え、大陸に到達します。
「義経は満州に渡った」というものでしたが、やはり当時の学者たちには無視されます。
そして明治に入っって、後の文部大臣・末松謙澄が、学生時代に書いた『義経再興記』なる書物が刊行され、その中で「義経はジンギスカンになった」と発表されたのです。
ジンギスカンは1167年生まれ、義経は1159年生まれ・・・う~ん、芸能界ならごまかしアリの年齢差か?
義経が平泉から脱出したとしたら1189年。
ジンギスカンが歴史に登場しだすのが1204年頃で、“汗”の称号を得るのが1206年。
東北から北海道、さらに海を越えて・・・となると、十何年はかかるわな。
さらに、ジンギスカンが戦いのとき使用したのは、白い旗。
ご存知、源氏も白旗。
そして、何より興味深いのは、大陸では誰も使用しなかった日本式の弦の長い“大弓”。
ジンギスカンはこの大弓を使っていたのだそうな。
横光さんじゃないですが、壮大なロマンに心ワクワクしますね。
はたして、フビライが起こした2度の“蒙古襲来”。
10月19日【蒙古襲来!文永の役】
6月6日【蒙古襲来!弘安の役】
鎌倉幕府に対する「ジッチャンのカタキ」の思いが込められていたのでしょうか?
それにしては、船の造りがダサイ・・・アイヌに教えた船の製法は、孫の時代にはもう忘れ去られていたのかしらん・・・。
ちなみに、今まで数々映画化・ドラマ化されている義経さんですが、私の知る限りでは、少年隊の東山さん主演のドラマが唯一「北海道へ逃げる」という終りかただったように記憶しています。
その時は、北へ向かう旅に静御前も呼んでましたね。
「平泉の奥さんと子供は見殺しかよ!」と思ったものです。
笑顔で終る義経ご一行を初めて見た気がしました。
ドラマの場合はそれもアリです。
ドラマですから・・・。
*義経さんの伝説・・・と言えばもう一つ、HPでは牛若≠義経説についてやってます。
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