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2006年12月21日 (木)

赤城の山の国定忠治

 

嘉永三年(1850年)12月21日「赤城の山も今宵かぎり・・・」の名ゼリフで有名な国定忠治磔の刑に処せられました

・・・・・・・・・

群馬県では、今でも『県内の有名人と言えば?』と質問すると、近代の有名政治家に大きく水をあけてダントツの一位の人気を誇るという国定忠治(くにさだちゅうじ)

映画やお芝居では、農民のために悪代官を斬って追われる身となり、赤城山に立てこもり、最後には捕り手とのカッコイイ大立ち回りの末に逮捕され、処刑されるという例の勧善懲悪+悲劇のヒーロー

しかし、ファンのかたには申し訳ありませんが・・・

いや、多分皆さんもすでに、わかっておいでとは思いますが、やはりコチラもご多分に漏れずかなりのフィクション率

実際にはそんなカッコイイものではありませんでした。

お芝居はお芝居、歴史は歴史、別物として両方大いに楽しみましょう。

国定忠治が活躍する文化・文政時代(1804年~1829年)から天保(1830年~1843年)にかけての時代は、中部・東海から関東あたりまで、とにかく大親分・股旅者・渡世人のオンパレード。

清水次郎長をはじめ、大前田英五郎黒駒勝蔵吉良仁吉飯岡助五郎・・・などなど、かつてのお正月深夜映画でのレギュラーメンバーが勢ぞろい、数えたらきりがありません。

第十一代将軍・徳川家斉の文化・文政時代は、大きな戦もなく、ある意味平和な時代で、江戸時代では元禄に次ぐ繁栄の時代です。

商品の生産が盛んになり、貨幣経済が発達すると、当然、娯楽も盛んになります。
芝居や相撲の興行、そして遊技場やギャンブル。

そうなると、ちょっと稼いじゃぁ遊びまくる無宿者・・・いわゆるフリーターの数が増えるのですが、それでも景気の良い頃は何とかなります。

しかし、やがて訪れた天保時代・・・
ご存知のように日本列島を大飢饉が襲います。

全国的な社会不安のもと、急激に犯罪も増えるのですが、この中部地方の関八州(相模・武蔵・安房・常陸・上野・下野・上総・下総)と呼ばれるこのあたり・・・、領地が複雑に入り組んでいて、犯罪者が逃げ込んだ場合、それぞれ担当が違うのです。

今のサスペンス劇場などで、出てくる言葉・・・「管轄(かんかつ)が違う」ってヤツですね。
そのため「ここへ逃げ込めば大丈夫」と、犯罪者や博徒の温床となっていたのです。

そこで、幕府は『八州廻り』という、関八州の中なら領地に関係なく逮捕できる、言わばF・B・Iのような“広域捜査担当部署”を設置するのです。

・・・という時代背景のもと、国定忠治は文化二年(1805年)に、上州・国定村の旧家の長岡与五左衛門の長男として生まれますが、百姓を嫌って長岡家を弟に譲り、博徒の世界に入るのです。

そして、隣の島村で、賭場を荒らしまわって捕まり、あわや簀巻きで川に放り込まれる・・・危機一髪を地元の島の伊三郎親分に救われます。

やがて、21歳の時、国定村の紋治親分から盃を受け、縄張りをもらって一家をかまえます。

しかし、こうなったら、もっともっと縄張りを広げたい忠治、「隣のシマを何とかできないか・・・」と思っていた矢先、子分の三ッ木の文蔵が、あの伊三郎の賭場でいかさまをやってボコボコにされるという事件が・・・

それをきっかけに、あの命を救ってくれた伊三郎を闇討ちに・・・そして、一旦赤城山に逃走。

翌年には舞い戻り、やはり子分が痛めつけられたと言って玉村の京蔵主馬の兄弟の家へ殴りこみをかけ、弟・主馬を殺害。

兄はこの日は留守だったので難を免れましたが、後に忠治に探し出され、やはり殺されています。

そして、今度は隣村の田部井村で行われた潅漑(かんがい)用水工事に集まってきた人足相手に、作業員宿舎として建てた小屋で賭博を開催

しかも、それが地元の名主・宇左衛門と結託したイカサマで、彼らが工事で汗水たらして稼いだお金をことごとく吸い上げたあげく、本当は領主が出した工事費を「自分が自腹を切った」と近隣の村々に宣伝。

そんな事、こんな事やってるうちに、いよいよ忠治最大の犯罪を犯す事件が起こります。(殺人より大きい罪って・・・ないのでは?)

そのきっかけは、忠治が開いていた賭博場に八州廻りの手入れが入った事。

間一髪で逃げる忠治は、「今日の賭場がどうして八州廻りにバレたのか?」不思議に思います。

赤城山に逃走しながら、ふと落ち着くと、子分の板割りの浅太郎がいません。

浅太郎の伯父・三室の勘助は幕府から十手・取縄をあずかる収入役という役をやっていた事もあって、「これは、浅太郎がチクッたな・・・」と思っている所へ、浅太郎も赤城山の隠れ家にやってきます。

そこで、浅太郎を問い詰めてみましたが「絶対に裏切っていない」と言い切ります。

それならば・・・と、すぐさまその夜のうちに、勘助宅へ殴りこみ(・・・なんで?)勘助とその息子・太郎吉を惨殺しました。

そのあと、勘助の首を片手に持って、近隣の名主やお金持ちの百姓の家に押し入り「お前らも、こうなりたくなかったら、金を出せ!」脅して逃走資金を確保・・・

この事がお芝居では・・・

捕まる事を覚悟した忠治が、「浅太郎だけでもこの世界から足を洗わせて助けてやろう」と、伯父・勘助のところへ戻らせようとするのですが、「自分だけ逃げる事はできない!」と、しぶる朝太郎に・・・

「疑いを晴らしたいなら、勘助の首を持って来い」と言った事になっています・・・もちろん、本気で首を取れというのではなく、単に、伯父の所へ戻らせるための口実です。

しかも、その話を聞いた勘助は「お前の疑いが晴れるなら、この首持ってけ!」と、浅太郎を前に覚悟の死。

浅太郎は、勘助の首を持って、赤ん坊の太郎吉を背負って赤城山に戻ってきます。

「まさか、本当に首を取ってくるとは・・・!」
思わぬ展開に驚く忠治ですが、こうなった以上覚悟を決めて・・・

冒頭の「赤城の山も今宵限り・・・」の名ゼリフです。
 

しかし、本物の忠治は、まだまだ覚悟は決めません。

資金を得た一家は、他国へ逃走するため、槍や鉄砲の完全武装で、大戸の関所を破ります。

実は、この完全武装の堂々の関所破りが国家への反逆罪となるため、当時は最大クラスの犯罪となり、最高の包囲網で徹底追及!となるのです。

それでも、関所破りから逮捕されるまでの8年間、国定村へ戻っては賭場を開き、捕まりそうになったら赤城山にこもって、また、信州へ逃走して・・・という生活を繰り返していましたが、嘉永三年(1850年)の7月・・・とうとう年貢の納め時。

忠治が愛するお妾・おまちの田部井村の家で脳溢血で倒れ、半身不随になってしまいます。

先の潅漑工事の時、忠治とツルんでいた宇左衛門は、それ以外にもなんやかんやと一緒に悪事を働いていたので、「忠治が捕まっては大変」と、慌てて自宅にかくまいますが、どこでどうバレたのか、八州廻りに自宅に踏み込まれ、宇左衛門が先に逮捕されます。

続いて忠治も逮捕。

病気で半身不随になっていたため、まともに戦う事すらできず、お芝居の大立ち回りとは違い、よだれをたらしながらのダルダルの逮捕劇だったとか・・・。

そして、宇左衛門は死罪、その他子分たちは遠島

忠治は、最も重い罪である関所破りを行ったという事で、その現場でもある大戸の関所前にて、嘉永三年(1850年)12月21日磔・獄門となるのです。

国定忠治、41歳でした。
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