日本最後の仇討ち
明治十三年(1880年)12月17日、新政府の“仇討ち禁止令”にもかかわらず、臼井六郎が父親の仇を討ち、これが日本の歴史上最後の仇討ちとなっています。
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仇討ちの根っことなる事件は、あの動乱の慶応三年にさかのぼります。
昨日の高杉晋作の長州藩でもそうですが、この時代は、日本中が『勤皇(天皇押し)』か『佐幕(幕府押し)』かで、意見が真っ二つに別れていた時代です。
福岡・黒田家の支藩である秋月藩でも、やはり意見は対立していましたが、臼井亘理(わたり)をはじめとする重臣達は、公武合体を支持し幕府寄りの体制をとっていました。
そんな時、大政奉還(ブログ:10月14日)、王政復古の大号令(ブログ:12月9日)で、事態は激変します。
当時、藩命で京都にいた亘理は、幕府の崩壊を目の当たりにして、「朝廷側についたほうが良いのでは?」と考えるようになり、その路線で行動をし始めます。
その事がどこでどういう風に伝わったのかはわかりませんが、藩主・家老の怒りを買い、「国に戻ってはならぬ!しばらく京にとどまれ!」との命令を、亘理自身わけがわからないまま受けてしまいます。
やがて明治元年の5月に、帰郷の許しが出た亘理は早速、秋月に戻ります。
自宅に戻った亘理を、「何かワカランけど、とりあえず戻れて良かった」と、家族・親戚一同がお出迎え、宴会を開いてその日は大いに盛り上がりました。
その晩の事です。
お祝い気分もあって、しこたまお酒を飲んで爆睡中の亘理を、同じ藩内の勤皇攘夷派の若者で構成される“干城隊”と名乗る刺客が襲い、亘理を・・・そして横で寝ていた妻と幼い妹が殺されてしまいます。
ひとり、別室で寝ていた長男・六郎は助かりましたが、血の海に横たわる家族の姿を、この16歳の少年は、どんな思いで見た事でしょう。
もちろん即日、藩に訴えますが、勤皇に傾きつつある藩当局の判断は、“干城隊”は無条件の無罪。
そして、京都での事が影響したのか、逆に亘理の世禄を削られるという、遺族にとっては納得のいかないものでした。
亘理の死は、“非命の死”・・・つまり災難としてかたずけられてしまうのです。
その後も、六郎は再三にわたって仇討ちを訴えますが、養父や親戚は反対し、彼を止める一方です。
やがて、明治六年には、“仇討ち禁止令”が出されます。
これからは、『個人に代わって国が法律に基づいて裁きを下す』という事になりました。
しかし、六郎の心の傷は消える事はありません。
そして、六郎は学問を理由に故郷をあとにし、東京へ出てきます。
東京で、北辰一刀流の山岡鉄舟について剣の腕を磨きながら仇討ちの機会を狙っていたのです。
いつしか六郎は、当日、直接手を下したのは“干城隊”隊士の一瀬直久なる人物であった事を突き止めます。
そして、一瀬の行方を探るうち、一瀬が現在、東京上等裁判所の判事である事。
東京・三十間堀にある旧藩主・黒田長沖邸で、月に一度、旧・秋月藩士を集めて碁会が開かれ、一瀬も時々そこにやってくる事を知ります。
明治十三年、12月17日、物陰で様子を伺っていた六郎は、黒田邸に入る姿を確認し、一瀬に向かって短刀を突き立て、本懐を遂げました。
騒ぎを聞きつけて集まってくる人々・・・。
六郎の顔を見知っている者がいて「六郎、何をした?」と聞くと、六郎は「御邸で騒ぎを引き起こした事は深くお詫び申しあげる」と丁寧に謝罪し、雇った人力車に乗り、その足で警察に出頭しました。
この事件を、故郷で聞いた六郎の祖父は「六郎がやりおった~今日は生涯で最良の日、生きててよかった」と、涙を流したと言います。
六郎は、“復讐手続書”と題して、仇討ちに至った経緯を文章にしたためていますが、そこには、「国の法律を破って乱れを起こす事はまことに心苦しいが、自らの手で下さねば心は癒えなかった」との気持ちを書いています。
しかし、この仇討ちは、あっという間に世間の評判となります。
錦絵にもなり、芝居にもなり、当時のマスコミでは、まるで人気アイドル扱いです。
文明開化へ、文明開化へとなびく中、それに乗り遅れた人々にとっては、江戸の昔を思い起こさせる出来事だったんでしょうね。
しかし、もう時代は変りました。
仇討ちは禁止、罪は罪です。
次の年には、東京裁判所で、終身禁固が言い渡され六郎は服役します。
結局、10年後、祝典により罪一等を免ぜられ明治二十三年(1890年)6月に仮釈放となります。
この頃になっても、まだ六郎の人気は衰えず、自由民権運動の大井健太郎や星亨(とおる)といった当時の名士たちから、盛大な出所祝賀会を開いてもらっています。
先日、14日にも【忠臣蔵】を書いたばかり。
仇討ちというのは、はたして美談なのか?単なる人殺しなのか?
赤穂浪士にしても、六郎にしても、こーゆー場合、やはり最初の上のかたの判断。
最初の判決で被害者遺族に怨みを残させない公正な判決をする事が重要ですね。
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コメント
日本最後の仇討ちに付いて。
このブログの中にいくつか誤りがあるようです。臼井亘理が暗殺されたとき、息子の六郎は11才でした。亘理の帰郷が遅れてしまったのは、藩主の命ではなく自身の身辺整理の為のようです。ちなみに亘理の妻の清を殺したのは萩谷伝之進なる人物で、後に自殺しています。六郎の妹つゆは軽傷で命に別状無かったようです。詳しくは吉村昭著『敵討』の中に最後の仇討として書かれています。吉村氏綿密な調査による著書ですので、正しいと思っています。亘理、六郎の墓碑の写真を au one アルバムのカテゴリ観光スポットの中の ようこそ秋月へ に載せていますので、良かったら見て下さい。
投稿: 武家屋敷 | 2007年12月 4日 (火) 16時48分
武家屋敷さま、ご指摘ありがとうございます。
私は、専門家ではありませんので、古文書や専門文書を直接拝見させていただく事ができませんので、ブログに書く際のネタとしては、一つの事柄に対して複数の書籍や史料を読み、自分なりの介錯を付け足して、自分なりの文章に仕上げているつもりなのですが、ご指摘の年齢に関しては、6歳や10歳の説もありましたが、たまたま手元にあった『日本史ものしり事典』(奈良本辰也・主婦と生活社)の16歳というのを採用させていただいた次第です。
ただし、書籍によっては「六郎さんが大正六年(1917年)に60歳でこの世を去った」としている物もあり、それで計算すると、確かに11歳という事になりますね。
妹さんに関しては、死亡という記述が複数ありましたので、そのように書かせていただきましたが、ご存命であったなら、それにこした事はないと思います。
ブログでは「六郎だけが別の部屋で寝ていたので助かった」としましたが、これも同じ部屋で寝ていたとする物もあり、情報が錯綜しているようです。
奥さん殺害に関しましては、「勤皇派の干城隊・数名が佐幕派の亘理を・・・」という事で、個人的恨みではなく、政治犯による要人暗殺と、自分勝手に判断してしまい、「誰が誰を・・・」という事柄をすっ飛ばしてしまいました~。
申し訳ないです。
帰郷が遅れた事に関してましては、命令だと聞いていましたが、王政復古の大号令の後であっただけに、色々身辺整理が大変だったのかも知れません。
教えていただいてありがとうございます。
また、書籍によっては、明治四年(1871年)の「うつろぎ谷の仇討ち」を「日本最後の仇討ち」としている物もあり、それだと、日本最後という事自体も危ういという事になり、歴史解釈の難しさを痛感させられます。
なにぶん素人なもので・・・これからも、気になるところがあれば、よろしくお願いします。
投稿: indoor-mama | 2007年12月 4日 (火) 23時25分