« 信玄,ラストチャンスに賭ける | トップページ | 忠臣蔵のウソ・ホント »

2006年12月13日 (水)

建礼門院・平徳子の忌日

 

建保元年(1213年)12月13日、平清盛の娘で、第80代高倉天皇に入内し、安徳天皇の母となった建礼門院・平徳子が、59歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

平徳子(たいらのとくこ)は、あの平清盛次女。

源平の頃を描いたドラマで、女性として目立つ役どころと言えば・・・
前半は二位の尼平時子・清盛の奥さん)で、後半は、静御前(源義経のカノ女)
・・・と、何かと影が薄い(失礼)気がする徳子さん。

感情的な場面もなく、表情も表に出さず、もひとつ彼女の性格がつかめない感じです。

父の清盛太政大臣となり、まさに平家全盛の頃・・・徳子は15歳で、時の天皇・高倉天皇のもとに入内します。

その時、天皇は11歳でした。

とは言え、この若き天皇は、けっこうな女好き・・・
あちらこちらに彼女を作っては、「自分は天皇だから・・・」と、手だけつけといて深入りしない・・・という、男から見れば夢のような恋愛遍歴。

そんな時も、徳子は感情を表に出しません。
夫婦としての感情があったのかどうかさえ、疑わしい気配です。

もっとも、この二人の結婚を押したのは、他ならぬ徳子の父・清盛と、天皇の父・後白河法皇・・どちらも、時の権力者です。

もともと、天皇の奥さんとしてはふさわしくない家柄の平家の娘・徳子を、法皇の猶子にしてまで結婚させた・・・いわゆる政略結婚ですから、当人同士が夫婦としての感情がなかったとしても不思議ではありません。

そんな、徳子が22歳の時、最大の親孝行をします。

天皇との間に男の子(後の安徳天皇)を出産したのです。
(そんな二人でも子供はできるのね)

子供は、わずか生後1ヶ月で、皇太子にたてられます。

清盛はかつて栄華を極めた藤原氏のように、娘を天皇家へ送り込んで、次期天皇の外祖父になる・・・という権限握りまくりの絶好のポストを手に入れたのです。

しかしその前後から、くすぶりつつあった清盛と法皇の対立が少しずつ少しずつ大きくなっていくのです。

徳子が出産してから2年後、清盛のゴリ押しで、皇太子はわずか3歳で安徳天皇となり、高倉天皇は譲位して高倉上皇となりました。

もちろん、大きくなった溝がよけいに大きくなった事は言うまでもありません。

そんな清盛と法皇のギクシャクした関係に、いち早く反応したのか?・・・法皇の先妻の息子・以仁王(もちひとおう)源頼政平家に反旗をひるがえします。(4月9日参照>>)

この戦いはすぐに鎮圧されたものの(5月26日参照>>)、間もなく、以仁王の令旨(りょうじ・一緒に平家を殺ったろやないか!との、天皇家の人からのお誘いの手紙)を受け取っていた伊豆源頼朝(みなもとのよりとも)(8月17日参照>>)木曽源義仲(みなもとのよしなか)(9月7日参照>>)相次いで挙兵します。

その後、年が明けてまもなく高倉上皇と清盛が相次いで亡くなります(2月4日参照>>)と、この高倉上皇の死を受けて、徳子は“建礼門院(けんれいもんいん)という号で呼ばれる事になります。

こうして大きな柱を失った平家・・・西に向かってくる源氏・・・

やがて、寿永二年(1183年)、倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で大敗をして、いよいよ木曽義仲が都に近づいて来る事になり、平家は一族そろって都を落ちるのです(7月25日参照>>)

徳子27歳、安徳天皇6歳でした。

その後、木曽義仲を倒した頼朝の弟・義経(よしつね)率いる源氏軍によって、平家は徐々に西へと追いやられ、寿永四年(1183年)3月、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)で、平家は滅亡する事になるのですが・・・この時も建礼門院・徳子はその感情を見せてはくれません。
(そのあたりの一連の戦いについては【平清盛と平家物語の年表】から、各ページへどうぞ>>)

平家の最後の切り札だった安徳天皇(8歳になってます)と三種の神器を抱きかかえて海のもくずと消えるのは二位の尼・・・。

彼女は、海に沈む二人をジ~っと見送ってから「あぁ、そうだ」とばかりに、そのへんにあった硯などをふところに入れて入水しますが、かねてから準備していたわけではないので、すぐにプカプカと浮いて、結局、源氏の兵士に熊手で救い上げられてしまいます。

この状況は彼女に死ぬ気がなかったように思えてならないのです。

もちろん「死ぬのが怖い」というのではなく、やはり、感情が見えない・・・という感じです。

よくテレビドラマなどでは(昨年の大河も、そうでしたが・・・)海に飛び込もうとしたところに飛んできた源氏の矢で、着物が船板に打ちつけられて、飛び込むに飛び込めなかった風に描かれている事がありますが、これは同じ時に源氏に捕まった徳子の兄・平重衡(たいらのしげひら)の奥さん・輔子(すけこ)の逸話とされます(輔子については3月10日【平家の公達・平重衡と輔子】のページでどうぞ>)

そしてその後、世はまさに、源氏のモノとなっていくのですが、徳子は5月に出家して尼となり、先に逝った一門の人たちへ祈りを捧げながら暮らします。

最初は京都の東山あたりのお寺にいましたが、ここは都に近く、何かと他人のウワサが耳に入るので、後に洛北の大原の里にある寂光院で余生を送る事になるのです。

そんな、平家物語も終ろうとするあたりに、彼女は人生で始めて、その素顔を垣間見せてくれます。

それは、何を思ったか、あの後白河法皇が、徳子を訪ねて大原にやって来た時の事です。

思えば、父・清盛を取り立てたのも法皇・・・
高倉天皇との結婚を推し進めたのも法皇・・・
源氏をけしかけ、平家を滅ぼさせたのも法皇です。

彼女は、ここで始めて涙をうかべながら「会いたくない・・・」という心からの意思表示をするのです。

しかし、相手は法皇様ですから、断るわけにもいかず、結局は、法皇と会って、涙ながらに先に逝った人々の話をするのですが・・・。

この大原の話は、法皇が何を考えてるのか?理解し難いくだりですが、徳子の素顔が少しでも見れた気がして、なにやらホッとするところでもあります。

現在も、京都・大原・寂光院の裏山には、徳子さんのお墓とされる陵がありますので、おそらく彼女は亡くなるまで、寂光院にて死んだ平家の人々を偲んでいたのではないかと思います。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 信玄,ラストチャンスに賭ける | トップページ | 忠臣蔵のウソ・ホント »

源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

政略結婚というのは当人にとっては悲しいことですね…。高倉天皇は女好きということですので、まあいいのかもしれないでしょうが、徳子の方は心の中では泣いていたんでしょうね。

徳子にとっては、自分の人生を狂わせた元凶のような後白河法皇はイヤ~なお人…。最後の「会いたくない」は説得力がありますなあ。

投稿: ぴの | 2006年12月14日 (木) 02時14分

こんにちは~、ぴのさん。

私も、記事を書きながら改めて思ったんですが、徳子さんは、感情がないのではなくて、極力押さえていたのかも知れませんね。

北条政子のように、父の反対を押し切って自分を貫くのとは対照的なタイプで、平家という鎖をはずした時、始めて本当の自分が出せたのかな?って思います。

投稿: 茶々 | 2006年12月14日 (木) 10時45分

茶々さん、こんばんは。
朝起きて木星を見ようとしたら出ていませんでした。どうも起きるのが遅かったみたいです。
明星の金星と正反対の感じの建礼門院ですので性格は穏やかだっただろうと思います。
壇ノ浦の悲劇後、尼になって自分の居場所を見つけたのかなと思いました。

投稿: non | 2016年12月11日 (日) 16時59分

nonさん、こんばんは~

私は、ものスンゴイ箱入りお嬢様だったのかな?と思います。

投稿: 茶々 | 2016年12月12日 (月) 00時37分

茶々さん、こんばんは。
ゲームオブスローンズというドラマがあるのですが、負けると処刑されないと民衆の前で辱めを受けるのが古代以来の西欧などの西ユーラシアの文化ですが、日本は先ほど別の所で書きましたが、だまし討ちも辱めも受けないし、負けた方も敬意を示しています。こういう国は見たことが無いです。
建礼門院の場合が古代ローマだと凱旋の時に鎖でつながれて侮辱される感じにさせられて民衆から石を投げられます。そういうのが無く静かに過ごしています。建礼門院は悲しかったと思いますが後半はゆっくり過ごせたので幸せでないですが不幸でもない暮らしを送ったと思いました。
大原御幸は能、歌舞伎、新派でも演じられますが、島田正吾の後白河法皇と中村歌右衛門の建礼門院の舞台が一番良かったと思います。また見てみたいですがご両人とも無くなったのが残念です。ハリウッドでこういう映画が出来たらよいのにと思います。後白河法皇はトムハンクス、建礼門院をジェニファーコネリーが演じたら面白いと思います。フランスだとジャンレノとシャルロットゲンズブールが良いなと思います。勝手な想像をしてすみません。でも大原御幸は日本の美というよりも世界の美と思えます。

投稿: non | 2016年12月12日 (月) 19時21分

nonさん、こんばんは~

日本の場合、
仏門に入る=世を捨てる=俗世間とは一線を引く→なのでそっとしておく
という暗黙の了解があったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年12月13日 (火) 03時16分

茶々さん、こんにちは。
別の尼さんのところで書きましたが、日本人の優しさが講和、和平後の待遇が良いのはそうかなと思いました。
以前東山の寺で見ましたが、建礼門院は完全に剃髪していました。いい加減な感じでないと思いました。義経で演じた時みたいに剃髪したのだと思いました。他にも重衡の妻も剃髪しましたね。確かあの二人は義理の姉妹ですね。そこに阿波内司を含めますと清盛と後白河院をつなぐ感じなのかなと思いました。

投稿: non | 2016年12月17日 (土) 13時23分

nonさん、こんばんは~

重衡の奥さんは、処刑されたご主人の後始末をキッチリ終えてからは建礼門院とともに暮らしますね。
輔子さんを主役に大河やってほしいです(*^-^)

投稿: 茶々 | 2016年12月18日 (日) 18時58分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/4527038

この記事へのトラックバック一覧です: 建礼門院・平徳子の忌日:

« 信玄,ラストチャンスに賭ける | トップページ | 忠臣蔵のウソ・ホント »