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2007年1月31日 (水)

最後の斬首・高橋お伝の話

 

明治十二年(1879年)1月31日、強盗殺人の罪で逮捕されていた高橋お伝への死刑が執行され、これが日本で最後の斬首刑となりました。

・・・・・・・・・・・

「嘘つきで、欲が深く、男を手玉にとっては、最後に殺してしまう・・・しかも、その女が妖艶な美人」とくれば、メディアが食いつくのは、いつの世も同じ。

高橋お伝「稀代の悪女」として、当時の新聞紙上でスキャンダラスに報道されるのです。

事の起こりは2年前・・・明治九年(1876年)8月27日に東京・浅草の旅館で、首を裂かれた男の死体が発見されます。

所持金は奪われ、そばには「姉の仇だ」という内容の書置きが添えられていました。

被害者の名前は後藤吉蔵・・・古着屋兼金貸しをしていた男です。

そして、吉蔵に借金のあったお伝が、強盗殺人犯として逮捕されるのですが、彼女は一貫して無実を主張。

彼女の言い分では、これは強盗殺人ではなく“仇討ち”だと言うのです。

彼女の供述に疑いを抱きながらも一つ一つ“ウラ”をとる警察。

そのせいで、逮捕から処刑までの長さが約2年間という、当時としては異例の長期にわたる事になるのです。

Oden2cc お伝は、群馬県で農業を営む高橋勘左衛門の娘として生まれます。

しかし、実は母は勘左衛門のもとに嫁いだ時にはすでに妊娠していて、お伝を生んでまもなく亡くなってしまい、本当の父親については、某藩家老から行きずりの遊び人まで、様々な憶測を呼ぶ事になります。

母が亡くなった事によって、邪魔者になってしまったお伝は、親戚の養女となり、やがて14歳の時に結婚しますが、二年で離婚

次に、波之助という男と2度目の結婚をします。

今度は仲よく、夫婦関係はうまく行っていましたが、ある時突然、波之助が重い病気にかかります。

病気治療のため多額の借金を抱えてしまった二人・・・。

故郷の冷たい視線に耐えかねた二人は村を捨て、お伝の異母姉・かねを頼って上京し、姉の援助で横浜で暮らします。

献身的に夫の看病を続けるお伝でしたが、その姿に見惚れてしまったのが、姉の愛人・仙之助という男。

仙之助は親切を装い、「よく効く薬だ」と言って、お伝に一包の薬を渡します。

お伝がその薬を波之助に飲ませたところ、たちまちのうちに苦しみ出し、波之助は死んでしまいます。

恐ろしくなったお伝は、すぐに横浜を離れて、しばらくひっそりと暮らしていましたが、風の便りで姉のかねが急死した事を知ります。

まさか・・・と、仙之助に疑いを持つお伝でしたが、その時はどうする事もできませんでした。』

やがて、お伝はプー太郎士族の市太郎と知り合い、同棲を始めました。

この市太郎という男・・・かなりの坊ちゃん育ちで、「誰かに雇われるのはイヤ!何か商売したい」というので、お伝は金策に走り回ります。

そこで知り合ったのが、金貸しの後藤吉・・・。

『しかし、その吉蔵こそがあの仙之助だったのです。

もともと仙之助が自分に気がある事を気付いていたお伝は、あえてその体を投げ出し、波之助に与えた薬の事、姉の死の真相について聞き出そうとします。

最初はのらりくらりと話をはぐらかしていた吉蔵でしたが、浅草の旅館に泊まったあの日、お伝のあまりの執拗な追及についに逆ギレ。

短刀を振りかざしてお伝に襲い掛かって来たので、それを手で払ったところ、その短刀が吉蔵ののどにブスリ・・・。

「夫と姉の仇が討てた・・・」と、思ったお伝は自首しようと、身の回りを整理していた所を逮捕されたのでした。』

・・・と、これはお伝の供述なのですが、実は、姉の“かね”も“仙之助”なる人物も、この世に存在しない架空の人物だったのです。

上記の青字』の部分全部お伝の創作だったと言われています。

本当のところは、働かない市太郎のおかげで、日々の暮らしにも困る生活をしていたお伝に、吉蔵という男が、「金を貸してやるから・・・」と、彼女を体を要求し、嫌な金貸しの言うとおりにしたのに、肝心のお金を貸してはくれなかった・・・というのが真相のようです。

・・・とは言え、病気の夫のために借金をかかえ、逃げるように故郷を離れてから、身を粉にして夫・波之助を看病し、生きるためにその身を売ってギリギリの生活をしていたのは事実。

その後、波之助が病死してから、今度は市太郎という働かない夫のために、借金に走り回ったのも事実。

もちろん殺人はいけませんが、惚れた男に翻弄された感のある彼女の人生は「稀代の悪女」と呼ばれるような物ではなかったように思います。

斬首される直前まで、愛する市太郎の名前を叫び続けたというお伝。

彼女の処刑後、わずか3ヶ月で『高橋阿伝・夜叉譚(やしゃものがたり)なる絵草子が刊行され大評判になり、続いて、『綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)というお芝居も上演されます。

このお芝居の中では、お伝は病気に苦しむ前夫も殺害した事になっています。

芝居や絵草子によって悪女のレッテルを貼られてしまった高橋お伝・・・彼女の「惚れた男に心から尽くす情け深さ」の一面は、見事にかき消されてしまい、悪女というイメージだけが、延々と語り継がれる事になりました。

・・・・・・・・・・・

高橋お伝の処刑が最後の仕事となった江戸処刑人・山田浅右衛門については2009年1月31日【最後の斬首刑で役目を終えた山田浅右衛門】のページへどうぞ>>
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2007年1月30日 (火)

勝海舟のトラウマ

 

文政六年(1823年)1月30日は、あの勝海舟さんのお誕生日
という事で、今日は海舟さんのお話を・・・

・‥…━━━☆

勝海舟は、葛飾本所の勝左衛門太郎惟寅(これとら)・通称=小吉の長男として生まれました。

禄高はわずか四十一石で、典型的な貧乏旗本

・・・で、小吉さんは、長男・燐太郎(海舟)に、出世の夢を託す事になるのです。

今でいうところの塾通いに始まり、何かとコネを使ってはお城でのイベントなどに参加をさせたりなんぞしていたんです。

そして、燐太郎が7歳の時、親戚のコネでもぐりこんだ“江戸城本丸お庭拝見”パーティ・・・そこで、小吉の努力(?)が実り、燐太郎のイケメンぶりが(ふ~ん、イケメンだったのか~)徳川十二代将軍・家慶の五男・初之丞(後の一橋慶昌)の目にとまり、小姓として、とりたててもらう事に成功しました。

「よし!いける」と、出世の希望を持って、ますます塾通い・・・御殿のお勤めが終ったら塾へ・・・の毎日。

ところが、燐太郎が9歳になったある日のこと、いつものように勤めを終えた後、塾へ向かっている途中、病犬に大事な股間を噛まれてしまうのです。

しかも、笑えないくらい重症です。

小吉が連絡を受けて駆けつけた時には、すでに一人の医者が駆けつけていました。

小吉が「助かりますか?」と、訪ねると「難しい・・・」という頼りない返事。

小吉は、この医者をすぐにヤブと判断し、自宅に連れて帰って、別の医者を呼んで緊急手術です。

しかし、燐太郎は泣き叫ぶわ、医者の手は奮えるわ・・・で、その光景を見るに見かねた小吉さん、やにわに、刀を抜いて燐太郎の枕元にズブリ!

オヤジの気迫に、燐太郎も泣きやみ、医者も覚悟を決め、傷口の縫合手術は無事成功

それでも、医者は「命の補償は受けあいかねる」と言います。

その後も、燐太郎は熱に浮かされるわ、家族は泣きちらかすわ、で家中が大騒ぎの中、小吉さんは、燐太郎の熱を下げようと、毎晩、水垢離(みずごり)をして、自分の体を冷やし、裸になって燐太郎を抱いて寝たのです。

小吉さんは昼夜を問わず息子の世話を一人でやって、その様子は近所に人から「子供を犬に噛まれて、アイツはおかしくなった」と、噂されるくらいでした。

実は、小吉さんも14歳の時、崖から転げ落ちたはずみで大事な股間に大怪我をした経験があり、その傷は二年もの間、彼を悩ませたのです。

だからこそ、その苦しさはイタイ程わかっていたんでしょうね。

やがて、必死の看病の甲斐あって、燐太郎は命も助かり、無事、御殿勤めに復帰しますが、燐太郎を気に入ってくれていた慶昌が15歳という若さで亡くなってしまったため、出世の道は閉ざされてしまいました。

後に大出世する海舟ですが、小吉さんは息子の出世した姿を見る事なくこの世を去っています。

ところで、心配だった後遺症ですが、後々海舟さんは四男五女という9人の子供を設けていますから、こちらのほうは大丈夫だったようですね。

Kaisyuucc 出世して有名になっても、海舟さんは「刺客より犬のほうが怖い」と言って、暗闇を歩く時は犬に警戒していた・・・と言いますから、よほどその時の恐怖がトラウマとなっていたんでしょうね。

しかし、もしその時、海舟さんが亡くなっていたら、維新はどうなったんでしょうね。

そう言えば、1月13日に咸臨丸でアメリカに向けて出航した海舟さん(1月13日参照>>)・・・サンフランシスコ入港が3月17日ですから、1月30日頃は海の上、ハワイあたりで、船酔い+下痢と格闘中ってとこですかね。
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2007年1月29日 (月)

南極探検と観測の歴史

 

昭和三十二年(1957年)1月29日、永田隊長率いる日本南極観測隊がオングル島に到達し、そこに日章旗を掲げ『昭和基地』と名付けました

・・・・・・・・・

南半球に未知の大きな大陸が存在するのではないか?という話は、ヨーロッパでは遠くギリシャ時代から囁かれていましたが、氷山に阻まれ、長い間未知の場所でした。

やがてイギリスクックが1772年~1775年の航海で、初めて南極大陸の周りを一周しましたが、この時は大陸発見には至りませんでした。

しかし、この事が多くの探検家を刺激する事になって、その後、探検家は競うように南極大陸を目指します。

そして、1821年にアメリカデービスという人が、初めて南極大陸に上陸した・・・という事ですが、この頃はロシアやイギリスも軍をあげて探検隊を派遣している上、デービスは探検家でななく、本職が漁師なので、彼の初上陸に異論を唱える人も数多くいます。

やがて、ドイツスウェーデンも探検隊を派遣し、各国の競争が高まる中、多国籍メンバーで構成される探検隊に属していたノルウェーアムンゼンがとうとう、1911年12月14日南極点を踏みました。
(現在、12月14日は「南極の日」という記念日となっています)

アムンゼンと南極点到達を競っていたイギリスの探検隊に属していたスコットは、その1ヶ月後に到達したものの、極点から基地へ帰る途中に遭難し、探検隊は全滅してしまいます。

スコットの極点到達から10日後の明治四十五年(1912年)1月27日には、前年の11月29日に日本を出発した白瀬中尉(8月30日参照>>)率いる日本の探検隊が南極大陸に上陸。

1月29日には、南緯80度付近に到達し、その一帯を『大和雪原』と命名し、日本領である事を宣言しました。

その後、極点に向かいましたが、装備の不完全と食糧不足のため、極点制覇には至りませんでした。

やがて、1930年代に入ってからの南極は、探検の時代から科学観測の時代へと移り変わります。

そして、永田隊長によって編成された第一次南極地域観測隊(観測予備隊)が、昭和三十二年(1957年)1月29日に、オングル島に到達し、『昭和基地』を開設したのです。

しかし、翌年派遣された第二次観測隊は、悪天候のため昭和基地への上陸を断念

越冬していた第一次の隊員も撤退し、あの『南極物語』で有名な犬のタロジロたちが取り残される・・・という一件がありました。

その後、1962年から1964年まで、一時、中断されますが、1965年からは毎年観測隊が派遣されて越冬し、現在に至っています。

各国が主張していた領土問題も1959年の南極条約により凍結され、南極大陸自身は、どこの国にも属さず、多くの国が科学観測基地を設けています。

Nankyokuopcc

ちなみに、南極は南半球なので、季節は日本と逆。

1月~2月頃が真夏・・・という事で、一番移動に適しているのだそうで、観測隊員は毎年、この頃に交代し、食糧などもこの時期に運びこまれます。
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2007年1月28日 (日)

太安万侶が古事記を作る

 

和銅五年(712年)1月28日、太安万侶が、『古事記』を編さんし、元明天皇に献上しました。

・・・・・・・・・・・・

『古事記』の序文にはこう書かれています。
「臣安萬侶言・・・多加虚僞 當今之時 不改其失・・・時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明・・・和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等 太朝臣安萬侶謹上」

本当はもっと長い文章で、当たり前ですが、漢字ばっかりなので、見てもチンプンカンプンです。

これは、平成の今だからではなく、平安時代にすでに、『古事記』『日本書紀』の「読み解き勉強会」が何度となく行われていますので、当時の人にとっても難しい物だった・・・という事でご安心を・・・。

とにかく序文には、
天武天皇が、「昔から伝わる天皇家の歴史が、本当の事とウソの事が入り混じってゴチャゴチャになっていて、ここらでちゃんとしとかないと、これから先もっとゴチャゴチャになりそうだから、すべてを調べなおして作り話を排除してまとめてよ」と、おっしゃったので、天才的な記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)(2010年1月28日参照>>)という人物に、すべての古文書を読み、すべての伝説を聞いて記憶させた物を、天武天皇の世には間に合いませんでしたが、天皇の忠実な臣下である安万呂が三巻にまとめあげ、ここに奏上します』
的な事が、日付とともに書かれてあります。

しかし、太安万侶(おおのやすまろ)という人物に関しての事は、その名前しかわからず、長い間謎の人物とされてきました・・・いや、むしろ、架空の人物なのではないか?とさえ言われていました。

ところが、昭和54年、奈良で農業を営んでいた竹西さんという方が、茶畑に開いた穴の中から骨のかけらとともに木片を発見したのです。

その木片には銅版がくっついていて、その銅版には、『左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳』・・・つまり「太安万侶、癸亥(みずのとい)の年の7月6日死亡」と書かれてあり、その穴は太安万侶のお墓で、その木片は墓標だったのです。

これで、太安万侶が実在の人物であった事が証明された事になりますが、それと同時に、この墓標は新たな謎を生む事になります。

それはお墓の場合、普通はその人の生前の功績なんかも一緒に書くものなのですが、その記載がまったく見当たらないのです。

『古事記』の編さん・・・という大事業に携わったなら、それを墓標に書かないというのは考え難い、と言うのです。

もともと、当時の事が網羅されているはずの『続日本紀(しょくにほんぎ)の和銅五年の所に『古事記』「古」の字も出てこない事や『日本書紀』の編者が『古事記』を見た形跡が感じ取れない事、原本が現存せず14世紀以降の写本しか残っていない事、など等で『古事記』を疑問視する考えが昔からあったのです。

しかし、これだけはっきり、日付と名前が書かれている以上、今のところ「和銅五年1月28日、太安万侶が『古事記』を編さんし、献上した」というのが、歴史の定説とされています。

Kuniumicc

とにもかくにも、天皇家の歴史・・・というよりは、当時の権力者・藤原氏のための歴史という感が強い『古事記』ですが、権力うんぬん、成り立ちうんぬんを抜きにして、遥か昔の物語・・・として読むには、『古事記』は実に面白いです。

時には神々しいばかりの力を発揮する神様たちが、時には妙に人間味あふれる行動をする・・・美人にフラれて怒ってみたり、奥さんのヤキモチで愛人との関係がヤバくなったり、ヤマトタケルノミコト「戦いばっかで、疲れるよ~」と嘆いてみたり・・・。

たまには、神話の世界にハマッてみるのも楽しいです~。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

太安万侶さんのご命日=7月6日に書かせていただいた妄想満載の古事記解釈【古事記をSFとして読めば・・・】もお楽しみくださいませ>>
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2007年1月27日 (土)

初の国際結婚&結婚の歴史

 

明治七年(1874年)1月27日、宮崎県に住む三浦十郎さんがクレーセンツ・ゲルトマイエルさんという外国人女性と築地の教会で結婚式を挙げました。
日本初の国際結婚です。

そして、奇しくも今日1月27日は、明治十六年(1883年)に初めて新聞に求婚広告が掲載された事から“求婚の日”という記念日にもなっています。

・・・という事で、本日は結婚の歴史について・・・

・・・・・・・・・・・

第二次世界大戦の後、国連軍の進駐で一気に増えた国際結婚

今ではグローバルな世界となって、珍しい事でも何でもなくなりましたが、明治の頃はやはり大きなニュースになったんでしょうね。

クレーセンツさんはゲルマンの女性で、すでに現地で三浦十郎さんと結婚・・・今回、夫の母国で正式に式を挙げるために、二人そろってお正月にあわせて日本に来たのです。

Kokusaikekkoncc_1 「この女性は現地では相当のお金持ちのお嬢様で、5ヶ国語を話し、裁縫も上手で、遠い所をわざわざ日本まで同行するなんて、妻の鏡!」
と、新聞で報じられ、大変なフィーバーぶりだったようです。

そして、明治七年(1874年)1月27日に教会にて、神父様の前でヨーロッパ風の結婚式を挙げたのだとか・・・

鎖国がようやく終って、文明開化の波が押し寄せてきたばかりの時・・・人々の驚きが目に浮かびますね。

ただ、これはやはり近代においての明確な国際結婚。

日本には神代の頃からすでに大陸から大勢の人たちが渡来していたわけで、そんな二人が結ばれれば、国際結婚っちゃー国際結婚なわけで、もはや日本人が単一民族だと思ってる人もいないでしょう。

もちろん、昔は今のような結婚式は挙げませんが・・・。

古事記の時代には、求婚の事を「ヨバヒ(呼ぶという意味)と言いました~夜這いかと思った・・・(#^o^#)

これは、男が女の家の玄関で、小さい声(夜なので)や、口笛あるいはカッコよく歌を詠んだりなんかして、彼女を誘います。

彼女が何かリアクションを起こせば、ここで一応、結婚が成立!
彼女が彼氏を家に招き入れて、ソッコー結ばれるわけです。

その後、彼女が自分の親に紹介するか、彼氏が通って来てるのがバレるか・・・いずれにしても親の許しは事後承諾という事になるのですが・・・ただし、彼氏が娘の所へ忍んで来ている事に親が気付いても3日間は知らん顔です。

3日めに、結婚式のセレモニーと言える「トコロアラハシ(現場あらわし)というのを行います。

これは、だいたい3日めくらいに、両親が娘と彼氏が寝ている現場に踏み込んで(スゴイ光景やな・・・タイミング大事かも・・・)、自分ち特製の餅を男に食べさせるという一種のマジナイのような儀式。

“三日餅”と呼ばれるこの儀式が終れば、親も認めた公然の仲・・・という事で、正式な結婚成立です。

平安時代になると、さすがに“寝ている現場を押さえる”というのは無くなり、通って来ているのがバレた時点で、彼氏と両親の正式な話し合いが行われ、OKサインが出ると、その日から“三日餅”までの間に様々なセレモニーが、一連の流れとして組み込まれます

“婿行列”(夜通っている姿を再現←これ、ちょっと恥ずかしい・・・
“火合い”(男の持ってきた松明でベッドルームに灯りをともす←キャンドルサービスか?
“沓(くつ)取り”(彼女の親が彼氏の沓を持って一晩寝る←もう、逃がさんゾという意味?
“衾覆(ふすまおおい)(彼氏の上着を掛け布団に使用←ちょっとロマンチックだ

そして、翌朝、彼氏は下着を彼女が用意した物に交換し、帰宅・・・その後“後朝使(きぬぎぬのつかい)と称して、彼女に恋歌を送ります。

そして、3日めにやっと例の“三日餅”がやってきて、餅を食べて正式結婚です。

しかも、この費用は全部彼女の両親持ち・・・なので、彼女の一家は大変な出費となるのです。

Kekkonheiancc_2 きっと、“三日餅”の日に初めて明るい場所で奥さん見て、こんな感じの出来事もあったんでしょうね・・・あっ、でも平安時代は太ってるほうが美人なので、逆かもね。

ただし、平安時代くらいまでは、結婚しても今のように同じ屋根の下に住む事はなく、奥さんは実家のまま、そこに毎夜毎夜ダンナが通ってくるという“通い婚”ですから、男のほうも奥さんや両親へのご機嫌取りのため、毎回のように手土産なんぞ用意しなければならなかったようで、こちらもけっこう出費が多かったみたいですね。
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2007年1月26日 (金)

法隆寺と聖徳太子

 

昭和二十四年(1949年)1月26日、法隆寺金堂から出火。

建物の全焼こそ免れたものの、日本最古の壁画が焼失してしまった事から、昭和三十年(1955年)に消防庁がこの1月26日を“文化財防火デー”に設定し、各地のの文化財で防火訓練などが行われます。

・‥…━━━☆

放火やイタズラではなく、壁画の模写を手がけていた画家の電気座布団の過熱が出火の原因・・・おそらく、この壁画の魅力を誰よりも感じていたであろう人の胸の内を思うと、心が痛みます。

現在は、パネルに描かれた物が壁にはめ込まれています。

Houryouzi2ccそんな法隆寺の魅力は、もちろん世界最古の木造建築である・・・という事ですが、何と言ってもその建築の美しさ・・・。

遠くギリシャから伝わった少し真ん中が膨らんだ形のエンタシスの柱と、連子窓の続く回廊から眺める五重塔と金堂

その回廊を少し歩いて、今度は大講堂から西院全体を見渡せば、心は遥か古にタイムスリップ。

金堂に安置されている釈迦三尊像は、後世のふくよかな仏様とは違った飛鳥時代特有の雄雄しい感じがする面長なお顔に、神秘の微笑み=アルカイックスマイルをたたえていらっしゃいます。

この地に斑鳩(いかるが)の宮が造営されたのは推古九年(601年)。

お寺の創建はその6年後の推古十五年(607年)と考えられています。

政治の中心が飛鳥(明日香)にあった時代に、聖徳太子は何を思って遠く離れた斑鳩に宮を築いたのでしょうか。

十七条憲法、冠位十二階、遣唐使の派遣・・・数々の偉業を成し遂げ、以前は日本史上トップクラスの英雄だった聖徳太子も、ここ最近、架空の人物説や、複数合体説など、様々な説が囁かれるようになりました。

Houryouzi1cc 聖徳太子という名前はもうご存知の、死んでから後つけられる(おくりなと呼ばれる物。

(うまや)のそばで生まれた事から、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたそうですが、【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)の記事でも書いたように、この伝説は明らかにイエス・キリストの伝説を引用して聖徳太子を神格化させるためのエピソード

・・・て事になると、その厩戸皇子と呼ばれていた事すら怪しくなってきます。

しかも、この聖徳太子という諡にも秘密が・・・。

本家HPの【謎が謎呼ぶ聖徳太子】(HPへはコチラからどうぞ→)で散々書かせていただきましたので、ここでは軽く触れるだけにしておきますが、天皇家でこの『徳』という字が入った諡を持った方々の生涯を見る限り、聖徳太子も今思うような英雄的な一生を送ったとは考え難い事がわかります。

そして、最期は、愛しい彼女との心中で、聖徳太子は自らの命を絶ったとされていますが、自殺以外にも様々な死因が取りざたされておます・・・(くわしくは【2月22日:聖徳太子死因の謎】でどうぞ>>)

しかし、聖徳太子の謎は謎として、現実に法隆寺は存在し、たとえ聖徳太子がスーパーマンではなくても、それが魅力的な事には変りありません。

Houkizicc 私が親とでもなく、遠足とかでもなく、初めて自分で切符を買って、自分で電車に乗って行った最初のお寺は法隆寺でした。

あれから、ずいぶんと道路が整備されて、最近訪れた時は、まわりの雰囲気は少し違っていましたが、西院と夢殿の間の道を歩き法輪寺と、その向こうに法起寺の三重塔が見えるあたりの景色は、太子の生きた古き斑鳩の里を感じさせてくれます。

 

Ikarugacc 上の写真の遠く法起寺の三重塔が見えるあたり・・・昔は菜の花畑だったような?・・・最初に行った時からずいぶん経ってるので、どこかの場所と記憶がゴッチャになってるかも知れません。
とりあえず、自分の中のいかるがの里のイメージで書いてみました。

本家HPの歴史散歩で法隆寺&斑鳩の里を紹介しています。
興味がおありでしたらコチラからどうぞ→
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2007年1月25日 (木)

中宮・定子と清少納言

正暦元年(990年)1月25日、藤原道隆の娘・定子が、第56代・一条天皇に入内しました。

・・・・・・・・・・・・

寝殿造りのお屋敷に住み、平安文化、華やかなりし頃、後宮の人の数は膨大なものになっていました。

後宮とは、天皇の大奥みたいな所。

それまでは『後宮職員令(ごくうきいんりょう)の定めに従って、天皇の奥さんとしては、“妃(ひ)”“夫人(ぶにん)”“嬪(ひん)という位に別けられ、その人の出身の家柄などで奥さんとしての位があり、ある程度人数も決まっていました。

ところが、この頃から“女御(にょうご)”“更衣(こうい)という定員なしのお后の座を設ける事にしたため、上級貴族たちは天皇家と親戚になろうと、こぞって自分の娘を入内(結婚)させ、あばよくば皇子の誕生を期待したのです。

それぞれのお后が入内する時には、“女房”と呼ばれる専属のお世話係が40人ほどずつ付いて来ますから、その人数がハンパなく多くなるわけです。

そんな感じで入内した定子は、14歳の少女。

お相手の一条天皇は3歳年下でした。

最初は女御”として後宮に入りましたが、この年の秋には、皇后となって“中宮”・・・つまり正妻になりました。

定子の入内から四年程経った頃、彼女の家庭教師として派遣されてくるのが、『枕草子』で有名な清少納言です。

ある雪の降る日に定子が、高炉峰(こうろほう・中国の山の名)の雪は、いかに?」と、並み居る女房たちに尋ねました。

言ってる意味がわからず、お互いの顔を見合わせる女房たち・・・。

すると、ススッ~と清少納言が立ち上がり、(すだれ)を巻き上げました

「すばらしい!」と、定子は大喜び。

これは、中国の『白氏文集(はくしもんじゅう)という書物の中に「高炉峰の雪は簾をかかげて見る」という一説があり、それを踏まえての行動。

清少納言のキラリと光る学識を語る有名なエピソードです。

清少納言というのは、もちろん本名ではなく、父の歌人・清原元輔の一字をとって、そう呼ばれていました。

一言で言うと「離婚暦のある宮廷才女」・・・と聞けば、今どきのキャリアウーマンっぽくってめちゃめちゃカッコいい感じがしますが、実は当時は、女性の宮仕えはあまり良く思われてはいませんでした。

この頃は、女性は男性に顔を見られてはいけない時代。

顔を見せるのは、家族と夫だけなのです。

しかし、宮廷に仕える・・・となると、当然、宮廷で働く数々の男性に、白昼堂々と顔を見られるわけですから、どちらかと言えば“はしたない職業”とされていたそうです。

しかし、この清少納言にしても、定子の後に入内する彰子に仕えた紫式部にしても、宮廷才女と呼ばれる人たちは、どちらかと言えば下級貴族の出身で、父親があっちこっち地方に転勤になったり、リストラで職を失ったりしています。

清少納言の場合、その上に離婚したひにゃ、「背に腹は変えられない・・・」と言ったところでしょうか。

ただ、そんな風に地方に行ったり、下級であるが故の自由な行動によって、彼女たちは女性でありながら学識を広める事ができ、そのおかげで、箱入り娘で世間知らずのお姫様の教育係に抜擢される事になるのも確かです。

Seisyounagoncc_1

ところで、こうして皇后にまでなった定子でしたが、長徳元年(995年)に関白だった父親の道隆が亡くなってしまいます。

その後、政権は定子の叔父・道兼に移りますが、この人が、またまた、あっと言う間に急死。

代わって弟の藤原道長政権を握る事になります。

大きな後ろ盾を失ってしまった定子・・・。

しかも翌年には、兄が事件を起こし左遷されてしまい(2月8日参照>>)、あまりのショックに定子は出家してしまいます。

しかし、この時、定子は妊娠中・・・やがて生まれた女の子に一条天皇が「会いたい、会いたい」と言うので、定子はふたたび宮廷に戻りました。

でも、この時には父の後に政権を握った道長の娘・彰子がすでに天皇のもとに入内していたから話はややこしくなります。

そして長保元年(999年)定子は、よりを戻した天皇との間に男の子を出産します。

道長は「定子が戻ってきちゃったし、男の子を産んじゃったよ~また正室に納まっちゃ大変だ!」とばかりに、あわてて天皇に願い出て、彰子を皇后=中宮にしてもらいます。

長保二年(1000年)2月25日・・・一人の天皇に二人の皇后という天皇家始まって以来の事態となりましたが、定子は“皇后宮”なる称号になり、あくまで二番手となってしまいます。

そして、結局、定子はその年の暮れ、女の子を出産した際に、24歳の若さで亡くなってしまいました。

清少納言は定子が亡くなった時、「宮廷にいてこのまま彰子の家庭教師にならないか?」と誘われますが、その話を断り、そのまま宮廷を去って行きます。

それで、彰子の家庭教師としてやってきたのが紫式部です。

よく、定子と彰子のライバル関係から、ともに二人の家庭教師だった清少納言と紫式部もライバル関係に思われますが、実は宮廷内では二人はニアミス・・・同じ職場で働いた事はなく、おそらく面識もなかったはずです。

会った事も無いのに、『紫式部日記』の中で、清少納言の事を「うすっぺらな漢字の知識をひけらかして、あんな高慢な女、きっと最後はろくな事にならないよ」と、書いちゃう紫式部って・・・何なの!

・・・と、今日のところは「昇り調子のライバル会社の誘いをカッコよく蹴ったバツイチキャリアウーマンに味方する」という感じに書いておきます(笑)。

そうやって無職になってしまった清少納言。

その後、ずっと経ってから清少納言の家の前を通った人が、ずいぶんと屋敷が荒れ放題になっているのを見て「清少納言も落ちぶれたもんだ・・・」と笑ったところ、中から鬼のような形相で出てきたオバサンが、「駿馬(しゅんめ)の骨を買うヤツだっているんだよ!」と吐き捨てるように言ったとか・・・。

これは「良い馬を求めるあまり、死んだ馬の骨を買った」という中国の故事を引用して、「一流の家庭教師だった自分なら、まだまだ、求められるかもしれない」事をアピールしたのです。

年はとっても、まだ、その才女ぶりは衰えてはいなかったみたいですね。
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2007年1月24日 (水)

お地蔵様のお話

 

毎月24日お地蔵様の縁日で、中でも1月24日は“初地蔵”という事で、特に賑わいます。

・・・・・・・・・・・・

お地蔵様の本名(梵名)は、トロチーカルテバー

仏教の世界では「お釈迦様が亡くなった後も、仏教は輝き、世界に広がっていくであろうけれども、何千年・何万年か後にその光が衰えを見せた時、お釈迦様の生まれ変わりとも言うべき人が現れ、再び再生するだろう」と考えられています。

その、お釈迦様の生まれ変わりとなる人の象徴が“弥勒菩薩”です。

「弥勒菩薩は、釈尊よりもはるか昔に悟りを開き、釈尊の仏法が絶滅に瀕した時、代わって人類の救済にあたる」のだそうです。

Zizou2cc_2 そして、お釈迦様が亡くなってから弥勒菩薩が出現するまでの期間、人を教え、救済し、守るという任務を背負っているのが、お地蔵様です。

生みなさぬものとてはなし土の徳・・・」

この「生む」というのは、生み育てる事・・・

どんな汚い物でも、土の中ではぐくまれ、いずれは清らかな水となり、肥沃な大地の肥料となる・・・土はスゴイ!という事です。

この土のように、お地蔵様の教えによって、醜い心に犯された人間でも浄化される・・・だから、お地蔵様はりっぱなお堂の中ではなく、道端の土の上に立っています。

特に、人が道に迷う別れ道に立ち、これから先の道筋を見守ってくれるのです。

そして「天を父とすると、地は母になる」という考えから「母なる大地の慈悲」として、子供を守る守護神の信仰もあいまっています。

また、閻魔大王変身した姿がお地蔵様でもある事から、厳しさと慈愛の心の両方を持たねばならない事も教えてくれています。

人は死んだ時、閻魔大王の裁きを受けて地獄に落とされた後、お地蔵様の慈悲で救われるのだそうです。

Zizou5cc 仏教の伝来とともに伝わったお地蔵様への信仰が、日本で盛んになったのは平安時代頃から・・・。

そして、鎌倉時代から室町・戦国の戦乱の相次ぐ時代になって、明日をも知れぬ命・・・死への恐怖から、人々は救いを求めるようになり、特に一般庶民の間で地蔵信仰は急速に広まっていったのです。

やがて、先程の母の慈愛の考えから子供を守る“子安地蔵”も生まれ、“耳だれ地蔵”“いぼとり地蔵”といった病気を治療する地蔵様も誕生します。

また、現世と冥界の境目に立って守ってくれる・・・という考えから“勝軍(将軍)地蔵”

冥界への入り口=“六道の辻”から、“六地蔵”も各地に祀られるようになりました。
 

Zizoucc_1

一番身近で、一番たくさん出会う道端のお地蔵様・・・
無神論者の私でも、ついつい手を合わせてしまいます。

あの、幼くも見える慈しみに満ちたお顔は、少しの間見入ってしまいますね。

お地蔵様のもう一つの顔・閻魔大王については7月16日【半年に一度・地獄の釜開き~閻魔大王のお話】へどうぞ>>
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2007年1月23日 (火)

信長、義昭に掟書を示す

 

元亀元年(1570年)1月23日、織田信長が第十五代将軍・足利義昭に五ヵ条の掟書を突きつけました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年の9月に、足利義昭を奉じて上洛をはたした織田信長(9月7日参照>>)

しばらくの間は二人の関係は良好でした。

義昭は大喜びで、年下の信長の事を「御父殿」と呼び、信長が一度尾張(愛知県西部)へ帰る時などは、わざわざ京の東のはずれまで見送りに出向いたくらいです。

しかし、信長は当然の事ながら、義昭を奉じたのは、上洛の大義名分が欲しかっただけで、最初っから自分自身が天下を掌握したいと思っているのですから、将軍とは名ばかりで、義昭のの事も、いずれは自分のあやつり人形のようにしたいと考えていたはずです。

『副将軍』『管領』誘いも断り(3月2日参照>>)堺・大津・草津の支配のみを願い出た信長を、義昭は「欲がないなぁ」などと、高笑いしていましたが、信長の狙いは、そこに集まるモノとカネ・・・もはや、危うい足利将軍の傘下になる気などありません。

「王(天皇)というモノは、どんモノか?厨子などに入れて持ち歩くモノなのか?」

若い頃、家臣に大マジメに聞いたという信長・・・さすがに、この頃には天皇が何であるかはご存知だったでしょうが「誰の下にもいたくない、自分が頂点に立つ・・・」という性格は変わっていなかったんでしょうね。

そして、信長は徐々に、その態度をあらわにします。

前年の正月に『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)を義昭に突きつけた信長。

そして、今度は元亀元年(1570年)の1月23日『信長朱印条書』を突きつけたのです。

Gokazyounookitesyocc

特に義昭が怒り心頭だったのは、
第一条「将軍が諸国へ書状を出す時には、信長の添状(許可書)を付けなければならない事」というのと、
第四条「天下の事は信長に任したのだから、義昭の意見は無用である」という内容のところです。

これは、毛利や武田・上杉などに、せっせと手紙を書いて接近しようとしていた義昭へのけん制であり、事実上の最高権力者が自分である事を宣言したに等しい物でした。

この事で、信長と義昭の対立は決定的になり、義昭は逆に諸国の大名や石山本願寺と結託して(9月12日参照>>)、反信長の体制をとり、信長のまわりは敵ばかり状態になってしまいました。

まぁ・・・信長さんは、まわりが敵ばかりでも、何とも思ってなかったかも知れませんが・・・。

事実、この年の6月には姉川の合戦(ブログ:6月28日参照)によって、信長包囲網の一角である浅井・朝倉の両氏を撃破し、やがては滅亡に追いやってしまうわけですから・・・。
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2007年1月22日 (月)

冥王星と海王星が・・・

 

昭和54年(1979年)1月22日、海王星が冥王星の軌道をまたぎ、太陽系の一番外側の惑星となりました。
この状態は1999年まで20年間続く事になります。

・・・・・・・・・・・・

このニュースを思い出すと、つくづく科学の進歩を感じさせられますね。

今や冥王星は惑星から外れ、太陽系の惑星は8個。

しかも、「海王星・冥王星が一番外側ではないかも知れない」との事。

昔、学校で習ったのは、「水→金→地→火→木→土→天→海→冥」の順。

Taiyoukeicc

それが、冥王星の軌道がゆがんだ楕円形であるため、時々順番が入れ替わる・・・それが、先の20年間だったわけです。

冥王星はとても小さくて暗い星です。
そのため、発見されたのは20世紀に入ってから・・・

そもそも天王星の軌道が、かなり気まぐれな事から、「おそらく天王星の外側に、軌道を狂わせる惑星があるに違いない」と、調査に調査を重ねて発見されたのが海王星

それでも、まだ納得いかなくて「さらに外側にまだ惑星があるはずだ」として、ついに発見されたのが冥王星だったのですが、あまりの小ささに、「これでは軌道に影響をあたえるはずがない」と考えられていて、今では、おそらくもっと外側に、木星に匹敵するくらい大きな惑星Xがあるのではないか?と言われています。

Taiyoukeig0cc 冥王星の近くには、火星と木星の間にちらばっているような小惑星の帯があり、冥王星もその帯の小惑星の一つと考えられ、その帯からは次々と現在進行形で、星が発見されています。

その新しく発見された星の中には、冥王星より大きい物もあり、その事が昨年の「冥王星を惑星から除外する」という結果に大きく影響しているでしょうね。

冥王星を惑星に位置につけたら、それらの星も当然、惑星に分類する事になり、数がメッチャ増えてしまうんですよね。

はたして、その帯の中の一つの星が、軌道に影響を与えている惑星Xなのか?それとも、もっと外側にメチャメチャでかい惑星Xが存在するのか?

天王星だけでなく、彗星などの軌道にも影響を与えているらしい惑星X・・・「水→金→地→火→木→土→天→海→・・・」の次は、果たして何が入る事になるのか?とても楽しみです。

惑星から除外されてしまった冥王星には気の毒な思いがしますが、それはそう「科学の進歩」と、いう事で・・・無くなるわけではなく、除外されただけですからね。
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2007年1月21日 (日)

上杉謙信・女説

 

享禄三年(1530年)1月21日は、あの名将・上杉謙信のお誕生日・・・て事で、今日は“上杉謙信=女”説について。

・‥…━━━☆・

それにしても、びっくり仰天!何でそんな噂が立っちゃうんでしょう?

それは、上杉謙信がその生涯において、あまりにも女性に興味を示さなかった事にタンを発します。

彼は、奥さんはもちろん、女性に手をつける事もなく、おそらく未経験のまま一生を終えているでしょう。

ただ、だからと言って女説までいくのは、数ある仮説の中でも異端な物・・・いわゆるトンデモ説に近い物ではありますが。

小説の中でカッコ良く描かれる謙信像には、実らなかった初恋の相手を一途に思い続け、他の女性を寄せ付けなかった・・・というのがありますが、これはあくまで架空の出来事。

あったかも知れないけれど、ちゃんとした史料が残ってない以上、無かった事になるのが歴史の常です。

それなら、他に可能性があるのは、女じゃなくて男が好きだった?って考えられるわけですが、これは、当時はむしろ大流行・・・別に隠す必要のない事です。

現に、武田信玄にはいっぱい男の恋人がいますし、権力を持った戦国武将のステータスみたいな物ですから、そんな事実があったのなら、どこかに証拠が残っているはずです。

でも、やっぱりどこにも記録は残っていません。

そして、最も有力な説としては「宗教の戒律を守っていたから」という説です。

ご存じのように、謙信はどっぷりと禅宗にハマッていて、僧名も持っています。

ですから、その戒律から女性を絶っていたのでは?という事なのですが、戒律には女性以外にお酒も禁止しているのですが、謙信はお酒の方は絶っていません。

むしろ酒豪です。

お酒の飲みすぎからの脳卒中で・・・というのが、謙信の死亡原因とも言われていますし、手が震えて花押(サイン)が書けず、途中からハンコに変えたと自らが告白しています。

複数ある戒律の中から女性だけを絶つという事は考え難い事ですよね。

・・・て事で、女性を近づけなかった理由に納得のいく物が無い事から、謙信=女説なる物が登場するわけです。

Uesugikensincc あの謙信ご愛用の頭巾が、越後地方で女性が使用する防寒具に似ているとか、
謙信は月に一度、ある一定期間だけ、馬に乗らなかったとか、
残っている着物が赤い色ばっかりとか・・・

それに、本当の死因は「大虫」という更年期障害から来る婦人病だったとも言われていますが、どれも噂の域を出ないもの。

決め手・・・というにはちょっと弱いですよね?

武田信玄のように、男性に宛てた直筆ラブレターでも見つかれば、話は丸く納まるんでしょうけどね。

今のところ、やはり、ただ女性が好きではなかったとしか言えませんね。

学問の上での歴史は別として、空想の世界で遊ぶなら、謙信=女説は、今までにないドラマができそうで、大変興味をそそられます~。
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木曽(源義仲)の最期~粟津の合戦

 

寿永三年(1184年)1月21日、源頼朝の命を受けた源義経と戦った木曽義仲が琵琶湖のほとり・粟津で敗死しました。

・・・・・・・・・・

この日、怒涛のごとく宇治川を越えてきた義経軍(1月17日参照>>)に、押されっぱなしの義仲軍。

おりしも、反目している叔父・行家を討つため、乳兄弟の樋口次郎に兵をつけて送り出したばかりで、義仲軍は手薄でした。

何万という鎌倉からの大軍に、わずかな手勢の義仲軍が太刀打ちできるはずもありません。

徐々に後退する義仲軍に対して義経軍は御所の警備も固め始め、六条河原のあたりでとうとう義仲軍は散り散りになってしまいます。

大将・義仲に従う兵はわずか七騎

もちろんその中には、ある時は兄と妹、ある時は恋人、そしてある時は一騎当千の武者として片翼をサポートした女武者・巴御前もいました。

Awadutomoe900 粟津戦線から退く巴御前

・・・と、ここで、義仲に残された選択は二つ・・・。

西海へ落ち延びて平家と手を結ぶか、丹波路から北陸へ落ち延びて地元で再起を計るか・・・この時点ではまだ、こっそりと敗走して生き延びる事ができたかも知れません。

しかし、義仲はどちらも選ばず、なぜか瀬田に向かうのです。

その理由は・・・

この京に攻め込むにあたって義経が「敵は宇治と瀬田の橋を壊して防戦するだろう」と言って自分もそれに対抗するため宇治と瀬田に兵を向けた事は先日のブログ(1月16日参照>>)で書きました。

そのため、義仲も、自分が大将を務める宇治に500騎と、もう一方瀬田に800騎・・・そして淀に300騎の軍勢を派遣し守らせていました。

その瀬田を守る軍勢の大将を務めていたのが、今井四郎兼平だったのです。

兼平は、義仲が2歳の時預けられた中原兼遠の息子で巴御前の兄です。

木曽の山で、ともに乳兄弟として育った兼遠の子供たちの中で、義仲に一番年齢も近く、一番仲が良かったのが、おそらく兼平だったでしょう。

そうです。

義仲は瀬田に向かわせた兼平の事が心配で、西へも行かず、北陸へも落ち延びず、瀬田に向かったのです。
(私の心の声・・・アカン、この時点でもう涙が出てきそうや・・)

二人は奇跡的にも大津のあたりで再会します。

兼平も瀬田の守りを破られ、八百余りだった軍勢が50騎ほどになり、やはり義仲の事が気がかりで、京に向かっていた所だったのです。

「本当はあの六条河原で戦ってた時点で討ち死にするのが武将としてはカッコ良かったかも・・・なんだけど、死ぬ時は一緒だ!って木曽を出る時に、お前と言ってたのを思い出してさ。それで、敵に背を向けてここまで逃げて来てしまった・・・俺ってカッコ悪いかな?」

義仲は、兼平の手を取ってそう言います。

兼平も「とんでもない、俺も同じですよ。心配でここまで逃げてきたんですから・・・へぇ、そっちも俺の事心配してくれてたんだ・・・うれしいな」と、再会を喜びます。

「ここで、こうして再会できたって事は、ひょっとしたらまだ、俺らにチャンスがあるかもしれないな。お前の持ってる旗をたてて合図しよう。散り散りになった軍勢が集まるかも知れない」

そして、今井の旗を高く差し上げると、どこからともなく300騎程の軍勢が再び集結しました。

「よし!これなら何とか都を突破できるかもしれない!」

しかし、当然の事ながら、旗を立てれば、敵も近くへやってきます。

やがて、目の前に現れたのは、甲斐の一条次郎の軍勢、6千騎。

「今まで、聞いた事はあっても見た事はなかっただろ?
今、お前らの目の前にいるのが左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲
(さまのかみけんいよのかみあさひしょうぐんみなもとのよしなか)である。
命が惜しくない者は、この義仲を討ち取って頼朝への土産にしろ!」

そう名乗りをあげて、木曽軍300騎は敵軍に向かって駆け込んでいきました。

そこを、何とか突破し、次に待ち構えていた土肥次郎実平の2000騎も突破していくうち、さすがに多勢に無勢・・・徐々に兵の数は減り、いつしか義仲に従う者はわずか5騎になってしまいました。

その中にはまだ、巴御前が残っていたのです。

義仲は巴に言います。

「お前は女だから、早く今のうちに逃げろ」

当然、巴は逃げる気などありません。

「生きるも死ぬも一緒と誓った仲じゃない!兄貴もいるのに、なんで女だからって私だけ逃げなくちゃいけないの?」

「お前は、男と同等のつもりでも世間はそうは思わない。木曽は命が惜しくて最後まで女を盾にした・・・と、何年経っても言われるだろう。それでも、良いのか?」

何度も首を横に振る巴でしたが、あまりにきつく義仲に諭され、最後には心を決めました。

「では、木曽殿にお見せする最後の戦・・・はなむけに名のある武将をひとり討ち取って、その足で逃げる事にします。」

そうしているうちに、武蔵の国で力持ちで有名な恩田八郎師重(源平盛衰記では内田三郎家吉になっています)が30騎余りの兵を率いて現れます。

巴は、颯爽とその中に突入して、師重と一騎打ち、相手を馬から引きずり下ろし首をねじ切って投げ捨て、そのまま鎧兜を脱ぎ捨てて、走り去って行きました

やがて、手塚太郎が討ち死に、叔父の手塚別当とははぐれてしまい、いつしか義仲と兼平の二人になってしまいます。

赤く染まった夕陽を背に、静かに波打つ琵琶湖の湖面を見つめながら、義仲は兼平にそっと話かけます。

「いつもは何とも思わない鎧が、今日はいやに重いなぁ・・。」

「気弱な事を言うなよ。たった1着の鎧が重いはずがないだろ。この兼平一人が千騎に相当する思ってくれ。幸いまだ矢が7・8本残っている・・・これで応戦するから、あの松原の影で心静に自害を・・・」

見ると、琵琶湖のほとり、粟津の松原が広がっていました。

しかし義仲は、あの故郷で、ともに源氏の天下を夢見て育ち、生きるも死ぬも同じ場所でと誓って木曽を出た兼平をひとり置いては行けません。

「最後まで戦って、ともに討ち死のう」と言います。

・・・が、乳兄弟で育ったとはいえ、かたや源氏の大将、かたやその家臣・・・

「大勢の敵に囲まれ、お互いが引き離されて、大将が名も無き者の手にかかって果てるのは家臣の恥である・・・大将軍にふさわしい死を・・・」と願う兼平に説得されて、義仲はひとり松原の方へ馬を進めます。

そこへ、新手の軍勢が50騎ばかりやってきます。

兼平は、残りの矢をつがえながら応戦し、またたく間に8騎程を討ち取ります。

「我こそは、四天王のひとり、木曽殿の乳兄弟・今井四郎兼平である」

これを聞いて、敵は兼平を遠巻きにて後ずさりするばかり・・・その間に義仲は一人で、粟津の松原へ馬を駆け込ませました。

しかし、真冬の夕暮れ時、薄氷が張った下に泥田があるのに気付かず、うっかり踏み込んでしまいます。

泥田にはまった馬は前へも後ろへも行けず、どうやっても動きません。

そんな時ふと、義仲は「兼平はどうしただろう・・」と、気になって後ろを振り返ります。
そこへ、飛んできた一本の矢・・・

その運命の矢は、振り返った義仲の額を討ちぬき、ここに兼平が願った朝日将軍の将軍らしい死を迎える事はできなかったのです。

三浦の石田次郎の家来二人が進み寄ってその首を落とし、太刀の先に刺し高く掲げて叫びます。

「長きに渡り、剛勇の誉れ高き木曽殿を討ち取ったぞ~」

その声を聞いた兼平・・・。

「もはや、誰かをかばって戦う必要もない。お前ら見ておけ!日本一の勇者が自害する手本だ!」
と、言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに飛び落ちて、壮絶な最期を遂げたのです。

平家打倒を夢見て木曽の野山を駆け回った少年時代(8月16日>>)
「死ぬも生きるも一緒に」と誓って出陣したあの日(9月7日>>)
倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破って、(5月11日>>)
意気揚々と入った京の都(7月28日>>)

天下を治めた過去の華々しい姿から一転
『今井四郎・・・貫かれてぞ、失(う)せにけり、さてこそ粟津の軍(いくさ)はなかりけれ』

木曽軍の最後の一兵・兼平の死をもって、『平家物語』における木曽の戦記は終りを告げるのです。

今回のページは『平家物語』を中心に書かせていただきましたが、『源平盛衰記』をベースにした2008年1月21日【巴御前~木曽義仲からの最後の使命】もどうぞ>>
 
 

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2007年1月19日 (金)

千里眼・御船千鶴子と長尾幾子

 

明治四十四年(1911年)1月19日、超能力・千里眼で話題となった御船千鶴子が服毒自殺をはかりました。

・・・・・・・・・・・・

“千里眼”というのは、少し古い言い回しですが、要するに今で言う“透視能力”ってヤツです。

以前“リング”という映画を見た時、「御船、御船」と散々友達に言いまくっていたのですが、原作者の話によると御船さんは、“リング”のモデルではないのだそうです。

あの、透視実験の風景なんてそっくりだったんですが、逆にモデルでないなら、偶然の一致・・・て事になって、それもコワイ気がしますが・・・。(貞子の怨念?)

事の発端は、明治四十二年(1909年)8月14日の『東京朝日新聞』「熊本在住の河地千鶴子(後に結婚して御船姓になります)23歳が、封をした袋の中身はもちろん、鉱物や体の中も見通せる・・・」と報道した事に始まります。

そして翌年の12月に、今度は『東京日日新聞』が、丸亀の40歳になる長尾幾子なる女性を取り上げ「御船千鶴子は、別室に入ると透視できないが、幾子は別室であろうが大衆の前であろうが透視できる」と報じ、その上、幾子は「写真板に文字や図形を念力で感光させる“念写”の能力も持っている事を、東京帝国大学の福来友吉博士が実験で確かめた」と報道したのです。

もう、世の中は一斉に超能力ブーム一色になります。

そうなると、当然の事ながら、科学的な検知から「ちょっと待ったぁ~」の声がかかります。

当時の物理学の権威・山川健次郎博士が名乗りをあげ、自ら実験を行う事になるのです。

Sennrigan2cc_2 まずは、御船千鶴子の実験・・・

ある文字を書いた紙を鉛で包んで玉にした物を渡し、千鶴子はそれを透視します。

透視の後、玉を割ってみると、千鶴子が言った通りの文字が・・・。

しかし、山川は「自分の書いた文字ではない!」とクレームをつけます。

つまり、玉ごとすりかえた・・・という事。

「違う」「違わない」の押し問答となり、とりあえず実験はやり直し・・・という事になって、後日改めて実験が行われる事になります。

そして、明治四十四年が明けた1月6日、今度は長尾幾子の実験が行われます。

その時、幾子は、山川が書いた「正」という字を、みごと乾板に焼付けましたが、またまたクレーム。

実は、山川が雇った乾板の見張り役が、10分程席をはずしていた事がわかり、その間に乾板をすりかえる事ができた・・・というのです。

しきりなおして、今度はやはり山川の書いた「健」という字を念写する事になりましたが、今度は幾子側からクレームが・・・。

「カメラに乾板が入っていない!これはインチキです」と泣き出し、実際にカメラを開けてみると、本当に乾板が無かったのです。

点検した時に入れ忘れたのか?不審を抱く者が抜き取ったのか?それとも幾子側の仕業なのか?

いずれにしても「もう続けられない」と、この日の実験は中止となって、やはり、後日改めて実験が行われる事になりました。

ところが、この幾子の実験の13日後の明治四十四年(1911年)1月19日・・・次回の実験を待たずに、御船千鶴子が毒を呑んで自殺てしまったのです。

そして、翌月の2月には長尾幾子も、やはり次回の実験を待たずに、病気で死んでしまいます。

さすがの超能力ブームも、肝心の二人がいなくなった以上、いつの間にか消え去ってしまいます。

こーゆー系統のブームって、来るのも早い変りに去るのも早いですからね。

今となっては、本物だったのか、インチキだったのか、確実な事はすべてわからずじまい・・・藪の中・・・という事になってしまいました。
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2007年1月18日 (木)

げに恐ろしきは振袖火事

 

明暦三年(1657年)1月18日は、2日間燃え続け、江戸の町の人を恐怖に陥れた“明暦の大火”通称“振袖火事”のあった日です。

・・・・・・・・・・

その日は、朝から強い北西の風が吹いていたと言います。

午後2時頃、まずは本郷に火の手が上がり、やがて勢いを増して湯島明神・神田明神を焼き、神田一帯の武家屋敷や民家を焼き尽くします。

駿河台で炎は二手に分かれ、一つは本所へ、もう一つはまっすぐと南へ向かい浅草から吉原日本橋京橋を焼き、19日の午前2時頃、ようやく一旦火の手がおさまるかに見えましたが、昼近くに、今度は小石川で出火し、水戸屋敷江戸城も焼けてしまいます。

その火は麹町から愛宕下桜田などの大名屋敷の密集地を通り抜け江戸の町の南半分を壊滅状態にして、ようやく終息に向かいました。

焼死者・不明者が10万人とも言われるこの“明暦の大火”

燃えた江戸城・天守は、その後二度と再建される事はありませんでしたが、この空前の大災害をきっかけに、幕府は莫大な資金を投入し、江戸の町を大改造する事になります。

民家のひさしを禁止し、道幅を広げ、火よけ地広場を設け、防火用の堤も設置しました。

そして、まだ、田畑が残っていた周辺地に寺社や大名・旗本屋敷を移転させ、真ん中あたりに密集していた江戸の町から、町全体を大きく広げる事に成功したのです。

明暦の大火は非常に悲しい災害ではありましたが、当時としては世界一の大都市となる大江戸が、この火事によって誕生したのも確かなのです。

ところで、この明暦の大火が、なぜ“振袖火事”と呼ばれたのでしょう?

この大火の火元は本妙寺である・・・とされていますが、その出火原因に不明なところがある事から、一つの因縁めいた話が噂される事になるのです。

Furisodekazicc ある良家のお嬢様が、本妙寺に参拝した帰り道、お寺の小姓をやっていたイケメン少年に一目ぼれ。

彼が着ていた着物と同じ反物で作った振袖を作ってもらい、それを着たり眺めたりしているうちに・・・恋の病か、他の病か、17歳の若さで死んでしまいました。

彼女の振袖は葬儀の後、本妙寺に納められ、供養の後に前例通り古着屋に売られます。

ところが、その振袖は再び本妙寺に戻ってくるのです。

それは、古着屋から買ったその振袖を着ていた商家の娘が、やはり病に倒れ17歳の若さで亡くなり、本妙寺に納められたのでした。

そして、もう一度供養して古着屋に売ったところ、三たび、17歳の娘の葬儀でこの振袖は本妙寺に舞い戻って来たのでした。

さすがに、住職も気味が悪いと思うようになり、三人の娘の親たちと相談して、護摩木を焚き供養する事にします。

そして、この日、人々が見守る中、燃え盛る護摩に振袖を投入したところ、裾模様に火がついた振袖は鳥のように本堂の天井へと舞い上がり、火の粉を撒き散らした・・・と言うのです。

しかも、この一連の出来事、もちろん娘たちの命日もが、すべて1月18日の出来事だったというから、実に怖いお話です。

ただ、やはり、これはあくまで町の噂・・・江戸版・都市伝説です。

次から次へと娘さんが亡くなったのは、当時、結核が大流行していたためで、この頃は、着物などを通じて病気が移ると考えられていた事が、因縁話の原因になっているようです。

さらに、その出火元も、本当に本妙寺なのか?という謎も残りますが、そのお話は、2010年1月18日の【江戸都市伝説・振袖火事~明暦の大火の謎】でどうぞ>>】
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2007年1月17日 (水)

宇治川の先陣争い

 

寿永二年(1183年)11月に法住寺殿に放火して後白河法皇を幽閉(11月18日参照>>)、翌年1月には、半強制的に征夷大将軍となった木曽(源)義仲(1月11日参照>>)・・・。

法皇からの『義仲追討命令』を受け取った源頼朝(よりとも)は、弟・範頼(のりより)に6万の大軍をつけて、すでに近江(滋賀県)で待機するもう一人の弟・義経に派遣します。

そして寿永三年(1184年)1月20日宇治川のほとりに到着した義経ら鎌倉勢・・・宇治川を越えて京に入ろうとする鎌倉勢と、それを阻止しようと、川を挟んで対峙する木曽勢・・・。

かくして、この宇治川を越えて、一番手柄を挙げるべく、鎌倉勢の若き精鋭たちが名乗りをあげます・・・と、昨日、1月16日のページでここまで書かせていただきました(1月16日のページを見る>>)

・・・・・・・・・・

「私に先陣を・・・」と名乗り出た畠山重忠が、まだ準備している段階で、先に宇治川に飛び込んだのは梶原景季(かげすえ)と、佐々木高綱・・・。

実は彼らのライバル心は、鎌倉にいる時からすでにメラメラと燃え上がっていたんです。

頼朝は、“生唼(いかづき)という名馬を持っていました。
景季も高綱も、ともに「この名馬をもらって、この戦で先陣のてがらを立てよう」と考えていました。

今回の出陣の前日、景季は頼朝のもとに行き、「どうか、生唼をくださいな」と願い出ました。

すると、頼朝は「この馬は、何か事があった時乗ろうと思っている大切な馬なので、この生唼に優るとも劣らないもう一頭の名馬“磨墨(するすみ)を与えよう」と言い、景季は“磨墨”をもらったのです。

その後、今度は高綱が出陣の挨拶にやってきましたが、何を思ったのか頼朝は「この馬を欲しいという者はたくさんいたが、誰にも譲らなかった。その事をしっかりと心に刻んでおくように」と言って、高綱に“生唼”を与えたのです。

高綱は「この“生唼”がいるかぎり、自分が先陣を切ってみせます」と、頼朝の前で、たからかに宣言します。

こうして、ともに「この戦で先陣を・・・」と、心に秘めながら二人は出陣。

ところが、西へ向かっている途中、駿河のあたりで、景季はあの“生唼”にまたがる高綱を見つけます。

頼朝が、自分ではなく高綱に“生唼”を与えた事がショックだった景季「くそっ!こうなったら刺し違えてでも・・・アイツに一発かましてやる~」という思いを抱いて高綱に近づきます。

ただならぬ雰囲気を察した高綱・・・あわてて「宇治川で先陣をきれそうな良い馬を自分は持ってないんですよ~。・・・で、“生唼”がいれば先陣のてがらを立てられるかもしれないなぁ~なんて思てたんですけど、梶原さんでも譲ってもらえない馬を、この高綱が願っても、とても無理やと思ったので、お咎め覚悟で盗み出してきちゃいました~」と、ウソの言い訳をしたのです。

景季はその言い訳を信じ、「この宇治川で自分が先陣を切れば・・・」と、頼朝への名誉挽回とばかりに闘志を燃やすのです。

まさか・・・頼朝は、この展開を狙っていたんですかね~。

さて、宇治川を前に、はりきって川に入ったふたり・・・さすがに、どちらも頼朝拝領の名馬だけあって、滝のように流れる宇治川を何とか進んでいきます。

おぉ~っと、ここで、景季が少し前に出たかぁ~?。
「“生唼”を拝領したのに、梶原に負けたらヤバイ!」と、思った高綱・・・
「お~い梶原殿~。馬の腹帯が緩んでるゾ~。締めないと鞍ごと落ちまっせ~」と声をかけます。

あわてて、紐を締めなおす景季。
しかし、帯はそんなに緩んではいませんでした。
「しまった!」
騙されたと気付いた景季が、体を起こした時には、高綱は自分より少し前に・・・
「くそっ!」

・・・と、今度は景季が「お~い佐々木殿~。一番乗りのてがらを立てようとあわてんなよ~。川の底には、敵が綱を張ってるから気をつけて進めよ。」と声をかけます。

高綱は刀を抜いて、プスリプスリと馬の足にからまった綱を切りながら前に進みます。

やがて、真ん中過ぎてさらに深くなる宇治川・・・それでも“生唼”という名馬のおかげか高綱は何とかまっすぐ前に進んで行きましたが、景季は少し下流へ流され、そのぶん、少し遅れをとってしまいました。

(あぶみ)をふんばって立ち上がり、高綱は大きく名乗りをあげます「宇多天皇より九代めの後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣を果たしたぞ~。我と思わん者は寄り合えや~見参せん~」

知恵がまさったか、馬がまさったか、とにかく一番乗りは高綱のものに・・・そして、高綱は義仲軍めがけて突進していきます。

ところで、最初に先陣を切ろうとしていた畠山重忠・・・実は川の途中で、敵の放った矢に馬の額を射抜かれてしまいます。

日頃からかわいがってきた愛馬です。

重忠は、弱って足をよろめかせている愛馬の下にもぐると、前足をサッと肩にかけ、背負いながら水底をくぐったり、また、浮き上がったりしながら、それでも何とか向こう岸までたどりつきました。

そして、今まさに岸に上がろうとした時、後ろから重忠の体を引っ張る者がいます。
「誰だ?」
「重親でございます」
「おぉ・・・大串か・・・」

大串重親とは重忠の一族で、彼が烏帽子親をつとめて元服させた若武者。
(成人式の元服のところで書きましたが(ブログ:1月8日参照)、烏帽子親&烏帽子子とは、いわゆる「親分子分の盃をかわした」みたいな関係です)

「あまりに流れが速くて、馬を流されてしまい、ここまで泳いで来ました」
と、今にも溺れそうでヘロヘロの重親。

重忠はすかさず、アップアップしている重親の腕を片手でつかんで、グィッと引き上げ、岸に投げ上げたのです。

ゴロンと岸に投げ出された重親は、その場でスクッと立ち上がり、やにわに刀を抜いて「武蔵の国の住人、大串次郎重親が、宇治川の先陣果たしたぞ~」と、大声で名乗りをあげます。

「今、ヘロヘロで…しゃぁないから、俺が岸へ投げてやったのに…先陣って┐(´д`)┌」
あっけにとられる重忠の顔が目に浮かぶような光景ですね。

これには、さすがに、その場にいた者たちが敵も味方もなく、ドォッと笑いが起こりました

Uzigawasenzincc

こうして、怒涛のごとく宇治川を渡って突っ込んできた義経軍は、すざまじい勢いで義仲軍を蹴散らして、天皇家を守るべく、一目散に御所を目指し、御所の守りを固めます。

いざとなったら天皇・法皇を奪って、北陸か、平家のいる西海へ落ちるつもりでいた義仲の思惑は潰されてしまうのです。

義仲VS義経の戦いはいよいよ最終決戦!
この続きのお話は“木曽殿最期”となる1月21日のページへどうぞ>>
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2007年1月16日 (火)

義仲追討へ義経が動く

 

寿永三年(1184年)1月16日、近江に待機する源義経のもとへ、東国から大軍が派遣されてきました。

・・・・・・・・・・

後白河法皇との対立がいよいよピークに達した木曽義仲は、法皇の住まいである法住寺殿を攻撃(11月18日参照>>)し、法皇を幽閉・・・半強制的に征夷大将軍になってしまいました。(1月11日参照>>)

すでに、鎌倉源頼朝とコンタクトをとっていた後白河法皇は、即座に『義仲追討の院宣』を下・・・「待ってました!」と頼朝は、即座に軍儀を開きます。

義仲を討つには、何よりも俊敏さか重要・・・と、すぐに大軍の派遣を決定します。

・・・というより、はなから準備を整えていたでしょう。
なんせ六万の大軍ですから・・・とても一週間やそこらで準備ができものではありませんからねぇ。

そして、寿永三年(1184年)1月16日、頼朝の弟・範頼率いる六万の大軍は、近江で待機するもう一人の弟・源義経のもとへ到着するのです。

考えて見れば、ここで初めて義経が歴史の表舞台に登場する事になります。

鞍馬での少年時代にしても、奥州での生活や、黄瀬川での頼朝の対面(10月21日参照>>)も、逸話に分類すべきお話で、おおむね事実ではあるでしょうが、正史かどうかは決めかねる物です。

あくまで実在の歴史人物としての義経は、この時から・・・と言えるでしょうね。

しかし、おそらく事実であろう少年時代を過ごした京都の町・・・この時の作戦会議では義経が大いに腕を奮います。

敵は、瀬田と宇治の二つの橋を落として防戦し、瀬田橋と宇治橋に陣を構えるであろうと読んだ義経。

こちらは、その対岸に陣を敷き、馬で川を渡り、一挙に敵陣を襲撃する作戦に出ます。

Uzibasi001cc

範頼の軍と二手に分かれた後、義経が率いる軍は、1月20日の朝に宇治川のほとりに到着します。

予想通り、義仲は宇治の大橋の橋板を引き剥がし、川に杭を打ち付けて網を張り巡らし、敵に川を渡らせない作戦です。

思えば、この宇治橋は、義仲・義経たち源氏にとっては因縁の場所・・・

4年前、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)と、平家全盛時代に唯一生き残った源頼政が、いち早く平家に反旗をひるがえした(5月26日参照>>)あの宇治橋です。

その時に剥がされた橋板は、一旦修理されていましたが、この日再び義仲によって剥がされていたのです。

水かさが増し波が立っていて、滝のように流れが早いこの日の宇治川を前にして、義経は少しばかり躊躇(ちゅうちょ)します。

淀へ行くべきか・・・河内へう回するか・・・それとも水かさが減るのを待つか・・・

悩む義経の前に一人の若武者が名乗りをあげます。

21歳になったばかりの畠山重忠でした。

「ここは、琵琶湖下流。
いつまで待っても水がひく事は無いでしょう。
先の宇治橋の合戦の時には足利又太郎忠綱がこの川を渡っております。
彼も人の子、鬼神ではありません。
まずは、この重忠が先陣をつかまつる」

そう言って500騎余りの自分の軍を川べりのスタート位置に整列させ始めた頃です・・・ザブーン!と音がしたかと思うと、二人の武者が馬で急流を渡り始めました。

一人は梶原景季(かげすえ)、そしてもう一人は佐々木高綱でした。

策略家の頼朝に、たくみに競争心をあおられた若きライバルたちの宇治川の先陣争い

この先、平家物語でも屈指の名場面が展開される事になるのですが、そのお話は明日のページでどうぞ>>
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2007年1月15日 (月)

いい碁の日に囲碁のお話

 

1月15日は、語呂合わせで「1(い)1(い)5(ご)」という事で、“いい碁の日”という記念日だそうです。
・・・なので、今日は囲碁について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

囲碁の起源は、ご存知、中国で、もともとは、古代の占いの一種だったと言われていますが、あまりに古いため、はっきりした成り立ちは不明のようです。

『論語』の中には、すでにゲームとして登場しますので、かなり歴史は古いのでしょうね。

Goban1cc 中国から日本へは大宝年間(701年~704年)に弁正という僧によって、双六とともに持ち込まれたと伝えられ、正倉院には聖武天皇が使ったであろう碁盤と碁石が納められています。

『続日本紀』には、対局の話も登場し、徐々に盛んになっていった囲碁は、平安時代に大ブームとなります。

遊び方は、現在とほぼ変らないルールですが、この頃の囲碁には賭け物がつきもので、お金はもちろん、当時は貴重品だった紙や絹、馬などを賭けて遊んだそうです。

しかし、物が賭けられると必死になるのは、今も昔も変わる事はなく、そのせいで連日連夜の“賭け碁”というのも少なくなかったようで、あの清少納言『枕草子』「心にくきもの=殿方の徹夜の碁」と書いています。

そんなこんなで、『徒然草』には「囲碁、双六好みて明かし暮らす人は四重五逆にも勝れる悪事」とまで書かれてしまいます。

【四重五逆】とは、殺生・親殺し・邪淫・阿羅漢(仏教の聖者を殺す事)などなど、とにかくめっちゃ悪い事。

そんな悪事と並び証される・・・いえ、「勝る」と言われてしまうなんて・・・よほどトラブルが耐えなかったんでしょうね。
人間、ムキになっちゃいますからね。

Gouti2cc

以前、書かせていただいた“後三の役”(11月14日参照>>)

その火種となった清原家内のイザコザを、ソノページでは『清原一族の中の吉彦秀武(きみこひでたけ)という人が真衡(さねひら)とモメて、家衡(いえひら)清衡(きよひら)に助けを求めたため、真衡VS家衡+清衡の戦いが勃発』と書かせていただきましたが、この秀武と真衡がモメたきっかけというのが、実は囲碁がらみなんです。

真衡の息子・成衡が妻を迎えた祝宴で、秀武が婚礼祝を持参して現れたところ、真衡は他の人物との囲碁に夢中になって、秀武の事を無視・・・いつまでたっても囲碁を続けたため、怒った秀武がその場で祝いの品を投げつけたのです。

そして、今度はその態度に真衡が逆ギレ!

そんな事で起こった家庭内の内紛がきっかけで、奥州一帯に勢力を誇った清原家は、後妻の連れ子という直系ではない(後に藤原姓を名乗る)清衡に権力を持っていかれる事になちゃったわけですから、そりゃ「四重五逆にも勝る」わけですね~。

そんな悪のイメージだった囲碁も、室町時代になると現在のプロ棋士のような人が出始め、有力者が彼らを雇って戦わせる・・・といった競技のような物になり、戦国時代に入ると合戦のシュミレーションとして大いにもてはやされます。

そのうち、上手な人に教えを乞う・・・先生と弟子のような関係も築かれて行き、やがて、江戸時代には、庶民も含め最盛期を向かえ、レベルも飛躍的の向上する事となり、頭脳ゲームとしての現在の位置を確保する事となります。

いつの時代も「賭け事とゲームはほどほどに・・・」が良いようですね。
 

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2007年1月14日 (日)

ハリーとハレー彗星の話

 

1742年1月14日は、あのハレー彗星の軌道を計算したイギリスの天文学者・エドモンド・ハリーさんのご命日です。

・・・・・・・・・・・・

エドモンド・ハリーは、1656年にイギリスの裕福な家の子供として生まれ、オックスフォード大学クィーンズ・カレッジ在学中に、すでに“太陽の黒点”についての論文を発表します。

Harycc 大学を卒業してからも、月を中心とした天体観測を続け、“星図”“モンスーン”など気象や天文に関する論文などを発表しています。

37歳の時には、人の死亡年齢の統計学から年金サービスの適切な価格などを割り出すという“年金に関する論文”を発表し、天文学者だけではなく、数学者としても活躍するようになり、海軍からのご使命で“海図”などを製作する事もありました。

そして、ハリーが49歳でオックスフォード大学教授の職務についていた1705年に有名な“ハレー彗星の出現の予言”を書いた論文を発表するのです。

これは、1337年から1698年までに観測された24個の彗星の記録とハリー自身が観測した1682年の彗星の記録を総合して丹念に調べ上げた結果、1531年と1607年と1682年の3つの彗星が同じ物である事に気付き、「今度は1758年に同じ彗星が現れるであろう」と予言したものです。

その後、ハリー自身は、グリニッジ天文台長を死ぬまで勤め、1742年1月14日、予言をしたハレー彗星を見ることなく亡くなりました

やがて、実際には予言とは一年のズレがあるものの、予想通りの彗星が現れ、ハリーの名前は一気に有名になり、彗星も“ハレー彗星”と名付けられる事となりました。

これは、「惑星以外でも太陽のまわりを公転する天体がある」という事が初めて確認された・・・という意味でも重要な物でした。

Harekidou1cc

このハレー彗星は、76年で太陽のまわりを一周します。

惑星とは、反対向きに、楕円形の少しズレた形の軌道です。

つまり、76年に一度、太陽に近づいた時に地球でも観測できるわけです。

一番最近では1986年(昭和六十一年)2月9日に最も地球に接近しました。

30歳以上のかたなら、あの大騒ぎを鮮明に覚えておられる事でしょう。

この時は、1982年の10月にアメリカの天文台でキャッチされてから、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、みんなこぞって天体望遠鏡を買いに走ったものですが、結果的にはかなり観測には不向きな状況で、結局は、天文台にあるような高度な望遠鏡でしか確認できないようでした

ただ、近年の宇宙探査技術の発展により、各国が打ち上げた彗星探査機で、彗星が予想通りの氷の粒子でできている事が確認されたり、他にも専門的な発見が数多くあったようです。

その1つ前、1910年ハレー彗星がやってきた時には、かなり良く見えたようで、雑誌や図鑑でよく見かける長い尾を持った写真は、この時に撮影された物です(最接近は5月19日

この時は、彗星の尾の中を地球が通過するという接近ぶりで、尾にはシアンが含まれている事を、ことさら強調したマスコミに人々は恐怖をあおられたのです。

実際には、シアンの濃度は非常に薄いので通過しても何事もなかったのですが・・・。

もちろん、明治四十三年の日本でも、やはりこの時は「ハリーのしっぽがやってくる」と大騒ぎ。

「地球上の空気が5分程なくなる」という噂が広まり、その5分間チューブ内の空気を吸って生き延びようと、お金持ちが自転車のチューブを買占める・・・という事があったそうです。
(ドラえもんでもやってました~)

そんな近代でもこれだけの大騒ぎですから、その正体を知らない昔の人にとっては、飢饉や戦乱の前触れなどと、彗星は恐怖の対象以外の何者でもありませんでした。

もちろん、その恐怖はハレー彗星だけには限りません

承元四年(1210年)に彗星が現れた時は、後鳥羽上皇の指示により、第83代・土御門天皇から第84代・順徳天皇即日交代したのだとか・・・。

天皇だけではありません。
延応二年(1240年)には、鎌倉幕府第4代将軍・藤原(九条)頼経が、彗星出現のため上洛を中止しています。

ちなみに、次の出現予定は2061年7月28日です。

小耳に挟んだ情報によりますと、今度のハレー彗星は、ものすごくはっきり見えるらしく「尾の長さが空の半分を覆うくらいになる」というので、何とか2061年まで、生き続けたい!と願っている私です。
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2007年1月13日 (土)

咸臨丸・品川沖を出航

 

安政七年(万延元年・1860年)1月13日、幕府の軍艦・咸臨丸が、アメリカに向かうため品川沖から出航しました。

・・・・・・・・・・

この年、幕府は日本初の『遣米使節団』を派遣する事を決め、外国奉行・塩見豊前守正興(しおみぶぜんのかみまさおき)を代表とする使節団77名が、アメリカ軍艦・ポーハタン号に乗船し、1月18日出航する事になっていました。

咸臨丸は、その護衛として、5日早く、安政七年(万延元年・1860年)1月13日品川沖を出航したのです。

咸臨丸はオランダ製で、長さ50m、幅7m、100馬力、300tの小型軍艦・・・提督は海軍奉行・木村義穀(よしたけ)、艦長は勝海舟乗員数は全部で96名で、あの福沢諭吉(11月25日参照>>)や、中浜万次郎(1月3日参照>>)も通訳として乗っていました。

Kanrinmaru4cc 勝海舟は、「この勝麟太郎が、自ら教育した門下生を率いて、この機会に日本人だけの遠洋航海でアメリカへ行くのは日本海軍の名誉である。」と、渋る幕府を説得して、意気揚々と自信満々でカッコ良く宣言して出航したのですが、これは海舟お得意の“ハッタリ”で、本当は、日本人だけでは、とてもおぼつかなかったのです。

そもそも、出航前から海舟は熱病にかかっていて、「畳の上で犬死にするなら、軍艦で死んだほうが・・・俺ってカッコイイ~」と思っての行動。

案の定、船上では下痢また下痢の嵐で、船室から一歩も出る事なく病人丸出しの体たらくだったようです。

それに、太平洋上に出るなり嵐に遭ったため、大将・木村を含む日本人の船員はひどい船酔いでダウンし、まったくの役立たず状態。

瀬戸内海の島出身の大ベテランの水夫でさえ「日本に帰りたい」泣きつく始末です。

しかし、それでも咸臨丸が何とか太平洋横断に成功するのは・・・実は、咸臨丸には、たまたま船が難破して日本に漂着していたアメリカ海軍のジョン・ブルック大佐彼の部下11名が、「遭難したアメリカ人を送還する」という名目で、同乗していたからなのです。

ブルック大佐の日記には「勝と木村は出航したその日に早くもダウン。
日本人は帆の操縦がまったくできず、荒天候の経験もなし、風を見て舵をとる事もできない」
と書いています。

ブルックさんたちは、正式に航海の指導を頼まれたわけでもないのに、なんとか教えようと試みますが、日本人乗組員は「非常に面倒くさそうで、なんだかんだと言い訳して、教わる気ゼロ」だったそうです。

同じ日本人として恥ずかしいので、ここは、一応「船酔いがひどかったのでヤル気が出なかった・・・」と信じたい・・・((ノ)゚ω(ヾ))

そんな日本人のだらしなさを目の当たりにしても、ブルックさん以下アメリカ人乗務員が頑張ったのは、他ならない「アメリカに帰りたい!」一心だったから・・・

彼らのおかげで、咸臨丸は37日間の航海の末、ポーハタン号より一足早くサンフランシスコに入港することができました。

港では、黒山の人だかり・・・21発の祝砲を撃って熱烈大歓迎です。

「向こうからの祝砲に答えて、早く応砲を撃たなければ・・・でもボク自信ない~」と、最初はためらっていた海舟でしたが、そこは人並みはずれた“ええかっこしぃ~”の性格上、引き下がるわけにはいきません。

「えぇ~い!」と、一か八かでやってみると、応砲はみごと大成功!

結局、この時の応砲だけが、この航海中で日本人がやった唯一の事だったとか・・・。

それでも、「俺が咸臨丸に乗って外国人の手を少しも借りないでアメリカに行った・・・」と、自慢げに本に書いちゃう海舟のプライドの高さ(?)はスゴイ!

さすがに福沢諭吉さんは、「他人の手を借りずに出かけて行こうとした勇気は立派。これだけは日本の名誉として世界に誇れる・・・」と、少し話を濁していますが・・・。

とにもかくにも、この先、彼らはアメリカの各地に赴いて“その目で外国を見聞する”という大きな遺産を持ち帰る事になるわけなので、すなおに「おめでとう!」と言って差し上げましょう。

アメリカでの海舟さんたちのエピソードは、2月26日【咸臨丸・シスコへ到着】でどうぞ>>
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2007年1月12日 (金)

日本のスキー発祥は?

 

明治四十四年(1911年)1月12日に、外国人の指導により日本人が初めてスキーをした事から、今日1月12日は『スキーの日』という記念日だそうです。

・・・・・・・・・

かねてから、冬場の有事の際の、スキーの必要性を考えていた軍は、たまたま前の年の明治四十三年(1910年)・秋に来日したオーストリアの軍人テオドール・フォン・レルヒがスキーの名人だった事から、彼を新潟県高田・第五十八連隊に派遣・・・と同時に、大急ぎでオーストリア式のスキー10セットを発注

そして、翌年の明治四十四年(1911年)1月12日・・・連隊から選ばれた14名の精鋭が、レルヒの指導を受けました。

レルヒのスキーは1本杖による滑降で、スポーツというよりは、生活するうえでの実用性を重視したものでした。

レルヒの指導が良かったのか、練習生が頑張ったのか、とにかくその腕前は予想以上に早い上達だったとか・・・。

1ヶ月後の2月11日には、早くも高田近郊の山麓に4キロ程のコースを設け、『第一回・スキー協議会』が開催されています。

その後すぐの2月15日から、やはり高田近郊の金谷山5日間の『レルヒ・スキー教室』が開かれ、そこには軍人だけではなく、一般市民も参加しました。

その中には、地元の学校の女性教師が二人混じっていて、このお二人が日本女性初のスキーヤーという事になります。

しかも彼女らはその後、自分の生徒たちにも指導しましたから、スキーはまたたく間に一般市民にも普及して行きました。

最初は軍が、その必要性を感じて導入したスキーでしたが、軍よりも、むしろ雪国の一般市民の生活を大転換させたのです。

この現象は、「一般市民、特に婦女子に普及した事で、それまで暗かった雪国の冬に明るさをもたらした」と、大きな話題を集める事となります。

そして、翌年・明治四十五年(1912年)に2月には、『信越スキー倶楽部』なる団体が結成され、その発会式には、あの乃木希典も出席するほどの熱いブームになったとか・・・

その後、レルヒさんは、北海道の第七連隊への配属となり、そこでもスキーの指導にあたり、おおいに活躍されたということです。

現在、かの金谷山・山頂には、『スキー発祥の地』という記念碑が建っているそうです

Skiingcc_1

大阪生まれの大阪育ちで雪に縁がなかった私も、10年間の富山暮らしでけっこうスキーが滑れるようになりました( ̄ー ̄)ニヤリ
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2007年1月11日 (木)

征夷大将軍・木曽義仲

 

元暦元年(1184年)1月11日、木曽義仲(源義仲)が征夷大将軍になりました。

・・・・・・・・・

“征夷大将軍”と言えば、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか?

坂上田村麻呂・・・源頼朝・・・足利尊氏・・・徳川家康・以下歴代の徳川将軍たち・・・それとも羽賀研二さんですか?(←それは誠意大将軍)

実は、木曽義仲も征夷大将軍になっているんです。

以前、坂上田村麻呂のページ(11月5日参照>>)でも書きましたが、本来“征夷”というのは、蝦夷を征伐するという意味で、その征伐軍の将軍だから“征夷大将軍・・・。

それ以来、しばらく空白の後、ここに来て、“武士の棟梁”の名称として“征夷大将軍”の名が復活するのです。

『左馬頭兼伊予守・朝日将軍源義仲』
(さまのかみけんいよのかみ・あさひしょうぐんみなもとのよしなか)

わずか10日間ではありましたが、これが木曽義仲の名乗りです。

この日数の短さが、また心くすぐられる所なんですよね。

そもそも公家の大親分・後白河法皇と源氏の大将・義仲が、ギクシャクし始めたのは、平家が安徳天皇を奉じて西海に都落ちた(7月25日参照>>)後、義仲が堂々の入京(7月28日参照>>)を果たして間もない頃・・・

木曽の山奥で自由奔放に育った自然児でワイルドな義仲は、おじゃるな麿たち・・・いえ、雅な公家たちから総スカンをくらってしまいます。

しかも、そんな大将と同じように自然児でワイルドな義仲軍の兵士たちが、平家のいなくなった京の町を我がもの顔でかっ歩し、これが、また、ワイルドすぎて、すこぶる評判が悪い・・・

亀裂が決定的になったのは、第80代・高倉天皇の後継者を決める時・・・

立皇の会議の時、義仲は、北陸宮(ほくろくのみや)強く推薦します。

この北陸宮という人は、最初に平家打倒を掲げて挙兵した以仁王(もちひとおう・後白河法皇の皇子)(4月9日参照>>)の第3皇子で、以仁王が敗れた後、以仁王の令旨(りょうじ=皇室の人の命令書)を受けて源頼朝より先に挙兵した義仲が庇護し「錦の御旗(官軍の証)として掲げていた人物でした。

しかし、公卿たちはそろって四ノ宮(安徳天皇の弟で後の後鳥羽天皇)を推しました。

この時、吉凶の占いで“北陸宮”が「吉」と出たにもかかわらず、後白河法皇の恋人だった丹波局(たんばのつぼね)「夢に四ノ宮が出てきた」とかいうあいまいな言い分で、結局、次期天皇は四宮に決まってしまうのです。

この時、義仲は、「後々、郎党をもって一切の所存を申すであろう」と言って、怒りに震えながら退席したと言います。

その後、後白河法皇は義仲に平家追討を命じて京から離れさせ(10月1日参照>>)、その間に頼朝と親密な関係になっていきます。

やがて、義仲は先日の言葉通り・・・法皇の住まいである法住寺殿を攻撃(11月18日参照>>)し、さらに、後白河法皇を幽閉してしまいます。

かくしてそして、元暦元年(1184年)1月11日・・・半強制的に征夷大将軍になるのですが、もちろん、日本一の大天狗=後白河法皇がおとなしく、義仲の思うどおりになるわけがありません。

一方で、後白河法皇は、頼朝に『義仲追討の命令』を下すのです。

法皇からの「GOサイン」を貰った頼朝は、早速、近江で待機中の弟・源義経に大軍を派遣し、義仲の追討に当たらせるのです。

倶利伽羅峠の大勝利(5月11日参照>>)から、わずか8ヶ月間・・・いよいよ、義仲のもとに義経の軍勢が迫りますが、そのお話は、1月16日【義仲追討へ義経が動く】でどうぞ>>
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2007年1月10日 (水)

犬公方・徳川綱吉の忌日

 

宝永六年(1709年)1月10日は、「犬公方」と呼ばれた徳川幕府・五代将軍・綱吉さんのご命日です。

・・・・・・・・・・

徳川綱吉と言えば、やはり貞享四年(1687年)に発令され、その「犬公方」の呼び名の要因ともなった『生類憐みの令』を思いだしますね。

「将軍・綱吉に男子が生まれないのは、前世で悪行を重ねたから・・・罪を償うためには、生き物を大事に・・・戌年生まれなのだから特に犬を大事にしなさい」との坊さんの言葉を信じて、天下の悪法と言われる『生類憐みの令』という徹底的な“動物保護法”を作っと言われます。

ただし、本当は『生類憐みの令』という名前の法は無く、実際には、『犬猫憐みの令』とか、『牛馬憐みの令』とか、それぞれ個別に発令されていましたが、メッチャたくさんあってややこしいので、今日では全部ひっくるめて『生類憐みの令』と呼んでいるんです。

とにかく、「人より動物のほうが大事」という変な法律だけあって、その変なエピソードは数知れず・・・

ある日、綱吉が外出した時、空を飛んでいたカラスが綱吉の頭にフンをかけました。

さすがに怒った綱吉・・・「将軍にフンをかけるとは!」

将軍に無礼を働いたわけですから、本来なら『死罪』を免れないところなのですが、『生類憐みの令』により、そのカラスは罪一等を減じられ、なんと!島流しに・・・

わざわざ役人が伊豆大島まで、連れて行ったというから大笑いですね。

それ以外にも、
スズメを吹き矢で撃った親子は打ち首獄門。
ぼうふらが死ぬから、どぶの水を道にまくのは禁止。
頬に止まった蚊を叩いた小姓が切腹・・・しかも、その家族も謹慎処分に・・・。

幕閣の人間を動物に例えて世相を風刺した小説を書いた園右衛門と、馬をネタにした落語を演じた武左衛門はともに、伊豆大島へ流罪・・・言うだけでもダメなのね。

そして、「戌年生まれなのだから、特に犬を大事に・・・」に、こだわった綱吉さん・・・元禄七年(1694年)11月13日には、『公儀御飼立』と称して、幕府直営のデッカイ犬小屋・御犬殿を建て、市中のノラ犬を集めて飼い始めます。

広大な土地に巨費を投じて建設されたこの御殿には、『犬小屋奉行』なるお役人が付き、毎日お犬様一匹に対して、米:三合、味噌五十匁(もんめ、他干し魚などが与えられ、至れり尽くせりの大盤振る舞い。

しかも、それは『犬扶持』として、きっちり税に跳ね返ってきますから、元禄の高度成長期の真っ只中とは言え、さすがに庶民もバカバカしくてやってられません。

しかし、ものすごい教育ママに「勉強!勉強!」で育てられた、頭カッチカチの綱吉に、まわりの役人はお気に入りのイエスマンばかり、本人は大真面目に“良い事”と思ってこの法律を実行してるんだから、誰も注意する者もいません。

そこで、出ました!天下のご意見番・水戸光圀公(12月6日参照>>)・・・領内のノラ犬を一斉に駆除し、そのうちの20匹ほどを毛皮にして綱吉に届けます。

それには「ワシも老いぼれてきて最近寒さがこたえる。この毛皮は寒さをしのぐにはもってこい。上様にも差し上げるので、是非お使い下さい」という、手紙が添えてあったとか・・・

綱吉はさすがに不快感を表し、これ以降、幕府と水戸藩の確執が深まったのは言うまでもありませんが・・・やってくれますね~黄門様。

・・・ですが、この天下の悪法『生類憐みの令』も、少しだけは良い事がありました。

それは、この元禄という高度成長期、人口増加とともに市中には生ゴミが増え、野犬の数がハンパではなく、子供が野犬にかまれて亡くなる・・・という事故が多発していたんです。

それが、犬公方様がそのへんでウロウロしているお犬様をお飼いあそばされたおかげで、そういう事故が激減しました。

さらに、この頃は旗本奴町奴(幡随院長兵衛・参照>>)に代表される歌舞伎者・ならず者が異常に多かった時代でしたが、動物に対する一般庶民の態度を監視する役人の目がきびしくなったおかげで、そんな人たちのケンカ沙汰や狼藉も監視する事になり、町の治安が良くなったのも確かなのです。

果たして、その効果を綱吉さんが見抜いて『生類憐みの令』を出していたとしたら、たいしたものですが・・・

なので、最近ではその観点から、ひょっとしたら意外に名君だったのでは?という意見もチラホラ登場しています。

綱吉さん、汚名返上のチャンスかも・・・。

とにもかくにも、この『生類憐みの令』は、綱吉が亡くなる宝永六年(1709年)1月10日まで続き、法が解かれて牢から出された人が8千人以上いたと言います。
 

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2007年1月 9日 (火)

本能寺の変と堺の関係

 

永禄十二年(1569年)1月9日、織田信長が軍資金を要求し、抵抗した三好三人衆を追い払い、堺の町を攻撃しました

・・・・・・・・・・・

前の年の9月に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長(9月7日参照>>)

京の町での織田軍は紳士的な態度でけっこう評判が良く、上洛後1ヶ月で畿内をほぼ傘下に治めます。

そんな信長が目を着けたのが、賑わいをみせる堺の町でした。

堺は当時、“会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちの代表者による自治で運営されている独立国家のような物でした。

鉄砲の製造も独占状態、経済発展を続ける堺の町を傘下に治めれば、膨大な税を徴収する事ができます。

そこで信長は、永禄十一年(1568年)の10月2日堺に対して軍資金・2万貫を要求します。

もちろん、堺の町もすんなり受け入れるわけにはいきませんから、大筒を用意して抵抗の姿勢で構えます

そこで、堺の抵抗に便乗した三好三人衆(9月29日参照>>)京都を攻撃しますが、逆に撃破され三好三人衆は阿波に敗走します。

そして、永禄十二年(1569年)1月9日信長は堺の町全体を包囲し、攻撃を仕掛けたのです。

さすがの町衆も、もはやこれまでと服従を決定し、要求通りの2万貫を差し出しました。

その後は、信長と堺の町は、持ちつ持たれつギブアンドテイクで、表面的には良い関係が続いていくわけですが、堺の町衆の心の奥底には、信長はどのように映っていたのでしょうか?

この騒動の後、信長に接近してくる堺の実力者・今井宗久(そうきゅう)の誘いで、信長は“茶の湯”の世界に目覚めます。

それまで、これと言った趣味を持っていなかった信長でしたが、この頃から茶の湯・・・特に“名器集め”に没頭するようになるのです。

もちろん、当時、茶の湯は、高貴な人たちのたしなみ・・・ステータスでした。

かつて、平家を西へ追いやって上洛を果たした源氏の大将・木曽義仲がそうであったように、さすがの信長も、京に上って以来、公家や都人へのコンプレックスを少しは感じていたに違いありません。

それを、跳ね除けるためにも、最先端の文化を身につけ、天下の名器を持つ事で、天下を握る実力者である事を証明したいという気持ちもあったのかも知れません。

しかし、今でもそうですが、美術品・骨董品の類の収集というのは、金さえ出せば良いという物ではありません。

譲る側と譲られる側にある種の仲間意識、価値観の共有がなされてこそ、「良い買い物をした」という気持ちになる物です。

バブル景気に世界の美術品を買いあさった光景に、眉をひそめた人も多いはず・・・。

この時の信長の名器集めは、まさにそのような収集の仕方だったのです。

金と武力に物を言わせて強引に手に入れる・・・これを、堺や京の茶人は「名器狩り」と呼んで恐れていたと言います。

もちろん、面と向かっては言えませんが・・・。

信長は、そうやって集めた名器を、茶会を催しては自慢げに披露したり、恩賞として家臣に与えたりしていたとか・・・。

実はこの事があの本能寺の変に深くかかわってくる事になるのです。

戦国最大の謎とも言われる本能寺の変(6月2日参照>>)ですが、もちろん実際に手を下したのは明智光秀でしょう。

あれだけの文献が残っている以上、その事は、ほぼ、まちがいないところでしょうが、ここで、一番問題となるのが、なぜあの日、信長は僅かな供のものだけで本能寺にいたのか?という部分です。

無防備だったからこそ、家臣である明智光秀にあっさり攻め込まれるわけですから・・・もし、あの日いつも通り信長が安土城にいたなら、とても攻め落とせるものではありません

少ない手勢の本能寺だからこそ成しえた謀反です。

もちろん、最初に信長を安土城から信長を引っ張り出そうとしたのは豊臣(羽柴)秀吉です。

信長にとって最大の敵である武田を倒し、残る強敵は毛利・・・となっていた当時、4年間も中国地方を攻めあぐねていた秀吉が、信長の出陣を要請したため信長は腰をあげたのです

早速、出陣準備に取り掛かり、その兵の準備が整うのは6月の5~6日の予定・・・・なので信長も、兵の準備が整い次第、大軍を従えて出発するはずだったのです。

だからこそ、家臣・光秀に「一足先に秀吉のもとへ駆けつけるように」と、出陣命令を出していたわけです。

ところが、なぜか大軍の準備を待たずに、わずかな手勢で京都・本能寺へ5月29日にやってくるのです。

ご存知のように本能寺の変のあった日、その数時間前、本能寺で信長主催の茶会が開かれていたわけですが、そこに堺の豪商たちに混じってある人物が出席していました。

それが、博多の豪商・島井宗室(そうしつ)という人物。

実は、当時天下の三大名器と呼ばれた『初花(はつはな)』『新田(にった)』『楢柴(ならしば)という3つの茶入れがあったのですが、名器集めに没頭していた信長は、このうち二つ『初花』と『新田』を持っていました。

そうです、残り一つの『楢柴』を持っていたのが島井宗室だったのです。

当時、大陸やらフィリピンやらと手広く貿易を営んでいて、博多の三傑の一人と称されていた宗室は、結局は、6月2日の本能寺の変に遭遇し、兵火がまさに茶室まで及ぼうという瞬間に、命からがら脱出に成功して、その後、博多へと戻っているのですが、その宗室の京都滞在が6月2日までの予定だったのだとか・・・

ひょっとして、宗室の京都滞在が2日までだという事を知った信長が、茶入れの一件から、どうしても宗室とコンタクトを取りたくて、あわてて京にやってきて、本能寺でこの日に茶会を催した・・・とは考えられないでしょうか?

数ある本能寺の変の黒幕説には、“千利休+堺の商人・黒幕説”というのもあります。

計算ずくで、手薄な警備の信長を京都へおびき寄せ・・・という事なのですが、私、個人的には、堺の商人と光秀の関係が、ちと薄いのではないか?と思うのですが・・・。

ただ、光秀に謀反のきっかけを与えた・・・という事なら、堺の商人黒幕説も無きにしも非ず・・・というところでしょうか。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
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2007年1月 8日 (月)

成人式=元服の歴史

 

ハッピーマンデー法とかで、以前は1月15日だったのが、1月の第2月曜日となった“成人の日”・・・

・・・・・・・・・・・・

成人式は言わずと知れた、満20歳に達した人が一人前の大人になった事を祝う儀式・・・昔で言うところの“元服”の儀式です。

最初に登場するのは、元明天皇の和同七年(714年)6月に「皇孫を立てて皇太子となし、元服を加えた」とあります。

この“皇孫”というのは、あの奈良の大仏でご存知の聖武天皇の事です。

神代から古墳時代には、まちまちだったのが、推古天皇の頃から、大人は冠帽をかぶる風習が定着し、幼いときに耳の横で束ねていた髪(よく神話の挿絵などで見られる髪型です)を、冠をかぶるために頭の頂点で結ぶようにする儀式をおこなったのです。

平安時代になると、10歳~15・16歳くらいになった男子が、大人になった事を表すために、着物を着替え、髪を結い、冠をかぶる儀式“元服”あるいは“初冠(ういこうぶり)と呼んで成人を祝いました。

今でもよく耳にする“冠婚葬祭”“冠”は、この“冠”・・・つまり成人式の事です。

平安末期から鎌倉の武士の時代に入ると、冠は烏帽子(えぼし)に代わり、この時、烏帽子をかぶせる人を“烏帽子親”、かぶせられる人を“烏帽子子”と言って、仮の親子の契約を交わすくらいの重要な関係を表す物となります。

武士の力関係が微妙な時ほど“烏帽子親”を誰に頼むかを慎重に考えなければなりませんでした。

もちろん、この時に名前も幼名から元服名に変わります。

Mocc 女性の場合は、今まで垂らしていた髪を後ろで一つに束ね、その上に(も)を着せる事で成人の証しとしました。

室町~戦国時代以降からは、男子は15歳で元服するようになり、烏帽子も廃止され“月代(さかやき)”をあげる・・・つまり前髪を剃る時代劇でお馴染みのヘアスタイルになるのです。

江戸時代には、かなり簡略化されて、よほどの身分の人以外は、前髪を剃るだけの儀式になり、そして、儀式が終った後、父・兄あるいは先輩たちに連れられて遊郭に行く・・・というパターンになってたようですね。

Kougaicc この頃の女性の成人の儀式も髪型が中心で、12~13歳頃に、下ろしていた髪を結い上げる“髪あげ”という儀式が女性の成人式だったようです。

“笄(こうがい)という太い櫛のような棒のようなアレを中心に髪を結い上げるので“初笄(はつこうがい)とも呼ばれていました。

女性の場合は、髪型だけではなく、着物の形式でも違いを表していました。

現在にも残る“振袖”もそうですが、袖の長さだけではなく、幼女の頃は“腋(わき)開き”だった袖を“袖留(そでとめ・わきふさぎ)という儀式で、袖をふさいだ物を着ました。

この儀式も、16歳の時に行われるのが一般的でした。

こうやって見ると、昔の成人式は、だいたい15~16歳で行われていたようですね。

少年による凶悪犯罪が増え、少年法の改正が囁かれる昨今、凶悪犯罪においては18歳と言わず、15~16歳で一人前の責任を取る・・・というのもアリなのではないかと、個人的には思いますが、選挙権は・・・と考えると、また違う年齢が良いのかな?・・・とも考えますね。
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2007年1月 7日 (日)

七草粥の起源

 

1月7日は、『七草』です。

別名『若菜節』とも言い、昔から正月七日に“七草粥”を食べると、一年間、無病息災でいられるとされています。

・‥…━━━☆

七草とは、“春の七草”の事で、ご存知だとは思いますが、一応ご紹介させていただきます。

Harunonanakusa

  • (せり):セリ科
  • (なずな):アブラナ科 ペンペン草
  • 御形(ごぎょう):キク科 ははこ草
  • 繁縷(はこべら):ナデシコ科 はこべ
  • 仏の座(ほとけのざ):キク科 こおにたびらこ
  • (すずな):アブラナ科 かぶ
  • 蘿蔔(すずしろ):アブラナ科 だいこん

以上の七種の若菜を入れた“おかゆ”を食べるのですが、この“七草粥”の風習・・・本来は、正月の初めての子(ね)の日に、野山に出て若菜を摘んでゆがいて食べる“子(ね)の日の遊び”が起源だとされていますが、なぜ7日なのかは、よくわかっていません。

古代中国でも、この“子(ね)の日の遊び”が行われていたそうなので、おそらく、もとの部分は中国から伝わった物だと考えられます。

日本では、醍醐天皇の延喜十一年(911年)に「正月七日に七種の若草を供す」との記録がありますし、清少納言『枕草子』にも「七日の若菜」というのが出て来ますから、平安時代からすでに年中行事となっていたのでしょう。

室町時代になると、「正月七日に七種の菜羹(さいこう)を食すれば其人万病なし」と、すでに、その効能が語られ始めます

江戸時代に入ると、七草は『五節句』の一つにまで数えられるようになり、一般庶民にも普及し、幕府でも公式行事として、正月7日に“七草粥”を食べるようになります。

ただ、江戸時代頃からすでに七種全部そろえるのは、手間がかかったようで、この頃から青菜と大根の葉っぱだけで済まされる事が多くなったようです。

最近では、逆にスーパーなどで、七種類全部パックにされて売られていたりして、むしろ江戸時代よりちゃんと七種類食べてるのかも・・・。

江戸時代の民間信仰では、前日の6日のお粥を作る時に、
♪七草なずな、唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬさきに、七草はやす♪
と歌いながら作ったそうですよ。

“唐土の鳥”というのは、鬼車鳥という架空の怪鳥の事で、「この鳥が近寄ると子供が病気になる」と信じられていて、七草で、その鳥を追い払う意味があったという事です。

科学的な面から見ても、お正月には、濃い味付けのおせちを食べお酒を飲む・・・いわゆる暴飲暴食が重なった後のちょうど良い時期にお粥を食べて、お腹を休めるのは理に叶っているそうで、昨今の健康志向と相まって、スーパーでの“七草パック”という新たな商品に繋がったのでしょうね。
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2007年1月 6日 (土)

額田王を巡る三角関係

 

斉明七年(661年)1月6日、朝鮮半島への出兵と日本の守りを考慮し、斉明天皇以下、主だった者を乗せた軍船が難波を出航しました。

・・・・・・・・・・

これは、唐と新羅の連合軍に攻撃された百済が、日本に救援を求めてきた事に答えたもので、大陸の玄関口となる九州の筑紫・朝倉に拠点を移すための船出でした。

朝鮮半島の情勢や、今回の出航については、以前書かせていただいた【白村江の戦い】8月27日参照>>)や、【斉明天皇の心の内は・・・】(7月24日参照>>)で読んでいただくとして、今回は、この船に乗船している額田王について・・・。

・‥…━━━☆

この軍船は、難波を出航して、瀬戸内海を西に向かうのですが、播磨印南の海岸あたりで詠ったとされる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の歌があります。

♪香久山は 畝傍を愛しと 耳成と
 相争ひき 神代より かくにあるらし
 いにしへも しかにあれこそ
 うつせみも 妻を 争ふらしき♪

ここに、登場する香久山畝傍山耳成山ご存知、大和三山です。

『播磨風土記』には、まだ山々が神様だった遠い昔、美しい畝傍山(女神)を、香久山(男神)と耳成山(男神)が取り合ったという神話があるのです。

その神話になぞらえて「香久山は畝傍山を愛して耳成山と争った。神代の昔からそうなんだから、今も二人の男が一人の女を奪い合うのは当然だよ」と歌っているのです。

んん~?聞き捨てなりませんなぁ・・・いったい誰と誰が誰を取り合っているのでしょうか?

もちろん、研究者のかたの見解では「単に伝説の地(この神話には印南の海岸近くの印南国原が登場するので)を目の前にして、その情景を歌っただけ」という見方もありますが、個人的には、やはりここは、愛憎からみまくりの恋愛物語と思いたいですね。

そうなると、当然“男”のひとりは、当然、本人=中大兄皇子です。

そして、彼がこの九州行きでの最中、落とそうと思っている彼女・・・それが、額田王(ぬかたのおおきみ)・・・ですから、“女”は額田王という事になります。

Nukatacc この額田王という女性は、正史には「天皇、初め 鏡王(かがみのおおきみ)の女(むすめ額田王を娶(め)して、十市皇女(とをちのひめみこ)を生む」と、『日本書紀』に一行だけ書かれているだけの謎の女性で、それ以外は『万葉集』にいくつかの彼女作の歌が残されているのみ・・・なので、そこから、彼女を想像するしかないわけなのです。

以前、私が見た小説やドラマなどでは、神がかり的な巫女として描かれていましたが、私が個人的に思うには、巫女ではなく、宮廷のお抱え歌人・・・今で言えば「国民的シンガー」とでも言いましょうか・・・。

万葉集に残る額田王の歌を見てみますと、自分の個人的立場に立った歌と、公の立場で歌った歌の両方があります。

たとえば、古典の教科書にも載ってる有名なこの歌
♪熟田津に 船乗りせむと 月待てば
 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな♪

この歌は、今回の九州行きで、1月14日に伊予(愛媛県)熟田津(にきたつ)に停泊した時に彼女が詠んだとされる歌ですが、彼女個人の心情ではなく、船団の代表者の立場に立って・・・潮の流れが良くなったから「さあ!船を漕ぎ出そう!」と、力強く歌っています。

かたや、
♪君待つと 我が恋ひ居れば 我が屋戸の
 簾
(すだれ)動かし 秋の風吹く♪
こちらは「恋しいあなたを待っていたら、簾が動いたので、“来た~っ”て思ったら風だったわ」
と、素直な自分の恋心を歌っています。

天智天皇の時代、近江京で開かれた宴会などでも、彼女は、歌を詠んでいます。

ところで、先程の『日本書紀』に額田王が登場する部分ですが、この「天皇、初め・・・」の天皇は、天武天皇=中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)の事なのです。

日本書紀の記述通り、ふたりの間には十市皇女という女の子がいます

しかし、この九州行きの船の中で、弟の“元カノ”と知っていながら中大兄皇子はあの『大和三山』の歌を詠むわけです。

・・・で、額田王の返事は・・・?

実は先程紹介した“♪君待つと・・・”の歌・・・この歌には「近江天皇を思ひて」という注釈がつけられているのです。

近江天皇・・・つまり天智天皇=中大兄皇子を思って作った歌なのです。

いっちゃいましたか・・・兄貴のほうへ・・・。

しかし、この恋愛ドラマはまだ終りません。
この後、弟・大海人皇子と額田王が再び・・・・

・・・と、この先もっともっと長くなりそうなので、続きは、5月5日【額田王巡る三角関係Ⅱ】でどうぞ>>
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2007年1月 5日 (金)

鉄道馬車と『車会党』

 

明治七年(1874年)1月5日、東京の京橋⇔新橋間馬車・人力車専用道路が完成しました。

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明治に入って、外国人が持ち込んだ物の中に、馬車という物がありましたが、これは大変高級で、一部の貴族やお金持ちだけの物でした。

それが、明治二年(1869年)に横浜で始まった“乗り合い馬車”という形で、一般の交通手段として利用されるようになります。

そして、明治七年(1874年)1月5日馬車・人力車専用道路が設けられ元宮内省・馭者(ぎょしゃ)だった由良清麿が、東京市内で乗合馬車の営業を開始したのです。

この乗合馬車は、2階建ての30人乗りで、午前6時から午後8時まで、浅草雷門から新橋間を1日6往復し、運賃は全区間8銭途中下車3銭となっていたのだとか・・・

独特のラッパを吹き鳴らしながら、砂煙をあげて疾走する馬車は“ガタ馬車”と呼ばれて、創業開始から、早くも大人気!

徐々に路線も増え、やがて“ガタ馬車”が全盛期を迎える明治十五年(1882年)6月25日に、今度、新しく登場したのが、“鉄道馬車”でした。

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色鮮やかに塗られた馬車を、2頭の馬がひき、軌道の上を走るのですから、もはや、砂煙もうもうの“ガタ馬車”とは比べ物にならないくらいの大人気です。

しかし、とりあえず最初に軌道が敷かれたのは浅草⇔新橋間だけ・・・しかも待合所や停車場などは、ちゃんと軌道敷が舗装されていましたが、それ以外の場所は軌道があるのみ・・

なので、天気の日には、“ガタ馬車”と同じように砂煙が舞い上がるし、雨の日は軌道が水溜りに覆われドロだらけで走る・・・といった状況です。

その点は、軌道の無い“ガタ馬車”なら、水溜りをさけて通れますし、まだ軌道の敷かれていない町にも行けますので、どちらにも、メリット&デメリットがあった事で“鉄道馬車”が“ガタ馬車”に取って代わる・・・という事はなく、電車が登場する明治三十年代まで、けっこううまく共存していました。

しかし、この“鉄道馬車”の盛況ぶりに不安を抱いていた人たちがいたのです。

そう、人力車の車夫たちです。

「このままでは、“鉄道馬車”に、お客さんを全部奪われてしまうのでは?」という不安・・・。

そんな気持ちに便乗したのが自由党奥宮健之でした。

奥宮は明治二十一年(1888年)、神田明神に300人の車夫を集めて「天下の公道に線路を敷き、一定の場所を占拠するとは、何事か!」と、大演説。

「皆で一致団結して、馬車会社に線路の廃止を訴えよう!」と、集会は大盛り上がりです。

この運動はその後もしばらくの間続き、世間の人々はこの集団に『車会党』なるニックネームをつけて呼んでいましたが、それが、そのまま本当にその会の正式名称になってしまったというからおもしろいですね。

しかし、車夫たちの不安とはうらはらに、人力車も別段問題なく、その後もけっこう繁昌して生き残っていったのです。

そうなると、結局『車会党』は自然消滅・・・

一時だけの大騒ぎとなって、その後はあの奥宮も馬車の馬の字も出す事なく、何事もなかったかのように自由民権論に戻っています。

いつの時代も、新しい物が古い物に取って代わるか、共存するのかは、人の予想通りには進んでいきませんよねぇ。

レコードCDビデオDVDテレホンカード携帯電話手紙メールタイプライターワープロになり、さらにパソコンへ・・・

しかし最近のは、どれもこれも、ハードがなければソフトを使えない物ばかり・・・「結局、一万年後に残っている歴史的人類の痕跡は、エジプトやメソポタミヤの石板だけかも知れない」って話は、案外当たってるかもしれませんね。
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2007年1月 4日 (木)

源義朝の最期と常盤御前

 

永暦元年(平治二年・1160年)1月4日、平治の乱で敗れた源義朝が、逃亡先の尾張で、家来の長田忠致に殺害されました。

・・・・・・・・・・・・

源義朝(みなもとのよしとも)は、源氏が武家の名門となる基礎になったあの八幡太郎義家のひ孫・・・それとも、源頼朝・義経兄弟のお父さん、と言ったほうがピンとくるかも知れません。

義家以来、河内源氏として畿内に勢力を持っていた源氏でしたが、義朝は父・為義とあまりうまくいってなかったようで、少年時代に東国へ下ります。

しかし、そのおかげで義朝は東国に独自の勢力を伸ばす事ができ、三浦大庭といった関東の豪族を支配下に置く事に成功し、“源氏=関東”の基盤を作る事ができたのです。

やがて、天皇の後継者争いで勃発した保元の乱(7月11日参照>>)で、敵にまわった父・為義に勝利し、名実ともに源氏の棟梁となります。

しかし、次に起こった平治の(12月9日参照>>)では、保元の乱でともに戦った平清盛に敗れてしまいます。

雪の山中を敗走する中、次男・朝長美濃の国で落ち武者狩りに遭い死亡・・・他の息子たちともはぐれ、義朝は、ただ一人、尾張にたどり着き、家来の長田忠致の元に身を寄せます。

しかし、恩賞に目がくらんだ忠致の裏切りに遭い、平治の乱の敗走から1週間後の永暦元年(平治二年・1160年)1月4日、風呂に入っている最中に襲撃され無念の最期を遂げます(2012年1月4日参照>>)

「無念なり、われに木太刀なりともありせば・・・」と、叫んで息絶えたという義朝・・・やはり、無防備なお風呂での襲撃はキツイ・・・。

この父の死を知った長男・義平は、その仇を討つべく単身京へと戻りますが、密告によって捕まり六条河原で斬首されます(1月25日参照>>)

その後も、まだ逃げていた三男・頼朝も、捕縛され伊豆への流罪となり(2月9日参照>>)源氏一門はほぼ壊滅状態・・・平家は全盛期を向かえ事となるわけですが・・・。

しかし、義朝にはまだ他にも子供がいました。

そうです、宮廷内の美人コンテストで優勝に輝いた絶世の美女・常盤御前との間にできた三人の男の子、今若(7歳)乙若(5歳)そして生まれたばかりの牛若(後の義経)です。

Dscn4887tokiwa600 ただ、常盤御前については、伝説の域を出ないお話も多いのですが(1月17日参照>>)、それも含めてお話させていただきますと・・・

そもそもは、九条院(近衛天皇の奥さん・呈子)の召使いとして働いていましたが、源氏の棟梁の愛妾という大出世(当時は一夫多妻なのでおめかけさんでも大出世です)を考えただけでもその美貌ぶりが伺えるというものです。

義朝の死からまもなく、洛北にある義朝の別邸で暮らしていた常盤御前のもとに、義朝の死が伝えられました

身の危険を感じた彼女は、1月17日の明け方、三人の子供をつれて大和の国の宇陀に住む親しい友人を頼って都を落ちますが、平家の追捕を恐れたその友人には断られてしまいます。

しかたなく、大和の国の大東という所に身を隠していましたが、ほどなく京都に住む常盤の母・関屋自分の代わりに六波羅(平家の本拠地)へ連れて行かれた事を聞くのです。

常盤は悩みます。

「母は助けたいけれど、自分が六波羅に出頭すれば、三人の子供の命はない・・・」

しかし、やはり母を見捨てる事ができず常盤は子供を連れ六波羅に自首するのです。

最悪の事態を覚悟して自首した常盤御前でしたが、やはり、いつの世も美人はお得!

常盤を見るなり一目惚れした清盛は、すぐさま七条朱雀に屋敷を用意し、三人の子供の命も助けることを約束します。

常盤も子供じゃありません、その意味は言われなくてもよ~くわかります。

ひょっとしたら、もっとしたたかで「私に落ちない男はいない」との、計算ずくの行動だったのかも・・・。

逆に「三人の子供の命を助ける」という清盛の行動のほうが、彼のかわいらしさというかお人よしさを表している感じがしますね~。

清盛は飛ぶ鳥を落とす権力者、かたや常盤は敗者の妻。

三人の子供の命を奪っても、何とか彼女をモノにできたはずです。

でも、今、一番常盤が喜ぶ事=子供の命を助ける事で、明らかに彼女の気をひこうとしてますからね。

頼朝が捕まった時も母親の涙に負けて、殺さずに流罪になったわけですし、結局はこのやさしさが命取り。

頼朝には、この清盛の行動が反面教師となって、「敵を徹底的に始末する」という風になったんでしょうしね。

それは、さておき、三人の子供のうち今若と乙若は僧としてお寺に預けられ、幼かった牛若だけは4歳まで、常盤の手元で育てられます。

その後、牛若も、山科の知人に預けられ、7歳で鞍馬山に預けられて、ご存知のように16歳で藤原秀衡を頼って奥州へ・・・後の源義経となるのですが、ここから先は義経の物語となりますので、今日のお話はこのへんで・・・。
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2007年1月 3日 (水)

ジョン万次郎の帰国

 

嘉永四年(1851年)1月3日、ジョン万次郎こと中浜万次郎が、十年ぶりに祖国・日本の土を踏みました。

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万次郎土佐国藩多郡中ノ浜漁師の次男として生まれます。

彼としては、ごく普通に、きわめて平凡に、父の漁業の手伝いをして、そのまま普通に漁師になるはずでした。

しかし、天保十二年(1841年)、万次郎14歳の冬、万次郎の運命は大きく変わるのです。

知り合いの船に雑用係として雇われ、四国沖で延縄漁のお手伝いをしていたのですが、出航して2日めの1月7日急に風が強まり、徐々に船は流され始めます

波風はどんどん強まり、船は木の葉のように揺れ動き、漂流7日めにして、やっと船は無人島(鳥島)にたどりつきました。

乗組員は全員で五人・・・船頭の筆之丞ふでのじょう36歳)、その弟・重助(23歳)、三兄弟の末っ子・五右衛門(15歳)寅右衛門(24歳)、そして万次郎です。

幸いにも、五人とも無事でしたが、鳥島は草木も生えない絶海の孤島・・・そこで、島に群生するアホウドリを食べ飢えをしのいでいました。

ちょうど、その時代はアメリカの捕鯨が最盛期を迎えていた時代で、多数のアメリカの捕鯨船が、太平洋を行き交っていたので、何度か、遠くのほうに船の影を見つけ、大きく手を振り叫んだりもしましたが、なかなか見つけてはもらえませんでした。

そんなある日、近くを通ったアメリカの捕鯨船=ジョン・ホーランド号が五人に気付き、ようやく4ヶ月ぶりに救助されるのです。

やがて、五人を乗せたまま捕鯨を続けていたホーランド号は、燃料補給の基地であるハワイホノルルに到着します。

ここで、五人は健康診断などを受けるため、一旦医師に預けられますが、ホーランド号の船長は、乗組員の中で一番年下だった万次郎をとてもかわいく思って、別れ難い思いにかられていたのです。

それに、船内での様々な仕事の手伝いぶりの中に垣間見えるその聡明ぶりにも興味を抱いていました。

そこで船長は、一番年上の筆之丞の了解を得て、万次郎をアメリカ本土へ連れて帰る事にします。

1年半の航海の後、ホーランド号の母港に到着し、万次郎はアメリカ本土・マサチューセッツ州に上陸します。

この日から万次郎は、船の名前と自分の名前を足したジョン・マンという名前で呼ばれ、船長に我が子のようにかわいがられます

塾に行って英語を学び、やがてパートレット・アカデミーに進学して、2年半の在学中、数学や造船・航海術まで、最新の技術を習得して優秀な成績で卒業します。

その後、捕鯨船の乗組員をしたり、金山で働いたりしていましたが、数年後、船長の勧めもあって、ハワイに戻り、筆之丞たちと再会し、日本に帰るダンドリを決める事にします。

五人のうち、重助はすでに亡くなり、寅右衛門はハワイに残ると言うので、伝蔵(筆之丞から改名)と、五右衛門、万次郎の三人で、1850年の12月ホノルルを出発したのです。

そして、翌年の嘉永四年(1851年)1月3日万次郎は10年ぶりに帰国・・・沖縄に上陸しました。

その後、沖縄から鹿児島へ移送された三人は、薩摩藩で大歓迎を受けます

特に、アメリカ本土で造船・航海技術を学んできた万次郎には、新し物好きの藩主・島津斉彬が、藩士の中から精鋭数名を選び、技術指導もやってもらっています。

しかし、当時の日本は鎖国中。

外国を見てきた者は、長崎へ送られ牢に入れられるのが規則でした。

翌年の10月、やっと牢から開放され、12年ぶりに故郷の中ノ浜に帰ることができたのです。
(この頃の河田小龍との交流については小龍さんのページで>>

「これで、やっと落ち着ける・・・」と思いきや、すぐさま土佐藩を通じて幕府に呼び寄せられるのです。

そうです。

嘉永六年(1853年)6月・・・ペリーが黒船に乗ってやってきたのです。(6月3日参照>>)

その年の11月5日に、万次郎は幕府直参の旗本に抜擢され、名字・帯刀を許され中浜万次郎となります。

時代は、オランダ語や中国語ではなく、英語を必要としていたのです。

それからの万次郎が、アメリカとの外交交渉に重要な役割を果たした事は言うまでもなく、安政七年(1860年)に、勝海舟が艦長となり咸臨丸(1月13日参照>>)“遣米使節”が渡米した時にも、通訳として乗り込み、再びアメリカの地を踏んでいます。

維新後は、現在の東京大学の前身・開成学校の教授にも抜擢されています。

日本の一大転換期に、グッドなタイミングでアメリカから帰国した万次郎・・・神様のイタズラにしては、あまりにナイスなストーリー展開ですね。
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2007年1月 2日 (火)

鳥羽・伏見の戦い勃発!

 

慶応四年(1868年)1月2日、この日、幕府+諸藩の連合軍が挙兵し、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月の大政奉還(10月14日参照>>)で、幕府中心の共和国政治を考えていた15代将軍・徳川慶喜の思惑は、同じ年の12月の大政復古の大号令(12月9日参照>>)でぶっ潰され、幕府を蚊帳の外にはじいた天皇中心の新政府の誕生となりました。

しかし、慶喜自身はそれでも、まだ、戦争をするつもりはありませんでした。

薩長合わせても百万石、朝廷にいたっては四万石の力・・・・これに対して徳川家は、未だ八百万石ともいわれる規模の領地を所有していたからです。

しかも、300年間という間、国政を荷ってきた政治のノウハウは幕府しか持っていませんから、今の朝廷には、政治などできる力なんて無い状態だったでしょう。

「気長に待っていれば、そのうち泣きついてくるに違いない」
慶喜はそう思っていました。

実際、大政復古の大号令の時に決まった幕府の領地返上や、慶喜の冠位剥奪などは、実行されることなく、宙ぶらりんの状態のままズルズルと時が過ぎ、一部の公卿の中からは、「慶喜が折れて上京するなら、徳川の復権を考えてもいい」との意見まで出るようになります。

しかし、“討幕”を譲れない薩長は、ここで幕府をたたき潰さなければ、いつか幕府主導のもとの状態に戻ってしまうのでは?と思い、何とか今の波に乗って討幕実現へと考えます。

そこで、薩摩藩の西郷隆盛は、「島津家の出身で13代将軍・徳川家定の奥さん・天璋院(てんしょういん・篤姫)の護衛」と称して、江戸に島津家の浪士たちを集め始めます。

そして彼らに、江戸市中のあちこちで、旗本や会津・桑名などの幕府側へ向けてのテロ行為を行い、騒ぎを起こさせるのです(12月25日参照>>)

西郷の思惑通り、そのテロ行為に怒りまくる幕府側の兵士たち・・・その勢いを、慶喜も押さえる事ができず、とうとう慶応四年(1868年)1月2日に、『討薩ノ表』という薩長に対しての「宣戦布告」の書状を、朝廷に提出するために、幕府軍1万5千が京都に向かって大坂を出発するのです。

Hasimotocc 2日の夜、淀と伏見に宿泊した幕府軍は、翌3日、淀を出発、鳥羽街道を北にむかって進みます。

そこに、淀川の向こう岸から薩摩藩兵による砲弾が打ち込まれ、あたりは大混乱。

かたや伏見方面でも、伏見奉行所に砲弾が打ち込まれ、ここに鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られました(1月3日参照>>)

鳥羽伏見の戦いは、最終的には9日の大坂城開け渡し(1月9日参照>>)まで続きましすが、結局この間、幕府側の大将である慶喜は「風邪気味」と称して大坂城を一歩も出ず、幕府の敗戦を聞くなった6日の夜遅くに大坂城を脱出し、江戸へと帰ってしまいます(1月6日参照>>)

と、書けば慶喜さんずいぶんとカッコ悪い感じですが、この時、挙兵しても幕府には何の得にもならないわけし、慶喜さんは、最初っから挙兵には反対でしたから「朝廷の弱い部分が露出するまで、待っていたほうが良い・・・時間を稼ぎたい」という考えもあったのではないでしょうか。

ところが、敵もさるもの・・・この間に討幕側は、密かに製作させた“錦の御旗”を、朝廷から授かります。

Tobafusimimihata この“錦の御旗は、岩倉具視のもとに出入りしていた学者・玉松操(2月15日参照>>)がデザインし、薩摩藩の大久保利通が長州藩の品川弥二郎を通じて山口の職人に製作させた物・・・。

朝廷が・・・というよりは、完全に薩長主導の策略でした。

 

戦時下に置いて“旗”という物は、平常時の想像以上に重要な物なので、討幕派が“錦の御旗”を掲げることによって、幕府軍はお国にはむかう“賊軍”となってしまうわけです(1月5日参照>>)

当然、『日本の天下=徳川幕府』と、思って戦っていた兵士たちの士気も下がり、まして大将・慶喜の敵前逃亡・・・風は一気に維新に向かって吹き始めるのです。
 

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2007年1月 1日 (月)

ぶろぐ河原の落書~新年のごあいさつ

 

この頃 都にハヤル物
脳トレ 品格 イナバウアー
 

諸国 談合 天の声 北のアノ人核実験
謹厳実直 報われず 僅かな勝ち組 幅きかす
 

いじめ自殺が連鎖して 伸びる若葉が死に急ぎ
愛国心と言うワリに 世界の歴史を教えない
 

民意を問うた郵政も 刺客 出戻り 入り乱れ
生の意見を聞くはずが 台本通りの役作り
 

獲らぬタヌキの年金は 荒唐無稽な空論で
出口の見えない不況にも イザナギ景気と言う始末
 

暗中模索の一年も 明けたからには心機一転
時節到来 意気揚々 勇猛果敢に猪突猛進

・‥…━━━☆

まずは、建武の新政を風刺した“二条河原の落書”っぽく、昨年の世相を振り返り、新年のご挨拶とさせていただきました~。

Akeomecc

では、あらためて新年のご挨拶を・・・
あけましておめでとうございます
今年も【今日は何の日?徒然日記】を宜しくお願いいたします。
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豊臣秀吉・1月1日誕生日説

 

早速、新年一発めの、【今日は何の日?】という事で・・・今日1月1日は豊臣秀吉の誕生日って事になってますが、これはちょっとアヤシイ・・・(実際には2月9日だという説が有力です)

・‥…━━━☆

そもそも誕生日を祝うという風習は、この日本ではけっこう最近の物・・・近代に入ってからの風習です。

仏教的な考え方だと、この世に生まれ出るのは修行のためで、現世で徳を積んだ人は、ずっと極楽で過ごせるわけですから「この世への誕生がめでたい」というのは、やはり西洋文化が入ってきてからの考え方だというのがわかります。

そーゆ-わけで、昔の人はあんまり誕生日にこだわってなかったので、歴史上の有名人でも生年が不明に人が多々いるわけです。

ましてや、豊臣秀吉は武家の出身ではありませんし・・・その出自も、はっきりとはわからないのです。

しかしなぜ“1月1日生誕説”なるものが囁かれるようになったか?を考えてみますと・・・おそらく、江戸時代の徳川幕府への風刺からではないかと思います。

いつの世も、時の政治に不満があるものです。
まして、豊臣への圧迫がきびしい江戸時代。

徳川への庶民の不満が、前時代の国民的英雄=太閤・秀吉を、より理想の人物へと作り変えていった・・・「もし、豊臣の天下だったらもっと良かったのでは?」という人々の期待や希望が現れたもの・・・それが“豊臣秀吉1月1日誕生説”なのではないでしょうか。
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