木曽(源義仲)の最期
寿永三年(1184年)1月21日、源頼朝の命を受けた源義経と戦った木曽義仲が琵琶湖のほとり・粟津で敗死しました。
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怒涛のごとく、宇治川を越えてきた義経軍(ブログ:1月17日参照)に、押されっぱなしの義仲軍。
おりしも、反目している叔父・行家を討つため、乳兄弟の樋口次郎に兵をつけて送り出したばかりで、義仲軍は手薄でした。
何万という鎌倉からの大軍に、わずかな手勢の義仲軍が太刀打ちできるはずもありません。
徐々に後退する義仲軍に対して義経軍は御所の警備も固め始め、六条河原のあたりでとうとう義仲軍は散り散りになってしまいます。
大将・義仲に従う兵はわずか七騎。
もちろんその中には、ある時は兄と妹、ある時は恋人、そしてある時は一騎当千の武者として片翼をサポートした女武者・巴御前もいました。
・・・と、ここで、義仲に残された選択は二つ・・・。
西海へ落ち延びて平家と手を結ぶか、丹波路から北陸へ落ち延びて地元で再起を計るか・・・この時点ではまだ、こっそりと敗走して生き延びる事ができたかも知れません。
しかし、義仲はどちらも選ばず、なぜか瀬田に向かうのです。
その理由は・・・(少し長くなりますが・・・)
この京に攻め込むにあたって義経が「敵は宇治と瀬田の橋を壊して防戦するだろう」と言って自分もそれに対抗するため宇治と瀬田に兵を向けた事は先日のブログ(1月16日参照)で書きました。
その予想通り義仲も、自分が大将を務める宇治に500騎と、もう一方瀬田に800騎。
そして淀に300騎の軍勢を派遣し守らせていました。
その瀬田を守る軍勢の大将を務めていたのが、今井四郎兼平だったのです。
兼平は、義仲が2歳の時預けられた中原兼遠の息子で巴御前の兄です。
木曽の山で、ともに乳兄弟として育った兼遠の子供たちの中で、義仲に一番年齢も近く、一番仲が良かったのが、おそらく兼平だったでしょう。
そうです。
義仲は瀬田に向かわせた兼平の事が心配で、西へも行かず、北陸へも落ち延びず、瀬田に向かったのです。
(私の心の声・・・アカン、この時点でもう涙が出てきそうや・・)
二人は奇跡的にも大津のあたりで再会します。
兼平も瀬田の守りを破られ、八百余りだった軍勢が50騎ほどになり、やはり義仲の事が気がかりで、京に向かっていた所だったのです。
「本当はあの六条河原で戦ってた時点で討ち死にするのが武将としてはカッコ良かったかも・・・なんだけど、死ぬ時は一緒だ!って木曽を出る時に、お前と言ってたのを思い出してさ。それで、敵に背を向けてここまで逃げて来てしまった・・・俺ってカッコ悪いかな?」
義仲は、兼平の手を取ってそう言います。
兼平も「どんでもない、俺も同じですよ。心配でここまで逃げてきたんですから・・・へぇ、そっちも俺の事心配してくれてたんだ・・・うれしいな」と、再会を喜びます。
「ここで、こうして再会できたって事は、ひょっとしたらまだ、俺らにチャンスがあるかもしれないな。お前の持ってる旗をたてて合図しよう。散り散りになった軍勢が集まるかも知れない」
そして、今井の旗を高く差し上げると、どこからともなく300騎程の軍勢が再び集結しました。
「よし!これなら何とか都を突破できるかもしれない!」
しかし、当然の事ながら、敵も近くへやってきます。
やがて、目の前に現れたのは、甲斐の一条次郎の軍勢、6千騎。
「今まで、聞いた事はあっても見た事はなかっただろ?
今、お前らの目の前にいるのが左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲(さまのかみけんいよのかみあさひしょうぐんみなもとのよしなか)である。
命が惜しくない者は、この義仲を討ち取って頼朝への土産にしろ!」
そう名乗りをあげて、木曽軍300騎は敵軍に向かって駆け込んでいきました。
そこを、何とか突破し、次に待ち構えていた土肥次郎実平の2000騎も突破していくうち、さすがに多勢に無勢・・・徐々に兵の数は減り、いつしか義仲に従う者はわずか5騎になってしまいました。
その中にはまだ、巴御前が残っていたのです。
義仲は巴に言います。
「お前は女だから、早く今のうちに逃げろ」
当然、巴は逃げる気などありません。
「生きるも死ぬも一緒と誓った仲じゃない!兄貴もいるのに、なんで女だからって私だけ逃げなくちゃいけないの?」
「お前は、男と同等のつもりでも世間はそうは思わない。木曽は命が惜しくて最後まで女を盾にした・・・と、何年経っても言われるだろう。それでも、良いのか?」
何度も首を横に振る巴でしたが、あまりにきつく義仲に諭され、最後には心を決めました。
「では、木曽殿にお見せする最後の戦・・・はなむけに名のある武将をひとり討ち取って、その足で逃げる事にします。」
そうしているうちに、武蔵の国で力持ちで有名な恩田八郎師重(源平盛衰記では内田三郎家吉になっています)が30騎余りの兵を率いて現れます。
巴は、颯爽とその中に突入して、師重と一騎打ち、相手を馬から引きずり下ろし首をねじ切って投げ捨て、そのまま鎧兜を脱ぎ捨てて、走り去って行きました。
やがて、手塚太郎が討ち死に、叔父の手塚別当とははぐれてしまい、いつしか義仲と兼平の二人になってしまいます。
赤く染まった夕陽を背に、静かに波打つ琵琶湖の湖面を見つめながら、義仲は兼平にそっと話かけます。
「いつもは何とも思わない鎧が、今日はいやに重いなぁ・・。」
「気弱な事を言うなよ。たった1着の鎧が重いはずがないだろ。この兼平一人が千騎に相当する思ってくれ。幸いまだ矢が7・8本残っている・・・これで応戦するから、あの松原の影で心静に自害を・・・」
見ると、琵琶湖のほとり、粟津の松原が広がっていました。
しかし義仲は、あの故郷で、ともに源氏の天下を夢見て育ち、生きるも死ぬも同じ場所でと誓って木曽を出た兼平をひとり置いては行けません。
「最後まで戦って、ともに討ち死にしよう」と言います。
・・・が、乳兄弟で育ったとはいえ、片や源氏の大将、片やその家臣・・・
「大勢の敵に囲まれ、お互いが引き離されて、大将が名も無き者の手にかかって果てるのは家臣の恥である・・・大将軍にふさわしい死を・・・」と願う兼平に説得されて、義仲はひとり松原の方へ馬を進めます。
そこへ、新手の軍勢が50騎ばかりやってきます。
兼平は、残りの矢をつがえながら応戦し、またたく間に8騎程を討ち取ります。
「我こそは、四天王のひとり、木曽殿の乳兄弟・今井四郎兼平である」
これを聞いて、敵は兼平を遠巻きにて後ずさりするばかり。
その間に義仲は一人で、粟津の松原へ馬を駆け込ませました。
しかし、真冬の夕暮れ時、薄氷が張った下に泥田があるのに気付かず、うっかり踏み込んでしまいます。
泥田にはまった馬は前へも後ろへも行けず、どうやっても動きません。
そんな時ふと、義仲は「兼平はどうしただろう・・」と、気になって後ろを振り返ります。
そこへ、飛んできた一本の矢・・・
その運命の矢は、振り返った義仲の額を討ちぬき、ここに兼平が願った朝日将軍の将軍らしい死を迎える事はできなかったのです。
三浦の石田次郎の家来二人が進み寄ってその首を落とし、太刀の先に刺し高く掲げて叫びます。
「長きに渡り、剛勇の誉れ高き木曽殿を討ち取ったぞ~」
その声を聞いた兼平・・・。
「もはや、誰かをかばって戦う必要もない。お前ら見ておけ!日本一の勇者が自害する手本だ!」
と、言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに飛び落ちて、壮絶な最期を遂げたのです。
平家打倒を夢見て木曽の野山を駆け回った少年時代(ブログ:8月16日)
「死ぬも生きるも一緒に」と誓って出陣したあの日(ブログ:9月7日)
倶利伽羅峠で平家の大軍を打ち破って、(ブログ:5月11日)
意気揚々と入った京の都(ブログ:7月28日)
天下を治めた過去の華々しい姿から一転
『今井四郎・・・貫かれてぞ、失(う)せにけり、さてこそ粟津の軍(いくさ)はなかりけれ』
木曽軍の最後の一兵・兼平の死をもって、『平家物語』における木曽の戦記は終りを告げるのです。
大好きな木曽義仲の事・・・思い入れが多く長々と書いてしまいました~。
最後まで読んでくださったかた・・・ありがとうございました。
*今回のページは『平家物語』を中心に書かせていただきましたが、『源平盛衰記』をベスにした2008年1月21日の【巴御前~木曽義仲からの最後の使命】もどうぞ>>
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コメント
なんか、ところどころ解釈間違ってないですか? 戦に望む前から彼らはここを死に場所にえらんどったんですよ?
投稿: 学校で木曽最期やった人 | 2008年11月18日 (火) 23時50分
学校で木曽最期やった人さん、コメントありがとうございます。
まず、このサイトは歴史のサイトであって歴史学のサイトではありません。
プロフィールのところにも書いておりますように、何に重きを置き、どのように解釈するかで、様々な考え方があって、答えがないのが歴史で、よほど逸脱しない限り、間違いとは言えないものだと思っています。
しかし、学問として学ぶ歴史学は、歴史研究者が出した答えを書かなければ正解にはなりません。
古文も同様です。
書物という物は、本来ならば、読み手の受け止め方次第で様々な感想があるものですが、学問として学ぶ場合は、どこかの教授が「筆者はここの部分で、こう言っているのだ」と言えば、試験でそのように答えなければ間違いになるのです。
もはや、「教科書に書かれている歴史がすべて正しい」と思っているかたは少ないでしょうが、学問の場合は、教科書通りに答えないと×になってしまいますから、学問としての歴史を学ばれるのであれば、研究者の論文や受験対策の参考書的なサイトをご覧になるのが良いかと思います。
ただ、学校で木曽最期やった人さんの・・・
>戦に望む前から彼らはここを死に場所にえらんどった・・・
という解釈には、とても興味があります。
どの部分で、そのように解釈されたのでしょうか?
平家物語の「木曽最期」では、義仲は粟津の松原に入る直前まで「六条河原にていかにもなるべかりしかども、汝と一所でいかにもなり候はんためにこそ、これまではのがれたれ。一所でこそ討死をもせめ」と言い、それを兼平が「・・・ただ理を曲げて、あの松の中へ入らせ給へ」と説得してるように見えるのですが・・・
何か別のソースからのご解釈でしょうか?
是非とも、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
学校で木曽最期やった人さんのご意見で、私の意見も変わるかも知れませんので・・・ワクワクo(*^▽^*)o
投稿: indoor-mama | 2008年11月19日 (水) 05時48分