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2007年1月 9日 (火)

本能寺の変と堺の関係

 

永禄十二年(1569年)1月9日、織田信長が軍資金を要求し、抵抗した三好三人衆を追い払い、堺の町を攻撃しました

・・・・・・・・・・・

前の年の9月に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長(9月26日参照>>)

京の町での織田軍は紳士的な態度でけっこう評判が良く、上洛後1ヶ月で畿内をほぼ傘下に治めます。

そんな信長が目を着けたのが、賑わいをみせる堺の町でした。

堺は当時、“会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちの代表者による自治で運営されている独立国家のような物でした。

鉄砲の製造も独占状態、経済発展を続ける堺の町を傘下に治めれば、膨大な税を徴収する事ができます。

そこで信長は、永禄十一年(1568年)の10月2日堺に対して軍資金・2万貫を要求します。

もちろん、堺の町もすんなり受け入れるわけにはいきませんから、大筒を用意して抵抗の姿勢で構えます

そこで、堺の抵抗に便乗した三好三人衆(9月29日参照>>)京都を攻撃しますが、逆に撃破され三好三人衆は阿波に敗走します。

そして、永禄十二年(1569年)1月9日信長は堺の町全体を包囲し、攻撃を仕掛けたのです。

さすがの町衆も、もはやこれまでと服従を決定し、要求通りの2万貫を差し出しました。

その後は、信長と堺の町は、持ちつ持たれつギブアンドテイクで、表面的には良い関係が続いていくわけですが、堺の町衆の心の奥底には、信長はどのように映っていたのでしょうか?

この騒動の後、信長に接近してくる堺の実力者・今井宗久(そうきゅう)の誘いで、信長は“茶の湯”の世界に目覚めます。

それまで、これと言った趣味を持っていなかった信長でしたが、この頃から茶の湯・・・特に“名器集め”に没頭するようになるのです。

もちろん、当時、茶の湯は、高貴な人たちのたしなみ・・・ステータスでした。

かつて、平家を西へ追いやって上洛を果たした源氏の大将・木曽義仲がそうであったように、さすがの信長も、京に上って以来、公家や都人へのコンプレックスを少しは感じていたに違いありません。

それを、跳ね除けるためにも、最先端の文化を身につけ、天下の名器を持つ事で、天下を握る実力者である事を証明したいという気持ちもあったのかも知れません。

しかし、今でもそうですが、美術品・骨董品の類の収集というのは、金さえ出せば良いという物ではありません。

譲る側と譲られる側にある種の仲間意識、価値観の共有がなされてこそ、「良い買い物をした」という気持ちになる物です。

バブル景気に世界の美術品を買いあさった光景に、眉をひそめた人も多いはず・・・。

この時の信長の名器集めは、まさにそのような収集の仕方だったのです。

金と武力に物を言わせて強引に手に入れる・・・これを、堺や京の茶人は「名器狩り」と呼んで恐れていたと言います。

もちろん、面と向かっては言えませんが・・・。

信長は、そうやって集めた名器を、茶会を催しては自慢げに披露したり、恩賞として家臣に与えたりしていたとか・・・。

実はこの事があの本能寺の変に深くかかわってくる事になるのです。

戦国最大の謎とも言われる本能寺の変(6月2日参照>>)ですが、もちろん実際に手を下したのは明智光秀でしょう。

あれだけの文献が残っている以上、その事は、ほぼ、まちがいないところでしょうが、ここで、一番問題となるのが、なぜあの日、信長は僅かな供のものだけで本能寺にいたのか?という部分です。

無防備だったからこそ、家臣である明智光秀にあっさり攻め込まれるわけですから・・・もし、あの日いつも通り信長が安土城にいたなら、とても攻め落とせるものではありません

少ない手勢の本能寺だからこそ成しえた謀反です。

もちろん、最初に信長を安土城から信長を引っ張り出そうとしたのは豊臣(羽柴)秀吉です。

信長にとって最大の敵である武田を倒し、残る強敵は毛利・・・となっていた当時、4年間も中国地方を攻めあぐねていた秀吉が、信長の出陣を要請したため信長は腰をあげたのです

早速、出陣準備に取り掛かり、その兵の準備が整うのは6月の5~6日の予定・・・・なので信長も、兵の準備が整い次第、大軍を従えて出発するはずだったのです。

だからこそ、家臣・光秀に「一足先に秀吉のもとへ駆けつけるように」と、出陣命令を出していたわけです。

ところが、なぜか大軍の準備を待たずに、わずかな手勢で京都・本能寺へ5月29日にやってくるのです。

ご存知のように本能寺の変のあった日、その数時間前、本能寺で信長主催の茶会が開かれていたわけですが、そこに堺の豪商たちに混じってある人物が出席していました。

それが、博多の豪商・島井宗室(そうしつ)という人物。

実は、当時天下の三大名器と呼ばれた『初花(はつはな)』『新田(にった)』『楢柴(ならしば)という3つの茶入れがあったのですが、名器集めに没頭していた信長は、このうち二つ『初花』と『新田』を持っていました。

そうです、残り一つの『楢柴』を持っていたのが島井宗室だったのです。

当時、大陸やらフィリピンやらと手広く貿易を営んでいて、博多の三傑の一人と称されていた宗室は、結局は、6月2日の本能寺の変に遭遇し、兵火がまさに茶室まで及ぼうという瞬間に、命からがら脱出に成功して、その後、博多へと戻っているのですが、その宗室の京都滞在が6月2日までの予定だったのだとか・・・

ひょっとして、宗室の京都滞在が2日までだという事を知った信長が、茶入れの一件から、どうしても宗室とコンタクトを取りたくて、あわてて京にやってきて、本能寺でこの日に茶会を催した・・・とは考えられないでしょうか?

数ある本能寺の変の黒幕説には、“千利休+堺の商人・黒幕説”というのもあります。

計算ずくで、手薄な警備の信長を京都へおびき寄せ・・・という事なのですが、私、個人的には、堺の商人と光秀の関係が、ちと薄いのではないか?と思うのですが・・・。

ただ、光秀に謀反のきっかけを与えた・・・という事なら、堺の商人黒幕説も無きにしも非ず・・・というところでしょうか。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

 茶々さん、こんばんは!

今回もとても詳細な記事で驚嘆!しました~素晴らしいですね!

 >堺の商人と光秀の関係が、
 >ちと薄いのではないか?と思うのですが・・・

なるほど~、そうですね、私もそう思います。
また、「楢柴」の件も興味深いですね、う~ん。

 仰るとおり、今井宗久、津田宗及、千利休~と豪快(?)な茶人が力を持っていたように、戦国の茶の世界は重要な役割を歴史に刻みましたね~。

信長もまさに茶に魅せられた人物でした。
あの有名な松永久秀が古天明平蜘蛛(平蜘蛛の茶釜)を信長から死守した出来事も印象的。

 謎だらけの「本能寺の変」ですが、光秀の単独犯説はかなり薄らいでいますので、はたしてその「黒幕」は~?と、ホント、龍馬暗殺に並ぶ歴史のミステリーですね!

投稿: ルーシー | 2007年1月 9日 (火) 22時38分

四条堀川の本能寺跡近くで生まれ、祖母は、丹波出身、堺で商売をしたことがあり、本能寺跡の堀川高校の立替工事を携わり、
そして、今、大山崎で暮らしています。

光秀については、秀吉?に歴史が書き変えられて正しい情報が分からない部分もある
非常に謎の多い人物ですね。

投稿: you_saku | 2007年1月10日 (水) 00時42分

ルーシーさん、こんばんは~。
コメントありがとうございます。

>あの有名な松永久秀が古天明平蜘蛛
>(平蜘蛛の茶釜)を信長から
>死守した出来事・・・

それもありましたね~。

それにしても、この頃の茶の湯の影響は「紳士のたしなみ」を越えてる気がしますね。

なぜ、そんな風になったのか・・・もっと知りたくなってきました~。

投稿: 茶々 | 2007年1月10日 (水) 00時55分

you_sakuさん、こんばんは。
ご訪問、そしてコメントを残していただいてありがとうございます。

そうですか?大山崎に住んでおられるんですか?
私も先日、天王山へ登って参りました。

足利義昭から信長の家臣へ・・・と、突然歴史上に登場する光秀さん、その謎めいた部分がまた、魅力でもあるんですよね~。

投稿: 茶々 | 2007年1月10日 (水) 01時20分

転換点となった本能寺の変。最近の大河での事件の背景を整理してみました。
「秀吉」では家康陰謀説。
「利家とまつ」では秀吉加担説。
「功名が辻」と「天地人」は光秀単独犯。
今年もおそらく単独犯説でしょうか?
今夜から日曜の夜が楽しみですヽ(´▽`)/。

閑話休題
朝日新聞夕刊で信長の父・織田信秀が主人公の、「青銭大名」が今週から連載されます。作者の談話では織田信秀は温和な人だそうです。こちらも楽しみ。

投稿: えびすこ | 2011年1月 9日 (日) 09時14分

えびすこさん、こんにちは~

本能寺は戦国最大の見せ場ですからね~
どのように描かれるんでしょうか。
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2011年1月 9日 (日) 10時03分

こんばんは~

光秀の茶の湯の師匠の津田宗汲は堺の豪商だったんですね~

愛宕山連歌会に出席していた連歌師、里村紹巴は公家や利休、家康とも親交があったようですね。

共謀の中にもまた色々な力関係やさらなる共謀があったのでは?とあれこれ考えてしまいますね~

私はもうほとんど、光秀天海説を信じかけています。
春日の局が天海に会ったとき、『お久しゅうございます』と言ったとか...

話が逸れますが、光秀の愛妻家エピソード、嫁妹への対応と相手親への手紙、それから髪を切り客をもてなすしてくれた妻への誓い、こてこてな感もありますが、たまりませんね~!
松尾芭蕉が門弟宅で夫人に懇切にされたのを
『月さびよ
明智が妻の
はなしせむ』
と詠んだとか。

いいですね、おしどり夫婦。
ではでは

投稿: ダル田ニャン | 2013年4月 7日 (日) 21時06分

ダル田ニャンさん、こんばんは~

おっしゃる通りコテコテですが、髪を売るエピソードはイイですね~
私も、つい挿絵を描いてしまいました~

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 02時58分

いつも楽しく又多くを学ばして頂いております。
お茶を濁す内容かも知れませんが、本能寺の変の真相究明の一助になるかと思い投稿させて貰いました。

大本教の書物に三鏡というのがあって「千の利休は明智光秀」が書いてました。

千の利休といふ人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆(もろ)くも敗れて、つひに名もなき一土兵(いちどへい)のために竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝へられてあるがあれは嘘である。天王山(てんのうざん)の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知してをつたが、光秀は将士のたびたびの迎へをうけながら、わざとグズグズしてゐて、つひに勝ちを秀吉に譲つたのである。実は疾(と)くに光秀と秀吉との間には妥協が成立してゐたのである。聡明なる光秀は、たとへいかなる事情があつたにもせよ、いつたん主(しゆ)殺(ごろし)の汚名を着たものが、天下の将軍となつても永続きがせぬといふことをよく承知してゐて秀吉に勝ちを譲つたのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩(はぎ)の枝折戸(しをりど)四畳半の中にあつて、天下の大事を論じ、謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして秀吉を太閤(たいこう)の地位まで押しのぼしてしまつたのである。彼は実に秀吉の好参謀であつたのである。朝鮮征伐なども、彼の献策(けんさく)に出たものである。茶室に這入るには丸腰となつてにじり口より入(い)らねばならぬ。元亀(げんき)天正(てんしやう)時代の荒武者を制御操縦するに、もつて来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であつた。後(のち)彼は娘の美貌が禍(わざはい)の因(いん)をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝へられてゐるが、全く跡形もないことである。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分からぬ。
 筆者がこのお話を伺つて、あるときのこと二三の方々(かたがた)にお話して居りました、たまたま座に岡山の太田栄子夫人が居られて、この話を裏書きする面白い物語をせられましたので、左(さ)に御紹介致します。
 太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」といふことを承はつて、それを師匠(お茶の先生)の名倉(なくら)某氏に話されたさうです。さうすると名倉(なくら)氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎(ゑんのうさい)氏)に話されました、すると円能斎(ゑんのうさい)氏の顔色(かほいろ)がサツと変はつてしばらくは物もいはれなかつたさうですが、太い吐息(といき)と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分かつたのですか」といふことであつたといふことです。そして、更に語をついで、「そのことこそ、千家(せんけ)に伝はる、一子相伝の大秘密であつて、後(あと)を嗣ぐ長男のみが知つて、次から次へと言ひつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無いはずです。どうしてそれが分かつたのでせう」と聞くので、名倉(なくら)氏は「霊覚によつて分かつたのです。丹波の国綾部町(あやべちやう)に、大神通力を供へた聖者がありましてその人の霊覚によつて、その秘事(ひじ)が分かつて来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎(ゑんのうさい)氏はいたく驚き且(かつ)感じ入(い)り、つひに執事を派して綾部に参拝せしめ、次いで自らもまた参拝せられたさうですが、深くこのことを秘して人に語らなかつた。名倉(なくら)氏もまた秘してしまつたのですが、不思議なことには三人が三人共、相(あひ)前後して同じ心臓病のため倒れてしまつたさうです。
 太田夫人は「これは秘してはならぬと思ひ、皆さんにお話して居ります」と語られました。一座のものはこれを聞いて、今更の如く驚き、聖師様の称(たた)へ尽くせぬ御霊覚のほどを感じ入(い)りました。そして聖師様がもし、この霊覚によつて訂正さるるならば、世界の歴史もずいぶん変はつて来るかも知れないと思ひました。

投稿: 右近 | 2016年4月11日 (月) 13時15分

右近さん、こんばんは~

おもしろいお話ですが、まだ光秀が生きている時の利休との兼ね合いについては、そのお話の中では、どういう解釈になっているのでしょうか?

信長は天正3年(1575年)10月28日に京都の妙覚寺にて催した茶会で利休を茶頭に指名していて、それをキッカケに利休は信長のお気に入りとなり、茶人として出世していくわけですが、ご存じのように、この頃の光秀は、信長から丹波の平定を任されていて黒井城や八上城の攻防戦に攻め手の大将として出陣しています。

これは、当時は別人(二人いた)という事なのでしょうか?それとも、一人の人物が、ある時は茶人で、ある時は家臣として、名を変えて信長の前に登場していたという事なのでしょうか?

もちろん、これだけではなく…
たとえば、山崎の合戦の時も、光秀が勝龍寺城へと逃げ込んで勝敗が決したと同時刻に、近くの妙喜庵で待機していた利休が、秀吉が陣を敷く宝積寺へとおもむいて「戦勝のお茶席を用意しております」と接待してますが、これは別人なのでしょうか?
同一人物だとすると、戦場の北東側へ逃げた光秀が、瞬時に利休となって戦場の南西側から登場した事になりますが…

もちろん、「そのような記録自体が『光秀=利休』という事実を隠すためにねつ造された史料なのだ」という事でしたら仕方ないですが…

投稿: 茶々 | 2016年4月12日 (火) 01時40分

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