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2007年2月28日 (水)

島原の乱・終結

 

寛永十五年(1638年)2月28日、反乱軍がこもっていた原城を、幕府軍が総攻撃!島原の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・・・

寛永十四年(1637年)の10月、救世主・天草四郎をリーダーに祭りあげ、農民による代官殺害事件をきっかけに勃発した島原の乱(10月25日参照>>)

士気の上がる反乱軍でしたが、やはり相手は戦いのプロ・サムライです。

なかなか敵の城を攻め落とせないため、やがて、反乱軍は原城に武器や食糧を運び込み、籠城する作戦をとり始めました。

島原藩は島原藩で、戦いのプロが素人を相手にしてるワリには、防ぐ一方で相手に打撃を与える事ができず、ちょっと手こずり過ぎです。

このあたりで、「やっぱ島原藩だけでは、乱の鎮圧はムリ」・・・と判断した幕府は、この頃になってやっと思い腰をあげ、11月9日板倉重昌石谷貞清を中心とした幕府の反乱鎮圧軍を派遣したのです。

そして、12月5日、いよいよ原城に最初の総攻撃をかけます。

立てこもる反乱軍の数は2万7千。

しかもそれは女・子供も含まれた数で、その中で武士と言えば旧・小西の家臣のわずかだけ。

対する幕府軍は五万の大軍でした。

・・・にもかかわらず、反乱軍は城を防ぎきります。

20日に、もう一度、総攻撃をかけますが、これも失敗

幕府軍は、大量の死傷者を出してしまいます。

明けて正月元旦3度目の総攻撃

今度こそ3度目の正直!とばかりに、一気に城を落とす作戦にでますが、指揮を執っていた板倉重昌が鉄砲で撃たれ即死。

石谷貞清も負傷し、死傷者4千人という大打撃を被ってしまいます。

そこへ、駆けつけてきた幕府の援軍・松平信綱(3月16日参照>>)戸田氏鐘という二人のおエライさん。

実は、彼らは援軍ではなく、乱の鎮圧後の処理をするために派遣された方々だったのですが、ここで散々たる結果を目の当たりにしたお二人さん。

乱後の処理どころか、鎮圧もされていないこの状況を見てさっそく方針転換

持久戦に持ち込んで、反乱軍の食糧がつきて士気が下がるのを待つ作戦に出ると同時に、九州の大名を総動員させる事にします。

この報告を江戸で聞いた三代将軍・徳川家光も、北九州一帯の大名に乱討伐に当たるよう命令を下します。

もはや、地方農民の一揆、食いぶちを失くした浪人の反乱の域を越え、幕府一丸となっての天下分け目の合戦の様相・・・鎮圧に向かう幕府軍は12万を越す大軍となりました。

ここらあたりで、イイところをアピールして、ポルトガルに一歩差をつけたいオランダまで幕府軍に加わり、海から最新鋭の大砲で、砲撃を繰り返します。

さすがに、これは、「国内の事にオランダ船動員は恥ずかしい」という武士たちの声が高まり、2週間程で中止されましたが・・・

しかし、そんな幕府軍に、必死に耐え抜く反乱軍。

たとえ、先導した者が食いぶちを失くした浪人であっても、宗教を軸に固まった民衆の力はスゴイ!

何せ彼らは、はなから殉教覚悟でやってますから・・・。

しかし、やはり、まわりを大軍に囲まれている以上、徐々に食糧や弾薬が尽きてくるのは当たり前です。

この状態を打開しようと、反乱軍は2月21日の夜、3千人が原城を出て幕府の陣に夜討ちをかけました。

もちろん、襲われた幕府軍にも多くの死者が出ましたが、圧倒的に数が勝る幕府軍を一度の夜討ちで崩せるはずはありません。

この夜討ちを、反乱軍の「ガマンの限界」と判断した松平信綱。

最後の総攻撃を2月28日にかける事を決定します。

しかし、総攻撃の前日、なぜか佐賀藩の軍隊が、突然攻撃を開始してしまったため、あわてて、幕府軍も全軍が一丸となって原城めがけて突っ込んで行っのです。

Simabara10cc_1 その激戦は翌日まで続き、寛永十五年(1638年)2月28日原城は落ち、ここに島原の乱は終結しました。

反乱軍は十字架を握りしめたまま、女性も子供も老人も、一人残らず討ち取られましたが、幕府側の被害も大きく、死傷者は1万人を越えたと言います。

しかし、3ヶ月も戦って、ここまで苦労したにもかかわらず、戦国時代の合戦ではなく、乱の鎮圧であったため、戦った者たちへの恩賞は、指揮をとった松平信綱が川越六万石、天草四郎の首を挙げた熊本藩士・陣佐左衛門(じんすけざえもん)が知行千石を賜ったのみで、他の者にはまったくありませんでした。

幕府を震撼させたこの乱はその後のキリシタンへの規制をいっそう厳しくさせる事になります(12月23日【切支丹禁止令と戦国日本】参照>>)

また、宣教師へのつながりが指摘されていたポルトガル人の渡航を禁止し、協力してくれたお礼なのか、オランダとだけ出島での通商を認め、幕府は鎖国への道を強化する事になります。

ところで、先日の島原の乱勃発(10月25日参照>>)の時、この乱を「一揆か?」「聖戦か?」というのともう一つ「浪人の反乱か?」と様々な見方がある事を書きました。

しかし、もう一つの見方もあります。

それは、島原の乱の22年前の大坂夏の陣・・・。

そのページで、炎の中、大坂城を脱出した豊臣秀頼は九州まで落ち延び、旧小西の家臣の保護のもと隠れ住んだという秀頼生存説なるものがある事を書かせていただきました(5月8日参照>>)が、実は、その秀頼の子供・・・つまり秀吉の孫が、かの天草四郎であったという話があるのです。

もちろん、これはかなり荒唐無稽な話で、いわゆるトンデモ切なわけですが、「もしも○○だったら・・・」という、妄想を掻き立てられる話でもあります。

もし、そうだとしたら・・・だからこそ、家光は幕府総動員で、徹底的に根絶やしにする必要があり、二度とこのような事が起こらないよう厳しい弾圧をしなければ安心できなかったという事になります。

また、この乱の後、島原藩主・松倉勝家は、江戸で斬首されています。

その罪状は「所領にて逆徒蜂起せしめた為」となっていますが、ひょっとしたら豊臣の一族を放置してきてしまった罪による物かも知れません。

そうなると、この島原の乱は、戦国最後の合戦・天下分け目の戦いであったとも言えるのですが・・・

3万7千人もの人が亡くなっているにもかかわらず、バチカンが彼らの死を殉教と認めない島原の乱は、いったい聖戦なのか?一揆なのか?それとも天下を狙う豊臣の逆襲だったのでしょうか?

大坂城落城の後には、子供たちの間で
♪花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて・・・♪
という、秀頼脱出を連想させる童歌が流行ったそうですが、私の実家は大阪城のすぐ近く・・・子供の頃は、「秀頼さんは抜け穴から逃げた」と、やっぱり噂してましたね。

とてもわくわくする話です。

ただし、秀頼は、身長190cm、体重が130kgくらいあった巨漢と言われていますので、少なくとも花のようではなかったとは思いますが・・・。>
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天草四郎の生存説については2009年2月28日のページでどうぞ>>
島原の乱のその後については2012年2月28日のページでどうぞ>>
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2007年2月27日 (火)

今日は新撰組の日

 

文久三年(1863年)2月27日は、新撰組の前身である「浪士組」が結成されたという事で、「新撰組の日」という記念日なのだそうです。

ちなみに、「新撰組」「新選組」

局長の近藤勇自身が、どちらの字も使っていたので、「撰」でも「選」でもどちらでも間違いではないのだそうです。

屯所の看板には「新選組」と書かれていたので、そちらが優先・・・というお考えもありましょうが、ウチのPCでは、キーボードに【しんせんぐみ】と打ち込むと【新撰組】と変換され「選」の字だと、いちいち変換しなおさなきゃならないので、どっちでも良いなら、今日のところは「新撰組」と表記させていただきます。

・・・・・・・・・・

新撰組はもともと、将軍・徳川家茂が上洛するにあたって、その警備を担当する者を広く募集した事にはじまります。

全部で200人くらいの浪士たちが集まり、将軍にさきがけ京に上ります。

しかし、京に到着後、この組織の言いだしっぺだった庄内藩の清河八郎が勤皇派と通じ、この浪士組を天皇配下の兵にしようとしている事が発覚(2月23日参照>>)

将軍のための組織だと思って集まった浪士たちは、組織が空中分解の形になってしまい、一旦、浪士組は江戸に帰る事となりました。

しかし、その中にいた幾人かが、あくまで「将軍の警護という最初の目的を貫きたい」として、京に残る事を主張します。

その「残る派」の中にいたのが、天然理心流試衛館という道場を開いていた近藤勇とその門下生たち・・・

そして、芹沢鴨を中心とする水戸出身の者たちでした。

Maekawateicc 50人余りの集団となって、京都・壬生村の八木邸前川邸を屯所とした彼らは「壬生浪士組」と名乗り、文久三年八月の政変(8月18日参照>>)で長州藩を退去させた京都守護職・松平容保(かたもり)から、尊皇派の不逞行為の取り締まりを任される事になります。

この頃、集団の名前が「新撰組」という名前になります。

やがて、局長・芹沢鴨と対立した近藤勇は、彼の暗殺を実行し、新撰組トップの座につきます(9月18日参照>>)

そして、いよいよ彼らが脚光を浴びる時がやってきます。

元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋騒動」(6月5日参照>>)です。

挽回を企んでいた尊皇攘夷派の志士たちが密会をしていた池田屋に斬り込み、彼らの再起を防いだのです。

この事で、一気に新撰組は有名になり、隊士の人数も130~40人にの膨れ上がります。

その後、蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)にも活躍し、彼らは大いに名を上げます。

しかし徐々に時代は維新へと流れていきます。

「大政奉還」(10月14日参照>>)
「王政復古の大号令」(12月9日参照>>)、
そして「鳥羽伏見の戦い」(1月3日参照>>)

この鳥羽伏見の戦いで大打撃を受けた幕府・・・当然、行動をともにしていた新撰組も大打撃を受けます。

戦いで亡くなる者・・・隊を離れる者・・・新撰組は少しずつ縮小されていきます。

敗北した幕府軍の榎本武揚の軍船で、新撰組も江戸に向かい、その後、新政府軍の甲府への進軍をくいとめるため、新撰組は「甲陽鎮撫隊」と名前を改めて戦いますが、敗退(3月6日参照>>)

Dscn2833a550 やがて、近藤勇は下総流山で捕えられ、新政府軍によって板橋の刑場で斬首(4月25日参照>>)

試衛館時代から近藤と行動をともにしていた沖田総司も病死(5月30日参照>>)し、それでも新撰組は会津で奮戦しますが、ご存知のようにこの会津も落城(9月22日参照>>)します。

そして、今度は函館に行って、蝦夷共和国を目指していた先ほどの榎本武揚ら旧幕府軍とともに新政府と戦いますが、この戦いで、近藤の右腕だった土方歳三が死亡

新撰組は降伏し、その4日後には旧幕府軍も降伏・・・ここに、戊辰戦争が終結(5月18日参照>>)し、新撰組も終わりを告げました。

新撰組の日に新撰組の事を書いていたら、何だか新撰組を題材にしたドラマのあらすじのような記事になってしまいました~。

結成の話を書き出したら、どこで切って良いかわからず、結局最後まで書いちゃいましたが、新撰組のファンの方にとっては、もう知り尽くしてるお話で申しわけないです。

とは言え、現在のように新撰組が人気物になったのはけっこう最近の事なんですね。

昭和の始め頃までは「幕府の飼い犬となったコロシの集団」としてマイナスなイメージが先行していたようで、新撰組の関係者や家族などは、その事を隠して生活をしている人も多かったそうです。

しかし、昭和に入って「新撰組始末記」が発表され、やがて戦後になって、小説や映画・ドラマなどで描かれるうち、「滅び行く幕府に忠誠を貫いた誠のヒーロー」として、判官びいきの日本人のハートをガッチリと掴んだんですね。

時代劇は、その描く主人公によって内容がずいぶん変ってきます。

歴史は、多方面から見る事が必要で、いろいろな解釈の仕方がある事を痛感させられますね。

新撰組の屯所・前川邸やゆかりの壬生寺、隊士のお墓のある光縁寺のくわしい場所は本家HP「京都歴史散歩」でどうぞ→
 
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2007年2月26日 (月)

咸臨丸・シスコへ到着

安政七年(万延元年・1860年)2月26日、スッタモンダで何とか太平洋を横断した咸臨丸が、サンフランシスコに到着しました。

・・・・・・・・・・・・

勝海舟さんに言わせれば「外国人の手を少しも借りずにアメリカに行った」という“遣米使節団”が、品川沖を出航(ブログ:1月13日参照)して、はや一ヶ月とちょっと。

実のところは、日本人だけではとてもじゃないが横断できなかったであろう体たらくでしたが、とにもかくにも無事サンフランシスコに到着しました。

熱烈歓迎を受ける彼ら・・・そして、初めての海外旅行・・・当然の事ながら、彼らのカルチャーショックはものすごい物でした。

上陸して、まずは馬車でホテルに向かう彼ら・・・動き出して初めて馬車が移動手段だと気づく事から始まり、到着したホテルでは、日本では高級品扱いされているじゅうたんが一面に敷き詰められ、その上を土足のまま惜しげもなく歩く人々・・・

そして、ウェルカム・ドリンクとしてお酒を・・・っと、突然、異様な爆発音とともに酒瓶から液体が吹き上がる光景に、「すわっ!攻撃か?」と思わず刀の柄に手をかける者もいて、シャンパン一杯で大騒ぎです。

ようやく落ち着いて煙草を一服・・・と、煙草盆がない・・・何とかストーブで煙草に火をつけますが、吸い終った灰を「どうしたものか・・・」

しかたなく、懐紙に包んで揉み消して、たもとに入れたつもりが、話がはずむうちに何やら「臭い」・・・お察しの通り、いつしか、たもとから、もうもうと煙が立ち昇ってまたまた大騒ぎ

この集団の中に、あの福沢諭吉さんもいて、一緒に大騒ぎしてたのかと思うと何ともほほえましい気がしますね。

ところで、港では魅惑の東洋の国からやって来た咸臨丸を見物しようと、市民は黒山の人だかり・・・こちらはこちらで大騒ぎです。

しかし、ここでもやはり、両国のカルチャーショック。

見物しようした女性に「日本では、女性はこの船には乗れないんです。」と、習慣の違いを丁寧に説明してお断り申しあげる海軍奉行・木村義穀(よしたけ)提督。

でも、アメリカ女性も負けてはいられません。
断られた女性たちは、今度は男装して集結し、集団で船に乗り込んできました。

何事もなく見物を終え、帰ろうとする彼女たちを呼び止めて、木村さんは「プレゼントです」と小さな紙包みを手渡しました。

後でその包みを開けてみると、中にはかんざしが入っていたそうです。

このイキな計らいにシスコ市民は大喝采!
ジャパニーズ・サムライのカッコイイところを見せつけました。

出航したその日に船酔いでダウンしてしまい、航海中はまったくもってイイところの無かった木村提督の名誉挽回ですね。

その後、彼らジャパニーズサムライたちは、アメリカ各地で様々な施設を見学し、様々な文化に触れていきます。

その早いこと矢のごとく、左右の草木の形も見えない」
これは、汽車に乗った時の感想

「冠を脱するを相礼とし、手を取りて三度上下するを入魂(じっこん)とする」
これは、帽子を脱いで軽くする会釈と、もっと親しみを込めて行う握手の違いを言った物。

「女は口を吸うを入魂の第一とする」
これは、もちろんキスですが、キスは昔から日本にもあったと思うのですが、これはひょっとしたら人前で・・・という事でしょうか?

そして、議会を見学に行った時の描写などは、実におもしろいです。

「およそ4~50人が席について、一人が立ち、大声で手まねなどしてののしり合っていて、一段高い場所にいる副統領が意見を聞いて決定する様は、さながら魚市場のようである」
ん~気持ちはわかりますね。

畳敷きの大広間で「おのおのがた・・・他に、ご意見は・・・」などど、やっていた人から見たらあの状況はせり市のように見えたでしょうね。

やがて、一ヶ月程経って、そろそろアメリカ生活も落ち着いてきた頃、勝海舟にサンフランシスコ裁判所から出頭命令書が届きます。

「チックショー!何かやりやがったな!」
海舟はてっきり一緒に来た日本人の誰かが、アメリカ人とモメて傷害事件でも起こしたのだと思って、あわてて裁判所に出頭しました。

国籍や年齢・職業など形式的な取調べをした裁判長は、やがて、おもむろに3冊の本を取り出して
「コレハ、何デスカ?」と、海舟に尋ねます。

ん?」と、その本を見入る海舟。
・・・と、それは日本製の浮世絵の本・・・それも中身は春画ばかり。
つまり、エロ本です。

聞いてみると、それは昨日の事、サンフランシスコ公園で散歩中のレディー二人に、日本人の水兵が、この本を無理やり渡して立ち去ったのだと言います。

それで、レディーは「侮辱された」法廷に訴えたのです。
「取調べの結果、すみやかにその日本人を処分して欲しい」との事でした。

「何だソリャ!そんな事かよ!」と海舟は思ったものの、相手のご機嫌をそこねてもマズイと思い「OK!処分しましょう」と答えて部屋を出ようとした時、裁判官がコソコソっと海舟に近づいて来て、「どうぞ、コチラへ・・」と、別室へうながされました。

部屋に入ると、お菓子が用意され、何だかさっきとはずいぶん違う雰囲気です。

「ところで、ここから先は個人的な交渉なんだけど・・・さっきの本。
実に珍しい品じゃない?
さっきのレディーたちも、是非欲しい!って言ってるんだよね。
・・・で、3冊のうち2冊をそのレディーたちに、残りの1冊を僕にくれないかな?
お願い!」

またまた「何だ?ソリャ!」と思った海舟でしたが、見知らぬ土地でモメるのも嫌だと思い、グッとこらえて、その日は停泊中の咸臨丸に戻り、かのエロ本を渡した水兵を「叱り置き」の処分(つまり怒られただけなんですが・・・)としました。

しかし、生まれ持ってプライド高き海舟さん、ど~も腹の虫が修まりません。
そこで、★キラ~ン★海舟さん、ひらめきました!

次の日早速、あの裁判長を始め、役人のおエラ方に招待状を出し、海舟主催のパーティを開く事にします。

アチラのパーティは基本・婦人同伴・・・当然、かの訴えたレディーも奥さんとして招待しのです。

そして、パーティも盛り上がって宴もたけなわの頃・・・おもむろに主催者として挨拶する海舟。

「これより、かねてよりご希望の品を、裁判長ならびに、ご婦人がたに贈呈する贈呈式をとり行いたいと思います。」
クソまじめな顔で、粛々と、大それた儀式のように贈呈式をやり始めます。

そう、あのご希望のエロ本を、大々的なパーティの席でプレゼントしたわけです。

赤面する裁判長・・・逃げ出すレディーたち・・・。

海舟さんは、きっと心の中でガッツポーズをとったに違いないでしょうね。

仕返しのやり方にも、海舟さんのプライドの高さが垣間見えるエピソードです。
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2007年2月25日 (日)

単身赴任のルーツ・防人の歌

 

本日は、「今日は何の日?」ではないのですが、歴史エピソ-ドとして防人の歌をいくつか紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

防人(さきもり)とは、九州北部の西海の防衛を担当する兵士の事。

その防人の名称と設置に関しては『大化の改新の詔』にも登場しますが、実際には朝鮮半島の動乱に巻き込まれて出兵し、大敗してしまった白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)の後、大陸からの攻撃に備えて、本格的に動員されるようになりました。

その後、大宝元年(701年)に大宝律令が施行され、防人には各地の農民が召集される事になりましたが、実際にはほとんど東国の農民たちで、20歳~60歳の健康な男子の中からアトランダムに、有無を言わさず狩り出され、3年間という任期を、家族と離れ、遠い九州の任地で送る事になります。

しかし、今と違って何の保障もないこの時代・・・単身赴任と言っても、現代の人が描く単身赴任とは大違いです。

「西海の防衛をする」と言っても、彼らは“武士”ではありませんから、専業として兵士をやってるわけではなく、そこから給料をもらえるわけではありません。

赴任先で与えられるのは、ただの空き地で、そこを自分で開拓して農地にし、米や野菜を栽培し自給自足の生活です。

大変な単身赴任だと思いますが、現地での生活より大変なのが、その道中です。

たとえば、一般的に東国と言って思い当たる関東地方のあたりから、九州・大宰府まで、早くても2ヶ月はかかります。

その間、現地から難波(大阪)までは、各地方の役人が引率しての陸路で、当然ホテルはありませんから野宿・・・しかも、ここまでの旅費は実費

そして難波からは、まとめて船に乗せられ大宰府まで行くのですが、もちろん、食事も医療体制も満足のいくはずもなく、とにかく強行突破といった感じの無茶な旅。

そんなこんなで、無事に九州へたどり着いて、3年間の任期を終えても、今度は帰り道で亡くなってしまう・・・という事も少なくなかったそうです。

ちなみに、行き帰りの道中の日数は任期の三年間には含まれません。

こんな状況ですから、夫や息子が防人に選ばれた家はもう大変です。

旅立つ人の安否もさることながら、一番の働き手を失った家は、生計のめどが立たず、残された家族が生活できなくなる事もありました。

行く人も、見送る人もおそらく、この世の別れと思って、悲しみにうちひしがれたでしょうが、これもお国の命令ですから、しかたがありません。

あまりにも過酷なこの制度は、やがて九州に住む現地の住民が担当するようになり、天平九年(737年)9月21日一般農民を徴発する防人は廃止され、さらに平安時代には防人そものも消滅しました。

Sakimoricc

大伴家持(8月28日参照>>)は、自らが国守として越中・富山に旅立った時の思いを重ね合わせていたのでしょうか・・・『万葉集』には、防人に狩り出された人々の歌が多く納められています。

♪道の辺の 荊(うまら)の先に 這(は)ほ豆の
 からまる君を 別
(はか)れか行かむ♪
「道端の茨(いばら)に這う豆がからまるように僕にすがりついてくる君と別れて、行かなくちゃならない」

この歌は、大伴家持が上総の国の防人担当役人から受け取った十九首の歌の中の一首で、この歌にある、“這う(はう)“這ほ(はほ)と言ったり、“別れ(わかれ)“別れ(はかれ)と言ったりするのは当時の東国の方言だそうです。

当時の東国の人は都の人間より、体格が良く、健康だったそうで、この事にも防人率が高い原因があるのでしょう。

♪わが妻も 絵にかきとらむ いづまもが
 旅行くあれは 見つつしのばむ♪

「妻の似顔絵を書いて肌身離さず持っていれば寂しくないかも…」
いつの世も同じ、今は写メがあるから便利です。

♪父母が 頭(かしら)かきなで 幸(さ)くあれて
 言いし言葉ぜ 忘れかねつる♪

「父さんと母さんが髪をなでながら“気をつけて”って言った言葉が忘れられない」
こちらは若い息子さんの歌ですね、
交通や通信が発達した現在でも、そろそろ訪れる旅立ちの季節に、こんな親子の光景があるんですもんね~。

♪防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を
 見るが羨
(とも)しさ 物思いせす♪
「今度の防人に狩り出されたのは誰のダンナやろね?」と、気軽に訪ねてくる人を見ると羨ましい」
これは、防人の妻の詠んだ歌
聞いた人はこの人の旦那さんが次の防人だって知らなかったんでしょうけど、辛いですね。

それにしても、戦時下での徴兵という物に、悲しい別れがともなうのは当然の事ですが、これだけ心のままに歌が詠めたという事に、私は感動します。

昭和の時代はどうだったのでしょう。

名誉だ、万歳だと言って送り出したその影に、はたして、思いのたけを歌にこめる事はできたのでしょうか?
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2007年2月24日 (土)

智積院と長谷川等伯・障壁画

 

慶長十五年(1610年)2月24日は、稀代の絵師長谷川等伯さんのご命日・・・

という事で、今回は、長谷川等伯・久蔵さん親子の描いた見事な障壁画のある京都・智積院(ちしゃくいん)をご紹介しながら、長谷川等伯さんを偲びたいと思います。

・‥…━━━☆

Tisyakuinnmoncc 智積院は京都の七条通りをまっすぐ東へ、三十三間堂と京都国立博物館を過ぎ、ど~んと突き当たったところ、七条通りの東の最終地点にある真言宗・智山派の総本山・・・広い境内に美しい伽藍が点在します。

弘法大師空海が開いた高野山の復興に力を注いだ興教大師・覚鑁(こうぎょうだいし・かくばん)が、高野山から根来(ねごろ)に移り、戦国時代には学僧の数も増え、根来は最盛期を迎えていました。

しかし、その巨大な勢力は、時の権力者・豊臣秀吉と対立する事になり、秀吉の軍勢によって、智積院をはじめとする根来の堂塔は焼かれてしまい、ことごとく灰になりました。

現在、京都・東山のこの地にある智積院は、もともと秀吉が、早くにして亡くなった愛児・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺というお寺でしたが、豊臣が大坂の陣で滅び徳川家康の時代となって、「先に秀吉によって滅ぼされた根来の復興に」と、家康によって寄進され、「五百仏頂山(いほぶつちょうざん)根来寺智積院」と改名し、復活したのです(3月21日参照>>)

Tisyakuinncc その後も、ここでは多くの僧が学び、江戸時代には「ここを卒業しないと僧侶の資格がない」と言われるほどでしたが、何度かの火災に遭い金堂など一部の建物を焼失します。

しかし、信仰の心は絶える事なく、昭和五十年に新しい金堂が建てられ、現在に至っています。

一方の長谷川等伯さんですが・・・彼は石川県・七尾の出身で、墨絵を中心に仏画や肖像画を書いていましたが、一念発起して都に上り、狩野派に入門します。

しかし、作風が合わず対立・・・

そして、狩野派と決別した頃、ちょうど知り合った千利休のつてで、大徳寺所蔵の名画の数々に触れ、感銘を受けて、独自の画風を築きあげていく事になります。

現在、智積院に残る長谷川さん一族の手による障壁画は、「楓(かえで)図」「桜図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵(おうしょっき・とろろあおい)図」「雪松図」「松に立葵図」など、四季折々の草花が描かれた見事な物。

先に書いた火災のために、これでも原形の4分の1以下だそうで、ホントに驚くばかりです。

障壁画の中でも、特に「楓図「桜図」は、日本を代表するものとして有名です。

Touhakufusumacc 写真↑は左手前が「楓図」、右奥が「桜図」ですが、これは書院にある現代の匠による復元品。

当然ですが、等伯直筆の物は収蔵庫に厳重に保管され、拝観はできますが写真撮影は禁止ですので、ブログではこの写真で雰囲気を味わっていただいて、是非とも間近で等伯の直筆を見に行ってみてください。

Tisyakuinnsakurazucc 「桜図」は、等伯の息子・久蔵の25歳の時の作品。
大胆な構図で、春爛漫の美しさを見事に描き出しています。
しかし、久蔵さん自身は、その翌年、26歳の若さでこの世を去ってしまいます。

Tisyakuinnkaedezucc 「楓図」は、その一年後に息子の死を乗り越え、55歳の等伯が懇親の思いを込めて描いた作品です。
こちらは、色鮮やかな紅葉が力強く描かれ、悲しみを克服した等伯の決意の程が伺われます。

慶長十五年(1610年)2月24日72歳の生涯を閉じた等伯の追い求めた理想は、後世の作家に大きな影響を与える事になりました。

 

Tisakuinteiencc そして、智積院は長谷川一門の障壁画だけではなく、お庭の美しいお寺でもあります。

中国の盧山(ろざん)をかたどって造られた利休好みの庭は、先程の障壁画のある書院から見ても、その前の縁側から見ても美しく、特にサツキの頃には、艶やかなピンクが濃い緑にいっそう映えます。

建物の反対側に回れば石庭もありました。
修行僧の方々が、丁寧にお庭のお手入れをしていらっしゃるのがとても印象的でした。

Tisyakuinnsekiteicc

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2007年2月23日 (金)

織田信長とモザンビークの黒人・弥介さん

 

天正九年(1581年)2月23日、来日中の巡察師・ヴァリアーノ神父が織田信長と謁見し、信長さんが初めて黒人さんと対面しました。

・・・・・・・・・・・

日本人が多くの外国人と接するようになったのは、やはり天文十二年(1543年)の種子島・・・ポルトガル人が漂着して、鉄砲を伝えた(8月25日参照>>)時からです。

もちろん、それまでも外国人は来日していましたが、ほとんど中国人朝鮮人で、見た目には日本人と、そんなに変らない東洋系の人々でした。

しかし、この鉄砲伝来をきっかけに、ポルトガル人はもちろん、スペイン人イタリア人といった見た目にも明らかに外国人の人たちが続々とやって来るようになるのです。

やがて、6年後の天文十八年(1549年)に、あのフランシスコ・ザビエルが来日(7月3日参照>>)し、本格的にキリスト教の伝道活動を始めます。

これらのヨーロッパの人たちは、日本に来航する船の水夫として、アフリカの黒人奴隷を連れている事が珍しくなく、当然、日本の人々も、彼らを目にする事となります。

現在残る最初の黒人さんの記録は、天文十五年(1546年)に薩摩の山川港に入港した船に乗っていた黒人さん

とにかく、何日もその噂で持ちきりで、大勢の人が何キロも離れた村から見物に訪れ、大変な騒ぎだったようです。

そして、今回のヴァリアーノさん。

天正七年(1579年)に来日して、九州の各地を巡り、その後、堺から京の都に入り、天正九年には京都の南蛮寺(教会)に滞在していました。

このヴァリアーノさんが、黒人を連れていたために、近所は大騒ぎ・・・南蛮寺の門前には見物人が押し寄せ、けが人が続出。

この事が、信長さんの耳に入り、「会ってみたい」という事になり、天正九年(1581年)2月23日この日の謁見・・・となったわけです。

生まれて初めて黒人さんを見た信長さん。
どうしても、その肌の色が信じられません。

疑問に思った事は何でも自分で確かめないと気がすまない性格の信長さんですから、
「墨を塗ってるかも・・・」と、とうとう、タライを持ってきてゴシゴシと体を洗う事になりました。

しかし、当然の事ながら洗っても洗っても、肌の色は変りません。

ここで、誤解のないように、付け加えておきますが、信長さんが黒人さんの体を洗わせた行為・・・決して差別的な意識があった訳ではありません。

信長さんは、今まで見た事がなかったから不思議に思って、そんな行動に出ただけです。

その証拠に、一目でこの黒人さんを気に入った信長さんは、即、ヴァリアーノ神父から彼を譲り受けますが、ヴァリアーノ神父が奴隷として扱っていた彼を、ちゃんと、側近として従者の列に加えています。

Yasukecc

その黒人さんは、アフリカ・モザンビークの出身で、身長182cmの大きな体格。

しかも、力も強く、相当頭も良かったみたいで、この時すでにカタコトの日本語を話していたらしく、信長さんはますます気に入って、「弥介・・・弥介」と呼んで、おおいにかわいがり、どこに行くにも連れて行ったと言います。

森蘭丸さんと同じくらいかわいがっていたみたいですよ。

・・・で、この弥介さん。
当然の事ながら、本能寺の変(6月2日参照>>)の時も、信長さんのそばにいました。

もちろん主君を守って戦いますが、信長さんが、本能寺に火を放って自刃した後、本能寺を脱出。

二条御所にこもっていた信長の息子・信忠のもとへ馳せ参じ、今度はここでも戦い続けます。

しかし、朝になって、「もはやこれまで・・・」と信忠以下、家来たちが自害し始めた頃、たまたま彼に近づいた明智光秀の家臣が降伏をうながすと、素直に刀を渡し、それに応じました。

光秀は、「彼は状況を知らないし、日本人でもないのだから、処刑せずに国に送り返せ」と言ったとそうです。

しかし、ここで、弥介さんの消息はピタリと無くなります。

殺されはしなかったものの、その後の行方はわかりません。

光秀が命じたように国に帰ったのか?
そのまま日本のどこかで暮らしたのか?

大河ドラマか、お正月のスペシャルな時代劇かは忘れましたが、チラリと弥介さんらしき人物が登場していたドラマもありましたが、その時もセリフすら無かったような気がします。

本能寺の変のシーンになると、あれだけ森蘭丸が登場するのですから、たまには弥介さんの登場するドラマも見てみたいですね。
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2007年2月22日 (木)

聖徳太子・死因の謎

 

推古三十年(622年)2月22日、聖徳太子が49歳でお亡くなりになりました。

・・・・・・・・・・・

聖徳太子に関しては、このブログでも何度か書かせていただいておりますが(1月26日参照>>)、今日はご命日という事で、その死の謎を中心に書かせていただきたいと思います。

こと、聖徳太子の生涯と、大化の改新(乙巳の変)(6月12日参照>>)は、古代史の中でも、何やら違和感の残る謎多き出来事・・・。

これは、ひとえに、「蘇我一族の歴史を消したい藤原一族のなせるワザ」と言えなくもないわけですが、おかげ様で、あーだこーだと推理の花も咲くわけで、ある意味、感謝ですね。

ところで、聖徳太子の死因についてですが・・・公には伝染病にかかって亡くなった事になっています。

その伝染病は、前年の暮れに太子の母親を死に追いやり、最愛の妻・膳部妃(かしわでのひ)を襲い、妻が死んだ次の日に、太子はこの世を去るのです。

『日本書紀』には、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子の事)が斑鳩の宮で亡くなり、皆悲しんだ』という事が書かれているだけで、なんともあっさりした、そっけないくらいの書き方です。

Syoutokutaisicc 聖徳太子の偉業として、あれだけのすばらしい業績を並べ立てておきながら死因も書かないあっさりぶり・・・「何だそりゃ!12月が近づいて最後まで収まりきれない事に気付き、慌てていろんなエピソードを削り始めた大河ドラマか!」って感じです~。

こうなると、これは「実際に偉業を成し遂げたのがこの日死んだ本人ではなかった」か「公表できない死に方」だったか、のどちらかではないかと思うわけです。

まず、前者の場合・・・
『日本書紀』は、ご存知のように、敵・蘇我氏を倒して頂点にのし上がった藤原一族の書いた歴史ですから、蘇我氏のやった悪い事はそのまま蘇我氏のやった事として記録し、蘇我氏のやったすばらしい偉業は・・・「そう、ここに一族が断絶しちゃったちょうど都合のいい皇子がいるから、この人がやった事にしときましょう」って、なったのではないでしょうか?

この時、聖徳太子が亡くなってから、すでに100年近くの年月が経っている事を考えると、有名人じゃ無かったために、死に関するちゃんとした記録がないので、やむなく、こんな書き方になっちゃった・・・という事ではないでしょうか?

次に、やっぱり気になるのは後者の「公表できないような死に方だった」場合です。

これは、いろんな事が考えられます。

まず、平安時代に書かれた『聖徳太子伝暦』・・・これは、太子の事に関して、かなりくわしく書かれているものの、荒唐無稽な神話のような話も混じっていて、どこまで信用できる物かは計りかねますが、とにかく、これによると、太子は生前、自分の墓を造る際に、「○○年の春に死ぬから工事を急げ」などと指図をしています。

そして、死ぬ前夜、妻の膳部妃を呼び寄せ、「僕は、今夜あの世へ行くから、一緒に行こう」と誘うのです。

それから、膳部妃を沐浴させて身を清め、その後、自分も沐浴して、同じベッドに入り、翌朝、遺体で発見されるのです。

この通りだと、明らかに自殺・・・しかも彼女との心中という事になります。

この事が無視できないのは、今も残る聖徳太子のお墓に、この膳部妃が一緒に埋葬されているからです。

当時、太子には身分のりっぱな奥さんが、膳部妃以外に、三人いました。

膳部妃は、太子が三輪明神でひっかけた恋人・・・当然一般人です。

並み居る正室と側室がいるにもかかわらず、一般人の彼女が同じお墓に埋葬されているのは、この心中事件が本当の事だから?・・・という事も考えられます。

・・・で、次に自殺ではなかった場合・・・他殺って事になると・・・

これは、まず、太子が死んで一番得をする人を考えなければなりませんが・・・そうなると、33代・推古天皇の後に天皇になる田村皇子=34代・舒明天皇か?

しかし、田村皇子は、30代・敏達天皇→31代・用明天皇→32代・崇峻天皇と3代続く兄弟天皇の一番兄である敏達天皇の孫で、太子は弟の用明天皇の息子。

血筋としては、やはり長男が優先・・・て事になると、そんなに急がなくても、いずれ皇位は回ってきそうです。

しかも、田村皇子は、太子の建立したお寺を、バトンタッチしてさらに大きくする・・・といった太子に敵意を持っているとは思えない行動をしているので、可能性は薄いように思います。

では、太子とともに政治を行った推古天皇蘇我馬子の仲良しコンビはどうでしょう?

たしかに、始めは三人で仲良く政治をやっていたのが、途中からおかしくなってきますから、敵意を持っていた事も考えられます。

しかし、その途中からおかしくなってきた時点で、太子は、都の飛鳥から離れた斑鳩の宮(法隆寺の夢殿のあたりにあった)に引きこもってしまいますから、ここで、もう推古天皇と馬子の勝ちが決定したような物です。

政治の表舞台から身を引いて、斑鳩に隠居した太子をあえて殺害する必要があったとは考え難いのではないでしょうか?

では、彼ら以外で聖徳太子が邪魔になった人はいるのでしょうか?

遠く異朝に目を向けてみましょう。

「日出(い)ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という手紙をに送って煬帝(ようだい)怒らせてしまった話は有名ですが、

これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?

しかし、煬帝は「そんな手紙な二度と見たくない!」と怒った・・・というわりには、その後、何かをしてきた形跡はありません。

怒りの返事を、遣隋使の小野妹子に持たせたくらいの事しかしてませんね。

ただ、この返事の手紙は、妹子が途中で紛失したため、内容はよくわかっていませんが・・・(7月3日参照>>)

「煬帝さんお怒り」の文章だったため妹子がわざと失くしたフリをした・・・という説もありますが、とにかく、それによって日本を攻めるなどという事もなかったのです。

なぜならば、当時の隋にとって、身近にせまる“目の上のタンコブ”が、他にあったからです。

それは、朝鮮半島情勢

新羅百済高句麗がせめぎあう朝鮮半島に睨みを効かせるためには、その向こう側にある小さな島国・日本と「仲良くしておく必要がある」と思っていたのではないでしょうか?

煬帝は、高句麗と小競り合いを起こしたかと思うと、逆に、百済と高句麗に「日本と協力して新羅を討て」と言ったりしています。

朝鮮半島の情勢をかなり気にしていた様子が伺えます。

そして、朝鮮半島の国の中での注目は新羅・・・その昔、朝鮮半島にはもう一つ、任那(みまな)という国があったのです。

任那も他の国と同様、日本に使者と貢物を定期的に送っていたのですが、太子の時代、その任那は新羅に統合されてしまっていました。

にもかかわらず、太子は新羅に、任那の分と合わせて2カ国分の使者と貢物を要求していたのです。

朝鮮半島の各国にとっては、隋の後ろ盾がある日本には、容易に敵対心をあらわにする事はできなかったようで、新羅は素直に2カ国分の使者と貢物をしばらくは続けていたようです。

しかし、時代は変ります。

太子が亡くなる4年前、煬帝が死に、隋が滅び、唐が起こります。

当然、国が変れば、新しく外交関係を築きあげなければなりません。

そんな中、推古三十年(622年)2月22日聖徳太子が亡くなるのです。

そして、その翌年、新羅は「今後は、任那の分の使者と貢物は中止する」と通告してくるのです。

果たして、この事は、聖徳太子の死と関わりがあるのでしょうか?
個人的には、かなり臭いますが・・・。

最後に、残るは事故死ですが、もうこれは考え出したらきりがありません。
なにしろ偶然が伴う物ですから・・・。

歴史という物は、誰もその目で確認する事ができない以上、「絶対」という事はありえません。

新しい発見があれば、それを踏まえてもう一度考え直すと、当然今までの見解とは変ってきます。
教科書だって書き換えられます。

小学校の頃、教科書で見た聖徳太子を病死として疑わなかったあの日から、新たな情報を得るたびに、私の中の太子は紆余曲折の人生を繰り返します。

「お前の意見には一貫性が無いのか!」と言われそうですが、そこのところは、「一貫性が無いのではなく、柔軟なのだ」という寛大なお心でお願いします。
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2007年2月20日 (火)

大江戸心中ブーム

 

享保八年(1723年)2月20日、江戸幕府が男女の情死・・・いわゆる心中に厳しい規制をかけました

その内容は、心中者の弔いの禁止、生き残った者は殺人罪、心中を扱った狂言・浄瑠璃等の上演、出版物の禁止などです。

・‥…━━━☆

Bunrakucc このおふれを見るかぎり、いかに「心中」が流行ったにかがよくわかりますねぇ~。

幕府は大慌てです。

もちろん、ブームの火付け役は近松の心中物です。
 

元禄十六年(1703年)5月7日に初上演された『曾根崎心中』をはじめ『心中天網島』など・・・物語の内容は(11月22日参照>>)でどうぞ。

ところで、この「心中」という言葉・・・本来は死ぬ事ではなかったのです。

近松の作品の中でも、『長町女腹切(ながまちおんなのはらきり)では「悲しい事、むごい事、そこを死なぬが心中」とはっきり「死なない」と言ってます。

死なないで“心中(しんちゅう)をつくす”事、つまり、相手を思い、相手にすべてを捧げ、自分の人生を賭ける事が、本来の“心中”なのです。

具体的にどんな事をするか?と言いますと・・・

「誓詞」・・・これはその名の通り誓いを立てるわけですが、ウソをつく事に関してはやたら厳しい「熊野権現」に誓いを立てるので、現在の我々が「ハイ!誓います!」と口先だけで宣言するのとはわけが違います。
当時は、やぶれば必ず天罰が下ると、信じられていましたから・・・。

「放爪」・・・これは、なま爪をはがす事。とにかく痛そ~。

「切指」・・・指きりじゃありませんよ。ホントに切るんです。“おとしまえ”のように・・・。

「貫肉」・・・身体の一部に刃物を突き通す。怖い・・・

「断髪」・・・私は、これならやってもイイです・・・でも、昔の人にとってはけっこう苦痛だったんでしょうね。今なんかみんな好きで髪切りに行きますが・・・。

「黥(げい)・・・男が女になる←ウソです・・・本当は、イレズミの事。時代劇などで、“○○命”なんて書いてあるの時々見かけますよね。これは最近の若い人は「タトゥ」とか言って、彼女の名前入れたりなんぞする人もいるんじゃないんでしょうか?

最初は、あくまで死なないで、誓いをたてる事が「心中」だったのが、だんだんとエスカレートしていって、最終的に「死をもって誓いを・・・。」という事に変化していったようです。

とにかく、「心中」という言葉の響きが、当時の人から見てもちょっとカッコよかったのか、幕府は、「心中」を「心中」と呼ばずに、ちょっとカッコ悪い言い方「相対死(あいたいじに)と呼ぶように、おふれを出しています。
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2007年2月19日 (月)

屋島の合戦・扇の的の後に

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面・扇の的で有名な屋島の合戦のあった日です。

・・・・・・・・・・・・・

平家物語の中でも、冒頭の「祇園精舎の鐘の声・・・」と、この「矢ごろ少し遠かりければ・・・」“扇の的”の部分は、必ずと言って良いほど古典の教科書に登場し、悩まされた人も多いはず。

さて・・・一の谷の合戦敗れた平家は、さらに西へと退きました(2月7日参照>>)

屋島の合戦は、それから一年後の事。

その間に、平家に大勝した源義経は、後白河法皇から検非違使(けびいし)左衛門少尉に任ぜられ、勝手に冠位も貰ってしまいます。

当然、家臣の統率をとるため、自分の許可なく冠位を受けてる事を禁止していた兄・頼朝の怒りをかい、義経は一旦平家追討軍から外されてしまいます。

しかし、もう一人の弟・範頼が思うような成果が上げられないため、頼朝はしかたなく再び義経を起用。

ちょうどその頃、一の谷から逃れた平家は、四国の屋島に落ち着いて、宮殿を建て、瀬戸内海の海上権を握り、源氏に対抗する本拠地と定めていました。

そして、いよいよ決戦の時・・・周囲の反対を押し切って、嵐の中わずかの船で摂津を出た義経は、少し手前で上陸、周囲の民家を焼き払いながら、陸路、平家の本拠地を目指します(2月16日参照>>)

この騒ぎを「大軍が攻めて来た!」と勘違いした平宗盛は、女官たちとともに早々と船に乗り、沖へと漕ぎ出します。

ちょうど、その頃海岸へ到着する義経軍。

しかもその時、たまたま引き潮だったため、馬が立ち上がらせる水しぶきが霞みのようにかかり、ここでも、義経軍が大軍に見えたため、平家の陣は一気にあわただしくなります。

この初期の戦闘で、義経は、奥州の藤原秀衡が着けてくれた忠臣・佐藤継信を失ってしまいます(2008年2月19日参照>>)

そして、夕刻・・・陽も傾き始め、両軍がそろそろ兵をひき始めた頃、あの有名な光景が展開されます。

Ooginomatocc

美しく飾られた小舟が一艘、沖の平家側から、浜辺の源氏側に近づいて来ます。

小舟には、女官らしい乙女が一人、赤地に金の日の丸の着いた扇を棹の先に挟み、舟の先に掲げます。

そして、波打ち際から五十間ほどの所で、舟を横に向けて停泊しました。

「あれ、どーゆー意味?」と聞く義経。

「射てみろよ・・・って事でしょう」と、後藤実基(さねもと)

「けど、大将。見てみなはれ・・・あの女、メッチャべっぴんでっせ。ひょっとしたら、大将が真正面に立ってあのべっぴんに見惚れてる所を、弓の名人に狙わせようっちゅー考えかも知れまへん。けど、やっぱりここは誰かに射させたほうがよろしいでっしゃろな」

・・・て事で、誰か弓の名手はいないか?と聞いたところ、那須太郎資高(すけたか)の息子・与一宗高がいます」と、即決!・・・と平家物語にはありますが、実のところは、畠山重忠が病気を理由に断り、那須為高(与一の兄)も病気だと断り、3人目の与一さんの所に回ってきたお役目なのです。
(病気で戦に出てるのか?)

もちろん、与一さんも最初は断りました。

なんせ、こーゆー状況で失敗したら、絶対に命はありませんからね~。

しかし、指名するヤツ指名するヤツが断って、お怒り気味の義経さん、3人めの与一の所で、「命令聞けへんねんやったら国へ帰れ!」とブチ切れ。

さすがに、このまま国に帰るわけにはいかず、しぶしぶ引き受けた損な役回りの与一さんですが、「やるからには力一杯やらねば・・・」と、決意。

思ったより遠かったので、少し海の中に馬を乗り入れ、一心に狙いを定めます。
そして、ご存知のように見事命中!

『鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へと上がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。』

奇跡的な匠の業に、敵も味方も関係なく拍手を送ります。

ちなみに、あの小舟に乗っていた美女は、玉虫の前という人で、宮廷美人コンテストで1位に輝いた女性。

やっぱ、こーゆー時って、一番の美人を出すんだろうなぁ、変なの出したら「平家にはあんなんしかおらんのか!」って言われそうやし、それに「ブサイクやから、アイツ狙え!」って事になってもシャレにならんしね。

♪ときならぬ 花や紅葉を 見つるかな
 芳野初瀬の ふもとならねど♪

「吉野や長谷ならともかく、こんな合戦の場で、桜や紅葉が舞い散るような光景を見られるなんて感激!」

これは、その玉虫さんが詠んだ歌・・・何とも美しい光景だったんでしょうね。

何となく、情緒がある、ほんわか美談のようにまとまってる“扇の的”の話ですが、実は、話はここで終らないんです。
(教科書はたいていここで終ってますが・・・)

この光景に感動した平家方の50歳くらいの男が、「アッパレ」とばかりに、船の上でお祝いの舞を舞い始めたんですが・・・それを見た義経、何を思ったか、与一に向かって一言。

「アレも射よ!」

「えぇ~っ!戦闘終ったんじゃないの?」
義経の顔を二度見する与一さんが目に浮かぶようです。

しかし、大将の命令です。

「武士道もヘッタクレもないんかい!」と心で思ったでしょうが、とにかく与一は、心を鬼にして矢を放ちます。

その矢は、またしても見事に男の首に命中!

船の中へ倒れ込む男・・・一瞬にして、あたりは凍りつきます。

もちろん、怒り心頭の平家軍。

これを、きっかけに再び戦闘が始まります。

この戦闘の時、馬に乗って半分海に入った状態で弓を落としてしまった義経さん。

戦いそっちのけで、弓を取ろうを必死でうつぶせになって、馬用のムチで掻き寄せ、まわりに「かっこ悪い」と注意されたりなんかしてます。

何て事してくれるんだ!義経さん・・・。

“扇の的”だけで終っとけば、さわやかだったのに・・・。
なんか、後味悪いなぁ。

しかも、弓落としてカッコ悪いし・・・。

まぁ、「弓流し」に関しては、義経さんには義経さんの言い分があるようですが、そのお話は、コチラ→(2017年2月19日【弓流し】参照>>)で・・・

Yoitiohakacc   京都・即成院には、那須与一さんのお墓があります。
くわしい場所や地図は、本家HP「京都歴史散歩」でどうぞ→
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2007年2月18日 (日)

相国寺の鳴き龍

 

今日は、昨年秋に訪れた相国寺のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・

Syoukokuzihouzyoucc 相国寺は京都の上京区、京都御所の北側にある禅寺です。

普段の拝観は申し込み制なので、少し敷居が高い感じがしますが、毎年、春と秋に申し込み無しで拝観できる特別公開が行われ、私も特別公開に合わせてぶらりと行ってみました。

相国寺は室町幕府・第三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命を受けて創建した禅宗五山の一つです。

応仁の乱の兵火でいくつかの堂が失われますが、豊臣秀頼が法堂を、徳川家康が三門を寄進。

他の堂塔も再建されますが1788年の天明八年の大火で、法堂、浴室、塔頭九院以外を焼失してしまいます。

やがて、文化四年(1807年)になって、方丈や庫裏、開山塔など創建当時のような壮大な伽藍が復活したのです。

Syoukokuziteiencc

相国寺の境内は普段から自由に散策できるので、私も何度も訪れているのですが、方丈や法堂の中に入ったのは、この時が初めてでした。

方丈では、赤いもうせんの上でしばし休憩・・・。
庭園を拝見しながら、落ち着いたひと時がすごせます。

Syoukokuzifusumaecc

そして、大火の中、奇跡的に残ってくれた法堂へ・・・。
法堂は、国の重要文化財に指定されている桃山時代の物。
中には運慶作の釈迦如来さまが安置されています。

しかし、何と言っても、この法堂で有名なのは、狩野光信の筆による天井に書かれた『蟠龍図』です。

この龍は「八方睨みの龍」で、法堂内のどの角度から見ても、こちらを向いているように見え、方向によって昇り龍になったり下り龍になったり・・・。

そして、法堂のある場所から手を叩くと、やまびこのように音が返ってくる所から「鳴き龍」とも呼ばれています。

この「鳴き龍」は、ホント体験してみないとスゴさがわかりません。

お寺のかたが説明して、ひとりひとり「この場所に立って手を叩いて下さい」という場所に案内してくださるのですが、私の前の中年のご夫婦が、二人一緒にその場所に立とうとすると、「あっ、おひとりずつどうぞ。少しでも位置がズレると、もう聞こえないんですよ」とおっしゃっていました。

そして、私の番。
みごと、堂内に響きわたっているんじゃないか?と思うような音・・・。
なのに、すぐとなりに立っている、案内人のかたは「ちゃんと、聞こえましたか?」と確認します。

つまり、となりに立っている案内人のかたには、もう聞こえないんですね~。

ホント不思議・・・。

Syoukokuzikuricc 今年も、もうすぐ3月24日から6月4日まで、春の特別公開が行われます。

特別公開では、方丈・法堂そして、浴室も拝観できます。

浴室では、湿気の多いこの日本で、みごとなまでの湿気対策が施されている匠のワザが目の当たりにできますよ。

もし、機会がありましたら、皆さんもどうぞ。
ホント感動しました~

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2007年2月17日 (土)

ノアの方舟・洪水伝説

 

2月17日は、有名なあの“ノアの洪水”のあった日だそうですよ。

・・・・・・・・・・

『旧約聖書』「創世記」に書かれた“ノアの洪水”があったのは、ノアが600歳(ちょっとムリがある)の時の第2の月の17日だそうで、聖書の年代をそのまま計算すると、紀元前3000年頃の出来事になるそうです。

地上に悪人がはびこる事を「ヨシ」としない神様が、大洪水を起こして人類を滅ぼそうとしますが、神に従順だったノアにだけこの事を教え方舟(はこぶね)の建造を命じます。

ノアは、高さ13.5m、幅22.5m、長さ135m、約2万tクラスので~っかい方舟に、ノアの家族8人と、あらゆる動物のつがいを乗せて、その日を待ちます。

そして訪れた2月17日この日から雨は40日間降り続き、150日間水の勢いは止まらず、方舟は嵐の中、木の葉のように揺れ動き、やがてアララト山の上にひっかかって停まります。

使いに出した鳩によって水が退いた事を知ったノアは、家族や動物たちとともに船を出て、神様に感謝。

神様はノアを祝福し、今後、人類を滅ぼすような洪水を起こさない事を約束したのです。

このアララト山は、現在のトルコにあるアララト山だと言われていて、昔から「方舟の痕跡を見た」という人が数多くいます。

Hakobune1cc

ただし、この“洪水伝説”・・・『旧約聖書』が初出ではありません。

主人公や、細かい状況に違いはあるものの、よく似た神話は世界各地に残って、その中には、『旧約聖書』以前に書かれたであろう物もあります。

1872年、イギリスの大英博物館に勤務していたジョージ・スミスという人が、その10年前に発見された粘土板の文字を解読し、そこに“ノアの洪水伝説”そっくりの出来事が書かれているのを発見しました。

これが『ギルガメッシュ叙事詩』と言われる物で、古代メソポタミア時代に書かれた物です。

『ギルガメッシュ叙事詩』では、「船はニシルの山に停まった」とされています。

さらに1914年、ペーベルという人が、南メソポタミアのニップルという遺跡から、シュメール語で書かれた粘土板を発見。

ここにも、そっくりの“洪水伝説”が書かれていたのです。

この粘土板は紀元前25世紀頃の物と推定され、紀元前10世紀頃とされる『旧約聖書』より古い事になります。

また、ヒンドゥー教の神話の中にも“洪水伝説”が語られています。

こちらは、人類の祖・マヌが小さな魚を助けて育て、大きくなったその魚を海に返す時、魚が「近々洪水が起こります。その時あなたは船を造って、穀物を蓄え、家畜とともに乗りなさい。そうすれば私が助けてあげます」と言って去っていきます。

やがて、魚の言う通り洪水が訪れ、マヌが船に乗り込むと、その魚が現れます。

縄で船を魚の角につなぎ、ヒマラヤへと運んでもらい、マヌだけが助かる・・・という、恩返し的なお話になっています。

いずれにしても、大洪水によって、一旦時代が終る・・・という構図はおおむね一致している所から、遠い昔、地球規模の天変地異が起こって、その記憶が伝説として語られたのではないか?とも言われています。

ただ、地球規模の天変地異に襲われた・・・というよりは「ある一部の地域に起こった洪水の話が、時が経つにつれ、世界中に広がった」と考えるほうが自然でしょうが・・・
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2007年2月16日 (金)

一休さんのとんちは本当?

 

文明六年(1474年)2月16日、“とんち”で有名な一休宗純京都・大徳寺の第46代住職に就任し、応仁の乱で荒れ果てた大徳寺の復興に貢献しました。

・・・・・・・・・・・・

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、応永元年(1394年)のお正月・・・1日に生まれたと言われています。

お母さんが後小松天皇(10月5日参照>>)に仕えていた事から、天皇の隠し子ではないか?との噂もありますね。

アニメの一休さんでも、母上様はかなり高貴なおかたのように描かれていました。

6歳の時に安国寺に入り、その後、近江・堅田の華叟(かぞう)和尚のもとで修行します。

やがて、27歳になって諸国を巡歴するようになるのです。
アニメのかわいい一休さんは、安国寺時代の頃ですね。

Ikkyuucc

ところで、あのかわいい一休さんの「とんち話」は、本当なのでしょうか?

残念ながら、一休さんの「とんち話」として残る一番古い物でも江戸初期の物で、史実・・・というよりは逸話・物語のような物です。

しかし、「とんち話」が生まれる要素はあったのです。

絵に描いた虎をめぐり
「つかまえてみろ」
「つかまえるから絵から出してみろ」
という将軍様とのやりとり・・・。

一休さんは、本当に将軍様にこのような態度をとっていたのです。
(もちろん、その時はもう子供ではありませんが・・・)

将軍を高い台の上に上ったまま出迎え、付き添う家臣に「アッカンベ-」とやった事もありました。

そして、それは将軍に対してだけではありません。

正月のめでたい時に、墓場から持ってきたドクロを竹の棒に刺し、「死んだらこうなるよ、気をつけて!」と言いながら近所の家々を回ったり、

地蔵菩薩・開眼の儀式に招かれたのに、ピンと張り詰める空気の中、その地蔵様におしっこをひっかけて逃げてみたり・・・。

時には、木刀を腰にさして武士のように町を歩いたり、尺八を吹き、歌を詠み、女好きでお酒もたしなむ。

しかし、これらの奇行には、ちゃんとした意味がある・・・一休さんの生きた時代は、応仁の乱によって乱れに乱れた下克上の時代。

これらの一休さんの奇行には、支配階級である武士や堕落していく僧侶に対する批判や、乱れる社会への風刺が込められていたのです。

法を説く時は、しっかりと説き、一連の奇行にはちゃんとしたポリシーがある・・・

「一休さんのとんち話」は、こんな一休さんの生き方によって、生まれるべくして生まれた逸話と言えるでしょう。

以前、このブログで書いた一休さんの「老いらくの恋」(11月30日参照>>)・・・76歳にして、50歳年下の彼女を射止めるその魅力も、そんな所にあるのかも知れませんね。

そんな若~い奥さんに看取られながら、文明十三年(1481年)11月21日・・・一休さんは88歳の生涯を終えました。
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2007年2月15日 (木)

兼好法師の恋愛感って・・

 

正平五年(1350年)2月15日は、『徒然草』でお馴染みの、兼好法師の忌日です。

・・・・・・・・・

ただし、「1352年に生存していた」という説もあって、亡くなったのは、「1352年以降」とする意見もありますが、とりあえず今日は兼好法師さんについて書かせていただきます。

兼好法師の本名は、卜部兼好さん。

お家が京都の吉田神社神官の家系だった事から、吉田兼好と呼ばれたりしますが、ご本人は、ひょっとしたら“吉田兼好”と名乗った事は無かったんじゃないでしょうか。

・・・で、兼好法師と言えば、やはり『徒然草』

「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば・・・」
という有名な書き出しで始まる名随筆。

歴史や古典に興味がなくても、確実に学校で勉強させられる物の一つですね。

文章もなめらかで読みやすく、出家した身でありながら、堅苦しいテーマだけではなく、人生観や女性観、人間関係など、説教臭くならずに、おもしろエピソードを散りばめて、今でも、人生の“座右の銘”になるような名言を語ってくれています。

ただ、この兼好さん、女性観に関しては、やたらきびしい・・・

女は、貧欲だとか、浅はかだとか、わがままだとか・・・いったい、若い頃どんな恋愛してきたんだ?って感じです。

「すなほならずして、拙きものは女なり」
~素直でなく、完璧でないのが女だ~

「もし、賢女あらば、それもものうとく、すざまじかりなん」
~もし、賢い女がいたら、それはそれでウザイ~

「妻(め)といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ」
~結婚なんて、するモンじゃないよ~

お~い!兼好さ~ん、いったい、カノジョと何があったんだ~?

しかも、女に惚れこんで通いつめたり、子煩悩になったりせずに、一定の距離を置いて、時々女の所へ通うくらいにした方が長続きする・・・何て事も書いてます。

しかし、そのワリには、片一方で、プラトニックな恋を絶賛しています。
「男女の情もひとへに逢い見るをばいふものかは」
~会って結ばれるだけが恋じゃないんじゃない?~

兼好さんによれば、契りを結ばずに終った恋ほど、趣のある物はないのだそうです。

絶対、この人、女でヒドイめに遭ってますね。
若い時は、何度かあったんでしょうね~修羅場が・・・。

・・・で、そんな恋に恋してる思春期の乙女のような恋愛感の兼好さんにラブレターの代筆を頼んだ人がいます。

Moronaocc それは、足利尊氏・義詮(よしあきら親子の執事として権勢を欲しいままにした婆沙羅大名の代表とも言える人物・高師直(こうのもろなお)です。

師直はとにかく女好き・・・で、ある時、メチャメチャ美人を見つけ、一目で恋に落ちます。

しかし、その女性は、出雲隠岐の守護であった塩冶(えんや)高貞さんの奥さん・・・つまり、人妻です。

でも、あきらめきれない師直は、何とか彼女のモノにしようと、文章の達人・兼好さんに、ラブレターの代筆を頼んだわけです。

この頃のラブレターというのは、奈良・平安の頃から続く、日本の恋愛形式の定番です。

この時代、恋愛はまず、ラブレターから始まる物で、メチャメチャ重要・・・合コンで交換したメルアドに、帰ってから送る一発めのメールくらい重要です。

今後、進展があるかどうかは、ソレに懸かっています。

この“ラブレターの代筆”という仕事は平安時代から存在していて、実際に報酬をもらっていたかどうかは定かではありませんが、字のうまい人、文章のうまい人、歌のうまい人などは、しょっちゅう頼まれていたようです。

・・・で、その恋の結果は・・・というと・・・「ごめんさない」【ブー×】

さすがの兼好さんの名文も、夫を愛してやまない妻には効き目がなかったようです。

しかし、師直は、この一件を「ラブレターが悪い!」と、天下の名作家をクソミソにけなしまくる始末。

最終的に、「夫の塩冶高貞がいなきゃいいんだ!」と、高貞が謀反を企てていると、ウソの罪をでっちあげて殺そうとします。

危険を感じた高貞さんは、奥さんを連れ逃走しますが、逃げる途中に追い詰められ、夫をかばった奥さんは殺され、妻の死を知った高貞さんも自害・・・とても、悲しい結果となってしまいます。

結局、それって、兼好さんのラブレターが問題なんやなくて、師直さん、アンタの性格に問題アリやろ?って感じですね。
 

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2007年2月14日 (水)

平将門・怨霊伝説

天慶三年(940年)2月14日、関東の大半を征服して「新皇」を名乗った平将門が、平貞盛と藤原秀郷に討たれ、乱は鎮圧されました。

・・・・・・・・・・

平安京に遷都したあの桓武天皇のひ孫にあたる高望(たかもち)が、“平”という姓を賜って上総の国に下り、その地を治める受領となりました。
(地方のその土地に住んで行政をするのを受領、京の都にとどまったまま行政をするのを国司と言います)

この高望王の孫が平将門(たいらのまさかど)です。

父・良将(よしまさ)の領地を受け継いだ将門は、同族同士の内紛に討ち勝ち、さらに関東各地へその勢力を伸ばします。

やがて、常陸(ひたち)国府、下野(しもつけ)国府、上野(こうずけ)国府を攻略しますが(11月21日参照>>)将門自身には「朝廷に取って代わろう」という意志はありませんでした。

将門が、敵としていたのは、あくまでその地を治める国司や受領であり、彼らを派遣する朝廷ではなかったのです。

当時は、新しく赴任した国司や受領がその権力を傘に着て、横暴な振る舞いを重ねていました。

見回りと称しては、一般の民家に押し入り、めぼしい金品を奪う・・・といった行為が当然の事のようにまかり通っていたのです。

根っから親分肌の将門が、困った民衆や豪族に「何とかして~」と頼られる相手をいさめに行く相手は兵を出して抵抗する強いから勝っちゃう・・・簡単に言えばこんな構図です。

事実、この時点でも将門は、摂政・藤原忠平「領国は奪い取りましたが、忠平さんへの恩義は忘れてませんよ」という内容の手紙を送っています。

やがて、東国一帯に勢力を広げるにあたって“新皇(しんのう)を名乗り、国守や役人を自らが任命し始めます(12月15日参照>>)

それでも、まだ、将門には朝廷を倒す気持ちは無かったのです。

しかし、ちょうど時を同じくして西国・瀬戸内でも藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしていて(6月20日参照>>)、京の都では、「東の将門は、西の純友と共謀して反旗をひるがえし、同時に上洛するつもりではないか!」と、もっぱらの噂になり、公家たちは毎日怯えて暮らす事になります。

こうなると、朝廷もじっとしてはいられません。

将門の行動を国家への反逆とみなした朝廷は、藤原忠文征東大将軍に任命し、東海・東山道に「将門追討」の命令を下します。

それに応じて兵を挙げたのが、平貞盛(さだもり)藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)の同盟軍。

そして天慶三年(940年)2月14日、午後2時頃、強風の中、同盟軍が将門の陣営を襲う形で、激しい戦闘が始まります。

風下に陣を取った将門軍は、有利に駒を進め、同盟軍の中陣を撃破・・・勢いづいて、そのまま追捕を続け、同盟軍は敗走します。

勝利に沸く将門軍・・・しかし、将門軍の多くは、直属の武士ではなく、将門を慕って集まってきた近隣の豪族や農民でしたから、勝利を確信した将門は、ここで一旦彼らを家に帰してしまいます。

その事を敏感に察知した同盟軍は、すくさま反撃を開始。

急に風向きが変わり、戦況も一気に同盟軍有利に向き始める中、将門自らが先頭に立って激戦が繰り広げられます。

そんな時、事態の幕切れはあっけなく訪れます。

秀郷が放った1本の矢が、「全身が鋼鉄の体である」と噂された将門の唯一の弱点・・・こめかみを貫きます。

-天下に未だ将軍自ら戦い死することはあらず、誰か図らむ-

Kouyakuzusicc 翌日には、「将門討伐」の報告が朝廷に伝えられ、朝敵・将門の首は4月の終わりには都に届けられました。

しかし、将門の怨霊伝説はここから始まります。

京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。

ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。

そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。

やがて1307年に真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。

この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。

将門が、これほどまでに恐れられる怨霊となってしまったのはなぜなんでしょう?

Masakadocc

たしかに、志半ばにして倒される・・・という、怨霊としての最低条件はクリアしていますが、歴史を見るかぎり、志半ばにして命を絶たれた人は大勢いるわけで、その中で突出して将門が恐れられるようになった要因があるはずです。

将門が新皇の名乗りをあげるきっかけとなった出来事に、そばにいた巫女に八幡菩薩が憑依「われか将門を天皇の位につけ、菅原道真の霊がとりつぐ」と言った、というくだりがありますが、これは、おそらく、将門の怨霊にスゴみを持たせるため、怨霊界の先輩である道真の名前を出しただけの、後から付け足された物語でしょう。

なぜなら、将門は一言も「天皇になりたい」などと言った事はありません。

先程も書きましたように、あくまで許せないのは、東国にやって来る国司・受領であって、朝廷ではありません。

そして、将門の身体が鉄でできていて、唯一の弱点が“こめかみ”である・・・というくだりは、将門の邸宅の近くから出土している岡崎前山の製鉄遺跡に由来する物でしょう。

当時、このあたりで、盛んに製鉄が行われていた事を考えると、腕に覚えのある職人が、自分たちを守ってくれる正義のヒーローに、一番すばらしい甲冑をプレゼントするのは、容易に推理できる事、そして、それが「全身が鉄」という伝説になっていく事も、簡単にわかりますね。

では、それらの伝説を後付けして、将門を大怨霊にしたてあげてしまったのは誰でしょう?

それは、他ならぬ朝廷ではなかったか?と思うのです。

朝廷は何よりも将門が怖かった・・・

都では、はびこる藤原政権に民衆は不満ムンムン・・・それなのに東国では、民衆のハートをバッチリ掴んだヒーローが力をつけて“新皇”を名乗りだす。

彼を消せば何とかなるだろう」と思って、討伐してみたけれど、彼が死んでも、彼を愛する東国の人々の心はどうにもならない・・・。

死んでもなお、人気の衰えない東国のヒーローを、誰よりも怖かったのは、都にいた朝廷の人々であったに違いないと思うのです。

そして、そこに拍手を送るのは、民衆・・・彼ら民衆が、死んでもなお、朝廷を怖がらせる東国の英雄に、密かに感謝していた事は間違いないでしょうね。

京都・膏薬図子のくわしい場所は、管理人運営の本家HPの平安京魔界MAPへどうぞ→
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2007年2月13日 (火)

戦国時代の食べ物事情

今日は歴史のウラ話・・・

戦国時代のお食事事情・・・特に合戦に持参した携帯食などをご紹介します。

・‥…━━━☆

「そら~、戦国時代は大変やったんやでぇ。
毎日々々、戦、戦・・・やしなぁ。
 

いつでも、なんぼかの食糧を蓄えとかんと心配やし、食事はいっつも、朝と夕の2回の雑炊だけ・・・今みたいに、昼ご飯は食べへんかったんやで~。 

ただ、兄貴が山へ狩りに出かける日は、兄貴が昼ご飯を持って出かけるさかい、一回余分に…それも、持ち運びできるように、雑炊やなくてご飯を炊くんよ。 

ウチらは、その残りをもらうのが楽しみやったわ~」

・‥…━━━☆

これは、江戸時代になって、戦国の頃の食事を思い出している人のセリフ・・・(私的解釈&推測入ってます)

そう、日本は戦国の頃まで、食事は朝夕2回でした。
それは、武士だって同じ・・・量もさほど多くなく、けっこう質素に暮らしていたんです。

ただ、普段はそうですが、合戦に出る時などは、やはり非常に運動量が多いため、先程のお兄さんのように、朝食と夕食の合間に間食をとったんです。

戦国時代も最初の頃は、合戦の時「食糧は、敵地で略奪する」という事が一般的に行われていましたが・・・いわゆる乱取りというヤツですね。

しかし、合戦をするという事は、勝った場合、その後その地を治める事になるわけですから、ヒドイ事をすれば、それだけ領民たちの反発をかう事にもなるわけで・・・それを考えると、やはり、略奪はよくないという事になり、だんだんと、兵糧を自分で持参して合戦に挑む、という形になっていきました。

Sengokuheisicc 戦国時代の記録によれば、いざ合戦!となれば、だいたい3日分くらいの食事は持参していたようで、布で腰にまいたり、縄で腰にぶら下げたりして出陣したそうです。

その後、いつの頃からか、合戦の時だけでなく、平常時も間食をとるのが普通になって、江戸時代には現在のように一日三食が一般的になったようです。

もう一つ、日本人が一日三食に移行する要因となった物に、禅宗のお坊さんたちが間食として習慣にしていた“点心”という物もあります。

中国から伝わった“点心”は、ご存知のように、おやつというよりは食事に近い物で、この習慣が禅僧から一般に広まったとも言われています。

では、合戦には、どのような食品を持っていったのでしょうか?

まずは、お餅・・・これは、今のお餅とあまり変わりません。携帯に便利な事も納得できますね。

それから、炒米(いりごめ)・・・玄米を鍋で炒って作った物で、袋などに入れて持ち運びそのまま食べました。今のスナック菓子のような感じですが、ちょっと固そうですね。

そして、当時、最もメジャーだったのが干飯(ほしい)・・・これはお米を普通に炊いて、一度水洗いし、バラバラにして乾燥させた物。
やはり袋に入れて持ち運び、そのまま食べる事もできますし、陣笠や兜を鍋の代わりに使ってお湯を沸かし、そこに投入すればインスタントご飯のできあがり、カップめんみたいですね。

また、調味料として重宝されたのがお味噌です。

煮豆をすりつぶして、麹(こうじ)と一緒に袋の中に入れてそのままぶらさげて出発!戦場に着く頃には、ちょうどお味噌になっている・・・これは、陣立味噌と呼ばれました。

あと、里芋の茎をお味噌で煮詰めてから乾燥させ、縄のように編んで腰に巻く・・・これは、いもがら縄と呼ばれ、最もポピュラーな方法です。
やはり、先程の干飯と同様、お湯に溶かせば味噌汁になります。

もちろん、今でも重宝される梅干も貴重な携帯食糧でした。

ところで、合戦の時には、そのような携帯に便利な食事でしたでしょうが、合戦の時以外はどうだったのでしょう?

戦国時代の武将がよく食べた食べ物に、時代劇などでもよくその名前を耳にする湯漬(ゆづけ)という物があります。

これは、先日このブログでも書いた三方ヶ原の合戦(12月22日参照>>)の時の徳川家康『命からがら城に逃げ帰った後、城門を開け放ち、門の周辺を明々とかがり火で照らし、自分は湯漬を食べて「疲れた~」と言って寝てしまった』というくだりで登場しました。

この湯漬は、言わば“お茶漬け”ですが、現在のお茶漬けとは、ちょっと違います。

まず、ご飯をお茶碗に盛る前に、一回お湯で洗います。
その後、お茶碗に盛って、もう一度、白湯をかけます。

そして、ご飯だけを食べ、お湯は吸ってはいけない・・・というルールでした。
室町時代頃から、宴会の席で、この湯漬が出るようになったそうです。

やがて、戦国時代も半ばになると、白湯の湯漬だけではなく、味噌汁をかける湯漬も登場します。

こちらの場合は、ルールはなく、汁も飲んで良い事になっていましたが、逆に食べる人の器量を計るアイテムと化します。

それは、茶碗に盛ったご飯の量に対する、かける汁の量・・・。

関東に勢力を誇った北条氏康が息子・氏政と食事をとった時のエピソードに、こんな話があります。

氏政が自分の茶碗に2度味噌汁をかけたのを見た氏康は、「人は何度も食事をするうち、自然とご飯にかける汁の量を、感覚で覚えていくものなのに、その不器用さでは情けない・・・北条家の先が思いやられる」と嘆いたというのです。

果たして、氏政さんは、お父さんが心配したほどではなく、どちらかと言えば名将と呼ばれる武将に成長しましたが、結局、最後には、天下目前の豊臣秀吉に倒され、北条家は滅亡(7月5日参照>>)してしまうわけで、不安が当たったと言えば、当たった事になりますね。

★合戦時の出陣の儀式で食べる物については【軍師のお仕事・出陣の儀式】をどうぞ>>
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2007年2月12日 (月)

一周年にあたって・・・

 

いつも『今日は何の日?徒然日記』にご訪問くださってありがとうございます。
おかげさまで、このブログも、今日で1周年を迎える事ができました

・‥…━━━☆

思い起こせば昨年の今日、2月12日が、このブログの始まりでした。

「アッ!見ないで下さい!最初はブログの目的も定まらず、ブログ自体にも慣れていないため、今となってはとてもお恥ずかしい記事でございます。」

最初の方の記事は、「1年間やったよ!」という証しみたいな意味で排除せずにいるような物で、手探り状態であたふたしているのが丸出しの記事でございます~。

ただ、自分がもし、このようなブログを見つけたら、まず、「自分の誕生日の日には何があったんだろう?」と見てみると思ったんです。
その時、自分の誕生日の日付に、何も書かれていなかったら、ちょっと寂しい・・・

それで、とにかく一年目は毎日更新を目標に掲げてupしてきました。

正直、この一年間ブログをやってきて、その日の出来事を調べているうち「今日は、アレも書きたい!コレも書きたい!」と迷う日もあれば、得意な分野が無くて「今日は書けないよ~」と悩んだ日もありました。

恥ずかしながら正直に言いますと、一周目にして「今日は書けない」と思った日は、二周目は、もう無理です。
とてもじゃないが書けましぇ~ん。

ただ、それと同時に、「この事を書きたい!」と思っても、日付がはっきりしない出来事はブログにupできない・・・という事にも悩まされました。(私が日付を知らないだけ・・・という場合もありますので、そこはご了承下さい)

そこで、この一周年という区切りの日を迎え、少しこれからの方向を思案してみました。

もちろん、「今日は何の日?」というテーマは、ベースとして続けていきたいと思いますが、この一年のような“毎日”という“かせ”を外して、「書きたい時に書く」という方針で進めて行きたいと思うのです。

そして、その合間に、日付が明白でないような歴史のウラ話やエピソードを、コラムのように織り交ぜたいと思います。

そうなると、私の趣味でもある史跡めぐり、お寺めぐりに行った時の感想なんかも、日記ように書いてみるのも良いかな?とも思っています。

また、最初は、「いつまで続けられるかわからない」といった気持ちで始めたこのブログが、今では、「長く続けていきたい」と、思うようにもなりました。

長く続けるためには、あせらず、無理をせず、時には更新しない日がある事も、必要かと思います。
(そんな時は、一年前の日付の記事を覗いてくださるとウレシイです)

ガムシャラにやってきたブログも、ここで少し落ち着いて、自分のライフワークとするために、ちょっとばかり方向転換をさせていただく事を、今日の“記念日(?)”に、ご報告させていただきたいと思います。

Indoormamacc

これからも『今日は何の日?徒然日記』をよろしくお願いいたします。
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2007年2月11日 (日)

建国記念の日と神武天皇

 

今日は2月11日、『建国記念の日』です。
戦前は『紀元節』と呼ばれ、四方拝天長節明治節とともに四大節として祝われました。

・・・・・・・・・・・・

ご存知、この2月11日という日付は『日本書紀』にある初代・神武天皇が即位した日を、そのまま新暦のグレゴリオ暦に換算した日付で、これが決定された明治五年には、この即位の年を元年とする“皇紀○年”という年号の表記もありましたが、現在はほとんど使われていません。

戦後、様々な論議を呼び、一旦廃止されましたが、昭和四十一年(1966年)に国民の祝日として復活しました。

建国記念日ではなく、建国記念“の”日とされるのは、この日を「建国された日」として祝うのではなく、「建国された事を記念する日」として祝う、という考えに基づいての事だからです。

Doguucc_3 神武天皇とは、アマテラスオオミカミの孫で、高天原から天降った“天孫降臨”で知られるニニギノミコトから続いて、ホヲリノミコト(山幸彦)ウガヤフキアエズノミコ神武と続く、アマテラスから五代目の子孫となるカムヤマトイワレヒコノミコトの事。

そのイワレヒコが45歳の時、九州の地を離れ、「もっと政治をしやすい土地はないか?」と、兄と一族を連れて東へ進軍する・・・これが“神武東征”と呼ばれるお話です。

日向・高千穂宮(たかちほのみや)を出発した御一行は、船団を組んで速水の門(はやすいのと・豊後水道)から、筑紫宇佐へやってきます。

ここで、約一年過ごした後、安芸(広島)多祁理宮(たけりのみや)に七年、吉備(岡山)高嶋宮に八年と各地を転々とし、やがて浪速(なにわ)に上陸します。

そして、青雲の白肩津(大阪内)という場所で、このあたり一帯を統治していたトミノナガスネヒコとの戦闘に・・・この戦いで、兄のイツセノミコトが戦死するなど、大きな痛手を被って、一旦、船で敗走します。

「日の御子である自分が、日に向かって戦った事が敗因、次からは日を背にして戦う事にしよう」と、う回して、今度は和歌山・熊野から上陸。

ここでは、大熊の毒にやられて全員が失神して倒れてしまいますが、「夢のお告げで助けに来ました~」と言う高倉下(たかくらじ)という男の持ってきたフツノミタマという刀のおかげで、皆が正気に戻って、めでたく復活。

その後、アマテラスオオミカミからつかわされた八咫烏(ヤタガラス・けまりの守り神から今ではサッカーの守り神?)の道案内で、吉野を抜け、土地の神様を味方にしながら、いよいよ宇陀(奈良県宇陀郡)に到達します。

宇陀はエウカシ・オトウカシという兄弟が治めていましたが、弟・オトウカシが、イワレヒコチームに寝返り、兄の手の内を暴露してくれたおかげで、兄・エウカシを成敗します。

そして、今度は奈良側から先のナガスネヒコと対決!

日本書紀では、金色に輝く鵄(とび)が飛来して、イワレヒコの弓にとまり、その光に目がくらんだナガスネヒコは、戦わずして敗れ去ったとなっています。
(だったら、最初の戦いの時に飛来しろよ!って気もしないではないですが・・・)

やがて、エシキ・オトシキという兄弟を撃破した頃、河内一帯を治めていたニギハヤヒノミコトが登場。

彼は、ニニギノミコトとは別ルートで降臨し、ナガスネヒコの妹と結婚していたにもかかわらず、なぜかあっさりと宝物を献上して、イワレヒコ傘下に納まり、無事東征は終了

奈良の畝傍白檮原宮(かしはらのみや)を建て、イスケヨリヒメと結婚して即位しました。

初代天皇・神武天皇の誕生です。

これが皇紀元年1月1日、換算して紀元前660年2月11日・・・という事です。

また、今日は『万歳三唱の日』という記念日でもあります。

これは、明治二十二年(1889年)の2月11日、もちろん、この日は紀元節の日でもあったわけですが、明治政府が『大日本帝国憲法』を発布した日でもあります。
(大日本帝国憲法・発布については2012年2月11日のページで>>)

その日、憲法発布の記念式に出席する明治天皇を、東京第一高等中学校の生徒一同が宮城(皇居)の前で、お出迎えしようと考えていました。

こういう時、外国では元首に叫ぶ歓呼の言葉がありましたが、当時の日本にはまだありませんでしたので、大学の先生たちが集まって話し合った結果、「万歳、万歳、万々歳!」と叫ぼうという事になりました。

そして、当日・・・明治天皇が近づいて来られたろの時、生徒たちは、はりきって「万歳!」第一声を高らかに叫んだところ、その声に驚いた馬が棒立ちとなってしまい、自然と第二声めの「万歳」はメッチャ小さい声に・・・そして、三声めの「万々歳」叫ばれる事なく終ってしまったのです。

・・・で、それ以来、万歳を叫ぶ時は、「万歳」だけが3回繰り返される『万歳三唱』となったという事です。

事前に、馬の前で、一度「万歳三唱」の練習をしとけば、今も「万歳、万歳、万々歳!」という「万歳三唱」になってたかも知れませんね。
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2007年2月10日 (土)

日露戦争勃発!

 

明治三十七年(1904年)2月10日は、日本側の宣戦布告により、日露戦争が始まった日とされています。

・・・・・・・・・・

そもそも、日露戦争はどのようないきさつで始まったのでしょうか?

そのお話は、日露戦争の前の日清戦争から始めましょう。

西郷隆盛らが一戦を退いてから、事実上の政権を握った大久保利通の時代・・・朝鮮からの攻撃に応戦する形で、江華島・永宗島を攻撃した“江華島事件”

これによって、勝った形の日本は朝鮮との間に“日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)を結びますが、内乱を機に朝鮮の主導権を握りたい清国(中国)は、日本と対立・・・そして、始まったのが日清戦争・・・(6月2日参照>>)

この戦争に勝利した日本は、清国に対して5項目の要求を突きつけます(下関条約)
1、朝鮮の独立を認める。
2、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ぼうこ)諸島を譲る。
3、賠償金:2億両(3億1千万円)
4、沙市・重慶・蘇州・広州の港を開く。
5、ヨーロッパと同条件の日清通商航海条約を結ぶ。

これを聞いた清国は、ドイツフランスロシアに泣きつきます・・・というより、ロシアは満州を狙っていましたので、どっちみち遼東半島が日本の手に渡る事を無視するわけにはいきませんでしたから、むしろ進んで、ドイツ・フランスを誘い、3つの国を合わせた強大な軍事力をちらつかせて、遼東半島を清国に変換するよう求めます三国干渉

さすがに、日本には、この3つの国全部を相手にする力はありませんから、しかたなく、遼東半島の返還に応じます。

そこに、食いついて来たのが欧米諸国。

このドサクサに紛れて、ドイツは山東半島を、イギリスは九竜半島を、フランスは広州湾を、そしてロシアは遼東半島を、勝手に分割して支配してしまったのです。

アメリカも、清国の分け合いには加わらなかったものの、ハワイとフィリピンを領土としてしまいました。

えぇ・・・?日本が勝ったんじゃなかったの?
しかも、清国に返したはずの遼東半島がロシアの物になっちゃうってどーゆー事?

このままでは、いけません・・・何とかしなくては・・・。

その間に、事実上植民地となってしまった清国の中から“義和団”なる団体が出現します。

彼らは、『扶清仇教(清国を助け邪教を追放する)の旗を掲げ、宗教がらみの集団となって過激な行動に出ます。

やがて、統治していた連合軍と衝突する頃になると、清国の軍隊は義和団に付き、これが清国の正規の軍隊となります北清事変

しかし、この大騒ぎを鎮圧させたのが、日本・・・この事によって、日本は欧米各国から、一目置かれるようになるのです。

やがて、満州を支配下に置くロシアは、徐々にその勢力を広げ、朝鮮にも干渉して来るようになります。

そこで、日本はイギリスと「日英同盟協約」を結びます。

先の「三国干渉」の時には声をかけても、振り向いてくれなかったイギリスですが、今は少し状況が違います。

・・・で、日本は強大な味方を得て「ねぇ、ロシア君、僕には、強~いイギリス君も味方についてくれてるんだから、満州から出てってよ」ってな感じですが、まったくロシアは満州から撤退しません。

それに対して日本は、全力を傾けてロシアと戦う事を決意をします。

明治三十七年(1904年)2月10日、ロシアに「宣戦布告」・・・日露戦争の勃発となったのです。

こうして、あらためて見てみると、占領々々の嵐・・・すごい時代だったんですね。
 

★日露戦争関連ページ
  ・【日露戦争~旅順と仁川沖・同時海戦】
  ・【力づくの勝利~日露戦争・黄海海戦】
  ・【日露戦争のキーポイント~旅順・陥落】
  ・【日本軍・極寒の奉天占領!】
  ・【日本海海戦・伝説の東郷ターンは?】
 

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2007年2月 9日 (金)

今日は漫画の日なので・・・

 

平成元年(1989年)2月9日は、手塚治虫さんのご命日・・・という事で、今日は“漫画の日”という記念日だそうです。

・・・て事で、今日は漫画とアニメについて・・・
すいません、めずらしく(いや、初めてかも)歴史の話ではありません。

・‥…━━━☆

私も、漫画とテレビアニメで育った人間で、手塚治虫さんの影響も少なからず受けている世代です。

手塚さんの人物像や経歴などは、くわしく書かれているファンの方がたくさんいらっしゃいますので、私はあくまで、テレビや雑誌を夢中になって読んでいた一読者として、思うところを書いていきたいと思います。

ただ言える事は、やはり手塚さんがいなかったら、現在のジャパニメーションと呼ばれる日本のアニメは無かったでしょうね。

一昔前に、外国の人は「通勤電車の中で日本のサラリーマンが漫画を読んでいる事を不思議に思う」というのを聞いた事があります。

それは、外国では漫画は、子供の見る物だから・・・という事ですが、その国の漫画が子供の見る物のレベルなのは、その国に手塚治虫さんがいなかったからにほかならないのです。

手塚さんのおかげで、日本の漫画は格段にレベルアップしたのは確かです。
そのコマ運びと言い、場面の展開と言い・・・そして、何よりもストーリーです。

漫画がテレビアニメになると、字の読めない小さな子供たちもそれを目にする事になり、それは、子供の心に深く刻まれる事になります。
そうなると、特にストーリーは重要です。

手塚さんの作品は、子供にも理解できる筋書きでありながら、大人が見ると、見え隠れする深いテーマが存在するのです。

子供の頃の記憶であいまいなのですが、アトムの一場面で、人工知能を持つロボットたちが、「ロボットは人間に、ただこき使われているだけ・・・もう我慢できない、ロボットにも人権を!」と一致団結して立ち上がる・・・といったストーリーがありました。

子供心に、考えさせられる場面でした。

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そして、手塚作品に限らず、アニメにとって何より重要だと思うのは最終回です。

秀作のアニメという物は、「最終回に見ている側のスイッチをOFFにする」という事をちゃんとやってくれている物です。

アトムは、発射されたミサイルの軌道を修正するために、ミサイルを抱きかかえたまま、太陽に向かって突進して行きました。

好きだったアニメが終ってしまうのは悲しい事ですが、きっちりとした最終回を見せる事によって夢物語から現実の世界へ、子供の心は戻されるのです。

最近のアニメは、きっちりした最終回がない物があり、少し寂しい気がします。

雑誌で人気があれば、「長く続けて下さい」と言われ、アニメは番組改編の時期を迎えると終らせる・・・といった事で、原作者の思いとは違う終り方をしている物も多いのだと思います。

しかし、サリーちゃんは、最終回で初めて友達の前で魔法を使い、別れを告げて魔法の国に帰ります。

モロボシダン(アニメではありませんが・・・)はアンヌ隊員に、自分がセブンだった事を告げて宇宙に帰ります。

たしか、大魔王は、最後のクシャミを我慢できなかった主人公に別れを告げて何千年の眠りにつきます。

やはり、ここで、スイッチをちゃんとOFFにしておかないと、小さな子供の心の中には、ちょっとしたトラウマとなって残ったままになってしまうのではないかと思います。

現在放送中のアニメ・・・特にドラちゃんなどは、どのような最終回になるのか、とても関心の持たれるところですが、是非々々、心にモヤモヤが残る事のない、しっかりした最終回にしていただきたいと思います。
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2007年2月 8日 (木)

日本一低い、天保山造成

 

天保二年(1831年)2月8日、大阪湾にそそぐ安治川の土砂を総ざらえして積上げた天保山が造成されました。

・・・・・・・・・・

天保山とは、大阪にある日本一低い山です。

標高4メートル53センチ・・・人工の山という事で、異論は囁かれますが、一応国土地理院発行の地形図に山として名前が載っているので、正式な山とされています。

私が子供の頃はあまり人出も多くなかったですが、現在は海遊館や大観覧車など、一大レジャーゾーンとして大人気!観光名所として、他県のかたでも、その名前はよくご存知でしょう。

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もともと、神代の昔は上町台地だけが陸地で、大きな入り江だった大阪の町は、江戸時代になっても、たびたび洪水に悩まされていたんです。

それを、九条島のど真ん中を割って、淀川が直接大阪湾に流れ出るように大工事が行われたのは、貞亨元年(1684年)のこと。

大変な工事でしたが、この安治川の完成は、洪水防止と海運事業へ画期的な影響を与えるものでした。

しかも、続いて行われた土地の造成と新田開発と、あいまって大阪の町はさらに大きく発展する事となります。

しかし、この人工の川はとにかく土砂がハンパなく溜まりまくり・・・

大阪町民は自ら積立金などしながら、幕府の川奉行の監督のもと、定期的に川ざらえをしていましたが、とてもじゃないが、おっつかない・・・。

「一度大工事を・・・」と幕府にお願いしても、幕府はまったくの無策・・・。

たまりかねた住民が自腹を切って下から突き上げ、ようやく幕府が重い腰をあげたのが今日・・・天保二年(1831年)2月8日です。

過去に例の無い大規模な川ざらえには、一般町民をはじめとする延べ10万人が動員され、2年の歳月をかけて完了に至りました。

そして、安治川の河口の南側に頑丈な高さ9メートルの石垣を造り、さらえた土砂を、そこに集めたおかげで、約18メートルほどの盛土となり、合計27メートルのりっぱな山が出来上がったのです。

「船の出入りに格好の目印となる」と人々は大喜びで、この山を最初は『目印山』と呼んでいたのが、いつしか、元号をとって『天保山』と呼ばれるようになりました。

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山の少ない大阪にできた新名所。

植えられた桜が花を咲かせる頃には茶店もでき、春は花見、夏は舟遊び、冬は雪見・・・しかも、大阪湾で捕れる新鮮な魚貝類がグルメの舌もうならせます。

まさに、江戸時代の天保山も今のように一大レジャーランドとなっていたのです。

しかし、幕末の元治元年(1864年)、幕府がここに砲台を設置。

さらに、明治五年(1872年)には、その砲台の跡に灯台を造り、加えて明治三十年(1897年)には、大規模な築港工事が行われたために、徐々に削られて形を変えていった天保山。

気付けば、標高4.5メートルの、日本一低い山になってしまっていました。
しかし、日本一は日本一!

たとえ山は低くなっても、平成の世に再び一大レジャーランドによみがえった天保山を見て、江戸の昔に幕府を動かした大阪庶民たちは、大いに拍手を送ってくれている事と思います。
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2007年2月 7日 (水)

青葉の笛~一の谷の合戦

 

寿永三年(1184年)2月7日は、源平合戦の中でも名高い一の谷の合戦のあった日です。

・・・・・・・・・・

前年、木曽義仲によって京を追われ、西海に逃走していた平家(7月25日参照>>)

その後、源頼朝と義仲の対立によって源氏同士がモメている間に、屋島から少し戻り、かつて平清盛が一時都を構えた福原(現在の神戸)(11月26日参照>>)に落ち着いていました。

しかし、寿永三年(1184年)の1月、頼朝の命を受けた弟たち=範頼(のりより)義経(よしつね)兄弟が、かの義仲を討ち取って(1月20日参照>>)、大阪・摂津に入ると、いよいよ次のターゲット=平家に狙いを定めます。

合戦も近い事を悟った平家軍は、一の谷に西の城郭を構え、生田の森(現在の生田神社)を正面大手口として守りを固めます。

対する源氏軍は、範頼が5万6千の兵を率いて大手・生田の森から、義経が2万の兵を率いて搦手(からめて)一の谷から攻めかかる作戦とし、2月6日の明け方には準備を整え、配置につきます。

そして、寿永三年(1184年)2月7日の朝早く、一の谷・西の城郭から歴史に残る合戦の火蓋が切られるのです。

それにしても、この一の谷の合戦は、平家物語でも屈指の名場面揃い・・・。

生田の森の激戦・・・(2013年2月7日参照>>)
義経の鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし・・・(2008年2月7日参照>>)
そして、一の谷の大将・忠度(ただのり)の最期・・・(2009年2月7日参照>>)

今回は、その中でも最も泣ける名場面・青葉の笛で知られる美少年・敦盛の最期と決めました~。

・・・・・・・・・・・・

朝6時頃始まった一の谷の合戦も、5時間程で終盤にさしかかり、次々と平家の名だたる武将が討ち取られ、すでに勝敗は目に見えていました

西の城郭に一番乗りの名乗りをあげた熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、「もはや負けが決まった平家軍・・・こうなったら、名のある武将が海へ逃げようとするに違いない」と考え、もう一つ手柄をたてようと、海岸へ馬を進めました。

浜辺へたどり着くと、今まさに一人の武者が、波打ち際から沖の船へめがけて、馬で海に入った所に出くわしました。

練緯(ねりぬき)に鶴ぬうたる直垂(ひれたれ)に、
萌黄匂いの鎧を着て、
鍬形
(くわがた)打つたる甲の緒をしめ、
(こがね)作りの太刀をはき、
二十四差いたる切班
(きりふ)の矢を負い、
滋藤
(しげどう)の弓持って、
連銭葦毛
(れんぜんあしげ)なる馬に、
金覆輪
(きんぷくりん)の鞍置いて、
乗ったる武者ただ一騎』

・・・長~いファッションチェックですが、とにかく、高級なブランド品に身を包んで、名馬に乗っためちゃめちゃカッコイイ武将が、そこにいたわけです。

「そこにいてんのは、名のある大将軍やろ?敵に後ろを見せて逃げるやなんて、カッコ悪いでっせ。引き返して来なはれ~」

この直実の呼びかけに答え、その武者は海から引き返して来ます。

岸にあがろうとするところを、直実はガシッ!と組み、相手もろとも浜辺の上にころげ落ちます。

そして、サッと体を返し、相手の上に回り、上から押さえつけて首を切ろうと、刀を大きく振り上げます。

そこで、ふと、自分の下に組み敷かれている武将の顔を見た直実・・・その人は、年の頃なら16~7歳・・・顔には薄化粧をほどこした匂うような美少年。

あまりの美しさに、どこに刀を突き立ててよいかわからない・・・。

しかも直実には、同じ年頃の息子がいます。

その息子が、今日の一の谷の合戦で少しばかりケガをした・・・
「そんなちょっとしたケガでも親(自分)は心を痛めるもんやのに、もし、この人を討ってしもたら、その親はどんなに悲しむ事やろ・・・」

直実は心を決めました。

「もう、すでに勝敗は決まった・・・アンタを斬ったところで、負ける戦に勝つわけもなく、斬らへんからと言って、勝つ戦に負ける事もない・・・命はお助けするさかいに、名前を教えてくれ」

そう言って刀を引っ込めました。

「そう、おっしゃるアナタはどなたです?」
若武者が聞きます。

「俺は、たいしたヤツやない・・・武蔵の国の熊谷次郎直実というモンや」

「ほんなら、僕はアナタにとって良い相手やと思いますよ。思うところがあって名乗る事はしませんけど、僕の首を取ったら誰かに尋ねてみるといい、きっと僕を知ってる人がいてるから・・・」

その気品ある立ち居振る舞いに、直実はますます彼を殺せなくなり、その場を立ち去ろうと、後ろを向きました。

直実は愕然とします。

振り向いたその先に、土肥実平(どいさねひら)梶原景時(かじわらかげとき)の二人が50騎ばかりの兵を引き連れてやって来るのが見えたのです。

もう、無理です。

二人っきりなら何とかなりますが、大勢の武者たちの前で、多分大将クラスの武将をそのまま見逃すわけにはいきません。

若武者の方に振り返った直実の目には、もう涙があふれて止まりません。

「申し訳ない。見逃そうと思たけど、こうなったら俺が見逃しても、誰かがアンタの首を取るやろ。どうせ、誰かの手にかかるんなら、この直実が討つ!」

そう言って、もう後先わからず、無我夢中で刀を振り下ろしました。

直実はしばらくの間、そこに立ちすくんで泣いていましたが、ようやく我に返り、その若武者の首を包もうと着物を脱がせました。

すると、その若武者が腰の所に、錦の袋に包んだ笛をさしているのを見つけたのです。

直実はふと、昨日の夜の事を思い出します。

昨日の夜・・・決戦を間近にひかえ、不穏な空気に包まれていたこの一の谷一帯・・・。

その時、どこからともなく、美しい笛の音が聞こえてきたのです。

Aobanofuecc

夜空に響くその笛の音は、そこが戦場である事を忘れさせ、源氏にも平家にも分けへだてなくひと時のやすらぎを与えてくれたのです。

「ゆうべの笛の音は、この人やったのか・・・。」

『・・・当時味方に東国より上ったる勢、何万騎かあるらめども、軍(いくさ)の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈(じょうろう・身分の高い人)は、なおもやさしかりかり』
「味方の東国武士は何万といるけど、戦場に笛を持ってくるような風流なヤツはいてない。
やっぱり、都の高貴な人は違うもんやなぁ」

直実は、この事をきっかけに、武士の空しさを知り、仏門に入る決意をするのです(11月25日参照>>)

後に首実検で、この若武者は、平清盛の弟・経盛の息子の平敦盛(たいらのあつもり)であった事がわかるのでした。

滅び行く者のあわれ・・・涙をさそう名場面です。

このお話の続きは【2月19日:屋島の合戦】へどうぞ→

一の谷の合戦で捕えられた平重衡については【3月10日:重衡と輔子】へどうぞ→
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2007年2月 6日 (火)

千姫・ご乱行の真相

 

寛文六年(1666年)2月6日は、あの千姫さんのご命日です。

・・・・・・・・・・・

♪吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で♪
という歌。

この歌は、2度も夫と死別した千姫が、まだ30歳の女ざかりをもてあまし、吉田御殿と呼ばれた彼女のお屋敷から、男を誘う様子を歌った物だと言われてきました。

千姫は、通りがかりのイケメンをお屋敷に連れ込んではお楽しみ・・・飽きたら惨殺して井戸に投げ込む・・・何度もそんな事を繰り返すうち、御殿のまわりは、雄猫さえも通らなくなったと言います。

ある時、自分の弟子が行方不明になった事を不審に思った大工の棟梁が、御殿に殴りこみ、大騒ぎに・・・この事で、一連のご乱行が発覚する事を恐れた千姫は自ら自害をするのです。

・・・って、これは江戸時代の本に書かれた千姫のご乱行

でも、皆さんおわかりのように、この話は完全にでっちあげです。

この時、千姫が自害していたなら、当然30歳過ぎで亡くなった事になりますが、実際のご命日は、寛文六年(1666年)2月6日・・・そして、その年齢は70歳です。

では、なぜ?あの徳川家康の孫で二代将軍・秀忠の娘という由緒正しきお姫様に、こんなスキャンダラスな汚名が着せられる事になっちゃったんでしょうか?

千姫と言えば、あの大坂夏の陣(5月8日参照>>)で、燃え盛る大坂城から救い出される名場面を思い起こすかたも多いでしょう(私もそうです)

千姫は、わずか7歳の時に豊臣秀吉の遺言で、秀吉の息子・秀頼に嫁ぎます。

その時、秀頼は11歳・・・当然、政略結婚です。

やがて、訪れた大坂の夏の陣の時、敵将の妻となっている孫娘を助けたい一心の家康が「千姫を助けた者に、千姫を妻として与える」と言った事に勇気を奮い立たせ、炎の中をくぐり抜け、決死の覚悟で千姫を救出した坂崎出羽守直盛(さかざきでわのかみなおもり)・・・

しかし、その時、大ヤケドを負ってしまった直盛の顔を見て、千姫は結婚を拒否。

江戸城へ帰る途中、見つけたイケメンの本多忠刻(ただとき)と結婚します。

そして、「約束が違う!」と怒った直盛は、将軍命令無視の出社拒否し、当然、その態度に幕府もカンカンで、結局、直盛は切腹し、坂崎家はおとりつぶしに・・・。

一方の千姫も、再婚相手・忠刻が、わずか10年後に死んでしまい、先程のご乱行・・・と、なるのですが・・・。

さすがに、ご乱行は後から付け足されたありえない話だとわかりますが、大坂の陣の救出劇は、昔にドラマを見ていて、私自身けっこう信じてたんです。

子供心に、「命がけで助けてくれた人に、ヒドイ態度をとる千姫さんをイケズなお嬢様・・・」と思ってしまっていました。

しかし、実はこの救出劇も、でっちあげなのです

大坂城から千姫を救い出したのは、豊臣方の堀内氏久で、救出ではなく、護衛なのです。

落城間近の大坂城内で、城方の大野治長が千姫に、「おじいちゃんに淀君と秀頼の命を助けてくれるように頼んでよ」と頼み、千姫もそれを承諾・・・

そして、自らの意思で、護衛の堀内と一緒に脱出し、一番近くにあった坂崎の陣に向かった・・・というのが、今のところ最も真相に近いようです。

事実、堀内は、最後まで大坂城内で抵抗した豊臣方の武将でありながら、戦後に旗本に取りたてられ、領地も貰っています。

残念ながら、彼女の願いは届かず、淀君と秀頼は自害となってしまいますが・・・。

そして、やがてやって来る本多忠刻との結婚・・・。

これも、彼女の意思ではありません。

この結婚は、忠刻の母親の熊姫が望んだ結婚でした。

実はこの熊姫も、家康の孫・・・。

家康が、織田信長の命令で自害させたとされる長男・信康(11月27日参照>>)の忘れ形見なのです。

熊姫は、あの忠臣・本多忠勝の息子・忠政と結婚し、生まれたのが忠刻でした。

熊姫の狙いは、千姫が持ってくるであろう莫大な持参金と、将軍家との姻戚関係

年老いた家康に頼み込んで、息子との結婚を承諾させたのでしょう。

信康の一件もあって、何かと不憫に思う孫娘のお願いを、おじいちゃんは聞いてやりたかったのかも知れません。

・・・がしかし、ここに登場するのが、先程の坂崎さん。

実は熊姫が家康に頼み込む前に、千姫の父・秀忠が京都の公家に顔の広い坂崎に「千姫の再婚相手を探してくれ」と頼んでしまっていて、ある公家との結婚の話がほぼ決まっていたのです。

それが、突然、熊姫からの横やりが入って、あれよあれよと言う間に、本多忠刻との結婚が決まってしまったのです。

お公家さんとの結婚を蹴って、急に決まった忠刻との結婚を世間に納得させるには、「この結婚は、千姫様がお望みなのだ」という噂を流す事・・・

その噂は、熊姫が流したのか、はたまた家康か秀忠か・・・それは、わかりませんが、とにかく「千姫が、忠刻を好きで好きでたまらないから・・・」となると「ご本人がそうなら、しかたがないなぁ」と、なるわけです。

しかし、納得いかないのは、坂崎・・・。

・・・で、先程の出社拒否となるのですが、この時も幕府は、「騒動を起こしたため本人の処分は免れないが、直盛が切腹したなら、坂崎家の家名は守ると言っていたのです。

しかし、直盛は切腹する気配が無かったので、見かねた家臣が、酔っ払って寝ている直盛を殺害し、切腹したように見せかけたのですが、この事が後で発覚し、坂崎家は取り潰しになってしまうのです。

・・・で、こんな、ゴタゴタまで起こして結婚した忠刻と千姫でしたが、二人は意外に仲睦まじく、波乱の人生を歩んできた千姫も、ここでは心休まる日々を過ごしたようです。

しかし、その忠刻は結婚10年後にあっけなく死んでしまいます。

持参金を手にして姫路城に立派な櫓(やぐら)(2009年2月6日参照>>)を造る事はできましたが、熊姫が本当に望んだ徳川の血を引く世継ぎが生まれる事は無かったのです。

・・・で、後に残ったのは、千姫のウ・ワ・サ・・・

いつしか、忠刻が好きで好きでたまらない」という所の忠刻に変っちゃったんですね~。

ゴシップ好きの江戸庶民が、次から次へと尾ひれをつけてしまった結果が、冒頭に書いたご乱行・・・

実際の千姫さんは、忠刻の死後、仏門に入り、質素な余生をおくられ、70歳でこの世を去りました。

しかも、そこには、あの大坂城内での平和な日々に、実子のように可愛がっていた秀頼の側室の娘との、不思議なえにしを感じさせる逸話もあります(そのお話は2008年5月8日のページでどうぞ>>>)

*千姫にまつわるお話もある【姫路城の七不思議】もどうぞ>>
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2007年2月 5日 (月)

長崎二十六聖人殉教の日

 

1597年2月5日、長崎・西坂の丘で26人のキリスト教徒が処刑されたにより、今日2月5日“長崎二十六聖人殉教の日”とされています。

・・・・・・・・・・・

ブログの右サイドバーに書いてます通り、普段このブログでは、日付は、あくまで今日のブログに何を書くか?というテーマの突破口として、一般的に教科書等で使用されている、旧暦の日づけを表記し、そこに参考として西暦を()で表記するという形とらせていただいておりますが、今日の場合は西暦の日づけで書かせていただきます。

・・・というのも、この日処刑された26人の殉教者の話は、宣教師たちによってヨーロッパに伝えられ、1862年にローマ教皇によって、正式に聖人の列に加えられる事になるのですが、その時に現在の暦・グレオリオ暦になおして1597年2月5日が殉教の日とされますので、そのようにさせていただきました。

しかし、当時の日本の暦ですと、この日は慶長元年12月19日となり、年の暮れという事に・・・この処刑の日が、日本では、年の暮れだったという事は、気にとめておいたほうがよいかも知れません。

本日は、西暦の日づけで書かせてはいただきましたが、実は、この慶長元年の様々な出来事が、彼らに処刑の命令を下す豊臣秀吉心境に深くかかわっていて、最終的に年の暮れに・・・という事だと思うのです。

この年の6月、空には彗星が現れ、人々は不吉な事が起こる前兆ではないかと大騒ぎになりました。

すると翌7月、その通りに浅間山の大噴火が起きました。

その灰は風に乗って、滋賀や京都、もちろん秀吉のいた伏見にも降り注ぎました。

しかも、この時の灰に混じって、血の色をした物や、白い髪の毛のような物も降ったと言われ、巷は恐怖に包まれます。

しかし、天変地異はまだ続きます。

翌月・(うるう)7月(旧暦ではこの年は7月が2回ありましたには、近畿地方を大きな地震が襲います。

この時の余震は2週間以上にわたって続き、多くの建物が崩壊し、死傷者がたくさん出ました。

そして8月には、大きな台風の上陸です。

何とか地震に耐えた建物もこの台風で倒壊し、田畑は洪水となり、大変な被害をもたらします。

秀吉も、慌てて傷みの激しい大坂城の修復に乗り出します・・・実は、もうすぐ明と朝鮮の使節団が来る事になっていたのです。

文禄元年(1592年)に秀吉の朝鮮出兵によって始まった文禄の役(4月13日参照>>)・・・それが、ようやく終ったこの年にやって来た使節団

秀吉は、仲直りをするつもりでいたのでしょうか?

しかし、その会談はうまくいかなかったようで、秀吉は9月には、2度目の朝鮮出兵を命令しています。

彼らの事が秀吉の耳に入って来たのは、そんな時だったのです。

先の台風のあった8月26日、土佐沖に漂着したイスパニア(スペイン)船のサン・フェリペ号・・・乗客と乗組員は、土佐藩主・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の保護を受けていました。

この時、すでに秀吉によって“キリスト教の布教活動の禁止”が成されていました(12月23日参照>>)が、同時に難破船は保護するという約束もありました。

フランシスコ会士と乗組員の代表者・数名は、船を修理する許可と危害から身を守る保証書の公布を期待して秀吉に会いに行くのです。

しかし、秀吉は彼らとの会見を拒否。
即座に、増田(ました)長盛を土佐に派遣し、フェリペ号の積荷を没収します。

イスパニア人が海賊であり、キリスト教布教の後、占領する計画で、船は占領のための測量目的であった・・・という理由がつけられました。

この、一連の流れには、ポルトガル人の入れ知恵説元親・長盛の陰謀説通訳間違い説・・・など、様々な要因が推理されるわけですが、この年に起こった不吉な出来事への恐怖心も少なからずあったのでは?と思うのです。

天下人の秀吉が?・・・と、思いますが、先日【藤原頼通さんのご命日】2月2日参照>>)にも書いたように、お金と権力のある人ほど、お金と権力でどうにもならない事に恐怖心を抱くのではないでしょうか。

当時のフィリピンメキシコのように、日本の国がキリスト教一色になってしまう・・・という妄想と、数々の天変地異の恐怖があいまって、秀吉をより過激な行動へと走らせるきっかけになったという事も考えられます。

結局、彼らは大阪と京都で捕えられ、見せしめのため極寒の中を徒歩で長崎まで護送され、慶長元年12月19日(1597年2月5日)フランシスコ会士と日本人信徒ら26名が処刑されたのです。

これ以来、キリスト教への弾圧は、厳しさを増す事となります。

Zyuuzikacc

ただし、秀吉さんの名誉のために、一つ付け加えさせていただくと、日本が占領されるのではないか?という秀吉の妄想は、単なる妄想ではありません。

秀吉の“禁止令”発布の直後、日本イエズス会副管区長のガルパス・コエリヨは、キリシタン寄りの大名に対して秀吉に敵対するよう働きかけ、武器・弾薬の援助を約束し、フィリピンからスペイン兵を導入する事も視野に入れていました。

コエリヨの後を継いだヴァリアーノも、キリシタン大名に「長崎に武器・弾薬を集め、大砲を用意しろ」という命令書を出してます。

また、この事件の2年後の1599年には、スペイン人のイエズス会士ペドロ・デ・ラ・クルスが、イエズス会総長に「日本は海軍が弱く、兵器も不足しているので、もし国王陛下がお望みなら、我らが軍を出し、日本を奪う事も可能である」という意味の手紙も送っています。

彼らの“日本占領計画”なる物が本当にあったかどうか、確固たる証拠は今のところないわけですが、もしかして“禁止令”が出されなかったら、日本がスペインの植民地になっていた可能性も??・・・キリスト教への厳しい弾圧は、あながち、「秀吉さんの恐怖心から来る妄想」とは言い切れないという見方もあります。
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2007年2月 4日 (日)

諸行無常・平清盛の死

 

養和元年(1181年)2月4日、平家全盛の時代を築き、栄華を極めた平清盛が亡くなりました

・・・・・・・・・・

平清盛が亡くなる前の年・治承四年(1180年)は、まさに運命の年でした。

都を京都から福原に遷して、海外貿易によってこの国を変えようという夢の実現に奔走していた清盛・・・しかし、この年の近畿地方は大変な飢饉で、なかなか思うように事は運びません。

そんな中、4月には、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の息子)「平家追討の令旨(天皇家の命令書)を発し(4月9日参照>>)、5月には源頼政(よりまさ)とともに反旗をひるがえします(5月26日参照>>)

その戦いに圧勝した清盛は、半ば強制的に自分の孫・安徳天皇を即位させ、6月には福原に都を遷しますが、当然、その事に心から賛同する公家はほとんどいませんでした。

やがて、8月には伊豆で源頼朝(8月11日参照>>)9月には北陸で木曽(源)義仲(9月7日参照>>)相次いで挙兵します。

飢饉にあえぐ平家と、東国で力をつけてくる源氏・・・。

10月には対頼朝との富士川の合戦で、平家は大敗をしてしまいます(10月20日参照>>)(大敗とは言えないかも知れませんが…)

結局11月には、わずか半年で福原を捨て、もとの京都へ都を戻すのです(11月26日参照>>)

富士川の合戦での孫・惟盛の大将ぶりに、苛立ちさえ感じていたに違いない清盛・・・体制を立て直し、自らが出陣する覚悟を決めていた事でしょう。

ところが、準備も整い、明日はいよいよ出陣・・・という時、清盛は突然発熱するのです。

その発病がいかに突然で、まわりの人たちをアタフタさせたかは、『平家物語』にもよく現れています。

『比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船にたたえ、それに下りて給え給えば・・・』

とにかく、比叡山から霊験あらたかな水を汲んできて石の船に入れるとすぐにお湯になってしまい、もしやと思って筧の水を体にかけてみると、焼けた石や鉄の上のようにたちまち蒸発して、炎となった黒い煙が部屋中に渦を巻いた・・・というのです。

さすがに、この表現はオーバーですが、まわりの緊張感は伺えます。

体は、火のように熱く、清盛はただ「熱い、熱い」と叫ぶばかりで、清盛の寝ているまわり四~五間(10mたらず)くらいは、看病する人すら暑さに耐えられなかったとか・・・。

そんな苦しみの中でも清盛は、源氏追討の兵を挙げるように、息子・宗盛に命じ続けますが、祖父から父、父から自分と、言わば「たたきあげ」の清盛に対して、坊ちゃん育ちの二代目・三代目は、病気に苦しむ父親をおいて、合戦をする事ができなかったんですかね~。

清盛は枕元に宗盛を呼んで、遺言とも言える言葉を残します。

「保元・平治の乱からこれまで、幾度となく合戦で勝利し、恩賞にも預かり、天皇の外戚となって太政大臣にまでなった・・・

もう、何も思い残す事はない・・・

ただ一つの無念は兵衛佐(頼朝)の首を見れなかった事・・・俺が死んでも供養はするな!

堂塔もいらん!すぐに兵を挙げ頼朝の首をはねて、墓前に供えろ・・・
それが、一番の供養だと思え!」

Kiyomorikuyoutoucc この遺言のためでしょうか、清盛のお墓と言われる物は今もありません。

栄華を誇った六波羅蜜寺の本堂の横に、ひっそりと「平清盛公之塚」が建っていますが、これはお墓ではなく供養塔です。

そして養和元年(1181年)2月4日・・・清盛は死を迎える事になります。

発熱から、5日めの事でした。

平家物語には『・・・悶絶躃地(もんぜつびゃくち)して、遂にあっち死にぞし給いける。馬・車のはせちがう音、天もひゞき大地もゆるぐ程なり・・・』と、あります。

「あっち死」とは熱死という意味・・・熱い熱いと叫び、狂ったように苦しんで亡くなった清盛を、慌てふためく平家の人々はどのような思いて看取ったのでしょう。

東から迫る頼朝・・・北から来る義仲・・・大きな柱を失った平家は、この日から坂道を転げ落ちるかのように落日へと向かって行く事になります。

関連のお話は【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>
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2007年2月 3日 (土)

節分・豆まきの起源と鬼

 

2月3日は節分・・・

焼いたイワシの頭をヒイラギに刺し玄関に飾り、年の数だけ豆を食べ「鬼は外~福は内~」と豆をまく・・・

私の子供の頃は関西だけだった「巻き寿司のまるかぶり」の風習も、昨今の寿司業界の努力で、どうやら、恵方巻きという名前で全国ネットになりつつあるようです。

多の地方のかたは、あまりご存知ないようなので、少し付け加えさせていただくと、この「巻き寿司のまるかぶり」、その年の恵方(今年は北北西らしい)を向いて食べるのですが、1本丸ごと食べ終るまで、しゃべってはいけない事になってますから気をつけてね。

ちなみに、恵方は・・・
北北西=2007年・2012年・・・
南南東=2008年・2013年・・・
東北東=2009年・2014年・・・
西南西=2010年・2015年・・・
南南東=2011年・2016年・・・
・・・と、くりかえしで巡っていきます。

・‥…━━━☆

本来、節分とは、季節の変わり目を指す言葉で、春夏秋冬・年4回ありますが、今は「節分」と言えば春・・・立春の前の日の事を言うようになりました。

旧暦では元日~7日頃、新暦では2月3日4日になります。

もともとは、宮中で大晦日に厄を祓って新年を迎える儀式を節分と言いました。

「季節の変わり目には、に象徴される「悪」「厄」が生活の中に入りやすい」という考えは古来からあって、これを追いはらうのが「鬼やらい」つまり「豆まき」です。

豆は鬼の眼を打ち、イワシの頭はその臭いで鬼を寄せ付けないと考えられました。

Dscn4740acc 奈良時代、文武天皇の慶雲三年(706年)に諸国に疫病が流行したので、鬼儺(おにやらい)の儀式を行ったのが起源とされていますが、「豆まき」としては、平安時代の宇多天皇の頃(887年~897年)に「鞍馬山の奥の僧正ヶ谷(←写真)に住んでいた鬼が、都に乱入しようとしたので、豆を投げ鬼の眼を潰して回避した」と言われています。

やがて室町時代には、現在のように「鬼は外~福は内~」と唱えながら豆をまく・・・という形になります。

江戸中期頃には社寺の行事として行われ、浅草観音では、朝早くから豆をまく事のできる「整理券」を求めて参拝客が殺到し、「人の手、武蔵野の尾花(ススキ)のごとし」と称された程でした。

また、この頃からは、社寺や公的な場所だけではなく、広く民間&個人で「豆まき」が行われるようになります。

明治維新になって、少し低迷しましたが、明治時代の後期には再び復活し、現在のように盛んになるのです。

ところで、節分の日に全国一斉に豆をまかれて追っ払われてしまう「鬼」ですが・・・悪の権化のように思われるも、実のところ仏教一色になる前の古代の日本では、それほど悪いキャラでは無かったのです。

Oni1cc もともと「オニ」という言葉は「オン(陰)という言葉が変化した物だと考えられていて、形の見えない霊のような存在「鬼(オニ)と呼んでいました。

日本古来の山岳信仰では、人が死ぬとその霊が山に留まり、山の神様となる・・・どちらかと言うと、自分たちを守ってくれるご先祖の霊が鬼だったのです。

しかし、ご先祖様の霊をないがしろにすると、それは逆に怨霊となって災いをもたらします。

そんな両面を持っていた鬼が、仏教の伝来とともに、地獄の鬼のイメージと重なり、恐ろしい部分だけが印象付けられ、「悪=鬼」という構図になったのではないか?という事です。

また鬼は、正月に訪れる「年神」の一種ではないか?とも言われています。

年神」というのは、お正月に幸福をもたらす為にやって来る神様で、その年の恵方(年神様がやって来る方角)へ向けて、神棚やしめ縄、お神酒や鏡餅などを飾ってお迎えするのです。
もちろん門松もこの飾りの一つです(12月20日参照>>)

小正月に、これらの飾りを燃やす「とんど焼き(ドンド焼き、左義長と言ったりもします)のような火の祭りが行われるのは、これらの神様が帰って行くのを見送る・・・という意味が込められているという説もあります(1月14日参照>>)

「鬼=神様」という事に違和感を感じるかたは、有名な秋田の「なまはげ」を思い出してみて下さい。

「なまはげ」は、鬼のような風貌に包丁などを持っていかにも怖そうですが、訪問された一家の主は、正装してお酒をサービスして出迎え、明らかに訪問を喜んでいます。

鬼も「なまはげ」も、一家に幸福をもたらしてくれる神様なのです。

そんな中で、昔はこのお正月に神様を迎える行事は、一年の厄を祓う節分行事とワンセットになって、一緒に行われていたのです。

ところが、いつの程からか、これらの行事が別々に行われるようになり、厄祓いを担当させられちゃったのが、鬼・・・という事です。

ご先祖様にしても、年神様にしても、どちらにしても、昔の鬼は、今のような悪のイメージは無かったようです。

今でも、鬼は一年の厄を祓ってくれる良い存在・・・豆は退治するためではなく、お供え物として捧げる・・・という考えかたが、残っている場所もあるようですよ。

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2007年2月 2日 (金)

藤原頼通と平等院と末法

 

承法元年(1074年)2月2日は、藤原頼通さんのご命日です。

頼通さんと言えば、宇治・平等院・・・て事で、今日は頼通さんと平等院について・・・。

・・・・・・・・・・・

関白・藤原頼通(よりみち)は、あの栄華を極めた藤原道長(12月4日参照>>)の息子。

今思えば、道長と頼通の時代こそが、藤原氏が最も栄華を極めた時代と言えます。

もともと、平等院のある場所には左大臣・源融(みなもとのとおる)という人の別荘がありました。

その別荘を父・道長が譲り受けて拡張工事でメチャメチャでっかくして、その道長が亡くなった後、後継者である息子・頼通が、政権とともに別荘も引き継いだのです。

そして、永承七年(1052年)に、建物を本堂とし寺院に造り変え、翌年3月4日阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が完成したのです。

この阿弥陀堂が、鳳凰堂と呼ばれている建物です。

Byoudouin22cc

・・・で、何でこの年に建てたかと言いますと、この年が末法第一年に当たる年だから・・・。

末法第一年ってナンジャラホイ?と思ってしまいますが、とにかく、この時代、浄土教「末法思想」が大ブーム・・・ノストラダムスの比じゃありません。

「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。1052年がその『末法の世』の第一年である。」というのです。

栄華を極めた頼通さんが、「そんなん怖いんか!贅沢な!」って思ってしまいますが、本当に怖がってたみたいですよ。

「平安貴族の生活って、寝殿造りのお屋敷に住んで、贅沢三昧でうらやましい」と思いがちですが、実はそんな華やかな生活の影で、この時代は、徐々に力をつけてくる武士たちの反乱や、天災・疫病という物に、常におびやかされていた時代でもあったのです。

実際に、「末法の世」の前兆のような事件や災害が起こると、「本当に、そんな世が来るんだ・・・」という思いにかられ、お金で解決できなないそれらの物に、底知れぬ恐怖を感じていたんですね。

浄土教の教えによれば「現世で阿弥陀仏の心に念じれば、来世は極楽浄土へ行ける。そうでなければ地獄に堕ちる」のだそうで、頼通さんに限らず貴族たちは、こぞって阿弥陀堂を建て、そこに阿弥陀仏を安置し、念仏を唱えて「とにかく来世の幸福を・・・」と願ったのです。

この「末法思想」のブームの影響で、常に不安にかられた貴族たち・・・何かあると、儀式お祓い

さらに、この先に何かあっても困るので、陰陽道占い・・・といった物にハマリまくりの生活を送るのです。

「やれ、方角が悪い」「やれ、今日は人と会ってはいけない」のと、、占いで一日の生活ペースが乱れること山のごとし。

「今日は運勢が悪いので、仕事休みます~」って、これで叱られる事もなく休めちゃうくらい、宮廷のみ~んなが、占い信じちゃってますから・・・。

・・・、こうなると、やる事やっちゃいけない事があまりにありすぎて、中には忘れてしまう人も登場します。

それで、ある人がお坊さんに頼んで「占いカレンダー」なる物を作ってもらって、毎日その通りに暮らしていたんだそうです。

「ふんふん・・・今日は爪を切ってはいけない日か~」
「ほほ~今日は道を曲がってはいけない日なのね。じゃ、まっすぐまっすぐ行きましょ!」
・・・てな、調子です。

しかし、ある時「えっ?」と思う日が・・・。

「風呂に入ってはいけない日」「絶食の日」「満腹になるまで食べる日」などは、何とかなりますが・・・とうとうやって来ちゃいました「大○も小○もしてはいけない日」

それも、一日ではなく、何日か続いていたんだとか・・・でも、この人は我慢したそうですよ(ホントかなぁ~)

でも、これらの、人間の生理的な自然現象を我慢したりする事は、現在の医学から見ればあまり体に良くない事は明白。

しかも、不安にかられる生活はストレスたまりっぱなし・・・で、結局、都に住む貴族たちは軟弱になっていき、地方に住む武士たちが力をつけていく・・・という構造に拍車をかけたのは確かですね。

「平等院で地上の極楽を表現した」という頼通さん、承法元年(1074年)2月2日にお亡くなりになりましたが、どうでしょうか?

その後、無事、極楽に行かれたんでしょうか?

平等院への行き方はホームページの【宇治歴史散歩】でどうぞ>>
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2007年2月 1日 (木)

京都で日本初の路面電車

 

明治二十八年(1895年)2月1日、京都・七条ステンションから伏見・油掛に至る6.7キロを、日本初の路面電車が走りました。

・・・・・・・・・・・

それは、世界初の電車がベルリン郊外を走ってから、わずか14年後、世界でも5番目という快挙でした。

それにしても、なぜ、日本で最初の電車が京都で走ったのでしょうか?

そもそも、日本で最初の電車は、明治二十三年(1890年)に東京・上野で開催された第3回内国勧業博覧会で、上野公園内に敷かれた60mのレールの上で、アメリカから来た電車を走らせていて、東京の実業家たちも、すでに開業の申請をしていたのです。

しかし、上野公園での運転は、あくまで見世物としての運転・・・実際の営業運転ではありませんでした。

そうこうしているうちに、第4回博覧会の開催をめぐって、大阪と京都が激しい誘致合戦を繰り広げていたところ、博覧会が開催される明治二十八年(1895年)が、桓武天皇平安京に遷都してから(10月22日参照>>)、ちょうど1100年の年に当たる事から、大々的な記念祭を行う計画が持ち上がり、その目玉として、平安神宮の創建とともに、博覧会の開催も京都が勝ち取ったのです。

上野の博覧会で電車を見た京都の実業家・高木大沢は、これを実用化して博覧会の呼び物にしようと考え、鉄道会社を起こし、この年の4月に開催される博覧会に向けて着々と工事を進めたのです。

Dscn3611a800  この日に開通した七条から伏見に加えて、博覧会の4月までに、高瀬川沿いに木屋町二条まで、二条から博覧会々場の岡崎まで完成させています。

なぜ一足早く、七条⇔油掛間をこの日に走らせたのか・・・と言いますと、伏見稲荷の参拝客を当て込んでの事・・・

ちょうど“初午”で、今が一番参拝客の増える頃なんです。

Dscn3610a600_2 思惑は的中!
手持ちの6両の車両をフル回転しても、客がさばききれない程の人気ぶりでした。

しかし、動力は琵琶湖・疎水の水力発電で、水力が落ちると、たちまちスピードも落ちる・・・しかも、単線なので、途中で鉢合わせると、どちらかが引込み線まで戻る・・・というありさまで「歩くよりは早いかな?」程度のスピードだったようです。

「なんや~こんなん歩いたほうが早いがな~」とお客が言うと「早いか、遅いかは電気に聞いてぇな~」と、運転手。
なんとも、のんびりした光景です。

また、この頃は、電車が人通りの多い場所にさしかかると、電車の少し前を旗やちょうちんを持って「電車が来るぞ~」と知らせる“告知人”と呼ばれる少年たちがいて「とにかく、それを見るだけでも・・・」というお客さんが殺到したそうです。

Dscn0202a800 大正時代になって、電車がさほど珍しくなくなってからでも、明治天皇の桃山御陵の築営によって、この油掛一帯は大いに栄えました。

現在、伏見・油掛には「電気鉄道事業発祥の地」の石碑が立ち、博覧会のシンボルだった平安神宮には、「日本最古の電車」が展示されています。

伏見・油掛と平安神宮のくわしい場所は本家HPで写真とともに紹介しています…興味がおありでしたらコチラからどうぞ→
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