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2007年2月13日 (火)

戦国時代の食べ物事情

今日は歴史のウラ話・・・

戦国時代のお食事事情・・・特に合戦に持参した携帯食などをご紹介します。

・‥…━━━☆

「そら~、戦国時代は大変やったんやでぇ。
毎日々々、戦、戦・・・やしなぁ。
 

いつでも、なんぼかの食糧を蓄えとかんと心配やし、食事はいっつも、朝と夕の2回の雑炊だけ・・・今みたいに、昼ご飯は食べへんかったんやで~。 

ただ、兄貴が山へ狩りに出かける日は、兄貴が昼ご飯を持って出かけるさかい、一回余分に…それも、持ち運びできるように、雑炊やなくてご飯を炊くんよ。 

ウチらは、その残りをもらうのが楽しみやったわ~」

・‥…━━━☆

これは、江戸時代になって、戦国の頃の食事を思い出している人のセリフ・・・(私的解釈&推測入ってます)

そう、日本は戦国の頃まで、食事は朝夕2回でした。
それは、武士だって同じ・・・量もさほど多くなく、けっこう質素に暮らしていたんです。

ただ、普段はそうですが、合戦に出る時などは、やはり非常に運動量が多いため、先程のお兄さんのように、朝食と夕食の合間に間食をとったんです。

戦国時代も最初の頃は、合戦の時「食糧は、敵地で略奪する」という事が一般的に行われていましたが・・・いわゆる乱取りというヤツですね。

しかし、合戦をするという事は、勝った場合、その後その地を治める事になるわけですから、ヒドイ事をすれば、それだけ領民たちの反発をかう事にもなるわけで・・・それを考えると、やはり、略奪はよくないという事になり、だんだんと、兵糧を自分で持参して合戦に挑む、という形になっていきました。

Sengokuheisicc 戦国時代の記録によれば、いざ合戦!となれば、だいたい3日分くらいの食事は持参していたようで、布で腰にまいたり、縄で腰にぶら下げたりして出陣したそうです。

その後、いつの頃からか、合戦の時だけでなく、平常時も間食をとるのが普通になって、江戸時代には現在のように一日三食が一般的になったようです。

もう一つ、日本人が一日三食に移行する要因となった物に、禅宗のお坊さんたちが間食として習慣にしていた“点心”という物もあります。

中国から伝わった“点心”は、ご存知のように、おやつというよりは食事に近い物で、この習慣が禅僧から一般に広まったとも言われています。

では、合戦には、どのような食品を持っていったのでしょうか?

まずは、お餅・・・これは、今のお餅とあまり変わりません。携帯に便利な事も納得できますね。

それから、炒米(いりごめ)・・・玄米を鍋で炒って作った物で、袋などに入れて持ち運びそのまま食べました。今のスナック菓子のような感じですが、ちょっと固そうですね。

そして、当時、最もメジャーだったのが干飯(ほしい)・・・これはお米を普通に炊いて、一度水洗いし、バラバラにして乾燥させた物。
やはり袋に入れて持ち運び、そのまま食べる事もできますし、陣笠や兜を鍋の代わりに使ってお湯を沸かし、そこに投入すればインスタントご飯のできあがり、カップめんみたいですね。

また、調味料として重宝されたのがお味噌です。

煮豆をすりつぶして、麹(こうじ)と一緒に袋の中に入れてそのままぶらさげて出発!戦場に着く頃には、ちょうどお味噌になっている・・・これは、陣立味噌と呼ばれました。

あと、里芋の茎をお味噌で煮詰めてから乾燥させ、縄のように編んで腰に巻く・・・これは、いもがら縄と呼ばれ、最もポピュラーな方法です。
やはり、先程の干飯と同様、お湯に溶かせば味噌汁になります。

もちろん、今でも重宝される梅干も貴重な携帯食糧でした。

ところで、合戦の時には、そのような携帯に便利な食事でしたでしょうが、合戦の時以外はどうだったのでしょう?

戦国時代の武将がよく食べた食べ物に、時代劇などでもよくその名前を耳にする湯漬(ゆづけ)という物があります。

これは、先日このブログでも書いた三方ヶ原の合戦(12月22日参照>>)の時の徳川家康『命からがら城に逃げ帰った後、城門を開け放ち、門の周辺を明々とかがり火で照らし、自分は湯漬を食べて「疲れた~」と言って寝てしまった』というくだりで登場しました。

この湯漬は、言わば“お茶漬け”ですが、現在のお茶漬けとは、ちょっと違います。

まず、ご飯をお茶碗に盛る前に、一回お湯で洗います。
その後、お茶碗に盛って、もう一度、白湯をかけます。

そして、ご飯だけを食べ、お湯は吸ってはいけない・・・というルールでした。
室町時代頃から、宴会の席で、この湯漬が出るようになったそうです。

やがて、戦国時代も半ばになると、白湯の湯漬だけではなく、味噌汁をかける湯漬も登場します。

こちらの場合は、ルールはなく、汁も飲んで良い事になっていましたが、逆に食べる人の器量を計るアイテムと化します。

それは、茶碗に盛ったご飯の量に対する、かける汁の量・・・。

関東に勢力を誇った北条氏康が息子・氏政と食事をとった時のエピソードに、こんな話があります。

氏政が自分の茶碗に2度味噌汁をかけたのを見た氏康は、「人は何度も食事をするうち、自然とご飯にかける汁の量を、感覚で覚えていくものなのに、その不器用さでは情けない・・・北条家の先が思いやられる」と嘆いたというのです。

果たして、氏政さんは、お父さんが心配したほどではなく、どちらかと言えば名将と呼ばれる武将に成長しましたが、結局、最後には、天下目前の豊臣秀吉に倒され、北条家は滅亡(7月5日参照>>)してしまうわけで、不安が当たったと言えば、当たった事になりますね。

★合戦時の出陣の儀式で食べる物については【軍師のお仕事・出陣の儀式】をどうぞ>>
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コメント

普通に毎日2食のさときちです(笑)
その時代の食べ物がわかると、暮らしぶりが想像できておもしろいですね。
さときちは歴史の授業する際、資料集で「食べ物」を紹介しているページがあると、必ず時間をとって説明してます。テストには出ないかもしれませんが、生徒には時代の暮らしを理解してもらうことで、何故、こういう事件、戦争がおきたのか、を想像して欲しいのです。農民の食べ物はコレ、貴族の食べ物はコレ、君が農民だったらどう思う?といった風に。
しかし、紹介されていた食べ物、日本人の知恵と工夫を感じますね。あ、北条氏のエピソード、聞いたことがあります。厳しい親父だなぁ(笑)

投稿: さときち | 2007年2月13日 (火) 11時05分

さときちさん、こんにちは~。

必要は発明の母と言いますが、ホントうまく考えますよね~。
私の勝手な想像ですが、この湯漬という物も、電子ジャーがない時代の、「冷やご飯あたため作戦」ではなかったかと思います。

それにしても北条氏のお話・・・。
私は、お茶漬けを食べている間に、何となく水分が吸収されていって、残りが半分くらいになった時、もう一度お茶を足すのですが・・・どうやら、それは天下を取れる器じゃないって事のようです。

投稿: 茶々 | 2007年2月13日 (火) 11時51分

こんにちは、クロトと言います。
戦国時代の食事の記事を読ませていただきました。今回コメントを書いたのは、無断でレポートに盗用しないために許可をもらいたく、コメントをさせてもらっています。
自分勝手かもしれませんが、よろしくお願いします。

投稿: | 2012年8月 6日 (月) 15時28分

クロトさん、こんにちは~

引用して私的解釈を付け加えるなら、よろしいのではないか?と思います。

ネット上なら、リンクを貼ってくださればウレシイです。

投稿: 茶々 | 2012年8月 6日 (月) 16時07分

茶々さん
こんばんは〜
戦国時代は1日2食だったんですね。兄貴が狩りに持っていく、ご飯の残りを楽しみにってかわいいですね。何となく気持ちがわかります。

投稿: ひろ | 2012年11月 4日 (日) 00時14分

ひろさん、こんばんは~

私も…
子供の頃、兄弟の誰かが遠足だったりすると、その残りが楽しみだったりしてました。

投稿: 茶々 | 2012年11月 4日 (日) 01時12分

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